パンはパンでも
たべられないパン
なーんだ

 階段を下ると、そこは売り家でした。

 呆然と踊り場に立ち尽くすむぎの脳内で、どこかで耳にした覚えのあるキャッチフレーズ――むぎはウン百年前に放映されたアニメ映画について、増してそのアニメ映画の封切りに遡ることウン十年前に刊行された純文学作品に強い関心を持っているわけではない。しかし、まあ、海馬が揺さぶられるほどの衝撃だったのだろう――彼女の脳内には、いつかどこかで耳にしたフレーズを改変した文言が踊り狂っていた。階段を下ると、そこは売り家でした。家がなかったのである。


 いや、勿論、実際に家がなくなってしまったわけではない。
 踊り場とむぎの自室だけが宙に浮かんでいるとか、見知らぬ場所に転移していたとか、そういうことでもない。それならそれで、サブカルチャー被れの彼女としては「ええ、むぎもついに異世界トリップ主人公になってしまうのねえ……!? 悪役ヒロインになろう!」と喜んだだろう。しかし“なろう主人公”デビューとはいかなかった。家はむぎの自室と踊り場を内包したまま、前日と同じ場所に佇んでいたからだ。家はそこにあった。家は存在していたが、むぎの自室の外にある電化製品・絵画・家具……外観同様豪勢なインテリアは綺麗さっぱり消え去っていた。

 むぎの家は田等院駅から徒歩十五分の閑静な住宅地にある。
 高い柵と監視カメラに囲まれた洋館、それがむぎの生家だった。築十五年とそれなりの築年数を誇るものの、ぱっと見“新築”と変わりない。定期的に清掃業者を頼んでいることも理由としては大きいが、最たる理由は“定住場所としての役目を十分に果たしていないから”であろう。
 むぎの母親は“家主”としての役目を全うする一方、“家庭人”としての責任感は皆無だった。月に一週間滞在したらいい方で、大抵の場合は浮気相手の家やホテルを転々としている。父親は母親よりかは未だマシだが、やはり家を空けている時のほうが多い。腕のいい技術者だから出張でアチコチ飛ばされるし、その上大変な愛妻家なので妻のストーキングもこなさなければならないのだ。
 そういうわけで、7LDK+3SSの豪奢な屋敷にむぎ一人で住んでいる。友人たちは「でも、なんか怖くない?」と言うものの、防犯対策はしっかりしているし、お化けが出たこともない。お化けも、泥棒も、母親の放つ障気に萎縮するのだろう。しかし今、階下には父親でも母親でもない見知らぬ人々がひしめき合っていた。スーツ姿の男性が二人、若いカップルが一組、そして揃いのツナギを着た青年がいっぱい。幽霊にしては活気に満ちている。幽霊のくせに、足が生えている。
 そういえば、両親はどこへ行ってしまったのだろう。むぎは寝起きのポケっとした頭で考えた。

 古い家具を一掃して、インテリアを新しくするのかもしれない。
 お気に入りのソファがエイサエイサと運び出されていくのを、むぎはぼんやり見送った。
 むぎの居る踊り場は、玄関ホール中央の大階段半ばに位置する。階下の玄関ホールとダイニング・キッチンは繋がっていて、見通しがよく開放感がある。要するに、むぎはそれなりに目立つ場所に立っているはずなのだが、余程忙しいのか誰も気付かない。むぎは「はえー」と鳴きながら、事の成り行きを眺めることにした。というか、他に如何したら良いのか分からなかったのである。
 冷蔵庫、液晶テレビ、食器棚、マガジンラック……ダイニングからもキッチンからも次々物が運び出されていく。むぎは上下左右を確認してみた。五回ぐらい確かめてみた。何度確かめても、空っぽである。何もなかった。むぎの部屋だけを残して、むぎたち一家の生活の痕跡は一切合切ぬぐい去られていた。インテリアの改装にしては、あまりに大がかりだ。そして、単なる改装なら無論父親が「明日業者さんが来るからね」と教えてくれただろう。しかし父親は何も言わなかった。
 大階段の脇、かつて(昨日まで)柱時計があったはずの空間で見知らぬカップルが盛り上がっている。カップルはスーツ男Bを熱心に問い詰めていた。築年数だとか、ウォークインクロゼットの広さ、庭の敷地面積、最寄り駅から、もしくはデパートまでどのぐらい掛かるのか。
 物知らずで世間知らずのむぎにも、いい加減ピンときた。不動産物件の内見である。何故?

 ポケットから取り出したスマホには「08:10」と表示されていた。
 清々しい水曜の朝だ。今日から転科試験の結果が出るまでは自宅学習期間。要するに、むぎにとってはちょっとした休暇である。ほんの十分前まで「少し遅めの朝食を満喫したら、製図の練習でもしようかな」と考えていたのに、何故こんな混沌に直面しているのだろう。大体にして、経済社会の始業は九時以降であるはずだ。何故、朝の八時に不動産業者(仮定)諸々が働いてるのだろう。そして何故、朝の八時に生家が売り飛ばされようとしているのだろう……むぎは混乱した。頭の片隅には「下着で出て来なくてよかった」と思うだけの理性はあったけれど、未だフリーズ状態から脱することは出来なかった。階下の人々は未だ忙しく、踊り場の氷像に気づく気配はない。

 むぎがフリーズしている間に、ツナギ軍団は粗方の仕事を終えたらしかった。
 スーツ男Bとカップルは相変わらずだし、スーツ男Aは、すばらしく物のない空間で分厚いファイルをめくっている。ベラベラベラと音を立てながら開いたページに「BLUE MAP」と題された本を重ね、何事か調べているらしかった。見るからに“今忙しいから話しかけるな”と言わんばかりの態度だ。果敢にも、ツナギ軍団のリーダー格と思しき青年がスーツ男Aに話しかける。
「運び出し終わりました! 内見オッケーでーす!」
 パッと帽子を脱いだ青年は、ハツラツとした笑みを浮かべた。中々にキュートな笑顔だ。
 むぎはリーダーくん(仮)をねめまわした。従弟の顎を鉄パイプで五発殴って顔の下半分を腫れさせたようなイケメンである。ふーん、エッチじゃん!と思ってホッカリしたが、しかしボーイハントをしている場合ではなかった。どうやら、むぎの生家は誰かに引き渡されてしまうらしい。

 かつてキッチンだったスペースで、カップルが心をときめかしている。
 カップルは完全にむぎの家を買い取る気のようだ。スーツ男Bを相手に「私たちのカラテカフェにピッタリ!」「庭に道場があるのも希望通りで……無理いって一番乗りさせてもらった甲斐がありました!」と盛り上がっていた。別にカラテカフェだろうがムカデカフェだろうと如何でも良いのだが、そんなニッチな喫茶店は流行らないと思う。スーツ男Bは苦笑いで聞き流している。
 そして件の道場は一応剣道場で、空手に利用されたことは一度としてない。尤も何の変哲もないプレハブの床面に板を敷いただけのスペースなので、カラテカフェにリニューアルすることは十分可能である。叔父が壁に作った大穴、従弟のゲロの染み、むぎの血痕……そうした諸々も「空手家の修行跡!」として、エンターテインメントに昇華されるに違いない。ウケぴよ。
 発奮したカップルが熱い口づけを交わし始めた。それを尻目に、スーツ男BはAに歩み寄る。
「火也子さんから電話あった時は焦ったけど、家具も内装も良い状態で良かったよ」
「正直マジで死ねって思ったけどな」スーツ男Aが破顔する。我が母親ながら、やたらと他人の恨みを買う女だ。「でも、この分だとすぐに買い手が付きそうだ」
「ま、しかし、あとは開かずの間に何があるか……開けていいの、三日後だっけ?」
「火也子さんのことだから汚部屋ってことは、」
 そこで、彼らは階上から注がれる視線に気づいたらしかった。

 これが、今から一時間前──ホークスに電話を入れる十分前に起こったこと。




 作家・コラムニストの轟火也子さん(49)が新作執筆のため、パリへ移住。
 しっぴつのため、ぱりへいじゅう。むぎは床に置いたノートパソコンを見下ろし、脱力した。
 画面には国内最大手のポータルサイトが表示されている。母親の名前は、ページ中央のニュース欄にあった。むぎに黙って、国外逃亡したらしい。同姓同名の他人かもしれないと一瞬考えたものの、たかが移住に「お前の席だけ大西洋に落ちて死ね」とコメントされる轟火也子(49)が二人もいるとは思わない。とある情報筋に「娘はもう小学校卒業してるから大丈夫!」と豪語したとかで、娘(むぎ)の身を案じる人も少なくなかった。見ず知らずの親切な人々に「小学校どころか中学校も卒業しているので安心してね」と伝えたくても、パンピのむぎにはどうしようもない。
 そう、生家がカラテカフェに改装されてしまうのも、両親と連絡が付かないのも、最早むぎにはどうしようもないのだ。どうしようもないので、現実逃避にホークスと駄弁ることにした。
『あんまり人様の親を悪く言いたくないけど、無責任にもほどがあるでしょ』
 しかしホークスはむぎを夢の国へと導く気はさらさらないらしい。
「……ママは自由な猫ちゃんなのねえ」
『むぎちゃん、何でも猫ちゃんで片づけないの』
 手厳しいツッコミに、むぎはちょっとスマホを耳から離した。
 通話、切っちゃおうかな。いや、自分から泣きついておいて面倒くさくなったらブツ切りというのは最低過ぎる。一晩で本州を横断した相手に泣きついてる時点で既に最低なのだ。幾らむぎが愚か者とはいえ、これ以上の愚行を侵して良い理由にはならない。でも泣きつく相手を間違えちゃったかな、という気持ちはあった。まあ、泣きつけそうな相手は皆、授業中なのだけれど。

『っていうか、幾らアレでもむぎちゃんにとっては肉親だから黙ってたけど、言っていい?』
 どうしようかな!と思ったけれど、端から応える必要はなかった。
『──クソすぎない?』
 その台詞を皮切りに、ホークスはむぎの母親を呪い始める。
 むぎはまったりと耳慣れた批判を聞き流すことにした。たかが移住の報にさえ死を望まれる女である。尚且つエンデヴァーファンには蛇蝎の如く嫌われているので、然したる動揺はなかった。寧ろ、どこかしら納得のいくところがあった。むぎの母親もホークスが嫌いなのだ。

 どうも、むぎの知らぬところで、何かしらのキャットファイトをやらかしたらしい。
 それまでホークスのホの字も口にしなかった母親が、今年に入ってから急に彼を嫌いはじめた。最初こそ「ホークスとの交流がバレたのだろうか」と怯えたものの、むぎがいない時も父親相手にクダを巻いているので“当て擦り”とは考え難い。単に嫌いなのである。子どもかな。
 ビルドチャート上位だけあって、ホークスは各種メディアに引っ張りだこの売れっ子ヒーロー。トーク番組やCM、果ては新聞広告にまで起用される。それ故、母親がホークスを扱き下ろす機会は決して少なくない。ホークスの姿を見つけるなり、母親はその麗しい眉間に深いしわを刻む。
 昨夜もホークスが出演したCMにぶちあたって、盛大に舌打ちしていた。チャラついてるのはポーズで本当はマジメな優等生なんです〜!って態度が気に食わないのよね。完膚なきまでに不当な悪口である。母親の言わんとすることは分かる。軽薄な若者を気取っているくせ、ホークスはクソが付くほど真面目な一面があった。恐らく“生意気なイマドキの若者”ではなく“真面目な優等生”が本性なのだろう。逆より全然良いではないか、とむぎは思う。傍で聞いていた父親もそう思ったに違いない。愚かな父親が「ええ、でも……僕、他人を傷つけること言わなくて好きだなあ。ホークス、個人攻撃は絶対しないし、カッコイイよねえ」と言って、妻に歯向かう。
 むぎは我が身を恥じた。ホークスと面識のない父親のほうが、余程ホークスに対して誠実だ。
 ……そうは思っても、誠実な父親のケツが思いきり蹴とばされるのを目にすると、見習う気にはならなかった。父親はドマゾだからケツを安売りしても何とも思わないのかもしれない。でも、むぎはドマゾではない。性的にノーマルなのだ。自分のケツは何が何でも死守したい。

 母親は四つん這いにさせた夫の背に座り込んで、尚もホークスを呪う。
 折寺小学校三年四組のともこちゃん(こないだの“田等院ふるさと祭り”で親しくなった子だ)レベルの悪口は尽きることがない。顔がいい。頭がいい。仕事が早い。コミュニケーション能力が高い。その上顔も良い。タッパもある。女性人気が高くて調子に乗ってる。ちょっと生意気なことを言っても、楽屋裏では好青年気取ってすぐ謝る。イヤミよね、ガツガツしててみっともないったら──僻みである。二十も下の若者に、大人げないったらない。ともこちゃんの悪口は結局好意の裏返しで、可愛らしかった。散々悪く言ったたかしくんに盆踊りを誘われ、ツンツンしながら承諾していたのも微笑ましく、「たかしくん、ロマンスの神さまなのねえ……」と思ったほどだ。しかし、アラフィフの母親がホークスを罵ったところで、それは全く可愛くも微笑ましくもない。

 妻の下でハアハア言う父親、そして将来有望な青年を悪し様に罵る母親。
 個性的(意味深)な両親を前に、むぎは思った。ママとパパの子どもなんだから、むぎが猫ちゃんでも仕方がないのねえ。この場合の“猫ちゃん”とは“ろくでなし”を意味する。いわば比喩表現の一つであり、決して猫科の生き物を誹謗する意図はない。猫ちゃんはフワフワなので、ろくでなしでも何でもフワフワしてるだけで許されてしまう。それに比べて人間ときたら無毛である。悲しいことに無毛の生き物が“ろくでなし”の場合、大らかな対応は期待できない。来世は猫になりたい。
 鳶が鳶を産むのは自然の摂理だ。むぎの親族には出来の良い人間が多いが、なかんずく同世代は逸材揃いである。万物において完璧な従弟、そして容姿同様その心根も美しいはとこ。二人は凄い。どっちでもいいからむぎと結婚してほしい。尤もはとこは同性なのだが、彼女ほどの美少女であれば全然性的に見ることが出来る。ムフフ……エチエチだねえ……と言いながらセクハラを働くことも出来る。幸いにして、無垢なはとこはむぎの台詞の九割も理解出来ない。生意気ボディ……? 私、何かしら目上に失礼な振る舞いをしてしまったのでしょうか? そう言って狼狽えるはとこに「おっぱいがムチムチってこと! 片方持ってあげようか?」と言い放つ度胸はない。でも「おっぱいがムッチリってこと!」とは言った。恥じらいと共にむぎを叩くはとこ、完全にシコれる。従姉であれば直ちに教育的指導を加える猥談も、はとこの前では吐き放題。
 はとこを玩具にするのは楽しいが、その無垢さ、清らかさを実感すると、我が身の卑しさが際立つ。一応幾らかは同じ血が流れているはずなのに、何故むぎばかりが猫ちゃんなのだろう。
 しかし、まあ、両親があの様である。むぎがちょっと他人より猫ちゃんだろうと、むぎだけの責任ではないはずだ。何にせよむぎはうんと年下の子を悪し様に罵らないし、ケツを蹴られて喜ぶドマゾでもない。それだけで、両親の遺伝子が結合した結果としては上々ではないか。

 むぎが悟りの境地に達したと言うのに、それでも母親はホークスの悪口を言っていた。
 最早「こないだ演出の近藤ちゃんもトークが上手いしお尻がキュッとしてて可愛いってウンザリしてたわ」と、文章的に破たんした台詞を漏らしている。その近藤ちゃんとやらは、絶対ホークスを悪く思っていない。人間は、決して嫌いな人間のケツに言及しないものだ。むぎだって、別に、本当は相澤のことを嫌っているわけではない。寧ろ、小中高の担任のなかでは一番好きな先生だった。可愛さ余って憎さ百倍の向きがないと言えばウソになる。でも、嫌いではない。
 まあ、相澤に対する愛憎はさておき、母親とホークスの間に何があったかは分からない。直接聞いてみようかと思い立ったこともあったが、行動力にかけて父親は頭一つ抜きんでている。むぎに先んじて「火也子さん、なんでホークスが嫌いなの?」と口にした父親のケツが三つに割れた。むぎは、自分のケツを“食べきりサイズで再登場!”させる気はない。ホークスもきっと「お尻は二つのままのほうがいいと思うよ、三つはバランスが悪いし」と同意してくれるはずだ。
 何にせよ親しい相手の悪口を聞くのは楽しいことではない。しかし「殆ど褒め言葉なのねえ」と思ったのもあって、フォローの言葉は入れなかった。先述の通り、自分のケツが可愛かったからだ。それにホークスと会った直後のことで、藪蛇になるのが怖かったのもある。ケツを蹴られたくない。ホークスとの関係を知られたくない。むぎの心は千々に裂かれ、その声は嗄れた。
 あんなによくしてくれるホークスに対し、むぎときたら保身の塊である。卑しいったらない。
 それでも、その翌日に置き去りにされるのが分かっていれば「ママも十分猫ちゃんなんだから、同じ猫ちゃん同士嫌わないでねえ?」ぐらい言ったのに……。
 滔々と喋り続けるホークスに気づかれないよう、むぎは重いため息を漏らした。

 ホークスは仕事の速い男だ。愚痴の放出速度もさることながら、仕事の処理速度はもっと凄い。
 そして仕事の速い男は無論判断力にも優れているのである。もしむぎが「家が売られちゃう」という電話をもらおうものなら「ええ……!? 買い取ろうか……!?」と返すのが関の山だろう。しかし流石はこの国の誇るNo3である。異界からの怪電波としか言いようのない着信があっても、ホークスは動じない。ホークスは放心するむぎに「シャワー浴びたら三十分後に掛け直す。電話代もシャレんなんないでしょ」と口にして電話を切った。電波女の電波話をシャットアウトするための方便であろうと思ったものの、ウイングヒーロー・ホークスは律儀だった。むぎのスマホには、通話終了からキッカリ三十分にホークスからの着信が入った。感動ものだ。

 ホークスは仕事が速く、優れた判断力を有し、尚且つ律儀な男である。
 仕事が速く、優れた判断力を有し、尚且つ律儀な男は、勿論時間の使い方が上手い。
 ホークスは“三十分”という短い時間で前言通りシャワーを浴び、母親の近況について纏め上げたテキストファイルをむぎに送ってくれた。きっと、他にも色々なことを済ましてるに違いない。
 ホークスが寄越したテキストファイルには、むぎの知らないことが沢山詰まっていた。
 それは同時に“むぎの知りたくないこと”でもあるのだが、両親が高飛びした時にそんな悠長なことは言ってられない。むぎは母親の入国を拒否する国が相当数あるのを初めて知った。一体母親は外国で何をやらかしたのだ……と思う間もなく、その“やらかし”一覧が書き連ねてあった。ホークス一人で母親のウィキペディアの文字数を十万は増やせる。そのテキストファイルをてろてろスクロールしている時は純粋に「なんて情報収集力が高いのう!」と感じ入ったものの、尽きることなく溢れる批判を聞く限りずっと前からチマチマ収集していた気配がある。仕方ない。むぎの母親はそれだけのことを仕出かしていて、何しろアメリカ・ロシア・イギリス・ベルギーその他諸々の入国審査ではねられる女なのだ。その内日本にも入国出来なくなるかもしれない。
 それに、母親がまた父親と別れていたとは知らなかった。むぎの知る限り、五度目の離婚である。道理で昨夜の父親がションボリしていたわけだ。尤も愚かな父親のこと、今頃は飛行機のなかで六回目のプロポーズを慣行しているに違いない。我が父ながら、学習能力のないひとである。
 六枚目の婚姻届けは受理されるのだろうか。むぎには国の婚姻制度が如何なっているのか分からない。むぎは未だ未婚だし、誰かと離婚したことも、再婚をしつこく迫ったこともない。しかし、むぎがお役人だったら「事実婚で我慢してねえ!」と言って婚姻届けを引き裂くであろう。


 ホークスが限りある時間を有効活用している間、むぎは同じ“三十分”をドブに捨てていた。
 むぎは猫ちゃんなのである。猫ちゃんなので、反論の余地なく一方的に喋り倒されてしまう。スーツ男ABは、母親と親しい間柄の不動産屋職員だと名乗った。どうやら二人とも犬派らしく、むぎという猫ちゃんにあまり同情的ではなかった。まあホークスと比べると、世の殆どのひとは同情的ではない。何せ身内の叔父でさえ「お前の身に起こることの九割は自業自得、残りの一割は事故だ。ふざけた言動を慎んで、真面目に生きろ」と言い放つのだ。叔父はいつも大体たまに正しい。
 むぎは本当は人間なので知っているのだが、一般的な社会人はやることが沢山ある。
 一般的な社会人は、国外逃亡した女の子どもに構っている暇はない。それ故、寝間着のままポカンとしている女子高生には「火也子さんにも困っちゃうなあ……悪いけど、三日で出てってね。要らないものは置いてってくれたら捨てとくからさ」以外、何も言えない。忙しいのだ。ファイルをベラベラベラ音を立てて捲らなきゃならないし、国外逃亡した女の悪口をSNSに投稿するのだって時間を食う。住む家を失って途方に暮れる女子高生について、様々に思い巡らせる暇はない。
 あんまりにカジュアルな退去勧告である。ええ!と思ったものの、むぎには「はあい」と力ない返事を口にする他なかった。自我が強烈なひとの傍で長じたむぎは、人一倍押しに弱い。

 むぎの小さい頃から、母親は猫ちゃんだった。
 スーツにアイロンかけて。ミネラルウォーター買い足しといて。銘柄が違う! ニョッキ・アラ・フィオレンティーナが食べたい。レシピ調べて作って。本場の味と違う!! 夏休み中は本場で修行してきて、これチケット。イタリア料理飽きた。マフィン出して。まっず、マフィンひとつ美味しく作れないなら無駄個性じゃない! このパン不味い。学校休んでパン職人に弟子入りして。これまでの要求に比べれば、家を追い出されるぐらい些細なことだ。些細なことだが、生家を去るのは辛い。やっぱり、些細なことではないかもしれない。生家を失くすのは、本当に悲しい。
 むぎがしょんぼり項垂れると、Bは幾らか憐憫に満ちた顔をした。Bはむぎの体を引き寄せて、その肩を抱いて慰めてくれた。本当は猫ちゃんが好きなのかもしれない。見ず知らずの男性でも、優しくされると嬉しい。しかし片割れに「後が怖いぞ」と急かされるなり、スーツ男Bは凄い勢いで飛び退った。もっと慰めてくれてもいいのに、そんなにスケジュールが詰まっているのだろうか。
 流石に見知らぬ社会人に「もう少し慰めてねえ」とねだるほど厚顔無恥ではない。むぎはスゴスゴ自室にとって返した。知ってる社会人に慰めて貰うから良いもん……向こうは朝っぱらから電波女の電波話に付き合わされるのは御免だと思ってるかもしれないけれど。それにしても、今日中に引っ越し業者が掴まるかな。思索しながら階段を上る。そんなむぎに、スーツ男Aが話し掛ける。
『ここを見たいってお客さんがあと二組いるから、午後までお部屋にいてくれるかな?』
 スーツ男Aは、カラテカフェに非協力的なのだろうか。むぎは心配になった。
 あのカップルはちゃんと夢の実現にこぎつけるのか──それに、この家のそこここに残る“叔父が暴れた痕跡”を如何取り繕うのかも気になる。来月あたり、コッソリ確かめに来よう。カラテカフェがオープンしていたら、何食わぬ顔で入店してレビューしてやるのだ。「若く熱意のあるオーナー夫妻が◎」と題して、星三つの評価を下そう。むぎの私見では、サクラなしの純粋なレビューでは星三つが一番信頼性が高い。星四つとか、五つは寧ろ白々しいのである。
 むぎの目論見も知らず、カップルは「あら、ここの壁、コンクリなのに拳の跡がある!」「カラテの達人が建てたに違いないよ!」と、壁の前で記念撮影を始めた。叔父もカラテの達人という称号を得て、さぞや喜ぶに違いない。むぎは、鬼神の如く荒れ狂う叔父の姿をシンミリ思い返した。あれは「クソババア、冷に下らないメールを送るのはやめろ!!」と言ってキレた夜の傷である。母親がコンクリで埋める度にせっせと掘りだした拳拓とも、これでお別れだ。
 きっとあの若く熱意溢れるカップルは、叔父の拳拓をむぎ以上に可愛がってくれる。むぎはスンと鼻を鳴らした。炎司さんのお手ての跡ちゃん、カラテカフェで幸せになってねえ……?

『むぎちゃん、俺の話聞いてないでしょ』
 流石この国の誇るNo3は判断力に長けている。

『……本当に何の告知もなく我が子を置き去りにしてったわけ?』
 むぎは、メールと電話と対話と置手紙を使わずに意思を伝達する手段を思い浮かべようとした。矢文……と思いついたものの、現実味がないのでボツにした。矢文以外、何も浮かばない。
「お空に立派な移住雲が」
『何もなかったんだね?』
「何もなかったよう!」
 胡乱なことを言ったら即座にキレそうだったので、むぎは素直に白旗を上げた。
 ホークスは時々怖い。時々というか、しょっちゅう怖い。多分むぎの頭が悪すぎてイライラするのだろう。栗きんとんと張り合うサイズのオツムを誇るむぎと比べ、ホークスは頭が良い。きっとIQ200はある。ホークスがむぎと話していてイライラするのは何ら不思議なことではなかった。
 しかし不思議なのは、ホークスのキレるタイミングだ。ちょっと前までむぎの与太話をヘラヘラ聞き流していたかと思うと、急に人語を話すよう詰め寄ったりする。むぎは与太話をするのが好きだし、自分のことを大き目の猫ちゃんだと思っている。それ故、可能な限り“与太話をする猫ちゃん”を受け入れてくれる、ないし渋々でも付き合ってくれる人物とだけ関わっていたい。ホークスが“与太話をする猫ちゃん”が嫌いなら、それはそれであまり迷惑をかけないよう距離を置くのだけれど……一体ホークスが何を考えているのか、むぎにはイマイチ分からなかった。
 何にせよ朝っぱらから胡乱な泣き言を飛ばしたのは自分なので、要求には応えて然るべきだ。
 むぎは深呼吸すると、人間らしく、尚且つドライに物事を振り返ろうとした。
「……今思うと……昨日、ママとパパが揃っておうちにいたのが予兆だったのかもう」
 受話器越しにホークスが渇いた笑みを浮かべる。
『俺の知ってる世界だとそれが普通のはずなんだけどね』


 昨夜、家に帰ると両親がいた。そしてホークスを罵倒していたのは先述の通りである。
 玄関に入るなり「あのイケメン鳥男!」という威勢の良い罵倒が聞こえてきたので、突然の帰宅にも然して狼狽することはなかった。大抵の場合、二人は連絡なしに帰宅する。思春期の常で、むぎとしても親がいると不都合なことがままある。例えば母親のソファの上でポテトチップスをパリパリ、コーラをグビー! あまつさえ母親が刺繍したクッションを抱いてゴロゴロしながらジャンプを読んでるとか、そう言う時に限って母親が帰ってくる。何故玄関ホールとダイニング・キッチンが繋がっているのだろう。多分、むぎの暮らしぶりが把握しやすいからだ。勝手に鍵変えちゃおっかな!と思いついたこともあるが、むぎは父親ほど愚かではない。もし母親を閉め出せば、死ぬより酷い責め苦を受けるであろう。ケツをみじん切りにするとか、生きたままソファにするとか。
 両親は十分すぎるほど不実な人間だが、その娘の生活態度については不思議と厳しい。
 漫画を読んではならない。読書中に飲食してはならない。自室の外でだらしない恰好をしてはならない。ジャンクフードを口にしてはならない。校外で、叔父以外の男性と話してはいけない。例え同級生であろうと、男と親しくなってはならない。買い物は生鮮食品から衣類まで全て通販で済ませ、各種習い事とエンデヴァー事務所、そして学校以外行ってはならない。くちうるさい。
 要するに、むぎにとって両親が帰ってくるのはあまり嬉しからぬことだった。何せ、むぎの主食はジャンクフードだ。毎日大手コンビニ三社をハシゴしてるし、 暇さえあれば木椰子区ショッピングモールへ出かけるし、アドレス帳には無数の男が登録されている。しかも昨日は“イケメン鳥男”との校外デートで喋りまくった。母親に知れたら、むぎのケツは地球上から消滅する。
 何にせよ、今回に限っては開放的な間取りが幸いした。今朝読んでた漫画を救う手立ては最早なかったが、スマホを機内モードに設定するだけの猶予はあった。ホークスを罵る母親の周りには、ちょっと前まで漫画だった消し炭が山の如く積まれていた。いいもん。また買うもん。

 一人娘の帰宅に気付くと、母親はキレ散らかした顔で近づいてきた。
 母親は棚上げが上手である。無言で手を差し出す母親に、むぎは「ヒナちゃん先輩とお買い物していたのう……」と言ってスマホを渡した。ヒナちゃん先輩とは、ホークスのことだ。
 母親は帰宅の度にむぎのスマホを御用改めする。アドレス帳に男の名前があると、舌打ちと共にどこの誰か詰問するのだ。叔父のサイドキックだとか、エンデヴァー事務所の職員であれば登録することだけは許される。なお、入学当初に親しくなったクラスメイトの連絡先は全て消された。勿論、理不尽だと思わないこともない。自分はありとあらゆるメンズと連絡を取り合っているくせに
! しかし母親の機嫌を損ねるのは極めて面倒臭いし、何なら愛する叔父に飛び火することもある。むぎは兎に角、表向きは従順に振る舞うようにしていた。こっそり付き合えば良いのだ。
 何しろ母親は猫ちゃんだ。凝り性だが根はズボラで、しかも幼稚な娘は男に一切の興味はないものと思い込んでいる。それ故、母親の監視をやり過すのは容易なことだった。ホークスを女性名で登録して「友だちの高校の先輩で、炎司さんのファンだってことで、意気投合したのね」と説明したらあっさり嫌疑が晴れた。母親は叔父のファンから蛇蝎の如く嫌われるが、自身は弟のファンを憎からず思っている。「若いのに趣味の悪い女」とは言ったものの、ちょっと満足気だった。
 むぎが先週買った“エンデヴァーもちもちマスコット”を「お揃いで買ったのね」と言って見せると、母親は上機嫌になった。弟の支持率が上がると嬉しいのだろう。おかげで、ひなちゃん先輩が「今度、俺のコート選びに付き合ってくれない?」というメッセージを送ってきたのにも気づかなかった。そろそろ普段使いのものとは別に、ホークス用のスマホを用意しておこう。
 むぎのスマホをチェックし終えると、母親は消し炭の玉座へ戻っていった。
 あ〜誤魔化せて良かった!と思うばかりで、何故両親が家にいたのかまでは深く考えなかった。それがいけないのだろうか。バレてないと思ったのはむぎだけで、本当は全部母親に筒抜けで、ウソツキな娘に愛想が尽きたのかもしれない。しかしスーツ男Aは一週間前に電話があったと言っていた。そうしたら、じゃあ、でも、いつからむぎを捨てるつもりでいたのだろう。

 父親がむぎに何も言わなかったのは、母親に口止めされていたからだ。
 むぎは、いつでも、誰かの“一番”にはなりえない。
 とうとう捨てられてしまった。

 一人になっちゃった。


『……鍵、返して貰ってないよね?』
「売れちゃったからねえ」
『手持ちは? ある? ない?』
 流石のホークスも、むぎの呑気な態度に苛立ちを覚え始めたらしい。
 矢継ぎ早に質問するホークスに、むぎもいい加減現実を直視することにした。最初からしろ。
「お金は大丈夫、ホテルの予約取れたから夕方にはそっち移るよう」
 むぎはビジネスホテルの宿泊予約ページを閉じて、ノートパソコンの電源を落とした。
手元のメモには当日依頼可能の引っ越し業者・トランクルームの電話番号が何件か記してある。繁忙期でもあるまいし、一件は引き受けてくれるだろう。ベッド・デスクトップパソコン・ドレッサー等の大型家具は、ホークスからの着信を待つ間に可能な限り分解してある。あとはトランクケースに当面の生活必需品を詰める程度で、さっさか出て行けそうだ。お金があってよかった。
 手持ちも少なくないが、口座にもそれなりのお金がある。先ほど残高照会したところ、母親から結構な額が振り込まれているのに気づいた。恐らく手切れ金だろう。この家を売ったお金を丸々突っ込んだに違いない。桁数からいって、本当に、二度とむぎを迎えにこないかもしれない。
 それならそれで、直接言ってくれればお別れの挨拶ぐらいしたのにねえ。
 ゼロが一杯の画面を思い出して、むぎは脱力した。大き目の猫ちゃんになってしまいたいけど、ホークスに心配をかけてしまうので、もうちょっと人間の擬態をしなくてはならない。
「……業者さん探すのにちょっと手間取ったけど、とりあえず当面の生活用品と着替え以外は全部トランクルームに入れて、むぎは暫くホテル暮らししようかなあって思ってます」
 反応がない。
「あの、あのね、だからね、むぎ大丈夫なのね」
 むぎは思わず愛想笑いと共に、ペペペペと手を振って誤魔化す。
 その何もかも電話の向こうのホークスには伝わらないのだけれど、今更色んな事が決まり悪くなってしまった。自分で如何にか対処できることで泣きついたこととか、昨日の今日で振り回してしまったこと、朝っぱらから怪電波を飛ばしてしまったこと、色んな事が恥ずかしい。

『引くほど冷静だね?』
 やっとのことでホークスが口を開けた。
 一先ずキレた様子もなく、ウンザリした声音でもなかったのでホッとする。
「ママとパパ、いつも勝手にどこか行ってしまうから」
『そうやって、めちゃくちゃ聞き捨てならないことをサラッと言うね〜』
 失言だったらしい。深いため息を吐いたホークスは再び口を噤んでしまった。
 折角“よくあることだから平気!”アピールをしたのに、よく分からない方向に空回る。むぎはペペペッと手を動かして、会話の落としどころを探そうとした。これまでのお友達はみんな両親不在ネタで笑ってくれたのに、寧ろ「うちの親もお金だけ残してパッと消えないかな……」とさえ言ってくれるのに、むぎは本当は猫ちゃんじゃないので大丈夫なのに、なんで笑ってくれないの。
 時折小さいため息が漏れ聞こえることからも、本心から呆れているらしいことが分かる。それが両親に対するものか、はたまた安直に他人に泣きつく自分になのかは図りかねた。

 そうやって、すぐに、誰にでも泣きつくんだな。そう言うのは、一つ下の従弟だった。
 むぎと顔を合わせる度、従弟はため息と共に同じ台詞を吐く。すぐに、誰にでも泣きつく。自分で何とか出来ないのか? いい加減、アイツに頼らなくたって生活できるだろ。
 ちゃんと両親揃ってるくせ、他人の父親にどこまで寄生するつもりだよ。

 叔父と叔母の美徳の全てを受けついた従弟は“完璧”で、むぎの自慢だった。
 その完璧な従弟の口から出るものは、いつも正しい。自分で何とかしようともせず他人に泣きついたり、他人の父親に縋ったり、増してそれを“命綱”だと思い込むのは極めて愚かなことだ。
 クビを切られたとはいえ、むぎは雄英高校のヒーロー科に受かった人間だ。ノータリンの分からず屋だけど、人品の卑しさに反して物覚えは良い。剣道・居合道共に二段、叔父から「女だてらにプロヒーローを目指すなら」と勧められたのもあって、薙刀の心得もある。“個性”自体は碌でもないけれど、リスクを問わなければ炎を出すことも出来た。火傷が嫌で、入学試験で使ったきりだけど……。それも相澤の不興を買った。“羊頭狗肉みたいな真似しやがって”と言う相澤は正しい。
 従弟といい、相澤といい、ホークスだって、何故むぎの周りは、正しい人ばかりなのか。


『……エンデヴァーさんには連絡した? 確か、一番近い親族だよね』
 真っ当すぎる問いにむぎは言葉を失った。
 叔父は未だ何も知らないであろう。フレイムヒーロー・エンデヴァーが実姉を忌み嫌っているのは有名な話だ。サイドキック諸兄は「轟火也子」の文字に気づくなり、それが雇い主の視界に入らないよう幾重にも気を揉む。叔父は本心から自分を一人っ子だと思い込んでいるし、自分の認識に反する出来事が起きると怒りの発作を起こす癖があった双方と繋がりのある人間としては申し訳ないが、むぎ自身「お前は川で拾った」と言い聞かされて育ったので勘弁してほしい。

 叔父は警視庁の術科大会に招かれて、三日前から留守にしている。
 今頃は実姉が亡命したのも知らず、姪がヒーロー科をクビになったのも知らず、呑気に国家の犬をしばき倒しているだろう。サイドキック諸兄が付き添いをしているので、絶対に未だ知らないはずだ。ちょっと叔父と面識のある者なら、竹刀を持った叔父を怒らすのがどれだけ恐ろしいことか知っているはずだ。少なくともむぎは絶対に怒らせたくない。むぎのケツが二つに割れたのは、五歳の時に竹刀でケツを殴られたのが切っ掛けだ。叔父にそう訴えると「クソが出来るようになって良かったな」という、極めて冷静な意見が返ってきた。確かにむぎのケツは産まれた時から二つに割れていたし、先の台詞は不当な言いがかりだけど、そういう問題ではないのだ。
 “あれ”から随分成長したもので、今や叔父の家には一本の竹刀もない。
 いや、探せば一本ぐらいは出てくるかもしれない。しかし弟想いの従姉が「相手がいなきゃ出来ないんだから、外でやって」と嘆願した甲斐あって表向き一掃された。しかし、幾ら従姉が思慮深く可憐な美少女であろうと、父親が七段まで上り詰めた事実を覆すことは出来ない。

 過去は変わらない──叔父は身内の愚行を知った途端、烈火の如く怒り出すであろう。
 流石に竹刀でしばき倒されることはあるまいが、叔父相手に「すまんな、ヒーロー科クビになったしママは国外逃亡したわw」と伝えようものなら絶縁もあり得る。叔父に絶縁されるなら、せめて日をずらしたい。両親に捨てられたばかりか叔父からも捨てられたら、精神的に死んでしまう。
 むぎは、叔父が“エンデヴァー”を演じているとは思わない。叔父はこの国の誇るヒーローで、一人の人間で、些か問題のある家庭人だ。数多の面が複雑に絡み合って、叔父というひとを構成している。ホークスは確かに“エンデヴァー”については詳しいかもしれない。でも“轟炎司”との面識はない。ホークスは常に正しいが、こと叔父の扱いについてはむぎのほうが詳しい。“個性”なしでも鬼神のように強い叔父を怒らせるのがどれだけ恐ろしいことか、ホークスには分かるまい。
 むぎはノートパソコンを閉じて、トランクの一番上に仕舞いこんだ。

「……物件を幾つか見繕って、もうちょっと先の見通しが立ったら連絡しよっかなあ〜って」
『物件?』
 ホークスの声がとげとげしい。
『へえ、一人暮らしするつもりなの』
 極めてフラットに発音された台詞を受けて、むぎの体は強ばった。
 いわば、今のホークスは時限爆弾である。赤と青、二本の導線のどちらを切るか──対応を間違えれば、ホークスは即座にキレるであろう。尤もキレると言っても、相手は“正義の味方”だ。ホークスが懇々と理詰めでむぎを説教するとき、その言葉の全ては正しい。あんまりに正しすぎて、愚かなむぎは何も言えなくなってしまう。むぎは低スペックの頭をフル回転させた。
 一体、どうしたら、この状態のホークスを上手くやり過ごせるのだろう。分からない。分からないけど、あーとかうーとか言えるうちに何とかしなくては……! むぎは思った。叔父に怒られるのは怖いし、ホークスに説教されるのも怖い。何故ひとは二兎を追ってしまうのだろう。
「申し訳ないけどお」恐る恐る口火を切る。「叔父さんにお願いして、学校近くのワンルームを」
『むぎちゃ〜ん、アナタ幾つ?』
 時限爆弾の解除失敗である。
 皮肉っぽい声に、むぎは眉を寄せた。

『十八才? 成人してたっけ? 違うよね? 十五才の女子高生が一人暮らしなんかして、何、犯罪に巻き込まれたいの? 押し売り泥棒強盗強姦魔痴漢宗教勧誘、痴漢さえ上手く追い払えないむぎちゃんがどう対応するか見物だね。天井桟敷でとっくり観劇したいなあ』
「……遠方から入学した子は、一人暮らししてるもん」
『答えになってない』ホークスは大仰なため息をついて、むぎの名前を呼んだ『むぎちゃん』
 呆れきった声と一緒に、がりがりと頭をかきむしる音も聞こえてくる。
『むぎちゃん、赤ちゃんじゃないんだからさあ……分かるね? 確かに雄英とか士傑じゃ一人暮らしの生徒も珍しくないけど、それは近くに頼れる親戚がいないからでしょ。エンデヴァーさんのおうち、どこ? むぎちゃんちから徒歩何分? さっさと答えてくれる?』
 切っちゃおうかな。邪な考えが鎌首をもたげる。

『言っとくけど、電話切っても答えるまで掛け直すからね』
 完全にキレている。めちゃくちゃキレてる。

 こんなにキレたホークスを見るのは、初めてのことだった。
 もし目の前でこんなにキレ散らかされたら、むぎはショック死していただろう。電話越しで良かった。むぎは心の底から思った。今後はホークスをキレさせないよう気をつけよう。
 でも、そんなに怒ることだろうか。むぎちゃん、猫ちゃんになるのよしてくれる? ほら、ちゃんと答えて。一人暮らししようってんだから、ちゃんと考えてあるんだよね? 聞きたいな〜! むぎちゃんのご立派な防犯対策! ブチキレ状態のホークスにまくし立てられるうち、段々ムッとしてきた。これまでだってむぎは殆ど一人で暮らしてきたのに、防犯対策だってそれなりにしてきたのに、なんでこんなにプンプンされるのう! それは勿論、始めに頼ったむぎが全面的に悪い。しかしむぎの脳容量は10KBぽっきりで、古いデータは次から次へと消去されてしまう。不運なことに、悪態をつくのに大したスペックは必要ない。それ故、悪態.exeは音もなく起動した。

「ホークスさん、昨日、俺と結婚して、ふくおか」
『ハハ、じゃあ本当に俺と結婚する?』
 ……悪態.exeは対抗プログラムに邪魔されて、強制終了を余儀なくされた。

 地を這うような声に遮られ、むぎは今度こそ行動不能状態に陥った。
 せめて、最後まで言わせてくれたっていいのに。昨日俺と結婚して福岡来たらって言ってたくせに、急に真面目な事言うのね。落ち着いて考えると母親の言い分と変わりないし、途中で遮られて良かったのかもしれない。思わぬところで血の繋がりを実感し、むぎは虚しくなった。
 叔父に連絡しろと言うホークスは正しい。普通未成年者が保護者を失ったら、その次に近しい大人に判断を仰がなければならない。むぎが一人暮らしするとして、それは炎司が決めることだ。
 ホークスはむぎの身内ではない。他人だ。だから、今すぐ叔父に連絡しろと助言する。ホークスとむぎの関係を顧みると、二人の間柄ではそれが一番誠実で、思いやりに満ちた言葉なのだ。
 分かってる。分かってるけど、ちょっと釈然としない。一番釈然としないのは昨日に引き続き胡乱な事態に巻き込まれたホークスであろうが、まあ、ホークスとのアレコレについてはむぎが全面的に悪い。むぎは居た堪れない気持ちになった。謝らないと……でも、でも凄く怒ってる。
 ホークスはむぎが軽い錯乱状態に陥ったのを察したらしかった。緩く息を吐いて、口を開く。


『……冗談だよ。びっくりしちゃった?』
 先ほどの攻撃的な声が嘘のように穏和な声だった。

 むぎはホークスの意図が分からなくなった。
 いや、ホークスが何を考えているかは大抵の場合わからないのだが……この聡明で、親しみがあって、頼りがいもあって、他人に懐疑的なひと──ホークスは、自分の本音が世に知れ渡ることを何より厭う。気難しい人間なのだ。厭世家の仕事人間。この手のタイプが他人と関わる時は、自分が積極的に関与するより、相手に振り回されているほうがまだ気楽なのだ。それ故、余暇の相手にむぎを選んでいるのだとも思っていた。……そこに甘えすぎてしまった自覚はある。
「……あの、むぎ、むぎね、怒らせるつもりはなくて」
『分かってる、怒ってない』
 怒っていないひとは、そんなにつっけんどんな話し方はしない。
『怒ってないけど、アレはちょっと意地悪だよ。
 むぎちゃんが未成年じゃなければ“おいで”って言うけど、そうは出来ないの、分かるね?』
 当たり前だ。縁もゆかりもない単なるライン友達の家に転がり込むのは常識的ではない。増して片割れが未成年となれば、犯罪である。幾らむぎが愚かでも、No3のヒーロー生命を潰す度胸はなかった。そんなことをしたら物理的に炎上する。何せホークスはファンが多いのだ。
「ほんとに、本当にごめんなさい。むぎ、茶化すつもりはなくて……」
『本当に怒ってないから、何も言わなくて良いよ。ただ、心配してるだけ』
 むぎはホークスへの申し訳なさから唇を噛んだ。色んなことが恥ずかしい。電話を切りたい。
『電話切ったら寝落ちしそうだから、パトロールの時間まで相手してくれる? 荷造りとか色々あるだろうし、無理に喋ったりしないでいいから。俺もちょっと書き物あるしね』
「でも、電話代が凄いことになるのでは……?」
『大丈夫、ちゃんと体で返して貰うから気にしないで』
 マグロ漁船にでも乗せるつもりだろうか。

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