パンはパンでも
たべられないパン
なーんだ

 五つ年の離れた姉は幼心にうつくしいひとだった。
 血縁であるからして、容姿の如何ではない。顔だけで言えば、炎司は自分との血縁を感じさせる姉の容姿を好ましいと思ったことはただの一度もない。血縁とは不思議なもので、如何しようもない嫌悪感を覚える一方で、詰まらない理由から大した憧憬に縛られることがある。
 炎司が姉のことを“うつくしい”と追懐するのも、そういった下らない理不尽のせいだった。

 五つ年の離れた姉は、母親に詰られようと、父親に無視されようと、決して動じることがない。
 大人にしてみれば所謂“可愛げのない子ども”である。炎司はごく幼い内から、母親は一人娘に辛辣な態度を取るのが常だった。理由は些細なものばかりで、それ故に具体的解決が望めない絶望感があった。親にしろ一人の人間で、自らの感情を御しきれないことがある。ふつうの人間が十回中一回堪えられないところを、炎司の母親は三回堪えられない。一見して大和撫子然としていた母親だったが、その気性は姉に負けず劣らず激しい。姉との相性が悪いのも、半ば仕方がなかった。
 野菜の下ごしらえが雑だった。授業参観の知らせを屑籠へ捨てた。保護者会で肩身の狭い思いをした。畳の縁を踏んだ。庭に入ってきた野良猫に餌をやった。父の着物にシワがあった。その他、色々。母親が姉への怒りを露わにする時、寧ろ据わりの悪い思いをするのは炎司のほうだった。
 大抵の場合、世の子どもは漠然と親を“正義”、時として“神”とさえ思いこむものだ。勿論、彼らはただの人間で、神ではない。しかし、子どもにはそんなことは分からない。炎司もそうだった。それ故、内心崇め立てた相手の醜態を目にすると、居たたまれないような嫌な気持ちになる。
 ところが姉はそういった“盲信”と無縁の子どもだった。幼いながらに自らの感情を完璧に制御できる姉にとって、長幼の序は愚かな慣習だったのだろう。姉は相手が感情的になればなるほど、如何にも冷めた視線で相手を射抜く。烈火の如く怒る母親を前にしても、姉の平静さは揺らがなかった。勿論、そうした冷めた態度が殊更母親の気に障るのは言うまでもないだろう。
 母親に言わせれば、姉のそうした“大人びた対応”は「無分別」の極みだった。大人たちの反感を買う態度をとり続け、どんなに叱られても涙の一つも見せない姉は、ある意味では愚かな子どもだった。しかしその苛烈なまでの我の強さ、達観した精神性は、幼い炎司に立派な風に映った。姉の頑なな横顔を見る内に“居たたまれなさ”は失せ、「自分も姉のようになりたい」と思ったものだ。

 尤も姉を見習うまでもなく、炎司も泣いて詫びるような可愛げは持ち合わせていなかった。 
 流石に赤子の頃にまで責任は持てないが、物心ついてからは「そんなことをすると姉に哂われる」という意識が強く、自然な流れで「人前で泣くのは恥だ」と思うようになった。
 そうは言っても根が素直なので、全部の感情に蓋が出来るわけではない。喜怒哀楽のなかでもとりわけ、怒りを堪えるのは難しいことだった。流石に誰彼構わず当たり散らすような醜態は晒さないものの、自分が悪いと思うと頭を下げる気が失せる。父親相手に詰まらない意地を張って食事を抜かれる弟を見ると、姉は「馬鹿馬鹿しい」と言わんばかりに肩を竦めるのがお決まりだった。


 五つ年上の姉は大抵の場合、五つ年下の弟を見下していた。
 炎司が夕食抜きの憂き目に合っていても、納戸の固い床に寝転んでいても、何か差し入れるとか、慰めの言葉を掛けてくれることは決してなかった。ただ空腹だったり、体の節々を痛めている弟の前に現れて「馬鹿な子ね、私はあんたとは違うんだから」と言いたげな目で見下ろしてくる。
 幼い頃は本当に家屋敷の敷地内で起こることが全てだったけれど、やがて年を重ねて外へ出るようになると、自ずと見識が広がった。級友たちの話を流し聞くうち「自分の姉は世間一般の姉と比べて薄情なひとだ」と察したが、一方ではその薄情な姉へ憐れみじみたものを抱くようになった。
 確かに炎司は賢い子どもとは言えないものの、その愚かしさは姉だって同じだったのだ。
 自分は賢いのだと思い込んでいる姉が、炎司が懲罰を受ける度にその様子を見に来る。初めは単なる憂さ晴らしなのだと思っていたけれど、幾ら何でも度々覗きに来るほどの“憂さ”は有してないだろう。理不尽な目にあった憤りは、奇妙な行動を取る姉への疑問にすり替わっていく。

 いつからか、父の不興を買った後には必ず姉のことを考えるようになった。

 炎司が納戸へ仕舞われたあとは、薄い扉を挟んで姉弟二人きりになるのが常だった。
 いつものように一人で不貞腐れていると、やはり両親が寝静まった頃に足音がして姉がやってきた。父親への不満を紛らわせるには、姉は良い気分転換になる。渡りに船と、姉のことを考えた。
 その日も、姉は何も言わなかった。何を考えているのか、とりたてて嫌みを言うでもなくジッとしている。うたた寝するような人ではないし、納戸の前に伸びた濡れ縁は寝心地が良いとは思えない。何より、扉一枚隔てていても姉の纏う空気がぴんと張り詰めているのは分かった。姉は野生動物のように自らの気配を操って、弟が何をしているのか探ろうとしている──そんな風に感じた。
 何か、炎司に触れられたくないものがあるのだろうか? そう思ったものの、この納戸には大した物は仕舞われていない。そもそも姉に物欲があるとも思えないけれど、姉にとって幾らか価値のありそうなお雛様や昔の着物は皆、庭隅の土蔵に仕舞われている。広大な敷地内には数多くの収納スペースが存在するため、わざわざ屋敷の端に位置する納戸を使う必要もないのだった。今、この納戸のなかにあるのは、炎司の他には掃除用品の予備と、古びた竹刀や防具だけだ。大人でも三四人入れるほど広いスペースに、たったそれだけ。姉の関心を引きそうなものは一つとしてない。
 この納戸は殆ど懲罰用の部屋で、炎司にしろ自分か姉が罰を受ける時以外は寄りつかない。
 もし炎司が納戸ごと燃やしてしまったとしても、姉は気に留めなかっただろう。
 そこで不意に、姉も自分と同じではないかと気づいた。姉にしろ、自分か弟が罰を受けた時にしか寄りつかないのだ。その姉がここにいるということは炎司に用があるに決まっている。
 姉が炎司に用があるのは大抵嫌みを言う時に限るが、今は何を言うでもなくじっとしている。この人が炎司に対して「嫌味を言う」以外の用件があるとも思えないが、事実そうとしか思えないのだから仕方ない。黙り込んだままこちらを伺う姉の姿を扉の向こうに夢想して、考えた。
 この人はもしかして、炎司が打ちのめされていないか確かめに来ているのだろうか?
 ふと思った。この人は弟が納戸のなかで泣いているか如何か確かめて、それで、泣いていないから、どんな懲罰を受けても平気でいると思っているのではないか。平気だと思っていても毎回確かめにくるのは、弟がとうとう泣き出したら、その時こそ慰めるつもりでいるのかもしれない。
 生まれついて一切の可愛げがない姉のこと、人の慰め方が分かるとは思えなかった。姉には“世間一般の姉”がするように言葉巧みに労わることが出来ない。そう考えるのは寧ろ自然である。
 姉の不器用なやさしさを思うと、炎司は真っ暗な納戸のなかで愉快な気持ちになった。姉は極めて変わった思考回路をしていたが、彼女の思考を推し量るのは炎司にとって楽しいことだった。

 炎司が姉について考え、それを楽しいと感じるのは、やはり血の繋がりがあるからだ。
 血の繋がりがない他人にとって、姉は単なる“変人”である。それも“とびっきりの”を枕詞にしても良い。単に変わっているだけでなく、性根が歪んでおり、更に人並み外れて優れている姉は否が応にも目立つ存在だった。他人より優れた才能の持ち主は、大衆の羨望や称賛を一身に浴びる一方で妬まれることも珍しくない。人格の如何によっては、忌み嫌われる種になることもある。
 昔から姉はうつくしいひとだったが、その“美貌”が他人に好感を与えることはごく稀だった。聡明さも、弁の立つところも、何もかもが他人の反感を買った。学校の成績や、剣道や空手大会で入賞することも、その反感を覆すことは出来なかったように思う。両親をはじめ、昔から姉にはただの一人も理解者がいなかった。周囲から畏れられているような、煙たがられているような姉を見るにつけ「他人より目立つということは大変なことなのだ」と幼心に感じたのを覚えている。
 他人より優れていることは即ち他人の反感を買うことに等しいと思っていたので、後に妻となる女性と出会って、その人好きのする佇まいに驚いた。オールマイトを知った時も驚いたが、そうはいっても奴は男である。男は女の数倍生きやすい。生理もないし、悪阻も、やっかみも貰いにくい気楽な性だ。その“生き苦しい性”に産まれついていながら、妻の仕草は可憐で伸びやかだった。
 慎ましく密やかな美貌を持つ妻は、穏やかに微笑い、無防備に囁きかける。小動物みたいな女だと、初対面でそう思った。ハムスターやうさぎを握りつぶす人間が少ないのと同じだ。彼女の長閑な態度に苛立ちながらも、強かな女だと思った。姉もこういう風に生きるべきだったのである。
 弱い生き物には、それ相応の生き方がある。姉の不幸は、女としての生を拒んだのが原因だったのだろう。他人より強く在ろうとした姉の美貌が他人に歓迎されることは乏しく、反感を買った。
 
 そうはいっても多種多様な人間がいるもので、姉が好意を持たれることもあるにはあった。
 しかし子どもというのは案外察しが良い。どれだけ姉に好感を持っていようと、姉に近づくことが何を意味するか皆承知していた。自他ともに厳しい姉は弁が立つ。些細な出来心から近づいたところで手痛い拒絶や批判を受けるのは想像するに容易い。炎司にしろ、もし選べるのなら姉に近づきたいとは思わなかっただろう。当たり前だが、姉に“個”として認識されない限り、姉に失望されたり、見下される恐れはないのだから。遠巻きに見ている分には、姉は無害だった。

 不運なのは、姉の害を分かっていて近づかねばならない大人たちだろう。
 姉は年功序列を大いに軽んじていたし、また自分の人生を“個性”に委ねる者を疎んでいた。
 現行法は原則として“個性”の抑圧を目的としているが、一から十まで禁じているわけではない。寧ろ第二第三のデストロを産まないためにも、抑圧と解放のバランスを保つことが理想とされる。
 元々「子どもの才能を伸ばすこと」こそ至上とする学校教育において、大人たちが生徒の人生を“個性”に委ねさせようするのはごく自然だろう。“個性”は可視化された才能だ。その才能を見極め、幼いうちから一つの“才能”のためだけに努力することで、よりよい結果が見込める。そう思うのは、教師だけではない。子ども達だって、誰もがみんな「折角の“個性”を活かした仕事につこう」と思っている。身の丈に合わない夢を持つ子どもも、やがて目を覚ます。そういうものだ。
 炎を自在に操れる炎司が物心つく前からプロヒーローを志していたように、大人も子どもも“個性”という特異能力と生きていくことを容認している。人間には出来ることと出来ないことがあって、“個性”が一般化する前はその境目を探すことが人生だったのかもしれない。しかし、今はそういう時代ではない。“個性”の発現は人類が“技術的特異点”を超えた証拠だと称されることもある。
 姉はそういう“当たり前”を“当たり前”のまま飲みこむ人間が嫌いだった。
 姉にとって殆どの大人は“量産型ロボット”で、議論するだけの価値もない愚物とさえ思っていたかもしれない。姉は──成人した今こそ“異能解放”に好意的な意見を寄せることもあるが、元は徹底的な“個性抑圧派"である。炎司は未だに姉以外の人間が「“個性”の徹底抑圧」を唱えるのを聞いたことがない。今思うと、姉が“個性”を憎んだのはそもそも親の教育に端を発するのだろう。
 姉の“個性”は炎司のそれと殆ど変わらない。少しばかり炎の温度が低いというだけで、姉は失敗作だった。失敗作の姉はただの一度も父親の指導を受けることはなく、単なる“胎”としか見てもらえなかった。そもそも姉に“個性”が宿っていることを容認しなかったのは、両親なのだ。

 総括すると、彼女の性根が歪んだ理由は概ね親の教育にある。
 彼女はそれを理解していたし、それ故にごく幼いうちから親を憎んでいた。
 親の価値観に染まりきった炎司が疎まれたのも無理からぬことだ。炎司にしろ、姉を疎んだ。
 何故普通の“姉”として振る舞ってくれないのだと姉を憎んだ。その奥底には姉の思慕があったとはいえ、姉には弟の気持ちなぞ分からなかっただろう。それを認めることは、自分のなかにも同じものが……二親への思慕があったと認めるに等しいからだ。姉は孤独なひとだった。


 折り目正しい孤独を守って暮らす姉には、その孤独を“孤高”に見せる素養があった。
 姉は凡そ“理不尽”と称されるもの全てを嫌悪し、常に打ち負かそうとしてきた。炎司はその一点においてのみ、変わらず姉を敬してきた。自身の信仰に対する潔癖さが、彼女を孤高たらしめた。
 信仰と言っても“神”に対するものではない。姉は神は勿論、自らの血や、“個性”、意思の力が及ばない全ての物を嫌っていた。彼女の信仰は彼女自身に捧げられたもので、それ故に苛烈だった。
 父親がどれだけ無視しようと姉は自らに厳しい訓練を課し、勉学の面でも決して手抜きはしなかった。教師たちにとって姉は“厄介な生徒”だったが、その一方で文武両道、クラス委員も務め、校則を遵守する姉には“校内一の優等生”という称賛も付いて回った。弱いもの虐めをする者があるとさり気なく割って入ることもままあった。小学校中学校と会長職に就いた姉。運動会でも文化祭でも、合掌大会でも最優秀賞を取る。姉の人となりに関係なく、誰もが姉に一目置いていた。
 確かに姉の性根は歪んでいたが、そもそも殆どの他人には姉の性根を目視出来ないのが現実だった。姉の性根が捻じれているのか真っ直ぐなのか、遠くから一瞥しただけでは分からない。
 姉はそういう人だった。

 姉の美点は──当時の炎司にとって、そう映ったのは──良いことをしても吹聴しないことだ。
 美点とは言っても、その美点から悪者にされるのも一度や二度ではない。喩えいじめっ子から庇われたとしても、事を荒立てたくない一心から口を噤む子どもは少なくない。増して雄弁なのが“いじめっ子当人”だけとなれば、取り立てて反論しない姉がやり玉に挙がるのは必然と言えた。それでも他人は持ち前の美貌や成績から「まあ子ども同士のことだから」と目を瞑ってくれる。
 その一方で、父母の心証は中々回復しなかった。実子だからこそ厳しく躾るというのなら理解も出来る。実際、世の親がするように諭してくれたなら姉は自らの信仰心を捨てたに違いなかった。
 炎司にしろ、確かに幼い頃は「自分もいつか姉のようになりたい」と夢想することもあった。しかし蓋を開けてみれば、彼女は絶望的に要領が悪いだけの“どこにでもいる子ども”の一人だった。

 姉は甘えるのが下手な子どもだったし、両親は滅多なことでは姉を褒めなかった。
 炎司は両親が姉を褒めるのを見たことがない。剣道や空手の大会で入賞した時も、試験で一位を取った時も、両親の見解は「女のくせに出しゃばりでみっともない」で一致していた。
 前時代的な考えの両親と上手くやっていける人間は少ない。炎司も、中学にあがる頃にはもう両親の意見は宛にならないという認識でいた。それ故に思ったのだ。姉の胸にある二親への呪縛は疾うに解けているに違いないと決めつけた……姉の気持ちなど、到底分かるはずもないのに。


 炎司は随分長い間彼女に憎まれていると思っていた。
 食事を抜かれた時、そして納戸に閉じ込められた時、自分の様子を見に来たのは馬鹿にするためなのだと……そう思うのが一番楽だった。何でも出来る姉が、弟の慰め方も分からず突っ立っている──仮説を立てたところで、結局正しいことは分からなかったからだ。そして、もしその仮説が当たっていたなら、姉は結局ただの哀れな子どもだったということの裏付けになる。
 年を重ねるごとに、炎司は意固地になった。年嵩の家族がいる者であれば、炎司の気持ちはよくよく理解できるに違いない。自分より賢しいと信じていたひとの愚かさを知るのは楽しいことではない。自分より賢しいと信じたひとには、永遠にそうであってほしいものだ。それ故、幼い頃の炎司は姉の言葉に碌々耳を貸さなかった。自分を、親を憎んで、外の世界へ行けばいいと思った。

 姉が愚かさを露呈するとき、姉の美しい顔が奇妙に歪むのが常だった。
 炎司にしろ他人のことを言える顔ではないが、絶望的に笑顔が似合わない造りなのだ。もしくは、滅多に笑わないので顔の筋肉がガチガチになっているのかもしれない。何にせよ、たまさか姉の顔が奇妙に歪むと、その口元には“優しさ”に似たものが浮かぶ。それを炎司が「ウワッ」と思ったか否かは些末なことで、大抵の場合、姉の“優しさ”は炎司が愚行を仕出かした時に限られた。
 幼い炎司が姉のように“理不尽”を打ち負かそうとして、逆に手痛いしっぺ返しを受けるのはままあることだった。増して、姉よりずっと強面な炎司は他人に誤解されること珍しくない。
 教師の偏向報告を受けると、親は呆れながらも形ばかりの罰を与えた。
 親の言い分は物心つく前から変わらない。お前は他人と違う。下らない人間に関わるな。親が炎司に与える“罰”というのは、要するに「下らない人間に関わった罰」だった。
 教師の言い分なぞ、親にとっては些末なことなのだ。我が子が学校で騒ぎを起こしたこと、他人に手を上げた理由なぞ如何でも良い。現実問題我が子に怪我を負わされた子どもがいようと、それさえ親は「治療費を多めに渡せば黙るだろう」程度にしか感じていないらしかった。

 尤も、教師がするように頭ごなしに叱られるのも不愉快だった。
 確かに炎司も相手を転ばせたかもしれない。しかし足を引っかけて転ばせるより、同級生からカツアゲするほうがずっと悪いに決まってる。カツアゲまでされておきながら「先生や親に叱られたらもっとひどい目に合う」と怯えるのも馬鹿馬鹿しい。特別感謝されたかったわけでも、良いことをしたと賛美されたいわけでもなかった。何の見返りも求めず、ただ目障りだったから阻害しただけのこと。だから教師に叱られようと、親に罰を与えられようと、炎司の知ったことではない。
 下らない気持ちで納戸の床に横たわると、扉越しに姉が来たことが分かった。いつもどおり、姉は何も言わなかった。衣擦れの音がして、姉が座り込む。それから随分長い間、二人とも黙っていた。親はとっくに眠ってしまったのに、二人きりで起きてるのは不思議な感じがした。
 やがて炎司が眠気を覚え始めた頃、姉が静かに口を開いた。父さんの言いなりになってればいいのに、馬鹿なことしたね。やはり馬鹿にするために来たのだと思った瞬間、姉が囁いた。
『正しいことをしたって、それが他人にとっても正しいとは限らないんだよ。
 あんたはただでさえ生きるのが下手なんだから、他人の正しさのなかで生きてきなよね』

 幼い頃、炎司は姉の言葉に耳を貸そうとしなかった。
 姉の優しさを“醜い”と思ったからだ。

 学校以外の社会を知らない子どもだったけど、親が可笑しいことは分かっていた。
 それ故に、姉が自分の血を愛し、許そうと試みては傷つく様を見たくなかった。あの苛烈さのままに、自分ごと親を切り捨てて欲しいと望んだ。姉のなかに、自分への情や、人間らしい弱さがあることを認められない。そうした業を背負うだけの強さもなく、漠然と姉の“優しさ”を遮断した。
 それでも、忘れたいこと──聞きたくないことに限って、記憶の底に深く刻まれてしまう。
 喩え見返りがなくとも、善行を積むことは正しい。見返りがないのは“それ”が他人に受け入れられないだけのこと。他人に受け入れられたいなら、他人の正しさを解さなければならない。
 自分が今していることは正しいことか。他人は自分を如何思っているのか。そう顧みる度、炎司の気持ちは姉と過ごした幾つかの夜に戻ってしまう。他人の“正しさ”を無視してでも……他人の理解や見返りがなくとも貫きたいものがあるか、自らに問いかける。誰よりも強く在りたい、と。
 炎司が育った狭い世界で誰より“正しい”のは、親は勿論、教師たちでもなく、姉だった。

 炎司が小学校の時にはもう女のプロヒーローは珍しいものではなかった。
 同級生の親は殆ど共働きで、丁度ジェンダー教育が再開された時期とも合致する。中学にあがるまで、体育でも勉強でも、良い成績を残すのは女生徒ばかりだった。個性を差し引いても身体能力や機能に差があるのは理解しているものの、絶対的に劣る生き物だと思ったことはない。
 そういう風に教育されて育ったのは、姉も同様だろう。
 
 炎司が幼い頃、姉はとてもうつくしいひとだった。誇り高い姉は決して他人に媚びない。
 自らの正義に苦しめられる姉を見て「いつか姉の正義を正しく評価する者が現れる」と、ずっとそう思っていた。しかし、今にして思えば、あの正義感は両親への甘えだったのかもしれない。
 両親は、姉のことを決して褒めなかった。女に生まれたのが悪いと言わんばかりの冷遇で、姉は家の中でも孤立していた。テストで良い点をとっても悪い点をとっても「みっともない」、大会で入賞してもしなくても「馬鹿馬鹿しい」と言われ、家事手伝いをしても「当たり前」だった。
 両親をよく知る炎司にしろ、姉の立場で褒められるには如何振る舞うべきなのか分からない。

 幼い頃からずっと、姉はいつかプロヒーローになるのだと信じていた。
 いつか姉の正義を解し、その聡明さや意思の強さを正しく評価してくれる人が現れる。
 そう信じることだけが炎司の贖罪だった。


 中学にあがっても、姉は姉だった。
 空手と剣道で随分賞を取ったが、母親は勿論父親でさえ言及しなかった。
 炎司の体力作りに熱心だったのもあるが、姉の同級に気に入りの弟子がいたことが大きい。
 その弟子の個性が水を操るものだったのと関係するのか、炎司は彼が苦手だった。父親の前では優等生面をするくせ、用具入れでコッソリ煙草を吸うような卑怯者で、それも嫌だった。
 姉とも折り合いが悪く、一度など頭から水をかぶせたこともあった。
 勿論単なる嫌がらせではない。灯油缶の前で煙草を吸っていたからだ。炎司も事の子細を話したが、父親は結局姉を不作法を叱っただけで、未成年喫煙には触れなかった。そういう人なのだ。
 件の弟子は、父娘の軋轢を面白がっている節があり、些細なことでも告げ口した。
 同じ中学に通っているのもあって、姉は随分不快な思いをしたらしかった。炎司にしろ、こんな無愛想で人気商売のプロヒーローが勤まるはずがないとか、師範が期待するだけ無駄とか、散々に侮辱されたものだ。姉に止められなければ、木刀でぶん殴るぐらいのことはしただろう。
 炎司が息巻く一方、姉は冷静だった。あの手合いは面倒くさいから、構うだけ損になる。

 これからプロヒーローになろうってあんたが手を出せば、ますます面白がるに決まってる。
 ビルボードチャートに名前が挙がるようなヒーローは殆ど実名が割れるし、今は通信設備も復興してSNSが流行してる。いつどこで誰が見てるか、何が弱みになるか分からない。そのうち報道規制も厳しくなるかもしれないけど、あんたが現役のうちはどうか分からないでしょう。どうせ、あんたが高学年になれば父さんだってあいつに構ってられない。私だって来年は高校生だし、あんな低レベルな人間とは二度と関わらない。放っておきな。それに、遊べるのなんて今のうちでしょ。

 万事は姉の言うとおりだった。
 炎司は幼い頃からずっと父親が付きっきりで、同世代の子らと遊ぶことを制限されてきた。流石に校内の交友関係まで口出しされることはなかったものの、それでも父親の目を盗んで彼らとの親交を温める暇はなかった。その父親の監視の目が、産まれて初めて緩んだのである。
 途方もない解放感のなか、炎司は虫取りや鬼ごっこといった“未知の遊び”を楽しんだ。
 その当時のことを懐かしめないのは、多分、懐かしさと同時に自らの堕落──親の期待を忘れ、年相応の愉悦に身を委ねたこと──の罪をも思い起こされるからだろう。

 当時、炎司は小学校五年生で、姉は中学校三年生だった。
 父親は件の弟子に夢中で、母親は姉との口論に夢中。炎司はそれを「受験のせいだ」と思っていた。そもそも十歳の子どもが、家族喧嘩に関わりたがるはずもない。激しく罵りあう二人を無視して、炎司は“未知の遊び”に耽った。いつか終わると信じて、家庭問題から目を背けた。
 炎司は昔から変わらない。そうやって目を背けているうちに、姉の精神は粉々に砕け散った。


 姉は絶望的に要領が悪いし、極めて不器用だったけれど、根は優しいひとだった。
 誰からも優しくされたことはないくせに、自らが他人を傷つけることがないよう厳しく律していた。自分の手が触れるだけで、その息が掛かるだけで他人を傷つけるのだと漠然と信じていて、だからこそ姉は他人を寄せ付けまいとした。他人の温もりがないところで、正しくあろうとした。


 中三の夏、件の弟子が剣道の全国大会で優勝したとかで、邸内で祝賀会が開かれた。
 父の弟子たちが軒並み集められ、その下座に据えられた炎司は極めて不快な気持ちになった。父の“お気に入り”は如何にも粗暴な人間が多く、誰も彼も男女同権の“だ”の字も知らない様子だった。女子の部で優勝した姉が客の周りを飛び回って、熱心に給仕する姿に何の疑問も持っていない男たち。酔いに任せて腰を抱かれ、揉みくちゃにされながら、それでも顰め面を作ることさえ許されない。酒が入った父親に「お前はどうしてそう可愛げがないんだ」と詰られて、姉の顔から表情が抜け落ちる。この世に地獄があるとしたら、こういう場所だな。自分の前に置かれたものをさっさとやっつけることだけに集中し、修行の疲れを言い訳にさっさと離脱した。
 誰も助けてくれないのは疾うに承知していたから、炎司の居場所は布団のなかにしかない。

 大人になってから、時折思い返す。
 あの時、姉の手を掴んで外へ引っ張って行ったら何かが変わったのだろうか?

 その夜、トイレに起きた炎司が縁側を歩いていると物音が聞こえてきた。
 納戸の方角から、押し殺した泣き声が聞こえる──きっと姉が父の不興を買ったに違いない。
 炎司が部屋から出る時も、やはり詰まらぬことを理由に叱られていた。姉は確かに忍耐強い子どもだったが、そうはいっても宴会終了まで父と揉めずにいられるかは分かりかねる。
 寝ぼけていたとはいえ、自分一人とんずらした罪悪感も、理不尽に叱責される姉への憐れみもちゃんと覚えていた。だから炎司は、たまには姉を……少しぐらい、慰めてやろうと思ったのだ。
 誓って姉を哂うつもりはなかった。いつかの夜に姉がしてくれたように、姉の気持ちが慰められるまで一緒にいよう。そうしたら、自分たちは“ふつうの姉弟”になれるかもしれない。
 姉の反応は炎司の夢想からかけ離れたものだった。炎司が納戸の前に辿りつくより先に、姉が尖った声で叫んだ。さっさと帰りなさいよ、子どもが何こんな時間に出歩いてんの!

 あたしを慰めようとか思ってるんなら、とんだ思い違いなんだから。
 あんたみたいな、男ってだけで持ち上げられてる出来損ないに、何が分かるっての?
 あたしを救えるだなんて思い上がっているのなら、あんたなんか殺してやる。


 当時、姉は未だ十四歳。お前だってガキのくせにと腹が立ったのを覚えている。
 朝になったら、母親に告げ口してやる。そう思いながらトイレにいって、そのまま床へ入った。
 翌朝、平然と朝食をとる姉が「あんた、夜中にすごい千鳥足で歩いてたけど、ちゃんとトイレいけたの?」とため息をもらす。壁にぶつかる音で起きちゃったじゃないの。そう言われてみると、全てが夢だったように思えた。夜中、納戸にいただろ。そう呟いても、姉は不思議そうに肩を竦めるだけだった。父も、姉を睨むでもなく新聞に目を落としている。いつも通りの朝だった。
 そうだ、幾ら姉に嫌われているとはいえ、傍に寄るだけで「殺す」とまで言われる義理はない。
 何もなかったのだと言い聞かせて、姉の足取りが覚束ないことに気付かなかった──誰も。
 
 夏が終わると、姉の精神は坂道を転げ落ちるように急激に可笑しくなっていった。

 夜遊びを覚え始め、母との対立が深まり、何かと頬を打たれる姿を見る機会が増した。
 憎まれ口を叩くどころか、どんな問いや雑談にも応じなくなり、最早姉が口を利くのは母との口論の時に限られた。あんなに熱心だった剣道は愚か、家事手伝いさえ怠ける始末。
 ありとあらゆることに無気力になった一方受験勉強には熱が入り、中学三年の秋には全国模試で一位を取った。それ故、父母は姉の異常を「どうせ受験ノイローゼだ」と決めつけ、「我が子ながら心が弱くてみっともない」と嘆いた。違和感はあったけれど、十歳の炎司に何が出来る?

 第一、あれの“個性”でプロヒーローが務まるはずはないんだ。父がため息をつく。
 当時のNo3ヒーローは女性だったが、父母は彼女の築いた実績は虚実だと信じていた。
 女の体は戦うようには出来てないんだから、プロヒーローになったところで幸せにはなれないわよ。子どもに構う時間がとれるほど、甘い仕事じゃないんだから。働いたことがない母が言う。
 孫の顔が見れないご両親も、母親に構って貰えない子どもも、どっちにしろ可哀想だわ。引退するにしろ、はい終わりって風にはいかないんですからね。女って人間である前に先ず女なんだから、死ぬより惨い目に合うことなんか珍しくないのよ。母はそう勝ち誇った笑みを浮かべて、抜け殻の姉にゴシップ誌を手渡す。今でこそプロヒーローのプライバシー保護は万全だが、一昔前はプロヒーローに人権などないと言わんばかりの過熱報道が横行していた。
 如何いう心境なのか、時おり姉は、母に手渡されたゴシップ誌をパラパラ捲っていた。
 魂の抜けた横顔がポツンと呟く。わたしよりずっと惨めで酷い目にあってるひとがいる。

 中三の終わり、姉は何かと「見返してやる」と口にしていた記憶がある。
 多分、姉の雄英受験に悲観的だった両親を見返したかったのだろう。寒さが募るにつれ姉の情緒は危うげになり、両親と揉めた後には一人部屋で泣いていた。喧嘩の種は、第一志望校の雄英に落ちた際の進路についてだった。もし落ちた場合、滑り止めの私立高校は受けず、地元の公立高校に通うことを余儀なくされていた。姉は「地元の高校は絶対に嫌」と主張してやまなかったが、両親は「そんなら受かれば良い」の一点張りだった。姉は猛勉強の末に、無事にヒーロー科に合格した。母親が合格通知に目を落として「今年は不作だったんかね」と呟いたのを覚えている。その五年後、炎司の合格通知に「炎司はきちんと結果を出す子だもの」と破顔したのも覚えていた。
 その頃はもう家の中で起こる何もかもに不感症になってしまって、母の言葉をまともに取り合う気力は失われていた。姉が一位通過した入学試験に、二位という結果を残したのが不服だった。

 勿論、炎司だって自分が育ったのが“和気藹々とした家庭”だとは思っていない。
 姉が高校に上がると、いよいよ家庭内の亀裂は断絶と称すべきものへ育まれてしまった。
 姉が高校生になったからではない、父親が愛人を持ったのだ。外に女を囲ってから、母親のヒステリーは酷くなっていたし、時を同じくして姉の奔放さも増した。母親は、姉の奔放さと夫の女好きとを繋げてみているらしかった。馬鹿馬鹿しいことに──姉が高校生にならなければ夫も不貞を犯さなかったと心から信じていた。今にして思えば、随分前から母の心も壊れていたのかもしれない。母親と父親、母親と姉、その二つの断絶が産む絶望から、母親は炎司を溺愛した。
 都合の良い愛玩品として求められているのは、炎司にも分かっていた。だから気持ち悪かった。
 如何してこうなってしまったのだろう。そう思うのと同時に「如何しようもなかった」とも思った。今からでもやり直せるはずだ。でも、もう……炎司も、“この家では”やり直したくない。
 たった一人やり直したい相手がいるとすれば、それは姉だった。


『飽きたら殺してしまって構わないから』
 そう口にして笑う姉が、炎司の腕に金属製の飼育ケージを押しつける。

 白く塗装された柵の隙間から、指の先ほどもない小さな瞳が二人を見上げていた。
 金毛のハムスターだ。正確な月齢は不明だが、炎司の知る限り、姉がこのハムスターを飼い始めてから未だ二月も経っていない。炎司の両親は犬にしろ金魚にしろ「不潔だ」と言って厭う性質で、姉がハムスターを連れ帰ってきた時は大騒ぎになった。無論のこと父親は姉の衝動買いを叱ったが、とりわけ母親の怒りようは凄まじかった。まだ幼い炎司は勿論、父親までもが鬼神と化した妻に恐れをなして逃げ出した。逃げるといっても、やっと中学にあがったばかりの炎司には外泊が許されていない。二人の論戦が収まるまで、一週間掛かっただろうか。いつものことだ。
 炎司はその間ずっと、女人禁制の道場にこもっていた。板敷きの床上で雑魚寝して、宿題も床を机代わりに済ませる。食事時になると渋々食卓についたものの、代わり映えのない話題で揉める二人を前に食欲が湧くはずもない。一人別宅へ逃げた父親が恨めしかった。
 この家はもう駄目だ。十三の炎司にも、それが痛いほど理解出来た。もう駄目だ。

 主席入学した雄英高校をドベで卒業すると、姉は座敷牢への就職を余儀なくされた。

 ヒーロー活動認可資格免許は一応有していたものの、無論父は姉の自立を許さなかった。
 夜毎家を抜け出して遊ぶ“不道徳な娘”の価値は、最早若さだけだと確信していた。何より「娘がこれ以上の不道徳を晒す前に、さっさと嫁がせなければならない」と思ったのだろう。
 両親は雄英の卒業式から姉を連れ帰るなり、そのまま地下に幽閉した。これには流石の姉も堪えたと見えて、二日ほど激しく抗議する声が聞こえてきた。尤も、何度か父に叩かれたことで力の差を承知したのだろう。母が信じた通り、姉が折れてしまえば何もかもが“平穏無事”に進んだ。
 父は憑き物が落ちたように女遊びを止めて、一人息子に修行をつける時間を増やした。
 母は……炎司は、母親にあんなに幸せそうな表情が浮かべられるとは終ぞ知らなかった。
 炎司がプロヒーローになった時より、個人事務所を構えた時より、結婚して、初孫が出来た時よりも、過去未来現在の何と比べても、姉が座敷牢にいた時が最も幸せそうだった。
 姉の抗議が止むと、母は甲斐甲斐しく座敷牢に通った。三度の食事に釣り書き、見事な刺繍が施された振袖に、眩いばかりの白無垢。雛遊びでもするかのように、母は姉の嫁入り道具を選ぶ。

 炎司は一度だけ、座敷牢に居っきりの母を訪ねて地下に降りたことがある。
 初めて足を踏み入れる座敷牢は薄暗く、湿った空気が篭っていた。牢屋部分を区切る木格子は臙脂の塗りが施されているが、所々剥げて素の無垢材が覗いている。畳こそ新しいものの、窓はなく、光源は天井に吊るされた裸電球しかない。その異様としか言いようのない場所に、姉がいた。
 炎司が階段を下りると母親は顔を上げたが、姉の体はピクリとも動かなかった。

 姉さえ大人しく両親の言うことを聞いてくれたら、この家はまだ何とかなる。
 姉が悪いのだ。姉が夜遊びなんかしなければ、父の不興を買わなければ、母の言うとおり貞淑に育ってくれれば、プロヒーローなんか目指さず、雄英になぞ入学せず、ふつうに同世代の子どもたちと打ち解けて、未来に何の展望もなく、自分も母親のように個性婚で嫁ぐのだと受け入れていれば、こんなことにはならなかった。炎司はいつも両親の望む“良い子”として生きてきた。昔から、親の望みに応えることが全てだった。いつしか親の愚かさを知っても、見捨てる事は出来ない。
 如何して五つ下の自分に出来ることが、五つ上の姉には出来ないのかといつも思っていた。
 ……いや、昔はこんな風ではなかった。炎司は昔から、姉の気高い姿を見るのが殊の外好きだった。同級生に姉を褒められると、鼻が高かった。炎司んちの姉ちゃんは県内一美人で、文武両道の生徒会長だもんなあ。姉は炎司よりずっと出来がよくて、勝ち気で、人あしらいも上手くて、話し上手で、女子のわりに発育も良かったし、何より地元では評判の美人だった。
 飾り気のない服を着ていても、姉の誇りはくすむことがなかった。小学校、中学校と、炎司には「そうか、あの火也子の弟じゃあ出来が良いわけだ」という言葉がついて回った。

 炎司にとっての姉は、強い女だった。我が儘で、奔放で、自分勝手。
 幼い頃からずっと、姉はいつかプロヒーローになるのだと信じていた。いつか姉の正義を解し、その聡明さや意思の強さを正しく評価してくれる人が現れる。そうなるはずだった。

 草木も寝静まった深夜、炎司が座敷牢へ降りると姉は大人しく眠っていた。
 壁へもたれるようにして眠る姉はすっかり痩せこけていた。畳の上に置かれた夕食はまるきり手付かずのように見える。炎司は懐中電灯の明かりを小さくして、そっと木格子に近づいた。
 出入り口に吊るさっている南京錠はシリンダー式らしい。炎司だったらヘアピンとペンチさえあれば易々と逃げ出すことが出来る。ただ、その二つを差し入れたところで姉が開け方をしっているかどうか……それに座敷牢の内側にいる姉が外側の錠を弄るのは難しい。炎司はため息をついた。
 畳の上にしゃがみ込んで、南京錠に触れている指の先に炎を灯す。“個性”の応用についてはまだまだ修行不足だが、U字状になってる金具の一部を溶かすぐらいは出来るだろう。低い音を立てて溶けだした真鍮が炎司の指を伝う。熱さは感じないが、心拍数が増加して僅かに息苦しい。
 南京錠を単なる“インテリア”にしたところで、何も変わらない。母が気付けばすぐ新しいものに変えるだろうし、母より先に姉が気付いたなら……炎司は闇に慣れた目で、姉の寝顔を見つめた。

『飽きたら殺してしまって構わないから』
 このひとは、あのネズミを捨てたのと同じぐらいの気軽さで弟を捨てるだろう。
 炎司には分かっていた。姉が白無垢を着ることはないだろう。どれほどしおらしい態度を取っていても、母の作った食事に手を付けないのがその証拠。姉は遠からずこの家を出る──独りで。

 自分の部屋に戻ると、炎司は箪笥の一番下の引き出しを引っ張り出した。
 衣類の下から通帳を取り出す。中学校入学と同時に作った口座には、親戚連中から貰ったお年玉や中学校の入学祝、月々のお小遣いなどが細々収められている。十三歳の割りには大した金額が貯まっていた。これだけあれば、雄英高校の入学金・三年分の授業料は十分賄える。元々雄英は国立校だから授業料は安いし、助成金も出る。あまり贅沢をせず、長期休暇にバイトを入れれば何とか自活できそうだ。貯金額を指さし数えながら、炎司はカラカラ騒がしい飼育ケージを振り返った。ハムスターの医療費だって、まあ大して掛からないだろう。どうせ二年も生きないのだ。
 中学校はどこでも良い。炎司には、推薦があろうとなかろうと確実に雄英高校に受かる自信があった。だから……。通帳を元通り衣類の下に埋めて、開けっ放しの引き出しを閉める。
 姉はきっと炎司を連れてはいかないだろう。自分たちの関係を顧みれば、それは当たり前のことだ。姉のなかに優しさを覚えたのは、ずっと前のこと。笑った顔も、もう何年も見ていない。
 たった一言、一緒に行こうと言って貰うことを夢に見た。

 昔から、炎司は「自分はプロヒーローになるのだ」と思い続けてきた。
 親に言い聞かされて育ったせいもある。でも、一番の理由は姉がいたからだ。姉が炎司のなかにある“正義”を信じてくれた。他人に理解されずとも、あなたが間違っているわけではないのだと教えてくれた。喩え味方がいなくとも、自分が信じるものを信じ続ける強さが欲しい。
 馬鹿げた矛盾だ。独りで生きていくために、姉と一緒に生きたかった。本当は父親も母親も如何でも良い。家名も“個性”も才能も何も関係ない。ただ姉だけが炎司自身を見てくれた。生きるのがヘタクソだと言って慰めてくれた。父親に打ちのめされた弟に「慰めたい」と思ってくれた。
 姉だけが本当の家族だったのに、姉は炎司を捨てて出ていく。このままこの家にいたら、姉は本当に気が可笑しくなる。これ以上ここに留めたら、姉の精神は跡形もなく砕け散るだろう。だから南京錠に細工した。置き去りにされると分かっているのに、姉を追うほどの熱意もないと分かっているのに通帳を確かめた。姉と二人──それにハムスター一匹と──の暮らしを夢見た。

 父親に殴られることも、母親の異常な愛を受けることもない。
 喩え手を差し伸べることが出来なくとも、姉は扉越しに一緒にいてくれた。姉の気配を感じると、体の節々が痛くても、厳しい修行に辟易としている時でも、いつも安心した。
 いつか、きっと……自分が如何しても困った時には手を差し伸べてくれると信じていた。
 分かりきっていることだ。じきに炎司のほうが父親より強くなるし、母親より世慣れする。炎司が大人になったら、両親よりずっと上手くやる──愛するものが去らないように。

 座敷牢から出てきた姉は、案の定炎司に手を差し伸べなかった。
 感情のままに罵る炎司に傷ついた顔をすることもなく、淡々と靴を履いて、引き戸の内鍵を外す。このまま見送れば、父の怒りを受けるのは分かりきっていた。幾ら炎司でも、自分よりうんと年嵩の男性に殴られるのは痛い。何度手を上げられても、痛覚が鈍ることはなかった。
 頭の中で「逃げてしまえ」と囁く声がする。轟の家名にどれだけの価値がある? ハムスターのケージや通帳、印鑑は部屋だったけれど、姉を掴まえて、どこかで落ち合う手筈を整えたって良い。姉と一緒に行けるのなら、何発叩かれても良い。でも、姉が炎司の手を振り払ったら?
 今更何よ。あんたが死のうと生きようと、あたしには如何でも良いの。いつか見た悪夢のように、尖った声で突き放されたら……そう思うと、手を伸ばすことは出来なかった。
 さよなら、ごめんなさい。元気でね。さようなら。そう口走って、手ぶらの姉が走り出す。

 十三歳の炎司にとっては、この家が全てだった。
 炎司が産まれた時にはもう姉がこの世界に暮らしていて、姉は五歳だった。姉の写真が乏しいアルバムを開く度、炎司は自分の記憶を辿った。炎司がひらがなを覚えた時、姉は小学校に入学した。炎司が初めて胴着をつけた時、姉は全国作文コンクールに入選した。炎司が小学校に入学した時、姉は剣道一級を取った。姉はずっと炎司の傍にいた。数字にしてしまえば十三年だ。
 炎司の永遠はたったの十三年。あんまりに果敢無い“永遠”が、目の前で崩れ去ろうとしている。


『姉さん、オレも一緒に連れてって』
 後にも先にも、自分の感情をみっともなく晒したのはあれっきりだ。

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