パンはパンでも
たべられないパン
なーんだ

『しょうちゃんてば、なんてかわいいお顔をしているの』
 顔の左半分を覆う包帯が、その下の火傷が見えていないかのように、従姉がうたう。
 しょうちゃんのお顔はとってもかわいい。むぎは、おばさんがしょうちゃんを好きなのとおんなしぐらいしょうちゃんが好き──むぎも、おばさんも、しょうちゃんが大好き。ほんとうよ。
 じくじくと皮膚を焼く痛みと歪な視界のなかで、従姉の声だけが優しい。自分とそう体格の変わらない従姉にしがみ付く自分が極度の興奮状態にあったのを覚えている。母親がいない。父親が許せない。アイツのせいだ。アイツが悪い。アイツのせいなのに、アイツが……それなのに、
『おばさんも、おばさんは……本当に、とっても、しょうちゃんのことがだいすきなの』
 嘘つき。憎しみを上回る怒りが漏れなかったのは、草臥れていたからだ。
 父親の残酷な科白に居合わせてしまってから三日、うまく眠ることが出来ずにいた。父親は勿論、馴染みのない姉たちも、腫れもの扱いの使用人たちにも触れられたくなかった。会いたくなかった。色んな感情がぐるぐるして、心臓がばくばくして、息が苦しい。年不相応な怒りに全身が支配されて、うまくやり過せない。従姉は、そんな自分を宥めるために呼ばれたのだった。
 激情を持て余す従弟に、彼女は優しかった。焦凍は彼女が怒ったところを見たことがない。従姉に割り振られるのはそういう“役柄”だった。我侭で幼稚な従弟を宥めて、大嫌いな父親の主張を呑ますためのオブラート。その本心がどこにあるか、考えたこともなかった。ただの一度も。
 従姉は焦凍を抱いて、やさしい“その場しのぎ”を口にする。だいじょうぶ。しょうちゃんの好きなものも、しょうちゃんも、全部むぎが守ってあげる。最愛の母親は気が可笑しくなって、自分は顔の左半分に火傷を負い、父親は妻子に一切の興味がない。これのどこが大丈夫なのだろう。
 自分に影を落として揺れる白髪は、最愛の母親と同じ色。ずっと、本当に物心つく前から、この従姉は特別な存在だった。父親と同じ青い目も、従姉から「むぎとおそろい」と言われると嬉しかった。自分とそう体格の変わらない従姉にしがみつくと、いつも菓子が焼けるような甘くて香ばしい匂いがした。自分の“世界”が極めて狭かったことを差し引いても、焦凍は、この従姉のことが母親の次に好きだった。大好きだった。従姉の小さな手も、青い瞳も、愛嬌たっぷりに眇められた瞳も、その全部が自分のために存在する。ずっと、そう信じていた。でも、そうではなかった。
 鼻先をくすぐる甘い匂いに思考が埋め尽くされる。脆い膝へ埋めた頬には、涙の道が幾重にも引かれていた。うそつき。微睡みのなか、無音で罵った。父親への憎しみを凌駕する失望と、それでも、全部が嘘でも、そばにいてさえくれれば……そんな望みを胸に眠りについたのを覚えている。

 全部が嘘でも、その嘘のなかで眠っていたかった。
 従姉の嘘のなかでなら、母親は自分を突き放さない。暗闇に四角く浮かび上がった台所、そこでお茶の支度をしていた母親が、ほんの数ヶ月前と同じ優しい顔で振り向いてくれる。
 しょうと、まだおきてたの? なあに、そんなかおして……こわいゆめでもみたんでしょう。



 門をくぐると、そこに家があった。

 呆然と庭で立ち尽くす焦凍の脳内は大量のはてなマークで埋め尽くされた。家が建っているーー勿論、家は建っている。門があるということは、そこに家が存在するということだ。何もない場所にぽつんと門扉だけが存在する事例は中々ないし、焦凍はそんな珍奇な建造物を見に行く趣味はない。要するに彼がくぐった門は自宅の門で、自宅へ戻ってきたからには家屋が存在する。その家屋とやらが、焦凍の外出中に一つ増えていた。正確に言うと、庭隅に小さい家が出来ていた。
 それは倉と小屋と家と物置のハイブリッドのような建造物だった。倉と言うには狭すぎたし、小屋というには物々しくて、家を称するにはあまりに安っぽく、物置にしては高級な感じがした。恐らく父親が何かを仕舞うために用意したのだろうが、そこに収まるサイズで、なおかつ父親が欲しがりそうなものは思い浮かばなかった。焦凍の父親は、あまり物欲がない男なのだ。物欲がない代わりに人として最低限の道徳観も持ち合わせていない。あのような禄でもない人間について考えるのが人生の無駄であることは、焦凍もよく分かっている。まさかほんの五時間外出してる間に謎の小屋が発生しているとは思わなかったので、思わず興味を持ってしまった。どうせ筋トレグッズでも買ったのだろう、と、焦凍はそう結論づけることにした。
 どうせーーと思いながらも好奇心にはあらがえないもので、焦凍はふらふらと庭を横切って小屋へと近づいた。自分が住んでいる離れとも近いし、荷物を置きがてら様子でも見るかと思うのはごく自然なことだ。しかし、この小屋の位置、オレの部屋からの眺めが酷いものになるな……そんなことを考えつつ、焦凍は小屋の入り口に立った。扉はしっかりした作りで、鍵はかかっていない。一応中を覗いてみると、案外広い。焦凍の部屋とそう変わりないだろう。何を仕舞うつもりなのかエアコンまでついていた。湿気に弱い筋トレグッズなんかあったかな。疑問に思いながら扉を占めると、扉の上に銀のプレートがついていた。犬小屋と刻まれたプレートを見て、焦凍はちょっと嬉しいような、何とも言えない気持ちになった。犬がここに……自分の部屋の近くに住む。クソ親父が連れてくるものだから、勿論それはフワフワのポメラニアンや愛嬌たっぷりのウェルシュ・コーギーではないだろう。強面のドーベルマンやブルドッグであることを差し引いても、まあ犬がやってくるのは悪いことではない。
 そう思ってホッコリしていた焦凍の背後で玉砂利の擦れる音がした。

「あれ、早かったね。おかえり」
「そうでもなくね? お別れ会にしちゃ遅いほうだって。おかえり、焦凍」
「ただいま」ぶっきらぼうに応じて、花束を姉に差し出す。「これ、貰った花」
「はいはい。居間にでも活けとこっか」
 夏雄は耳に当てていた携帯電話をおろして、ため息をついた。
「ダメだ、むぎちゃん出ない」
 何故従姉の名前が出るのか、何故庭に小屋が建っているのか、そして何故小屋の前に姉弟三人が揃っているのかーー焦凍には何も分からなかった。

「焦凍、これ、どう思う?」
「……犬小屋?」
「そうだよねえ……でっかく犬小屋って書いてあるもんねえ……」
 冬美は深々としたため息をついて、頭を抱え込んだ。

「きのーさあ、伯母さんがパリ移住したっつったじゃん」
「ああ、うん」
 芸能ニュースに疎い焦凍は、伯母の動向についてそう詳しくない。父方の伯母は決して悪い人ではないし、昔から焦凍に良くしてくれたけれど、小さい頃から何とはなく苦手だった。

「むぎちゃん置いてったぽいんだよね」
「お父さん、うちに住まわせるって……それで何で犬小屋ってプレートつけるかなあ」
「まあ、むぎちゃんだし……あんまし気にしないでしょ、たぶん」

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