パンはパンでも
たべられないパン
なーんだ

 “個性”という言葉の定義が拡大してから百年あまり、その曖昧模糊な呼称にも当時の混乱が窺えるというものだ。尤も百年前のことを呑気に追懐するほど、むぎは歴史に興味を持っていないし、暇なわけでもない。

 2030年までに“技術的特異点”が発生する。
 かつてヴァーナー・ヴィンジが予見した“シンギュラリティ”は歴史の先に生ずる現象としてではなく、ある日突然、人間の本質を歪める形で成就した。以来、人類は技術の力ではなく、原因不明の“遺伝子異常”に拠って進歩していくことになる。……というのは、まあむぎには些末なことだ。
 バーナー・ビンジ?が男なのか女なのかさえ覚えていない。本当は違う名前だったかも。シンギュラリティ云々は、生徒を置き去りに一人熱心な社会科教諭の戯言に過ぎない。記憶力が良いから覚えているだけで、 当時は内職にかかりっきりで聞き流していた。「何かの役に立つかもしれない」と僅かに思ったには思ったのだろう。でも、すぐに頭から消し去った。結局のところこの国は百年以上前から混乱状態にあって、年を重ねる毎に深まる“遺伝子異常”の前に国家の統治機構は無力で、最早内政を建て直そうという気概のある大人は殆どいない。
 “わるいことをしよう”と思えばいつでも出来るこの国で、むぎの叔父は正しいことをしようとする。それは要するに茨の道で、決して報われることのない虚しい仕事だ。
 その、世界で一番虚しい仕事に就くひとを“ヒーロー”と呼ぶ。


 人々は棺桶のなかに花を詰めるように、その勇敢さを褒めそやす。
 流石ヒーローだね。やっぱりヒーローは強いや。また、すぐに助けに来てね。どうして助けてくれなかったの。あなたが百人助けるために、私の息子が死んだ。人殺し。もっと早く助けてくれたら、こんなことにはならなかったのに。様々な想いの詰まった花をひとつひとつ、あなたは正しいことをしたのにね。

 事務所の入口で叔父に掴みかかる女性。頭を下げる叔父。なんで炎司さんがあやまるの。別に、よくあることだ。部屋の外では、まだ金切り声が聞こえる。警備のおじさんの弱りきった声も。人殺し! 冷血漢! あなただって、子どもがいるくせに……! 腸を絞り出すようにして呪言を漏らし、遠ざかっていく。叔父は何でもない顔をしている。何でもない顔をして「もう幾人かサイドキックがいるな」と呟く。深いため息、傷だらけの手で目元を覆う。
 誰にも全てのひとを救うことは出来ないのに、ヒーローにはそれが出来ると信じている。ヒーローの怠慢のせいで救われなかったのだと信じたがる。そういう人がいる。むぎは彼、彼女たちを“おろかなひと”だと思う。
 八歳のむぎに分かることが、この世界のたくさんの人には分からない。もしくは、分からないままでいたほうが良いのだと割り切っている。多分きっと、むぎは頭が悪いから、本当は割り切るのが一番賢いのだろう。でも、頭が悪いのは叔父も同じ。もし頭が良ければ、こんなに鈍感ではいられない。

『あの子、独りになるわ。自分が変わることを諦めて、焦凍くんに全部託してるんだもの』
 我が子さえ、と。むぎは先ほどの盲信を思い返して、扉へ視線をやった。我が子さえ無事なら、例え百人死んでも構わないと口にする女性。……我が子さえ、我が子に自らの“個性”で蝕まれる恐怖を知らせたくない。
 むぎは喉元を押さえた。ひと月前に灼けた喉は“個性”柄すっかり治っていたけれど、未だに火照りを感じることがある。姪の挙動に気づいた炎司は、デスクの横に吊るしたビニル袋からゼリー飲料を取り出した。それを姪の膝にポンと投げ出す。さっさと吸え、お前は燃費が悪すぎる。さっき理不尽に詰られた時よりずっと不快そうに、忌々しげに、深く眉根を寄せた。あのクソババア、自分の“個性”と八百万の個性を組み合わせればどうなるか想像もつかなかったと見える。むぎはちゅうちゅうゼリーを吸いながら、相槌は打たなかった。嘘を吐くのが下手な叔父に、わざわざその事実を伝える必要はない。むぎには分かっていた。

『炎司は世界で一番立派なヒーローだから、あなたが死にかけていれば必ず助けにくる』
 喉がじくじくと熱に蝕まれている。

 母方の祖父は最期、自らの炎に焼かれて死んだ。
 清々したわと微笑うのは、美しい母親。炎の行方をよく知る彼女は、“個性”の使用が体に負荷を掛ける創造個性の持ち主との間に娘を設けた。娘──むぎは、“個性”を使えば衰弱するが、常に“個性”の使用を強いられる身体を持って産まれた。彼女が望んだとおり、叔父が忌んだとおりに。
 義叔母の“個性”を受け継いだ従兄弟たちは恐らく、どれだけ衰弱し、“個性”を制御出来なくなっても、自らの“個性”で内臓を焼かれることはないだろう。叔父がそれを望んだからだ。それは要するに、つまり……与えられたゼリー飲料を吸いつつ、むぎは一生懸命考えた。かがくちょうみりょうのあじがするのねえ。思ったことが口から漏れた瞬間、パコンと頭に何かぶつかった。叔父の絶妙なピッチングセンスによりカロリーバーが当たったのである。文句を言わずにさっさと食え! 肥えろ!! 生クリームを吸え! ワナワナする叔父に、むぎは頭を振った。ぎょうむようスーパーのはちょっと……! 叔父の顎髭の火力が増す。これ以上怒らせると広範囲に被害が及ぶので、むぎは来客用冷蔵庫のなかから一リットルサイズのホイップクリームを取り出した。チューブを咥えて吸う。むぎが生クリームをンクンク吸っているとやがて叔父も大人しくなったが、業務報告のために入室するサイドキックや事務員が「かわいい」「赤ちゃんみたい」とチヤホヤするのでワナワナなのだった……w
 むぎとしては物を食うだけでチヤホヤされるのは吝かではないのだが、身を張って人助けをしているにも拘わらず詰られるおっさんの前でチヤホヤされるのは確かにマナー違反の趣がある。やれやれ。

 GODIVAのチョコやデメルのザッハトルテをくれるおねいさんたちに「むぎがかわいすぎると、しょちょうがしっとしてしまうので……!」とアドバイスすると、叔父の万年筆が砕けた。今日で五本目である。もっと頑丈な万年筆を使えば良いのにと思ったが、言うとエラいめに合わされるので黙っていた。なんて賢いむぎちゃん。

 叔父は「社会人としてお前をここに連れてくるか、山に埋めるか随分迷った……」と言うけれど、サイドキックのお兄さんやおじさんたちは優しいし、事務のお姉さんたちも優しいし、時々弩級のクレーマーが着て包丁振り回したりもするけど、むぎはここが好きだ。はやく大きくなって、毎日ここに来たい。

 ひと月前、むぎは台所のダストボックスに落ちて、びっくりして、“個性”の使いすぎでちょっと蒸し焼きになった。ゴミ箱に落ちる前も、おなかが空いて、冷蔵庫空っぽだったので、ママもパパもいないし、何もなくて、あんまり動けなくなって、学校サボってしまった。おうち帰るのいやだけど、今は帰らなくていい。今おうちに帰ると死んじゃうかもしれないから、平気になるまでここでご飯食べてる。炎司さんは困ったとき頼れるひとがいないから、全部自分でなんとかしなきゃいけない。ぜんぶ。

『はやくおっきくなって、むぎ、ここではたらいて、おんがえしするねえ』
『お前が本当に俺のためを思うなら高卒でまともな男と結構してマトモな家庭を築いて二度と俺に迷惑をかけるな』
『はたらくもん♪』

 叔父の手のなかで六本目の万年筆が砕けた。


『あの子、独りになるわ』
 あなたが独りになるのを、心のどこかで待っている。


「雄英に受かったところで、身体はひとつだよ」
 人柄からか、もしくはそれも“個性”の影響なのか、郷愁を誘う酷く優しい声音だった。祖父母を知らないむぎには馴染みのないものだったけれど。
 むぎはリカバリーガールに微笑みかけた。
「個性柄、熱傷は治りがいいんです」
 リカバリーガールの手に包まれているむぎの手は表皮が溶け、血みどろになっていた。
「入試は採点する人数が多い分、評価基準が明確に定められてますから……少しは頑張らないと。先生のおかげで一週間ぐらいで治りそうです」
「そんかわりすっごい痛痒いだろうに」
「慣れてます」
「……ま、そーゆう面もあるけどね」
 リカバリーガールは笑みを崩さないむぎに口を尖らせてから、また別の怪我人を治すため去っていった。むぎは両手の血をズボンで拭ってから、まじまじと傷跡を確かめた。炭化しかけていた先端部に血が通い、傷口からは真新しい肉芽が覗いている。流石雄英の屋台骨。

 リカバリーガールの存在を事前に知っていなければ、ここまで無理をすることはなかっただろう。
 リカバリーガールの“個性”で治りきらなかった分は試験場内の救護テントで手当を受けるよう指示されていたが、正直疲れた。人混みを抜けてまで行くのも面倒くさかったので、持参した応急キットで対応する。

 両手の傷が見えなくなると、なんとはなしに周囲の受験生たちに話しかけられる。
 さっきの凄かったね。やっぱ雄英、レベル高いな〜! 名前なに? 轟さん、絶対合格だよ! 俺も結構自信あったんだけどな……。雄英がゴールだと思ってる子たちは、結果の如何は問わずみんなキラキラした顔をしている。
 どうしてもヒーローになりたい子たちに囲まれて、でもむぎは別にヒーローになりたいわけじゃない。年々減少する人口、やがて滅ぶ国の秩序を守ることになんの意味があるのかと思う。人身御供を欲する“平和”を尊いと思ったことは一度もない。
 むぎは痛々しい火傷の目立つ指で白い喉に触れながら、ありがとうと微笑んだ。みんな受かってると良いねと嘯く。屈託もなく“ヒーロー”を夢見る子らは誰もむぎの心中に気付くことはない。むぎ自身、本心を打ち消すために大いにおどけてみせた。あの日「受かっていても落ちていても仲良くしようね」と交換した連絡先は埃を被ったまま、一度も触れていない。入学初日に配られた名簿を見て、ホッとしたのが何故かさえもう覚えていない。本当のことは、みんな忘れてしまった。誰もむぎの本心なぞ興味がないから。本心を明かしたところで、結局誰も救われないから。



 様々な想いの詰まった花をひとつひとつ、あなたは正しいことをしたのにね。……あなたは正しいことをしたのだと、胸奥に熱がこもる。
 その熱の名前も知らないまま、春が来る。

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