パンはパンでも
たべられないパン
なーんだ

 ……最後に会ったとき、従姉は十五歳の中学生だった。
 どういう因果か白い髪は健在で、三年前と変わらず美しかった──腹立たしいほどに。
 コテでも使っているのか、かつてフワフワだった髪の毛は記憶のなかの母親と同じストレートになっていた。背丈が違う。髪の長さが違う。体つきも違う。顔立ちも似ていない。ただ、父親がどういう気持ちで姪といるのか、“長い白髪の女”を前にして何とも思わないのか、苛立ちめいた問いが浮かんだ。それと同じぐらい、綺麗になったと思う自分が嫌だった。父親と一緒にいる姿を想像すると胃がムカムカした。三年ぶりに会う従姉は少女ではなく、一人の女に見えた。
 廊下や図書館で目にする上級生と同じ年だとは思えない。クラスの女子なんて、従姉と比べたら小学生に見える。それに……従姉と話すのに下を向かなければいけないのは、なんだか変な感じがした。三年前は焦凍より背が高かったのに、あれっきり身長は伸びなかったらしい。
 睫毛に目が行く。手が小さい。腕が細い。肩幅が狭い。甘ったるい声だけが変わってなくて、話しかけられる度にクラクラする。三年も会わないでいたのだから、少しは自分の気持ちも落ち着いているだろうと思っていた。それなのに三年前よりずっとムカムカして、酷く気持ち悪くなった。

 顔を合わすことになった切っ掛けが“痴漢退治”だったのも、苛立ちの一因だろう。
 焦凍は姉がいる分、女には優しいほうだ。痴漢に限らず女に乱暴を働く男は最低だと思う。クラスメイトが不審者に会ったと聞いて、クラスの有志で女子を送ってやったこともある。しかし、焦凍のクラスメイトには剣道の経験者はいない。増して有段者となると、上級生に一人いるかいないかだろう。ところが、脳筋クソ親父を深く尊敬する従姉は剣道の有段者である。自分が父親に教わるのを嫌って途中で放り出したのも関係して、竹刀を持たせれば焦凍の五倍は強い。大体、二人で仲良くしていた幼少期だって、剣道でも空手でも、従姉は何をやらせても上手かった。
 そんな従姉にとって、竹刀で痴漢のケツをボコボコにするぐらい朝飯前のはずだ。よしんば痴漢がクソ親父並の屈強な男だったとして、屈強な男が女子中学生の体を触っていれば速攻で鉄道警察に報告されるだろう。人目を引くこともなくコッソリ従姉の体に触れられるのだから、件の痴漢は凡百の、従姉がケツをボコボコに出来そうな男なのだ。自分で処理出来るはずのことを「痴漢が怖いから、暫く夏くんか冬美ちゃんのどっちかと通学したい」などと甘えるのだから腹が立つ。
 姉は就活で忙しく、兄は大学受験を目前に控えた大事な時期だ。従姉の我が儘に姉たちを付き合わせるよりはと、渋々待ち合わせ場所にやってきた。苛立つのは当然と言える。

 焦凍の心中を知ってか知らずか、従姉はおずおずと媚びた笑みで笑いかけた。
 しょうちゃん、あの、ごめんね。いつからか、従姉は焦凍の顔を見るなり“ごめんね”と萎縮する癖がついていた。あの、あの、むぎね、夏くんが来ると思ってたので、びっくりしてしまって。
 従姉は心から決まり悪そうに、ぎこちない笑みを浮かべたまま顔を背ける。
『しょうちゃんが来るのだったら……むぎは大丈夫って、そう言ったのだけど……』
『中学生にもなって、まだ自分の名前が一人称なのかよ』
 場の空気が凍り付いた。
 あんまり自然に漏れたので、焦凍は一瞬、自分が何を言ったのかわからなかった。
 この甘えた従姉が自分を名前で呼ぶのは三年前と同じだ。もっと言うと、焦凍は彼女が“私”を名乗るのを聞いたことがない。良い年して恥ずかしいと思う気持ちがないではなかったが、正直言って如何でも良かった。なので、焦凍には従姉の台詞の何が癇に障ったのか分からなかった。
『一人で平気なら最初からそう言えば良いだろ。夏兄が受験だって、知らないのか?』
 続けざまに“正論”を浴びせると、従姉の顔がさっと朱に染まった。
 従姉は平静さを取り繕うでもなく、唇を噛んで俯いた。平静さを取り繕えないのは、もう既に涙を堪えているからだ。従姉の華奢な肩がかすかに震えて、小さな手で口元を覆う。

 従姉が馬鹿みたいに動揺する様を見ていると、すっと溜飲が下がる。
 その爽快感に、従姉の言葉の何に苛立ったか自覚した──まるで自分に来て欲しくなかったみたいに言うから。でも、焦凍は悪くないと思う。わざわざ従姉の学校の最寄り駅まで電車に乗ってから自分の中学へ向かうんだし、それだけの手間をかけておきながら「来なくてもいい」は随分失礼な話だ。兄が受験生だというのも本当の話だし、姉たちと密に連絡を取り合う従姉がそれを知らないはずがない。焦凍は何も間違ったことは言っていない。だから、従姉も怒ったりはしない。
 従姉は潤んだ瞳を眇めて、何とか笑って見せた。胸の前で重ねた手をぎゅっと握っている。
『ほんと、ほんと、恥ずかしいよね』端正な作りの唇が奇妙に蠢いた。これ以上の醜態を晒さないよう、この場を丸く収めるための言葉を探しているのだろう。『わたし……も、気をつけ、ね』
 従姉が悪いのだ。年下の従弟に厳しいことを言われるのも、痴漢を追い払えないのも、全部従姉が悪い。焦凍は何もこの従姉を虐めたいわけではない。従姉が焦凍の逆鱗に触れるのが悪い。
『気をつけなきゃって、ほんと、炎司さん』
『ひとんちの親を名前で呼ぶのも可笑しいだろ』
 従姉の言葉を遮ると、焦凍は冷めた顔を作ってため息を漏らした。
『たかが叔父にべたべたべたべた……ガキでもあるまいし、そんなに甘えたいなら親に甘えろよ』
 従姉は不自然な笑顔を張り付けたまま、立ち尽くしている。
 肩が揺れたとき、「泣くかもしれない」と他人事みたいに思った。ワクワクしているとも自覚した。幼い頃から大人びて、うつくしい従姉が、自分なんかにみっともなく取り乱す。子どもの頃みたいにぺそぺそ泣いて、癇癪でも起こせばいいのにと願った。しかし従姉は冷静だった。
 従姉がパッと屈託のない笑顔を浮かべて、頭を掻いた。従姉の変節に、焦凍は僅かに戸惑う。
『そうだよねえ、子どもでもあるまいに……つい……焦凍くんを前にすると、子どもの頃と同じ気持ちになってしまって、私は一人っ子だから根が我が儘なのね。冬美ちゃんたち、優しいから、甘えてしまった。焦凍くんにハッキリ言って貰って、大人になって、恥を掻く前でよかった』
 少しずつ語気が弱まって、最後にはまた泣きそうにか細い声音になっていた。さっさと泣いてしまえばいいのに、あと一歩のところで堪えている。喉元にせり上がっていた嗚咽が少しずつ落ち着いていくのが分かる。何とか体裁を保つのに成功した従姉を見て、焦凍は心底不愉快になった。
 周囲の人間が自分たちを見ているのも苛立つし、従姉が中学三年生らしい態度を取っているのも苛立つ。「焦凍くん」って言われるのも苛立つ。平気なふりをして「言って貰って良かった」と言うのもムカつく。年下の従弟にここまでコケにされて、癇癪一つ起こさない大人びた従姉。
 昔は、こんな風ではなかった。焦凍の知る従姉はもっと素直で、単純で、傲慢だった。今もクソ親父相手には昔と変わらない態度で接しているくせに、焦凍の前では小器用に取り繕う。

 分かっている。拒絶したのは自分だ。
 会う度に突き放して、“自分は悪くない”という安全地帯から罵った。
 従姉が全部悪いと言いたげに、従姉が些細な失言をする度に正論で責め立てた。
 裏切り者。嘘つき。狂った父親が自分の家庭を粉々に砕こうとしているのを知っていたくせに何も教えてくれなかった。今もまだ父親の手伝いをしてる。父親の隣で幸せそうに笑っている。
 何度も何度も「他人のくせに」と呪い続けた結果、自分たちは目出度く“他人”になった。
 自分でも、この従姉に何を望むのか分からない。全部が粉々になるまで傷ついて、自分の前で泣き崩れて謝ったら許せるのだろうか。もう二度と父親に近づかないと約束したら許せるのか。
 顔を合わせるとムシャクシャする。どれだけ距離を置いても忘れることが出来ない。きっと不愉快な思いをする、きっと従姉を傷つけると分かっていて、ノコノコ会いに行ってしまう。

『……私のことで、嫌な思いをさせてごめんね』
 萎縮しきった従姉を前にすると、焦凍の胸には歪んだ安堵感が湧いてくる。
 本当は、従姉が自分のことを名前で呼ぼうと、父親をなんと呼ぼうと如何でも良かった。従姉の唇から父親の名前が出るのが嫌だった。自分の知る笑みを父親に向けるのが嫌だった。自分の隣ではなく父親の隣にいるのが許せなかった。最初から自分のことなんて何とも思っていなかったのだと思い知るのが怖かった。自分の言葉に傷つく様を見ると、まだ“他人”ではないと安心する。
 この“特別製の従姉”は結局自分のものでもなんでもなく、幼いなりに打算があるだけの子どもだった。そう認めることが出来ないまま八年経った。かつて自分が踏みにじったものを繰り返し足蹴にして「まだ大丈夫」「まだ壊れない」と確かめている。こんなことを続けていてはいけないと分かっていても、従姉に対する破壊衝動は突発的で、焦凍には上手く操縦出来なかった。
 子どもなのは、焦凍のほうだ。姉たちだって「そんなに怒ることじゃないよ」と何度も諭してくれる。当たり前だ。従姉が母親を追い詰めたわけではない。母親を失った自分の側についていてくれたのは従姉だ。確かに何度か、父親の言いなりになって修行を勧めたかもしれない。それがどれほどの罪だと言うのか。父親と親しくしてほしくないと思うなら、ハッキリそう言えば良い。

 この従姉は産まれつき幸せになることを天の神さまに約束されている。
 その幸せは自分の隣でのみ営まれるものだと信じていた。自分無しには一日も生きていけないとも思っていた。八年も経ったのに、未だ、この従姉を自分のものだと思っている。
 幼稚な傲慢から突き放し、罵ったのだと──そう悟られずに済むのなら、とっくに言っている。

 自分が従姉に何を望んでいるのか、よくわからなかった。
 うらぎりものと、幼いままの自分が叫ぶ。肋骨で出来た殻に閉じこもって、何故裏切ったのだと従姉に問うている。馬鹿馬鹿しい問いだ。なんで裏切ったのか、なんで傷つけたのか、“そこ”に自分の非が一切ないと思いこみたい愚かな自分。母親の崩壊を目の当たりにした五歳の時のまま時間は止まり、自分が踏みにじったものの全容を確かめる意気地もなく五感を閉ざしている。
 母親なしに時計を動かせるのは従姉だけだったのに、従姉の言葉が全部嘘だったと知って、何かが砕けてしまった。幼い日の自分が従姉の気持ちを知ろうともせず踏みにじったのと同じで、知らず知らずのうちに父親と一緒になって母親を追いつめたのではないか──母親は何故父親ではなく、自分に熱湯を浴びせたのか。母親を追い詰めたのは、本当に父親だけだったのだろうか?
 視線の先に乾いた亡骸が転がっている……そんな恐怖から殻に閉じこもった。

 現実には自分の気持ちとお構いなしに時間はが過ぎて、いつからか普通に暮らすようになった。
 今は、どこにでもいる普通の中学校三年生だ。家から一番近い中学校へ通って、クラスメイトと交流して、時々委員会活動をし、去年から合気道の教室にも通っている──先ほど辞めてきたのだけど。いつかから、従姉なしに他人と関わるのが当たり前になっていた。内気だったのも、臆病だったのも、遥か昔のこと。今の焦凍にとって、従姉なしに生きていくことはあまりに容易い。そもそも幼い頃だって、やろうと思えば幾らだって自分一人でやっていけたのだ。ただ従姉がでしゃばるから、その影に隠れていたに過ぎない。それだけのことと分かっているのに、従姉が恋しい。
 ぎゅっと自分の手を握る熱を覚えていて、彼女だけが自分の子ども時代だったと思っている。
 知らず知らず、従姉の姿を視界に探してしまう。もう自分たちは子どもではないのに。

『みんな、しょうちゃんのことが大好きなのよ』
 あの日のまま、自分の隣で死んでしまえば良かったのに……と、繰り返し思う。


「ダメだ、むぎちゃん出ない」
 予期せぬ名前に、焦凍の肩がビクと跳ねた。

 ぎょっとして振り向くと、姉が立ち尽くしているのが目に入った。
 その少し後ろにいる兄が、耳に当てていた携帯電話をおろす。姉たちが顔を合わせると、どちらともなく深いため息が漏れた。相変わらず気が合う二人だが、ホッコリできる雰囲気ではない。
「まあ、お父さんが回収してるんじゃあないかな……と思うけど、そっちも繋がらなくてねえ」
 父親の話題に、兄の顔が引きつった。反射的に罵りたいのを堪えているのだろう。
 焦凍はよく分からないまま、姉たちの顔を交互に見た。どういうことか分からなかった。一体何故、このタイミングで従姉の名前が出るのか──そして忘れかけていたけど、何故庭に犬小屋が建っているのか、そして何故空っぽの犬小屋の前に姉弟三人揃っているのか……まさか三人全員が飼い犬の到着を心待ちにして、浮き足立っているわけでもなかろう。一体何なんだ、この集まりは。


「……焦凍、これ、なんて書いてある?」
 突然プレートを凝視し始めた姉に手招きされて近づく。
 角度を変えると違う文字が浮かび上がる細工でもなされているのかと思ったが、姉の隣に立って見ても文字が変わることはなかった。堂々とした書体で「犬小屋」と刻まれている。
「……犬小屋?」
「そうだよねえ……でっかく犬小屋って書いてあるよねえ……」
 真面目な姉は深々としたため息をつくと、とうとう頭を抱え込んでしまった。
 行動不能状態に陥った姉の代わりに、途方に暮れた様子の兄が口を開く。
「一昨日さあ、伯母さんがパリ移住したっつったじゃん」
「ああ、執筆活動だろ」
 芸能ニュースに疎い焦凍は、芸能ニュースの権化とも言うべき伯母の動向にも疎い。
 移住の報も姉たちが教えてくれたもので、他人に聞かなければ従姉に会いたくなるまで気付かなかっただろう。焦凍としては、伯母がパリへ行こうがジャカルタへ行こうが如何でも良いのだ。
 父方の伯母は決して悪い人ではないし、昔から焦凍に良くしてくれた。未だに誕生日にはカードとプレゼントが届くし、お年玉やクリスマスプレゼント、果てはバレンタインのチョコまでくれるので、大分世話になっているほうだろう。しかし、これだけ貢いで貰ってるにも拘わらず、焦凍は小さい頃から伯母のことが苦手だった。何故と言えば、腐っても父親の姉だからだ。
 二人を知るひとには、それで通じる。若し二人を知らないひとに話す場合は「どっちも癖のある性格をしているからだ」と訳すべきだろう。伯母はクソ親父に負けず劣らず癇の強い人物で、悪意があるのかないのかザックリとした一言で他人を刺す。口下手な焦凍はちょっと話しただけでもザックザック切りつけられるので、いつしか直接的な交流は途絶えていった。すぐ上の兄も焦凍と同じく疎遠気味で、今となっては伯母の相手をするのは姉だけだ。尤もそれも伯母と姉が特別親しいというより、実の弟である父親が姉の番号を着信拒否していることに因るものが大きい。そういうわけで、兄弟に届くプレゼントや土産物のお礼にしろ、何にしろ、大抵の場合は姉が連絡する。
 その番号が、数日前から繋がらない。多分パリに行くから解約したんだろうけどと前置きしてから、姉は従姉の処遇に触れた。……娘は置いてくって書いてあるね。姉なりに緊急事態だと判断したのだろうし、実際に一人で置いていかれたならそれは普通にヤバい。従姉が嫌だとか顔も見たくないなどと言っている場合ではない。焦凍も中座しないで、黙って姉の話を聞いた。
『家売ったって……二人共もう実家なんかないのに、むぎちゃんどこ行ったの……?』
 姉の言うとおり、記事には「夫婦で移住するけど娘は創作活動の邪魔だから置いてく」と書いてある。とはいえ、こういう記事は大幅に誇張して書くものだ。それに義伯父は従姉を溺愛している。家へ帰る度に「むぎちゃんはお留守番が上手でえらいで賞の景品」を買ってくる父親が娘と離れるのを容認するはずがない。本当に毎日帰宅する度に買ってくるので幼心にも引いた。
 兄も同様の見解らしく、その時は姉の不安を笑い飛ばして終わった。

 先日の騒動について思い起こすと、焦凍はしみじみとした気持ちで空を見上げた。
 これまで散々罵倒し、終には「あの日のまま、自分の隣で死んでしまえ」とまで呪ったが、フランスへ渡ったと思えばもう死んだも同然。あの容姿だから、向こうで恋人でも出来るだろう。そうしたら、もう二度と日本には戻ってこないかもしれない。何もかも、全部、終わったのだ。
 今は未だ終わったという実感がないけれど、そのうち従姉のことは綺麗さっぱり忘れるだろう。
 清々しい思いに浸っていると、青ざめた顔の兄に両肩を掴まれた。

「むぎちゃんさ、置いてかれたぽいんだよね」

 どこへ行ったか分からない従姉の安否が取れないため、終わったはずの騒動が再開したらしい。
「お昼過ぎにお父さんから電話で、伯母さんが雇った税理士から連絡きて、むぎちゃんの居場所聞かれたって……回収してうちに住まわせるって……それで何で犬小屋ってつけるかなあ」
 兄が背伸びして、プレート部分を確認する。ネジで留めている様子がないので、父親が接着剤か何かを用いてつけたのだろう。あのクソ親父が従順な従姉を犬扱いするのはよくあることだ。
 そもそも犬扱いするなら未だ良いほうで、従姉に耐性があるのを良いことに父親はありとあらゆる暴言を吐いて罵る。休日の朝から従姉に電話して「駅で待ってるから、事務所のパソコンに刺さってるUSBを持ってこい」とか「チームアップ相手のオンラインデータを引っ張ってこい、十分でやれ」とかがなり立てるのはよくあることで、懲りずに何度も電話するあたり、セコセコ働いているらしい。いつだったか、父親の横暴を見かねた姉が「……今のはちゃんと時間外手当を払うんだよね?」と聞いたら「あの馬鹿が馬鹿なことをしなければな」と鼻を鳴らして答えた。
 一体何故──従姉は何故、クソ父親のことが好きなのだろう……? 焦凍には分からなかった。

 プレートを剥がせるかどうか、接着面の強度を確かめていた兄が諦観の笑みを浮かべる。
「まあ、むぎちゃんだし……あんまし気にしないでしょ、たぶん」
「いやね、もうさあ……姪とはいえよその娘さんを犬扱いするのが嫌なんだよ……」
 珍しく嫌悪感を漏らす姉の背を、兄と一緒に撫でる。
 女同士色々通じ合うものがあるようで、姉は従姉一家について詳しい。
 そこに何があるのかは分からねど、何かと従姉を気にかけるので、まあ、何かしら問題があるのだろう──いや、あるのだろうというか、高校一年生の娘を置き去りにパリへ行く人間は確実に“普通”ではない。きっと焦凍が知らないだけで、過去にも色々なことがあったに違いない。

『ガキでもあるまいし、そんなに甘えたいなら親に甘えろよ』
 そう言って突き放した従姉は、何とも形容しがたい不自然な笑顔を浮かべていた。

 伯母は確かに父親の血縁らしい身勝手さを有するものの、従姉はいつも幸せそうだった。
 従姉は伯母が好きだったし、義伯父のことも心から慕っていた。でも、今にして思えば幼稚園の帰りはいつも一人だった。焦凍の覚えている限り、伯母が幼稚園に来たことはない。たまに義伯父が来ることもあったが、大抵の場合は一人で帰った。退園時、皆が迎えに来た親とベタベタしているなか、従姉は一人で先生に別れの挨拶をしていた。その姿を「えらいなあ」とか「かっこいいなあ」とは思っていたけれど、そこから先を考えたことはなかった。興味がなかったからだ。
 従姉が一人でも一人じゃなくても、自分の傍にいてくれるなら如何でも良かった。

 焦凍は兄が言葉巧みに姉を宥めるのを尻目に、離れの二階を見上げた。

『むぎはとっても甘えたで、おばさんのようなママがいたらひとりじめしてしまうのに……』
 従姉は、本当に焦凍の母親が好きだった。
 四人も子どもがいるのを思ってか露骨に甘えたことはないけれど、よく母親にくっついている焦凍を羨ましそうに見ていた。母親にしろ、好かれているのは分かっていたのだと思う。たまに従姉の髪を三つ編みやお団子を結ってやると、従姉は大喜びして、暫く同じ髪型にしていた。同じ髪型とは言っても風呂に入る都合上、翌朝は自分で弄らなければならない。ボッサボサの箒みたいな三つ編みで登園したり、ぐちゃぐちゃのお団子で登園したりを何日か続けた後、少しずつ上達していく。焦凍の母親が新しい髪型を教える度に同じ課程を繰り返し、従姉は中々髪弄りが上手かった。
 髪弄りでも裁縫でも、焦凍の母親に褒められると、従姉は本当に嬉しそうだった。
 そこに嘘があるかと言えば、ないと思う。従姉は本当に義叔母を慕っていたし、姉の容姿や人格が優れているのは義叔母に似たからだと信じていた……焦凍の顔が母親そっくりだとも。


『しょうちゃんてば、なんてかわいいお顔をしているの』
 顔の左半分を覆う包帯が──その下の火傷が見えていないかのように、従姉がうたう。
 しょうちゃんのお顔はとってもかわいい。むぎは、おばさんがしょうちゃんを好きなのとおんなしぐらいしょうちゃんが好き。むぎも、おばさんも、しょうちゃんが大好き。ほんとうよ。
 じくじくと皮膚を焼く痛みと歪な視界。激情のなかで、従姉の声だけが優しかった。自分とそう体格の変わらない従姉にしがみ付く自分が極度の興奮状態にあったのを覚えている。母親がいない。父親が許せない。アイツのせいだ。全部アイツのせいなのに、アイツが……それなのに、
『おばさんも、おばさんは……本当に、とっても、しょうちゃんのことがだいすきなの』
 嘘つき。そんなの嘘だ。憎しみを上回る怒りが口から漏れなかったのは、疲れていたからだ。

 おまえに危害を加えたので病院へ入れた。
 
 その薄情な言葉を聞いてからというもの、焦凍はうまく眠ることが出来ずにいた。
 父親は勿論、馴染みのない姉たちや、腫れもの扱いの使用人たちにも触れられたくなかった。誰にお会いたくなかった。色んな感情がぐるぐるして、心臓がばくばくして、息が苦しい。強烈な怒りに全身が支配されて、うまくやり過せない。従姉は、そんな自分を宥めるために呼ばれた。
 恐慌を起こした従弟に、彼女は優しかった。焦凍は彼女が怒ったところを見たことがない。従姉に割り振られるのはそういう“役柄”だった。我侭で幼稚な従弟を宥めて、大嫌いな父親の主張を呑ますためのオブラート。その本心がどこにあるかなんて、考えたことがなかった。ただの一度も。
 従姉は焦凍を抱いて、やさしい“その場しのぎ”を口にする。だいじょうぶ。しょうちゃんの好きなものも、しょうちゃんも、全部むぎが守ってあげる。最愛の母親は気が可笑しくなって、自分は顔の左半分に火傷を負い、父親は妻子に一切の興味がない。これのどこが大丈夫なのだろう。
 何一つ大丈夫なものはなかったのに、従姉は母親を助けてはくれなかった。

 自分に影を落として揺れる白髪は、最愛の母親と同じ色。
 ずっと、本当に、本当に……物心つく前から、この従姉は特別な存在だった。
 父親と同じ青い目も、従姉から「むぎとおそろい」と言われると特別に嬉しかった。自分とそう体格の変わらない従姉にしがみつくと、いつも菓子が焼けるような甘くて香ばしい匂いがした。
 当時の“世界”が極めて狭かったことを差し引いても、焦凍は、この従姉のことが母親の次に好きだった。大好きだった。従姉の小さな手も、青い瞳も、愛嬌たっぷりに眇められた瞳も、その全部が自分のために存在する。ずっと、そう信じていた。でも、そうではなかった。全部嘘だった。
 鼻先をくすぐる甘い匂いに思考が埋め尽くされる。脆い膝へ埋めた頬には、涙の道が幾重にも引かれていた。うそつき。微睡みのなか、無音で罵った。父親への憎しみを凌駕する失望と、それでも、全部が嘘でも、そばにいてさえくれれば……そんな望みを胸に眠りについたのを覚えている。

 全部が嘘でも、その嘘のなかで眠っていたかった。
 従姉の嘘のなかでなら、母親は自分を突き放さない。暗闇に四角く浮かび上がった台所、そこでお茶の支度をしていた母親が、ほんの数ヶ月前と同じ優しい顔で振り向いてくれる。
 しょうと、まだおきてたの? なあに、そんなかおして……こわいゆめでもみたんでしょう。
 そういう夢を現実にしてくれるものを求めた。従姉の言葉がその場しのぎの嘘でも良いと思った。その嘘を信じていれば、自分が母親を追い詰めたわけではないと思える。母親が自分を醜いと言ったのも、怪我をさせたのも、全部全部夢だったと、誰かにそう信じさせてほしかった。
 視線の先に乾いた亡骸が転がっている。そんな恐怖から殻に篭り、動けなくなった。その亡骸が自分のものだと分かっていたので、とうとう命綱なしには息も出来なくなってしまった。母親を壊したのが自分なら、そんなものは要らない。死んでしまえ。さっさと消えろ。母親の代わりに自分がいなくなれば良かったのに、姉たちに顔向けが出来ない。母親は必要とされているのに。
 自分が母親を追い詰めたのだと、焦凍には分かっていた。そうでなければ、火傷を負うはずがない。あの優しい母親が熱湯を浴びせるほどのことをしてしまったんだ。そうに違いない。
 そうでないなら、何故、誰が母親を壊した──如何してこんなことになったのか教えて欲しい。
 従姉の甘い声が、焦凍の自我を護る。そうじゃないのよ、しょうちゃん。そうじゃないの。
 むぎがしょうちゃんのことを好きなのと同じで、おばさんも本当に本当にしょうちゃんのことが好きなのよ。でも少しだけ疲れてしまったのね。炎司さんと上手くお話し出来なかったの。しょうちゃんのせいではないのよ。どうしたら良いのか分からなくて、たまたましょうちゃんがいたの。

 しょうちゃんが苦しくなくなるなら、炎司さんに怒っていいのよ。


 父親の顔を見たくなかったので、火傷を負ったあとは随分長いこと従姉の家に避難していた。
 当時のことはあまり覚えていない。時々姉たちが様子を見にきて、時々義伯父が遊園地や植物園へ連れていってくれた。その時も伯母はいたりいなかったりしたけれど、それは如何でも良いことだった。当時の焦凍にとって大事だったのは、一つ上の従姉が四六時中一緒にいてくれることだけで、従姉がいなければ外にも出られない有様だった。食事の時もトイレの時も寝る時も、従姉はずっと自分の傍で“嘘”を話してくれた。おばさんも、むぎも、しょうちゃんが大好きだからね。
 火傷は少しずつ良くなっていたけれど、包帯が取れても尚従姉と離れることは出来なかった。

『あの子はね、本当は焦凍くんのことなんて如何でもいいのよ』
 紫煙をくゆらせる伯母が悪戯っぽく微笑む。

 その日、従姉は廊下で父親からの電話を受けて、何事か話している最中だった。
 大嫌いな父親に従姉を取られたようで、居間の入り口に張り付いて、通話が終わるのを待っていた。従姉のことしか考えていなかったので、伯母に話しかけられるまで伯母がいることに気付かなかった。若し伯母が帰宅しているのを知っていたなら、従姉の部屋から出なかっただろう。
 姉弟だけあって、伯母にはどこか父親に似たところがある。正直言って二人きりになりたくない相手だったが、従姉にとっては大好きな母親だ。邪険にもしづらくて、その場に留まった。甥が逃げないのを確かめると、伯母は従姉がするような微笑みを浮かべて、焦凍の前にしゃがみこむ。
 しょうとくんのことなんてどうでもいいのよ。伯母がなにを話したいのかはよく分からなかったし、理解できるとも思っていなかった。その唇から出た音の連なりが何なのか、理解出来ない。
 ぼーっとしている焦凍の目をじっと覗き込んでから、伯母は何事か思案したようだった。ほんの少しだけ身を乗り出して、先ほどより近づく。薄暗い視界で、伯母の目は爛々と光っていた。
『炎司が面倒みろって言うから世話を焼いているだけなのに、可哀想ねえ』
 間近で聞く伯母の声は従姉に似ていて、語尾を伸ばすと殊更に従姉が喋っているようだった。
 伯母の声が近づいたのに反して、従姉の声は少しずつ遠ざかる。トレーニング……こせいのれんしゅう……父親と何を話しているのだろう? いい加減家へ帰せという電話だろうか? 可哀想? 従姉と離れるぐらいなら、もう二度と家へ帰りたくない。きっと姉さんたちも怒ってる。帰りたくない。従姉が自分の世話を焼くのは、自分のことが好きだからだ。背中に脂汗が浮かんで、頭がクラクラする。従姉の肌を求めて空を掻く手を、伯母が握った。伯母の手は冷たかった。
『酷い父親の言いなりになってる子を信用しても、また裏切られるだけなのにね』
 伯母の声の向こうで、従姉が弱り切った声を漏らす。

『だから、炎司さんの言うとおり、ヒーローになりたいって思わせるけど……』
 伯母が哀れみたっぷりに微笑む。ほら、だから言ったでしょう?と言いたげな、酷薄な笑み。
 それが、焦凍の“全て”が砕けた瞬間だった。


 従姉の家から逃げ出すように家へ帰ってから暫くは自分の部屋に引きこもった。
 従姉が焦凍の家へ謝りにきたのは、たったの三ヶ月だった。毎日のように「どうしてなの」と訴える声が聞こえたけれど、話す気にはならなかった。誰にも開けられないように襖を氷漬けにして、トイレや風呂に入る時は従姉が帰ってから窓伝いに外へ出た。あんまりに従姉を避けるので、三ヶ月を過ぎたところで姉が従姉の立ち入りを禁じた。それ以来、彼女が家に来たことはない。
 四六時中一緒にいた相手が傍にいないのは変な感じがしたけれど、一年も経つと慣れた。
 たまに親戚の集まりで顔を合わせても一切口を利かなかった。従姉がにこやかに話しかけても応じず、彼女の失態や失言がある時にだけ厳しく非難した。もう、そうしないでは居られなかった。
 姉に諫められたのも一度や二度ではない。しかし、姉としても火傷跡を目に入れると強く出るのが躊躇われるらしかった。この八年というもの、まるで態度を改めることもなく今に至る。

 むぎちゃんが何をしたの? と言われることがある。
 あんなに焦凍に良くしてくれたし、今だって元気にしてるか聞くよ。引っ込みがつかなくなっているんじゃあない? もう怒ってないでしょう。怒っているにしろ、せめて理由ぐらい言ってあげないとむぎちゃんが可哀想だよ。姉の言うことは正しい。いい加減、自分はやりすぎだ。何度も謝って、下手に出てくれているのだから「もう良いよ」の一言くらい伝えても罰は当たらない。
 もう良い。従姉だって、色んなことがあった。伯母はマトモな人ではない。その伯母に言われたことを鵜呑みにして、それで八年過ぎて、従姉を独り占めできない苛立ちを当人に向けている。

 従姉が何をしたのかと問われれば、答えは一つだ。彼女は自分のものではなかった。
 自分の隣にいない。自分のことを他人行儀な呼び方で呼ぶ。自分の前で怯えたような顔をする。おどおどする。みんな、みんな、従姉のせいだ。自分だけの従姉だったのに、自分がいなくても平気で暮らしている。自分が嫌いな人間と楽しそうにしている。それが如何しても許せない。


 きつく握った拳に力を込めていると、姉と兄の視線が焦凍に集まった。
 考えていることは分かる。八年前から仲が拗れたままの二人が一緒に暮らすことになるのだ。不安にならないはずがない。焦凍は如何取り繕うべきか分からず、血の気が引いた拳を緩めた。
「焦凍は嫌かもだけど、伯母さんも義伯父さんもいないから……ね?」
「まあ、気まぐれな伯母さんのことだから、すぐ帰ってくるかもだし……実質これ別居でしょ」
 苦笑した兄が犬小屋の壁を叩いて、姉も作り笑いを浮かべる。焦凍もぎこちなく笑った。
 従姉が家に住む。しかも自分の部屋の真横に……従姉との不仲は父親も知っているはずなのに、何を考えているのだか。昔のように従姉を使って、焦凍を操るつもりなのかもしれない。
 どちらにせよ、もう中学三年生だ。表向き父親の意向に乗ることも覚えたし、雄英高校に入ってしまえばヒーロー教育に特化した教師陣を差し置いて口を挟むこともないだろう。あとは高校を卒業するまで耐えれば良い。一人で生きていけるようになったら、二度とここには帰ってこない。
 だからもう、従姉が一緒に住もうと、住まなかろうと、如何でも良い。もう良い。


 どうせ何をやり直したところで、あの“うつくしいひと”は自分のものにはならない。

小屋建ちぬ



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