硬質的なタイピング音をBGMに、むぎも手近の雑貨を選り分け始めた。
サイトで確認した限り、トランクルームに全ての私物を納めることは出来ない。家具は全部捨てていくとしても、エンデヴァーグッズは何一つ手離したくない。身内特権と社割のおかげで、むぎの部屋はエンデヴァー博物館と化している。エンデヴァーメラメラサングラスも、飛び出すエンデヴァーホログラムカードコンプリートブックも、ふわふわ夢カワエンデヴァークッションも……エンデヴァーグッズだけで、トランクルームの八割が埋まってしまう。自然と、叔父の顔が描かれてない私物の八割は捨てる必要があった。親権放棄の慰謝料でまた買うから良いもん。
シールまみれの棚をひっくり返すのと同時に、ホークスが欠伸を噛み殺すのが聞こえた。
「あのね、物凄く今更だけど……ホークスさん、寝てた?」
『……まあ、正直ウトウトしてた。話聞いたら眠気全部飛んだけど。それがどしたの?』
「昨日から、その、いっぱい振り回してしまった……ので、本当にごめんなさい」
ふーん。ホークスが含みのある相槌を打って、椅子を軋ませる。
このひと、どんな椅子に座ってるんだろう。不意に思った。畳めるとはいっても背中の羽根は結構幅をとるものだ。ソファー席では凄く居心地悪そうにしているし、背もたれの高い椅子は横座りすることもある。尤も質問する気にはならなかった。前に「背中の羽根、寝るときはどうしてるのう」と聞いた時も「一緒に寝たらわかるよ、確かめてみる?」と、適当な言葉ではぐらかされたからだ。どうせ「どんな椅子に座っているのう」と聞いたところで、「座ってみればわかるよ、買ってみる?」と言われるのが関の山である。そうやって他人をおちょくるのが趣味なのだろう。むぎに「確かめなくてもわかるもん、横向きに寝てるんでしょ」と図星を突かれた時は酷く不服そうにしていた。へえ、どうだろ。これまで一緒に寝たひとは“そうやって寝るんだ”って皆びっくりしてたけど。ま、むぎちゃんが確かめなくても良いって言うなら、俺と寝るも寝ないもむぎちゃんの自由だしね。そう言われると、それはそれで、ちょっと気になる。一体どんな体勢で寝るんだろう。
ホークスの寝姿を盗み見るまでは、ホークスに絶交されるわけにはいかない。
「お電話する前に気付いて、止めたら良かったのだけど、目が覚めたらおうちのなかに知らない人がいっぱいで、少し取り乱して、ホークスさんの都合を考えずにかけてしまったのねえ」
『あのさ、そうやって謝るのやめてくんない?』
電話の向こうで、冷蔵庫の扉が開く音がした。台所に移動したらしい。
ひんやりとした空気が電話越しに流れ込むようで、少し鳥肌が立つ。ホークスと一緒にいると、ホークスのことを知れば知るほどに、むぎはホークスのことが分からなくなる。
ホークスは時々凄く怖いこともあるし、優しいところもある。すごく、優しくしてくれる。両親は勿論、叔父より、誰よりも優しい。甘ったれの自分は、その優しさに付け込んでいる。
『後になって、こんなことがあったよって言われるより実況されるほうがなんぼかマシだから。
てか電話掛かってきたのも、履歴の一番上にあったからだろーなーって想像つくし』
ホークスはむぎについて、むぎよりずっと詳しい。
どうしても困ったら、炎司を呼びなさい。
母親の台詞が、頭蓋にこだまする。
あの子は世界で一番立派なヒーローだから──利害関係が分かりやすいと安心──屈託なくじゃれつく我が子──自分に寄り添って生きようとする妻より──あなたがいなければ生きていけない──そうやって、すぐに、誰にでも──従弟の端正な容貌に、侮蔑の色が宿る。
炎司さんがいなければ、わたし、生きていけない。その甘えが、しょうちゃんから“ふつうのかてい”を奪ってしまったのかな。時折、思案する。たかが叔父に過ぎないひとに、むぎは甘えすぎているのかな。多分、そうなんだろう。そして、今度は別の“ヒーロー”に取りすがるのね。
ヒーローになるようなお人好しだったら、きっと自分の全てを犠牲にしてでもむぎを助けてくれる。しょうちゃんはそういう傲慢を見透かして、むぎを嫌いになってしまったのね。
どうしようもないほど、独りぼっち。寂しさで胸が潰れそうになる。
『俺が好きでむぎちゃんに振り回されてるんだから、ごめんって言わないで?』
自分の矮小さが身にしみた。
「ホークスさんは、本当に“ヒーロー”なのねえ……」
しんみりとした心持で口にすると、ホークスが渇いた笑みを漏らす。
『ここまでするのはむぎちゃんだけだよ』
ママの可愛いむぎ、炎司以外の誰にもあなたを渡さない。 母親の声が思考を焼き尽くす。この人、なんで、むぎにここまで優しくしてくれるの。その問いより先に、警鐘が鳴り響く。なんで、この人に泣きつくの? この人は炎司さんじゃないのに、炎司さんに泣きつくのが怖かったから、だからこの人に、
でも、ママはきっと許さない。 ママにナイショで、ホークスさんと遊ぶのは楽しい。お話するのも好き。
ママは“男なんて粗野で醜くて野蛮で……”って言うけど、これまで一緒に遊んだ男の子たちも、みんな優しかった。ママ、もう二度とむぎを迎えに来ないかもしれない。ずっと“子どもなんか産みたくなかった”って言っていたし、何度も何度も炎司さんに“あげる”って言ってたものね。もうホークスさんとのトーク履歴を弄ったり、中学校時代の友だちに口裏合わせを頼んだり、男の子から貰った手紙をママに没収されたりしないでいいのね。仲良しの男の子のおうちに「もううちの子に構わないでください」って電話されないのね。いつまでもいつまでも、炎司さんとしょうちゃんに拘ってバカみたい。炎司さんとしょうちゃんに嫌われることばっかり怖がって、嫌われたらどうしようって考えると、何にも出来なくなってしまう。今こうやって頼ってるのはホークスさんなのに、ホークスさんのアドバイスに“でもでもだって”を繰り返して、何とか炎司さんに怒られずに済む方法を探している。それがどれだけホークスさんに失礼なことか、すぐに忘れてしまう。
このひとは頭が良くて、優しくて、むぎより大事なものが沢山ある。
このひとは、むぎに見返りを求めないから好き。
このひとはヒーローだから、目の前の子どもに適切な優しさを振りまかずにはいられないの。
このひとの望む見返りは世間の評価となって降り注ぐ。
……だからむぎは何にもしなくていい。単に素晴らしいヒーローの一人として認め、世間一般の評価に頷くだけで、ホークスさん自身には何も返さなくていいの。だって、このひとはむぎが相手でなくても、いくつかの条件が揃えば誰にでもむぎへするように優しくしてくれる。
でも、そうじゃなかったら……この“やさしさ”がヒーローとしてではなく、単なる一人の人間としての優しさだったら、それは、たぶん、むぎは、見返りを与える気がないなら、こんなに甘えてはいけない。喉がからからに乾いて、言葉に詰まった。電話を切ってしまいたい。
なんで電話をかけてしまったんだろうという後悔が浮かんでは消えていく。頼ってはいけない相手に頼ること以上に惨めなことはない。増して相手は多忙なプロヒーローで、プライベートに充てられる時間はごく少ない。その僅かな自由時間を共にしたいと熱望する人間は山ほどいる。それを、むぎのワガママで台無しにしている。現在進行形で。この優しい人を踏みにじっている。
ごめんなさいと言って、電話を切ってしまおう。別のお友達が心配して、会おうって言ってくれたから切るね。もう大丈夫。昨日といい、沢山迷惑かけてしまってごめんなさい。ハキハキ言って電話を切れば、きっとあまり心配かけない。そう思ったのに、唇から漏れたのは「あ……」という間抜けな声だけだった。古びた棚に触れた指が、ガクガクと震えだす。こわい、と、思った。
不意に、ブハッと息を吹き出す音が聞こえた。
受話器の向こうで、ホークスが笑っていた。ヒーと苦しげに呻いて、何かを叩いている。
『むぎちゃん、今、俺に好かれてたらどうしようって思った?』
一瞬、顔が爆発したかと思った。むぎは耳まで真っ赤になってうなだれる。
それは、だって、ホークスさんがあんな紛らわしいことを言うから、誰にでもあんなこと言って遊んでるのね。なんて意地悪なの。ホークスさんみたいにカッコいいひとに、あんなこと言われれば、女の子なら誰だって勘違いしてしまう。むぎのせいじゃないもん。心中にズラズラ並べた言い訳のどれひとつ口に出せない。全身の力が抜けて、ズルズルその場に崩れ落ちる。
「……おも、思ってないもん」
平然と言い放って笑い話にするつもりだったのに、声がひきつってしまった。
新たな気恥ずかしさから、うなじまで熱をはらんで熱い。
「ホークスさん、名前も教えてくれないし、」
勢いだけで“凄く意地悪だし”と続けそうになって、口を噤む。
相手は本州の半分を横断して疲弊しきっている人間だ。しかも一所に留まっていてさえ、凄く多忙なひとである。そんな人間を愚痴電話で叩き起しておいて“意地悪”などと詰るのは鬼か悪魔だろう。むぎは鬼で、悪魔だし、それよりもっと酷い生き物かもしれない。
「それに、本当は、ホークスさん、すごくモテるでしょ」
『うん、めちゃくちゃモテるよ〜? むぎちゃんの想像の五倍ぐらい』
ホークスは一切の衒いなくむぎの台詞を肯定する。その言葉の軽さに笑みが零れた。
そら、これだけ女あしらいが上手ければ嫌でもモテるであろう。むぎは感嘆の息を漏らした。
「福岡の女は全員ホークスさんのセフレなのねえ」
『むぎちゃん、俺のこと何だと思ってるの?』
大げさに引きつった声を出してから、ホークスは低く喉を鳴らして笑いだした。
むぎには、ホークスが何を考えているかは分からない。“ホークスに好かれてるかも”と勘違いしたむぎに引いてるかもしれないし、そもそも昨日今日と振りまわされてウンザリしてるかもしれない。でも、兎に角“これは大したことじゃない”と思わせようとしている。それだけで、物凄くリラックスした気持ちになった。ホークスは、嫌いな人間相手に配慮出来る人間ではない。
ホークスの巧みな話術に、むぎは泣きたいぐらい安心した。
『ちょっと朝飯食べる。咀嚼音とか聞こえるだろーけど、ごめん。むぎちゃん、何か食べた?』
「あとでファミレス行くから大丈夫。ゆっくり食べてねえ」
『ん、あいがと』
バリバリとビニール袋を破く音がして、くぐもった咀嚼音が伝わってきた。
むぎも、断捨離を再開する。パパが買いそろえたリネンは捨てる。赤ちゃんの時からお気に入りのハンカチも捨てる。訥々とゴミを増やしていると、とうとう一番下の引き出しに行きついた。取っ手の下に、油性ペンで“しょーと”と書きなぐってある。従弟の私物が収められた引き出し。
私物といっても、もう八年近く昔のものだ。いつか返そうと思ったまま、随分時が過ぎてしまった。きっと従弟はこの引き出しの存在ごと忘れているだろう。この機会に全部捨てよう。
取っ手に手をかけたまま、むぎは暫し放心した。
『あのさ、さっきの』
「あい」咄嗟のことだったので、間の抜けた声が出た。「あの、なに?」
『むぎちゃんは軽々しく“セフレ”とかゆーけど、俺、好きな子には一途だからね?』
何を言うかと思えば、余程不名誉に思ったらしい。
むぎとしては“ものすごく女の人にモテそう”以上の意味合いはないのだけれど、ホークスのように真面目だと「セフレがいそう」と思われるのは不快なのかもしれない。まあ、確かにセフレのいるヒーローというのは外聞が悪い。でもホークスほどの男が、一人の女で満足出来るのだろうか。
「そうなのね」むぎは小首を傾げた。今日は色んなことで謝っているから、この程度の失言で謝ると寧ろ気を使わせるかもしれない。「でも、ホークスさんぐらい人気があると、一人に絞るのは」
『そんなことない』 食い気味に遮られて、むぎは狼狽した。
失言に次ぐ失言をしてしまったんだろうか。一応、ホークスさんが不貞をしそうな男に見えるんでなく、単にモテそうだからとフォローしたつもりなのだけれど、それさえ嫌だったのかもしれない。むぎはホークスの真面目さに感じ入った。むぎがホークスだったら五股はしている。年下の可愛い系と、同い年のさばさば系と、ちょっと年上のしっかりものタイプのお姉さまと、癒し系のおねいさんと、男あしらいの上手いプロのお姉さま。毎朝毎晩、素敵な彼女に囲まれるホークスを夢想するとワクワクする。ホークスほど賢ければ、ハーレムの運用もお手の物に違いない。この酒池肉林の宴を捨てて一人に絞るというのは、よほどの覚悟が要る。ホークスさんは誠実なのねえ。
『ちゃんと好きな子いるから』
むぎの沈黙をどう受け取ったのか、ホークスが言葉を重ねる。
むぎは言葉に窮した。突然のカムアウトである。
好きな女がいる男に、甘えてしまった。好きな女がいる男に甘えるのはあまり良くない。何故ならホークスは多忙で、その限りある時間を横から奪っていくのは恋路を邪魔するのと等しい。このまま甘え続ければ、そのうち馬に蹴られて死んでしまうかもしれない。
『……俺と違って育ちのいい子だから、上手くアプローチ出来ないんだよね。むぎちゃんみたいにぽやっとしたとこあって、趣味も似てるから、むぎちゃんと一緒にいると凄く参考になる』
むぎは“恋の魔力”に感心した。さしものホークスも惚れた女にはたじたじになってしまうらしい。好きな女の前で何も言えなくなってモジモジするホークス、見たすぎる。絶対に見たい。
『だから、来週も、そっち行くからね』
有無を言わせぬ声音で、念を押される。
まあホークスのガールハントに貢献出来るなら、来るなと言う義理もないか。
馬もワンチャン見逃してくれるだろう。
「どんなひとなのう?」
ちょっと野次馬根性が湧いて、突っ込んでしまった。
『白い髪を長く伸ばしてて、目は青くて、かなり頭が悪い』
「まあ……
」
やはりホークスのような頭の良い男ほど、バカな女に惹かれるらしい。夢のある話だ。
この分では、むぎがI・アイランドの科学者からプロポーズされる可能性もなくはない。敬愛する叔父が以前「お前がマトモな結婚相手を見つけてきたら全裸で富士山に登ってやる」と言い放ったのを、むぎは忘れてはいなかった。ご立派な経歴を持つ科学者が相手なら、叔父も腹をくくってくれるだろう。「そのときは冬富士にしてねえ!」という提案を鼻で笑われたのは記憶に新しい。
「髪と目の色がむぎと同じなのねえ? お洋服とかプレゼントする時、色々お手伝い出来そう」
『ハハッほ〜んと、偶然にも同じだった』
照れ隠しなのか、ホークスは引きつった声で応じる。
なんて可愛いのう。恋する猫ちゃんなのねえ。むぎはちょっと楽しくなってきた。いつもホークスにしてやられるばかりの自分が、ホークスにマウントを取れるかもしれない。
『でも、本当は、むぎちゃん頭悪くないもんね』
逆説的に、普段は“こいつ頭悪いな”と思っているらしいことが証明された。
むぎはちょっとやるせない気分になった。そういう、下らない、ふざけた感情で色んな事を誤魔化したかった。ホークスは、他人のことをよく見ている。ホークスはあんまりに賢くて、むぎのようなバカの考えることは何でもお見通しなのだ。ただ、それだけのこと。
『だから、ちゃんと、エンデヴァーさんに連絡したくない理由があるんだよね?
俺の知ってるむぎちゃんは、他人に怒られるのが怖いってだけでこんなに駄々こねない』
ホークスが普段から“こいつ頭悪いな”と思っているとおり、普段のむぎは頭が悪い。
それに、頑なに叔父に連絡を取ろうとしないのには色んな理由がある。
「……従弟がね、むぎのこと嫌いなの」
『むぎちゃんがエンデヴァーさんと親しすぎるから?』
ザックリ切り込まれて、うっと声がひきつった。それも、まあ、あるかもしれない。
というか“それ”を申し訳なく思うのは、異性の従弟たちではなく、同性の従姉に対してのみだ。
叔父の一人娘は、その家庭内において複雑な立場にある。
あの歪な家庭において、従姉は度々“母親役”を任される。だからこそ、叔父のなかに“父性”を探してしまうのだろう。そして、従姉の目に“甲斐甲斐しく姪の世話を焼く父親”の姿が如何映るかは考えるかでもない。“我が子のように気にかけている”と思っただろう。実際のところ、それはむぎの母親が脅迫したからだ。叔父はむぎのことなど路傍の石とどっこいどっこいの何かとしか思っていない。叔父にとっては、むぎより従弟の産毛のほうが遥かに大切なのだ。しかし幼い従姉に、大人の駆け引きが分かるはずがない。増して叔父は従姉に“無知な子ども”を望んでいた。
生活態度について叱られている時も思うけれど、大人は勝手なものだ。
自分の都合を優先して深く関わろうとしないくせ、自分が子どもに期待したことは全部叶えられると思い込んでいる。一人娘には大人の醜悪さを見せたくないけど、でも自分が“人間として未成熟な面”を晒すのは許してほしいのだ──それが矛盾する願望と気づかないまま。
従姉は本当に聡明で、心優しい、慈母のようなひとだ。従姉の複雑な胸中を知ったのは随分最近のことで、そしてそのときにはもう従姉自身が折り合いをつけることに成功していた。
叔父は子どもたちより自分の野心を優先する。でも、子どもたちに“こうあってほしい”と望むだけの父性がある。子どもたちの言葉は無視するくせに、朝も昼も晩も、自分の口にした言葉は子どもたちにとって絶対的なものだと信じている。良くも悪くも、叔父の傲岸は事実だった。
理不尽や身勝手に晒された時、あるがまま受け入れられる者は少なくない。それでも従姉は“父さんと歩み寄りたい”と願っている。それがどれだけ凄いことか、むぎにはよく分かる。
むぎはずっと、両親の帰りを待つことしかしなかった。
叔父は自分のことで手いっぱいだし、父方の親族は距離があるし、父親は母親の言いなりで、母親は……母親に嫌われるのが怖くて、むぎには母親を批判することが出来なかった。こんな目にあっても尚、母親を前にしたら全てを水に流してしまうだろう。それに比べて、従姉は義叔母の代わりをしっかり務めている。自分の気持ちよりも、従弟たちの気持ちを一番に考えている。
自分が父親に可愛がられたいとか、愛されたいとか、そういう気持ちより、弟や母親の気持ちを優先する。むぎには、そんなことは出来ない。もしむぎに弟妹がいたら、きっと不仲だろう。
いつか、ふつうの親子になれると信じて、全部何でもないことと信じて明るく振る舞う。
従姉がそう決意するまでにどれだけの葛藤があったのか、むぎには分からない。
むぎは叔父のことが好きだ。世界で一番特別なひとだと思っている。
それが母親の刷り込みによるものか、自分の本心なのかは最早判別出来ない。それでも、義叔母や従姉たちに対する思慕の念は自分だけのものだと確信している。むぎの目にも叔父に家庭人の素養がないのは明らかだったが、叔父なりに妻子を愛していると思う。小さい頃から、むぎは叔父の気持ちに敏感だった。多分それは、むぎが叔父の世界に存在しないからなのだろう。
誇り高い叔父は、愛する者の前でより傲岸に振る舞う。自分の歪さを覆い隠すために……本心を晒せば、愛する者が離れていくのではないかという恐怖から決してその胸中を明かさない。
叔父にとっての自分は透明人間と同じだと、むぎは漠然と思っていた。むぎに嫌われても、捨てられても、呆れられても、叔父は一切の痛痒を覚えない。それ故、従姉より義叔母より、誰よりも叔父の近くに寄ることを許されている。それだけのことだ。でも、きっと、従姉の気持ちを傷つけるだろう。むぎなら、絶対に嫌だ。それなのに、叔父に縋らすにはいられなかった。
だって、むぎは一人っ子だし、叔父しかいないって、いつも、そう思っている。叔父に頼らないで生きていくのは怖い。でも、叔父に頼って、従姉たちを傷つけるのも怖い。嫌われたくない。
気にしてないよ、寧ろ父さんの機嫌取ってくれて有難いぐらい。
従姉はそう言って笑ってくれるけど、どこまで“平気”なのかは分からなかった。
むぎに分かるのは、自分は随分長い間従姉の気持ちを踏みにじってきたことぐらいだ。それに気づいたのが随分後だったのと同じで、気づかないうちに、今も、色んなひとの気持ちを踏みにじっているのだろうという諦観。従弟は、そんなむぎに愛想がつきたに違いなかった。
むぎが炎司さんに泣きつくから、嫌いなの?
優しいお姉さんの気持ちを踏みにじるから嫌いなの?
なんでなの、なんで、しょうちゃん、なんで、むぎを嫌いになってしまったの?
「……わかんない」
冷たく凍り付いた襖に、何度も何度も“ごめんね”と話しかけた。
むぎがバカだから、しょうちゃんに嫌な思いをさせてしまったのね。むぎ、ちゃんと謝るから、だからお顔を見せてね。お願いだから、むぎが何をしてしまったのか教えて。教えてね。
むぎ、何でもするから……繰り返し何度も謝ったけれど、結局従弟は顔を見せてくれなかった。
義叔母が入院してからそう時が過ぎてなかったのもあって、従姉から「暫くそっとしとこ、落ち着いたら連絡するから」と促された。それっきり一年が過ぎて、その次会ったときにはもうむぎの知る“しょうちゃん”ではなかった。祖母の葬儀で再会した従弟は、むぎを冷たく一瞥した。
叔父のまわりをちょこまかしていたのが気に障ったのだろう。それは、むぎも愚かだと思う。むぎよりうんと賢い従弟は、むぎがどれだけ分別のないことをしてるかよく理解していた。
「従弟はむぎの一つ下で、小さい頃は凄く仲が良かったの。でも、むぎが小学校一年生の時に、急にむぎと遊んでくれなくなって、それからずっと嫌われてる……」
むぎは、指先の空間に思い馳せた。この引き出しには、従弟の宝物がどっさり入っている。
嫉妬深い叔父は、愛息子がオールマイトグッズを所持することを良しとしなかった。むぎの部屋の、この引き出しは、従弟にとって安全地帯だった。ここに入れておけば絶対に捨てられないし、いつでも取り出せるもんね。屈託なく笑う従弟が、むぎの引き出しに名前を刻む。
「しょうちゃん、今年受験だし、むぎ、しょうちゃんを困らせたくなくて、」
いつかきっと許してくれる。いつかきっと、何故むぎを嫌いになったのか教えてくれる。
そう信じてから、何年も過ぎてしまった。知らないうちに、徹底的に従弟の気持ちを踏みにじってしまったのだ。そうでなければ、こんなに長い間嫌ったりはしない。もう仲直りは出来ない。
捨てようって何度も思ったけど捨てられなかった。
生家が売り払われ、家具と私物の殆どを置き去りに出ていくのに、まだ捨てられない。
「……てのは、建前で、」
ボロボロと、むぎの目から涙が溢れた。
「むぎが、しょうちゃんに、これ以上嫌われるとか、嫌われてるなって、毎日噛み締めて暮らすのが、ほんのちょっと、その、イヤなのねえ……? だって、むぎ、仲良かったのに」
惨めったらしく喉が引きつる。こんな馬鹿げた本音を晒してしまって、舌を噛んで死にたいぐらい恥ずかしい。同じ理不尽に晒されても、従姉は立派に自立している。それなのに、むぎは、従姉のように振る舞えない。玄関マットの上で夜明かしした時と、何も変わっていない。扉の前でグスグス泣いていれば、きっと扉が開くと信じる甘ったれ。真面目な従弟がむぎを嫌うのも仕方ない。なんで、ちゃんと出来ないの。みんな、がんばってるのに、何故自分はこんなにダメなの。ふざけた態度や台詞で幾重にも本音を包んで、誰にも触られたくないと、そう思うのは叔父と同じだ。
全部の不実を取り去れば、後に残るのは赤ちゃんみたいに泣きわめく本性だけ。
母親に置き去りにされたことも、父親がそれに抗いきれなかったことも、生家が失われたことも、ヒーロー科をクビになったことも、全部全部イヤだった。それに加えて、従弟に「また親父に泣きついたのか」と軽蔑されるかもしれないと思うと、どうしても同居はしたくなかった。
本当は叔父にキレられることより、叔父に縁切りされるより、叔父に泣きついた後の、従弟の反応が怖かった。叔父と姪の垣根を越えて、自分は叔父に頼りすぎているのではないか。叔父の時間を奪っているのではないか。自分さえいなければ、叔父はもっと自分の子供たちに時間を割くことが出来たかもしれない。色んな事が脳裏を過ぎって、指先一つ動かせなくなってしまう。
むぎ、一人でちゃんと出来るもん。一人で大丈夫なの。いつも楽しく暮らしてるから、一人でも平気。そう言い聞かせて、全部笑い話にするの。“赤ちゃん”だけど、自立したふりは出来る。
……むぎ、良い子にするから、一人で平気だから、だから、きっと、帰ってきてね。
帰ってくる場所も無くなってしまったのに、未だそんなことを思っている。
『むぎちゃん』
ホークスの声にハッと我に返った。
「あ、」
『……従弟とどうしても上手く行かなかったらまた俺話聞くから、電話でも何でも』
ホークスはいつも正しい。
『ちゃんとエンデヴァーさんの許可が降りたら、本当に福岡来ても良い。
何にせよ、一人暮らしはダメ。むぎちゃん十五歳でしょ。一人暮らしなんかして、何かあってからじゃ遅いんだよ。ただでさえむぎちゃん頭パッパラパーで防犯意識薄いんだしさ。今日はもう仕方ないにせよ、ちゃんとエンデヴァーさんに連絡いれよ? ……俺のために、そうして欲しい』
この聡明なひとが全部聞いた上で“連絡しろ”と言うのだから、大人しく従うのが一番良い。
むぎはみっともなく嗚咽を漏らしながら、頻りに頷いた。
「そうするう……」
『よしよし、むぎちゃんは良い子だね』
からかうような声音に、涙が収まった。口元が緩んで、笑みが浮かぶ。
むぎのような頭パッパラパー女をほめられるホークスはとても偉い。
むぎは密かに、ホークスの惚れた女が自分よりマトモであることを祈った。幾らホークスが有能とはいえ、パッパラパー二人を相手取るのは大変であろう。ホークスとはずっと友達でいたい。
『良い子のご褒美に何かあげよっか。何が欲しい?』
「彼女さんが出来ても、むぎと遊んでほしい……」
ホークスが黙り込んだ。むぎの額に嫌な汗がにじむ。やばい。
“ずっと仲良くしてね”程度の気持ちだったのだけれど、変な風に捉えられてしまったかもしれない。何せハーレム願望のない清廉潔白な男である。二股して
と要求されるのは不快であろう。
「あの、勿論、彼女さんが嫌でない範囲でってことなのね」
『いーよ。むぎちゃんは欲がなくて可愛いなあ、そういうとこ好きだよ』
只の相槌なのに、何となく怖い響きがする。むぎは腫れぼったい目を瞬かせた。
『ずーっと、むぎちゃんで遊んであげる』
……浮気しろと言ってるようでキレたのだろうか。
でも、二十代の美しい女性なら、むぎのようなチンチクリンがウゾウゾしてても意に介さないのではなかろうか。まあ、ホークスさんたら慈善活動をなさってるのね!ぐらい思ってくれるかもしれない。頭がパッパラパーなキッズにも優しい俺を演出出来て、すごく良いのではないかと、
『あのさ、こうやって、たまに電話していい?
知らない間にまた泊まってるホテルが潰れちゃったとか、そういうのありそうだし』
むぎは困惑と共に頷いた。
大抵の場合、ホークスは正しい。
そのホークスがむぎに電話したいと言うのだから、それは良いことなのだ。
ホークスの負担になるのではないかとか、流石のむぎもそんなにトラブルメーカーじゃないとか、色々思うことはあるものの、ホークスが電話したいと言うのだから、そこにはきっとむぎ如きには理解出来ない深慮深謀が隠されているに違いない。むぎは掠れた声で「はえー」と鳴いた。
『むぎちゃんのそれ、如何にも頭が空っぽって感じで好きだな』
とうとう明け透けに“バカ”呼ばわりされるようになってしまった。
家と家財の神隠し
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