パンはパンでも
たべられないパン
なーんだ

「先生、今日はドクターはいらっしゃいませんの」
 大広間の扉を後ろ手に閉めつつ、火也子はとびきり甘い声を出した。

 薄暗い部屋のほぼ中央に革張りのリクライニングチェアが位置し、その周囲に点滴や心電計、
生体情報連続モニタなどの医療機器が乱立している。火也子にはその一つ一つが何か分からないものの、ドクターに曰く“ICU並みの機材”らしい。要は高価で取り扱いが難しいから、学のない火也子は下手に近づくなということだ。火也子はドクターの小言などお構いなしで歩を進めた。
「先生と二人っきり、口煩いひとがいないとホッとするわ」
 はすっぱな物言いを漏らす火也子に、“先生”と呼ばれた男が喉を鳴らして応える。
「たまにはね」男の座るリクライニングチェアが僅かに火也子のほうを向いた。傷一つない手を差し出して、その口元に温厚な笑みを浮かべて見せる。「可愛い火也子が帰ってくると聞いたから」
 甘い言葉に酔いしれながら、火也子は男の足元に膝をついた。
 差し出された手を取って、頬を寄せる。男は火也子の為すがまま、彼女を撫でた。
「うれしい……嬉しい。あの人と来たら私が来たときに限って研究室から出てくるんだもの。やれバイタルチェックだ、脳無の動作報告だって、私が滅多にここへ来れないのを知っているくせに」
「彼も悪気はないのだけれど……でも、僕も君との時間を邪魔されるのは面白くないな」
 思慮深い低音を耳にして、火也子は恍惚とした笑みを浮かべる。
 火也子が見上げた先には目も鼻もなかったが、男がしっかりと──“個性”の一つで感知していると聞いた覚えがある──自分の目を見つめているのが、火也子には分かっていた。
 男の顔は、その上半分は人の様相を留めていなかった。幼児が丸めた粘吐細工のように歪な凹凸が見受けられるだけで、そこには鼻も眼も、何も残っていない。そして体のあちこちから伸びるシリコン・チューブ、周囲の医療器材は、彼の生命活動が自立していないことを示していた。

 火也子は、この男が幾つなのか知らない。
 この男は火也子の産まれる遥か昔から生きていて、一部の人間から神に等しい存在として崇められ、もしくは悪魔として忌み嫌われることもある。ドクターを含む、火也子の知人は無論前者だ。
 ドクターの言葉の端々から、無意識の信頼が見受けられる。先生はあたかも十字架にかけられたイエス・キリストの如く、奇蹟を起こすに違いない。自らの生命活動を機械や“個性”に委ねるようになってから四年経っても、いつの日にか以前同様……いや以前より強靭な肉体を得て復活するものと信じている。その信仰心が正しいのか如何か、火也子にはよく分からなかった。
 火也子にとってこの──オール・フォー・ワンの俗称で知られる男は、一人の人間だった。
 オールマイトとの戦いで負った傷を見るにつけ、火也子は「最早完璧に快癒することはない」と思った。オール・フォー・ワンの弟によって産み出された“個性”は受け継がれる毎にその力を増していく。“ワン・フォー・オール”の継承者はオールマイトで八人目だと、聞いた覚えがある。あの男は歴代屈指の継承者だとも、オール・フォー・ワンは言っていた。火也子も無論、オールマイトのことはよくよく知っている。ヒーローのなかのヒーロー、弟が超えることの出来ない男。ヒーローとしての一つの到達点に至った男と真っ向から戦って、生きていることさえ半ば奇跡なのだ。

 この男は今も尚、神にも悪魔にも等しい力を有している。
 それでも疾うに全盛期を終え、彼の望む社会の実現を待たずに死ぬ未来も充分有り得た。
 今ここで火也子の頬を撫でる男は神でも悪魔でもなく、一人の人間に過ぎない。火也子はこの全能の男を前に、彼の微かな人間味を感じるときが心の底から嬉しかった。

「それにしても、連絡もしていないのによく私が来るのが分かりましたね」
「今日放映の番組で、移住の話をしただろう? それを観たんだよ」
 火也子をゲストに呼ぶような番組は大抵の場合低俗なトーク番組と決まっている。
 増して、件の番組は視聴率の低迷を笠に着てスタッフが好き放題やっている下劣オブ下劣のバラエティだ。まさか敬愛する先生がそんな低俗な番組を観るとは予想だにしていなかったので、火也子は真顔になった。先生が観ると知っていれば、ヒモの惚気話なぞしなかったのに──まあ、そのヒモ当人は二部屋向こうで廃人と化しているので気にすることはないのかもしれない。
「それにしても、今日こそ君の旦那様を紹介してもらえるものと思ったのにな」
 火也子はちょっと眉を寄せて、オール・フォー・ワンの膝に寄り掛かった。
「あのひとはとっくに機上のひと。五年は帰ってこないよう言いつけたし、清々したわ」
「僕の火也子が世話になってるのだから、挨拶ぐらいしたって良いだろう?」
 どこまで本気なのか、オール・フォー・ワンが不貞腐れた声を出す。
 “野良猫との間に子どもを作った”のが余程気にくわないのか、火也子が結婚してからというものずっとオール・フォー・ワンは彼女の夫に会いたがった。“僕の火也子”と呼ばれるのは中々気分の良いものだったが、こう何度も夫に会わせろと言われると嫌になる。

「ダメ、やめて、夫のことなんて──第一、籍はとっくに抜いたし、ただの使いパシリよ」
 火也子は大仰にため息をついて、頭を振った。ふーっと長い息を吐く。
「家は売ったし、娘も一緒に捨ててきたの。産みたくもなかったものを、やっと処分出来たわ」
 脳裏には、今年高校生になったばかりの娘の寝顔が浮かんでいた。
 火也子は母親としての素質に乏しく、娘の寝顔を見た回数は両手の指に足る。それでも“もう二度と見ることはないかもな”と思ったので、昨夜見納めしておいたのだ。ウン年ぶりに見る娘の寝顔は、如何しようもないアホ面だった。まあ確かに火也子がそういう風に育つよう策を練ったのだけれど、そうはいっても壁という壁に実叔父のポスターを貼り、実叔父のぬいぐるみ(しかも手作り)を後生大事に抱いて眠る娘には些か引く。くぴぴぴぴ……と呑気な寝息を立てる娘を見るにつけ、「この部屋で寝るぐらいなら舌を噛んで死んだほうがマシ」という思いが募った。
 もし目を覚ましたらと、思った。アホ面を晒して眠る娘の頭を撫でながら、ついでに頬も抓ったけれど起きなかった。ここまでして起きないので、両親の乗った車がガレージから消えようと、静岡に核爆弾が落ちようと目を覚ますことはなかろう。つくづく寝汚いヤツだ。……しかし、もし目を目を覚ましたら、娘は、火也子は如何するのだろう。火也子自身のことはさておき、娘については容易に想像がつく。むぎは火也子の姿を認めれば、甘ったれた声で“ママ”と口にするだろう。
 いつものことだ。娘とは、産んだ後より、産む前のほうが一緒にいる時間が長かった。いつもいつも置き去りにして、時には病院送りになるほど放置して、幼稚園・小学校・中学校と、PTAどころか娘の担任教諭さえ知らない女を、むぎは何の衒いもなく“ママ”と呼んで微笑みかける。
 赤ん坊の頃から、娘の白痴具合は変わらない。昔からずっと、ずっと、火也子は──……
「……ずっと捨てたいと思っていたの」
 自分らしくもない感傷を振り払って、火也子は語気を強めた。
「試しに産んだけど、産むんじゃなかったわ。せめて、男の子だったら良かったのに」

「じゃあ、僕にくれよ」
 思いがけない言葉に火也子はぽかんと口を開けた。

 あんまりに驚いたので、とっさに素の感情を晒してしまった。
 火也子は慌てて顔を伏せた。凝視したところで火也子にはオール・フォー・ワンの表情を読むことは出来ないのに──ぽかんと見ているよりマシ──その判断さえ、悪手だったように思う。散々“要らない”と明言し続けたものを欲しいと言われたところで、然して驚かないはずだ。
「こうして地下にこもっているのは些か気鬱でね。弔は相変わらずの利かん気だし、ドクターの前では弱音を吐けない。それに、あんなにいた“友人”が殆どいなくなって……寂しいんだよ」
 オール・フォー・ワンは膝上の猫でも愛でるように、優しく火也子の頭を撫でる。
「君によく似た娘が傍にいてくれたら、どれだけ気が晴れるだろう」
 夫については幾度となく“会いたい”と要求されてきたが、娘について言及されるのは初めてのことだった。「どんな個性なんだい?」という問いに「手からパンが出ますわ」と応じて以来、オール・フォー・ワンは娘に対する興味をすっかり失ったものと思っていた。手からパンが出ると聞いて興味を失わないほうが難しい。実際に目にしたわけでもないのに、よく信じて貰えたものだ。
 火也子は胸中の混乱を落ち着かせると、苦笑を作った。オール・フォー・ワンを見上げる。
「……火也子がいます。少なくとも、ひと月はここに残ります」
 視線の先にあるオール・フォー・ワンの表情も、自分自身の気持ちも分からなかった。

 
 果たして、この胸中の混乱は……これは“嫉妬”なのだろうか?
 自分よりずっと若く、美しく、愛想がよくて、ありとあらゆる悪意から守られて育ったむぎ。
 全てに恵まれた娘は、火也子が必死に努力して得たものを産まれた時から有している。そうして、火也子が必死に繋ぎ止めているものをあっさりかっさらっていくのだ。他人の羨望も、美貌も、学歴も、資産も──炎司も、この男の関心さえ、むぎはただそこで息をしているだけで何もかもを得る。我が子に対してそう思うこと自体が“嫉妬”なのか、それとも何か別の感情なのか、火也子には分からなかった。この男の関心を盗られたくないと思っているのかさえ分からない。
 ただ、兎に角むぎをこの男に近づけたくなかった。近づけてはならないという、その危機感が何に由来するのか分からずにモヤモヤする。この男は火也子の所有物を難なく取り上げてしまう。

 そう、端からオール・フォー・ワンは火也子のものではない。
 火也子こそが“彼の物”で、盗るも盗らぬも見当違いの考えだ。こうして二人きり、親し気に言葉を交わしたところでオール・フォー・ワンは火也子と蛆虫の区別もつかない。
 この男が真に愛するのは、疾うに死んだ彼の弟だけだ。それ以外は全部如何でも良いに違いない。火也子は自分の考えに確信を持っていた。オール・フォー・ワンにとって、全ての人間は“使える”か“使えない”かの二択で、それ故に火也子はこの男の傍が好きだった。

 それでは何故、私は先生にむぎを渡したくないの?

 疑問が晴れないまま、火也子は媚びた声を出す。
「暫くは朝も昼も夜もずっと、私が先生のお傍にいます。無論、ドクターとも仲良くしますわ」
「そうだね。でも火也子、例えば僕に君がいるように弔にも誰か必要じゃあないかな」
「……それこそ、娘の出る幕ではありませんわ」
 尚も食い下がるオール・フォー・ワンに、火也子は唇を噛んだ。
 いつも、むぎのことを考えると苛立ってしまう。憎らしい子。もうこれで“終わり”と思って捨ててきたのに、そうやって仰々しく捨ててきたものに限って、いつまでも火也子の胸を焼く。
「あの甘ったれた子を弔に会わせるなんて、考えるだけでゾッとする。
 娘に弔の癇癪を収めるだけの器量があるとは思いません。それに、あの子が姿を消せば炎司が怪しむわ。今までずっと、放ったらかしにしてきたんですもの。だって、顔を見たくなかったの」
 子どものように捲し立てる火也子に、オール・フォー・ワンが小首を傾げる。
「可愛い火也子、君の心はいつも僕以外の誰かにあるね」
 言葉の真意も掴めないまま、火也子は反射的に口を開いた。
 自分の心が娘にあるなどと思われるのは心外だ。しかし、抗弁は叶わなかった。オール・フォー・ワンは火也子の口元に、立てた人差し指を突きつける。“口を挟むな”ということだ。
 火也子はゆるゆると上下の唇を合わせ、沈黙する。これ以上はもう、娘について何か考えたくなかった。何故、今日に限ってこんなにむぎに執着するのだろう? この人は何故突然、手からパンが出るなどというバカげた“個性”しか持ちえない子どもに興味を示すのだろう?
「君を見てると弟を思い出す。何にも出来ない、僕の可愛い弟」
 徐々に、火也子を撫でる手がぞんざいになっていく。
 己の耳朶を上滑りする声音に、火也子はふっと苛立ちを忘れた。
 オール・フォー・ワンの顔には目も鼻もなく、その口元にはいつも作り笑いが浮かんでいる。この男の感情を探るには、視覚よりも聴覚のほうがずっと有用なのだ。耳を澄ます。

「あの子を殺したときが一番幸せだった」
 オール・フォー・ワンは静かに呟いた。

「共に往こうと誘う僕の言葉に応じてくれたのだと思うと、胸が震えるほど嬉しかった。
 その無能故に僕を追うことが出来なかったあの子の遺志は依代を得て僕を追い、永劫に僕に囚われ続ける。なんて可愛いんだろう。でも彼らを殺す度に、弟の遺志が薄れていくのが分かる」
 火也子には、オール・フォー・ワンが放つ言葉の全てが理解できるわけではない。
 寧ろ目の前の火也子が“自分の言葉を理解出来ない人間”だからこそ、何か語る気になるのだろう。この男にとって、火也子とドクター、そして死柄木さえも“替えの利く道具”という点では間違いなく同列の存在である。しかし、こうして、火也子にだけは感情を露わにすることがあった。
 それは多分、オール・フォー・ワンが“男”で、火也子が“女”だからだ。
「馬鹿げたヒューマニズムに、あの子の憎しみが食い尽くされていく」

 火也子はオール・フォー・ワンを見つめた。
 オール・フォー・ワンも、全身で火也子の存在を感じているようだった。
 短い静寂が二人を包む。

「……火也子、君を見ているとね。僕は心から弟を愛していたんだってことを思い出すんだよ」
 オール・フォー・ワンは上体を屈めて、火也子の体を抱き寄せた。
 数多のチューブに繋がれて不自由な体を慮り、火也子は膝を立てる。これは“本当の話”だ。
 嘘偽りのない、このひとの感情。オール・フォー・ワンの肩を撫でさすりながら、火也子は思った。先ほどの“寂しい”という言葉も、あながち嘘ではなかったのかもしれない。
 数多の信奉者と敵を抱えて、結局この人が一人の人間でいられたのは弟の前だけだった。
 その弟を亡くし、辛うじて残った“燃え殻”さえ失われていく。愛着した相手を失う傷を傷と理解出来ず、折り合いさえつけられないまま百年以上の時が過ぎて……火也子は時々、この男を“子ども”のように感じることがあった。先生にとってはまだ、弟は死んでいないのかもしれない。
 オールマイトや、その前任者に向ける敵意は、母の腕から降ろされた赤子の駄々に似ている。

 先生にとってはオールマイトや、彼と同じ、ヒーローと呼ばれる種の人間こそが“悪”なのだ。

「愛故にその意思の一縷さえ完膚なきまでに消し去り、完全に隷属させなければならない。
 分かっているはずなのに、つい忘れてしまう。オールマイトのなかにも彼は存在する。分かっているんだ。でも、あいつらの醜い悪あがきを見ていると……あの子の憎悪を掻き消し、上塗りせんとする激情……器に過ぎないあれらが、愚かにも自他の区別を失って僕のものを侵す」
 彼らの胸に巣食う正義感こそ、最愛の弟が“兄と袂を分かつ”決意をするに至らせたと思っているのだろうか。そんな愚かな病に侵されなければ、自分たちは仲良くやっていけたのに……と。
 理解の及ばない激情を目の当たりにする度、火也子はそんなことを思う。

「……君を困らせるつもりはなかったんだよ」
 ちょっと考え込んでから、オール・フォー・ワンは些か居た堪れなげに呟いた。
 
「そろそろ弔にも“ひとの躾け方”を学ばせたかったのだけど、君がくれないなら仕方ない」
 この男にとっての火也子は無能な愛玩動物だ。
 ただ従順でいるから幾らか特別扱いしてやっているだけの下等生物。しかし、むぎは火也子とは違う。あの愚かな娘は無論、オール・フォー・ワンには従うまい。あの子にとって、炎司はたった一人の命綱。それを手放しては生きていけない。そういう風に躾けたのは、他ならぬ火也子だ。
 この男へ従えば最愛の叔父を裏切ることになる。むぎには、悪事に加担することは出来ない──知らぬうちに利用されることはあっても、自発的に手を染めることは頑として拒むだろう。
「……駄犬を躾けて何になります」
 火也子は草臥れた風に頭を振って応えた。
「先生も分かってらっしゃるでしょう? 今は未だ黒霧に任せておけば良い。何れ、あの子が事を起こした暁には否が応にもひとが集まってきますわ。その時に、少しずつ学ばせれば良い」
「そうだね、僕らがお膳立てするより、出会いはもっと運命的なほうが良い」
 火也子が相槌を打つより早く、オール・フォー・ワンが言葉を続ける。
「道端でバッタリ出会うとかね。もしかして轟先生の娘さんでは? 先生の著書は全部読んでます。特に異能論、社会心理学に秀でた先生らしい作品で──むぎさんは如何お思いですか」
 むぎさんはどうおおもいですか。全身の血の気が引いた。
 火也子は確かに好き放題やらかしてきたが、娘の名前を売ったことは一度としてない。
 テレビ番組でも、著書でも、この男の前でも、娘の名前と具体的な年齢や背格好は決して口にしなかった。無論問い詰められれば幾らかは白状しただろうけれど、そもそものオールフォーワンにしろ先述の通り、下らない“個性”しか持ちえないむぎに無関心を貫いていたのである。

「君にあまり似ていないらしいね、弔が言ってたよ」
 凍り付いたままの火也子に、オールフォーワンが親しみに満ちた笑みを浮かべる。
「幾ら雄英のヒーロー科に受かるほどの実力があるとはいえ、通学路まで特定されているのは不用心じゃあないのかな。一昨年、エンデヴァーの愛人疑惑が掛けられたなんて知らなかった。
 民衆は本当に下らないネタで上に立つものの足を引っ張るね。感心してしまう」
 なるほど、WEB上の情報を──それにしたって、すぐすぐ出てくるものではなかったはずなのに──先生があんな醜聞に興味を持つはずがないと思って大した対策をしていなかった──何故対策を取る必要があるの──もっと早く家を売って、炎司に無理やり引き取らせるべきだったのでは──何のために? 何のために、あの子を炎司に委ねるの。炎司の家庭はもう充分ボロボロになった。冷さんは二度と炎司を受け入れない。焦凍くんは炎司を許さない。冬美ちゃんは何れ粉々の家庭を繋ぎ止めることに疲れて去っていく。夏雄くんたちは既に炎司を見捨てて去った。
 今、むぎと焦凍くんを接触させることのほうがよっぽど本来の目的に反するはず。折角二人の仲に亀裂を入れたのに、結局焦凍くんは自分の殻に篭ったまま小学校でも中学校でも他者と碌に関わろうとしなかった。焦凍くんが人恋しさからむぎと和解する可能性は十分ある。折角むぎと焦凍くんを仲違いさせて、むぎの関心を炎司一人に集中させたのに、その好意が裏目に出てしまう。
 焦凍くんは自分の所有物の裏切りを許さなかった。冷さんは我が子よりもむぎを構う夫を見て失望を深めた。結局のところ炎司に必要なのは“己”だけで、自分のことも子ども達のことも無条件に愛することはできないと思い知って心を壊した。むぎは炎司の家庭を壊すのに、十分役立った。
 元々、そのために産んだ娘。私自身が一人ぼっちになった炎司を眺められれば、それで良いのではない? 私の産んだ娘は、結局のところ私自身には成りえない。代償行為は愚かなことだ。
 だったら寧ろ、この場に呼び出してしまったほうが良いのかもしれない。

「詰まらないヴィランの歯牙に掛かるぐらいなら、僕にくれよ」
 この男に渡してしまえば、もう二度と娘のことで思い悩まずに済む。

 火也子はハッとした表情でオール・フォー・ワンを見つめた。
 死ぬにしろ生きるにしろ、あの子がどうなろうと構わない。最初から、そう思っていたはずだ。
 ただ種が欲しいだけ、ただ自分の死後も炎司の人生を蝕みたかっただけ、ただ……愛情などという崇高なものはどこにもなく、子どもを産んだ。叶うなら女の子がいい。どんな手段を使ってでも、冷さんと同じ白髪にして、世界で一番可愛い女の子に育てて、私の死後も炎司とその血を引く子どもたちを蝕ませるの。“個性”の発現を認めて、すぐに小麦粉のなかに埋めた。だって“轟”って漢字、麦の穂みたいじゃない? 手からパンが出ると、パンを一々買いに行かなくて便利だし。
 創造系統の能力のなかでも極めて精度と自由度の高い“個性”を誇る八百万の種が欲しかった。
 小麦粉塗れでベソを掻く娘と、謎の理論で暴挙に出た妻を前に呆然とする夫。娘はぺそぺそ泣きながらも、二歳になる頃には小麦粉を“創造”できるようになった。自分と炎司の“個性”が毛穴から放出されるものだったので、その頭髪は自然と小麦粉で白く染まった。ウケる。その頃にはもう夫は自分に親権がないのを思い知って、ぺそぺそ泣く我が子を前にしても反抗しなくなった。

 火也子の言うとおり、むぎは一生懸命“個性”を伸ばした。
 思った以上に上手く育つので、幼少時はよく娘を褒めたものだ。子どもは単純なもので、幼い頃ちょっと褒められたのを永遠に引きずる。火也子がどれだけ育児放棄をしても、それが殆どネグレクトに近いものであっても、むぎは自分が“良い子”にしていれば母親が褒めてくれるものと信じているのだ。一体このバカはいつになったら目が覚めるのだろうと、火也子はいつも思っていた。
 火也子の母親は少なくとも、火也子よりかはずっとマシな母親だった。いつも家にいて、毎日毎日朝昼晩と食事を作って、繕いものにも熱心だった。それにも拘わらず火也子は物心ついたときにはもう母親のことが嫌いだった。それなのに、むぎは“母親”としての役をなさない火也子を慕っていた。火也子が家に帰ると、むぎは喜んだ。バカだ。バカなので、大抵の場合は火也子に付き纏った。よちよちよちよち、そうやって一生懸命ついてきたところで虐められるだけなのに。
 カルガモのヒナでも、むぎよりは賢かろう。でも、カルガモのヒナよりむぎのほうが可愛い。

 小さい頃から、むぎは本当に可愛い子どもだった。特別だった。
 些細な我侭を口にしても、拒絶されるとすぐに押し黙った。火也子に頬を抓られても、デコピンされても、その大きい瞳に涙を貯めて「やめてねえ?」としか口にしない。何度置き去りにしても、いつも律儀に玄関で待っていた。あんまりにバカだから、自分のように“かわいい子ども”は、玄関マットの上で一人丸くなっていてはいけないのだと分からないのだ。なんて頭が悪いの。
 産まれた時から全てを持ち合わせた娘は救いようのない白痴で、火也子に屈託なく笑いかける。

 ママは女王さまみたいにきれい。むぎのママは、世界でいちばん、だれよりもきれい。
 ママの子どもだから、むぎは世界でにばんめにかわいいのねえ。

 あまりの愚かさに押し黙った火也子に代わり、夫がむぎを抱き上げる。
 そうだよ、ママは世界で一番綺麗な女王様。その子どものむぎは、世界で二番目に可愛いお姫様。みんな、どこの家もそうなんだよ。炎司さんにとっての一番は冷さんで、冬美ちゃんや焦凍くんたちは二番目に大事な宝物。いつかむぎも、誰かの一番になるんだよ。父親の言葉に、むぎが狼狽する。しょうちゃんてば、やっぱり、あんなにかわいいなんて、むぎにナイショで王子さまだったのねえ……! 娘の頭がアッパラパーになる教育を施していると思ったが、黙っていた。
 柔和に微笑む夫が何を考えて生きているのか、火也子にはまるで分からない。
 その腕のなかの“宝物”を虐めぬく妻を、何故“世界で一番綺麗な女王様”と称せるのだろう。
 火也子が夫であれば、自分のような妻はとっとと殺して埋めている。大体にして、確かに種は欲しかったけど、結婚する気はなかったのに……いや、今は男遊びのために籍を抜いてあるのだけれど……結局上手く追い払うことが出来ないまま、事実婚のようなライフスタイルが定着していた。
 無論、夫が火也子に纏わりつくのは、むぎを囲っているからだ。そうでなければ、お坊ちゃま育ちの夫は火也子に近づくまい。愚かな娘と、娘可愛さに自分に付き纏う夫。それだけのこと。
 それは愛ではない。情でもない。ただ強欲な火也子は、塵一つだって失いたくないのだ。

 喩え誰が相手でも、自分の掌からは何一つ奪われたくない。
 自らの強欲故に、火也子はオール・フォー・ワンに娘を差しだせなかった。

 一体、それ以外に何の理由があるの。

「せんせい、せんせ」
 声が上ずった。
「先生、だめ、駄目……えん、えんじは、炎司は……あの子は、むぎも、」
 愛しいとは思わない。可愛いと思ったこともない。ただ誰にも渡したくないだけ。
 炎司も、むぎも、私のもの。誰にも渡さない。

『火也子姉さん、オレも連れてって』
 体を引き千切られる思いで、家を出た──それで全てが終わりになると信じて。
 火也子が弟と再会したのは彼女が二十六歳の時だった。家を出てから、八年が過ぎていた。
 その頃の火也子は疾うにヒーロー活動認可資格免許を返納し、執筆活動の傍らテレビ出演をするなど軽薄な日々を過ごしていた。無論、弟がビルボードチャートに名を刻むほどのヒーローになっているのは知っていて、トーク番組で「似てますね」と弄られることもあった。それでも二度と顔を合わすことはないと思っていたから、エンデヴァーの姉だという事実は口外しなかった。
 よもや弟当人から「会いたい」と求められるとは夢にも思わず、彼に指定された料亭へ赴いた。
 久々に会う弟は見違えるように逞しく成長し、火也子にはその精悍な青年が弟であるとは俄かに信じられなかった。弟のほうから自分の所属事務所を探し出し、会いたいと求めるなんて、都合のいい夢かもしれないと思ったほどだ。しかし弟の用件は簡潔で、火也子は一瞬にして我に返った。
『次の春に結婚する。父さんと母さんは説得した。結婚式に出て、妻と親しくしてほしい』
 その申し出が弟の本意でないことは直ぐに分かった。火也子が部屋に入ってきた時から、弟は一度たりとも顔を上げなかった。その全身で、火也子のことを拒絶していた。いっそ笑えるほどに。
 八年の時を経ても、炎司は、自分を捨てて逃げた姉を恨んでいた。許してはいなかった。
 ただ、自分の妻となる女を安心させたかったのだろう。若く可憐な花嫁は、あの異常な家庭に嫁入りする。娘を資産としてしか見ない親に嫌気が差して逃げた姉、そして逃げる機会を失ったまま長じた弟を産んだ家庭に嫁ぐ。その事実を隠すため、炎司は火也子に頭を下げる。
 冷は──その名を口にするとき、僅かに炎司が破顔した。冷は気弱で、母さんと気が合わない。ああ見えて母さんも気が強くてハキハキしているから……だから二人の間に入って、冷の話し相手になってほしい。うちの親族はジジイババアばかりだし、冷も幾らか年の近いお前がいると安心すると思う。お前は昔から誰とでも親しく話せる性質だし、冷も根はしっかりしてるから、一度会えば気に入るはずだ。冷は、冷が、冷と、冷も、冷に、冷を──冷、冷、冷……反吐が出る。

 愚かな弟。昔から火也子は、炎司よりずっと物識りだった。この子は恋をしている。
 炎司が自分の花嫁に惚れてるのは明らかだった。しかし、この硬派な弟にその自覚があるはずもない。炎司は己の恋心に気付かないまま、恋うた相手を極めて事務的な手続きを踏むことで自分の物にしようとしているのだ。笑える。これが如何して笑わずにいられよう。この子ったら、“個性”目当てに金で買った女を本気で好いてるの? 買われる側の気持ちも知らずに、これから築く家庭を思って胸をときめかせている。火也子は必死に笑みを堪えて、弟の話に耳を傾けた。

 豪華な料理の乗った机をひっくり返してから畳の上を転げ回ってしまいたかった。
 自分を捨てた姉を、男に買われるのが嫌で逃げた姉を、自分の買った女のために“道化”として雇おうっての? あんたは、私が何故家を出たのかについて考えなかったってわけ?
 一緒に連れてってくれと望んだ相手が、今どこで、どんな風に、何故──火也子は、一時だって、弟のことを忘れたことはなかった。炎司を連れて出て行けば良かったと、何度も思った。
 順調にビルボードチャートを上っていく“エンデヴァー”が決して越えられない壁を目にする度、あの子にはヒーローになんかなるより幸せな未来があったのではないかと思った。傷ついて、血を流して、野次られて、痛みに耐えて、厳しい修行を経て、それでも頂きは未だ見えない。

 幸せになってほしいと、ずっと思っていた。
 でも、それは、火也子のいない世界でのことではない。
 火也子のいない世界で、火也子のことをすっかり忘れて、火也子の知らない誰かと幸せになってほしいとまでは望んでいなかった。ずっと、どこかでは、未だ火也子を探してると思った。
 弟にとっての火也子は最早“過去”なのだ。そうと察した瞬間、火也子の心は粉々に砕け散った。

 火也子は、この弟が好きだった。
 自分より優れて、高潔で、勤勉で、母の愛と父の期待を一身に受けて長じた愚かな弟。
 火也子は弟に成り変わりたかったし、弟に求められたかった。姉でも、女でも、何でも良いから必要とされたかった。あの夜“一緒に連れて行って”と呼ぶ声だけが火也子の自尊心だった。
 その声の主が、恋うた相手と結ばれる。自分の傷も愛も分からないまま、自分の求めたものを手中に収める。幸せになる。許せないと思った。許せない。愛しい。可愛い。寂しい。苦しい。
 けたたましい笑い声を立てて、弟の惚気話を冷やかした。ゆでだこのように真っ赤になった弟を前に幾杯も酒を煽った。全部粉々になってしまえと、そう思った。ぐにゃぐにゃに砕けていく視界のように、この世界も、歪な社会も、何もかも──私の愛も、跡形もなく消えてしまってよ。

 手を差し伸べることが出来ないまま、それでも炎司に手が届く場所にいると安心した。
 いつか、きっと……きっと、炎司が如何しても困った時には手を差し伸べようと思っていた。
 上手く弟を愛することが出来ないまま、上手くひとに愛されることが出来ないまま、四十九年も経ってしまった。もう今更やり直すことが出来ないのは、火也子自身が分かっている。
 全てをやり直す機会は幾らでもあったはずなのに、自立と孤立を履き違えたまま他人の情を受け入れようとしなかった。誰もが自分に害を為すと頭から決めつけて、後戻りのできないところまで来てしまった。他人を殺し、騙し、拉致し、数多の悪事に手を染めて、火也子にはもう死ぬか収監されるかの二択しか残っていない。如何したら良いのか分からないなか、オール・フォー・ワンだけが火也子に優しい。火也子の歪みも業も罪も全て理解したうえで、必要としてくれる。

 父親も、母親も、弟も、夫も──娘の人生にさえ、火也子は必要なかった。
 誰が悪いわけではない。火也子自身がこの未来を選んだのだ。全てを突き放し、愛そうとせずに生きてきた。如何したら満たされるのか分からないまま、ちょっとでも自分が傷つくことが恐ろしくて、他人を許し、愛することが出来なかった。はじめは自分を含め、誰かが特別悪いわけではなかったと思う。少し歪んでいるだけの、有り触れた家庭。大人しく親の言いなりになってさえいれば、今よりマシな未来があったのだろうか? 火也子の人生は、どこで狂ったのだろう。
 母親に愛想を振りまけば良かったのか、弟に張り合わなければ良かったのか、それとも自分の処女に値段を付けられた時に助けを求めれば良かったのかもしれない。
 誰に助けを求めれば良かったのだろう。父母は火也子の様子が違うことにさえ気づかなかった。唯一異変に気付いた弟に、五歳下で未だ小学生だった弟に縋れば良かったのか。私は今日「ブサイクの癖に調子に乗ってる」という理由で、見知らぬ男たちに暴行されました。私の処女は五万円だそうです。これは高いのか安いのか、これから如何したら良いのか分かりません。あんなにいっぱい鍛えたのに、結局男数人掛かりで、しかも“個性”対策までされると歯が立たなかった。笑っちゃう。私ったら、ヒーローとして失敗作の上に、女としては五万円の価値しかないみたい。
 成功作で、男の炎司には分からない。同じ女の娘にさえ、火也子の気持ちは分からない。それはつまり、火也子が“間違っていたこと”の証明に他ならないのではなかろうか。もし火也子がむぎであれば、決して「ブサイクの癖に調子に乗ってる」などとは罵倒されなかっただろう。他人の反感を買う火也子に落ち度があったのだ。理由があれば、ひとは、女の体に値をつけていいのか。
 もう、一体、如何したら良かったの。面倒くさくなって、考えることを辞めた。自分の体に値を付けられることに慣れた。所詮セックスなんて生殖行為に過ぎない。子どもが出来なければ、手と手が触れ合うのと変わりはない。消費されることに慣れると、生きるのが楽になった。……あの日炎司の口から「結婚する」とさえ聞かされなければ、この年まで生きる気はなかったのに。

 弟だけは必ず、心のどこかで自分を必要としてくれると思っていた。
 この気持ちを弟にも分かってほしいと思った。自分がどれだけ求めても、相手の人生から切り離され、二度と顧みては貰えない。かつて火也子を灼いた絶望を、炎司にも味わって欲しかった。
 炎司の大切な家庭をグチャグチャにするために子どもを作ろうと、そう思った。
 老いて全てを失い一人ぼっちになった弟に、自分によく似た娘が寄り添う図が見たかった。
 ただ、そのために産んだ娘。そのために産んだに過ぎない。ああ、それなのに、何であんなに可愛いの。むぎは小さい頃から特別可愛かった。幼い頃の火也子が決して着せて貰えなかった服がこよなく似合う。天使のように可愛い娘は、その内面さえ愛らしい。火也子の母親が生きていれば、きっと、孫娘“は”可愛がっただろう。たった五万ぽっちの価値しかない女から産まれた癖に、なんて可愛い子なの。何故私に追いすがるの。イジメても、無視しても、泣かせても、何故私に笑いかけるの。何故、いつまで経っても私を憎もうとしないの──私は、母親なんか大嫌いだった。
 母親のことを“世界で一番綺麗な女王様”だなどと思うことはなかった。
 でも、私は何一つ間違ってない。私は母親を憎んだし、嫌ったし、同じ女としてあらん限りの侮蔑を向けたわ。それは、私が悪いんじゃない。それだけのことをしたの。そして、私も。


「あの子は私のもの。私のものです。先生でも、それは、駄目です」
 オール・フォー・ワンは、いよいよ泣きだした火也子の背をやさしく撫でた。
「火也子」火也子の名前を一文字ずつ丁寧に呼び、その視界に影を落とす。空いている左手で彼女の顎を掴むと、幼い泣き顔を覗き込んだ。「……僕は人一倍愛情深い性質さ、君と同じだよ」

「火也子、君を愛しているよ」
 嘘だ。自分という駒を絡めとるための嘘。それでも、他人に必要とされるのは嬉しい。
 損得勘定で必要とされるのが、一番安心だった。己の愚かさを噛みしめて、火也子は相槌代わりに微笑した。この世界の誰も愛していない男と、この世界の誰からも愛されない女。
 オール・フォー・ワンにとって、全ての人間は“使える”か“使えない”かの二択で、それ故に火也子はこの男の傍が好きだった。この世界の誰も愛していない男の下にいるときだけが、“自分だけが愛されていないわけではない”と安心することが出来る。自分より遥かに深い絶望をあやしていると、火也子の痛覚は麻痺して、長年の苦痛を忘れることが出来た。それは愛でも情でもない。
 オール・フォー・ワンが火也子に慰めを求めるのも、同じことだと思う。

「君を愛しているよ……本当に、本当だとも、僕の、可愛い火也子」
 火也子は笑みの失せた顔で、ぼんやりとオール・フォー・ワンを見つめた。

 一度道を踏み外した人間がこの世界で生きようと足掻くのは虚しいことだ。
 この世界を変えたいとか、間違っていると批判する人間はオール・フォー・ワンのみならず、あちこちに存在する。オール・フォー・ワン当人は「友だちが減った」と言うものの、実働部隊が根こそぎいなくなってしまったというだけで、ドクターを始めとした水面下の支援者は少なくない。オール・フォー・ワンの肉体が四年前の怪我を理由に幾らか衰えたとはいえ、“次”の準備は整っている。しかし彼の語る“秩序”の下でこの社会を再構築する──その野望は成就するのだろうか?
 一握りの犠牲とも称される“ヒエラルキー下位に属する人間”を肯定するなら、その上に幾つかの幸福が存在するのも一つの真実だ。それを守ろうとする現存社会の在り方は、決して間違っていない。その現実を前に「正しい秩序を成す」とは言っても、それは既存のヒエラルキーをひっくり返すだけなのではなかろうか。結局のところ、この“超常社会”の歪みを根源から正す手段なぞ端から存在せず、自分は大きな子どもの駄々に振り回されているだけなのかもしれない。でも、もう……この男が“秩序”か否かなぞ些細なことだ。火也子は最早後戻りのできないところまで堕ちてしまって、あとは自分のしたいことをしたいようにして、ひとの手で裁かれる前に死ぬだけ。
 きみをあいしているよ。きみがひつようなんだ。きみがいないとさみしいよ。この男が口にする嘘は、今の火也子に必要なものだ。自分の運命からみっともなく逃げ出さないために、鎖が要る。
 変わらず自分の頭を撫でる手に身を委ねつつ、火也子の脳裏には娘の顔が浮かんでいた。

『ママは女王さまみたいにきれい』
 世界で一番頭の悪いむぎ。さっさと私を憎んで、恨んで、嫌って、好きに生きたら良い。
 私は産まれた時から自由で、全てを犠牲にのし上がった。だからもう、最期まで好きにする。
 裁きは最後に受ける。私の罪は全部私のもの。夫にも娘にも弟にも渡さない。産まれた時から私は一人だった。死ぬ時も一人で死ぬ。あの世でも一人で良い。私はもう誰も要らないの。
 そしてもう二度と、こんな世界には産まれない。


A.最後の神判



1000:名もなきプロ市民:2XXX/10/18(水)
何にせよ ヒーローは守るものが多くて大変だな
民衆の代表者面して糾弾するマスメディア
奉仕の精神()に胡坐かいて好き放題言う民衆
次々体や心を壊して、消耗品の如く消えていくヒーロー()
耳障りの良いプロパガンダに乗せられて才能を搾取されるガキ共
地方分権の時代だなんつーけど、要は第一世代の混迷から百年以上経ってもまだ中央政府がまともに機能してないってことだろ? 今のこの「何でもかんでもヒーローありきの社会」ってクメール・ルージュや、ナチズム、文化大革命と何が違うわけ? 何も違わねえだろ? たった一人のカリスマと、それに脳味噌委ねて考えることを放棄したバカが群れを成してるだけの世界だ

ヒーロー()様が今日もこんな世界を守ってくださってると思うと、涙が出るわ


1001:名もなきプロ市民:2XXX/10/18(水)
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててください。


 ……液晶から放たれたブルーライトが、部屋をぼんやり照らし出していた。
 死柄木弔は、つい先ほどキリバンを踏んだスレッドを眺めていた。“先生”から行動を制限されて育った彼にとってインターネット掲示板は恰好の遊び場である。なかでも、和気藹々と盛り上がっているプロヒーロースレを荒らすのを殊更好いていた。今日も無事に己の不穏当なレスで“エンデヴァースレ”を締めくくることが出来た為、死柄木は些かの満足感を覚えていた。
 その充足感覚めやらぬうちに、更なる享楽を求めて先ほど終わったばかりのスレを遡る。
 マウスホイールを上へ上へ動かしていた指が、不意に出てきた“姪ちゃん”の文字で止まった。
 姪ちゃん、たまに××沿線で見かけるけどいたりいなかったりする。明らかにプライバシーの侵害であるものの、今年はついに雄英体育祭で情報解禁されたのもあって、こうした書き込みは珍しいものではなかった。むぎ自身も、インターネット掲示板の動向には幾らか想像がつくのだろう。雄英までの通学路は数ルートあって、足取りを掴まれないよう気を払っているらしかった。

「そっか……むぎ、バス乗ったり電車乗ったりするって言ってたもんな」
 一切の衒いなく微笑う少女の姿を思い返し、死柄木は親指の爪をガリガリ噛んだ。
「わかんねぇな……大体、静岡遠いんだよ、なんで静岡なんか住んでんのかなあ……?」
 こないだ遭遇した時もたまたま運が良かっただけで、彼女の行動範囲を把握しているわけではない。増して向こうは死柄木のことを個として認識した様子もなく、ただ“母親の書いた本のファン”としか思っていない。たまたま街で見かけて、母親を切っ掛けに一言二言交わしただけの人間。産まれついて全てに恵まれた人間にありがちの傲慢を宿して、むぎは死柄木に微笑みかける。
 死柄木の気分次第で、死ぬかもしれないし、何なら“ヴィランの娘”になるかもしれない……そんな現実も知らずに、雄英の制服を身にまとったむぎは“母親のファン”に親切だった。
 実際のところ、死柄木は常日頃火也子にああだこうだ口出しされる鬱憤晴らしで“姪ちゃん”とやらを探しに行ったのだ。毎日毎日代わり映えのしない部屋で、黒霧や火也子から叱られ、たまに先生から諭されるだけの退屈な日常。せめて、あの若作りペチャクチャババアに我が子の生首でもぶつけてやりたい──そう思うのは人の性である。要するに殺意百パーセントで会いに行ったのだが、実際の“姪ちゃん”があんまりにアレだったので殺意が削がれてしまった。あのアホ女は単に殺すより、もっと楽しい使い道がある。あの“幸せいっぱいに育ちました”と言わんばかりの女を、生き地獄に落としてたい。そのためには、“母親のファン”以上の存在として認知される必要がある。
 死柄木は猫背を更に丸めて、インターネットの海へと没入していった。



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