パンはパンでも
たべられないパン
なーんだ

 一つ上の従姉は本当に“うつくしい”という言葉の似合う子どもだった。
 尤も、当時六つの従姉を称して“うつくしい”と言うのは些か語弊があるかもしれない。
 六つと言えば、小学校に入るか否かの年頃だ。しかし焦凍は彼女を“うつくしい”と称するのは極めて精確な表現だと思っていた。自分が五歳の子どもだったのを差し引いても、焦凍の目に映る彼女は大人びて、自分より、自分の知ってる女の子のなかでずっと年嵩のように見えたからだ。
 従姉はその大人びた風貌のとおり、物識りだった。焦凍が知りたいことの全てを知っていたし、それがどんな質問でも、いつでも、いつまでも、倦むことなく付き合ってくれる。
 その豊富な知識は、七つ上の姉が賢いのとは丸きり趣が違う。焦凍に理解できることから理解出来ないことまで、この地球上の全てを解き明かせる姉と比べると、従姉はやはり“世間知らず”だった。その代わり、従姉の話を聞いている時は“理解出来ずに聞き流す”ということがなかった。
 姉の智慧が彼女のために在るのとは違って、従姉の頭に収まっているものは全部焦凍のものだった。自分のために調べたことを食む唇も、自分を映す瞳も、その何もかもが幸せそうに見える。

 焦凍は物心ついた頃からずっと「この従姉は特別製だ」と知っていた。

 特別製の従姉は、産まれつき幸せになることを天の神さまに約束されている。
 そうでなければ、ぺそぺそ泣いている時でさえ幸せそうに見えることに説明がつかない。
 焦凍はぺそぺそ泣いたり、ぷんぷんしてる従姉に抱き付くのが好きだった。背中からギュウッと抱き付けば──もしくは、その膝に無理やり入り込んでしまえば、従姉の機嫌はすぐ直ってしまう。その単純さが好きで、よくつまらない嫌がらせをした。嫌われるかもという考えは毛頭なく、自分にとっても彼女にとっても、互いの存在は好嫌を超越したものだと思っていた。
 当時は何かと姉たちと隔離されることが多く、園外で他人と関わることも禁じられていた。
 従姉は父親の管理下でたった一人与えられた“遊び相手”であり、片手で足る年月しか生きていない焦凍にとって殆どこの世界の全てと言っていい存在だった。喧嘩をするのも、遊ぶのも、我儘を言って甘えるのも……同世代の子らが幾人にも分散させる対人感情の全てを従姉に注ぎ、従姉もまた自分と同じであると信じていた。盲目的に、自分たちは永遠に一緒だと思っていた。
 この世界で母親の次に自分を好いてくれているのは間違いなく従姉だと思っていたし、焦凍もこの世界で二番目に従姉が好きだった。少なくとも、他の遊び相手を欲しがらない程度には。

 父親の言いなりで育った幼い日、焦凍は随分臆病な子どもだった。
 つまらない失言で父親の不興を買うのが恐ろしく、些細な小言が懲罰に長じることを恐れては立ち尽くす癖があった。獏と立ち尽くす息子を見て、父親は益々怒る。姉たちや母親が口を挟むのは、火に油を注ぐのと同じ。一度父親が怒ると、従姉以外には“円満解決”が望めなかった。
 何故なのか、父親は従姉に弱かった。姪とはいえ、一応よその子どもだから、手を上げるのが躊躇われるのだろう。叔父の罵声をまるきり恐れない従姉は、父親相手に負けたことがなかった。
 焦凍に抱き付いた従姉が「いじめっこなのねえ!」とか「しょうちゃん、炎司さんのこときらいになってしまうもん!」などと喚くと、父親は心底忌まわしそうな顔で口を噤む。勝ち誇った顔の従姉を睨む様からは、「若し自分の子どもだったらボコボコにしてやるのに」と思っているのがヒシヒシ伝わってくる。そうは言っても人一倍堪え性がない父親の常で、五回に一回は手が出る。
 しかし、世間体を気にする父親が「ぶちのめそう!」と決意したところで、先ず流血沙汰にはならなかった。どうも、腕の先でジタバタする従姉を見ているうちに怒りが萎えるらしい。特別製の従姉はクソ親父に首根っこを掴まれても、どこかしら幸せそうに見える。涙目で「このようにかわいいお顔を、ボコボコにされてしまうのねえ……」と訴える従姉には可笑しみがあって、真面目に怒るのがアホらしい感じがする。なるほど、姉たちにはここまで間抜けな反応は出来ない。
 父親が鼻息荒く「十分後に再開する」と言って去ると、床に落ちた従姉がこちらへにじり寄る。
 炎司さんてばいじめっこで、小学生みたいなのねえ! そう言って膨れる従姉の顔は風船に負けず劣らず膨らんでいて、笑みが零れた。勿論、従姉が割って入ったところで事の根本的解決が成されるわけではない。不満や苦痛が、ほんの少し遠のくだけだ。それでも従姉の存在は心強かった。

 従姉の心強さは家の外でも褪せる事なく、父親を前にした時と同様に“命綱”としての役を負う。

 従姉の動きに合わせてフワフワと揺れる猫毛は柔らかく、最愛の母親と同じで白い。
 自分と同じ青い瞳は長い睫毛に縁取られ、どことなく眠たげな印象を与える。とろんと眇められた視線は淡く、その口元に浮かべた笑みを一層甘いものにしていた。従姉は殆どの場合焦凍のためにのみ存在していたが、その蕩けそうな微笑みを向ける相手は焦凍に限らなかった。
 二人で町を歩いていると、誰とはなしに「可愛いねえ」「一対のお人形さんみたいねえ」と話しかけられる。そうやって寄ってきた大人の相手をするのは、大抵の場合従姉だった。
 出来の良い従姉は人当たりもよく、ハキハキと「ありがとうございます」とか「知らないひとからものを貰ってはいけないって、炎司さんが“おいも餅”だけくださいってゆってますので!」「おいも餅だけで!」などと大人びた受け答えで応じる。従姉が愛想を振りまくと、人々は顔を綻ばせて彼女を褒めた。しっかりしたお姉ちゃんねえ。お餅を持ってたら皆あげちゃうんだけど、僕は飴は好きかな? まあまあ、照れ屋さんで可愛いこと。お姉ちゃんと本当に仲がいいのね。
 他愛のないやりとりを、焦凍は従姉の手をぎゅっと握ることでやり過ごしていた。内気な従弟を厭うでもなく、彼女は微笑う。むぎたち、また“おいも餅”を貰えなかったのねえ。
 フンフンフン、炎ちゃんはおもちが大好き〜♪と歌う従姉と一緒に歩くのは楽しかった。

 うんと小さい頃は従姉が家へ帰ってしまうのが嫌で、よく玄関でグズった。
 折角同じ幼稚園に通っているのに、教室が違うのも嫌だった。むぎはね、むぎは“おねいさん”なのよ。おねいさんで、しょうちゃんのパパのおねいさんの子どもなのね。だからお教室も、お家もべっこなのねえ。何度説明されても、従姉とずっと一緒にいられないのが釈然としなかった。自分がこんなに離れがたく思っているのに、従姉は自分と離れることになってもシャキッとしている。
 今にして思えば従姉自身は交友関係を制限されていなかったので、焦凍以外の友人を作る余地があったのだ。しかし焦凍がそれを許さなかった。正直、許す必要があるとも思っていなかった。
 幼稚園から帰るのも、父親の言いつけ通りのトレーニングをするのも、幼稚園で出た宿題にとりかかるのも、従姉と一緒だと何もかもが楽しい。従姉と一緒にいると、焦凍も年より大人びた気持ちになった。兄や姉が自分抜きで遊んでいるのも気にならないし、父親が急に帰ってきても怖くない。いつも自分ばかりが独り占めしている母親に、「むぎちゃんと練習するから、姉さんたちのとこに行ってて」と言うことができる。「姉さんたちは良いな、良いな」と言ってグズる姿を知っているだけに母親の腰は重かったが、それでも最後にはホッとした笑みを浮かべて庭へ行く。

 二人きりになると、従姉はとびきり驚いた風に「あらまあ……!」と感心してくれた。
 しょうちゃんてば、なんてかしこえらいのう? むぎは、むぎはとっても甘えたで、おばさんのようなママがいたらひとりじめしてしまうのに、しょうちゃんてば、お利口さんなのねえ……!
 襖が閉まった途端にぶり返した独占欲も晴れて、誇らしい気持ちにさえなった。しかし誇らしいのもつかの間で、大抵の場合は罪悪感が湧いてくる。何故って、本心では「行って欲しくない」と思っているからだ。従姉と一緒にハーモニカの練習をするのを、母親にも聞いてほしかった。

 お母さんは僕にも姉さんたちにも優しいのに、お父さんは姉さんたちのことは全然いじめない。自分ばかりがあれをしろ、これをしろと言われて、どれだけ頑張っても、姉さんたちとは遊んだらいけないと怒られる。鬼の形相の父親から「おまえはあれらとは違うんだ」と言われても「自分が姉さんたちより悪い子だから、こんな目に遭うのだろうか」としか思えなかった。イヤだった。
 自分ばかり嫌な目にあっているようで、不公平なようで、母親を独り占めするぐらい良いじゃないかと、そんな気持ちにある。だって、母親が姉たちのところへ行くと、父親しかいなくなる。姉たちは母親抜きでも三人で楽しくやっていけるのだから「母親を独り占めするぐらい良いじゃないか」と思う。自分だけの母親じゃないのは分かっているけど、それでも独り占めしないでいるのは難しい。従姉がいるときだけ、譲ることが出来る。そんな自分は偉くないし、賢くもない。

 姉や兄たちに申し訳ない気持ちが溢れると、従姉も一緒に泣いてくれた。
 ぺそぺそ泣きながら、焦凍をぎゅっと抱きしめてくれる。その胸は母親と比べてずっと小さかったけれど、母親に抱かれるのと同じぐらい安心した。大丈夫。しょうちゃんが泣くようなことなんて、なーんにもないのよ。ほら、こっちへ来て。むぎが、大丈夫って教えてあげる。

 従姉に手を引かれるまま廊下へ出ると、窓から楽しげに話す家族の姿が見えた。
 仲間はずれのようで、また新たな涙がこぼれる。暫し泣いていると、独りで部屋に引っ込んだ従姉が青い鍵盤ハーモニカを持って戻ってきた。二つあるうちの一つを焦凍に渡して、目の前の窓を開け放つ。おそとに向かって吹いたら、夏くんたちも、おばさんも、みんなウレピだもん!
 ニコニコ笑う従姉にせっつかれて、プーとハーモニカを鳴らす。
 幼稚園で習った曲を二人で吹いていると、姉たちが音に気づいて見上げてくれた。
 わいわい言いながら窓の下へ移動する皆に、従姉が手を振る。しょうちゃんとねえ、サッカーがんばれーの“おうえんだん”なのねえ。パプー♪と鳴らしながら、器用なものだ。焦凍もちょっと手を振ったけれど、普段話さない姉たちに何を言えば良いのか分からなかった。話しかけられなかった分、一生懸命演奏しよう──そう思ったのに、気恥ずかしさでところどころ間違えた。
 それでも何とか一曲吹き終えると、沢山の拍手が来た。部屋に引っ込みたくなるのを、従姉の手に引き留められる。戸惑っていると、姉が声を張って「上手だったよ!」と笑いかけてくれた。

 姉ちゃんもこんだけ上手にリコーダー吹ければね。
 夏なんかまだリコーダー吹けもしないじゃん。
 発表会で思いっきり音ズレしたの冬美と夏雄のどっちだっけ?
 燈矢兄は成績良いもんなあ、音楽の成績はもう母さんの音感が遺伝してるかどうかだよね。
 母さんは冬美も夏雄も、みんな性格が出ていて発表会行くの好きよ。

 階下の談笑が途切れ途切れに昇ってくる。それを、従姉と一緒に眺めていた。
 冬美ちゃんたち楽しそうでしょう? 従姉が、階下にまで届かない声音で囁く。しょうちゃんが、楽しくさせてあげたのよ。ねっ? しょうちゃんがいるから、楽しくおしゃべりしてるの。
 胸がいっぱいになって、従姉の手を強く握った。姉たちに嫌われているんじゃないかとか、母親はいい加減自分が手間が掛かるので嫌になったのではないかとか……幼い頃からずっと、焦凍の内には無数の不安があった。この家に居ちゃいけないんじゃないか。自分はみんなの“家族”でいる資格がないのかもしれない。果てしなく優しい姉や兄と比べて、自分一人が父親に甚振られる理由をいつも探していた。自分さえいなければ、父親は怒らないのではないかと思うこともあった。
 誰にも打ち明けられない胸の裡を、従姉は誰よりも深く理解してくれた。

『みんなね、みんな、しょうちゃんのことが大好きだから、だいじょぶなのね』
 小首を傾げた従姉が微笑う。その頬にはまだ涙の跡があるのに、心から幸せそうに目を眇める。
 この従姉は、産まれつき幸せになることを天の神さまに約束されていて、何をしていても幸せそうで……一緒にいる相手をも幸せにしてくれる。様々な制限を受けて暮らすなかで、従姉だけが“自分のもの”だった。ここに居場所がなくなっても、姉たちと違って出来の悪い子どもでも、どれだけ父親を怒らせても、従姉だけは一緒にいてくれる。誰かのために手離さなくていい。
 この少女は自分のために存在するものだと、盲目的に信じて縋った。

 あの恍惚が何だったのかは、きっと誰にも分からない。




 門をくぐると、そこに家があった。
 呆然と庭で立ち尽くす焦凍の脳内に大量のはてなマークが飛び交う。わけがわからない。

 わけがわからないけれど、家が建っていた。いや、勿論家は建っている。
 家……焦凍が産まれてからの十五年弱を過ごした生家は、朝と変わらず存在していた。
 そもそも自宅の門があるということは、そこに自宅が存在するということだ。何もない場所にぽつんと門扉だけが存在する事例は中々ないし、焦凍はそんな珍奇な建造物を見に行く趣味も暇もない。焦凍は十四歳の平凡な男子中学生だ。中学三年の秋ともなれば受験シーズン真っ只中、名状しがたい出来事にエンカウントする暇があるなら問題集の一ページでも進めたい。そういうわけで、彼がくぐった門は自宅の門だったし、自宅の門をくぐったからには住み慣れた我が家が存在する。
 その“我が家”が、外出中に一つ増えていた。このような珍奇な事態を引き起こすのは無論父親に決まっているが、そのクソ親父にしろ家庭内のことは姉に一任しているので、なんかもう兎に角すごく驚いた。ガスコンロの交換やトイレの修理や冷蔵庫の買い換えなんかは報告するくせに、何故家を一戸増やすのは相談しない。いや、先述の“ささやかな報告”にしろ父親が親切丁寧に触れ回ったというより有能な姉がホウレンソウを促した結果なので、原則的に父親はクソだ。

 何はともあれ「門をくぐると、そこに家があった」。余分な家が一戸増えていたのである。
 尤も「増えていた」とは言っても、アメーバのように分裂したわけではなさそうだ。
 既存の家屋と比べてかなり小さいし、落ち着いて観察すると住居というより物置に近い形状をしている。それは倉と小屋と家と物置のハイブリッドのような建造物だった。何なんだこれは。
 焦凍は玄関へと続く道を逸れて、謎の建造物に近づいた。近づけば近づくほど、設置意図が分からなくなる。古い家具を入れるには狭すぎる。園芸用品を仕舞うには綺麗すぎる。そして家を称するにはあまりに安っぽかった。尚且つ設置場所からして、庭の景観を保つより優先される事柄だろうことが伺える。和風庭園の片隅にピカピカの物置がひとつ。如何考えても景観が悪い。特に焦凍が普段寝起きする離れに近いので、「今後は窓の外を見るのが億劫になりそうだな」と独りごちる。まあ、自分の部屋など寝る時ぐらいしか使わないのだから良いっちゃ良いのだけれど。

 恐らく父親が何かを仕舞うために用意したものだろうが、考えれば考えるほどに分からない。
 撤去を迫るためにも、焦凍は考えた。部屋の窓から富士山が見えようとマンションの壁が見えようと如何でもいいが、それがクソ親父の意思でもって置かれたものなら話は別だ。この家に民主主義が導入されていたなら、疾うにこの家には父親の居場所はなかっただろう。独裁政権に喘ぐ日々を思えば、父親を想起させる物体は塵一つ撤去したいのが本音だ。なんやかんや理由をつけて、適当に撤去してしまいたい。焦凍は考えた。このスペースに収まるサイズで、なおかつ父親が欲しがりそうなもの──五秒ほど考えたが思い浮かばなかった。焦凍の父親は、物欲がない男なのだ。
 物欲がない代わりに人として最低限の道徳観も持ち合わせていない。取り柄と言ったら金払いが良いことであろうか。それ以外何の長所も美点もない人間なので、父親について考えるぐらいなら今すぐこの物置をフリマアプリで売り払うべきだ。しかし喩え買い手がついたところで、コンビニから発送するのは難しそうだし、コンビニまで運ぶのも難しそうだ。焦凍はしかめ面で考えた。
 結局、建設的な考えは出なかった。出なかったというか、何度考えても「父親のために時間を割くのか……?」という問いかけが並走してきて、集中出来なかった。自分の時間をドブに棄てるのは中々良心が呵責する。まさかほんの数時間留守にしている間に謎の小屋が発生しているとは思わなかったので、つい興味を持ってしまった。それだけのことで、どうせ、大したことではない。
 大方新しい筋トレグッズでも買ったのだろうと、焦凍はそう自分に言い聞かせた。
 
 どうせ──と思いながらも好奇心にはあらがえないもので、焦凍は小屋の前に立った。

 扉はしっかりした作りで、鍵穴がある。試しにノブを捻ると、あっさり開いた。
 中を覗いてみると、外見から想像していたよりずっと広かった。案外奥行きがあるようで、八畳はあるだろうか。一見して、焦凍の部屋と同じぐらいに見える。これなら家具も結構入るかもなと思っていたら、一番奥の壁にエアコンがついていた。……湿気に弱いものを仕舞うのか?
 疑問に思いながら扉を閉めると、扉の上にプレートがついているのに気づいた。銀色に輝くプレートには単に「犬小屋」とだけ刻んである。いぬごや。犬小屋とは、犬を仕舞う小屋のことだ。
 焦凍はちょっと嬉しいような、何とも言えない気持ちになった。いや、正直言って嬉しかった。
 犬がここに──自分の部屋の脇に住む。クソ親父が連れてくるものだから、勿論それはフワフワのポメラニアンや愛嬌たっぷりのウェルシュ・コーギーではない。強面のドーベルマンやブルドッグであることを差し引いても、まあ犬がやってくるのは悪いことではない。犬はクソ親父より可愛いし、少なくともクソ親父が新しい筋トレグッズを買ったと知らされるよりずっと嬉しい。
 そう思ってホッコリしていた矢先、背後で砂利が擦れる音がした。

「あれ、早かったね。おかえり」
 聞き慣れた声に振り返ると、サンダルをつっかけた姉がこちらへ向かっていた。

「そうでもなくね? お別れ会にしちゃ遅いほうだって。おかえり、焦凍」
 姉の背後には、すぐ上の兄もいる。どことなく決まり悪そうにしているのは昨晩の喧嘩──勿論、自分ではなく父親との──を引きずっているからだろう。しかし、礼儀正しい兄が携帯電話を耳に当てたまま歩いているのは珍しい。焦凍は不思議に思いながら、二人の到着を待った。
「ただいま、言っておいたのより遅くなってごめん」
「良いよ、ちゃんと夕飯前だし。で、お別れ会どうだったの。楽しく過ごせた?」
 愛想良く笑う姉に、不貞腐れた表情の兄が「いや、焦凍が行きたいなら辞めなくて良いじゃん。俺が金出すし、アイツのことなんか気にすんなよ」と被せた。未だコール音の段階だろうが、通話中の兄と喋るのも気が引けて「ありがとう」とだけ返す。素っ気なさすぎた気がして、慌てて笑みを作って添えた。ぎこちないやり取りに何か思うところがあるらしく、姉が眉根を寄せる。
「まあねえ、焦凍が初めて自分から行きたいって言った習い事だけど……受験なのは本当だから」
「その割には随分前から辞めろってうるさかった気がするけどね」
 焦凍は否定も肯定もせずに、事の成り行きを眺めていた。

 一年前から通っていた合気道の教室を、たった今辞めてきた。
 たった今と言っても、突然辞めたわけではないし、焦凍だけが辞めたわけでもない。焦凍と同い年の生徒は殆ど辞めるか、もしくは暫く稽古を休むことになった。受験シーズンだからだ。
 間近に迫る高校受験を無視して、悠長に稽古を受けている場合じゃない。講師たちは焦凍に戻ってきてもらいたいようだったが、ヒーロー科に受かった後の多忙を思うと「戻ってきます」と応じるのは軽率に過ぎる気がした。そもそも剣道をやれ!と五月蠅い父親への当てつけで始めたのが切っ掛けなので、合気道そのものには興味がないし、極めたいわけでもない。ただ、これまでずっと一人で修行していたので、対人を想定した時に如何動くか教えてもらえるのは有難かった。
 それで、じゃあ今日が最後の教室だね!というタイミングで、女子が「最後に、みんなで集まってお別れ会しよう」と言い出したのである。特別親しい相手がいるわけではなかったが、何人かの女子に「絶対に来てね!」と念を押されたので、この麗らかな土曜日に出かける事になった。
 小学校の卒業式のあとにも同様のものが企画されたが、それは行かなかった。
 小学校時代は精神的に荒れていたのもあって良い思い出がないし、特定の人物と仲を深めることもなかった。なので、今回のことは焦凍にとって初めての“お別れ会”だった。それを知っている姉は、一昨日からヤキモキしていた。女の子に二人きりになろうって言われたらちゃんと従うんだよ。手紙を渡されたら周囲の子に見せろと言われるかもしれないけど、見せたらダメだよ。
 お別れ会のプロフェッショナルから「楽しく過ごせた?」かと問われると、それは幾分答えに窮する。それ故、更なる追求が来ない内にうやむやになって良かったと言える。人一倍情緒が発達して心優しい姉は、末の弟が「よく分からなかった」と言えば悲しい顔をしたであろう。
 姉と違って著しく情緒が発達していない焦凍は、お別れ会を楽しめなかった。
 よく分からないカードを渡されたり、あまり話したことのない女子が突然泣き出したり、何かと訳の分からない会だったが、とりあえず道場の床に並べられた菓子を食ってる内にお開きになって良かった。お別れ会と言ってもサッパリしたもので、泣いてるのは女子だけだった。男子のほうはいつも通りの雰囲気で、それぞれジュースを飲みながら受験勉強の進度を確かめ合っていた。
 それを遠巻きに眺めながら、焦凍も自分のスケジュールについて考えていた。
 既に推薦枠を取った焦凍は筆記試験こそ免除されているが、実技試験は他の受験生と同じ条件で受けなければならない。推薦枠を取ったからといって、フリーパスで入学できるわけではないのだ。残りの数ヶ月で過去の実技試験の傾向と対策を調べ、“個性”の最終調整をする。その際、なるたけ父親に口を挟まれたくないのも関係して、合気道を辞めることについては大した不満がなかった。父親にしろ、確かに焦凍を自分の管理下に置けないのは不服だったのだろうが、無理やり辞めさせるほど反対していたわけではない。兄が許せないのは、父親が横柄な態度を取るからだ。

 幸いにして父親は日曜から出張に行っているのだが、事はその出発前夜に起こった。
 土曜、いつも通り夜遅く帰宅した父親は虫の居所が悪かった。週一休みが消えるのは未だしも、そこへ遠出が重なったのが余程許せなかったらしい。そういうわけで、父親は末息子の予定にケチをつけはじめた。全く……この大事な時期に、詰まらん相撲ごっこなんぞに時間を費やしおって。
 不運なのは、普段は父親が帰宅する前には自室に引っ込んでいる兄が台所にいたことだ。その日の夕飯は随分小鉢が多い献立だったので、将来的に「結婚したい男性ランキング一位!」の兄が洗い物に勤しんでいた。如何考えても「結婚したくない男性ランキング一位!」のクソ親父は自分が着ていたジャケットを姉に投げて寄越すと、カレンダーを見て文句を垂れた。別に焦凍はお別れ会で相撲を取るわけではないのだが、道徳観念がチンパンジーに劣る父親は合気道と相撲の区別がつかない。チンパンジー並の声量を誇る愚痴は無事に兄の耳に入り、ちょっとした口論になった。
 兄が自分のために怒ってくれたのは分かるし、その実、兄自身が“家族をぞんざいに扱う父親”を許せなかったのも分かる。兄としても、父親に怒る口実として使ってしまったようで悔いが残るのだろう。勿論、温厚な兄が自分のために何かしてくれるなら、それは何であれ嬉しい。どのような結果になっても構わない。しかし父親と揉めることで兄の立場が悪くなるのではないかと思うと申し訳なかった。父親がクソなのは周知にせよ、それでも悪しざまに言われれば傷つくはずだ。
 年下の焦凍が気を揉んでいるのを知ったなら、尚更兄は落ち込むだろう。
 如何したら兄の気持ちを解きほぐせるのか分からなくて、結局姉任せになる。

「焦凍も本当に困ったらちゃんと相談するし、そんな夏ばっかり抱え込まなくて良いってば」
 だよねー? と話を振られて、こっくり頷く。うーと呻く兄は気恥ずかしそうにしつつ、先ほどまで険しかった顔が緩んでいる。そんな兄の頭を、姉が乱暴に撫でまわす。兄も、姉の手を振り払うでもなく、甘んじて撫でられていた。睦まじく、正しく“気が置けない間柄”といった調子だ。
 焦凍はホッと胸を撫で下ろしてから、二人に気付かれないよう数歩離れる。


 姉たちと関わることを許されてから、八年以上が過ぎていた。
 かつて見下ろすだけだった談笑を間近に聞いても、どこか隔たりを感じる。無論、それは全て焦凍の気のせいだ。同級生の話に出てくる“年上の兄弟”に比べると、姉たちが焦凍に向ける優しさはやはり特別だ。クラスメイトの一人など「VIP待遇じゃん!」と口を尖らせていた。
 兄弟の話になると、誰もが「轟んちは姉ちゃんも兄ちゃんも優しくて良いよなあ」と羨む。
 焦凍も、自分は兄弟に恵まれていると思う。兄は焦凍のために横柄な父親に突っかかってくれるし、姉は、焦凍の気持ちを汲んで場の空気を和ませてくれる。ずっと昔からそうだった。
 一緒におやつを食べていると、焦凍の前の皿が“はんぶんこ”で一杯になるのは日常茶飯事。年が離れているのに、邪魔者扱いされたこともない。寧ろ、一緒に遊ぼう、一緒に出かけようと誘ってくれる。外出先で友達と出くわしても、「今日は焦凍と遊びたいから」と彼らの誘いを断る。
 こんなに優しい兄弟は中々いない。焦凍は姉たちが好きだったし、尊敬もしている。
 焦凍はぼんやり、離れの二階を見上げていた。焦凍一人で使っている離れには、お手伝いさんさえ滅多に来ない。立ち入るとしても二日に一度、掃除の時間だけだ。だから、四角いガラスが幾つもはめ込まれて通路と並行している窓からは、壁と襖しか見えなかった。当たり前の景色。
 焦凍は唇を噛んで、姉たちに視線を戻した。自分たちが“ふつうの兄弟”になってから、もう八年が経つ。とっくに焦凍の現実はこちらで、実の兄弟と話すことさえ許されず、隔離されていたのが可笑しかったのだとは分かってもいる。それでも時々、従姉の姿を探さずにはいられない。

『VIP待遇じゃん!』
 クラスメイトの言うとおり、自分たちは“本当の兄弟”ではない。
 姉たちが昔話をしていれば疎外感を覚えるし、共通の思い出も乏しくて、八年前より昔のことを話すのは殆どタブーになっている。些細な発言から空気が凍ることも少なくなかった。
 優しい姉たちにとっての自分は“気の置けない兄弟”ではなく、“被害者”なのだ。色んな意味で。
 姉たちが悪いわけではないし、好いてくれてるのは分かる。一緒にいて楽しいとも思う。姉たちと居ると、荒れた気持ちが和らぐこともある。しかし、何もかも従姉と一緒にいる時と違う。
 可笑しい。間違っている。気のせいだった。あれは全部嘘だったと分かっているのに、もう殆ど口も利かないのに、まだ従姉のことを覚えている。従姉と一緒にいる時の恍惚を忘れられない。
 もう顔も見たくない。そう思っているのは真実なのに、何故探すのかと疑問になる。

 あの子どもはまるで阿片のようだとさえ思う。

 可笑しいのに、間違っているのに、気のせいなのに、全部嘘なのに、それでも会いたくなる。
 気を抜くと、「今ここに居たら」と考えてしまう。もう良いんじゃないかとさえ思わされる。
 従姉の特別は自分ではなかった。自分が遠ざけるのを止めさえすれば、従姉はまたこの家へ入り浸って、焦凍よりずっと上手に団らんに溶け込むだろう。あの馬鹿みたいに甘ったるい声で焦凍を呼んで、八年前と同じ白痴染みた笑みを浮かべるに決まっている。どれだけ罵倒してみても、従姉の姿を思い浮かべると嬉しい。あの従姉は、焦凍を言いなりにする方法を本能的に知っていた。
 いつでも焦凍の一番欲しい言葉を、一番欲しいものを知っていて、ちょっとの間も置かずに与えることが出来た。他者との交わりを学んで社会性を身に付けるより前に、物心つく前から従姉と慣れあっていたのは不幸なことだと思う。誰もが皆、従姉のように振る舞えるわけではない。
 何とも思わないようにしたら良いのではないかと思う反面、そうしたら従姉に会えるとも思う。
 思考はぐるぐる回って、ウロボロスの輪を作る。最終的に、こんがらがった感情は“苛立ち”に着地するのが常だった。焦凍がこれだけ従姉のことを考えているのに、一方の従姉は従弟の気持ちを全く考えないからだ。クソ親父の事務所に入り浸っているのが、その証拠。腹が立つ。

 祖母の胎内に気配りを忘れてきた父親が従姉の話をしないわけがない。
 道徳のどの字も知らない父親は、焦凍がいようといまいと平気で「冬美、むぎから頼まれたものだ」とか「むぎに整理させるから、レシート類が出たらくれ」と口走る。それに一々反応しても姉を困らせるだけなので、焦凍はなるたけ気にしないよう努めていた。父親が何を話していても──もし単に童謡を歌っているだけだと仮定しても、それが父親の声というだけで癪に障る。だから、従姉のことを話しても話さないでも大した差はない。そう言い聞かせても、それでもやはり腹は立つ。焦凍がどれだけ父親のことを嫌っているか一番知っているくせに、かつて焦凍と一緒にいた時のように、今度はクソ親父に付きまとっている。節操なしの馬鹿女。ムカつく。

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