パンはパンでも
たべられないパン
なーんだ

 タミルバワンは轟家からほど近い閑静な住宅街の一角に軒を連ねる南インド料理店だ。
 何を考えてかカラオケボックスの居抜きで入った店なので個室が多く、防音設備がしっかりしている。どう考えてもレストラン向けの物件ではないのだが、現実問題そこで開業しているのだからホークスが頭を悩ませる義理はない。大事なのは何も考えていないオーナーが何も考えていない料理人を抱え込み、渡日したばかりの何も知らない若者たちをバイトとして雇っていることだ。
 このような奇妙な店を発掘したのは、何も「エンデヴァーさんちに近い店を総ナメしたろ!」という狂気の証左ではない。この店が轟家からほど近いというのはむぎがもたらした情報であるが、まあこのへんデカい家多いしな……と妙に納得した。高級住宅街にカラオケボックスやインド料理店を出す人間は何を考えて生きてきたんだろうな……とも思わなくもないが、むぎの口から「むぎねえ、昔ここ来たことあるう。ママの友だちのお店だったのよ。カラオケ好きだったんだけど、むぎが中学あがる頃にビッグになるって行って東南アジアへ旅立ったのねえ」と聞いて更に納得した。むぎちゃんは静岡一帯の奇人変人と繋がりを持ってて偉いねえ。いや、全然偉くはないが。

 ホークスがこの店へ通うようになったのは、ここ一年のことだ。
 静岡上空を飛んでいる際に「丁度休めそうな屋上がある」と思って着陸したのが入店の切っ掛けである。柵に寄りかかってボーッとしてたら洗濯ものを干しに来たバイトくんが顔色一つ変えずに「ラッシャーセ!」と、あんまりにカジュアルな接客をするので流されるまま入店してしまった。立地も立地だし全然期待していなかったのだが、届いたチキンカレーを食べたら思った以上に美味しかったので「全然客いない割りに良いじゃん」となったのである。全然客いない割りに潰れる気配がない理由は不明だが、オーナーの道楽か何かでやってる店なのだろう。ひとりで入るにも、他人をつれてくるにも都合良く美味しい店なので、あまり客が増えない程度に頑張って欲しい。

 そんなわけで、今日も万物に関心のないバイトくんが個室に案内してくれた。
 案内されたのはカラオケボックスの個室からテレビやソファを取っ払っただけ、という雰囲気の部屋だ。4畳半程度の部屋の真ん中に木製テーブルが位置し、それを差し挟むように椅子が二脚用意されている。壁と同化したスピーカーからは謎のインド歌謡曲が流れ、白壁の安っぽさをアジアンテイストの布や飾りを吊すことで誤魔化していた。もっと雰囲気の良い洋風レストランとかのほうが良かったかなあと思わなくもないが、却ってこのぐらい雑な店のほうが下心を見抜かれづらいだろう。割りと甘い物も充実してるし、むぎちゃんパクチーも結構イケる口だし、カレーも好きだし──むぎの反応を予想しながら待つこと十分、待ち合わせ時間ぴったりにむぎは来た。

 一週間ぶりに会うむぎは口から魂を垂れ流していた。思わず写メ撮っちゃったよね。
 バイトくんがお冷やと一緒にAED持ってくるレベルに顔が死んでいたため、ホークスは「死んでる〜?!」「こんな露骨なローテンションむぎちゃんはじめて……レアじゃん……!」「取り繕おうともしない……!」と、様々な感情で心が千々に乱れてしまったのだが、本当に面白いのはそこからだった。バイトから話を聞いたらしいオーナーが「ドスル? 救急車呼ブ……!?」と乱入してきたのに発奮したむぎちゃんが「ええっホークスさんが心停止!?」とか訳の分からないこと言いだすし、この店も……むぎちゃんも……本当に面白いな……? になっちゃったよね。

 適当に挨拶し、適当な注文を終えたあともむぎはボンヤリしていた。
 ホークスは「全然動かないな〜何があったのかな〜しょうちゃんとバチクソに揉めてないかなあ〜」と思いつつ観察を続けていたのだが、注文した料理と注文してない料理とがテーブルを埋め尽くしたあたりでむぎが「いただきましゅ……」と手を合わせてチーズナンを食べ始めた。
 テーブルに肘をついたホークスは、むぎの挙動をじっと見守った。モッチモッチ音を出しながら無心にチーズナンを食べるむぎちゃんは可愛い。が、遙々会いに来たのはむぎちゃんの奇行を観察するためではない。ホークスが一向に食べ始めようとしないのに気づいたむぎが顔を上げる。
「カボチャのポリヤル美味しいよう?」
 慌てて笑みを取り繕ったむぎは、よいしょ!と言いながらホークスの皿にポリヤルの山を作る。
 むぎと違ってホークスはそう大食いではない。そんなに盛られるとそれだけでお腹いっぱいになっちゃうんだけどな。ホークスは緩みかけた口元を手で隠し、感情を殺した目をむぎにくれた。
「さっきからむぎちゃん、心ここにあらずって顔をしてるから気になっちゃって」
「それは、このチキンティッカが美味しすぎて」
 さっきからポリヤルもチキンティッカも食べてないくせに──と思いながらニコニコする。
「隠す気ないならさあ、さっさとゲロっとこ〜?」
 むぎちゃんの気を引けたのは良いけど、あんまり圧をかけるとそれはそれで気を遣わせちゃうしな。適度に厳しく、適度に優しく……加減しながら言葉を選ぶ感覚も楽しく、笑みが溢れる。
「折角一週間ぶりに会えたんだから、美味しくご飯食べたいしね」
「ほ、」

「タカシ〜〜〜〜!!! サビスでチーズナンもてきたよ〜〜〜〜!!!」
 あっ今それ、そういう愉快さは要らなかった……!

 ホークスは引きつった笑みで皿を受け取ると、殆ど追い出す形で扉を閉めた。
 あーもうこれ絶対むぎちゃん厨房で“チーズナン”ってあだ名ついてるよ……と思いながら、ほかほかのチーズナンが乗った皿をむぎに手渡す。既に五枚のチーズナンを食べてるむぎは嬉しそうに六枚目のチーズナンを千切って食べ始めた。ナンだけに何の躊躇もなく。いや全然面白くない。

「タカシ?」
 チーズナンを一生懸命食べるむぎ相手に画策するのも馬鹿馬鹿しく、スプーンを手に取った。
「違う。ヴィヴァン……ここの店主にとっては日本人は全員タカシなんだよ。そういう杜撰さが好きで、静岡来た時はよく入る。手軽に一人になれるし、何よりチキンカレーが絶品だしね」
 むぎが大量によそってくれたポリヤルの山を削りながら、如何でも良い雑談に耽る。
 インド料理における南北の違いとか、モリンガはサヤは食べなくて良いんだとか、この店は幾つかのスパイスは自家栽培してて美味しい、一人で食べる時も出来れば美味しく食べたいよね──みたいなことを訥々と話していると、おしぼりで手を拭っていたむぎが小首を傾げた。
「……ホークスさんは下では誰かと一緒にいるのが好きだと思ってた」
「寂しいなあ、そんなに俺のことを分かってないとはね」
 軽くからかってみても、反応は鈍い。むぎは何事か思案している様子で目を伏せた。
「インド料理苦手だっけ?」
「ううん、そういうのではないの」
 前にパクチーバーガーをモリモリ食べながら「むぎはエスニックとかスパイスとかも好き!」と喧伝していたので、インド料理が嫌いでないことぐらい分かっている。モリンガのサヤを咥えたむぎは「これ、食べたことない感じがするう」と食への執着を垣間見せつつ、思い悩んでいた。
 ウンウン考えながらポリヤル食べたり、サンバール啜ってるの愛しすぎる。お腹ペコペコかよ。
 ホークスへ伝える思い切りがついたのか、もしくはお腹がくちくなってきたからか、何となく後者のような気もするけれど、兎に角テーブル上に並んだ皿の殆どを空にしたむぎは口を開いた。

「なんかね、ヒーロー科クビになったのむぎだけだったみたい」
「はあ?」

 事の発端は日曜夜、むぎちゃんは元クラスメイトからのメールを受け取った。
 そのメールには相澤教諭が生徒を除籍するだけでなく復籍する権限をも有していることが仄めかされていた。これまで除籍されたクラスメイトたちには皆何らかの課題が提示され、それを達成した際には復籍出来ると約束されていたらしい。そういうわけで除籍されたクラスメイトたちは独学で自らの弱点と向き合い、やがて除籍された者同士で集まって切磋琢磨するようになったのだが、勿論むぎちゃんにとっては何もかもが初耳である。しかし、メールを送ってきた元クラスメイトはむぎちゃんが一から十まで全部承知していると思い込んでいて、むぎちゃんも同じ除籍仲間になったのだからよりを戻そう!とメールしてきたのだった。こんな手の込んだイジメある……?
 事の子細を話しつつ、改めて己の惨めさを痛感したのだろう。むぎちゃんはしょぼくれた顔をしている。そりゃしょぼくれるよな、クラス一の優等生と思いきや最後の最後で「う〜んwコイツは復籍の余地なし……w!」と判断されたとか、どんな顔で伝えて良いのか分からないでしょ。
 ホークスは思わず吹き出しそうになったのを、腹筋に力を入れて踏み留まった。唇も噛んだ。
「むぎ……返信、まだ出来なくて……でも、ふわちゃんに嫌われたくはないのね……?」
 この期に及んで未だ自分が相手に嫌われる心配をしているとは恐れ入る。
 半泣きで碌でもないことを言うむぎが面白すぎたため、ホークスは咳き込むマネで誤魔化すことにした。咄嗟にホークスの身を案じるむぎを片手で制止して、ぬるくなったお冷やを口にする。
「……ヒーローになりたかった? それとも、根っから勝ち組のむぎちゃんは、自分だけ除籍されたのが納得いかない? 運動会観てたけど、雑魚個性のむぎちゃんが一番判断力あったもんね」
「みんな、何故そんなにバラバラなのって、そう思うことは何度か」
 まあ、そうだな。ホークスも心中むぎに同意した。
 むぎが属していた1-Aというクラスは良個性が揃ってる分、自らの“個性”に依存して基礎が疎かになっている生徒が多かった。基礎が疎かになっているから、動線が読みやすい。突発的に自分の動きを変えることが出来ない。他人と協力しようという姿勢が見えない。結果、自滅する。
 チーム戦において彼らの弱みは明らかで、クラス対抗リレーでは普通科に敗北を喫し、騎馬戦でも開始早々他チームの標的になり、退場していった。むぎが騎手を務めたチームも結局終盤で空中分解した。画面端に映ったむぎが必死に騎馬を先導していたのを、ホークスは覚えていた。
 むぎの高校生活はずっと、そういうことの繰り返しだったのだろう。

 自分さえ上手くやれば、なんとかなる。その繰り返し。

「むぎ、メール読んだとき……何故だか安心してしまったの」
 抑揚のない響きで“本当のこと”を吐露し始めた。
「頑張ったけど、やっぱりむぎにはヒーローの才能がないんだって、叔父さんの言うとおりダメだったんだって、むぎはもう“頑張らなくても良いんだ”って……そう思ったら、なんだか」
「真剣にヒーローを目指してる友だちに合わす顔がない?」
「……自分のことが分からなくなってしまった」
 むぎが俯く。この子は本当に、途方もなく冥いことを淡々と口にする。他人事のように。
「ほんの少し前は、自分がこんなに空っぽな人間だとは思っていなかったの。
 元々しょうちゃんには嫌われていたし、叔父さんだって、ただの叔父さんに過ぎないのは分かっていて、それで平気だったの。頑張ろう!って思ったら体の奥からぐあーって」真面目に話すのが少し気まずくなったのか、むぎが拳を天に突き上げる仕草を交えた。「……力が湧いてきて、自分は自分に出来る最善を尽くそう、最善を尽くしたらきっと誰のことも傷つけないし、みんな、」
 平坦な声が僅かに揺らぎ、青い瞳がテーブルクロスの布目を探る。

「みんな、むぎと一緒にいてくれる」
 誰もが皆んな君と一緒にいたがるのに、君だけがそれを分かっていない。

 分かろうとしないのは、母親の言葉が正しいと信じているからなのだろう。
 完璧にやり遂げなければ誰も一緒にいてくれない。どれだけ頑張っても結局ダメになる。一人で何とか出来る。一人で大丈夫。ある種の“狂気”のただなかで、この子は正しくあろうとする。
「……俺が一緒にいるよ」
「うん」恩着せがましい慰めを素直に受け取って、何度も頷く。「分かっているの、わか──」

 暗転。

 ものの数秒で電気は復旧したが、突然の停電は窓がない分いやに長く感じた。
「たかすぃ!! シャチョがドライヤー使いながらパエリア炊いてピザレンチンしたね!!!」
「えっあ、そう、ありがとう!」部屋が明るくなると同時に飛び込んできたヴィヴァンから詫びチーズナンを受け取り、母国語混じりに愚痴る彼に笑いかける。「まあ、冷蔵庫とか確認したら?」
 それもそうだと思ったのかドスドス踵を返す赤の他人を見送りながら、ホークスは考えた。もうこの店をむぎちゃんとのデートに使うの止めよう。何も考えてないのは良いけど、マジでここまで何も考えずに生きてる奴らに囲まれてるとおちおちむぎちゃんを口説くことも出来ない。まあ、何か考えてる奴らに囲まれてるとそれはそれで未成年淫行罪に問われてしまうのだが……などと千々に思い悩みながら戸を閉めると、むぎの体が殆ど動いていないことに気づく。
 ホークスはチーズナンをテーブルに下ろしてから、身を屈めてむぎの顔を覗き込んだ。
「……むぎちゃん?」
 むぎの顔は蒼白で、ぎゅっと噛んだ唇から僅かに血が滲んでいた。ホークスの声に気づくとハッと顔を上げたものの、それでも未だ動揺が収まらないらしく手が震えだした。何度か否定するように頭を振るだけで、一言も喋らない。ただの停電でここまで追い詰められる人間は早々いない。
 ホークスは自分の椅子をむぎの隣に持ってきた。そこに座り込んで、手慰みに彼女の長い髪を弄る──次から次へと醜態を見せてくれるなあと、己の運の良さに感じ入りながら。

 五分も経たないうちに、むぎの耳が赤くなってきた。
「しゅ、醜態をおみせしゅまし」
「暗いとこ嫌い?」
 むぎは一瞬(彼女らしくもなく)露骨に嫌そうな顔を見せたが、醜態を見せたからには説明義務が生ずると思ったらしかった。「暗いのだけは平気。狭くて、真っ暗なのがちょっぴり苦手」立て板に水の勢いで口にすると、人心地ついたのかホークスが編んだ三つ編みを指に絡ませた。
「んふふ……こんなんでヒーロー目指してたなんて笑っちゃう」
「誰にでも得手不得手はあるでしょ。チーズナンでも食べて元気出しなよ」
 むぎがため息と共にチーズナンに手を伸ばす。自分で言っておいてなんだけど、すごいね……?
「醜態見せっぱなしだけど、むぎはホークスさんに迷惑かけないと思ったから仲良くしてて、」
 ポツポツ語りつつ、チーズナンの端っこを千切って口に運ぶ。もちもち、ごくん。
「ヴィランに襲われてる知らない人を助けるより、不安定な知人を慰めるほうがずっと大変だって分かっているの……分かっているのに、ホークスさんに沢山甘えて、そんな自分も嫌なの」
 二チッ。もちもち、ごくん。二チッ。もちもちもち、ごくん。二チッ。
「こんな弱い人間だなんて思わなかった」
 もちもち、ごくん。この子、シリアスな顔してめちゃくちゃチーズナン食べる。
「……凹んでる時にチーズナン七枚食べる人間は言うほど弱くないよ」
「えっチーズナンは飲み物ゆえに」
「食べれるだけなんでも頼みな、ヴィヴァンが喜ぶ」
 ハハ……と乾いた笑みを浮かべると、むぎは大喜びで分厚いメニューを捲り始める。何しろ彼女はホークスの口から出る善意の全てが本心であると信じて疑わないのだ。たまには疑って欲しい。

 そもそも、こんな奇妙奇天烈な店に呼び出したのが悪いのである。
 来る度来る度訳の分からんサービスを供される店×会う度会う度訳の分からん騒動を持ち込むむぎちゃんのコラボが上手くいくはずはなかったのに、悲しい男の性で一番プライバシーが保てる店を選んでしまった。ここなら合法的にむぎちゃんと手を繋いだり、ハグをしたり、更には壁ドンの可能性もあるという思いがホークスの判断力を鈍らせた。大体ホークス一人で来た時には注文した料理を食べた後つい舟を漕いでしまい、うたた寝すること三時間……皿さえ回収しに来なかった日もあったし、席に案内したっきり二時間放置された日もあった。それなのに今日に限ってやたら凸ってくるのはやはりむぎちゃんのような可愛い女の子が自分の作った料理をいっぱい食べてくれるのが嬉しいのだろう。詫びチーズナンとか言ってたけど、タイミング的に停電しようとしなかろうとチーズナンは持ってくるつもりだったに違いない。やはりあと二年、大人しく待つ他ないのか。
 兎に角むぎちゃんがチャイムを押す前に椅子を元に戻さないと、流石に万物が如何でも良いヴィヴァンたちもホークスの下心を察するであろう。今日は私服だから未成年淫行には見えなかろうが、何かの切っ掛けでホークスの職が知れたときに「そういえば……」などと話されても困る。
 仕事のついでとはいえ福岡から静岡まで何度も会いに来て、熱心に相談に乗り、何時間でも電話に付き合い、二人きりでの食事にも誘う。誰にでもホークスの下心は分かるだろうに、当の本人だけが“善意”と信じて疑わない。ホークスはヒーローだから目の前の子どもに適切な優しさを振りまかずにはいられないのだ──とでも思っているのだろう。まあ、それならそれで構わない。
 むぎはありとあらゆる奇行で男を幻滅させるのが上手いし、喩え言い寄る男がいようと“頼りになるお兄さん”の立場から虫除けを施すのは簡単である。それに、今はホークスをうんと年上のように感じているから意識していないだけで、ホークスからアプローチをかければすぐ靡くだろう。
 遅かれ早かれ、むぎはホークスのことを好きになる。もうこれは決まったことなのだ。

 不安要素は何一つないのに、何故ホークスは焦れているのだろう? 

「大体、ヒーローってそんな大層なもんかな?」
 ホークスは深々としたため息をつくと、背もたれに思い切り寄りかかった。
「大した気持ちで目指してヒーローになる人間もいれば、何となくでヒーローになるやつもいるし、でもヒーローに大事なのは結果でしょ。過程や思いの強さじゃない」
 自分でも何故先ほどの話を蒸し返したのか分からなかった。
 むぎの大きな青い瞳が自分へ向けられたのに気づくと、ホークスは僅かに居たたまれない気持ちになった。自分の気持ちを制御出来ていないことを悟られてはならないと気色ばむ。
「……除籍されたのと、むぎちゃんが自分の意思でヒーロー目指してたわけじゃないのは別の話。むぎちゃんは寝る間も惜しんで勉強したり訓練してたんだからさ、その努力を買ってくれた人に負い目を感じる必要なんかないよ」慰め、そうか改めて慰めてポイントを稼ぎたかったのか。いや──慰めるだけならこの一週間で何度も慰めたのだから、今更蒸し返すほどのことではない。思案しいしい言葉を探る。「実際むぎちゃんの学年小粒揃いだし、そんななかでわざわざむぎちゃんだけ復籍の余地を与えなかったのはアイザワせんせの私情な気もするけどね」
 アイザワ先生への嫉妬かとも思ったが、それも違う気がする。
「……相澤先生は、きっと、むぎが空っぽだって分かっていたの」
 むぎはメニューを閉じて、揃えた膝をホークスへと向けた。こうなってくると、適当な冗談で流すのは難しい。さあ、何が理由で蒸し返したか分からない会話をどう着地させようかな。
 人知れず困惑するホークスを置き去りに、むぎが遠い目をした。
「空っぽなままヒーローになったら、いつか色んなひとを苦しめるって、だから──そうなる前に除籍になって良かった」正論を絞り出す様を眺めて、お前はこれが見たかったのかと問いかける。「だって、ヒーローは危ないところへ行くでしょう。他人の生死に関わるもの。一つとして同じものがない特異な力を使って、他人の運命に介入する仕事なのに、それをむぎみたいな人間が」
 むぎの唇が苦しげに喘いだ。白い指が喉元を掻いて、そこに詰まった呪いを引きずり出す。
「わたしにヒーローは無理だったのだから、他人に迷惑をかける前に……早めに分かって、」
 下を向いたままの瞳が潤み、その口元が無力感に戦慄いた。
 彼女の全身が“仕方ない”と口にすることを拒み、悔しいと言いたげにキツく唇を噛む。

「……良かっだけろっ」
 ああ、そうかと納得する。

 胸元でぎゅっと両手を握ったむぎの頬を、後から後から涙が伝った。
「ほん、ほんとは、ヒーローになりたかったのかもっ、え、ちあうんだけろっ!」
 グスっと鼻を鳴らしながら、みっともなく泣きながら、むぎは一言一言噛みしめるように語る。
「ヒーローてゆうか、むぎぁ、エンデヴァーやホークスみたいに、強いひとになりたかったのねえ? 強いひろがずっと強いままでいられるようっに、しゅごく強いひろになりらかった」
 先生も叔父さんも正しいんだけど、正しいんだけどと繰り返してから、ナプキンで思いっきり鼻をかむ。乱暴に目元を擦ったむぎは険しい顔で膝を見下ろした。ぎゅーっと眉間にしわを寄せる。
「……子どもみたいに泣いて、バカみたいだわ。恥ずかしいわ。烏滸がましいわ」
 体を縮めたむぎが、恨みがましげな声を出す。
「高校生にもなってこんな醜態を晒して、強くなりたいだなんて笑ってしまうでしょう」
「君は強いよ」
 ホークスは苦笑と共に、むぎの手を取った。

『ホークスさんが見てるものを、むぎ自身の力で見てみたいなって、思う』
『正しい行いをする者は報われなければならないでしょう?』
『プロヒーローだから人間らしい葛藤や苦しみはないんだとは思いたくない』
『……寂しくてもいいから、むぎは自分の我が儘で正しいひとを傷つけたくなかったの』

『強いひろがずっと強いままでいられるようっに、しゅごく強いひろになりらかった』
 この子の口から出る言葉は全んぶ純粋な善意に満ちている。
 むぎちゃんはいつも、むぎちゃんの考えるなかで一番正しいことを伝えようとする。望むものの全てが与えられないなか、ある種の狂気に触れてさえ、むぎちゃんは正しくあろうとする。
 他人に愛されるために、他人に必要とされるために、他人を喜ばせるために自分を殺すことが出来ても、自分の信じる正義を曲げることは出来ない。その激情が彼女の魂の高潔さを示していた。
 くるくると変わる表情のなかで、正義を語る彼女は一際強い輝きを放つ。ホークスはただその一時だけ、手の中の玉を日に透かして覗く子どものように純な気持ちになることが出来た。
 この子の前でだけ、ホークスは“ホークス”でも、鷹見啓悟でもない一人の人間になれる。

「むぎちゃんはさ、いつも俺をヒーローだって信じてくれる」
 きょとんとホークスを見返したむぎが、小さく吹き出した。
「おかしなホークスさん。この国の誇るNo.3をヒーローとして認めない人なんかいないでしょう」
 ついさっき大泣きしていたのがウソのようにはにかんで、無邪気に笑う。
「そりゃ、俺はヒーロー以外になれない人間だからね」
 戯けた響きで肩を竦めたのは、これ以上むぎに深入りするのが怖かったからだ。
 さっさと元の場所に椅子を戻してチャイムを鳴らし、大量のオーダーを入れるむぎちゃんに若干引きながらその健啖家ぶりに感心する。今日も大した進展はなかったけど、まあ手を握ることは出来たなと思いながら帰路につけば十分じゃないか。さっさと手を離して、立ち上がろう。
 自分のするべきことは分かっているのに、むぎの手を握ったまま動けない。
「ホークスさんは、ヒーローにならないで良かったら何になりたかったのう?」
「さあ……分かんないな。何にせよ、ろくな人間にならなかっただろうね」
「シェフや、運送屋さんが似合いそうね」
 口が滑ったと血の気が引いたものの、むぎはホークスの生育環境にそう興味が無いらしかった。
 ホークスに握られた手を振りほどこうともせず、マイペースに言葉を続ける。
「運送業界だと飛行個性はとびきり優遇されるし、ホークスさんは地頭が良いからそのうち配送システムの見直しとか任されそう。味覚が鋭敏だから、シェフでも素敵。若いハンサムシェフが出来たて熱々の料理を羽根でお届け もしくは、お医者さんも向いているかも
 あんまりにいつもどおりの口調で言うから、思わずホークスの口元が緩んだ。
 空いてる右手で口元を覆うと、むぎの眉が八の字になった。
 むぎは何とも言えない表情でホークスを見つめていたが、不意に両手でホークスの手を包んだ。反射的に手を引こうとしたが、むぎのほうが早かった。むぎは宝物でも隠すように、優しくホークスの手を握って身を乗り出した。すぐ目の前に、むぎの顔がある。吐息が胸に掛かる。ちかい。
 睫毛が長い。唇が赤い。鼻筋が通ってる。顔が良い。顔が良いってずるいよな。

「沢山の未来のなかから、ずっと楽な生き方もあったでしょう」
 ああ、綺麗な子だな。心底そう思う。どうしてこんなに綺麗な子がこの世界にいるんだろう。

「ホークスさんは頭が良いし、味覚も鋭敏だし、お喋りも上手で、他人を助けるのも上手で、優しいのだもの。自分が幸せに生きたいだけならヒーローなんかやらなくっても良かったのよ」
 蕩けるような笑みを浮かべて、むぎちゃんが甘い囁きを漏らす。
「痛いでしょう。苦しくて、忙しくて、ゆっくり寝ることも出来なくて、良い結果を出しても当たり前みたいに言われて、ほんの少しの失敗でどうしようもなく詰られて……大変な仕事だわ。
 それでもヒーローをやっているのだもの。ホークスさん、キラキラしている」
 むぎちゃんは未だ涙で濡れたままの目を眇めて微笑う。
 本当に、本当に、眩しそうな目をしている。この子の目に映る世界はいつも光に満ち溢れている。ホークスが慣れ親しんだ現実は、この子の目を通して“あらゆる祈りが結実する美しい世界”に生まれ変わる。その瞳のなかにずっといたいと思う。俺だけを写して欲しい、とも。
「むぎには分かるの。みんなキラキラしていて、ずっと、ずっと見ていたい。幸せになってほしい。満足してほしい。痛いのも、苦しいのも、みんな意味があることであってほしい」
 そこまで歌うように紡いでから、悲しげに目を伏せた。

「……あなたの苦しみには全んぶ意味があったんだよって、そう言えるひとになりたかったの」
 それは一体、誰のために? 気になったけれど、もうそれは大したことではない。

 叔父がこの世の全てという思い込んでいた子が、ホークスの隣で存在しない未来を夢見る。
 “鷹見啓悟”には何の未来もなかった。父親と同じで、ろくな人間になりはしない。それが母親の口癖だった。母親にとって犯罪者の子を身ごもったのが運の尽きだったのだろう。人生の軌道修正を男に委ねた母親は、決して我が子の未来を夢見ることはなかった。ゴミだらけの部屋でカップラーメンを啜ったあとは決まって舌が痺れたし、深夜に窓から飛び立つ楽しみを邪魔されることもなく、母親はホークスの人生に対して無知だった。それで十分ホークスは楽しかったのだ。幼いながらに「興味が無いなら仕方ない」と割り切って、自分なりに楽しくやっていくつもりだった。
 それなのに、母親は触れようともしなかった我が子の未来を金で売った。
 尤も、その事実を恨んでいるのか感謝しているのかさえ朧気だ。鷹見啓悟が夢見た未来には“エンデヴァー”がいて、買われた未来でも彼は煌々と炎を放ち続けた。もう夢見る必要はないのだと早々に理解して、いつからか夢見ることを忘れた。考えることはみんな、暦の先にある実現可能な予定。来年再来年三年四年五年……頭のなかのカレンダーにはビッチリ予定が書き込まれている。ホークスにとっての未来はそういうものだ。夢などというフワフワした感傷は馬鹿馬鹿しい──なのに、今、どうしようもなくこの子をぐちゃぐちゃにしたい。めちゃくちゃに体を開いて、体の奥深くに自分の跡を宿して、もうどこにも帰れなくなってしまえと思う。どんな形でもいいから自分のものになってほしい。俺の胸のなかで耳障りの良い言葉を囀り続けてほしい。俺のことだけを見て、俺の幸せだけを望んで、俺の痛み苦しみだけを案じ、全てを慰めてほしい。途方もない欲がもたげて、喉がカラカラになる。下半身に集まりつつある熱を散らすため、素数を数える。
 俺はNo.3ヒーローホークス、未成年女子に手を握られただけで勃起するような人間ではない。

「スピリチュアルなことを言ってしまった
「あ、いや、そういうわけじゃなくてね」
 テレッとおどけたむぎを見て我に返る。
「……ヒーローにならなくたって、ヒーローを守ることは出来るでしょ。むぎちゃんはよく知ってるよね? 世論で潰されるヒーローがいること……だからさ、むぎちゃん、こう考えない?」
 母親が息子を売ったのは事実だ。それと同時に、ホークス自身が“鷹見啓悟”を捨てたことも。
 幼心に「エンデヴァーのように他人を救えるなら、他人の人生を明るく照らせる人間になれるんだったら、“鷹見啓悟”としての人生は要らない」と思った。その選択を悔いたことはない。何度やり直しても、“鷹見啓悟”は己を捨てるだろう。ただ、だからといって“鷹見啓悟”として生きた過去を消し去ることは出来ない。ホークスと“鷹見啓悟”は切っても切り離せない運命共同体だ。
「もう、エンデヴァーさんのために生きなくて良い。自由なんだって」
 自分らしくもなく声が掠れてきて、気恥ずかしさに顔を背ける。
「頑張りたくないなら頑張らなくていいし、自分のことを空っぽだと思うならこれから好きなものを詰め込めばいい。キラキラしているものが好きなら……ずっと、」
 俺の傍で俺のことを見ていたらいい。
 あからさますぎて言い淀んだ瞬間、むぎがホークスの手をぎゅっと胸に抱いた。

「……ホークスさんと仲良くなれて良かった」
 俺もだよ。心中そう呟いて、空いている手でむぎの肩を軽く抱き寄せる。人生で一番幸せだった日の続きが腕の中にいると、思った。ホークスを夢見た“鷹見啓悟”のまま君に触れている。
 君と出会えて良かった。



 去年、ホークスは満を持して関東圏のチームアップ任務で“リーダー”の座に就いた。
 満を持してというか、本来なら福岡県内で捕縛出来たはずのヴィランに仲間がいて県外に逃げられたため追わざるを得なかったというか、思った以上にデカいヤマになった上よりにもよって取り逃したヴィランがホークスと似た“個性”を有していたのでメンドクセーことになりつつあるというか、まあ元を辿れば常日頃から“傍若無人キャラ”として売ってきた自分にも非があるのだが──チームアップ依頼を打診したヒーローのうち、何名かが「似たような個性だから情が移ったんだろう」と陰口を叩いているらしい。尤も、そんなのはただの言いがかりだ。目良自分より年下の人間に、しかもそいつの尻ぬぐいで収集された現状で指示を出されるのは不服だとも。勿論、彼らの本音は“後者”だ。一向に人員が集まらないのを見てヒーロー公安委員会からもチームアップ依頼を出しているのだが、その任を押し付けられたらしき目良善見から「集まらないなら集まらないで、今後のことも考えてエンデヴァーとパイプ作っとこうか?」との提案があったのである。
 他人事みたいに「関東随一の強面オッサンとナカピしとけば後々楽っしょ笑(意訳)」とか提案されたけど、そもそも「ヤクの売人が福岡逃げたからよろ〜単独犯っぽいけど都市部転々としてて掴まえづらいんだわ笑あっ“個性”は何かわからん笑(意訳)」とブン投げてきたのはヒーロー公安委員会なのでテメーらが如何にかしろという気持ちもなくはない。まあ確かに公安委員会からの情報を鵜呑みにして裏を取らなかったのはホークスの落ち度だが……もう他人を信じるのはやめよう。
 何にせよエンデヴァーの協力を仰げるならそれに越したことはないというわけで、駄目元でメールを出した。業務開始時間に送ったのと、相手が緊急性が高いと判断したのもあって、返事は一時間後に来た。一ヶ月先までスケジュールが詰まっているためお受けできかねます。想像通りの断り文句をスクロールしたあと、不意に末尾の署名に目が留まった。そこには「エンデヴァー(代理送信:轟むぎ)」と記されている。勿論、事務員か誰かが代筆しているだろうことは想定内だった。
 ホークスは“轟むぎ”という名を見つめて、不意に考え込んだ。雄英卒のプロヒーローであるエンデヴァーは何かと開示情報が多く、同業者ならフルネームまでは知らずとも苗字ぐらいは知っているはずだ。ホークスも知っている。本名を轟某というらしいエンデヴァーは、まあ良くも悪くもイメージ通りだと感じたのを覚えている。増して、轟という苗字は一般的なものではない。同性他人の轟さんがエンデヴァー事務所で働いているとも思い難いし、恐らく十中八九エンデヴァーの血縁者なのだろう。以前、エンデヴァーには仕事を手伝ってくれる姪がいると聞いたことがあった。

 身内にヒーローがいるとやっぱり人生勝ち組だよなあ。俺なんかさあ……まあ良いか。
 椅子をギシギシ言わせながら、ボンヤリ思案する。てか“姪ちゃん”といえば、前にエンデヴァーさんとの援交疑惑出てなかったっけ。こんだけ公に仕事手伝ってるのにマスコミは誰も裏取らなかったのかよ。もしくは、変に勘繰られるから公に仕事を手伝わせるようになったのかもしれないな。そういや、姪ってことは“あの女”の子ども? 流石に、他にもマトモな兄弟がいるか。そっちの子どもだろう。あの女の子どもは小学生とかだし。そんなことを思いながらメールを閉じた。
 その翌日、エンデヴァーから支援要請を受けたという数名のヒーローから「関東圏でのチームアップに参加したい」とのメールを受けた。幼少期から憧れてきたヒーローが自分のために他人に声をかけてくれた。正直、これだけでホークスは胸に熱くこみあげるものがあったのである。

 都内に拠点を構えた日──エンデヴァーからの返信を受けた二日後、一通のメールが届いた。
 タイトルに「エンデヴァー事務所よりやや私的なメール」と記されているあたり明らかに異様ではあったが、それでもエンデヴァーさんから何かあるかと期待して開いた。メール本文には、お決まりの挨拶のあと「エンデヴァーより情報提供の許可を受けてメールさせて頂きます」とあった。


 エンデヴァーより情報提供の許可を受けてメールさせて頂きます。
 先日はこちらの都合でチームアップ依頼に応じることが出来ず申し訳ありませんでした。
 エンデヴァーもホークス様が抱えている件について大変気に掛けており、予定を整理しておくのだったと悔いています。代わりと言っては何ですが、事務所のデータベースからホークス様のお役に立ちそうな情報を纏めて送るよう指示を受けました。今回ホークス様が追っているヴィランについては個人的に関心を持って調べていたので、幾らかお役に立てるかと思います。
 可能であれば上京前にお渡ししたかったのですが、私の能力不足から時間が空いてしまいました。チームアップ直後の多忙な時期にこのようなメールを送る非礼をお許し下さい。
 なお添付したリストには人権保護の観点から当たり障りのない情報しか掲載されていませんが、警察やヒーロー公安委員会側の情報を参照する際の足掛かりにでも使ってください。マップデータについてはチームIDATENと協力して作り上げたものなので、現時点では国内で一番精確なはずです。今回の情報提供についてはエンデヴァーだけではなくチームIDATENの代表インゲニウム様にも許可を得ています。お渡ししたデータについてはホークス様の好きに使ってください。
 不慣れな地でのチームアップ、増して年若くしてリーダーとして他人に指示を出すのは並々ならぬ神経を使うことと思います。多くの人から期待されていることの証左とはいえ、ご自愛下さい。
 新聞の一面にあなたの名前を見つける朝を楽しみにしています。

 エンデヴァー事務所
 轟むぎ


 添付ファイルには、当時ホークスが追っていた犯罪組織と繋がりがあるだろう人物のリスト、彼らの行動範囲や目撃情報を関東圏のマップデータに落とし込んだものが収まっていた。
 正直言って、千文字にも満たないチームアップ依頼メールからよく自分の状況を読み取れるものだと感心した。そもそも、仮にもプロヒーローに対して「若くして人の上に立つのは大変だけど、消耗しないよう気を付けてください」などと上から目線で案じる者は中々いない。
 メールを読み終わった時、文面に満ちた傲岸さと善良さに「やっぱりプロヒーローの血縁者だな」と思った。正しい理屈で築かれた家庭に産まれ、当たり前にふつうに善良な人間に囲まれて長じた人間特有の“見返りを期待しない優しさ”。嫌になるほど羨ましくて、何度も何度も貰ったメールを反芻した。新聞の一面にあなたの名前を見つける朝を楽しみにしています。会ったこともない相手に何の衒いもなくそう送ることが出来る出自が妬ましい。どんな女かと繰り返し考えた。

 一月後の朝刊にホークスの名前が載ったけれど、彼女からのメールはなかった。当たり前だ。
 どれだけ親し気に見えても所詮はビジネスメール。そこに記されたことを真に受けて、メールが来るのを期待するほうが如何かしている。チームアップしたヒーローたちを見送り、全ての報告書を提出し、警察での手続きを終えたあと真っ直ぐ静岡へ向かった。アンテナショップで買った福岡土産を片手にエンデヴァー事務所へ。変なことじゃない。今回のチームアップにはエンデヴァーからの要請で参加したヒーローが二人もいる。当人が恩着せがましく言ってきたわけではないけれど「エンデヴァーさんから話があって」と聞いた以上、礼を言うのは社会人として当たり前だ。
 エンデヴァーが事務所にいるかも、件の“轟むぎ”が出勤しているかさえ分からない。敢えて何も調べず、電話も要れず凸った結果、エンデヴァー事務所の入っているビルは真っ暗だった。

 後になって知ったことだけれど、エンデヴァー事務所は原則土日休を採用しているらしい。
 勿論、土日休と言ってもエンデヴァー当人やサイドキックは年中無休である。それ以外の、外来対応やクレーム受付、デスクワークを担当する職員が休むだけである。要するに、よりにもよって日曜にやってきたホークスは完全な無駄足というわけだ。静岡の街を見下ろす高層ビルの天辺には明かりが灯り、人の気配もあるが、エンデヴァー事務所の入り口は強固に施錠されていた。
 大体の事務所は事務員も年中無休でいるから、土日休みとは予想外だった。一泊して明日出直そうかな。でも結構地元空けちゃったし、サイドキックに休みもあげたいし、今日中に帰りたかったな。こんな時に、なんで勢いだけで行動するかな。疲労もあって、玄関前でフリーズする。

『一昨日の朝刊見ました。事件解決お疲れ様です』
 振り向く前から、もう彼女が誰か分かった。

『大変申し訳ありません。弊事務所は去年から完全週休二日体制となっております。
 年中無休が当たり前のヒーロー業界では中々ご理解頂くのが難しいのですが、“日々自分のバックアップに努めてくれる職員たちに十分休んでほしい”との所長の意向にて土曜・日曜は窓口業務は停止させて頂いてます。折角遠くからお越し頂いたのに、御持て成しできなくて残念です』
 じゃあ何であんたはいるんだとか、まあそりゃエンデヴァーさんはクレームめっちゃ多いですもんね、クレーム担当課があるって本当ですか?とか、言いたいことは沢山あるのに言葉が出ない。
『……俺にメールくれた、轟さん?』
『はい。その節は色よい返事を出来ず、大変申し訳ありませんでした』
 辛うじて絞り出した問いに、むぎは笑顔で頷いた。その笑顔でまた何も言えなくなる。

 白く長い髪は陽光を受けて輝き、長い睫毛で飾られた瞳は零れそうなほど大きい。
 “轟むぎ”は本当に美しかった。男物らしい大き目のコートを雑に羽織って、長い白髪は低い位置で結んだだけのざっかけない恰好なのに、そのままファッション誌の表紙でも飾れそうなぐらい顔が良い。正直言ってホークスが知ってる女のなかで五本の指に入るレベルに容姿が整っている。
 誰しも「エンデヴァーの姪」という前情報から、これだけの美少女が出てくるとは夢にも思わないに違いない。ホークスも思わなかった。そりゃ身内にこんだけの美人がいたら雇用するのも当たり前だ。厄介なクレームや優位に進めたい取引を彼女に担当してもらえば、それだけで良い結果が出るだろう。それに、援交を疑われたわけも分かった。轟むぎはエンデヴァーの血縁者らしい顔をしていなかった。もしかしてマジで同じ苗字なだけの他人かもしれないと思ったほどだ。

『折角の休みなのに出勤?』
『身内特権でこき使ってもらえるので、上で働いてる皆さんに差し入れを』
 そう言ってビルの上層階を見上げる彼女の手には大きく膨らんだビニル袋が下げられていた。
『なるほどね。そしたら、これも差し入れといてくれる? 甘いの嫌いな人いたら悪いけど』
『ありがとうございます。嬉しい、叔父も私も甘いの大好きなんです』
 目を眇めて微笑うむぎは途方もなく可愛らしかった。柄にもなく物おじして苦笑いで躱す。
 ホークスは常々自分の好みは“仕事が出来そうな年上の女性”だと思っていた。しかし、どこから如何見ても“仕事が出来なさそうな年下の女性”にしか見えない轟むぎ相手に気後れするあたり、男なんて所詮顔が良ければ何でも良いのかもしれない。ホークスは受け取った紙袋の中を嬉しそうに除くむぎを横目に見て、そっとため息を漏らした。それなりに女慣れしてると思っていたのに、年下の……恐らく大学生だろう女の子相手に気の利いた言葉一つ言えないなんて情けない。
 一昨日の朝刊見ました。その一言で、たった一通のメールで、ほんの一度の逢瀬で、これだけ胸がかき乱されるとは──自分がそんな軽率な人間だと思わなかった。

『お礼に来て下さったこと、叔父にも伝えておきますね』
『むぎちゃん、敬語使わなくていいよ。大して年離れてないし、そもそも休出なんだよね?』
『……ほんと? 変に馴れ馴れしくしたら、ホークスファンに怒られてしまいそう』
 途端にあどけなく笑って見せる彼女に胸がぎゅっとなる。
 この子、色んな笑い方があって可愛い。ホークスはむぎの優位に立ちたい一心でポーカーフェイスを維持し続けた。顔が良いだけの年下女子にデレデレしているとは絶対に思われたくない。てか、名前にちゃん付けしたの拒否られなくて良かった。素の喋り方、舌足らずな感じでかわいいな。さっきまでと全然違う。かわいい。もっと気を許してほしい。この子の表情を全部みたい。
 脳漿ぶちまけて腸引きずり出して何考えて生きてるのか何食って育ったのか全部知りたい。

『……添付データありがと。凄い助かった。あれ、よく二日で纏められたね』
『叔父さんが事務所泊まって良いよって言ってくれたから』
 何でもない風に言ってのける彼女に、突発的な破壊衝動が湧いた。
『へえ。余所者の新人に、よくそこまで身を粉にして尽くせるね。何の得にもならないでしょ』
 そう鼻で笑った直後、音もなく全身の血液が下落していった。やってしまった。つい、この子の本性が見たい一心で感謝もクソもない無礼を口走ってしまった。よりにもよってエンデヴァーさんの姪相手にやらかすとは思わなかった。ホークスのやらかしは音速より素早くエンデヴァーに伝わるであろう。常人は姪に暴言を吐いた輩を良くは思わない。しかも、ただの姪ではなく“輩のために二日間も馬車馬の如く働いた姪”なので、救いようがない。これでエンデヴァーとのチームアップは愚か、同じ現場で出くわして背を預けて貰うとか、LINE交換するとか、「今日の月が美しすぎて寂しくなったから会いたい」というメッセージを貰うとか、そういう可能性は灰塵に帰したわけだ。言うほどエンデヴァーさんから「今日の月が美しすぎて寂しくなったから会いたい」ってメッセージを貰いたいか? いや、貰えるか貰えないかで言えば正直貰いたい。スゲー欲しい。
 俺の人生終わった。万感の思いで立ち尽くしていると、不意に突風が吹いた。

『ヒーローを手伝うのに理由がいるの?』
 コートのボタンが外れ、中に着こんだ学生服が露わに……学生服?

 情報量が多すぎる光景を目にして、ホークスは思考停止した。
 学生服。通常、大学には制服はない。制服を着るのは小学生、中学生、高校生のみである。いや制服っぽいワンピースなだけで制服ではないかもしれない。ネクタイに刺繍されているのは校章じゃなくて校章っぽい模様に決まっている。この顔で、エンデヴァー事務所で働いているのに、高校生のはずがない。高校生を働かせるわけがない。高校生を馬車馬の如くこき使うはずがない。
『……こう、こうせい?』
 頼む。どうか、学生服で休日出勤する狂人(くるんちゅ)でありますように。
『え? むぎは中学生だけど……あっ労働基準法に抵触してるのはナイショにしてね
 人差し指を唇に当ててウインクする彼女はめちゃくちゃ可愛らしかったが所詮JCである。
 これも後で知ったことだが、あの日制服を着ていたのは事務所に行く前に生徒会の用事があったかららしい。むぎは「あの時は生徒会長選挙も間近だったのに、会長が総会の準備全然してなかったのね」と膨れていたが、それを聞いたホークスはズボラな生徒会長に心から感謝した。
 もしコートの下の制服に気付かなかったら、ホークスは彼女を口説き落としただろう。法の許す範囲でかなり強引な手段も用いたに違いない。合意の下に肉体関係を結びたいとも思った。流石のホークスもヒーロー生命は惜しい。ウッカリJCを抱いて書類送検されましたなんてことになったらサイドキック諸兄に顔が合わせられない。むぎちゃんは額に学生証貼って歩いて欲しい。
 一人称が名前なことにも引いたが、なんかもう引きすぎて「一周回ってアリかもな」になった。まあ一人称や年齢に引きつつ「大人になったらワンチャンある」と連絡先は交換したので、男という生き物は悲しい。何にせよ、むぎが口を滑らせたおかげでエンデヴァーから「今日の月が美しすぎて寂しくなったから会いたい」というメッセージを貰う可能性が蘇ったのは良かった。中学生を馬車馬の如く働かせるのは中学生とエッチするより悪くないけれど、ホークスの失言よりは悪い。

 むぎと出会ってから、ホークスには色々なことがあった。
 色々なことがあったというか、精確には「むぎとエンデヴァーが滅茶苦茶な人間すぎて見識を深める度に圧倒される」と称するのが正しい。本当に毎度毎度むぎはホークスの度肝を抜くのが上手い。会ったこともない人間のために寝ないで働くし、初対面ではJCだし、二度目に会った時は寝てるエンデヴァーさんにキスしてるし、それを誤魔化すために俺にキスするし、俺の弱みを握るために会う約束取り付けるし、最終的に普通に飯食って話すだけの関係になるし破天荒に過ぎる。


「……ホークスさん?」
 あんまりに長々とした追想から覚めると、むぎが相変わらずの可憐さで小首を傾げていた。
「ああ、うん……ちょっと、むぎちゃんと初めて会ったの丁度一年前だなって思って」

 むぎはホークスの六つ下で、何度も言うが一人称は名前だし、極めて常識外れな人間だ。
 コートの下に着こんだ制服を目にした瞬間、ホークスは「無理」と己に言い聞かせた。エンデヴァーにキスしてるのを見た時も「絶対に無理」と繰り返して、それでも自分に嘘は吐けなかった。新聞の一面にあなたの名前を見つける朝を楽しみにしています。一昨日の朝刊見ました。事件解決お疲れ様です。ヒーローを手伝うのに理由がいるの? 彼女の何もかもに惹かれた。会う度に色んな顔を覗かせる彼女から目が離せなくなった。この子の全部が知りたい。この子が欲しい。
 はじまりは一通のメール。あの日、偶然君と出会った。君と俺は何かで繋がっている。そうでなければ、誰より“道化”を演じるのが上手い君の弱みを幾つも知るはずがない。叔父への依存心。従弟への罪悪感と忌避感。両親への期待。寂寞感。閉所への恐怖心。如何しようもなくなった君はいつも自分の心の一等無防備なところを俺に晒してくれる。それが堪らなく愛しい。欲情する。
 この子の全部が欲しい。この子はあと二年で高校を卒業する。そうしたら大手を振って俺のものに出来る。俺のものになったら、もう誰にも触らせない──エンデヴァーさんにも。

 ホークスの台詞を受けて、むぎは酷く懐かしそうに目を細めた。

「むぎね……会長のルーズさにとても振り回されたけれど、今はとっても感謝しているの」
「へえ、奇遇だね。俺もだよ」
「嘘、会長がもちょっとマトモだったら電波女に振り回されずにすんだのにい……?」
「むぎちゃんが放出してる電波は肩こりに良いからね、癖になって困るったら」
 膨れ面のむぎがテテテテッと雑にホークスの肩を叩く。かわいい。ぎゅってしたい。このまま未成年淫行をしでかしたい。いや犯罪者にはなりたくない。キスしたい。早く、俺のものにしたい。
「どーしよ、帰したくなくなる」
「そんなに心配しなくても大丈夫 むぎとしょうちゃんは意外と仲良し
「本当は?」
 そういえば……と思って軽く探りをいれる。
「……昨日から一言も口利いてない
 あ〜〜〜〜〜〜〜良かった〜〜〜〜〜〜〜という気持ちで、ホークスは満面の笑みを浮かべた。
「ほらね〜〜〜〜!? もう一緒に福岡来る? 時給五十円で賑やかしとして雇ったげるよ」
「思いがけない高給と厚遇に心が揺らぎまくり
「かわいそ……早く高校卒業してウチに就職しな……正規雇用なら月千円出すから……」
「月に千円も……! そんな……ボス、本当に良いんですか……!?」
「むぎちゃんはチョロかわいいねえ」
 良い子良い子と頭を撫でると、むぎはハッとした顔のあと撫でやすいよう僅かに俯いた。
 かわいいねという気持ちでワシャワシャ撫でる。かわいいね。俺に撫でられる感覚を覚えておこうね。他人に大事にされるのがどれだけ気持ちいいか、早く教えてあげたいな。
 どろどろに甘やかして、俺がいないと生きていけないようにしたい。俺の腕のなかで、その瞳に俺だけを映して、俺の幸せだけ祈って暮らすむぎちゃんを思うと頭がチカチカする。エンデヴァーさんへの気持ちは単なる依存だってゆっくり理解していこうね。そのうち、君の初恋は俺になる。

 君の声を聞く度、会う度、いつも君が好きになる。だから、君にもそうであってほしい。

仮面がぼろぼろ



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