パンはパンでも
たべられないパン
なーんだ

 雨だれに目を覚ますと、そこは事務所でも自宅でもないどこかだった。
 炎司は酔眼を擦って、音源を探した。たっぷりとしたカーテンの向こうから、湿った空気が漏れている。炎司は重たい腰をあげてベッドから降り、カーテンの下に手を潜らせた。ほんの僅かな隙間から、手触りの良い冷気が棚引いている。埃と土の匂いを感じながら、キッチリ窓を閉める。
 冷えた手のひらに惰性で火を灯したものの、すぐに引っ込めた。ここは自宅でも、事務所でもない公共の場だ。“個性”を使うのを止め、地道に指を擦り合わせて暖を取る。
 勿論、プロヒーローは公共の場での“個性”使用を許可されているし、炎司にしろ自らの“個性”についてはよくよく承知している。ほんの少し手の内に転がしてみたところで、火の粉の一粒さえ取りこぼしはしないだろう。しかし幾ら炎司がだからと言って、防火設備のお粗末な古いビルの一室で“個性”を使うのは命知らずというものだ。仕事柄多種多様な保険を掛けている炎司だが、プライベートでビル一棟燃やすのを想定したプランは組んでいない。そういうわけで、ここへ足を踏み入れてからというもの、普段は顎ヒゲ代わりに棚引かせている炎も仕舞っている。

 ここは──炎司は乱れた髪を乱暴にかきむしって、あたりを見渡した。
 ごく有り触れたビジネスホテルの一室だ。それも、今どき珍しい個人経営の安宿。
 二十平米ほどの客室内には、先ほどまで自分たちが眠っていたベッドが一台、その向かい合わせに二人掛けのソファとテーブルが置かれている。贅沢趣味の姪にしては珍しい質素な客室だったが、そもそも未成年の身では身元確認が確りしたホテルを利用することは出来なかったのだろう。
 炎司は俄かに頭痛を覚えて、ソファに座り込んだ。テーブルの上に宅配ピザの空やチューハイの空き缶なんかが転がっているのを見ると暗澹とした気持ちになる。やらかしてしまった。
 勿論──アルコールは美容に悪いという姪の証言を信じるなら──飲酒したのは炎司だけである。だから良いのかと言えば、そういう話ではない気がする。未だ十五歳の姪がこの酒宴を段取って、叔父を酔い潰そうと画策することがもう不道徳で精神衛生に悪い。この姪は本当に両親そっくりの不道徳な人間で、自分の容姿を逆手に取って他人を操縦する術に長けている。記憶が飛ぶ前に「未成年の癖にどうやってホテルなんか取ったんだ」と詰問したら、何ら悪びれる様子もなく「お化粧したら年齢確認なんかされないもん」とほざいてピザを食べ始めた。完全に大人を舐め腐った姪を見ていると、遺伝子の強さを感じずにはいられない。そうは言っても幼い頃の姉は自分にも他人にも厳しく、最低限の礼は兼ね揃えていたのに、姪と来たら自分にも他人にもクソ甘い。

 炎司は所詮叔父に過ぎないものの、血縁があるので幾らか姪の行いに責任がある。
 どれだけ炎司が「この姪と他人になりたい」と願おうと、その願いが考慮されることはない。姪がやらかした時にはいつも炎司が責任を取らされる。何故と言えば、姉夫妻に常識がないからだ。昔から割りを食うのは真人間と決まっていて、そもそも姪の人格矯正だって姉が放棄した結果
 姪の性格的に美人局の片棒を稼ぐとか、結婚詐欺をするとか、悪意なく他人を陥れるような人間に育ちかねない。我が子なら未だしも、姪のために賠償金を払ったり裁判所へ赴くのは絶対に嫌だ。そもそも仮にもプロヒーローの自分が、身内から犯罪者を出すわけにはいかない。なお炎司がそう決意する時、炎司は産まれつき一人っ子であるものとする。幸いにして“炎司と血縁がある他人”は未だやらかしてはないものの、常に黒よりのグレーなので身内として数えたくない。
 何にせよ、既に一人核弾頭を抱えている以上は姪の核弾頭化は防ぎたいものだ。
 そういう思いもあって、炎司は姪の人格矯正に奔走した。金で炎司の体を買いたがるのを叱り飛ばすのは勿論、炎司の抜け毛を集めるのを止めさせたこともある。義兄がバカスカ渡す小遣いを徴収し、姪の預金口座に入金した。この十五年間というもの炎司は姪の動向に目を光らせ、些細なことでも口煩く指摘するよう努めてきた。単に姪の言動がバカすぎて気に障ったというのもあるが、それでも世のため姪のためを思ってのことだった。しかし炎司の努力は結実しなかった。
 ちょっと目を離すとすぐ青少年保護育成条例に抵触する姪は、案の定やらかしていた。年齢詐称に酒類の購入、無断外泊。未成年が保護者の許可なくホテルに泊まったり、酒類を購入するのは悪いこと。そう叱っても叱っても「でも、炎司さんお腹空いてると思ったんだもん♪」と言うばかりで、罪の意識が芽生えない。大体なんだチューハイとピザと葛餅って、どういう食べ合わせなんだ。炎司が酒に弱いのを差し引いても、ピザは単にお前が食べたかっただけだろうが。
 もちゃもちゃピザを食べる姪を滾々と叱るうち、炎司の喉が嗄れた。いつものことだ。姪が産まれてからというもの炎司は彼女を叱り続けたが、いつだって先にギブアップするのは炎司だった。
 小さい頃から体の頑強さが自慢だったのに、姪のせいですっかり喉が弱くなってしまった。
 苛立ちつつも説教を継続するために鞄のなかをまさぐっていると、姪がスッとチューハイを差し出してきた。これは度数が低いからとか、少し喉を湿らせたら休まるんじゃないとか何とか囁いて、トドメに唯一のノンアルコール飲料をラッパ飲みし始める。飲み口を拭いてやろうかと思ったけれど、姪の唾液が混じっているかもしれないウーロン茶を摂取することを体が拒んだ。
 良い年した大人が十五の小娘に転がされて如何すると思う一方、姪相手なら仕方がないという気持ちもある。何しろ姪は他人を堕落させるのが人並み外れて上手い。肺に阿片でも詰まっているのか、昔から近所の大人や教師を自分の良いように使う様を幾度となく見てきた。事務所の連中にしろ、炎司が親切心で「あれの話に耳を貸すな。必要以上に話しこむな。頼み事は無視しろ」と言っているにも拘わらず「でもむぎちゃんが私じゃないとダメみたいなので!!」とスルーする。
 むぎちゃんと来たら、私に教えてもらうのが一番分かりやすいと言って聞かないのです! 嘘だぞ、あいつがそんな殊勝な態度を取るはずがない。そう思ったが、炎司は何も言わずにバーニンを見送った。きっとこれまでの姪の悪行を話せばちゃんと分かってくれるに違いないが、炎司の部下は騒がしい連中ばっかりなので腰を据えて討論しようという気にならない。どうせ事務所内なら何が起ころうと姪を出禁にすれば丸く収まるし、痛い目を見るまで泳がすのも一興だろう。
 斯様に悪魔的な姪から次々酒を勧められるうち、自然と記憶が飛んだ。それで今に至る。

 炎司は深いため息を漏らして、視線を上げた。
 安っぽい混紡素材を纏ったベッドは見るも無残な姿になっている。枕は床に落ち、シーツは捲れ、掛け布団は片側に寄っていた。そのグチャグチャなベッドのなかに、姪が眠っている。掛け布団を体に巻き付ける様は巨大な巻貝にも似ていた。炎司の懊悩も知らずに良い気なものだ。
 果たして、姪と同衾するのはいつぶりであろう──自答するまでに、些か時間が掛かった。

 確か、妻が心を病んで入院する前はまだ一緒に入っていたはずだ。
 イエス・キリストでもあるまいし、ありとあらゆる出来事を入院前後の何れかにカテゴライズするのは愚かである。炎司は常日頃から妻の入院を基準に過去の出来事を記憶する自分を疎ましく思っていたが、今はそんなことは如何でも良かった。姪と同衾すること以上の愚行は滅多にないため、炎司は訥々とA.Y.(AnnoYakedo)とB.N.(BeforeNyu-in)について思い馳せていた。
 炎司にとって、幼い姪と同じベッドで眠ったとは極めて如何でも良いことで、このような愚行さえなければそんなことがあったことなど永遠に思い出さなかったであろう。彼の記憶は妻の入院と、息子の火傷跡を中心に刻まれていた。要はそれ以外のことは殆ど如何でも良いのである。
 自己を振り返りはじめてから五分、炎司はようやっと“ラスト・添い寝”に纏わる記憶を探り当てた。末息子から一方的に絶縁され、グズっていた姪を宥めるために一緒に眠ったのであった。
 正直言って一緒に眠ったことより何より、厄介事が増えた厭わしさが印象深く思い起こされる。
 姪は当時七歳。いや早生まれなので六歳だったかもしれない。ババアが「あと数日遅かったら焦凍くんと同学年だったのにね」と言ってたのに心底「同学年にならなくてよかった」と思ったので、早生まれなのは覚えている。まあ姪の年齢は如何でも良い。どの道大切なのは、炎司という良識ある大人は第二次性徴後の姪と過度なスキンシップを取っていないと承知して貰うことだ。

 “コト”はA.Y.元年に起こった。確か、妻の入院から一年も経っていなかったはずだ。
 当時の末息子は目の怪我が元で幾らか情緒不安定になったため、殆ど姪の家に住み込んでいた。
 元々姪と末息子の癒着っぷりには内心忌々しく思っていたものの、火傷を負ってからというもの二人の関係は一際密になってしまった。……というか、炎司の言うことを一切聞かなくなった。
 姪の言うことは聞いても炎司の言うことは聞かないという状況が一月続いたため、その後の一月は姪と会わせなかった。いつまで経っても姪に甘えるのは姪がいるからだと思ったのである。
 いつまでも姪にべったりしてては見苦しいし、何より姉に何か吹き込まれでもしたら厄介なことになる。兎に角姪と隔離したら何とかなると思ったのだが、結局上手くいかなかった。姪断ち生活が一月半に及ぶと、爪を噛んだり皮膚をかきむしったりといったチック症状が見受けられるようになり、手に負えなくなってしまった。それで根負けして、万物を姪に委ねることにした。
 家事の采配や町内会の集まり、家政婦への依頼内容の見直しなど、それまで妻に任せていた家の切り盛りを自分がやる羽目になったのも“根負け”の理由として挙げられる。とりあえず長女が家事を覚えるまでの一年はドブに棄てるつもりで、末息子の好きにさせることにした。そもそも日中の世話を任せている長女が「暫くは焦凍の好きにさせてあげて」と言うのだから仕方ない。

 末息子ときたら、物心つく前から“むぎちゃんむぎちゃん”とよく飽きないものだ。
 炎司には姪の何がそんなに良いのか理解出来ない。姪は自分にも他人にも根っから甘い人間で、すぐに他人を駄目にする。妻が義姉を慕っているのでなければ、炎司は姪と末息子の交流を認めなかっただろう。炎司としては「性根の甘えた人間が傍に居ても百害あって一利なし」と思うのだけれど、末息子はそうは思わないらしい。赤ん坊の頃からずっと、姪がいれば上機嫌にしている。
 炎司と姪の一体何が違うのだろう。炎司がどれだけ言って聞かせても承知しないことを、姪はたった一言で承知させられる。末息子は姪に促されれば勉強もするし、炎司の稽古も受ける。姪が一緒ならどこへでも行く。火傷を負う前も、負った後も一事が万事そういった調子だった。
 姪については、確かに姉夫婦がアッパラパーな分、炎司が唯一のマトモな身内として責任を果たさなければならなかった面もある。今なお……というか、今一緒にいるのは叔父としての責任感が理由だ。しかし、過去にあった姪と末息子の癒着はそういうことではない。どれだけ炎司が姪を排除したくても、妻や子供たちがそれを許さなかった。末息子自身が姪を望んでいたからだ。

 優れた才能を持って産まれて来ても、こう依存心が強くてはまともなプロヒーローになれない。
 そう思っていたものの、長女に「子どものうちに母性を失ったせいもある」と諭されると納得した。どことなく広くなった寝室で、顎に手を当てて考え込む。娘の言うことは尤もだ。末息子は未だ五才、少しばかり幼稚でも仕方がない。それに母親に怪我を負わされたショックもある。下手に厳しくするより姪を使って甘やかし、精神の安定を図ってからまた考えれば良いだろう。
 どの道末息子が自分に従わなかろうと、姪を使えば間接的に従わせることが出来るのだから。
 そんな風に思っていたある日、何の前触れもなく末息子が帰ってきた。勿論、単に姪断ちして返ってきたなら万々歳である。ようやっと炎司の親心が分かったかと小躍りしたいぐらいだ。しかし末息子は依存心を断ち切ったわけでも、健全な精神を育んだわけでも、増して父の気持ちを解したわけでもなかった。単に姪と揉めたのである。唯一の拠り所を失った末息子は、引きこもりになった。それも襖を氷漬けにするものだから、炎司の火力を持ってしても牙城を崩すことが出来ない。犠牲を顧みなければ引きずり出すことも出来ただろうが、そうすると襖以外に火が付く。
 窓際の壁を破壊するかと思ったものの、長女から「そうすると、焦凍が窓まで氷漬けにしちゃうから……」とストップがかかった。唯一のライフラインである窓に近づくなと釘を刺され、炎司は苛立ち紛れに竹刀で素振りすることにした。五才の末息子相手に根競べをしたら、末息子が死んでしまう。さりとて姉や家政婦たちの問いかけにも答えない末息子が、炎司の話を聞くとは思えない。もういっそリフォームする気で全部燃やしてやろうか。いやご近所の手前でっかい火柱を上げるのは躊躇われる。それに、末息子が引きこもっている部屋には妻の嫁入り道具がある。あの白無垢を娘に継がせたいとか何とか聞いた覚えがあるし、燃やすわけにはいくまい。そうだ、妻の家に代々伝わる鏡台もあったな。ええい、よりにもよって、しち面倒な場所に引きこもりおって。
 困難に直面した時、炎司は必ず体を動かす。プロヒーローにとって体は何よりの資本だからという考えもあるが、適度な運動にはかなりのリフレッシュ効果が見込めるからだ。サイドキックたちにもそう助言しているのだが、皆「話しながらの素振りは止めてください」としか言わない。
 炎司は孤独だ。サイドキック諸兄はどこかよそよそしいし、妻はノイローゼだし、子供たちはサイドキックたちの数倍よそよそしい。そのような殺伐とした世界において、筋肉だけは炎司を裏切らない。フンフンと熱心に中空を切り裂くうち、炎司には自宅を燃やすよりずっとクレバーな方法を思いついた。事の元凶である姪を引きずってきて、末息子の前で何らかの刑にかけよう。
 そうと決まれば話は早い。炎司は意気揚々とクソババアの家へ向かった。

 クソババアの家へ向かうと、クソババアの家はもぬけの空だった。
 チャイムが壊れるまで鳴らしたのに、誰も出てこない。苛立ち紛れにポストを覗くと、合鍵と一緒に「今、シンガポールにいます。この国を南北に縦断する地下鉄に乗りたくなったので……」というふざけたメモが入っていた。確かに末息子がいる間にネグレクトしたら殺すと言ったのは炎司だが、甥が帰宅した途端「お役御免」とばかりに国外逃亡するぐらいなら二度と日本に帰ってくるな。姉ひとりが地下鉄に乗ってる時に局所的な地震が起こって生き埋めになればいいのに。
 それにしても、あの妖怪ネグレクトババアが姪を連れて行くとは珍しい。クソババアにもようやっと母性の欠片が芽生えたか。そのようなことを考えつつも、何か末息子の溜飲を下げるものはあるまいかと合鍵を使って中に入る。中に入ると、玄関マットの上で姪が丸くなっていた。
 あっ死んでる。そう思った途端、炎司の脳裏に走馬灯がよぎった。「No2ヒーロー 姪のネグレクトを静観……!」「小1女子死亡事件、プロヒーローの素顔を追う」「身内の不祥事をもみ消しに走るエンデヴァー」というゴシップ誌の見出し、ニュースのテロップが浮かんでは消えていく。さっさと裁判でもなんでもやって親権を奪っておくべきだったのだろうか。しかしそんなことをしては冷に姉の本性がバレる。どっちにしろ妻は精神を悪くしてしまったのだから、そんなこと気にせず体裁を考えるべきだったのかもしれない。だから俺は子どもなんか産むなと言ったのに。
 たった一秒の間にありとあらゆることを考えてしまったが、幸いにして姪は死んでいなかった。姪の肩がピクっと動いた途端、炎司は腰が抜けそうなほど安心した。生きてて良かった。

 流石に救急車を呼ぶほどではなかったが、姪はすっかりガリボソになっていた。
 一先ず姪のまわりを取り囲むパンを幾つか齧らせてからコンビニへ走って、カロリーの高そうなものを多量に買い込む。菓子パンを五つと牛乳を一パック、おまけに板チョコレートを一枚食べると大分回復した。姪の憔悴具合と末息子の帰宅日とを擦り合わせて考えると、二日の絶食だろう。
 炎司は“もっもっ”とパンを食む音を聞きながら、ソファにぐったり寄り掛かった。
 早めに来て良かった。姪の“個性”は複雑で、“個性”を使いすぎると出火する。そのくせ姪の皮膚は長男と同じで耐火性能が低い。姪の“個性”が確立した時は心底「何も考えずに作りやがって」と思ったものだ。炎司がどれだけ自分の“個性”のことを、それを我が子に引き継がせることを考えているのか知っているくせに、それを嘲笑うように“自分以上の失敗作”を作ってみせる。


 子どもが欲しかったんじゃないわ。あなたが“品種改良”に必死こいて上の子たちを顧みないから、試しに一匹作ってみたの。そうしたらあなたの気持ちが分かるかもって思ったから。失敗作同士でお似合いよ。昔からあんたのことなんか大嫌いだった。自分一人水に流して譲歩してるみたいな顔して、本当はヒーローになんかなりたくなかったくせに、親の言うことを聞くしか能のない子どものまま、自分の子に呪いを受け継がそうってわけ? あんたは失敗作よ。失敗作。失敗作。ちゃんと、真っ当な情操教育を受けることなく、父さんと母さんに支配されて、あんたがヒーローだなんて笑っちゃう。誰にも救われたことのないあんたが、一体誰を救えるってのよ。
 あたしはこの子を“ふつう”に育てない。自分の頭で考えられないぐらい恐怖で支配するわ。死ぬ寸前まで放っておいて、一人じゃあ生きられないんだって骨の髄まで教え込むの。
 あんたとあたし、そうやって育てられたのよ。だから、あたしもそういう風に育てるの。

 あなただけがこの子を救えるの。でもあなたには誰も救えない。
 

 罪のない姪を前にして、「産まれてこなければよかったのに」と繰り返し思う。
 六歳の姪は、自分が産まれた理由なぞ何も知らない。産まれてきたから生きたいだけで、今は炎司がパンを買ってきたから食べているだけだ。姪には一切の悪意がなく、それ故に炎司の罪だけが浮き彫りになる。炎司は膝上でちょっとずつ重みを増す姪に、深々としたため息を吐きかけた。
 炎司は姪に手を差し伸べたくない。いつまでも助けていては、本当に自分一人では生きられない人間になってしまうと思うからだ。それでは炎司が手を差し伸べずに済むよう法的介入を試みるかと言えば、先述の通り妻に身内の弱さを知られるのが嫌だった。それが判断ミスだったと分かっていても、やはり積極的に関与する気にならない。妻はノイローゼで、息子は引きこもり。
 一見平然として見える息子たちも困惑してるし、長女にはかなりの負担を強いている。今は姪に割くだけの余裕がない。いや……正直言って、そんな余裕は永遠に産まれないだろうと思う。
 炎司は昔から口下手な人間だ。妻子に対しても、聞かれたことしか答えない。自分から何か聞いて欲しいと思うことは滅多になかった。そう思うことは甘えだと考えているのもあって、いざ話そうにも言葉が出てこない。姉が何故家を出たのかも、何故姪を産んだのか、その過剰な放任主義についても、誰にも話したことはなかった。自分には関係ないことだと頭の隅へ追いやって、時間が解決してくれるのを待った。あの言葉は姉の本心ではなく、いつか姉も我に返る時が来る。
 そう信じた結果がこれだ。これだけメチャクチャになっても、まだ長女相手にボロを出すのではないかと案じている。そうでなくとも、姪自身が言うかもしれない。保身から姪に深入りしようとしなかったのだと知れば、長女は炎司に失望するだろう。頭の中がグチャグチャになる。
 如何してこうなってしまったのだという疲弊から、姪に何故を問う。

 勿論、六つの姪に哲学的問答を投げるほど愚かではない。
 当初の目的通り「何が理由で焦凍と揉めた」とだけ聞いた──が、その答えは姪の号泣だった。

 炎司の胸に顔を埋めた姪は、身も世もないと言わんばかりにおいおい泣きはじめた。
 正直言って姉の人間性とか人間性とか人間性に絶望している時に姪を慰める元気なぞなかったものの、姪の「んんなななむぎゎ」「しょう゛ぢゃみ」「むぎあんみゅ!」という奇声を聞くうち幾らか気持ちが落ち着いた。会議が行き詰った時は素振り、落ち込んでる時にはバカが役立つ。
 んみみみみ……と奇怪な鳴き声をあげながら、姪は饒舌に語った。どうせ喋るなら真っ当な日本語を話せと思ったが、六歳の姪に日本語は難しすぎるのだろう。仕方なく嗚咽の端々に混じる日本語をヒアリングすると、当人も仲違いの理由が分かっていないらしきことが分かった。
 まあ、姪の気性は繊細かつ聡明な末息子と相反して無遠慮でガサツなため、その唐突さにさえ目を瞑れば二人が絶縁するに至る理由は幾らでも思いつく。こんなに憔悴していなければ末息子の前で火刑に処すのだが、姪は未だ本調子ではない。子ども達が見せたら理由を知りたがるだろう。
 そうこうするうちに、姪の体が痙攣しはじめた。単なる泣き疲れだろうが、この状態の姪を放って帰るわけにも行かない。炎司は仕方なく姪をあやし、流されるまま一緒に寝た。


 要らんことまで思い出してしまったが、それがラスト・添い寝の経緯であった。
 何だかんだ色んなイベントがあったので、一度思い出してしまえば結構細かいことまで覚えていた。当時を思えば、勝手に繁華街に巣を作るまでに逞しくなったのは万々歳である。
 炎司は長々とした回想を終えて、ため息をついた。この姪と寝ると、いつも悪夢を見る。

 はっきり言って、炎司は姉との確執をさっぴいても十分なぐらい姪が嫌いだ。
 嫌いな理由を挙げていると優に年が明けてしまうほど嫌っているが、一番許せないのは三十も年上の叔父に馴れ馴れしいことだ。無責任な両親のもとで、殆ど野生動物として育った姪は人肌を好いている。実子でさえ炎司に遠慮を見せるのに、礼節に欠けた姪は何の衒いもなく叔父にひっつく。炎司の膝によじ登り、背中にもたれかかり、足によりかかる。従兄弟たちから「ウワ……」と引いているにも拘わらず、姪は炎司の脛にぺっちょり張り付いたまま「お金はらったらいい……?」と愚かなことをほざく。駄目だ失せろ──とは言えない。せめて性別が男だったら蹴り飛ばせるのに、何故このバカは女なんだ。三十も年下の女児を蹴とばすのは外聞が悪すぎる。
 遠巻きに様子を伺っている子ども達に「このバカにも分かるようにもっとウワッと言ってやれ!」と思うのだが、やはり我が子だけあって無暗に暴言を吐かない。吐いても良いのに。
 むぎちゃん、やめなよ。妻に似て気性の優しい次男が囁く。そうやってると、むぎちゃんも嫌な大人になっちゃうよ。ショックを受けたような顔の姪を長女が引きずっていく。有難いには有難いものの、子ども達が姪と関わるのも喜ばしくない。焦凍だけでも頭痛の種なのに、他の子ども達までもが姪の悪影響を受けては困る。そう思っていても、盆暮れ正月と親類縁者が勢ぞろいしているなか「こいつは性根が甘えているから口を利くな!」と言って騒ぐわけにはいかない。
 子ども達が姪の犠牲になるぐらいなら、いっそ自分が姪を管理するほうがマシというものだ。
 まあ、姪を管理しきれたことなどただの一度もないのだけれど……。

 あーあ。炎司は天を仰いだ。黄ばんだ天井を見上げて、脱力する。最悪。その一言に尽きる。
 まあ、事務所で遅くまで姪と話していたので仮眠室に泊まった……ということにしておけば何とかなるだろう。何とかなってくれ。子ども達に今日のことが知れたらと思うと、気が遠くなる。
 炎司はがっくりと項垂れた。両手で顔を覆って、太腿に肘をつく。

 炎司はこの姪のことを嫌っているが、この姪と二人きりになるのを更に嫌っていた。
 不愉快なことに炎司と姉は見た目に幾つかの類似点を有する。しかし、姪とは何の類似点もない。姪は父親似なのだ。あのどっちつかずのウラナリ瓢箪に瓜二つ。長女曰く「むぎちゃんは可愛いよね」「義伯父さんと伯母さんの良いとこどりしたって感じ」とのことだが、炎司の目には“ウラナリ瓢箪”にしか見えない。勿論、姪の顔が父親に似ていようと瓢箪に似ていようと炎司自身は如何でも良い。問題は“姪と炎司の関係が何なのか一見しただけでは分からないこと”だ。
 昔から、炎司はこの姪と連れ立って歩くのが嫌いだった。一体幾度誘拐犯扱いされただろう。
 俺はこいつの叔父で、現役プロヒーローだ!と説明させられる屈辱。小学校高学年に上がってようやっと職務質問の憂き目から逃れたと思ったら、今度は援助交際疑惑が掛かるようになった。
 流石に実子は炎司の潔白を信じてくれるだろうが、やはり年頃の姪とホテルに泊まるのは不注意だと思うに決まっている。お父さんったらまたむぎちゃんに迷惑かけてえ。呆れ顔の娘が思い起こされ、炎司は“ぐぬぬ”と険しい顔を作った。冬美のやつ、同性だからとすぐ贔屓しおって。
 大体「お父さんがうるさいから、むぎちゃんも相談できなかったんだよ」と言うけれど、姉の税理士から電話があるまで何も知らなかったのだ。いつもいつも、一体何故あのクソババアの不始末で俺が責められる。事前に知っていれば姉をぶん殴ってから「路頭に迷う前にうちに来い」ぐらい言ったかもしれないが、知らなかったのだから仕方ない。折悪く──十中八九わざとだろうが──警視庁に招かれて静岡を離れていたし、その間事務所に電話することはあっても所詮バイトに過ぎない姪と話す用はない。娘は炎司を薄情だと言って詰るけれど、あのアッパラパーな姪をバイトとして雇ってやってるだけ情深いほうだ。一体これ以上、炎司に如何しろと言うのだ。
 あーもう辛抱堪らなくなってきた。竹刀が欲しい。竹刀がないならないで、何か自分が悪者にならない方法で姪を懲らしめたい。炎司はトントンと足の爪先で床を叩きながら、顔を上げた。
 炎司がこれだけ苦しみ呪っているのだから、姪も少しは夢見が悪くなっているはずだ。

「ねこちゃんがいっぱい」
 姪が極めて頭の悪そうな寝言を漏らして、寝返りを打った。


 猫? が? いっぱい?? なに? 何を如何したらそんな知能の低そうな夢を見れる?
 叔父の苦悩も知らずにこのバカは……炎司はギリギリと音がしそうなほどきつく唇を噛んだ。
 スイヨスイヨと幸せそうに眠る姪を見ていると、自然と「お前がさっさと俺に泣きついたなら、こんな大騒ぎにはならなかったはずなのに」という殺意が湧く。はちゃめちゃにムカつく。
 確かに、姪が物心つく前から「冬美たちは忙しい。無駄な心配をかけるなよ」と口が酸っぱくなるほど言い聞かせてきたのは炎司だ。しかし十年前と今では状況が違う。末息子が受験するから面倒事を抱え込みたくないという気持ちもないではないが、こうなってはもう引き取る他仕方ない。どうせ姪が言おうと言わなかろうと姉の出奔は全国的に知られてしまったのだし、姪が成人するまで幾何もない。ヒーロー科の姪は高校卒業と同時にどこぞの事務所へ就職するだろうし、なんだったら見合いの席を整えても良い。これまで散々苦しめられてきたが、あと二年で炎司の責務は終了する。姪に対する積年の恨みも最早如何でも良い。兎に角パッと引き取って、シュッと追い出せば全部終わり。そういう炎司の考えや感情の機微を、姪はよく分かっているのだ。
 炎司の責任逃れや言いがかりなどではなく、本当に死ぬほど腹立たしいことに姪は叔父への理解が深い。その深い理解を持ってして、姪は叔父を謀る。なんで??? 本当にヘイトが溜まる。
 
 炎司は鬼の形相で立ち上がり、ベッドに近づいた。
 
「とっとと起きろ」
「んみ゛っ」
 布団をはぎ取る勢いで“身”の部分を床に落とすと、殻を失った姪が無様な声を上げた。
 カーペットが敷かれているとはいえ、顔からいったからそれなりに痛いはずだ。眠気覚ましには丁度良いだろう。今気づいたけど、出張帰りだから炎司だって寝間着ぐらい持っているのに、姪だけちゃっかり寝間着に着替えているのもムカつく。シャツがしわだらけになってしまった。
「ぐずぐずするな」はぎ取った布団をベッドの上に投げ捨てる。「仔細を説明しろ」
 姪の無駄に長い手足がバタバタと宙を掻いて、起き上がるための支点を探している。虫に似ているが、その虫が何だったのか思い出せない。ややあってから、姪がベッドの横から顔を覗かせた。
「んん……もお、ねこちゃんなのう?」
 身長195センチの筋肉隆々の叔父が何故猫に見える?
 この姪は常に非実在哺乳類を幻視しているが、何か悪い薬でもキメているのだろうか。
 炎司が圧倒的な““““無””””になっていると、窓辺に目をやった姪が「んえ〜?」と口を尖らせた。ツイツイツイと無為に手を振って、ナイトテーブル上の時計を手繰り寄せる。
 未だ寝ぼけているのか、姪は短針と長針の位置を指さし確認しはじめた。
 ややあってから文字盤を覆うプラスチックカバーをコンコン叩いて、小首を傾げる。

「まだ三時だよう? こんな時間に起きたらむぎの玉のお肌が荒れちゃう」
「お前が話し合いの途中で酒を盛るからだろうが!」

 実際には“酒を勧めるから”が正しいが、苛立ち紛れに姪の過失を多めに見積もることにした。
「んもーすぐニャンニャンするう……むぎは叔父さんの日頃の疲れをお酒で癒しただけだもん♪」
 姪は全く悪びれた様子もなく「ファーア」と間の抜けた欠伸を漏らす。
「俺が疲れてるのはお前がそこにいるからだ」
「炎ちゃんてば、照れ屋さんなんだから…… むぎには丸わかり
 クスと歪んだ笑みで応じた後、姪がガッタンゴットンナイトテーブルの引き出しを漁り始める。おかげで「うるさい」「だまれ」「喋るな」という、炎司の三大切り札は完璧に遮られてしまった。炎司はこの姪相手に論戦で勝った記憶がない。騒音に紛れて「ま〜た可愛い文句ゆってえ」と、完全に叔父を侮った台詞が聞こえてくる。新幹線のなかで、あんなに熱心に“HOWTO悪口”を読んだのに……炎司は著者にクレームメールを送る決意をした。今度は“悪口辞典”を買おう。
「あったあった、炎司さんに破かれないように奥にしまっといたのね ほーら、」
 姪が真っ白いA4用紙をピラっとはためかせた。受け取ろうとした炎司の手を、スッと避ける。
 甲とか乙とか記された文の末尾に、どこからどう見ても“酔っぱらってます”と言わんばかりの署名があった。本来「轟炎司」と表記されるべきところに「車火火□|?」と記されている。何?
 こんなものが受理されるとは思わないが、姪は目的達成のためならレギュレーション違反も辞さない。また腹立たしいことに、この悪魔的な姪に唆されて悪の道に落ちる人間が結構な数いるのだ。そもそも今見せびらかしている「承諾書」という題で始まって「保証人:車火火□|?」で締めくくられている書類だって、悪魔的な手段を用いて手に入れたに違いない。ふつう十六歳の子どもが一人で不動産に行っても「保護者の方とまた来てね!」と言われるものだ。いっそヴィランとして退治してやるという気持ちと、身内からヴィランが出ては困るという気持ちが入り混じる。

「問題解決
 しれっと言い放つ姪から承諾書をひったくり、引き千切る。

 “承諾書だった何か”は炎司の手の中で、パァン!と音を立てて四散した。
 姪の顔が無になった。珍しく姪の上手を行くことが出来たようで、炎司はニヤリと笑う。
「あ! あっああ、ああ? むぎの初めての“ちんたいけいやく”!!」
 ベッドを乗り越え、ピョンピョン跳ねる姪と競うように紙片を奪い合う。
 もうこんなオンボロビルが焼け落ちようと、炎司の知ったことか。姪の全財産を使えば十分賠償金を払い終えるだろう。炎司は器用に火の粉を飛ばして、中空で紙片を焼き切る。
「何が賃貸契約だ。そんな戯言は自分の体で金を稼いでからほざけ」
「働いてるよう! でも時給十円じゃあ、百年働いたって家賃にならないもん!!」
「いつまでも俺の脛を齧らず心を入れ替えて、別の事務所なり会社なりで働けばいいだろう」
「炎司さんだって内心むぎを便利がってるくせにい!」
「うるさいうるさいうるさい、邪魔だ退け」
 ピーピー騒がしい姪を押しのけながら、乱暴な足取りで洗面所に向かう。

 もうひと眠りするつもりだが、こう口の中が気持ち悪くては寝るに眠れない。
 炎司は産まれてからずっと、どんなに疲れている晩でも歯磨き・洗顔は欠かさず行ってきた。
 洗面台に顔を突っ込んだまま寝た夜もあったし、結婚初夜の良い雰囲気を破壊して洗面所に行ったこともある。新婚旅行初日、夕飯から帰ってきたら速攻で洗面所を占拠して身だしなみを整えよう!と思っていたのだが、ホテルの部屋に入るなり妻が手を握るので「今洗面所に駆けこんだら手を握られたのを嫌がってると思われるではないか!」と考え込んでしまい、タイミングを失した。
 あの時はこんなボロホテルじゃなかったし、妻がいて、炎司も若かった。
 十代の終わりにはもう結婚しようと思っていた。その時にはもう自分の限界が分かっていたからだ。生来炎司は色欲が乏しい質で、それは日々の厳しい鍛錬で疲れ果てるせいもあるのだろう。何にせよ炎司は、自らの意思で異性を欲したことはない。それが正しく清いことだと思っていた。
 “個性”だけを目当てに求めた妻は偶然美しい女だったものの、それ故に自分の生活や習慣を崩されるのが嫌だった。そして、初々しい花嫁は自分の立場や夫の自制心の強さをよく承知していた。
 不意に炎司は、妻の手を振り払って洗面室へ向かったあとに何があったか思い馳せた。何が可笑しいのか静かな微笑みを湛える妻が浮かんだが、どんな夜を過ごしたかは思い出せなかった。

「むぎちゃんはいつもいつも炎司さんのイビリに負けずに頑張って偉いねって言われるもん」
「お前はうちの事務所で一番若い。いい年した大人が十代のガキを役立たず扱いするか?」
「炎司さんは今むぎを役立たず扱いしてるもん!」
「これは身内だからだ。叔父の責任として真実を伝えているんだ」

 炎司は入り口脇の扉を開け、チャチな作りのユニットバスに入り込んだ。
 小さい洗面台にくすんだ鏡。壁に貼られたタイルには所々ヒビが入っている。鏡の下にある作り付けの棚には無駄に高そうなデザインの瓶やビニルチューブが立ち並んでいるが、これは姪が持参したものだろう。つくづく、贅沢好みの姪がよくここに腰を落ち着ける気になったものだ。
 棚から落ちかけていた、使い捨て歯ブラシの袋を破く。

 ジャー、ガララララ……ッペ! シャコシャコシャコシャコシャコ……。

「いっしょおけんめい内見して、かわいいデザイナーズマンション見つけたのにい……」
 窮屈そうに丸められた背に、姪が世にも下らない恨み言を吐きかけた。「アルコーブつきの可愛い寝室」とか何とか、炎司には理解出来ないことをダラダラダラダラ……うるさいったらない。
 この姪はいつもこうだ。姪には誰彼構わず依存する悪癖があり、我が子さえ寄り付かない炎司へも馴れ馴れしく振る舞う。それを疎ましいとか、非常識で気持ち悪いと思うのは当たり前だ。
 炎司は姪を見てるとイライラする。姪が嫌いだ。“そうでなければならない”と思う。

 姪は甘えた人間だが、自分の本性と大人びた上辺とを上手く使い分けることが出来る。
 勝手にホテルを取ったり、賃貸契約を結んでいることからも分かるように、困ったからといってすぐ他人に泣きつく根性なしではない。炎司が黙っていれば姪は立派に独りでやっていくだろう。姪のそうした面を見て“自立している”と判断する者もいるに違いない。ふつうの十六歳は、両親に捨てられたからと言ってすぐには行動出来ないものだ。しかし炎司に言わせてもらえば、所詮“上っ面”だ。仮住まいを整えるのも、次の居住地を探すのも、姪が姪自身の意思で行ったわけではない。「自分たち家族のことで煩わせたら叔父に疎まれる」と思っているのだ。それは正しい。
 姪には「他人に叱られるようなことをしたくない」という考えがある。「誰にも助けてもらえない」とも思っている。姪の内にある諦観や不信は、結局は“依存心”があることの証左に過ぎない。
 もし炎司が独身だったなら、姪と疑似親子になることもあったかもしれない。しかし現実問題炎司には四人の子がいるし、それを差し置いて姪と親しむのは子どもたちへの背信行為である。
 炎司はただ、自分と姉の間にあった諍いを子どもたちに継がせたくないだけだ。そのために、姪とは単なる“叔父と姪”でいたい。単なる叔父と姪が同じ部屋に一泊するのかは甚だ謎だが、兎に角炎司は姪に必要以上に肩入れしたくなかった。姪の依存心なぞ、炎司の知ったことではない。

「良いもん良いもん、むぎちゃんがいるお部屋はオンボロでもアンティークだもん」
 姪も炎司の気持ちが分かるのだろう。未練がましく洗面所を覗いているものの、中へ入ってこようとはしない。入り口脇の柱に寄りかかりながら、叔父への執着心を鎮めようとしている。

「……“叔父さん”たら、いつも、あれはダメ、これもダメなのね」
 炎司はカチンと来て、泡まみれの顔で振り向いた。

「明日からうちに来い。もうお前の部屋は手配してある」

 有無を言わせぬ口調で言い放つ。
 部屋というか掘っ立て小屋というか物置というか犬小屋に近い何かだが、屋根と壁があれば文句はなかろう。入り口から顔を覗かせた姪はあからさまに顔を顰めた。機先を制して口を開く。
「焦凍のことは一旦忘れろ。未成年の姪に一人暮らしなんぞさせたら何を言われるか分からん。
 大体お前ときたらクソババアの放任主義を良いことに、好き放題散財する癖がついて……嫁のもらい手がなくなるだろう。年相応の品性を学ぶ良い機会と思って、少しは冬美を見習え」
 目元に垂れてくる泡を拭っていると、不意に姪の顔から感情が抜け落ちた。
 どうも、言い過ぎたらしい。炎司はぎゅっと目を固く瞑ると、再び姪に背を向けた。勢いよく水を出すことで、居たたまれない気持ちを誤魔化す。ジャーと激しい水音が沈黙を割った。
 いつも馬鹿みたいにふざけている姪は、滅多なことでは本音を晒さない。末息子との悶着があってから、ずっとそうだ。自分の本音を晒すことで他人に拒絶されるのが怖いのだろう。


『あなたが“品種改良”に必死こいて上の子たちを顧みないから、試しに一匹作ってみたの』
 おまえのせいだと、姉が柔和な顔で微笑む。

 あの日、カーテンの向こうで眠る姪は目を覚ましていたのだろう。
 両親と叔父の醜態の一部始終を耳にして、聡い姪は彼らが何を話しているのかすっかり理解してしまった。カーテンに映った姪の影は僅かに身動いだものの、結局一言も発しなかった。
 小さい頃から姪は利口だった。一つ下の末息子と比較して、俺や冷のほうがずっとマトモな親なのにと苛立つのも珍しいことではなかった。何故、末息子よりも姪のほうが大人びているのだろう? 駄々をこねることもなく、すぐ母親の胸に逃げることもない。大人たちが苛立っていても怯える素振りも見せず、場を和ませる努力をする。いつだって他人が欲しい言葉をくれる。その口から漏れる言葉は嘘ばかり。母親にとって、叔父にとって、何らかの価値を見いだされなければ自分は生きていてはいけないのだと識ってしまったからだ。姪はいつも自分の価値を探している。
 炎司の幼い頃と同じだ。正しいことを成せば報われる。たゆまぬ努力の果てには必ず報われる。親の求めに応じ続ければいつかは報われる。ありとあらゆる虚妄に苦しみながら年を重ねてきた。
 大人たちは口を揃えて綺麗事を吐く。それがどれだけ残酷なことか、疾うに忘れているのだ。

『なんだお前は……あれだけ見てやったのに、あんなアメリカ被れに負けるのか』
 落胆した様子の父親が呟く。何もかもが無駄になったと言いたげな顔をしていた。
 比喩でもなんでもなく、本心からそう思っていたのだろう。火也子は結婚もせずにみっともないことをしているし、お前は結局失敗作だった。子どもなんぞ作るものではなかった。まるで「子どもさえ作らなければ一角の人間になれたのに」と言わんばかりの口ぶりに、炎司は失笑した。
 妻子も病院まで同行していたが、未だ幼い長男が怯えるので談話室に避難していた。あちらはあちらで母親の相手を強いられたらしく、随分大変だったに違いない。それでも炎司は父親と二人きりにならなくていい妻子が羨ましかった。炎司は寝台脇の椅子に腰掛けたまま、父親の愚痴が尽きるのを待っていた。半笑いで聞き流すのは、父親は危篤で、炎司はたった一人の息子だからだ。
 炎司は漠然と父親の痩けた手を見つめた。かつて炎司の歯が折れるまで殴った手は骨と皮だけになっていた。妻と子に言っても、信じては貰えないだろう。たった一人の天才に勝てないだけで失敗作呼ばわりされることも、それを炎司が真に受け止めていることも、誰にもわかりはしない。
 妻のお腹のなかには二人目の子どもが宿っている。炎司は最早“子ども”ではないし、成人してからも大分経つ。沢山の責任を背負って生きる、立派な大人だ。世の中の色んな事と折り合いをつけて、年相応の落ち着いた振る舞いを求められる。疾うに“綺麗事”の舞台裏は分かっていた。

 正しいことをしても報われないこともある。
 たゆまぬ努力を積んでいるのが自分だけと思うな。
 親は自分の人生に責任を取ってくれない。

 自らの“個性”に蝕まれた父親は、愛息子を呪わないではいられない。失敗作。失敗作。失敗作。
 その生涯を“女”として生きた母親が父親を庇う。お父様は少し気が動転していらっしゃるの。
 本当はあなたのことが可愛いの。あなたを愛しているのよ。お前は火也子よりずっと良い子だったのだもの、当たり前でしょう。比較検討された姉が、母親の隣で冷ややかに笑う。そうね、お父様は本当に炎司が可愛かったのだもの。自分の躾を忘れてしまうのではないかと不安なのよね。
 死期を前に理性を失った父親は、炎司を“失敗作”と呼ぶ。お前も俺と同じ無価値な人間だったのだと教え込むために、惨めったらしく咳き込んで見せる。自らの“個性”で臓腑を焼かれる恐怖は如何ほどだろう。同じ“個性”を継いだお前もこうやって死ぬのだと、父親の全身が語っていた。
 父母に対して何か望んだのは、いつが最後だったのか記憶を探る。
 炎司は昔から親の言いつけを守る優等生だった。それが正しいことだと信じていたし、いつか分かってくれるとも思っていた。その“分かってほしかったこと”が何か、もう覚えていない。
 やがて声が嗄れた父親が永い眠りに落ちる。自分と同じ色の瞳が瞼に覆われるのを、炎司はボンヤリ眺めていた。炎司のことを失敗作だと思っている父親が、炎司自身も自らを失敗作だと認めているのだと信じたまま眠る。その亡骸を揺さぶり起こして論じたい気持ちは失せていた。
 この人にとって我が子は無価値な人間だったのだと、まったいらに伸びる心電図を見て思った。
 炎司はいつも自分が産まれた意味や、自分だけに与えられた使命のようなものを探していた。正しいことをしようと思った。易きへ逃げずに努力し続ける意思を養った。ただ、たった一言……。

 ただ一言、本心から「お前は俺の誇りだ」と言って欲しかった。
 失敗作の自分が子どもたちの“材料”として生きなければならない長い時間を耐えられるように、凡才の自分が倦むことなく研鑽し続けられるように、正しく生きていくための支えが欲しかった。

 ……炎司には姪の飢餓感がよく分かる。
 炎司のことを救ってくれる人間は誰もいなかった。それ故に炎司は強くあろうと奮起したし、その救済願望を押し隠すために激しく自らを律した。他人に理解されたくないとさえ思った。妻にも子にも、自分の心の裡が知られたなら軽蔑されるものと信じて、固く口を閉ざしてきた。
 その、他ならぬ自分が四十四年の長きに渡って苛まれ続けたものに、十五の姪が苦しんでいる。
 姪に手を差し伸べれば、炎司は幾ばくかの安息を得る。姪に自己を投影することで、自らもまた救われたのだと思い込める。ただ、それは正しいことではない。正しくない。間違っている。
 それでは何が正しいのかと自分の胸に問うてみても、答えはなかった。

 炎司は自分のために、正しいことをしたかった。
 この世界に何らかの使命があると信じて生きてきた自分に、何か意味が欲しいと思った──そう思い込ませなければ、自分はダメな人間になってしまう気もした。理想を諦めたくなかった。
 炎司は何故オールマイトに勝てないのだろう? 人間性の違いだろうか、それとも身体能力の差があるのかもしれない。あいつの“個性”は何だ。筋力強化か? 飛行能力か? オールマイトの“個性”はきっと彼の体を蝕まないに違いない。少なくとも“ヘルフレイム”よりはずっと万能の個性だ。オールマイトが妬ましかった。やっぱり“個性”が悪い。子どもたちには父親より長生きしてほしい。自分のように未来に失望しないでほしい。誰よりも強い“個性”の持ち主になって欲しい。

 正しいことをしたら報われる人間になりたかった。
 たゆまぬ努力を積むことで結果に結びつくのだといつまでも信じていたかった。
 親に自分の人生の責任を取って欲しかった。

 妻も、そういう炎司の気持ちを理解してくれているものとばかり思っていた。
 少なくとも見合いの席では、炎司の話に同意してくれた。大変な“個性”なのですね、と。
 轟さんは本当に子どものことを思ってらっしゃるんですね。私なんてまだまだ自分が子どもの気持ちで、自分の“個性”を継いで生まれてくる子のことを考えたことはありませんでした。本当に……夏は少し辛いので、子どもたちの部屋には一台ずつエアコンをつけないといけないな……なんて……うふふ、おままごとみたいですよね。でも、だから本当に“すごいなあ”……って。
 眩しげに目を眇めていたはずなのに、どんな顔で笑ったのか思い出せない。

 炎司の記憶に残っている妻の顔は、いつもどこか物憂げだ。
 何かを思い詰めているような顔。夜の相手を求めると、妻は決まってその顔になった。
 嫌なら良いと言っても暖簾に腕押しで、明確な意思表示は見受けられない。困惑した炎司が恐る恐る事を進めても、妻の目に快楽が灯ることは滅多になかった。妻はその柔和な面立ちを曇らせたまま、行為が終わるまで炎司の肩に顔を埋めるか、背けるのが常だった。何度体を重ねても、生娘のように頑ななまま――やがて焦凍が産まれると共寝すら拒まれるようになった。
 炎司には、妻の気持ちが分からなかった。話し合いの席を設けても、妻ははっきりしなかった。
 育児が忙しい。家事で疲れている。家政婦を雇って家事を任せ、子守りは昔からいる奉公人に任せた。お前はゆっくり、焦凍に集中していればいい。焦凍はオレたちの個性を完璧に引き継いだ、完璧な子供だ。お前も無理せず、万全の状態で育ててほしい。そう言うと、今度は明確な拒絶が返ってきた。焦凍が産まれたから、もう体を重ねる必要はないでしょう? あなたが欲しいものはちゃんと産んだわ。あなたが必要なのは私の“個性”で、その役目ももう果たした以上は、あなたはもう私を抱く必要はないし、私も……私も、ずっと、嫌でした。そうかと、相槌だけ打った。それ以上の追及をして、無理やりに妻の手を掴んで、そうしたら妻が壊れてしまう気がした。しかし炎司がどれだけ刺激するまいと距離を置いたところで、疾うに妻の精神はグズグズに病んで崩れかけていた。寧ろ、炎司自身が壊してしまえば良かったのだとさえ思う。
 妻の精神が崩落する様を間近で目にした末息子は、顔に一生消えない傷を負った。
 母親に似て繊細な面立ちにくっきりと残る火傷跡を目にするたび、炎司は「俺が負おうとしなかった傷だ」と思う。末息子が自分を恨むのも道理、“そうでなければならない”とも思った。

 妻が自分に何を求めているのか、炎司には分からなかった。
 家事が辛い、育児が辛い。両親に会いたい。子どもはちゃんと自分の手で育てたい。
 友達はみんな子育てもひと段落して仕事に復帰している。家にこもってばかりで、話が合わない。あなたに触られたくない。あなたの教育方針がいや。焦凍が産まれたから、もう私は要らないんでしょう。あなたが欲しいのって、私じゃなくて、焦凍を産める女だったのよね。
 私たちってなんなの、何故、一緒に、もう、わたし、ヘンになって、いなくても、あなたにも、子どもたちにも、本当は、焦凍を産んだから、もう私は、私、もう、ここにいられない、もう、
 あなたはもう、私なんか要らないんじゃないの……?

 炎司さんにこれだけ良くして頂いておいて、この体たらく。我が娘ながらお恥ずかしい。
 それが、妻の病を知った義母の言葉だった。娘の心を壊した義息子を責めようともせず、卑屈に詫び続ける。その様に、妻のなかの“少女”が浮かび上がった。虚しい会合だった。
 私はあなたにとって、何なの。私はもう要らないんじゃないの。焦凍を産んだから、あなたは、焦凍を産める腹だけが欲しかったんでしょう。もう私に触らないで。もう私を放っておいて。
 助けを求めるなら、応じることも出来た。妻は炎司に助けを求めることさえなかった。しかし、助けようと手を伸ばしたことも、結局は妻を追い詰めただけだった。
 別れて頂いても構いません。妻の意思を無視して、義父が傲慢な申し出をする。わが子に一生消えないような傷を作る娘です。目の前に座した男が、娘の精神を砕く一助となったのが分からないのであろうか。一生消えない傷を作ったのは炎司もまた同様なのに、妻だけが非難される。四人も子を作って、焦凍が産まれた後も体を求めた相手と、何故別れなければならないのだろう。
 いやそもそも、妻にしろ、何故自分が焦凍が産まれた後も妻の体を求めた理由が分からないのであろうか。そして自分は、何故その理由を口にするのが恐ろしいのだろうか。口に出して言わねば分かるはずもなかろうに、問いの答えは定まっていたのに、炎司は妻に何一つ答えられなかった。

 体内の熱は炎司の命を蝕むばかりか、炎司の家庭をも崩していく。
 壊すぐらいなら一緒にいないほうがいい。いつからかそう思うようになった。焼き尽くしてしまう前に手放そう。分かっていたのに、妻が壊れるまで手を離すことが出来なかった。壊れてしまっても構わないから、一緒にいてほしい。そんな女々しい気持ちで、子どもたちから母親を奪った。
 炎司は間違えたのだ。でも、何を間違えたのかは分からなかった。考えることから目を背けた。
 ただ自分が“正しい”と思うことを成して、前に進んでいれば、いつか全てが解決すると信じた。その盲信が「火也子さえちゃんとしていれば、こんなことにはならなかった」という妄執と違う確信もないままに、不安故に先へ、先へと、どこかずっと遠い場所を目指さずにはいられなかった。

 今姪に振り向いて優しくしてやれば、炎司は幾らか楽になるだろう。
 凡そ万人から愛される素質を持って産まれた姪に優しくするのは簡単なことだ。
 姪は駄々をこねないし、母親の胸に逃げることもない。炎司がどれだけ苛立っていても怯える素振りを見せず、道化として振る舞って和ませてくれる。いつだって炎司の欲しい言葉をくれる。
 しかし、それは炎司が心から欲したものではない。どれだけ姪が心優しく、炎司を欲していようと、彼女は炎司の家族ではない。炎司が産まれた家庭は極めて不快かつ醜悪で、疾うに無い。それ故に数多の理想を持って、妻と結婚した。しかし二人で築いた家庭も結局は崩壊寸前だ。妻は十年以上入院しているし、息子たちは無闇と反抗的で、一人娘は時々物憂げな顔をする。
 妻そっくりの柔和な顔を陰らせていた娘が、父親の帰宅に顔を上げる。疲れた笑みで出迎える。
 そこだけが炎司の帰る場所で、姪は炎司の家族ではない。だから“姪は要らない”と決めた。


 炎司はザバザバと激しい音を立てて泡を流した。
 備え付けのタオルで顔を拭う。

 随分長い間、姪は黙っていた。

「ふゆみちゃん」
 姪が歯切れの悪い言葉で静寂を裂く。
「冬美ちゃん、卒論で大変なのに、家政婦さんにあれこれお願いしたり、自治会に参加したり、色々偉いのね。むぎはワガママだから、冬美ちゃんみたいにお利口さんには出来ないものね」
 物わかりの良いふりを決め込んだ姪に、炎司は静かに安堵の息を吐いた。
「分かってるならそれでいい、とっとと寝ろ。九時には出るぞ」
 突っ立ってる姪を押しのけて洗面所から出て、そのままベッドへ向かう。勿論、姪と同じベッドで眠るためではない。ソファで寝るのに、何か掛けるものを探しに来たのである。それだけだ。
 枕元でグチャグチャになってるタオルケットを拾うと、姪の匂いがした。

「むぎの新生活をめちゃくちゃにした挙げ句、ライナスの毛布まで取る気なのねえ?」
 やや元気が戻ったらしい姪がしょっぱい顔でこちらを睨んでいる。

「……お前の人生は常にめちゃくちゃだろうが、さっさと寝ろ」
 流石に三十も年下の少女をタオルケット一枚で寝させるのは気が引ける。
 ふくれ面の姪はカーペットの上におちた毛布を拾い上げて、寝支度を調え始めた。
 炎司も薄いタオルケットを引っ掴んで、ソファに移る。炎司の体には幾分小さいソファに横たわると、先ほどまでベッドメイクに勤しんでいた姪がソファの前に座り込んでいた。
「炎司さん、あのね……あのあの、」
 炎司は万物を無視することにして、臆すことなくソファの背もたれ側に体を向ける。
 目を瞑って、睡魔を呼んだ。碌でもない話を聞かされる前にさっさと来い。ぐずぐずするな。

「むぎちゃんてば、ヒーロー科クビになっちゃったのね」

 やはりか。些か看過しがたい台詞に、睡魔が去っていく。
 あっ取り込み中w?てな調子である。取り込んでないからさっさと戻ってこい。
 姪がヒーローになろうとならなかろうと炎司には如何でも良いのだが、しかし高校中退は困る。確かに週の半ばにも拘わらず、よく不動産屋巡りする時間があったな……とは思ったのだ。
 ソファの背もたれの縫い目を数えながら、炎司は身を起こすか如何か悩み始めた。普通の叔父は多分姪が突然高校退学になったら話を聞くであろう──それが深夜三時半だろうと、姪に酔い潰された後だろうと。炎司は険しい顔で思案した。正直言ってあんまり聞きたくない。
 まあでも流石に聞くべきか……と思った途端、姪が注釈する。

「あっクビになっちゃったけど、あの、今度はサポート科で」
 退学じゃないなら良いか。

 そもそも炎司は、この姪がヒーロー科に受かるとは思っていなかった。
 そりゃ、姪の素行と成績からいって普通科なら問題なく通るだろうとは考えていた。
 この姪は極めて要領が良いので、夏雄の高校受験時ほど気を揉まずに済んだ。気を揉まずに済んだというか、「高校受験とバイトぐらい両立させられるもん♪」と高らかに宣言したのは当の姪なので、炎司が気を揉む義理はない。サイドキック連中に色々話を聞いて実技試験対策を講じていた様子だが、炎司は受験生の姪を全く特別扱いしなかった。要するに、いつも通りにこき使った。もし雄英に落ちても、それはそれで一つの物事に真剣に取り組むようになるだろうと思ったのだ。
 しかし姪は高校受験に成功した。半分ぐらい詐欺である。元々姪の“個性”はヒーロー向けのものではない。ヒーロー向けのものではないっていうか、手からパンが出るヒーローって何?という感じだ。メロンパンナみたいに顔がメロンパンになる代わりに飛べたら良かったのになと言ったら、クソ硬いパンで殴られたことがある。まあ、災害復旧時とか食糧が必要な時なら……と考えたものの、姪の出すパンは姪由来のパンだからキツい。脂肪を物質に変化させる過程で“炎熱”が混じって火が通るとか何とか聞いたが、要はカニバリズムと大差ない。余程の極限状態でない限り、世の人は姪のパンを食べる気にはならないだろう。炎司は口に入るものに余り頓着がない性格なので食べることもあるが、そのあたりは「素手で握ったおむすびを食べられるか」に近い気がする。
 何にせよ、姪の“個性”は使いどころが謎なのだ。姪の人生において、彼女の“個性”が役に立つことはなかろう。尤も素の“個性”は“創造焼成”というパンと無縁のものなので、姉が余計なことをしなければ使える“個性”だった可能性はある。「これは実験よ。産まれもった個性に志向性を与えるとどうなるか調べるの」と言いながら姪を小麦粉の海に埋める姉を見た時は「ついに狂った」と思ったものだ。でもぺそぺそ泣きながらも小麦粉の創造に成功する姪は面白かったので、つい見入ってしまった。ぺそぺそしてる姪に「プラスチックを作ってみろ」「今度は紙だ」と言って指示してるうちに突然姉がキレて大喧嘩になったのを覚えている。つくづく心の狭いサイコパス女だ。
 一方の義兄も義兄で姉に何をされてもキレないため、別ベクトルに狂っている。

 姪はその容貌こそ義兄と姉それぞれの遺伝が見受けられるものの、性格は全く違う。
 まあ強いて言えば義兄に似ているかもしれないが、義兄ほどぶっ飛んでいない。四歳まで殆どつきっきりで育てた割りにはファザコンでもないし、どうやって育てたのか時々気になる。謎だ。
 炎司は自分の反応を待っているのだろう姪の顔を想像し、ため息をついた。
 
 姪は、あの両親の下で育ったにしてはマトモな奴だ。
 そんな姪に「もっと頑張れなかったのか」と問うのは不憫だろう。

「次は上手くやれ」
 姪は何も言わなかった。何か言いたげだったとしても、気づきたいとも思わない。
 自我のない姪は、目の前に垂れ下がった命綱に縋る。それだけのことだと自分に言い聞かせて、酷薄な態度をとり続ける。いつの日にか姪が「命綱なんて要らなかったのだ」と気づくように。
「お前にヒーローは無理だったんだ。なまじ他人に迷惑かける前に、早めに分かって良かった」
 精一杯のやさしさを絞り出して、炎司は今度こそ目を瞑る。


「……もうお金払ってしまってあるから、あともう一日ここへ泊まるね」
 打ちのめされた声音に適当な相づちを返しながら、炎司は眠りに落ちていった。

事を済ませば



prev next
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -