イズミと出会った公園を出てから三時間、トバリは街区最南端に流れついていた。

 この三時間というもの、トバリは街区に設けられた公園施設・訓練場の全てを制覇した。
 苦労の成果はきちんと回答数に反映されていたが、膝にも出ていた。
 訓練場の隅に設置されたベンチのうちの一つに腰掛けて、トバリは気怠い足をさすった。
 特別痛むわけではないが、足の間接がジンと痺れる感覚に「もやし」という揶揄が思い起こされる。アスマの口にする台詞の殆どが冗談半分だと判断していたため、真面目に受け止めたことはなかったが、トバリが忍者の卵にあるまじき運動不足であるのは否めない。今後も外出許可が下りるようなら、走り込みなどを行って、基礎体力作りに励んだほうがよさそうだ。
 くしゃりと視界を邪魔する前髪を書き上げると、膝に置いたバインダーに砂粒が落ちた。
 
 朝からバインダー片手に里中を走り回った結果、九十人分の回答が集まった。
 ちょっとしたアンケートの回答数としては大したものだろう。
 キリよく百人と行きたいところではあったが、九十人目の回答をアンケート用紙に書きこみ終えるや否や、授業を終えたアカデミー生が大挙して押し寄せてきた。
 姦しい彼らの間を縫って、未就学児を探すのは少しばかり厄介そうだ――そう思ったのもつかの間、アカデミー生の大群を見とがめた途端、未就学児は訓練場から出ていってしまった。
 アカデミー入学前から訓練場に来る子どもはやはり忍者の卵としての意識が高いのだろうが、真面目に手裏剣術やクナイの稽古をしている者は稀だ。児戯の延長線でじゃれ合っている未就学児は、真面目に手裏剣術やクナイの稽古をしたいアカデミー生にとって目障りなのだろう。きっと皆、アカデミー生にうるさく追い立てられた経験があるに違いない。トバリに視線をくれたアカデミー生は皆一様に、小さな子どもに対して好意的とは言い難い表情を浮かべていた。
 今や、訓練場にいる未就学児はトバリ一人きりだ。

 トバリとしては、未就学児たちの行っていた児戯は中々に興味深かった。
 忍具を用いた鬼ごっこや、火薬や秘術の使用・ダミー設置など何でもアリの缶蹴りなど、忍者の素養を伸ばすための“演習”としては有益そうだ。機会があれば、トバリも経験してみたい。
 尤も「そんなら演習場に行け」という話なので、やはり真っ当に忍術や手裏剣の訓練をしたい人間にとっては“訓練”と“演習”と“遊び”の区別もつかない未就学児は目障りなのかもしれない。
 トバリは、日中とはまた違う訓練場の様子をボンヤリ眺めた。

 円形に均された土地を、七歳から十二歳のアカデミー生が埋め尽くしているのは壮観である。
 西口ゲートにほど近い位置にあるベンチに座っているトバリの視界には、盛況を見せる訓練場を中央に、その左右に青いフェンス越しの街区と森がある。
 街区最南端に位置するこの第37訓練場は、小高い丘の頂を切り拓いて作られたものだ。
 訓練場から伸びる螺旋状の道を下っていくと、街区と森の境界である南賀ノ川が流れている。“木ノ葉隠れ”の名の通り、里の外縁部を囲う鬱蒼とした森を南方に突っ切っていった先にある裏門をくぐると、遠く風の国へと続く山道に出るはずだ。尤も行先が風の国だろうと、雷の国だろうと、街区に隣接する“木ノ葉正面入口”を利用するのが一般的だった。

 不便な場所にあるとはいえ、南方森林の果てにある裏門も正式な出入り口の一つ。
 一番出入りが多い正面入り口は別として、裏門・西門・東門の三つは通行手形に埋め込んだチップを利用した無人開閉を採用している。稀に通行手形を偽造して押し入ってくる小悪党がいるため、特に人気のない場所にある裏門には木ノ葉警務部隊の詰め所がある。
 外敵から里を守るために設立された木ノ葉防犯対策部と、里の仲間が治安を乱した時のことを想定して設立された木ノ葉警務部隊のどちらが“番兵”を務めるかは大分揉めたらしい。トバリが書庫の日記を読んだ限り、木ノ葉警務部隊に裏門の治安が一任されたのは扉間の一存らしかった。
 何しろその詰め所は街区からかなり離れていて、熟練の忍が急いでも片道五時間とのことだから、木ノ葉警務部隊では左遷先扱いされているとの由。難儀なことだ。
 他の三つの門が防犯対策部の管轄にあることを鑑みると理不尽なようでもあるが、南賀ノ川から先の南方森林は古くからうちは一族の所領とされている。うちは一族が木ノ葉警務部隊を組織したのは広く知られるところにあるので、それを踏まえて考えれば妥当な判断と言えなくもない。

 トバリはちょっと体を捩って、うちは一族の居住区画が背後にあることを確かめた。
 古くから続く忍一族が、里の設立以前から住んでいる土地に固執する例は少なくない。
 それでも、奈良一族のように火の国の植生において珍しい植物が生息する森があるとかならまだ分かる。しかし、うちは一族は純粋な戦闘一族だ。特別土地に拘る必要はないだろうに、こんな僻地に留まる理由はいまいち分からなかった。親戚の一人が「うちは一族には偏屈な変人しかいない」と言っていたとおり、単に里の中心部に移住するのが億劫なのかもしれない。
 居住区画内にも食品を扱う店はあるだろうが、アカデミーまで徒歩一時間、アカデミー推奨の大型忍具店まで徒歩四十分、繁華街まで徒歩四十分……不便な土地である。
 まあ、アカデミーに通ううちから自然と足腰が鍛えられるし、この訓練場の他にも、訓練する場所に困らなそうだという点では恵まれているのかもしれない。
 
 トバリは混雑のなかから、うちは一族の家紋を幾つか見つけ出した。
 アカデミー生に占拠される前からチラホラ目についていたが、未就学児しかいなかった日中に比べて圧倒的に今のほうが多い。皆一様に自信満々といった顔つきでクナイを投げている。
 彼らの手を離れて空を切るクナイは、人体を模した黒い的の丁度心臓のあたりを貫き、続けて投げられた二つ目のクナイも米神に突き刺さる。手裏剣にしろ、同様だ。どこか間の抜けたクナイさばきを見せる有象無象のなかで、うちは一族の子どもらは嫌に目立つ。うちは一族が“偏屈な変人”の巣窟か如何かは分からないにしろ、優秀な人間が多いという話は事実のようだった。
 実際に“偏屈な変人”の集まりであろうと、優秀な人材を輩出してくれるのならそれで十分だ。

 第三次忍界大戦以来、木ノ葉隠れの里は未曾有の人材不足に悩まされていた。
 春を迎えて“未曾有の”という枕詞は薄りつつあるが、相変わらずアカデミーを卒業した正規の忍だけで任務を回すことは出来ず、年配の退役忍者や同盟国から移住してきた忍者にまで下級任務を割り振っているらしい。このところはヒルゼンもトバリの前で滅多な事を言わなくなったので詳細は不明だが、“この人材不足に下忍として登用されたのがたった十二人”と考えると、近く、惜しくもアカデミー戻りとなった浪人生たちの救済策か何か用意されそうなものだ。
 忍者を“何でも屋”と勘違いした人々から寄せられる下級任務を処理するための人員確保はそう難しくない。その一方で、高難度の依頼を処理出来る上忍はそう安易に増やすことが出来ない。
 この里は、立てつづけに起こった二つの大戦の影響で三十歳から上、本来なら一番の働き盛りにあたる世代の殆どを失っている。C級・D級任務の処理は如何とでもなるが、A級・S級任務をこなせる経験豊富な忍者がほんの一握りしかいない。それが、この人材不足の根幹である。
 ヒルゼンが「またダンゾウに借りが増えた」とぼやいていたことから察するに、仕方なくダンゾウ直属の――要するに彼が育てた人間を、何人か“表仕事”に借りているのだろう。
 とはいえアスマを始めとした十代の中忍は、人数も然ることながら、その実力も申し分ない。
 こんな最果ての訓練場さえ盛況していることから察するに、アカデミー卒の、正規の下忍の確保もそう困難ではなさそうだ。アスマたちが上忍になる頃には、人材不足は完全に解決するだろう。
 訥々と平坦な思索を打ち切って、トバリは天を仰いだ。

 空の青は、高度を失って濁っている。
 里の外縁部を覆う深い森を照らす陽光は淡く、日暮れが近いことを教えてていた。
 里の主要施設の例に倣って第37訓練場にも街灯柱がそびえ、じき訓練場の管理人が明かりを灯しに来るのだろう。夕刻であるにも関わらず、喧噪が薄れる様子はない。
 トバリは浅く俯いて、双肩を落とした。ヒルゼンからは、何があろうと五時までには帰ってくるよう言われている。そろそろ帰ったほうが良いのだろうか。トバリは思った。
 そろそろ帰ったほうが……一週間までのトバリなら何の躊躇いもなく、九十人分の回答が集まった時点で帰っていた。それなのに、何故なのか、こうしてウダウダとベンチに根を生やしている。
 アンケートは十分すぎるほどの人数に答えて貰った。今日は何の勉強も、訓練もしていない。コミュニケーション能力を養うにしろ、一朝一夕で改善されるわけでないことも理解した。
 最早、生垣の向こう側には何の用もない。ここに留まり続けるのは時間の無駄だ。トバリは、自分に与えられた時間が有限だと知っている。“無駄”なことにしている暇はない。
 帰ろう。帰ってヒルゼンにアンケート用紙を渡したら夕食を食べて、それから寝る時間まで忍術の訓練を行おう。水遁は粗方使いこなせるようになったから、土遁をマスターしたい。
 トバリは膝のバインダーを抱き上げて、右手を脇についた。これ以上ここにいても、何も得るものはない。ヒルゼンから任されたことは無事終えたのだから、帰ろう。
 帰って、  の為になる“何か”をしよう。

『……誰か、気が合いそうな子がおったら』
 軸腕に自重を掛けて立ち上がろうとした瞬間、トバリの脳裏にヒルゼンの微笑が浮かんだ。

 トバリは軸腕を僅かに曲げて、ベンチについた手で拳を作った。
 右に傾けた体を直して、小さな背を丸める。抱き上げたバインダーを再び膝に落として、何とはなしに自分の文字で記された他人の言葉を見つめた。お父さんのような立派な忍になりたいです。キレイなくノ一になって、すごくカッコよくて強いひとと結婚したい。里で一番強い忍者になって、妹を守りたい。いっぱいお金を稼いで、ママに楽をさせてあげたい。他人の夢。
 緩く握った拳を広げて、ベンチの木目をこすってみる。トバリの指先は、ベンチにされた木の年輪を捉えた。トバリの触覚は正常に機能している。目が見える。耳も聞こえる。声も出る。痛みもある。四肢が動く。今日一日で出会った子どもたちとトバリは、同種の生き物のはずだ。
 アンケートに答えてくれた子どものなかには、既に忍術を扱える子どもがチラホラいた。トバリほどではないが、愛想のない子どもも決して珍しくなかった。賢い子どもも、愛想のない子どもも、みんな平然と、自分がこの里に受け入れられていると信じて、疑おうともしない。

 どうして、わたしだけが“普通の子ども”じゃないの。

 ふっと浮かんだ疑問を掻き消すように、トバリは唇を噛んだ。
 無意味な疑問を払いのけるように頭を振って、長々とした吐息を絞り出す。ヒルゼンたちがトバリを“普通の子ども”でないと思うのは、トバリに忍者としての適性がないからだろう。
 忍者としての適性がない――トバリが“木ノ葉隠れの里”という忍者のために存在する社会に馴染む様子を見せないから、不安を感じてしまうのだ。トバリはそう結論付けた。

 トバリには、忍としての一般常識を教えてくれる両親はいない。
 それでいてヒルゼンや家政婦をはじめとした、身近にいる大人に教えを乞おうともせず、人を殺すための術ばかり熱心に勉強しているのだ。産まれた時から付きっきりで物の道理を教えてくれる存在と暮らしてきた子どもと違って、精神構造に難を抱えているのは当然と言えた。
 一番の近縁である綱手は里を遠く離れ、親類縁者の殆どは祖父の顔を立てて――ということなのか、トバリの異端を見て見ぬふりで寄り付かない。後見人を務めるヒルゼンの多忙は言うまでもなく、お目付け役を言いつけられているアスマとて多くの任務を抱えて東奔西走している。
 トバリが頼れる人間と言えば精々がその程度だ。家政婦が“世間から置き去りにされている”と言うのも仕方がないほど、誰も訪ねてこない。とうとう、来客用の布団にカビが生えた。
 それがアスマの訪問が多くなったのを皮切りに、このところ来客が多い。多いといっても猿飛親子とダンゾウにホムラにコハル――祖父の弟子であり、ヒルゼンの同僚三人を加えた五人ぽっちだが、それでも屋敷に他人の気配があるのが嬉しいのか、家政婦の機嫌がいい。良いことだ。
 屋敷の風通しが良くなることで家政婦の鬱屈が晴れるならどんどん訪ねて来て欲しいところではあるが、ヒルゼンの友人である三人が連れだって来ないのはどことなく不穏の気配を感じる。
 単なる偶然の可能性も高いものの、三人ともヒルゼンがいない時を狙って一人で訪ねて来るあたり、トバリの処遇についての意見がそれぞれで食い違っているのではなかろうか。
 例え祖父の弟子とはいえ、今は多忙を極める里の上役である。そんな彼らが一里民に過ぎないトバリを気に掛けるのは、まるきりの善意からではあるまい。

 憐れみ。懐疑。嫌悪。好奇。何故なのか、いつもトバリの異端だけが“特別視”される。
 トバリ自身でさえ、同世代の子どもたちと比べ、自分が精神構造上の問題を抱えているとは思えない。多分どこかが違うんだろう。その程度の吹けば飛ぶような危うい自覚意識とは裏腹に、他人に過ぎない彼らはトバリの精神構造が“特別”に狂っていると知っているのだ。
 トバリの背後に何があるか……その異常を危険視するに足る“誰か”のことを知っている。

 無言で自分の一挙一動を注視する男性陣と裏腹に、コハルだけがトバリに話しかけて来る。
 折角の集中に水を差されるのには正直言って辟易するが、訪問理由が分かりやすいのは良いことだ。コハルの訪問目的は、トバリを隠れ里の外で暮らす平凡な夫婦と引き合わすことである。
 要するに、トバリをこの里から追い出したいのだろう――勿論、コハルの“お前には付きっきりで物の道理を教えてくれる人間が要る”という主張は正論ではあったけれど。
 コハルの言う通り、隠れ里の実情を知らない人間なら“忍一族の子どもは、みんなこんなものだ”とトバリの異端を軽く受け流してくれるだろう。そう考えるとコハルが“里の和を乱しかねない異端分子を追い払いたい”という己の我を通したがっているというより、真からトバリの進退を案じる優しさを強く感じる。その証拠に、コハルの怒りの矛先は専らヒルゼンに向けられていた。

『どうせ、碌々叱られたこともないのだろう』
 厳めしい顔つきで、コハルはそう吐き捨てた。その通りだと、トバリは思った。
 勿論ただの一度も叱られたことがないではなかったけれど、ヒルゼンの叱責は大抵の場合トバリの意志を尊重してくれる。本ばかり読んでないで日の下で体を動かしなさい。長時間訓練したら、よく湯に浸かりなさい。どれも、トバリが忍者を志すのを応援する台詞だ。本当はトバリが忍者を志すのを良く思っていないくせ、ヒルゼンはトバリの意志を最大限に尊重してくれる。
 叱責にしろ薫陶にしろ、ヒルゼンが頭ごなしの台詞をくれたことはなかった。
 ヒルゼンの“やさしさ”には、いつだってトバリに対する腫れもの扱いが根底にある。その“やさしさ”はきっとトバリのためにならない。トバリも、コハルの言うことが正しいと思った。
 トバリが普通の子どもと少し違うところがあるのは、トバリ自身のせいではない。トバリはまだ幼くて、幾らでも“改善の余地”がある。ヒルゼンは子どもの育てかたも知らず、悪戯に屋敷のなかで飼い殺してるだけだ。トバリはこの里を出たほうが幸せになれる。コハルはそう口にした。
 この里を出たほうが幸せに……そもそも、トバリにとっての幸福とはなんなのか。
 幸福の定義が“心身の充足感”にあるなら、それは“忍者になる”という目的意識の外にはない。
 優秀な忍者になって、里のために身を粉にして尽くしたい。何も考えず、他人の道具としての生を全うしたい。トバリは如何しても、何を踏みにじってでも、木ノ葉隠れの里の忍者になりたい。忍者になれない自分など、想像することも出来ない。里の外で普通の子どもとして生きる、そんな人生を送るために産まれてきたなら、自分の命には一両の価値もないとさえ思う。
 幾らコハルの話に筋が通っていようと、自分がこの里の外で“幸せ”になれるとは思えなかった。

 息苦しさを覚えて、トバリは胸のあたりを強く押さえた。
 緩く開いた口から入り込んだ空気が舌の上に留まって、肺に落ちて行かない。
 優秀な忍者になるために何をしたら良いのか、トバリにはちゃんと分かっていた。努力に見合う結果を出していると思う。順調に行けば、アカデミーを卒業する頃にはそれなりの実力が身につくはずだった。万一アカデミーに入学出来なかったら、正規登用でなくても良いと思っていた。
 でも外の世界に追い出されたら、如何足掻いても木ノ葉紋様の額当ては貰えない。

 誰を踏みにじってでも、トバリは  の脆い命に寄り添ってあげたい。
 その欲求が満たされることなく、安穏とした平和のなかで無力感に苛まれ続けることを“幸せ”と言うのなら、トバリはこの世界に産まれてこないほうがずっと幸せだった。

 思考の闇の狭間で、トバリはふとヒルゼンに抱き寄せられた時のことを思いだした。
 他人の体温や、自分の体に触れられることに対して不快か否か問われれば、トバリには如何とも答えようがない。そうすることでヒルゼンの気が済むなら、幾らでも肩を抱けば良い。ただ強いてトバリ自身の感想を挙げるなら――歴代最強と称されるほど卓越した戦闘技術を誇る三代目火影に対して不敬も良いところではあるが――着物ごしに伝わってくる体温と鼓動に対して、“不気味なほど、か弱い”というものだ。体温自体が、ヒルゼンから独立した生き物のようだと思った。
 そんなことをぼうっと考えながら、トバリはヒルゼンの体に身を寄せた。相変わらずヒルゼンの考えることは分からない、とも思った。そうした奔放さを、トバリは気に入っていた。

 自分と異なる体温を皮膚に感じる愉悦。
 自分の浅慮で他人の運命を狂わすのではないかという疑心。
 その二つが複雑に絡み合って、トバリの頭蓋を埋め尽くす。普段の、黒で塗りつぶすようにして思考を止めるのとは違う……長い夜のあとで雨戸から差し込むような眩しさで心が空っぽになる。


 トバリは、自分のなかの優先順位をよくよく分かっている。
 物心ついた時から、トバリは自分の意志で何か選ぼうと思ったことがない。どちらでもいいし、如何でも良い。他人の感情を踏みにじってまで通したい我はトバリのなかに存在しなかった。
 だからこそトバリは自分の行いが“誰のためのもの”なのか、常に自覚していた。
 今、こうして外にいるのは言うまでもなくヒルゼンのためである。一般常識を学んだのも、肩を抱かれた時に大人しくしていたのも、そうだ。温室の維持や、庭の景観を如何にかしたいと思うのはセンテイのためだ。縁側を定位置に決めたのも、家政婦のためだった。
 アスマに「外に出よう」と誘われた時、トバリはヒルゼンのためにその誘いを断った。
 それなのに、ヒルゼンの許しを得て出てきた外界で、トバリは“一刻も早く家へ帰らなければ”と切に感じている。ここにいても忍術や手裏剣術の足しにならないから、そんな理由で。

 誰を踏みにじってでも、トバリは  の脆い命に寄り添ってあげたい。
 ヒルゼンは、  の道具であるトバリがこの里に受け入れられることを望んでいる。

 名前も顔も思い出せない  とヒルゼンとを比べたまま、トバリはじっと座り込んでいる。
 ベンチから立ち上がった自分が家へ帰るのか、それとも、まだアンケートを――誰か、自分の相手をしてくれそうな子どもを時間ギリギリまで探すのか、皆目見当もつかなかった。
 何か決断の切っ掛けになる情報はないかと五感を研ぎ澄まして、今日一日で得た情報を繰り返し頭の中で洗ってみて、自分とヒルゼンと  のためになる結論を模索する。

 急がないと、五時を告げる鐘の音が夕焼け空に鳴り響く。
 焦燥感で敏感になった耳朶に、硬質的な金属音の真逆を行く柔い音が触れた。
 トバリは振り向いて、音源を探った。鉄が生木を打つ音の後で、乾いた板を穿つ音が連続して聞こえてくる。ここから南西に五分ほど走った、南賀ノ川下流の杉木立に誰かいるようだった。
 ばくち打ちのような心持で、トバリは立ち上がった。そこにいるのがアンケート対象外の人間であろうと、誰がいるのか確認してから帰ろう。そう決めて、ベンチの後ろにあった岩に飛び乗る。
 屈めた膝を思い切り伸ばして岩を蹴ると、そのままトバリの姿はフェンスの向こうに消えた。
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