パンはパンでも
たべられないパン
なーんだ

「じゃ、福岡来る?」
 ……むぎは一瞬、自分たちが何の話をしていたのか分からなくなった。

 俺と結婚してさあ、来ちゃいなよ。
 そう言って悪戯っぽく笑う男は、むぎにとって良い聴衆だった。何せ、二人がこのフードコートに腰を落ち着けてからの一時間ずっと聞き役に徹してくれたのだから。ありがてえこった。
 男は聞き上手だった。“極めて豊富”としか言いようのない語彙――具体的に言うと「ふーん」「へえ」「そーなの」といった言葉を駆使し、実に巧みにむぎの愚痴を聞きだす。要するに、この“ヘーホーフーン男”は己が意識をスマホに注力したまま、全力でむぎの話を聞き流していた。
 ちょっとは聞けや!と思わないではないが、まあ聞きたくないなら仕方ない。
 基本的人権の観点から言っても、男には“国家から制約も強制もされず、自由に物事を考え、自由に行動できる権利”が与えられている。国家に出来ないことが、むぎに出来るはずもない。むぎは男の「ふーん」「へえ」「そーなの」を咎めなかった。いや、幾らかは咎めたけど、最終的には諦めた。大体にしてむぎ自身、尤もらしいアドバイスを求めているわけではないのである。
 相澤に情け容赦なくクビを切られてから、未だ一週間と経っていない。
 なまじ「俺も正直言って残念だけど、相澤先生も真剣に君の事を考えたんだと思うよ!」などのキラキラしい慰めを貰ったところで、むぎには上手く消化出来なかった。どこまでも青く澄んだ空のようにハツラツとした先輩に「編入試験、ファイト!(サムズアップ)」と励まされても、むぎの心は晴れなかった。それは通形先輩が悪いのではない。むぎの“人間としての器”が小さすぎるせいで、あの大らかかつ親しみがあって心優しい先輩の善意が上手く入らないのだ。
 この世の中に、通形先輩の励ましを上回るものは幾つもない。それ故、目の前にいるのがヘーホーフーンbotだろうと椅子だろうとむぎにとっては如何でも良い――と、己を納得させた。
 完全に開き直ったむぎはベラベラと舌の赴くまま捲し立てた。捲し立てるうちにやがて舌と心臓が直結し、その結果としてむぎは自分が何を喋ったか分からなくなった。

 我々は何の話をしていたのか。多分、兎に角、プロポーズされる流れではなかったと思う。
 男はさっきまで――むぎが散々「ちゃんと聞いてよう!」と喚いたにも拘わらず、むぎの訴えの全てを俯いたまま「へ〜」と“心ここに非ずの返事”で誤魔化していた。しかし、むぎは寛容だった。その「へー」も、「ふーん」も、「そ〜なの」も、全部むぎは受け入れてやった。
 善良な一日本国民として、他人の“自由権”を侵してはならないと思うからだ。それなのに、男はむぎの配慮に一切感謝する様子もなく、今更になってむぎの狼狽に見入っている。
 男は頬杖に寄り掛かって、ニヤッと意地の悪い笑みを浮かべた。
「うちの事務所から通える範囲でヒーロー科のある高校なんか山ほどあるし、福岡は良いよ」
 一体福岡の何が良いのか、そして何故突如として脱静岡を勧められているのだろう。
 むぎはとりあえず紙カップに注がれたコーラを飲むことにした。フードコートにダラダラ居座っていることと、欲張ってLサイズにしたのもあって、コーラは大量の氷で薄まっていた。
 何の脈絡もなくプロポーズされたとき、ひとは糖分を欲するものだ。糖分は頭の回転を速めてくれる。速まったところでむぎの脳裏をよぎるのは元担任への不平不満だけなのだが――そうだ、むぎがフードコート一面に響き渡る声量で披露した演説内容は相澤のケツの話であった。仮にも半年世話になった相手のアナルを呪っている最中にプロポーズされるのは滅多にあることではない。
 この男が異常性癖を有しているならまた話は別だが、常識的に考えてこのタイミングでのプロポーズは“ジョーク”である。むぎは眉間にしわを寄せて、遺憾の意を表明した。
 よもや“本気かもしれない”と思ったわけではないのだけれど、botが意味のある言葉を喋るとは思わなかったので混乱してしまった。蓋を開けてみればドストレートな嫌がらせでしかないのに。

 この男、決して悪い人間ではない。
 寧ろむぎの愚痴に(一応)付き合ってくれることから分かるように、かなり良い人間なのだが……その飄々とした言動から真意を探るのは容易なことではなかった。出会ってからもう一年近く経つのに、未だに本名を明かしてくれないのも“真意を探りかねる理由”の一つだろう。

 男――ホークスは“速すぎる男”の異名を持つプロヒーローだ。
 彼自身まだ二十歳そこそこの若者というのも関係して、若年層、特に女性を中心に強い人気を有する。支持率・社会貢献度・事件解決数の全てで高い数値を叩きだし、史上最年少でのヒーローチャートTOP10入りを果たすという輝かしい経歴を誇る。当然その知名度は極めて高い。
 ありとあらゆるメディアに取り上げられ全国的に顔が知られているものの、その活動拠点は地方にある。メディア露出の際は“恐いものなしの問題児”として扱われることが多い一方、地元福岡では老若男女を問わず万人に親しまれているらしい。その落差から、ホークスが意図的にメディアウケの良いキャラを作っていることが知れる。軽薄な若者を気取っているが、言葉の端々に宿る知性までは誤魔化せない。ホークスに幾らかの苦手意識を持つむぎでさえ、“このひと以上に才気走るという言葉が似合うひとはいないだろう”と思う。支持率の高さも納得というものだ。
 ただ一つ納得出来ないのは、この福岡住まいのクソチート男が頻繁に会いに来ることである。

 言うまでもなく雄英に通うむぎの住まいは静岡だ。
 福岡と静岡は名称こそ似ているものの、普通に遠い。新幹線で四時間弱、飛行機で一時間四十分。確かにホークスはその“個性”柄、応援要請があれば北は北海道、南は沖縄まですっ飛んでいく機動力の高い男だ。しかし定期的に「来週いつ空いてるか教えて、そっち行くから」と言って、実際に何の変哲もないショッピングセンターでむぎを待っている姿を見ると「何のために……?」と不思議になる。勿論ヒーローコスチュームを着けてなかろうと、背中に背負った羽根の存在感は如何しようもない。黒山の人だかりのド真ん中で手際よくファンサしてるあたり、一概に“こんなとこにくるなんて、何の意味もない”とまでは言えないだろう。生ホークスに浮き足立つ人々がハケるのを待つ最中、むぎの脳裏には“草の根運動”という言葉が浮かぶ。マメな男なのである。
 若く聡明なばかりか、その顔だちも美男子とは言えないものの――男の顔面偏差値を測る時、むぎは否応なく従弟を基準にする癖があった――愛嬌があって可愛らしい。人気商売のプロヒーローのなかでも一際人気で、応援要請・チームアップ依頼・インタビュー依頼・サポートアイテムの開発協力etc……ありとあらゆるひとからラブコールを受ける多忙な男が、何故自分に会いに来るのだろう。むぎには分からなかった。そんなに非実在痔主に興味があるのだろうか。
 むぎのことが好きだというなら、分かる。六歳年下で担任教師のアナルを罵倒するJKに惚れる男が現実にいるか如何かは抜きにして、ホークスが実はアナルフェチの可能性もあるし、単純にむぎが好きで会いに来ているなら納得も行く。しかし「俺、月一でむぎちゃんとデートしないと死んじゃうからさあ」とは口先だけで、いざ会ってみれば先述の通りの“ヘーホーフーンbot”である。
 男は、好きな女の話を聞く時に“ヘーホーフーンbot”となってしまうのだろうか?

 むぎは顔が良い。アナル呪術も、よっぽど嫌いな相手にしか行使しない。
 平素のむぎは穏当なものだ。たまにオムライスを前に「ひよこさんがかわいそう……☆」などと言ってメソメソするぐらいである。そういうことを言うと周囲の人間がむぎの正気を測りかねて困惑するため、大変面白い。むぎにとって“奇矯な言動で他人を困惑させること”は、ストレスの発散方法の一つだった。そうした“振り落とし”を行ってさえ、むぎに言い寄る男は決して少なくない。何となれば、理由は一つである。むぎの顔が良いからだ。むぎの顔しか見ていないのである。
 むぎを好きになる男はむぎの顔しか見ていないので、原則的に会話が成立しない。会話が成立しないので追い払うのが困難である。彼らはむぎの最寄り駅にポップし、帰り道にポップする。
 父親より年嵩の異性にケツを撫でられながら、もしくは父親より年若いものの大切なところの風通しが良すぎる異性に迫られながら、むぎは親戚のことを想う。母方の従姉弟たちは言うまでもなく、父方のはとこはもっと顔が良いうえに心根も良い。彼女たちはこういう状況に陥った時、どうやって追い払うのだろうか――知りたい。尤も彼女たちほどに非の打ち所がないと、悪意や邪念のほうが勝手に委縮するに違いなかった。それとなく探りを入れても、その容貌と同じく光り輝かんばかりにうつくしい答えをくれるのだ。まあ、この寒い時期に半ズボンの方がいらっしゃいますの? むぎには、無垢なはとこを前に「チンコがポロンよ!」などと言い放つ度胸はなかった。
 場合によっては「チンコがポロン」を口に出来るむぎは無論“神通力”を持ちえない。
 むぎと同様に邪念塗れの男たちは皆、熱心にむぎの話を聞く。むぎを褒めたたえ、その全てを肯定し、むぎを困らせるものを呪い、むぎの顔が少し曇っただけで大地が割けんばかりに慟哭する。
 そして「死も二人を分かてはしない」とまで燃え上がった男たちは、むぎがアナル呪術を行使すると二度と会ってくれなくなるのであった。雨の日も晴れの日もヴィランが出没した日も、毎日毎日むぎの最寄り駅で待っていた男はパタリと姿を見せなくなった。熱心に「いつでも君のSOSに応えたい」と言ってむぎの電話番号を聞きだした男は、常に電波の入らないところにいる。かつて数時間おきに「むぎちゃん(^ε^)-☆Chu!! 今むぎちゃんのこと考えてたよ♪」とリプライを寄越した男のツイッターホームには未だに「あなたはブロックされています」と表示される。
 むぎを好きになる男というのは、こういう輩だ。むぎ自身がアッパラパーなので仕方ない。
 ホークスは、これまでむぎを好きになった男の誰とも違う。

 男は、好きな女の話を聞く時に“ヘーホーフーンbot”となってしまうのだろうか?
 否――この“ヘーホーフーンbot”の好きな女は自分ではないと考えるほうが自然であろう。
 それでは一体ホークスは何のために、六歳年下のアッパラパーJKの話に付き合うのだろう。わざわざ福岡くんだりから出てくるなら、こんな地方のショッピングセンターでJKの愚痴を聞くより大事な予定は山ほどあるのではなかろうか。むぎがホークスだったら、絶対むぎには会いに来ない。
 あまりに分からないので、一度、ホークス当人にその疑問をぶつけたことがある。
 TOP3入りを目前に控えた優秀なヒーローが、こんなところでむぎなんかに会ってて良いの? ホークスの返事は簡潔だった。目を眇めて、むぎに聞こえるか聞こえないかの声音で笑う。
『むぎちゃんに会うついでに予定入れてるんだから、良いに決まってる』
 むぎは、ホークスの“ジョーク”を頭から信じたりはしない。

 ホークスは時として過激な発言で世間を賑わせるものの、大凡要領の良い男だ。
 飄々とした笑みで他人の怒気を削ぐ様からも、彼が単なる“問題児”でないことを察するのは容易である。少しでもホークスに関心を持つ人間であれば、誰であれ「軽薄な若者を気取っているけれど、その内面は実年齢よりずっと成熟した大人」という印象を覚えるに違いなかった。
 むぎのなかのホークス像は“その何れとも違う”し、もしくは“何れも正しく合致する”。
 問題児としての一面も、年の割りに大人びた一面も、どちらもホークスの素顔だ。ただ、“自分”を粉々に砕いて、その時々で使い分ける癖がついているだけで――ホークスに対して、むぎはそう思っていた。この人の賢しさは、幾重にも積み重ねたブラフのなかで己を失わない強かさだ。
 要するに、ホークスが口にする揶揄は純粋な揶揄にしかなりえない。“自分を見失った苦しみが自ずと漏れ”とか“不意に己の弱さが露わになった”とか、そういうことは一切ないのである。
 ホークスがむぎを揶揄する時、そこには「こいつをバカにして遊んだろ!」以上の意図はない。だからこそ、ムチャクチャに腹が立つ。むぎが真面目に「何故むぎに会いに来るのう?」と聞いたところで、ホークス当人が真面目に答える気にならなければ万物が無意味なのだ。腹立たしい。
 当人が真面目に答えてくれない以上、むぎに残された道は二つだ。疑問そのものを放棄するか、ホークスの人間性を探って推論を立てるかである。そうと思い至ったところで、むぎはアッサリ前者を選択――しようとした。……楽な選択肢を取ろうとしたけれど、放棄しようにも、忘れようにも、こうして顔を突き合わせてしまえば否が応にも疑問は湧いてくる。
 この人は一体何故自分に会いにくるのか。そして、何を考えて生きているのか。

 このひとは誰よりヒーローという存在に焦がれている。
 ホークスが“自分”を粉々に砕く痛みを厭わないのは、それを凌駕する強い思いがあるからだ。
 幾重にも積み重なった虚偽は“不要になった自我”を切り捨てるため、狂気にも似た憧憬だけを胸に残して生きる修羅のひと。ホークスの根幹には“ヒーロー”に対する強い憧れが存在する。
 ホークスがエンデヴァーに特別な念を抱いているのは、すぐに気付いた。そうでなければ、喩え些細なことでさえ叔父の情報は流せない。ホークスがエンデヴァーに敬意を持っているから、こうして逢瀬を重ねている。ホークスが超人社会の成熟とその先の平和を願うから、彼が知りたいことを話す。一人の人間としては掴めないところがあるものの、ヒーローとしては信頼がおける。
 ホークスは不思議な男だ。何を考えているのか分からないのに、信頼できる。賢いのに、笑えるほど要領の悪いところがある。他人を寄せ付けようとしない頑なさを感じることがある。
 自分が泥を被ってでも他の正義を証明しようと試みる。そんな時、ホークスは痛々しいほど真っ直ぐな目をする。その懸命さが、むぎには分からない――ただ既視感を覚えるだけで。

 時折、ホークスの横顔に叔父のものが重なることがあった。
 たった一つ自分の“理想”以外は何物も映さない、狭すぎる視野。先に進むため、全てを捨て去った空っぽの横顔。他人を寄せ付けない立ち姿。それを痛々しいと思うのは、むぎの勝手な感傷だ。
 不思議なひとだと思う。万華鏡のように、クルクルと姿を変えて尚“理想”を見失うことがない。叔父と同じところ、違うところ――この男が何を考えているのか、どんなひとなのか考えはじめると、むぎは思索に夢中になってしまう。もっと色んな光を放ってほしいと思う。
 未だ見ぬ光に灼かれるとき、むぎは恍惚に似た焦燥を覚える。もっと、もっとと強く思う。
 一瞬のために全てを賭す様の何とうつくしいことだろう。何度でも繰り返し灼かれたいのに、もしくは何もかも灼き尽くされてしまえばどんなにか幸福だろうに、光は一瞬で消え去ってしまう。捨て去るものが大きければ大きいほど“光”は輝きを増し、深く長い絶望を産む。
 “光”は未練だ。自分自身が捨て去るものの重さを承知している者にしか、放つことは出来ない。
 抗しがたい救済衝動にその身を灼かれながら、叔父は幾度でも繰り返し正義を執る。
 叔父は己の自我を理想で磨り潰す痛みを味わって尚、諦めようとはしない……いつか、どこかに辿りつけると信じて。世界で一番うつくしい愚直。その強烈な輝きはむぎを魅了して離さない。
 しかしホークスは叔父とは違う。このひとの自我は“理想”と癒着してしまっている。捨て去るものはなく、ただ焦燥を持て余しているのだ。同じ空虚でも、その性質は叔父のものとは異なる。
 叔父の“頑な”は矜持だ。叔父について語るとき、むぎは「孤高のひとだ」と明言することが出来る。そして、喩えそうでなかったとして、むぎにはその背に寄り添う権利はなかった。
 叔父は真に自分の求めるもの全て、先に進むためだけに棄ててきた。その孤高を前に「寄り添いたい」と望むのは叔父を侮辱するも同然。それ故、むぎは叔父を誇りに思う。
 狭すぎる視野も、空っぽの横顔も、他人を寄せ付けない立ち姿も、全てが煌々と光を放つ。
 叔父はこの国のNo2.ヒーロー・エンデヴァー、孤高にして最高の英雄である。

 孤高にして最高の英雄。叔父に焦がれるホークスは、時折その顔にあどけない憧憬を浮かべる。
 彼の放つ光はチカチカと頼りなげに瞬いて、その儚い輝きは絶望を手繰り寄せることがない。ただ優しく、他愛のない希望をまき散らすだけの光。このひとは一体、何なのだろう。
 問題児としての一面も、年の割りに大人びた一面も、どちらもホークスの素顔だ。“自分”を粉々に砕いて、その時々で使い分ける聡明さ。幾重にも積み重ねた嘘のなか、長い時を過ごすひと。
 幼い――と思うことがある。むぎの目に、ホークスは不器用で、真っ直ぐで、見ていて怖くなるぐらい純粋な憧憬を持て余しているように見えた。この人には何にもないのではないかと思う。
 叔父が己を棄てることで、大切なものの全てを切り捨てることで先に進もうとしたのと違って、この人には最初から棄てるものも、大切なものもなかったのかもしれない。
 こんなにも優秀で、何でもできるひとなのに、自分自身は自らが憧れ続ける“ヒーロー”に含まれることがない。その自己卑下もまた彼を身軽たらしめるのだ。あまりに果敢無くて、優しいひと。
 危ういバランスの上に成り立つヒーローだから、人々の関心を集めるのかもしれない。
 この男について考えると、余計に「何故自分如きに会いに来るのか」分からなくなってしまう。

 何にせよ、理由の一つには“表に出回らないエンデヴァーの話を聞くこと”が含まれる。
 世間一般には好戦的なイメージで知られるものの、そもそもホークスは頭脳労働を期待されるケースが多い。「火力に難あり」と自称するだけあって、それを補うためにも情報収集の手間は惜しまない。メディアのアポに応じるのも、むぎに会うのも“草の根運動”の一環である。
 ……しかし、エンデヴァーのことを知りたいだけならSNS上のやり取りで十分なのも事実だ。エンデヴァーの身内とはいえ、所詮むぎは一般人。パンピのむぎが外部への流出を警戒するほどの重大機密を有するはずもないのだから、ダイレクトに顔を突き合わせる必要は一切ない。増してむぎの話は八割が日常の愚痴である。アナル呪術の話だ。やっぱりアナルフェチなのかもしれない。
 今回顔を突き合わせた結果としてホークスは相澤のアナルが健康であるという知を得たが、恐らく二人が顔を合わせることは今後ないであろう。というか、顔を合わせて貰っては困る。
 ホークスのことだから、相澤を前にしたら不遜にも「そーいや、ケツの揉み心地が良いらしいっスね」とか言う。痔主扱いは平気でも、自分のケツの具合が津々浦々に知れるのは不愉快であろう。後先考えずにベラベラ喋ってしまったが、ホークスはむぎを困らせるのが大好きなのだ。
 もうこんな告げ口魔には何も喋らないもん。会う度にそう決意しては忘れ、新たに発生した愚痴をホークスに吹き込んではまた忘れた頃に「そういや、エンデヴァーさんの古着使って抱き枕作った話ってオフレコ? 他人に話して良い?」などと脅される。いい加減ホークスに弱みを晒すサイクルから脱却したいものだ。ただ、この男が自分の弱みを握って何をしたいかは不明である。
 何にせよ、今もホークスはむぎが困っている様を見て楽しんでいる。先ほどの脈絡のないプロポーズも、いつもの嫌がらせと捉えるべきだろう。むぎをイジメるのがそんなに楽しいのだろうか。

「むぎちゃん、い〜かげん何か喋ろ?」
 ホークスはニヤニヤ笑いながら、返事を急かす。
 むぎはムウウ……と唸った。ホークスの態度は“嫌がらせ”の証拠として十分すぎるものだ。
「むぎ、まだ十五歳だもん」そういう問題でもないのだが、上手い返しが浮かばなかった。一度混乱した思考を立て直すには些かの時間を要する。「それに、叔父さんに呆れられちゃうしい……」
 もし、今むぎの向かいに座っているのが叔父であれば「いい加減、年相応の話し言葉を身につけろ」と冷たい視線をくれたであろうし、相澤であれば「お前の話し方は合理性にかける」とため息をついたであろう。しかしホークスは嫌な顔一つ見せず、泰然とポテトフライを摘んでいる。

 むぎは、その父親から「むぎは世界で二番目にかわいい、僕のお姫様だよ」と言われて育った。
 甘やかし放題甘やかされて育ったむぎは無事に万札と水の区別がつかない女になったし、自分のことを名前で呼ぶ癖を改めようともしなかった。ついでに言うと、語尾も甘ったるく伸ばす癖がある。自分のことを“世界で二番目にかわいい”と思っているからだ。世界で二番目にかわいいので、それに見合う話し方をしたい。それ故にむぎは自分のことを名前で呼ぶし、甘ったるく語尾を伸ばす。結果として初対面の人間の凡そ九割に“アッパラパー女”の感想を持たれようと、むぎには如何でも良いのだ。高校生にもなって、正気の沙汰とは思えない。アッパラパッパラパーである。
 尤もむぎの自惚れも、父親の甘言も、あながち的外れとは言い難いところがあった。
 父方の八百万家、母方の轟家、どちらも美男美女揃いのエリート家系だ。その血を引くむぎの容姿は極めて優れていた。特に轟筋の親族の殆どが年嵩なのも関係して、一つ下の従弟と遊んでいると“まるで一対の内裏雛みたい”と誉めそやされたものだ。なまじ顔が良かったばかりに彼女の自惚れは矯正の機会を失ったまま、未だに“むぎは世界で二番目にかわいいもん”と信じている。
 
「むぎをからかっていじめるのはやめてねえ……?」
 暗に“ストレス発散のために会いにくるのはやめろ”と言ったのだが、ホークスはシュンとするどころかその笑みを深めた。ポテトフライを摘まむ手を止めて、じっとむぎを見つめる。
 むぎは自分のことを“世界で二番目にかわいい”と思っていたが、万人の目にそう映るわけでないことぐらい承知している。ホークスが口煩くしないのは、単にむぎに興味がないからだ。それでは、ホークスがじっと自分の目を覗き込むのには何の意味があるのだろう――答えはすぐに出た。
「突飛なこと言われて困惑する顔、エンデヴァーさんに似てるね」
 あと、目の色もほんと同じなんだね。あっけらかんと付け足して、軽薄な笑みを浮かべたままポテトフライの続きに取り掛かる。この男、彼女がいない(公称)のは同性愛者だからかもしれない。


 何にせよ、真面目に「やめてね」と訴えかけている最中に茶化されるのは楽しいことではない。
 しかもむぎの叔父は御歳四十四歳の強面のおっさんで、凡そ十五歳のJKにとって共通点を見いだされたい相手ではない。むぎは釈然としない気持ちと共にホークスを睨んだ。
「むぎちゃん、ポテト食べる?」
 むぎの気持ちなど如何でも良いと思っているに違いない。ホークスがポテトフライの入った赤い紙容器をザラザラ振って誘惑する。むぎはハッとポテトフライを見つめた。ちょっと欲しい。
 “個性”柄、むぎは食欲が旺盛な性質だ。パンを“創造”する際には脂質を用いるし、炎熱が篭った体はただでさえ燃費が悪い。ついさっきもハンバーガー四つとトリプルチーズバーガー、ラージサイズのポテトフライを食べ終えたところである。この大食も男が離れていくことの一因であろう。
「……食べるう」
 幾らモヤモヤしていても、食欲には勝てない。むぎは一切の衒いなく“あーん”と口を開けた。
 ポテトフライを食べると油と塩で指がベタベタになる。既に自分の分を食べ終えたむぎは数本のポテトフライのために指を汚す気分にならなかった。先述の通り、蝶よ花よと甘やかされて育った女である。自分にも他人にも厳しい叔父に幾らか矯正されたとはいえ、父親に「あ〜ん」されて育った過去は消えない。むぎは、幾らか親しい相手であれば誰でも給餌してくれると思っていた。
 口を開けてポテトフライを待つむぎに、箱ごと渡そうとしていたホークスがフリーズする。
 しかし、結局は苦笑と共に数本のポテトをむぎの口に放り込んでくれた。
「……誰にでもこういうことするの?」
「んん?」咀嚼しながら、むぎは頭をひねった。「怒らなそうなひとなら……?」
 ほぼほぼ“誰にでもします”と宣言したむぎに、ホークスが極めて不愉快そうな顔をする。
「ま、いいや。むぎちゃんは猫ちゃんだもんね」
 今度はむぎが狼狽する番だった。さっきまでヘラヘラしていたのに、何が癇に触ったのか分からない。むぎが他人に迷惑をかけながら生きているのが、そんなに不愉快なのであろうか。
 ホークスは全く“良い”とは思っていなさそうな態度で、思いっきりふんぞり返った。

「俺は相澤センセの考えは分からないでもないね。むぎちゃん、絶対ヒーロー適性ないもん」
 何故二話連続で人格を否定されねばならないのだろう。
 メタメタしい感情を覚えたむぎは、ここに至ってようやっと自分の発言に責任が持てた。それと同時に、ヘーホーフーンbotと化してる間もむぎの愚痴を精確にリスニングしていたらしきホークスに感動した。あんなに熱心にスマホを覗き込み、タフタフ長文を打っていたのに、ちゃんとむぎの愚痴の全容を把握しているだなんて思いもよらなかった。スマホを鞄に仕舞ったまま、会話に集中していたむぎが自分の話した内容を丸っと忘れたのとは大違いである。流石プロヒーロー。

 今日は午前中一杯使って、サポート科への編入試験を受けさせられたのだった。
 午後は午後で相澤から「もう“ヒーロー教養”やる意味ないから、午後は経営科の編入試験問題集解け」と指示される始末。先生が寝てる間にテキトーに終わらしたるわい!とサカサカ鉛筆を動かしていたら、いつの間にか横に来ていた相澤(ミノムシフォーム)に「無様な結果だったら退学にするからな」と囁かれるなど、散々な一日であった……という話を一時間ずっとしていたのだ。
 無論、除籍の経緯についても話した。体育祭でチアガールをしたら「あの卑猥な生徒は誰ですか」と自分一人クレームが来たこと、「パンを足で踏むヒーローだなんてとんでもない」と全日本パン屋協会からクレームが来たこと……むぎは大いに喋った。ハチャメチャに愚痴った。

 どうせ聞いてないと思って好き放題喋るから、こうしてド正論の指摘を受けるハメになる。
 学びを得たむぎは「もう二度とホークスさんには会わないもん!」と決意した。
 ホークスはむぎの愚痴を親身に(この場合は“適当に”と同意義である)聞き流してくれるし、ポテトフライも分けてくれる。しかしむぎに惚れていないので、時折クソ手厳しい台詞を口にする。
 もう会わないもん! 先月もそう決意したのに、こうして会っている時点でお察しである。
 耳を塞ごうかな?とソッと両耳に触れた途端、ホークスが「ま〜た猫ちゃん?」と意地の悪い響きを口に食む。怖いよう。いじめるよう。しかし先に相澤の正当性を無視して批判したのは自分なので、自業自得であった。むぎは椅子を引いて、あからさまにホークスから距離を取る。
「むぎちゃん、そうやってすぐ引け腰になんの悪い癖だよ。
 隣座って、肩抱いて貰わないとお説教聞けない? 相澤センセにもそうやって貰ってたの?」
 にっこり笑うホークスに、むぎはスススと椅子を元の位置へ戻した。

「そんなことないもん。むぎ、ちゃんとお利口さんで、先生のお説教聞いてたもん……」
「お利口さんは先生にセクハラしないんだよな〜。まあヒーロー適性なんて教育で如何とでもなるし、“個性”の割りに健闘したほうだとは思うけど……てか普通、あ、雄英以外のってことね」
 冷えたポテトフライをくるりと回して、ホークスが嫌味っぽい笑みを浮かべる。
「ヒーロー志望と言えば聞こえは良いけど、ヒーローになろーなんて思うぐらいだから、所詮は万能感拗らせたガキなんだよ。エリートのむぎちゃんには分かんないかもしれないかもなあ」
「……エリートなのはむぎじゃないもん」
「そーね。でも、親族の殆どが雄英出身って人間は世の中にそういないわけ。
 むぎちゃんは自分のことを凄いとか思ったことないでしょ? 何しろ、エンデヴァーさんに親しんで育ったんだからさ。咄嗟の判断力・体捌き・戦術の練り方・コミュニケーション能力……体育祭の時も思ったけど、流石はエンデヴァーさんの姪って感じだった。指名率も凄かったらしいね」
 おどけた調子で、パチパチ手を打ち合わせる。
 他人事っぽい台詞から分かるように、ホークス事務所からはオファーされなかった。何故を問えば、ホークスは一切悪びれた様子もなく「だって、むぎちゃん採っても俺の得になんないもん。今年の一年不作揃いだし、飽きて上級生観に行っちゃった。やっぱ二年は豊作だね」と言い放つ。
 むぎちゃんは別に要らないかな。満面の笑みのホークスにお断りされてから、まだ一月も経っていない。この一ヶ月で、一体何がどうなったら「福岡においでよ!」になるのか、むぎには分からなかった。要らんとか、得しないとか散々言っていたくせに、つくづくふざけた男だ。
「要するに、ヒーロー科なんてのは“個性”のゴリ押ししか出来ないガキの鼻っ柱折って調教するトコなんだよ。ご自慢の“個性”伸ばすのは当たり前、それだけに頼んないように如何にして“個性”以外の素養を高めるかが重要視されるわけ。むぎちゃんみたいに特殊で伸びしろのない“個性”持ちの生徒を切るのは教師としてとーぜんだと思うね。寧ろ、入れたことさえ間違いでしょ。
 完成度が高いから期待しちゃったんだろうけど、もっと早くリリースするべきだったんだよ」
 ホークスの言葉は正しい。むぎは膝上に置いた拳をきつく握りしめた。
「“個性”別に、伸びしろないわけじゃなくて、ほんのちょっと癖がついてるだけで……」
「いや〜? 物心つく前からついてる癖なんか産まれつきのものと変わんないって」
 むぎの抗弁を、ホークスは鼻で笑う。

「相澤先生は優しいな。むぎちゃんだって、本当は分かってるんでしょ。
 生徒の夢摘む時に、ド正論で打ちのめすのはやめようって気ぃ遣えるの凄いわ。俺だったらバッサリ言うけどね。お前ら全員素質がない、ヒーローになったところでお荷物だから止めろって」

 相澤は「クレームが酷い」と誤魔化したけれど、元々部外者の声など気にしない性質だ。
 些か歪んでいるとはいえ、根っから教育者向きの男である。後続を育てる上で、明確な理念を有する教師だった。一人また一人と仲間が消えていく教室で、むぎは相澤のヒリヒリするような焦燥を感じ取っていた。相澤がむぎを“最後の一人”に選んだのは、それが理由だったのかもしれない。
 しかし、むぎにはその胸にある“理念”が何だったのかまでは分からなかった。
 林間学校も期末試験も、相澤は厳しかった。お前には緊張感が足りない。一体何度、そう言って叱られただろう。お前がパンしか出せないのは、生半可な気持ちでやってるからだ。プロヒーローなんて狂った職を目指すのは自分のためじゃなきゃ駄目なんだよ。至極真面目に説教してくれたが、その途中で度々座り込んだのは、手からパンを出す女にガチ説教しているシチュエーションが面白すぎたからだろう。付き添いのミッドナイトも笑いを堪えるのに必死だった。

 試験の結果が出るまで、むぎは自宅待機となる。最早ヒーロー科で学ぶことはないからだ。
 最後のSHRが終わると、相澤は「一応、お前の担任教諭の役目は今日が最後だからな」と前置きしてから俯いた。長く細いため息を漏らして、言葉を探しているのがむぎにも分かった。

『お前は良い生徒だったよ。付き合ってて、楽だった。誰にとっても“そう”なんだろうな。
 ヒーローは死地へ赴く。他人の生死に関わる。一つとして同じものがない特異な力を使って、他人の運命に介入する仕事だ。お前みたいに、他人のために全部投げ出せる人間がなったらいけないものだと俺は思ってる。それを良しとしたら、プロヒーローの人権が奪われちまう。
 今のお前をプロヒーローにするのは、お前の未来を潰すのと同じなんだよ』
 分かってくれと言う相澤の顔はくしゃくしゃで、その口元は僅かに弧を描いていた。
 優しい、大人の笑み。それが相澤との、プロヒーローという“一つの目標”との別れだった。
 

「……意地悪で言ってるんじゃないんだよ」
 沈黙に耐え切れなくなったのか、ホークスは乱暴に自分の頭を掻きむしった。“個性”の影響なのだろうか、元々鳥の巣じみてアチコチ跳ねていた無造作ヘアーが更にその自由度を増す。
 居た堪れないと言いたげな仏頂面に、むぎはコクンと頷いた。意地悪で言っているわけではないなら、突如としてキレたのは何故だ。聞いたところで答えてくれるひとではないし、ホークスの言うことは尤もで、相澤を誹謗中傷したむぎにホークスを裁くことは出来ない。
 むぎの本心(とりあえず頷いとこ!)を知ってか知らずか、ホークスの表情が和らいだ。脱力して、背もたれに体を預ける。そんなにホッとするなら最初から説教しなきゃいいのに。
「ただ“個性”がヒーロー向きじゃないってだけで、それ以外は何でも出来るんだから、もっと視野を広げてみるのも良いんじゃない? だから、福岡、俺と、どっか行ったらってのは……」
「誰にでもそういうこと言うの?」
「へ、なに?」
 ホークスが素っ頓狂な声を上げた。
「誰にでも結婚しようって言ってると、本当に好きなひとにも冗談だと思われちゃうよう?」
「……そーね」ひくと、ホークスの顔が引きつった。「肝に銘じとくよ」

「貴重なアドバイスのお礼に、もう一言」
 そう言うと、ホークスは二つ並んだトレイの脇に手を伸ばす。
 ホークスの指先には、むぎが愚痴を話す際に提示した資料――今後の予定や、自宅学習期間の課題――が散らかっていた。山と積まれたプリント類のなかから、分厚い紙束を一つ手に取る。
 A4サイズのそれは左上をホチキスで留められ、表紙ページに“サポート科編入試験”と題されていた。英数国に化学と物理、生産システム技術、製図、機械設計を加えた八教科分の問題用紙だ。自己採点では必修五教科は満点、付け焼刃の残り三教科も十分合格ラインに達している。
 ホークスは暫し無言で問題用紙を捲っていた。問題用紙には自己採点用にメモした回答と、相澤の教えてくれた正しい答えがメモしてある。流し読むだけでも、正答率の高さが分かるのだろう。
 大仰なため息を漏らしたホークスが頭を抱え込む。その反応は、答え合わせ後の相澤とそっくり同じだった。「サポート科なんて、熱意の塊みたいな奴らの巣窟だよ……?」暗に“お前は無気力な人間だ”と詰るホークスが、一番最後のページに記された青い文字を突きつける。

・財務会計T…100/100
・マーケティング…100/100
・情報処理技能…100/100
・ビジネス基礎…100/100
 経営科への適性が顕著、今週末までなら編入先の変更可能。

 相澤らしい簡潔な文章からは、“サポート科はやめろ”という本心が伝わってくる。
 むぎが「サポート科がいい」と伝えた時から、相澤は「あそこはお前に向かんだろ……何がとまでは言わんが、全体的に濃いぞ」と否定的だった。それ故に相澤の独断で――過去の編入試験問題のコピーではあるが――経営科にも挑戦させられたのである。結果は見ての通り立派なものだ。
 相澤は最後の最後まで反対していたし、経営科の教諭連にも根回ししたのだろう。実際に一流の仕事、現場の空気を知ってる君が来てくれると、他の生徒にも良い刺激になる。入れ代わり立ち代わり、色んな教師が訪ねてはむぎのを勧誘した。それでも、むぎは自分の考えを曲げなかった。
 何故と言えば、今更経営科で学ぶ必要はないからだ。マスコミ対応、プロのスケジュール管理、敵災保険やヒーロー控除の申請、事務所の管理、貢献報酬点数の計算……そういった知識は叔父の事務所に通ううちに自然と身についていた。勿論何の裏付けもない“独学”なので、社会一般で通用しうるものではない。本気で経営学に取り組む同学年の生徒に勝る点は幾つもないだろう。
 しかし叔父の事務所をつつがなく回すためには、“今ある知識”で十分だった。
 エンデヴァーはむぎにどの程度の能力があるか精確に把握しているし、実姪ということもあって給料計算などの金銭が絡む仕事も任せてくれる。既に“雇用先”と“雇用主の信頼”を勝ち得ているむぎには“雄英高校経営科卒業”というブランドは必要ない。大体の場合、エンデヴァーが自分の部下に求めるのは“口答えしないで迅速に行動すること”のみである。殆どの人間は雇用主の気難しさに恐れをなして退職届を出し、もしくはエンデヴァー自身にクビを切られる。叔父のお眼鏡に適った一握りの人々と働くのは、むぎにとって楽しいことだった。だから、何も望まない。
 学歴も、資格も、知識も……ただ叔父の求めに応じられるなら、その他は何も要らなかった。

 むぎが雄英を選んだのは叔父に言われたからだ。
 ヒーロー科を選んだのは叔父の仕事にもっと深く関わりたかったから。
 それと同じで、サポート科を選んだのも叔父の役に立ちたいからだった。コスチュームやサポートアイテムが故障した際にむぎが修理出来れば、一々外部の技術者に連絡を取らずに済む。
 相澤も、ホークスも、その本心を見抜いている――こいつには自分というものがない、と。
 むぎには、“それ”の何が悪いのかもよく分からないのだった。

「……こうやってさ、エンデヴァーさんの後ばっか追うからクビ切られるんだよ」
 ホークスはむぎに手を伸ばして、猫でもあやすようにその頬を撫でる。
 苦言を呈する割りに、ホークスの表情は優しかった。

 ホークスの指はむぎの輪郭をくすぐりながら、喉元に落ちてきた。
 むぎはホークスの手を払いのけるでもなく目を細めて、愛玩されるがまま身を委ねる。
 多忙のなか会いにきて、意地悪なことを言ったり、こうして優しくしたり、この男が何を考えているのかむぎには分からない。でも、構ってくれるのは嬉しい。にゃあと、小さい声で猫の鳴き真似をすると、ホークスの手が止まった。その指先が僅かに微動する。
 ホークスは何か逡巡するような顔で唇を噛んでから、再び手を動かした。骨ばった指が再びむぎの輪郭を辿って、口元に上ってくる。ややあってから、ホークスがむぎの唇に触れた。
 その不確かな柔さを確かめるように、ホークスは唇のふちをなぞって、ちょっと摘まんだり、ふにふに押したり――むぎの唇を執拗に愛撫する時、ホークスは怖い顔をする。何か不快なことがあるならハッキリ言えばいいのにと思いつつ、むぎはホークスのされるがまま放っておく。
 長々とした静寂と愛撫のあとで、ホークスの台詞はいつも同じだ。むぎには分かっていた。

「むぎちゃんにとって、エンデヴァーさん以外は誰でも同じ?」
 予想通りの台詞だったけれど、今日もむぎはその問いに答えられなかった。





 むぎは世界で二番目にかわいい、僕のお姫様だよ。
 父親の一番はいつでも母親。むぎが「一緒にいて」と言っても「ママが呼んでるから」と言って、出ていってしまう。奔放な母親は父親を荷物持ち代わりにアチコチを飛び回る。
 一番最初の“お留守番”は、むぎが四才の時だった。“ちょっとそこまで”と言って出ていった母親が帰ってきたのは、一週間後のこと。玄関で大人しく待っていたが、やがて空腹を覚えて、喉の渇きにも悩まされた。しかしインテリアは全て母親好みの洒落たもので、キッチンは勿論、洗面所のシンクでさえむぎの背を上回る。やたら凝った飾りのついた椅子を動かすのも困難だった。やっとのことで冷蔵庫を開けても、ミネラルウォーターの栓を開けることが出来ない。仕方なく、冷凍庫の霜を舐めて過ごした。食べ物は手から出るから――といって、当時はパンと言い難い“小麦粉を焼いた何か”だったが――大丈夫と思っていたところ、みるみる体重が減って死にかけた。
 途方もない飢餓と虚脱に為す術もなく、玄関の前で眠りについた。次に目を開けたら、扉が開くはず。きっとママとパパはビックリした顔でむぎを抱き寄せて、フカフカのベッドへ連れて行ってくれる。そう祈りながら、殆ど気絶するように意識を手離した。そんな夜が数日続いた。

 むぎは世界で二番目にかわいいお姫様。
 お城みたいに綺麗なおうちの玄関で、世界で一番綺麗なママの帰りを待つの。

 きっとママとパパは、すぐに帰ってくる。
 目を開けたら……目を開けたら、きっと扉が開いて、ママとパパが……。何日一人で過ごしていたのか、結局扉が開くことはなかった。“お留守番”の終わりを告げたのは、叔父だった。
 むぎが目を開けると、そこには真っ白い天井が広がっていて、カーテンの向こうでは叔父が怒鳴り散らしていた。四歳のガキを残してフィジー!! 正気の沙汰か? うるさいわね。折角個室を取ったのに、外にダダ漏れじゃない。今度はちゃんと飲み水と食べ物に気を付けるわよ。今度があって溜まるか、お前は少しは冷を見習え!! 子どもが出来て、少しは落ち着いたかと思えば何にも変わってない。四歳だぞ――冬美たちが四歳の時、冷は決して子どもを置いて出かけなかった。ええ、ええ、そうでしょうね。その間、外で好き放題お仕事してたあなたに指図されたくないわ。二人とも……むぎが起きる。義兄さんも義兄さんだ。何でこのクソ女の言いなりになんか……今あいつが起きる起きないで口を挟むなら、一人で家に残された娘が飢えるかも、何かの弾みで死ぬかも……むぎの“個性”を考えれば、“個性”が暴走して焼死した可能性もあっただろう。運良く今回は燃えなかった! その結果がアレだ。あんなに痩せ細るまで“個性”を使って、飢え死に寸前!!
 餓死と焼死。この二つはむぎに付いて回る。お前が――そういう風に産んだんだ。
 流石、家一軒燃やした過去があるだけあって説得力があるわね。

 良いわ、むぎはあなたにあげる。

 世界で一番綺麗なママが、綺麗な声で言い放つ。パパは何も言わない。ママが好きだから。
 最初から、そのつもりで産んだのよ。子どもが欲しかったんじゃないわ。あなたが“品種改良”に必死こいて上の子たちを顧みないから、試しに一匹作ってみたの。そうしたらあなたの気持ちが分かるかもって思ったから。失敗作同士で――パンと、鋭い音が響く。誰も何も言わない。
 ……持って帰ったら良いわ。冷さんに言えるんならね。姉が捨てた娘を貰ってきた。俺の姉は気が狂ってる。同じ血を引く俺も普通の家庭を築くことは出来ない。お前に紹介した父親も、母親も、姉も、ぎこちないながら親しい一家の様子は全部嘘だ。これから嫁いでくるお前を逃がさないための演技で、そんな家庭で育った俺もお前の望む夫にはなれない。それでも俺と添い遂げてほしい――そう言えるものなら、むぎを連れて行きなさいよ。もしくは施設に入れるんでも良いわ。
 あなたがこの子の未来を選択するのよ。あなたが選択出来ないなら、私は絶対にこの子の親権は放棄しない。私の好きにするわ。だって私が産んだんだもの。私の子よ。誰にも渡さない。
 ママは綺麗で、聡明で、我侭で、むぎのことを愛していない。そんなママに、パパは何も言えない。ママを愛しているし、ママに口答えするとむぎにもう二度と会えなくなってしまうから。
 深々とした静寂に身を浸して、四歳のむぎは意識を手離した。

 目を覚ますと既に叔父はいなくなっていて、泣きはらした父親が傍についていた。
 やさしいお医者の先生が「ママの目を盗んでコッソリ“個性”を使っちゃダメだよ」と頭を撫で、看護婦さんたちは「パンなんか出さないで、このぷくぷくほっぺで我慢しなさいね」と頬を突く。
 むぎの母親が、四歳の我が子を置いて一週間のバカンスを楽しんだことは誰にもバレなかった。
 右頬に氷嚢を当てた母親が、むぎにため息を吐く。風呂場の水を飲めば良かったでしょ。九十九くん――父親の名前だ――が甘やかすから、どこから水が出るかも分かってないのよね。
 二週間の入院から家へ戻ると、むぎの部屋は父親からのプレゼントで埋め尽くされていた。
 早速自分より大きい猫ちゃんのぬいぐるみを選んで抱き付くと、母親がむぎの目線に合わせてしゃがみこんだ。また何か叱られるのかもしれない。咄嗟に身を竦ませたむぎに、母親が微笑う。
『……今回のことで、よく分かったでしょう。どうしても困ったら、炎司を呼びなさい。あの子は世界で一番立派なヒーローだから、あなたが死にかけていれば必ず助けにくるわ』
 そういう子なのよ。非情を気取ってるけど、本当は誰より愛情深いの。根が臆病なのね。
 無条件で愛されたことがないから、何の見返りもなしに愛されることが怖いんでしょうね。無条件で愛されたことがないから、自分のなかの愛に尤もらしい理由をつけようとする。
 だから、利害関係が分かりやすいと安心するの。屈託なくじゃれつく我が子や、自分に寄り添って生きようとする妻より、“自分がいなければ生きていけない姪”に好かれるほうが安心なの。
 一人っ子のむぎには分からないでしょうけど、ママはとっても弟のことが好きなのよ。
 あの子のことが心配なの。だって、じきにあの家庭は壊れてしまうから。最初から、上手くいくだなんて思わなかった。子ども達は良いわ。冷さんは素晴らしい母親だったもの。私もあんな母親が欲しかった。冬美ちゃんたちは、優しい子に育つでしょうね。きっと幸せに生きていける。
 でも、炎司は? あの子が今更、変われるはずがない。あの子、きっと独りになるわ。焦凍くんなんか、全然懐いてないもの。それなのに、あの子は焦凍くんが可愛いのよ。愛してるの。焦凍くんなら自分の“個性”を冷さんから継いだ“個性”で制御して、安全に運用出来ると信じてるのね。
 あの子、独りになるわ。自分が変わることを諦めて、焦凍くんに全部託してるんだもの。焦凍くんがあの子の全て。でも焦凍くんはあの子の下には留まりたがらないはずよ。独りになる。

 ママはね、炎司を一人ぼっちにしないためにあなたを産んだの。
 パパは勿論、八百万のお義母さまたちにも、絶対にあなたの親権は渡さないわ。
 ママの可愛いむぎ、炎司以外の誰にもあなたを渡さない。

 世界で一番綺麗なママは、むぎを置き去りにフィジーへ飛び、国内を飛び回り、母親としての務めを全て放り出してテレビに出演し、執筆業に精を出す。そんな母親でも愛されたかった。
 むぎが五歳になると、母親はタヒチへ行きたくなった。五つのむぎは、もう“個性”を乱用しない。父親が買ってくれたキャスター付きの踏み台を引っ張って、良い子で二週間お留守番した。
 何にも知らない従弟にお姉さんぶって自慢する。むぎはおねいさんだから、おるすばんできるもん。すごいね。義叔母の深い愛情と、叔父の屈折した愛情を一身に受けて育つ従弟が感心しきった声をあげる。むぎちゃんはすごい。むぎちゃんはタオルもぬえるし、ごはんもつくれるし、おとうさんにしかられても泣いたりしないし、けんどうもすごくて、ぼくよりずっとすごいね。
 従弟に褒められると嬉しかった。叔父の愛する従弟に認められるのが嬉しかった。
 叔父の屈折した愛情が分からない従弟は、修行を嫌がっては度々むぎの家に逃げ込んだ。お母さんとお父さんがケンカしてイヤだ。ぼくも、サッカーしたい。そう言って泣く従弟をあやして、叔父の下へ連れて行く。そうすると、叔父が喜んでくれた。叔父に喜ばれると嬉しかった。

 むぎはいつも“世界で二番目にかわいいお姫様”。
 この世でたった一人むぎを“一番”に出来るひとは、十一年前のあの日にむぎを見限ったのだ。
 叔父は叔父の愛するもののために、従姉弟たちのために、義叔母のために、彼らに見限られないために口を噤んだ。そして、その深い執着をも超える救済衝動を以て、叔父は“正義”をなす。


『むぎちゃんにとって、エンデヴァーさん以外は誰でも同じ?』
 むぎにとっては叔父以外の誰も――何もかも、叔父のいない世界に何があるかさえ……。
 如何しようもない飢餓と虚脱はむぎの胸に深く根を張って、幾度でもむぎを“玄関の前”に引き戻す。目を開けたら……目を開けたら、きっと扉が開いていて、むぎの望んだ世界が見えるはず。
 あの扉が開かない限り、むぎは永遠にホークスの問いに答えることは出来ないだろう。

A.最後の神判
(神の手は僅かな恵みも平等に割き与える)



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