パンはパンでも
たべられないパン
なーんだ

『ここに焦凍がいることは分かってるんだ、さっさとアイツを出せ!!』
 階下で叔父が声を荒げていた。
 それに応じる義叔母の声は弱々しく、はっきりとは聞こえない。

 階段を上がって二つ目、兎のルームプレートが掛かっている扉がむぎの自室だ。六つの子どもには広すぎる部屋を多種多様のぬいぐるみが埋め尽くしている。そのぬいぐるみの山に埋もれるようにして、一つ下の従弟が耳を塞いでいた。半刻前に炎司がやってきてからというもの、階下の口論が落ち着く気配はない。ぺったりと扉に張り付いていたむぎは、結局鍵を閉めないまま従弟の下へ戻った。どうせ鍵を閉めたところで、叔父に壊されるのだ。ぬいぐるみを掘って従弟の隣に座り、テレビの音量を上げる。平べったい液晶のなかには大昔のアニメ映画、少年少女の逃走劇が繰り広げられていた。しょうちゃん、おねむなのう? 白々しい台詞を食んで、従弟の顔を覗き込む。従弟はぷくぷくした手で頭を抱え込んで、静かに息をしている。青と灰の瞳は虚ろに画面を映すだけで、はつらつとした掛け合いも柔らかい耳朶を上滑りしていく。石のように硬い従弟の体を抱いて、むぎははしゃいだ声を出す。ねえ、しょうちゃん、パンの上に目玉焼きのせたの食べてみたいね。むぎ、おなか空いちゃった。しょうちゃん、おなか空いてない? むぎが何か作ってあげようか。ぎこちなく頭を振る従弟を全身で抱きしめて、つむじに頬を寄せる。しょうちゃん、大丈夫。
 一体、いつまで時間を無駄にするつもりだ。何かあるとすぐここだ。クソババア、こんな近くに家を建てやがって。私がどこに家を建てようが私の勝手でしょ。捻挫してる時ぐらい好きにさせたら? そんなだから、夏雄くんも燈矢くんもあんたに懐かないのよ。お前は引っ込んでろ、うちの話に首を突っ込むな。お言葉ですけど、あなたが足を突っ込んでるスリッパも、立ってる廊下も“うち”のものよ。良いのよ、冷さん、このバカのことは無視して奥で休んでて頂戴。分かった、冷は好きにしろ。焦凍は連れて帰るぞ。アイツには一日も早く左を使いこなしてもらう。さっさと退け。どうせ、むぎの部屋だろう。ビクリと、従弟の肩が跳ねる。焦凍は連れて帰る。こんなところに逃げ込むばかりで、ちっとも体力がつかない。昨日もこの調子で家中逃げ回って、俺が焦凍の年には小学生に混じって空手の稽古をしてた。お前らがグルになって甘やかすから、いつまでも軟弱なまま、オールマイトのようなアメリカかぶれになびきおって──焦凍!! 叔父の怒声が家中に響き渡る。しょうちゃん。息を殺す従弟を撫でて、語り掛ける。しょうちゃん、むぎがいっしょしてあげる。むぎ、炎司さんに怒られるのへーきだから、大丈夫。しょうちゃん、大丈夫よ。
 しょうちゃんの好きなものも、しょうちゃんも、全部むぎが守ってあげる。

 くたりと肩の力を抜いた従弟が、情けない顔でむぎを見上げる。
 むぎちゃん。むぎちゃんと、むぎの名前を繰り返して、むぎの肩に顔を埋めた。階下では、まだむぎの母親が炎司を足止めしている。おうち帰りたくない。僕だけ離れで、夜、トイレ行くの怖い。むぎちゃんちがいい。足痛い。左使うと、むねがバクバクする。ヒーローなんか、どうせ、父さんみたいなのになっても、嫌だって言ったら母さんが困るかな。帰りたくない。はく、はくと、不器用に喘ぎながら弱音を漏らす。むぎは、葛藤を持て余す従弟の背を撫でた。従弟のひきつった呼吸が整うのを待ちながら、耳を澄ます。遅かれ早かれ、結局叔父は従弟を連れ帰るだろう。
 叔父が従弟の教育に熱を入れるのは、一歩間違えればその強力な“個性”が他人の害となることを承知しているからだ。それ故叔父は徹底して従弟を管理し、上三人から隔離する。勿論叔父自身の欲──自分を超え、オールマイトをも凌駕するヒーローを育もうという──もあるけれど、叔父の言動の何もかもが従弟のためにならないわけではない。寧ろアプローチの方法がまずいだけで、叔父は従弟のことをよく考えていると思う。六つのむぎには、そうした私見を従弟にうまく伝えることが出来なかった。そして伝えたところで、従弟の慰めにならないだろうことは明白だった。
 聡明な従弟は、むぎの認知が歪んでいることに気付くだろう。喩え相手にどんな理由があろうと、自分の受けた苦痛は変わらない。父さんが僕のためを思ってても関係ない。従弟がそう切り捨てるのは想像に容易い。叔父はよく弱虫だ、軟弱だと言うものの、むぎの知る従弟は気の強い子どもだ。温厚でマイペース。人見知りがちな一方、誰が相手でも頑として自分の意志を曲げない。
 ただ物心ついたときにはもう厳しい修練を課されていたため、叔父の巨躯を前にすると問答無用で萎縮する癖がついていた。それ故むぎと二人きりの時に出来ることが、叔父といる時には出来なくなってしまう。失敗を怒鳴られ急かされるため、ますます緊張して上手くいかない。
 しょうちゃんね、炎司さんが怖いのね、だから、ちょっとだけ優しくしてあげてねえ……?
 むぎが幾ら訴えかけても、叔父は「そんなことではこの先やっていけない」で突っぱねる。
 叔父と従弟は似ているところのほうが少ないけれど、むぎの言葉を聞き入れないという点も数少ない共通点の一つだった。二人とも、“むぎに言ってほしい言葉”しか聞き入れてはくれない。

 たった五つの、恐慌をきたした従弟の耳に届く言葉は「だいじょうぶ」の一言だけ。
 それはむぎの本心ではなかったし、多分、本当は“だいじょうぶ”ではなくて、何かが少しずつ壊れて、取り返しのつかないことになってしまうような予感があって、でも、誰もむぎの言葉を聞き入れてはくれなかった。この幼い従弟でさえ、むぎが本当は何を考えているかなど興味を持っていないのだ。尤も、その無関心は従弟自身の悪徳というより、幼さ故の仕方のない傲岸に近かった。
 むぎと従弟は、たった一つしか年が違わない。それなのに、むぎはいつも従弟の“おねいさん”であることを求められる。自分を取り巻く大人が如何いう意図で「むぎは焦凍くんよりお姉さんなんだから」とか「お前は焦凍より一つ上だろう」と口にするのか、むぎには分からない。
 むぎに分かるのは、自分は従弟の“おねいさん”で、おねえさんは大人の言うことをよく聞く良い子だということ。そして大人はみんな、この一番年若い従弟に無知でいて欲しがるのだ。叔父と義叔母は衒いのない愛情から、むぎの母親は──母親は、多分、あまり良くない感情から。
 もしかして、ママは、しょうちゃんがきらいなのかもしれない。時々、むぎはそんな風に思うことがあった。従弟が特別甘えたになって自分に張り付いてる時、もしくは従弟が「大きくなったら、二人であそびにいこうね」と他愛のない空想を膨らませるとか、ふとした折に母親の顔が曇る。焦凍くんは頭が良いし、プロヒーローになったら忙しくてむぎなんか構ってやくれないわよ。従姉弟同士と言っても、それが現実なの。仲がいいのは今の内だけ。従弟が帰ったあと、母親は必ず、その“現実”とやらを突きつける。母親が何を考えているのか、むぎにはよく分からない。
 母親は決して従弟を非難しないし、寧ろむぎの何倍も出来が良い、利発だと言って手離しに誉めそやす。それにも拘わらず、母親が芯から従弟を可愛がっているようには思えなかった。
 従弟が可愛くない母親が、従弟が可愛い叔父と同じことを望んでいる。そうしたら、それは、従弟にとって良いことなのか悪いことなのか、六つのむぎが推量するには難しすぎた。どの道、従弟はむぎの本音を受け入れはしないだろう。従弟はまだほんの五つで、嘘と真の区別が出来ない。
 むぎはしょうちゃんの“おねいさん”だから、出来る限りしょうちゃんが子どものままで居られるように振る舞わなければならない。そうした強迫観念は、むぎにとって、従弟より、母親や叔父に可愛がられることのほうがずっと大切で、重要であることを意味していた。勿論幼く無邪気な従弟は、最初こそ戸惑うかもしれないけれど、結局は“おねいさん”でないむぎのことも許してくれるだろう。それ故にむぎが“おねいさん”でいるのは、従弟のためではない。自分のための嘘だった。
 従弟は屈託なくむぎを慕い、好いて、その好意には一切の虚偽がない。それに比べてむぎは……むぎには“従弟を騙している”という罪の意識が、物心ついたときにはもうあった。
 本当はちっとも大丈夫なんかじゃないの。叔父さんと義叔母さんの関係は、決定的に崩れ始めている。その崩落を増長させているのが自分の母親かもしれないこと、大人たちが揃って本音と手札を出し惜しみしていること──むぎは六歳だけど、一つ下の従弟よりずっと物識りだった。

 太腿がブルブルブルと震動する。階下の母親から、何らかのメッセージが入ったらしかった。
 従弟の背をポンポン叩きながら、携帯電話をポケットから取り出す。液晶には「パパが足止めしてるけど、あと二分でそっちに行く。うまくやりなさい」とだけ記されていた。
 うまくやりなさい。すっかりへそを曲げた状態で部屋にやってくる叔父を落ち着かせ、従弟がちゃんと家へ帰るよう宥めろということだ。むぎは従弟の体をぎゅっと抱きしめて、囁きかける。
 だいじょうぶ。しょうちゃんの好きなものも、しょうちゃんも、全部むぎが守ってあげる。
 何も分からない従弟が、むぎの腕のなかでこっくり頷く。この従姉は決して自分を裏切りはしないと、過剰で危うい信頼を寄せて慕う。むぎの本心なんて如何でも良いくせに。でも、はじめに嘘をついたのは自分で、自分だって、本当は、何にも分からない子どもでいたかったのだ。
 

 幼いあなたが“子ども”でいられるように、目を塞いであげる。
 この世界が終わるまで、ずっと嘘をついてあげる。
 それは、そうすることでしかあなたを守ることが出来なかった六つの頃の約束。


INTERVAL.パンとカッサンドラ



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