パンはパンでも
たべられないパン
なーんだ

「あれ……むぎちゃんの……ごめん、止められなくて……お部屋なの」
 従姉の指さす先を見た途端、むぎはスペキャ顔になってしまった。
 なぜ……? 何故と言えば、何故っていうか、まあコトは引っ越し当日の朝に遡る。




 叔父曰くの「オンボロ違法ホテル」をチェックアウトしたむぎは、居候先に思い馳せた。
 早朝の繁華街は青い光に満ちて、澄んだ冷たい空気のなかに嘔吐臭を感じる。明るい路上で眠るオッサン、草臥れきった顔の商売女が闊歩するのを眺めていると、むぎは寛容な気持ちになった。予約した時間から大分過ぎているにも関わらず来る気配のないタクシーも許せる。いや、許せん。
 むぎは足の先をタスタスしながら、気を紛らわせるためにも思案した。考えよう。最後に会った時のしょうちゃんがどんな風だったかとか、何を言われたか思い出さないためにも!
 今の今まで「しょうちゃんと同じ家はキツい!」という衝動が強すぎて何も考えられずに、いや何も考えられないっていうか回避するためなら何でもするレベルだったのだけれど、とりあえずむぎに打てる手は全部打った。ホークスからも「本当にダメならうちに居候したら良いよ」の言質を得ているし、叔父にしろ愛息子のQOLが著しく低下するようなら姪の一人暮らしを許可するであろう。人事を尽くして天命を待つ。ようやっと来たタクシーに乗り込むと、むぎは“不安材料”について考えるのを止めるため、他のことを考えることにした。叔父だ叔父だ。叔父のことを考えよう。

『明日からうちに来い。もうお前の部屋は手配してある』
 叔父の台詞を思い出して、むぎは不意に考え込んだ。
 一昨日から引っかかっていたのだが、“手配してある”というのは“用意してある”と同じ意味だろうか。普通“手配”というのは一から用意したときに使う言葉だ。No.2ヒーローとして著名な叔父はその肩書き相応の資産を有しており、万人の期待通りかなり立派な日本邸宅に住んでいる。
 七つの時に「焦凍が嫌がるからお前は半永久的に出禁だ」と宣言されてから、むぎはその禁を破ったことがない。叔父の家庭は“波瀾万丈”のモデルケースなので、出禁を解除されるまでの間に様々な変化があっただろう。どれだけ叔父一家がメチャクチャだろうと、“家”というものは長期使用を前提に建てられる。定期的にメンテナンスしていれば、五年十年で「キッチンが陥没して地中に沈んだわ」とか「トイレが爆発四散したから違うところに作り直したわ」などという惨事は起きない。故に、叔父の家は幼い日のままだろう。むぎの記憶が確かなら、叔父の家は間取りから庭木の一本に至るまで完璧に計算されていて、今更増築するほどのゆとりはなかったと思う。
 それに、居候のために新しい建物を用意するなど、古代中国の皇帝じみた所業である。
 確かに叔父は“立てば武士(もののふ)、座ればヤクザ、歩く姿は職質対象”と常人離れした見かけを誇るものの、その価値観は常人の内に収まっているはずだ。そうでなければカワイイ姪に「ハッキリ言って、お前には常識を養う才能がない。諦めろ」などとウエメセ説教をかますはずがない。常識を覚えるのに才能って要るのう……!?と思ったが、叔父がそう言うのだから要るのだろう。
 何にせよ間取りに大した変化はなかろうと高を括ったむぎは、玄関近くの客室にアリエッティするものと思っていた。何となれば叔父は自分の家に他人を入れることを厭うし、母屋の殆どは叔父のトレーニングルームと化している。離れは部屋数に余裕があるものの、従弟の部屋がある。

 むぎが物心ついた頃から、離れで寝起き出来る人物は従弟と義叔母だけだった。
 従姉たちがどれだけ末弟を気にかけ、また従弟が兄・姉との交流を望もうと、叔父は従姉たちが離れで寝るのを許さなかった。それ故に従弟は“唯一の例外”であるところのむぎに縋った。
 外界に友人を作ることを禁じられ、また兄弟間の交流さえ厳しく制限される従弟が実父を憎むのはごく自然なことだ。不遇な幼少期を過ごす従弟に「何故むぎだけが許されるのか」考える暇はなかっただろう。そして、長じた後は考えようともしなかったに違いない。

 出禁が緩和されたからといって、従弟との不仲は変わらない。
 末息子に歪んだ愛着を抱く叔父は無論「二人の部屋を離したい」と思うに決まっている。
 現に昨日の朝も「せめてお前に性別がなかったらな……」と訳の分からないことをほざきながら出て行ったため、娘とも息子とも深く関わらせたくないと思っているのは確実だ。
 なお「万が一お前の悪魔的発想で夏雄を惑わし何らかの間違いが発生した場合、お前とは縁を切る」と予め宣言されている。幾らむぎが母親同様の奔放な女でも、兄妹同然に関わってきた相手と間違いを起こすことはない。何度そう伝えても叔父は「どうだか……夏雄は冷に似て実直で人好きがする好青年だし、お前には倫理がない」の一点張りで、むぎは「夏くんの惚気話をしたいなら当人に伝えれば良いのにい」としょっぱい顔になったのだった。大体そんなに文句タラタラならむぎの一人暮らしを許可しろ。ついでとばかりに姪sageをするな。姪へのツンデレがすぎるゾ。
 世間一般に「無愛想かつ無口なヒーロー」として知られる叔父の口は、むぎの悪口を言うときばかり流暢に動く。あとオールマイトDISをするときも滅茶苦茶早口で喋るし、むぎの母親について話すときもペラペラ悪口マンになる。まあ悪口というか普通に正論なので「ふぅん……」としか言いようがない。その一方で義叔母の話になると途端に黙秘権を行使するため、原則的に叔父はネガティブワードしか喋れないと考えて良い。むぎの母親もペラペラ悪口ウーマンだったので、多分祖父母からペラペラ悪口遺伝子を受け継いでいるのだろう。むぎ自身も「うーん、常日頃から気をつけないとなあ!」と思うものの、先日のようにふと気づけば元担任教諭のアナルに濡れ衣を着せていたりする。そうやって自省していると、つくづく義叔母の教育及び遺伝子を色濃く受け継いだ従姉弟は偉いなあと思うのだった。父方のはとこにしろ従姉弟同様の“天使”だが、むぎの父親には母方の“ペラペラ悪口遺伝子”を払拭するだけの善良さが備わっていなかったのだろう。かなしい。
 でも良いもん、自分の性格の悪さに凹んだら可愛い家具を買ってテンをageるもん♪

 タクシーに乗って叔父宅へ向かう道すがら、むぎは客室の仕様について思い馳せていた。
 畳敷きだから、家具も和風でそろえようかなあ。洗面所は遠いけど、トイレが近いのはありがたいのよね。トイレだいすきだから。従弟について考えないためにも、むぎは新生活に思い馳せた。
 従弟はどうあれ、むぎより年上の従姉たちは年相応に大人びている。義叔母似の……何らかの理由付けをしなければ納得出来ないほど善良に育った従姉たちは“末弟を傷つけた人間”に対しても親切だった。むぎが従弟に口を利いてもらえなくなるまで、そして叔父の家へ立ち入るのを禁じられてからも。きっと今回も親切かつ砕けた態度でむぎを受け入れてくれるだろう。

 流石に十五年も“従妹”をやってるだけあって、従姉の反応は概ね予想通りだった。
 むぎがめちゃデカジャパニーズハウスの前で降りると、数寄屋門の前で待っていた従姉が駆け寄る。むぎちゃん、大丈夫だった? お父さんがごめんね……!? 初手謝罪が板に付いた従姉を前にすると「炎司さん……!」と涙がちょちょぎれてくるものの、まあそれも想定内だ。
 タクシーの支払いを済ませ、「ううん、待っててくれてありがとう。これからお世話になります!」「ほんと大変だったね……さ、入って。これから暫く自分の家と思ってくれて良いから」「心配かけてごめんねえ……?」などと話してるうち玄関に着いた。移住にしては少ない荷物も、手荷物にしてはそれなりに多い。トランク二つを持ったまま移動するのも中々しんどく「これから間借りするお部屋にお荷物置いてきても良い?」と聞いた──すると、それまで和気藹々の代名詞だった従姉がフリーズした。叔父の生来の無愛想が心優しい義叔母の遺伝子と上手い具合に化学反応したとしか思えぬ気性の従姉である。叔父が如何なる“やらかし”をしでかそうと「あーもー」で済ます従姉がフリーズするのは極めて珍しいことだ。居候の分際で「部屋に案内してくれ」と請求する厚かましさに驚いたのだろうか? いや、こないだのメールで「夜中に帰ってきたお父さんからシャツにアイロンかけとけって言われるのは正直『新しいシャツ買ってから出勤しなよ……』になる」と愚痴りつつも「掛けたよ〜どうせ卒論で起きてたし、すぐ終わるしね。ただ夏雄とか焦凍が起きてきたらヤバいなあ……って少しハラハラした」と菩薩じみた対応をする従姉が、これしきの厚かましさでフリーズするはずがない。それともむぎが八年近く“お暇”しているうちに、従姉宅には何らかの愉快事象が起きてしまったのだろうか……? ぎこちなくも我に返った従姉の後をついて歩く道すがら、むぎは覚悟を決めた。叔父の修行欲が行きすぎて家の中に滝を作ったのかもしれないし、叔父の筋肉愛が行きすぎて室内が全面鏡張りになったのかもしれない。
 しかし八年ぶりに闊歩する叔父宅は幼い日のままだった。
 キッチンは陥没してなかったし、トイレの場所も変わっていない。変わったことと言えば庭で遊ぶ子供らの姿がないことと、義叔母の気配がすっかりぬぐい去られていることぐらいだろう。
 かつて義叔母が丹精した花が活けられていた床の間には謎の鎧が飾られていたし、義叔母が世話していた花壇は空っぽだった。ただ花壇に一房の雑草もなく黒々と湿っていることから、意図して空けてあることが分かる。叔母が使っていたスコップやコテは、離れの際にある家庭菜園に纏められていた。今は従姉が使っているのだろう。そう思うと同時、視界の端に見覚えのない建造物があるのに気づいた。家庭菜園と従弟の部屋の日当たりが最低になる場所に設置されているあたり、叔父が建てたものであろう。ほうれん草の芽がペニョリと地面に崩れ落ちていることから、ごく最近設置されたらしきことが分かる。従姉が「ほうれん草植えたから、育ったらあげるね〜」と言ってたのはほんの数週間前のことだ。炎司さんが最近……? 咄嗟に菜園の主に視線を滑らせると、従姉は何ともいえない顔で縁側にしゃがみ込んでいた。しゃがみこんでいたというか、崩れ落ちていたと表現するほうが近しい。折角植えたほうれん草が父親の思いつきで駄目にされることがそんなにも辛いのだろうか? しかし従姉の悲痛はほうれん草の故ではなかった。従姉は美しい日本庭園を見渡せる縁側にしゃがみ込んだまま、どう考えても“日本庭園らしくない建造物”を指さした。




「ほんとに、ほんとにごめんね……どうしようもなくて……」
 冒頭へ戻る。スペキャ顔になったむぎは従姉に本心を悟られる前に平静を装った。
 自らの胸に何故を問うて深々と考え込んでしまったが、無論答えは分からなかった。叔父の思考は時として人智を超越する。叔父はネコチャンだから、その真意を掴めないのは仕方が無い。

「あっで、でもね! むぎちゃん!!」
 この世のありとあらゆる罪と無縁な従姉が──よりによって何故か“この世で最もありとあらゆる罪と縁のある男”の娘として産まれてきてしまった従姉が痛々しいほどの明るい声を作る。
 い、一応エアコンと布団はあるけど、あとは好きにして良いから。家具は殆ど処分しちゃったって話だけど、お世話になってるデパートのカタログあるから、お父さんのお金で全部賄わせるから好きに選んでね。何のお詫びにもならないけど、一応一晩過ごしてみたらふつうの部屋みたいだったし、嫌なら客室に住んでも全然良いからね。っていうかそっち行く? お父さんが部屋を用意したことへの義理は果たしたよね? もう良いよね? 良いっていうか、これで良いんだよね?
 斯様に狼狽する従姉を前に「犬小屋って書いてあるよう?!」等と問うことは出来ない。むぎに出来るのは「わあ、バンガロー大好き 林間学校気分でカレーを作っちゃおうかな♪」とはしゃいでみせることだけだった。目の前にあるのはバンガローというか物置なのだが……?!
 従姉はもの凄く申し訳なさそうに「ごめんね……」と呟いたものの、それでもクソめんどくさ親父と居住権論争をせずに済んだのに安心したのだろう。ややあってから気を取り直した従姉は踏み石上のサンダルをつっかけると、犬小屋ならぬ“むぎ小屋”の前まで案内してくれた。

 “むぎ小屋”は遠目には物置にしか見えなかったものの、近づいてみると案外頑丈な作りだった。
 そうは言ってもやはり「現代版御救小屋じゃん!」という感想は否めないし、よりにもよって何故従弟の部屋の真横なんだと思ってしまう。しかし従姉の手前、そうした本音は押し隠さねばならない。むぎはとびっきりの笑みを浮かべると、胸の前で手を組んで「かわいい〜」と叫んだ。
 物置をCAWAII認定する女、狂人すぎる。温厚かつ聡明な従姉が「正気か?」という顔をしたからといって怯んではならない。ほんの僅かでも「流石のむぎもこれはマヂで不可解、何故むぎのことをメチャクチャに嫌ってるしょうちゃんのお部屋の横にむぎを住まわす……?」という本音を悟られようものなら、従姉は「未成年の従妹に気を遣わせてしまった」と深く悔いるであろう。
 むぎは自らを奮い立たせるため、白い壁面を撫でた。この設置物、マジで褒めるとこisどこ?

「……すご〜い 扉だけ赤いペンキで塗ってあるう むぎ、赤いドア大好き♪」
「そっか、むぎちゃんの世代だと一周回ってアリなんだね……」
 いや全然そんなことはないけど……! でも今は……今はそう思ってもらうしかない……!!

 この勘違いがヤベー事態に発展したらどうしよう。
 これから教職に就こうという従姉にとんでもない勘違いを植え付けた気がして、むぎの胃は激しく痛んだ。冬美ちゃんの教員免許って小学校だっけ、中学校だっけ……何にせよ「庭の物置ほんと邪魔!」とか愚痴られた時に「でもほら物置流行ってるじゃない、犬小屋ってプレートつけて住めば?」とか返してしまったらどうしよう。冬美ちゃんは何も悪くないのに、炎司さんの気まぐれとむぎのその場しのぎで変人扱いされたり、増して教育委員会とかを巻き込む騒ぎに発展したら……むぎは……むぎは……! 胃痛に苦しむむぎの脳裏に、様々な暴言が浮かんでは消えていく。叔父は常日頃からむぎの言動に目くじら立てて「お前の人生には倫理がない」「DNAに倫理が刻まれていない」と言うけれど、姪を住まわす場所に「犬小屋」のプレートをつけるのは“倫理的な行動”なのだろうか。むぎには分からなかった。そして、今日のところは従姉も分からないままで良い。

 むぎは従姉へ惜しみない愛想を振りまいて、一時的にその倫理観を狂わせることにした。
 叔父が姪が住む場所に「犬小屋」のプレートをつけるのはよくあること 物置に住むのってメルヘンで可愛い きゃっきゃと喜ぶむぎに惑わされた従姉は「じゃあ、荷物の整理が一段落したら居間に来てね」と告げて去っていった。冬美ちゃん、JKの間で物置が流行ってるというのは嘘です。居候初日に嘘をついてごめんね。大学を卒業するまでには、何とか真実を伝えよう。

『犬小屋is何故?』
 むぎは従姉が背を向けると同時に叔父へ抗議のSMSを送った。

『おまえは昔、何度も家を燃やしただろう』
 叔父の返事は簡潔かつ早急だった。いつもそう。かわいいかわいい姪をイビる時はいつも早い。
『その小屋は防火素材で出来ていて、万一室内で発火しても燃え広がらない』
『お前の連絡が遅いから用意するのが大変だった』
 反射で返事を打っているから、何通にも渡る補足メッセージが届く。

 確かにむぎが未だキッズだった頃、自らの“個性”を制御出来ずに発火したのは事実である。
 案の定むぎの両親が不在の折に発生したというか、不在だったからこそ発生したというか……むぎの記憶が確かなら生ゴミを漁るために作り付けのダストボックスを覗いたら、中に落ちて出られなくなったのだと思う。むぎの家で出たゴミは全部このダストボックスに放り込むことになっていて、溜まったゴミは週に一度業者が回収する手はずになっていた。それ故に業者が回収するための扉はあれど、内側から開けることは出来ない。ダストボックスの深さは凡そ二メートル。よっぽどゴミが溜まっていれば出ることも出来ただろうが、不運にもゴミ回収されたばかりだったのだろう。五歳のむぎは空っぽのダストボックスの底でパニックを起こし、無闇矢鱈に“個性”を使い出した。子どもの浅知恵で、パンを踏み台に出ようとしたに違いない。しかし、二メートルのダストボックス一杯にパンを出すより先に“脂質”が尽きた。あとは、空っぽの鍋を火にかけるのと同じ。
 真っ暗で生臭い箱のなかで、途方もない熱に包まれたのを覚えている。そこから、次に目が覚めた時には全て終わっていた。叔父が奔走したからだ。叔父はいつも姉の尻拭いをしていて偉い。
 初動と火消し(意味深)が早かったのもあって大した被害はなかったが、一歩間違えれば何人もの人間が死ぬ大火事に発展した可能性もある。事態を重く見た叔父の勧めで、当時五歳のむぎは退院するなり療育センターに通わされることになった。自分の子どもに限っては家庭内で収めたがるくせ、叔父は子育て支援制度に詳しい。未だに既婚職員から相談されるレベルで詳しい。すごい。

 まあ知識欲の強い叔父が現政権の施策や制度に詳しいのは必然だろう。
 むぎにしろ、雄英に受かる程度の知識はある。超人社会を迎えるまでの日本は少子高齢化が進んでいたこと、若年層の投票率が低かったことが関係して、高齢者を重視した政策を打ち出すのが当たり前だったらしい。クラスメイトが「じゃあデストロがいようといなかろうと、じき滅びたじゃん」と笑っていたのを覚えている。むぎも、授業の内容を他人事みたいに聞き流していた。
 叔父ほどではないが、むぎも社会科は得意なほうだ。教科書の内容は四月のうちに皆暗記してしまう。正直言って、むぎが勉強するのは叔父に失望されないためだ。中学時代は特に「日本が滅ぼうと異能が解放されようと、ヒーロー科に受かりさえすれば如何でも良い」と思っていた。
 そんな風に覚えた知識でも、何気なく蘇ることがある。例えば、2002年から百年以上も過ぎたのに未だ“サヘラントロプス・チャデンシス”より古い人類化石が発見されていないこととか。

 2030年までに“技術的特異点”が発生する。
 産業革命による技術力の発展は目覚ましく、“近代化”の黄金期を生きたヴァーナー・ヴィンジはそう予見したが、結局人々が畏れると同時に待ち望んだシンギュラリティは起こらなかった。
 ……もしくは彼の予見が形を変えて成就したのか、時期を前後して“発光する赤子”が産まれる。
 異能と個性の狭間で近代技術の発展には歯止めがかかり、むぎは百年前のアニメ映画を観て、百年前に開発された携帯端末を日常的に使う。Iアイランドの研究者のように自らの“個性”に依存しない知的労働に従事する者も少なくはないが、殆どの人間は己が“個性”を言い訳に思考を止めた。

 かつて支持率のために高齢者を重視した政府は、初め事態を軽視した。
 無個性の人間だけで構築された社会。如何してマイノリティがマジョリティになるなどと予言出来ただろう。マイノリティはマイノリティのままと考えた政府は“個性”の使用を重罪化し、階層化社会を形成することで国家の維持を図る。これは決して悪手ではない。いつの時代も“正論”は賛同者の数で左右されるものだ。マイノリティに対する弾圧は何とでも言い換えることが出来る。“発光する赤子”を他人ごとと信じた議員は「彼らの自由と安全のために」と言う傍ら、マスコミを扇動して“個性”持ちの人間に“犯罪者予備軍”のレッテルを貼った。一般社会から締め出された彼らが貧困層に落ちたところでいくつかの自由と引き換えにその生活を保障する。一時は異形型の“個性”を持って産まれた人間は外国への渡航権さえなかったらしい。そうやって管理を徹底していれば、やがて元の平和な世界に戻ると信じたのだろう。しかし、そうはならなかった。
 “個性”を持って生まれた子らの親は、元々少子高齢化社会で不遇を託ち続けた若年層だ。
 家庭を持つことが既に困難な時代に得た我が子が、たまたま“個性”を持って生まれたがために人権を侵される。その“個性”が異形型だった場合、迫害を受けるのは当事者に限った話ではない。
 新興宗教に縋る者も増えたし、異能を持って産まれた我が子を疎んで捨てる者も後を絶たない時代に至ると、終に社会構造が乱れ始めた。具体的に如何乱れたかは義務教育では教えられないが、それはまあ要するに“そういうこと”なのだろう。子どもは「人間の非情がどこへ至るか」知らない方が良い。感性豊かな幼少期にそんなことを知ってしまうと、ひとを信じるのが難しくなる。
 あらゆる不自由が幅を利かせる時代、異能解放軍が人々の支持を受けたのはごく自然なことだ。
 前世の業やインチキ医療に悩まされるより、異能を受け入れて生きるほうが楽だったに違いない。解放戦士を率いたデストロは今でこそ“ヴィラン”の奔りとして著名で、今も殆どの政治家は「第二第三のデストロを産まないために……」と、彼の名前を“ヴィランの代名詞”として使う。
 疾うに滅びた近代社会、シンギュラリティの予見を維持するために政府は異能を受け入れた。
 頭をすげ替えると、大人たちはあらゆる公的文書から異能の文字を消し去り“個性”を連呼する。
 異形個性を差別してはいけません。政府は子育て支援に尽力します。“革命”という暴力に晒された政府は手のひら返しで綺麗事を実行し始めた。そのあり方から、かつての弾圧は何の意味もない惰性の産物だったと知れる。その何千何万の被害者を産んだ“惰性”は今、ゆるやかに忘れ去られようとしている。何もかも昔の話、この国はプロヒーローの進出により滅亡を免れた。……本当に?
 ほんとうに、このせかいは“めでたしめでたし”の先にあるの?

『焦凍の部屋を建てたのと同じ建築会社でわざわざ作らせたんだから丁寧に使え』

 ピロン♪という間の抜けた音と相反する非人道的な追撃である。
 むぎは“しょっぱい顔”で、この一週間について思い馳せた。幼少期も玄関前で発火したりゴミ箱のなかで発火したり湯船のお湯を啜ったり生ゴミを漁ったり大変だったけど、まさかこの年になって幼少期以上に打ちのめされることがあるとは思わなかった。ヒーロー科をクビになり、生家を失い、両親がフランスへ高飛びし、自分をめちゃくちゃに嫌っている従弟の隣で寝起きする羽目になった今、現代社会の歪みに心を痛めている場合ではない。現代社会の前にむぎの心が歪む。
 半年間週二で“個性”の制御訓練を受けた結果焼きたてホカホカのパンが出せるようになったのは完全に愉快だが、同居するに当たって過去を引き合いに出されるのは全く愉快なことではない。
 防火素材は鎮火の役には立たない。火元が室内の場合、デッカイオーブンになるだけである。
 大体、従弟が暮らす離れ(3LDKの二階建て)ならまだしも、この八畳前後の物置がオーブンと化す即ち「窓枠や入り口が変形して脱出出来なくなり焼死」一択なのでゎ……?

『それが嫌なら体調を崩すな』

 自らの“個性”同様火の玉ストレートな返答を得て、むぎは無になった。口から火を噴くな。
 居候生活初日、まさか敬愛する叔父から「“個性”を制御出来ないクズは一人で死ね!(意訳)」と言われるとは思わなかった。いや、何となくは予想していた。わざわざ告げ口する気は毛頭ないものの、穏和な常識人で知られる従姉がこのトーク履歴を見たら発狂の末に出家するであろう。
 叔父の“個性”を殆ど受け継がなかった従姉は、叔父の懊悩から隔離されたままに長じた。

 むぎは離れを見上げて、そこに幼い日の自分たちを探そうとした。
 二階の窓から庭を見下ろす姿を……もしくは従弟の部屋で、義叔母の寝室で遊ぶ子供の声が聞こえないかと耳を澄ましたけれど、何も聞こえなかった。むぎの視線の先にあるのは、少し見栄えが良いだけの有り触れた和風家屋だった。かつて従姉たちが立ち入ることを禁じられていた“そこ”は、自分の個性因子を最も強く受け継いだ末息子から他の子らを守るための檻だった。今どんな風に使っているのかは分からないけれど、きっと未だ“檻”としての役割は残っているのだろう。
 むぎよりずっと純粋に炎を操る従弟の“個性”が暴走したら、大惨事になるのは想像に容易い。
 氷の“個性”を持つ義叔母なら早い段階で暴走を食い止めることが出来る。しかし義叔母と全く逆の個性を有する叔父の遺伝子が混ざったことで、従姉たちの“個性”は随分弱体化されてしまった。喩え従姉たちが義叔母と同じ氷の“個性”を有していても、いざという時には従弟の炎に押し負ける。それなら一緒にしないほうが被害が少なくて良い。若い日の叔父はそう考えたのだろう。
 一方で、従弟と同じ個性因子を有するむぎは“檻”への出入りを許可された。
 むぎは単純な炎耐性こそ従弟に劣るものの、熱傷への治癒速度に限って言えばかなり優れている。全身がぐずぐずに焼けただれても、一命を取り留めれば元に戻る。どうも父方の個性因子が細胞の修復に一役買うらしい。おかげで三回ぐらい自作のオーブンで全身をチンされてしまった。

 むぎの“個性”は今でこそ手から焼きたてのパンが出るだけの「ゴミ個性(叔父談)」である。
 出したパンは保健所の都合で大々的に食べて貰うことは出来ないし、脱法パンと呼ばれる始末だが、本来は創造型のなかでも稀な“細胞の活性化”をマスターしている。ゴミだけどすごいんだぞ。
 八百万一族の多くが有する個性因子は創造に纏わるもので、人によって出来る出来ないに差があれど原則的に「自らの脂質を多種多様の分子に変換して無機物を創造する」ものだ。例えばむぎの父親は「燃費が悪いから大きいものは作れないし、作れるものも結構限られちゃうね〜」だし、はとこは「勉強は必要ですけど、無機物なら何でも作れますわ。種類や大きさは、その時々でどの程度脂質を溜めるこんでいるかにもよります」である。八百万一族は昔から名だたるプロヒーローや研究者を排出する名家だが、同じ“個性”でもピンキリあるということだろう。創造したものに漏れなく火が通るむぎと違って、何でも創造することが出来るはとこはピン中のピンだ。つよい。
 そうは言っても、先述のとおりどんなゴミ個性にも一つは取り柄がある。むぎの“個性”は確かにパンしか出せないゴミ個性だけれど、その一方で「現存する八百万一族のなかで唯一自らの脂質を有機化合物に変えられる人間」でもある。極端な話、生体を生み出すことも可能なのだ。しかし勿論それは机上の空論に過ぎない。何故ならむぎが創造するものは漏れなく火が通るからだ。
 療育センターで担当についた訓練士が「すごい! お父さん、これはパンを作ってる場合じゃないですよ……!」と意気込んだものの、結局「炎因子があるから有機物への変換が可能になっているのかもしれないし、しかし炎因子があるから生命反応が出ても焼け死ぬし……?」という水掛け論になって消え去った。訓練士の意気消沈度が増すに従い、むぎの父親は「むぎちゃんはパンを作ってる時が一番可愛いんだから、ずっとパンを作ってていいんだよお……?」とフォローしてくれた。幼心に「あらまあ……むぎってば、かわいいことしか“かち”がないのねえ……?」とシンミリしたものだ。せめて成人するまでに法律が変わって人肉由来パンの販売が認められる社会になりますようにと望んだものの、今のところ許可される見込みはない。分子的にはパンなのに。
 たまに父方親族の会合に出ると「外野は五月蠅いやね、ワシは自分の作った物は完全にワシとは無縁だと思っとるから」「作ったものに一々自己投影なんかしてらんないわよ」「自分の抜け毛や爪と創造したものは全然別」と同意してくれるものの、級友はやはり「倫理的に迷う」「逆に若いうちなら売れそう」「メルカリで顔写真つけて売ったら儲かりそう」と懐疑的な意見を寄せる。
 実際過去には「むぎちゃんのパンはむぎちゃんの味がしてエッチで美味しいよ!」と天真爛漫な感想をくれるおっさんもいたが、分子構造上はただのパンなのにどこからむぎの味がするのだろう。そうストレートに聞いたら「パンが焼ける香ばしい臭いがするってこと!」とウインクされた。パンは皆パンが焼ける香ばしい臭いがするので、あのおっさんはパンとむぎの区別がついていなかった可能性がある。流石に四六時中パンが焼ける香ばしい臭いをまき散らしてるのはイヤだったので、暫くフレグランスを試すのにハマった。まあパンと香水を混ぜた変な臭いがするとすこぶる不評だったし、混同おじさんにしろ「こんなパン屋でパートしてるおばちゃんが色気付いたみたいな臭いがするむぎちゃんなんかむぎちゃんじゃないよ!」とブチキレた後に泣きながら去っていったので、むぎの香水ブームは短かった。勝手に他人のアイデンティティを体臭に委ねるな。


 むぎの“個性”は、はとこと違ってキリ中のキリ。笑いしか取れないゴミ個性だ。
 雄英の入学試験でもリカバリーガールが来ると知ってセコい真似をした。はとこや従姉たちのように両親の個性をどちらか一つだけ、もしくは二つ受け継ぐにしろ従弟みたいに左右で使い分けることが出来れば……と幾度夢想しただろう。自らの“個性”を疎んだことはないけれど、それと同時に「この個性で良かった」と思うことも殆どない。空腹時に口にすることもあるが、正直「せめて唐揚げとかおにぎりとか、アイスクリームとかも出せたらな……」と思う。頑張れば唐揚げパン、焼おにぎりは創造出来るものの、アイスクリームは不可能だ。どろっどろになっちゃう。
 ヒーロー向けではない。汎用性が低い。そもそも、ひとの役に立たない。そんなゴミ個性を顧みて唯一「この個性で良かった」と思うのは、あの幼い日に孤独な従弟と過ごせたことだけだ。
 むぎの存在が結果的に従弟を追いつめ、苦しめたのだとしても、当時の従弟には遊び相手が必要だった。……そうでなかったとしても、むぎはそう思うことで自分を慰める癖がついていた。
 例えそれが自業自得でも、自分の苦しみはまるきり無意味なものではない。そう思いたかった。


 昔、むぎにとってこの屋敷は“楽園”だった。
 美しく優しい義叔母、それぞれに活発で聡明な従兄たち、自らの才能や幸運を理解していない従弟、それに……家庭を守るにはあまりに不器用すぎた叔父。幼心にもまるきり“幸せそう”に見えたわけではないけれど、家族皆の気持ちが“家庭”に向いている様がむぎには羨ましかった。
 むぎが物心ついた時、むぎの“家族”は父親だけだった。ごく稀に訪れる“ママという名前の美しいひと”が自分の母親だと理解するまで、本当に長い時がかかった。正直言って、あの奔放な女性が義叔母と同じ立場にある人間とは思えなかったし、今もまだ「本当にむぎはママのおなかから産まれたのかしら?」と不思議に思う夜がある。十月十日にも渡る長い間、本当にむぎと一緒に過ごしてくれたのだろうか。増してむぎを産むために、痛みや不自由に耐えることが出来たとは思えない。むぎの母親は美しく奔放なひとだ。臍の緒でさえ、彼女を縛ることは出来ない気がした。
 母親は、むぎの顔を見るたび「あの人が一人で作ったみたい」と忌々しげに呟く。そんなことないよお、むぎちゃんは火也子さんにソックリの美少女だもん 美少女とかブスとか以前に、あんたのその馬鹿みたいな喋り方が遺伝してんのをまずどうにかしなきゃでしょ? いい加減、ちゃんと喋りなさい。ええ、パパはむぎちゃんの名前大好きだから今のままが良いなあ……
 夢見がちな父親がむぎに笑いかける。むぎちゃんは本当に火也子さんにそっくりだね。

 むぎの母親は世界で一番綺麗なひとだ。
 豊かな赤い髪は母親の動きに合わせて煌々と波打ち、鋭い眼光を絶やさぬ瞳は湖面のように青く冷たい。彫像のように完璧な美貌は、間の抜けた印象を与えるむぎの顔とは似ても似つかない。
 似ていないのは顔だけじゃない。倫理はないのは同じだけれど、母親はむぎよりずっと弁が立つし、単純な戦闘能力だってそうだ。むぎは剣道でも居合道でも、叔父仕込みの逮捕術でさえ母親には通じなかった。はじめから、頑張って頑張ってようやっと結果を出すむぎとは違うのである。

 むぎちゃんは本当に火也子さんにそっくりだね。世界で二番目にかわいいよ。
 自分の背後に母親の影を探して、愛おしげに目を眇める。そんな父親を見上げて、むぎは思った。むぎがママににてないのにパパがきづいたら、むぎは二ばんでなくなってしまうのう?

 父親の口から出る言葉が全部ウソだってことは、子どもの頃から知っていた。
 むぎの部屋の窓からは、門前の様子がよく見える。色々な車から、色々な男の人が降りてくるけれど、母親はいつも同じ。男たちが恭しい仕草で開けた扉から降りて、頭を垂れたままの彼らにキスをする。察しのよい母親は時としてむぎの視線に気づいたものの、それでも家庭人として取り繕おうとはしなかった。“恋人同士”のキスが終わると、母親は深いため息を漏らしてから玄関ホールへ入ってくる。まあ、ため息が漏れるのは帰宅するなり「うわあああああ火也子さん!!!!火也子さんだ!!!!!!!!キスして!!!!!!あったか痛い!!!!!!」と大騒ぎする父親のせいもあったかもしれない。父親の愛はマリアナ海溝よりも深く、その源は不可解だった。
 むぎが産まれた時、父親は大学生。むぎの一番古い記憶は、床に大の字になった父親が「ああん、就職しだくな゛いよお!!!!でもむぎちゃんにお小遣いはあげたいよ゛う!!!!!!専業主夫になりだい゛!!!!」と大騒ぎし、キレた母親にボコボコにされている時のものだ。こないだ父親にその話をしたら「ああ、あの後炎司さんが『マトモに就職したら頭を撫でてやるからしろ』って言うから真面目に就活したんだよ〜!」と言ってはしゃいでいた。ああん、むぎも撫でられたいと思ったものの「頑張ってエンデヴァー事務所に出資してるとこに内定貰ったのに、結局頭叩いて『加減が出来なかったが撫でた』って言うんだもんナ」という台詞で締められたため「それゎ良い」という結論に至った。実父ながらストーカー根性がヤバくて怖い。

 母親は次々に男をとっかえひっかえして遊び、滅多に家へ帰ってこない。
 夫の前でも平気で不貞を働いて、父親が少しでも不服そうにすると「じゃあ出て行けば?」と怒りを露わに攻撃する。最初からあなたのことなんか要らなかったのよ。八百万の遺伝子が欲しかっただけなのに、勘違いして鬱陶しい。お金が欲しいんなら幾らでも。でも、むぎは渡さない。
 母親がむぎの親権に拘る理由はただ一つ、生真面目な叔父が横暴な姉と縁を切らないでいるのは“未成年の姪”あってのことだからだ。両親の間に挟まれたむぎは、腕に抱いたぬいぐるみを撫でるほかなかった。むぎは猫ちゃんのパパが猫ちゃんといっしょにくらしたがったら、ちゃんとバイバイするからね。猫ちゃんのパパと違って、むぎの父親は娘と一緒に暮らしたがらなかった。
 母親の口撃に晒された父親は一際愛想の良い笑みを浮かべて、全てをやり過ごす。時には頭を下げ、泣きついて、自分の持ちうる全てと引き換えに結婚生活の維持を懇願するのが常だった。
 嵐が過ぎ去ってみると──要するに、母親が男遊びに出かけてしまうと──父親はニコニコしたまま一時間でも二時間でも床に座り込んだまま動かなかった。むぎも猫ちゃんを抱いたまま、ソファに座っていた。ほんの少しでも“間違えてはいけない”と、幼心に分かっていたのだろう。

 ママはね、世界で一番不器用で、情に脆くて、弱いひとなんだよ。
 パパはそんなママを丸ごと愛していて、ママと一緒に年を重ねられることが幸せなんだ。

 そう微笑む父親の心も壊れているのが分かっていたから、むぎはこっくり頷いた。
 “正しい相づち”を得た父親はややあってから立ち上がり、むぎのために夕飯を作ってくれる。すっかり“いつもどおり”になった父親と一緒にオムライスを食べながら、何度も作り方を聞いた。
 作り方さえ知っていれば、ひとりの時もゴミを漁ったりしなくていい。いつか父親が「むぎちゃんは全然火也子さんに似てないなあ」と気づいたあとも、オムライスを食べることが出来る。壊れかけの父親を前にそんなことを考えたむぎは、やはり従弟よりずっと非情な性質なのだろう。
 ……もしくは、ひとが壊れることに慣れきってしまったのかもしれない。
 むぎの人生はいつも「些細な一言で壊れてしまうひと」で構成されていて、自分の言動が客観的に如何判断されるかとは全く無関係なところで常に“上手くやること”を強いられる。大人たちは最後の最後、もう他にどうしようもない瀬戸際でむぎに縋る。たいしたことじゃあない。ぜんぜんへいき。ほんとにわらえる。大丈夫。だいじょうぶ。だいじょうぶ──このままで幸せなんだよ。
 自分が崩れ落ちる瞬間まで「自分たちは大丈夫だ」と信じたがる人には、父親のように何とか永らえるひともいれば、義叔母のように最悪のタイミングで崩落するひともいる。

 だだっ広い家のなかで、むぎは物心ついた頃から“子ども”であることを許されなかった。
 父親も、母親も……そして叔父でさえ、むぎに「出来ない」と口にする機会を与えなかった。
 幼い日について思い返すと、むぎの五感は萎れていく。大人たちはむぎに様々な演技を求める。空気を読むことを強いる。都合の良い言葉を欲する。むぎは幼心に分かっていた。自分が大人たちの求めに応じることが出来なければ、その瞬間何もかもが壊れてしまう。壊れた先には何もない。そう思うと、むぎは何でも出来た。大人たちが何を考えているかも全部分かった。
 父親も、母親も、叔父も、みんなむぎのことを見ていない。父親は母親を、母親は叔父を、叔父は従弟たちを……むぎがどれだけ頑張っても、その頑張りはむぎに返ってくるものではなくて、でもむぎが頑張らなければ全部壊れてしまう。それでも“何もない”よりマシだから、良い子でいようと思った。なるたけ可愛い見かけを維持しようと思ったし、大人たちから好かれる話し方や仕草、甘え方を意識した。意識しすぎた結果十五歳の今に至るまで「むぎゎ!」などと愚かな喋り方をしているのは恥of恥だが、最早どうしようもない。この喋り方がどれだけ愚かで、真っ当な喋り方に改めたほうが良いと分かっていても、自分を変えるのは難しいことだ。

 口調を変えたら、誰か一人ぐらいは「今更になって何故口調を変えたのか」と考えるだろう。
 その時に、他人を意識して変えたのだと知れるのが恥ずかしい。他人に必要とされようと、常に演技して生きてきたことを悟られたくない。折角の演技も大した役をせず、結局トンチンカンな印象を産むだけだったと見抜かれたくない。それが怖くて、ずっと愚かな口調を維持している。
 自分の“努力”がただの徒労で、“苦しみ”さえ自業自得だったと痛感するのが怖かった。


 二度と開かない扉の前に、七歳の自分が座り込んでいる。
 カーテンの向こうで叔父が口にした言葉は正しい。むぎは産まれてきてはいけない人間だった。何かの間違いでうっかり産まれた子どもだったから、むぎのために用意されたものは何一つなくて、どれだけ探しても、頑張っても、むぎを一番に愛してくれるひとはこの世に存在しない。
 本当は「これ以上何をしてもムダだから、もう頑張らなくても良いんだ」と教えて欲しかった。
 答えもなしに頑張りつづけるのは、それが本当に“頑張っている”のかも分からないまま足掻くのは苦しい。頑張っている人だらけの世界で、自分だけ頑張らなくて良い“免罪符”が欲しかった。
 めちゃくちゃに頑張ってるホークスと話してから一日も経っていないのに、さっきだってものすごい頑張り屋な従姉と話したのに、もうギブアップしたがっている。全部を他人のせいにしたい。

「“ちうにびょう”なのねえ……」
 むぎは存外居心地の良さそうな塒に視線を戻すと、ぽつんと呟いた。

 むぎは恵まれている人間だ。
 産まれてこの方金銭的に困ったことはないし、住む場所を失っても「うちに来い」と言ってくれる叔父がいて、話を聞いてくれる年上の友人も、親身になって心配してくれる従姉もいる。
 犬小屋というプレートがついていたのは流石に驚いたものの、叔父なりのユーモアで、ガチで犬扱いされているわけではないのは理解できる。犬小屋にこんな良いエアコンは付けないし、鍵も高価なものがついている。フローリングが敷かれているのは、むぎの生家が洋館だったからだろう。
 そもそも母親がいないのも、父親が母親優先なのも、昔から変わらない。生家だって、電気代とか固定資産税とかヤバそうだからさっさと売っちゃえば良いのにと思ってたぐらいだ。
 悲しいことなんて何にもないのに、励ましてもらったのに、優しくしてもらったのに、何故元気が出ないのだろう。いっそ転科も辞めて、前通ってた女子校に転入しちゃおうかな。

『むぎは世界で二番目にかわいい、僕のお姫様だよ』
『お前は良い生徒だったよ。付き合ってて、楽だった。誰にとっても“そう”なんだろうな』
『むぎちゃんみたいに特殊で伸びしろのない“個性”持ちの生徒を切るのは教師としてとーぜん』
『お前にヒーローは無理だったんだ』

 もう頑張らなくてもいいんだって、むぎの選んだことは間違ってたんだって分かっているの。
 世界で二番目にかわいいお姫様じゃあなかったし、伸びしろもない“個性”でヒーローなんか目指して、その実炎司さんの役に立つこと以外考えてなくて、相澤先生にはその主体性のなさを見抜かれてしまったのね。意地悪じゃなくて、むぎのために除籍したんだって頭では分かってる。炎司さんがむぎに干渉しないのも、ホークスさんが突き放した物言いをしたのだって、むぎのためを思ってのことなんだって分かっているの。むぎが全然ママに似てないってパパが知ってるのだって、分かっていたの。でも、むぎは小さい頃から“こう”だから、むぎのためには生きられないのね。
 だから全部無くした果てに、しょうちゃんとの思い出に縋ったの。幼いあなたが“子ども”でいられるように、目を塞いであげる。この世界が終わるまで、ずっと嘘をついてあげる。あなたがどれだけ理不尽に冷たくしようと、わたしはずっとあなたを守るための嘘をつく。そうすることでわたしはこの世界に産まれて良かったのだと安心できるから、しょうちゃんを利用したの。
 その醜い保身が露わになってしまうんじゃないかと思うと、怖くて堪らない。

 白髪のうつくしいひと、彼女を慕う子どもたち。
 義叔母の気配がない屋敷のなか、幼い日に憧れたものはみんな壊れてしまったのだと痛感する。
 自分如きが守れると過信して、結局自分とは関係のないところで壊れてしまった。幼いあなたが“子ども”でいられるように、目を塞いであげる。この世界が終わるまで、ずっと嘘をついてあげる。そうすることで従弟を守れると思っていたけれど、結局無意味に苦しめただけだった。過去の自分の頑張りに何の意味もなかったこと、そしてこれからも叔父一家のためには何にも出来ないし、何かしたところでお門違いでしかない現実を思うと、不安で胸がいっぱいになる。
 自分のために生きるって、どういうこと? 何故みんな、そんな難しいことが出来るの。誰かのために働くことでしか安心できないのに、如何して自分のことを顧みるゆとりがあるの?
 今にして思えば、利口な従弟の“おねいさん”でいることも、大人の言うことに従うのも難しいことではなかった。全んぶが壊れたあとになって、そんなことを思う。パパが家にいて、ママがたまに帰ってくる。義叔母さんは入院なんかしなくて、燈矢くんが生きてて、しょうちゃんがむぎに笑いかけてくれる。それだけで十分幸せだったのに、欲張った結果みんな無くなってしまった。
 子どもの頃、悪戯に“ふつうのかてい”を夢見た。ママが義叔母さんみたいにずっと家にいて、パパとむぎを愛してくれる。炎司さんがしょうちゃんを信頼して、従兄たちに目を向けるようになる。そうなったら良いなあと思って、そのために出来ることをしようと思って、でもしょうちゃんと喧嘩をしてからは自分のことしか考えずに過ごしてしまったの。もう頑張らなかったの。
 頑張っていれば何かが変わったのかしらって、如何しても思ってしまう。

 しょうちゃん、本当はあなたに守られていたのはわたしだった。
 何もわかっていないあなたの前でだけ、わたしは誰の役に立たなくても良かったの。

となりのトドロ(キ)



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