一体、何が起こったと言うのだろうか。
 砂が額を撫で、頬を滑る。その不快さを皮膚に感じながら、トバリは現状を振り返ってみた。
 チラリと記憶を巻き戻しても、要らぬ情報ばかりが思い起こされる。トバリは目の前で棒立ちになっている男児の目を覗き込んで、自分がどこで選択肢を間違えたのか理解しようとした。
 手に持ったバインダーを縦にして、山盛りに乗った砂を地面に落とす。

 トバリが今いるのは住み慣れた二代目火影邸ではなく、とある公園だ。
 木ノ葉隠れの里の中核部からやや外れた場所に位置する、小規模な公園施設である。ブランコと砂場、鉄棒があるのみで、滑り台などの大型遊具は設置されていない。広さも精々が150平方メートルといったところか。鬼ごっこやボール遊びをするには不向きだろう。公園というには些か手狭ではあったが、住宅街のただ中にあるからかそれなりの賑わいを見せていた。
 公園には、主に就学前と見受けられる幼児が集っている。彼らは悠々とブランコを漕ぎ、くるくると逆上がりを披露し、プラスチック製のクナイで砂場を掘り起こす。
 その、実に楽し気かつ長閑な空間で、トバリは相変わらずの無表情を晒していた。
 トバリの前には、唖然とした表情の男児が棒立ちになっている。背丈と顔だちから察するに、トバリとそう年は違わない。勿論、まるっきりの他人である。その“まるっきりの他人”は、手中の砂をトバリの顔面に思い切りぶちまけたポーズのままフリーズしていた。
 トバリが現状について理解しているのは、この程度である。さあ、如何したら良いのか。

 悶々と考えている間にも、顎からこぼれた砂は緩い襟ぐりに入り込む。
 トバリの平たい胸が上下する、その微動を受けて、鎖骨に乗った砂が服のなかに溜まっていく。薄い唇に張り付いた砂が、呼吸の度に剥がれる。睫毛の上で寝そべる砂は瞬きの度に目に入る。涙腺の産み出した生理的食塩水は眼球に寄り添う砂を洗い出して、頬に涙の道を引く。
 有り体に言って不快である。

 既に半日ほど外界に身を置いているが、このような混沌は初めてだった。
 外界に出るにあたって一応の“一般常識”は教わっていたが、見ず知らずの相手に砂をぶちまける男児の心理については未受講だ。無事帰宅した暁には、ヒルゼンの講釈を仰ぐ必要がある。
 何にせよ、この男児が木ノ葉隠れの里から遠く離れた場所から引っ越してきたのでない限り、友好表現ではない。そして第三次忍界大戦終結から間もない今の時期、他国の人間に隠れ里の滞在許可が降りるのは稀である。まず間違いなく、この男児はネイティブ木ノ葉隠れ人だろう。
 大体にして、よくもまあ、あの小さな手にこれだけの砂が収まっていたものだ。トバリは無感情に男児の手の大きさを観察した。よくよく見ると、透明なビニールのようなものを握っている。なるほど、計画的犯行だったらしい。そう考えると、やはり怨嗟の線が強いように思われる。
 トバリはきっと何か、この男児に不快な思いをさせてしまったのに違いない。ただでさえ他人とコミュニケートした経験に乏しい我が身を顧みるに、知らず知らずのうちに他人の恨みを買っていても可笑しくはない気がした……が、わからない。何度考えても、よくわからない。
 全てが憶測でしかない以上、トバリは自分が如何振る舞うべきなのか考えあぐねていた。

 兎に角他人とコミュニケートするうえで砂まみれになることは、明らかなる“失敗”であろう。

 失敗は成功の母と言うからには、原因究明に努めるのが筋だ。そうは思っていても、結論は出ない。それもそのはずで、二代目火影邸という“ルーティーン”にこもりがちのトバリは、その高い記憶力も関係して“物事”の要点を押さえるのが苦手だった。トバリの四年という短い人生において、“丸暗記”と“試行錯誤”以上の技能を求められる事象は発生しなかった。
 暗記能力とコミュニケーション能力が比例するとは限らない。結局のところ、忍術なぞチャクラコントロールと印の結び方さえ如何にかなれば無事に示顕するのだ。それと、他人の表情やその背景を読み取って副交感神経の活性化を促す会話をしながら自身の意図と他人の意図とを上手く擦り合わせて自身の望む方向へ持っていく話術の難易度は段違いである。段違いというか、そもそも同じ次元で語ることもおこがましい。要するにトバリの思考回路は殆どフリーズしていた。
 いや、しかし、だからと言って思考停止状態ですごすご敗走するわけにはいかない。トバリは、確固たる理由があってここにいる。多分ヒルゼンはトバリのコミュニケーション能力を信じて外界へ送り出してくれたのだ。そんな気がする。違うかもしれないが、この際如何でも良い。
 トバリのなかには可能・不可能の価値観は存在するが、“出来ません”とか“無理でした”という言葉は存在しない。手裏剣術も忍術も性質変化も試行錯誤の末にしっかり成就した。
 命の危機に晒されたわけでもないのに「理解不能なことがあったので対処に困って帰ってきました」などと無様を晒せば、それこそアイデンティティの崩壊に繋がる。有ってはならないことだ。

 トバリはスルリと目を眇めて、ため息をゆるく絞り出した。
 まだあどけない指を口元に滑らせて、冷めた目つきで男児を凝視する。それが生来の無表情で、単に思索に耽っている時の癖だとは、“まるっきりの他人”である男児には知る由もない。トバリの不愛想な態度はまだ幼い男児を脅かすに十分だった。トバリ同様、己の置かれた状況が掴めずフリーズしていた男児が俄かに身じろぐ。その些細な変化から、トバリは男児の意識が表層に戻って来たことを理解した。理解していたのに、トバリは彼と話し合いを持とうとはしなかった。

 極端に他人との交流を持たないトバリにとって、“真実”や“自分が身を置く現実”といった三次元的世界は他者との関わりを通じてリアルタイムで展開されていくものではない。トバリが信頼するのは自身の記憶力と思考回路――もしくは二代目火影である祖父や、ヒルゼン等、“敬意を払うに相応しい人間”の助言のみが彼女の意識世界で重用された。トバリが他人へ害意を抱いてなかろうと、そうした偏向的な“ものの捉え方”は俯瞰視するまでもなく“謂れなき侮蔑”である。
 本能的にトバリの無礼さを察した男児の眉が、ピクリと吊り上がった。トバリは、それもすっかり無視した。とつとつと、己の置かれた状況を脳内で明文化するよう努める。

 恐らく、この男児にはトバリに砂を掛けるつもりはなかったのだ。
 砂をぶちまけられた時、肌に刺すような敵意は一切感じなかった。もし、この男児がチラとでも敵意を抱いて、トバリに危害を加えるつもりだったなら、避けることが出来たはずだった。
 勿論トバリが周囲の警戒を怠って、ボンヤリと歩いていたのも理由の一つではある。
 そうした己の未熟さは、よくよく自省するべきだろう……まあ、反省会は帰宅してから一人でじっくり行えば良い。何はともあれ、今はこの混沌から脱することが最優先事項だ。

 この“砂まみれ”が単なる事故なら話は簡単である。
 男児の狼狽が落ち着いた頃を見計らって、この不慮の事故に対する自発的謝罪を待てばよい。他意がないとはいえ、トバリと男児の関係は“被害者”と“加害者”という位置づけにあるはずだ。男児は「すまなかった」と頭を垂れ、トバリは「かまわない」と返す。幸いにして男児も自らの状況把握が済んだ様子だったし、端からトバリがアクションを起こす必要はなかったのだ。
 しかし我に返ったはずの男児はトバリをじとりと見つめたまま、口を噤んでいる。これは困った。“加害者”である男児が黙ったままということは、“被害者”であるトバリが何かしらの言動で時を動かすしかない。しかし同世代の男児に砂をぶつけられた際ーーそれが事故だったとして、四歳の子どもは加害者に如何謝罪を促すべきなのか、トバリにはまるで分からなかった。悩む。
 おじいさまが子どもの相手をすることに関心のある方なら良かったのにな。そうしたら、筆まめな祖父はきっとトバリの参考になるような随筆を幾冊も残してくれただろう。そんなことを思って、じいっと男児を見つめ続ける。男児も、負けじとトバリの顔を凝視していた。
 そうこうするうち、トバリは訝し気に眉を潜めた。不慮の事故だろうに、男児の顔は何故だか怒っているように見える。そう疑問に思うのと、男児の顔が恥辱に歪むのは殆ど同時だった。

……お前が悪いんだからな!
 男児は真っ赤に染まった顔でそっぽを向いた。

 思いがけない反応に唖然とするトバリを置き去りに、男児が身を翻す。
 男児はその勢いのままに公園の入口を出て、どこかへ駆けていってしまった。すばやい。
 どうも、トバリは何か間違えてしまったらしい。自分の未熟を自覚しているにも拘わらず、トバリには大した失望も悔恨もなかった。いや、でも、せめて、何が悪かったのかは教えて欲しかったかもしれない。しかし、それも“当人が教えたくないというなら仕方ない”程度の希望に過ぎない。
 訥々と思案しながら、トバリは男児を見送った。あの危うげな足捌き、速度を落とす前に転ばなければ良いのだけれど。僅かな不安を胸中に浮かべてしまえば、あとはもう、トバリはのなかに男児への関心は残っていなかった。トバリはそういう子どもだ。自分の何が如何悪かったかは、アスマかヒルゼンに教えて貰えば良いのだ。接点もない“特定個人”に拘る必要はない。

 とりあえず混沌は去った。
 キッパリ気持ちを切り替えると、トバリは軽く胸元を払った。
 服のなかに入り込んだ砂が、胸のあたりに残っている。本当なら上着を脱いで、バサバサと空を叩きたい。シュミーズに纏わりつく砂も、直接払い落したほうがスッキリするだろう。しかし、ヒルゼンとの事前学習において「その、トバリ。おほん。なんじゃ、それ、その四歳とはいえお前も立派な女子。誰が見ているかわからんのだから、家でやってるように汚れた衣服をポンポン脱いだり、そういう無暗と肌を晒す真似はいかん。良くない」と厳しく言いつけられている。何が言いたいのかはよく分からなかったが、とりあえず肌を晒さなければ良いのだろう。
 そもそも忍者なぞ汚れ仕事が主である。服が汚れた、汗で気持ち悪いなどと、一々風呂や着替えで身を清める癖は今のうちに矯正してしまったほうが良い。トバリはバインダーを脇に挟むと、両手で胸元の生地を掴んで上下させた。皮膚の薄い胸部でつかえていた砂は粗方落ちる。
 これで良い。多少の砂っぽさは残っているものの、何とか我慢出来る。

 身づくろいが済んだところで、トバリは背後の気配に振り返った。
 男児の異常行動に度肝を抜かれて意識の外へ追いやられていたが、トバリが砂をひっかぶった時からずっと“そこ”にいたのだ。決して短くはない時間、事の一部始終を眺めていたということは、何かしら思うところがあるに違いない。トバリが振り向くと、数歩離れた場所で“背後の気配”がさめざめと泣いていた。……単に泣くのに夢中で移動しなかっただけかもしれない。
 背後にいたのは、やはり年の頃はトバリと変わらないだろういたいけな女児だった。
 女児は手で口元を押さえ、声を殺して泣いている。静かな泣き方と相反して、感情的な泣き方だった。ヒクヒクと、華奢な体が嗚咽で弾む。苦し気ではあるものの、一見して肉体的外傷は見当たらない。本日二度目の混沌に直面して、トバリはその場に立ち尽くした。なぜ、泣くのか。
 赤ん坊は泣くのが仕事だとはセンテイから聞いた覚えがあるが、この女児は赤子と言うには育ち過ぎている。それなりの知能が備わっているからには、何か理由があって泣いているのだろう。
 涙の理由を探して露出の多い足元から上に視線を動かすと、頭髪の乱れに気付いた。
 結った頭は奇妙に膨らみ、ゴムで纏めた頭髪が右に寄っている。自分か親がセットしたと考えるには、あまりに前衛的だ。恐らく、誰かに引っ張られたのに違いない。
 そこまで考え着くと、トバリはピンときた。

 男児にとっての“被害者”は自分ではなく、この女児だったのだ。

 トバリが二人の存在に気付く前から、男児は女児の髪を引っ張るなどして苛めていた。
 そのうちに、男児は更なる嫌がらせを思いついて砂場に移動したのだろう。男児が何を目的として女児を虐めていたかは分からないが、この公園施設は小規模で、現場調達出来るものは砂か石の二択である。運よく携帯していたビニール袋にありったけの砂を詰めた男児は、女児が家へ逃げ帰る前にと大急ぎで砂をぶちまけた。止まっている的に当てるのだからと、碌々周囲を確認もしなかったのだろうことは想像に容易い。トバリ自身、大した危険もないと過信して呑気に歩いでいたのだ。勿論、自分が女児の脇を通り過ぎようとしていることも、男児が駆け寄ってきたことも分かっていた。でも園内での飛び道具の使用は禁止されていたし、男児にだって自分の進行方向にトバリがいることは分かるだろうと判断したのである。パッパと通りすぎようと歩を速めた――もしかすると、それが悪かったのかもしれない――瞬間、何かが空を切る気配を察知した。
 要はタイミングの問題だ。トバリは思った。不幸な事故だったし、男児にしてみればトバリこそが不注意の極みだったのである。第三者的に考えれば“そういうこと”だろう。
 男児の怒りの理由は分からないまでも、スッキリした。アスマに聞く必要はないな。

 一人頷いていると、潤んだ瞳と目が合った。
 トバリの意識が自分に向いたことを理解した女児が、ひくりと身じろぎする。
「ごめ、」ズッと鼻を啜りながら、途切れ途切れに声を絞り出す。「……り、だい、じょぶ?」
 きっと、自分の巻き添えで要らぬ被害を食らわせてしまったという罪悪感があるのだろう。
「大したことはない」
 トバリはキッパリ宣言した。
 芯から問題なさそうなトバリの声音に、女児がホッと表情を緩めた。晴れやかな笑みの脇を、後から後から涙が零れ落ちていく。瞳は涙に潤んでいたけれど、焦点は合っていた。いくつかの条件さえ満たせば誰しも被虐者になる可能性があるとはいえ、この女児には弱者――いじめられっ子特有の鬱屈とした雰囲気がない。トバリは不思議に思って、まじまじと女児を見つめた。
 女児は、トバリの視線のわけが落涙にあると思ったらしかった。ぽっと頬を赤らめた女児が、慌てて目をこする。それでも涙はポロポロと溢れ出て、ますます女児を困らせていた。吃逆と同じで、泣き癖が付いてしまっているのだ。“年相応”の幼さだと、トバリは思った。幼さとは、感情の振れ幅が激しいことと同義である。大人たちは平然と自分の体を操るけれど、本来気持ち一つで肉体を支配するのは困難なことなのだ。涙が止まらないのを恥じるべきではない。そう思ったけれど、無論トバリは何も言わなかった。トバリにとって、この女児――他人に自分の考えの一つ一つを伝えるのは体力の浪費に過ぎない。ただ女児を見つめながら、トバリは考えた。
 感情が上下すると、精神も疲弊するものだ。そうした状況で他人を気遣えるあたり、この女児は人並み以上に優しい子どもなのだろう。トバリは感心した。それに、容姿も優れている。涙で目が腫れぼったいことを差し引いても、女児の顔だちは十全に整っていた。
 優しい上に可愛い女児が他人に虐げられる理由は何なのだろう。わからない。
 ヒクヒクと再び泣きだしてしまった女児に、トバリは己の無知と世界の広さを感じ入った。

「……きみのほうが大丈夫じゃなさそうだけど」
 トバリはなるたけ女児を刺激しないように、落ち着いた声音を紡いだ。
 いつまでも女児が泣く様を観察しているわけにもいかない。彼女が落ち着くよう働きかけるか、彼女が友人・肉親と合流するのを手伝うべきだろう。トバリはあたりを見渡してみた。
 公園内に、この女児に注視する人間は見つからなかった。それもそのはずで、保護者がついてきている子どもの殆どが乳幼児だ。その他は皆、一人で遊びに来ているようだった。
 如何したものかなと思いつつ、とりあえずトバリは一歩女児に近づいた。と、前に踏み出した足の脇、焦げ茶色に硬い地面の上に赤いものが横たわっていた。リボンだ。
 状況から鑑みて、この女児のものに違いない。赤い色は、女児の明るい茶髪によく似合う。トバリはリボンを拾って、表面に付着した汚れを軽く払った。危うく踏むところだった。
 気付けば、涙が収まったらしい女児が、縋るような視線をトバリの指先にくれていた。

 何かを――トバリの反応を期待する目をしている。
 その目をどこかで見た気がして、トバリはじいっと女児の目を見つめてみた。先ほどの男児と違って、女児はトバリの無表情に怯む様子はない。寧ろ気を許したように甘い視線だった。
 どことなく決まり悪くなって、トバリは目を伏せた。手のなかのリボンが瞳に映る。その赤に、トバリは自分もまた赤いリボンを所持していたことを思い出した。
 一年半ほど前のことだ。トバリは、その赤いリボンを野良猫の首に結んでやった。
 トバリに媚びた視線を向ける、ちいさな子猫だった。


 その子猫は、トバリの家の床下に入り込んだ身重の猫が産んだうちの一匹だった。
 野良だけあって母猫は警戒心が強く、大した世話はしてやらなかった。それでも、凡そのことに無関心なトバリなので、随分と長い間床下に住まわせてやった。結局子猫が産まれてから、彼らの殆どがどこぞへ巣立っていくまでの四か月近く住み着いていたのだと思う。
 親の心子知らず。畜生の世界にもことわざという概念があるのあろう。警戒心の強い親猫と違い、子猫のほうは育つにつれてニャンニャン無邪気にトバリの前へ姿を現したものだ。
 その内の一匹は酷く人懐こく、さいごまでトバリの傍に侍っていた。当時はまだ書物を読んでは基礎訓練を積んでいるだけだったので、然して邪魔に思うこともなかった。
 何というか、この女児はあの子猫に似ている気がする。


 トバリは女児の前に立つと、その肩をトンと叩いた。女児の背後を指さして、口を開く。
「うしろを向いて。みだれたかみを、結いなおすから」
 有無を言わせぬ口調に、女児は僅かに驚いた風だった。
 再びコミュニケーション能力を求められそうな気配を察知し、トバリは怯んだ。しかし女児は何を言うでもなく、ただくりくりっとした瞳をちょっと見開いただけだった。素直に後ろを向いて、甘えるように小首を傾げる。その従順さに、トバリは改めて“あの子猫に似ている”と思った。
 トバリは自分の足首に擦り寄る毛並みを思い返した。頼りない四肢、細い首。相手の好意をちょっとも疑わない、この警戒心のなさが男児の嗜虐心を煽るのかもしれない。
 幾ら子どもとはいえ……いや、トバリだって砂爆弾をもろに食らったのだ。何も言うまい。
 
 トバリは丁寧に髪ゴムを外すと、手櫛で女児の髪を整えた。
 サラサラと絹糸じみた茶髪は纏めやすい。少し高い位置で留め、髪ゴムの上からリボンを結んでやった。一連の作業のなかで、女児は一言も発しなかった。女児の寡黙さが有難かった。
「結いおわった。家にかえるまではもつとおもう」
 その台詞に、女児の肩がピクリと跳ねる。くるんと振り向く拍子に、ポニーテールがトバリの鼻先を掠めていった。「あり、がとう」はにかんだ笑み、媚びた視線がトバリに注がれる。
「イズミ! 探したぞ、今日は外に食べに行こう!」
 大したことはしていない。そう言いかけたのを、低い声が遮った。女児が公園の入り口を見るのに合わせて視線を滑らせると、フェンスの端に立つ柱の隣に成人男性の姿があった。
 銀色に鈍く輝く額当てをつけて、中忍ベストを着こんでいる。任務帰りなのか、ズボンが汚れていた。容姿こそ女児と似ていないが、どことなくおっとりした雰囲気が似通っている。

「お父さん! もう帰って来たの」
 ぴょんと一跳ねすると、イズミは父親目がけて走っていった。
 イズミの父親は、そんな娘を軽々抱きとめる。
 その小さな体をぎゅっと抱きしめた瞬間、父親の瞳が愛おしさに細められた。あどけない労りの言葉に、表情が蕩ける。父娘の“一家団欒”をマジマジ観察して、トバリは興味深く思った。
 親子愛の尊さについては、ヒルゼンから買い与えられた絵本で学んでいる。しかし実父は育児放棄野郎、アスマとヒルゼンも互いにブツクサ言いあうばかりで、“親子愛”の実例にお目に掛かったことはなかった。本でしか知らぬものを実際に目にするのは得難い経験だ。
 何を話しているのかは途切れ途切れにしか分からないが、父親はイズミのことが可愛くて堪らないようだった。女にとって、優れた容姿と気性の良さは美徳だ。自慢の娘なのだろう。
 彼女ぐらいの可愛げがあれば、ヒルゼンもトバリの処遇で悩まずに済んだかもしれない。

 トバリの視線を感じたのか、イズミははっとした表情で振り向いた。
 まだ何か用があるのだろうか。そう疑問に思っていると、イズミはトバリを注視したまま大きく手を振った。如何して良いか分からず突っ立っているトバリに、イズミの顔が不安で曇る。何かしらの反応を求められているのだろうが、御多分に漏れず如何するべきなのか分からない。
 トバリは苦し紛れに“分かった”という風に頷いた。トバリがヒルゼンに伺うような視線をくれると、ヒルゼンは頷いたり、首を振ったりする。とりあえず同意を示しておこう。
 同意を示されたことにイズミはきょとんとしたものの、一応気は済んだらしかった。
 にっこりと無邪気な笑みで、何度も何度も手を振ってくる。トバリは壊れた首振り人形のように何度も何度も頷いた。もう一方の手を握る父親も、微笑みと共に軽く手を振ってくれた。
 果たして自分が何に同意したのかさえ分かっていないが、上手くやり過ごせたなら良かった。
 遠ざかっていく背を見送りながら、トバリは肩を落として脱力する。砂を浴びせられたことも、女児の髪を結ってやったことも不快ではないが、やはり精神的に疲弊した。
 脇に挟んだままだったバインダーを取り出して、クリップに挟んだ紙をパラパラ捲る。

 それにしても、せめてイズミにはアンケートに答えてもらっておけば良かったかもしれない。


 トバリは今、生垣の外の喧噪に身を置いている。
 理由はとてもシンプルで、ヒルゼンから同世代の子どもらに向けたアンケート調査を頼まれたからだ。一月強ぶりに訪ねて来て、よくよく頼むほどだから、余程大事なものなのだろう。
 頼めるかと自分の返事を待つヒルゼンに、トバリはあっさり了承した。
 物わかりの良い返事にヒルゼンは酷く驚いていたが、ヒルゼンこそたった一月の間に如何いう心境の変化があったのか疑問である。ヒルゼンはトバリを外に出すことを避けていたはずだ。
 以前働いていた家政婦に「ふらりと外に出ないよう、よく見ていてくれ」と言っていたし、今の家政婦にだって「絶対に外に出ないよう気を付けてくれ」と念押ししていた。
 それが何故なのかは、如何でも良い。ただヒルゼンが望むなら、トバリは“それ”に従う。

 ヒルゼンの意向を知っていたからこそ、トバリはアスマの誘いに乗らなかった。
 そして“わざわざ自分がいないところで家政婦に告げたからには、それを知っているのは可笑しかろう”と、誘いを断る理由についても口にしなかった。
 それだけのことなのに、アスマはトバリが独りを好んでいると思っているようだった。外に出ないのを、トバリの選択だと思っている。実際外界に関心がないのも、現状に対して不満がないのも事実だから、そう思われても仕方がない。それにアスマに如何思われようと、如何でも良い。
 ただ強引なアスマのことだから、このままでは無理に外へ引っ張り出される恐れがあった。
 実力行使に出られると、四歳のトバリには抗いようがない。それ故に、ヒルゼンに現状――アスマが五月蠅く外界へ引っ張り出そうとしていること、しかしそこに悪意は存在しないから厳しく咎めないでやって欲しいこと――を伝えておくべきだと思った。
 ヒルゼンに「アスマがうるさい」と言ったことについては、それ以上の意味はなかったのだが……いつも通り、トバリはヒルゼンに事の次第を説明する手間を省いた。
 トバリはヒルゼンの意向に従う。トバリが何を考えているかなど、ヒルゼンが知る必要はない。

 きょとんとしているヒルゼンにお構いなしで、トバリは話を進めた。
 具体的に希望回答数はどれほどだとか、大体の質問数とアンケートの目的は何だとか――その全てに、ヒルゼンは適当な返事をくれた。まあ十人も集めればいい。うーん、み……四つかの。目的は……それ、あの……アカデミーの運営方針を固めるためじゃよ。多忙を縫って、わざわざ頼みに来るほどの重要なアンケートだとはとても思えない雑な返事だった。
 それでもヒルゼンが重要なアンケートだと言うのだから、重要なアンケートなのだろう。
 兎に角ヒルゼンはアンケート調査を依頼してからの一週間で三度に渡ってトバリを訪ねてきた。
 無論、アンケート調査に出るに当たっての基本的なマナーとルールを教え込むためである。その“四歳からはじめる一般常識講座”は大変有意義なものだった。トバリは自販機の使い方と買い物の仕方、挨拶を受けたら必ず挨拶し返すこと、目上には自分から先んじて挨拶することなどを覚えた。今度コハルやホムラが訪ねてきたら、ヒルゼンに恥を掻かせずに済むだろう。

 トバリが「さるとびせんせい」と呼ぶと、ヒルゼンは相好を崩して喜んでくれた。しかし差し出された地図を「この里のちりは覚えてるからいらない」と固辞すると、僅かに顔を曇らせた。
 急にトバリを外に出す気になったことといい、ヒルゼンの考えていることはよく分からない。

『……誰か、気が合いそうな子がおったら』
 ヒルゼンはそこまで口にすると、困ったように微笑した。
『いや、なんでもない。トバリのやりやすいよう、すると良い。信頼している』
 ヒルゼンの考えていることは、分からない。
 トバリに年相応の子どものように振る舞って欲しいなら、そう口にすればいい。
 トバリはこの通り不愛想な子どもだから、イズミのように屈託なく振る舞うのはチャクラの五大性質を全て使いこなすより難しいかもしれない。それでも、ヒルゼンが望むなら善処する。


 あなたの望みが叶うよう、心がけよう。


『ゴミを漁るんです』
 去勢もしていないし、無暗と生かしておいても何にもなりませんでしょう。
 人を疑うことを知らなかった子猫の死体を手に、前の家政婦は苛立たし気に顔を歪める。

 トバリが赤いリボンを結んでやった子猫は、兄弟猫のなかで一際体が小さかった。
 母乳をのみっぱぐれて、よく床下で鳴き喚いていた。一匹だけ除け者にされていたから、トバリはセンテイに頼んで猫用ミルクを買ってきて貰った。ミルクを飲ませては、床下に戻した。そうこうする内に親猫から情が移ったのか、子猫は沓脱石でトバリを待つようになった。
 トバリは子猫を可愛く思ったわけでも、生物淘汰の憂き目に合って鳴いている様を哀れに思ったわけでもない。ただ自分の五感の及ぶ範囲で助けを求めていたから、それに応じただけだった。

 無事育ったなら、この子猫の今後の身の振り方を考えねばなるまい。
 縁側で開いた本の上でゴロゴロする子猫を前に、トバリは彼女の処遇について考えた。

 一番手っ取り早いのは飼い猫として懐かせることだろうが、前の家政婦は潔癖症だった。
 そもそも床下の住人を良く思っておらず、早々に追い出したがった。それでトバリの方針は固まった。とりあえず、面倒な事にならないうちに野生に戻そう――要するに放置だ。
 トバリは子猫を構わないよう努めることにした。最初はトバリが餌を与え、構ってくれるのを待っていたが、次第に子猫は兄弟猫に馴染んでいった。庭隅で母猫に狩りを教わっている様など眺めて安心していたが、母猫や他の兄弟猫が床下から出ていっても、子猫は巣立たなかった。
 何とか自分で自分の食い扶持は稼いでいるようだったが、数日おきにトバリの下へ帰って来た。最早トバリの家の床下に永住する心づもりなのだろう。センテイは何ぞ名前を付けて、トバリの飼い猫として迎え入れたがっていたものの、案の定家政婦は拒否した。何を飼おうとトバリの勝手ではあるが、保護者でありこの家の主である父親がいない以上、トバリに大した発言権はない。それに、家政婦の仕事場でもある以上は彼女の意見を蔑ろにするのは躊躇われる。
 結局トバリは「いやがるのなら、飼うのはよそう。でも猫は、ひとの家にだまってはいっても罪ではないだろう。きっと父さまも、猫の出入りにうるさくいわない」と、折衷案を出した。
 自活出来ているのだし、それで十分だろう。

 丁度第三次忍界大戦が佳境に差し掛かり、老いも若きも戦火に消えていった頃である。
 飼ったところで、主人であるトバリが先に死ぬかもしれない。それなら下手に飼い馴らすより、自分の力で生きていける野良のが良かろう。幼いなりに、トバリはそう思った。
 ただ野良として無暗に処分されてもセンテイが気にするだろうから、首輪代わりにリボンを結んでやった。千手の家紋を書いておけば、怪我をしても誰かが届けてくれるはずだ。
 リボンの輪になったところを糊で貼り付けるなど、なるたけ散策の邪魔にならないよう腐心した覚えがある。やんちゃ盛りで、普段は落ち着きのなくトバリにじゃれついてきたが、トバリがリボンを結んでいる間は大人しくしていた。媚びるような視線が、トバリを見上げる。
 作業が終わると、子猫は首に何か付けられた違和感からクルクルその場で回って、はしゃいでいるようだった。それを見て、庭木に水をやっていたセンテイが寄ってくる。「ありゃあ、別嬪さんになって」という声に応えるように、子猫はミャアと甘えた声で鳴く。

 子猫は酷く人懐こく、最期までトバリの傍に侍っていた。
 四か月の短い命だった。

 生気を失って薄汚れた毛並みに寄り添うリボンは、ツヤツヤと赤く、綺麗なままだった。
 家政婦は取り繕うように「即効性のある毒だから、あまり苦しくなかったと思います」と付け足した。その言葉の通り子猫の表情は穏やかで、まるで眠っているようだった。
 マジマジと子猫の死に顔を観察する内、トバリは家政婦が子猫の死体を掴む手の反対に、自分の茶碗を持っていることに気付いた。トバリが子猫に餌をやるときに使っていた茶碗だった。
 きっと子猫は、トバリが餌をくれたと思って無警戒に食べたのだろう。
 不憫なことをしたと、トバリは思った。飢えのなかで死ぬのと、毒を食らうのと、どちらが苦しいだろう。まあ今更何を考えたところで、死んでしまったものは如何しようもない。
 精々同じ轍を踏まないよう、気を付けるとしよう。無表情で考え込むトバリに、家政婦がおぞましいものでも見るような視線をくれた。それから数日と経たない内に、彼女は辞めた。

 冷静なトバリと裏腹に、センテイは子猫の死体を抱いたまま、いつまでも泣いていた。
『おれはこんなに賢い猫は知らねえ。坊ちゃんか、三代目ぇが里にいらしゃったら、こン子はトバリさまの猫だって家政婦になんも言わせなかったろうになあ。かわいそうに』
 子猫は、祖父が選び、父の気に入りだというツツジの脇に埋められた。センテイという男は好嫌感情の分かりやすい男で、愛しいものはひとところに纏める癖がある。
 トバリが子猫の墓に花を供えると、センテイはホッとしたように飛び切り大粒の涙を零した。それなりの弔いをしてやって、センテイの気持ちも落ち着いただろう。
 子猫が生きている間は勿論子猫の心身の安全に関心を寄せていたが、死んでまで気にするのは無駄なことだ。それが当然だと思うのに、センテイは死んだものにいつまでも囚われてしまう。

 トバリは目の前に存在しない命を、一つの命として扱うことは出来ない。
 自分の手元から無くなってしまったものは記憶の一端であり、他者との交流における一つの事例でしかない。トバリはそう思っていた。そんなものに感情を揺さぶられ、身動きが取れなくなる様が“人間らしい”というなら、人間という生き物はあまりに脆すぎる。
 それとも、脆いのは“命”という概念そのものなのだろうか? トバリは、その脆さが好きだ。
 トバリの五感の及ぶ範囲で助けを求めるなら、それに応じてやりたい。トバリの行動次第で運命が左右出来るなら、良い方向へ行けるよう手助けしてやりたい。生きることが苦しいのなら、その気持ちを紛らわしてあげたい。今が幸福なら、その環境を守ってあげたい。
 何もかもが生きるための“適切な環境”を知ることが出来たら良いのに――もしくは皆が皆、センテイのように分かりやすかったら良いのにと思わずにいられなかった。

 センテイは分かりやすい男だった。笑わせることも、泣き止ませることも簡単だった。
 それなのに、ヒルゼンやアスマ、イズミたちの感情を汲み取って、彼らの脆い心臓が傷つかないようにするのはなんて難しいことなのだろう。自分の無能さを、つくづく突きつけられる。
 今からこんな調子で、優秀な忍者として里のために身を粉にして尽くしていけるのだろうか?


 アンケート用紙に特大のため息を落とすと、トバリは歩き出した。
 忍者として求められる素養の一つには“協調性”がある。ワンマンプレイで通用する世界ではない。ヒルゼンの望みどおり、トバリは同年代の子どもたちに馴染む努力をしよう。

 さあ、ひきつづき同年代の子どもを探さなくては。
床下のいのち
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