会いたくないとは言っても、ヒルゼンはトバリの後見人だ。

 元から“火影”という立場上、頻々にトバリを訪ねていたわけでもないが、それでも月に一度は必ず顔を出してトバリの暮らし向きを見守ってきた。いつまでも会わないというわけにはいかない。
 それに加え、放置生活が一月と二週間に入ったあたりで、アスマの怒りを買ってしまった。
 父親の懊悩など知る由もないアスマが「最近、トバリんとこ行ってないだろ。あいつにはオレと違って親父の代わりを務めてくれるお袋いねえんだぞ」と指摘してくる。

 アスマが産まれた時には既にヒルゼンは“三代目火影”として多忙の限りを尽くしていた。
 教育機関の経営も火影の仕事の一つだったから、ヒルゼンはアスマの得意不得意、成長の過程を事細かに把握している。しかしアカデミーの入学式で、ヒルゼンが保護者席でなく檀上にいたことが未だに不服らしい。戦火が激しくなるまでは「他人事みたいに高いところから見下ろして」と、事あるごとに批難されたものだ。命の危機の前には何事も些末なものになりえる。
 まあ、結局は“親子喧嘩にかまけている余裕がなかっただけ”ということなのだろう。
 戦時中は里の外の敵――岩隠れの里に集中して、皆一致団結していた。
 あの千手一族だって写輪眼を軸に据えた小隊編成に不服を口にするでもなく、前線ではうちは一族と協力し合っていたというのだから、血の繋がった親子同士なら尚更だ。
 アスマからは散々「親父が火影だったことで良いことなんてありゃしねえ」と言われてきたが、ヒルゼンもアスマの所属する班を陽動役として激戦地へ送り出す決断を下した時は「アスマの言う通りかもしれない」と思った。アスマが優秀であったばかりに、そしてヒルゼンが火影であるばかりに、まだ若い息子を死地に送らなければならない。火影として私情を挟まずに出した結論に、ヒルゼンは繰り返し悔やんだ。班全体の生存率、作戦成功率より、息子の命を優先するべきだったのではないか。自分の決断は息子にとってあまりに冷酷なのではないか。幾夜も一人悩んだ。
 そんなヒルゼンを支えてくれたのは、他ならぬアスマ自身の言葉だった。

『オレは将棋は弱いが、玉を詰まされたら負けだってのは分かってる。玉ってのは、自軍の頭だ』
 あんたはオレを信頼してくれた。そう真っ直ぐな瞳で自分を見上げて、笑った。
 安らいだ笑みと共に家を出て行った息子は、班員に一人の死人も出さず、自分に課された務めを立派に果たしてきた。自分の決断を信頼だと信じて、勇敢に死地に赴いた息子が生きて帰って来たのである。ヒルゼンの人生において、あれほど息子を誇らしく思ったことはない。
 当時は「生きててくれれば他に何も望まない」とさえ思った息子が生きて帰って来た――そしてあれから三年、無事に“第二次反抗期・再”を迎えている。三年前のあの感動はなんだったのか。
 分かっちゃいたのだ。生命の危機に瀕しているから親子喧嘩や反抗期どころでなかったということは、ヒルゼンだって分かっていた。しかし先月、受付窓口で揉めるまでは大した口答えもせずに大人しかったから、子どもの頃の恨みは疾うに晴れたものと思っていた。
 悲しいことに、そう思っていたのはヒルゼンだけだったらしい。

 ヒルゼン以外の全てに心優しい息子は、ヒルゼンがトバリを粗末にすることを一等嫌う。
 毎朝毎朝「今日はトバリの家行くんだよな」と朝食の席で騒がしいアスマに、妻も、長男も、長男の嫁も、嫁が連れてきた室内犬のポチも平然としている。納豆を混ぜながら荒ぶるアスマを、誰もたしなめてはくれない。皆、またかと言わんばかりに一瞥を寄越すだけだ。
 長男は新聞を読み耽っているし、妻と嫁は糠床の話をしている。ポチはドッグフードをひっくり返して、カーペットを汚している。これだから室内犬は嫌だと言ったのに、女尊男卑と言わんばかりの妻の勢いに押し切られてしまった。カーペットの上のドッグフードを前足で弄っているポチに飼い主たる嫁は「あらあら大変」とため息をついているが、ポチよりカーペットより、息子に育児放棄を詰られているヒルゼンのがずっと“あらあら大変”と労われるべきではないのか。
 とはいえ、援護射撃が見込めない以上ヒルゼン自身が如何にかする他ない。
 幸いにして家に帰る度ポチに吠えられるほど多忙を極めているので、言い訳には事欠かない。アスマの問いかけに「公務が」「コハルたちとの会談が」と交わし続けていたが、その“のらりくらり”が四日も続くと息子だけでなく、嫁まで「お義父さん、いつもならトバリちゃんのこと後回しになんてしないのに」などと言いはじめた。“トバリちゃん”の顔も知らないくせに。

 まあそれは兎も角、嫁がアスマの味方に付くのは非常にまずい。
 何となれば問答無用で嫁の味方につく長男は、自分に似て愛想が良い。自然と他人の作る輪に引き込まれ、色んなコミュニティを行き来するためか、異様に耳聡いところがあった。
 一般的にそういう人間は――というかヒルゼンのことなのだが――往々にして“八方美人の優柔不断”と謗られたり、他人の意見に振り回されがちになる。しかし、長男には“それ”がない。遺伝子の神秘とも言おうか、昔から、両親の良いとこどりをしたような子どもだった。ずるい。
 そういう人間は、味方にいる内は何とも心強いが、いざ敵方に回ると如何足掻いても買収出来ない。意志が固いのだ。そして上忍たちの恋愛事情から上層部の事情にまで詳しい人間を敵に回す恐ろしさは言うまでもない。要するに嫁がアスマの味方に付くということは、打つ手がなくなることを指す。薄情な奴だ。ウン十年間育ててやった恩も忘れて、妻を選ぶだなんて。
 憤然と味噌汁の実を眺めていると、それまで黙っていた長男が椅子から立ち上がった。
「ごちそうさま」ヒルゼンは顔をあげて、親孝行に目覚めたらしい長男を見つめた。やはり、まだまだ子どものアスマとはちが、「でも父さん。今日は、ご意見番の二人は今度新設される演習場の候補地を見に行ってるらしいけど、父さんは誰と話し合うんだっけ?」違わなかった。

 最早“十分でもいいから時間を捻出して様子を見に行け”ムードである。
 誰も血の繋がってない、それも幼女を育てるヒルゼンの気苦労など汲んでくれない。コハルたちとの会議は明日に変更になったとか適当に誤魔化してみたものの、「じゃあ今日の仕事、何だよ。言ってみ」と最早脅迫である。火影なのに……もう現役を退いたとはいえ、それでも三代目火影であることは変わらないのに、息子たちと嫁から尊敬のその字もないぐらい責め立てられている。
 糟糠の妻の助力を期待してはみたが、夫が息子たちに言いくるめられる様子を面白がるばかりで味方になってくれそうにもない。息子といい、妻といい、嫁といい、この家にヒルゼンの味方はいないのだろうか。実子より、ヒルゼンの脛を必死に舐めるポチのほうがまだしも心優しい。
 結局アスマに「絶対、今日! トバリんち行けよ。オレは今日いかねーから」と詰め寄られ、ヒルゼンは渋々「そうじゃな。ダンゾウ相手なら融通も利こう」と返した。
 別にダンゾウと話し合う案件なんか何もないのだけど、こういう時は都合がいい。流石の長男もダンゾウのスケジュールを把握していないからだ。ついでにヒルゼンも知らない。
 知らないけど、ヒルゼンを困らせることだけに全力を尽くす旧友は大抵の場合人目につく場所に出てこない。つまりダンゾウがどこで何をしていようと、ヒルゼンの証言を虚偽認定することは出来ないのだ。そういうわけで、ヒルゼンは家族に突っ込まれたくない時はダンゾウとの用があることにしていた。おかげさまで、家族からは週に五回ぐらいダンゾウと昼食を共にしていると思われている。多分“2仔1”ぐらいに思われている。実際には二週間近く会ってないのに。


「子どもらの手前、少しはワシの顔を立ててくれたってよかろう」
 アスマたちの気配が家から十分に遠ざかったのを確認して、ヒルゼンは洗い物に励む妻の背をなじる。しかし昔から口達者な妻は「元はといえば、あんたがアスマにトバリのことを頼んだんだろう。アスマの言う通りあの子は天涯孤独なんだから、よく気に掛けておやり」と正論を口にする。
 悶々と考え込むヒルゼンに、ビワコは「大体ねえ」とため息混じりに振り向いた。
「今更アスマを子ども扱いするから、そうやって噛みつかれるんだよ」
 如何いう意味だと妻を見やれば、苦笑と共に食卓から追い立てられた。
 玄関でノロノロと身支度を整える傍ら、ヒルゼンは妻の台詞が意図するところを考える。
 今更も何も、ヒルゼンは一度だってアスマを一人前の大人として見た試しがなかった。そりゃ忍者としては優秀で信頼のおける部下ではあったが、まだ十四歳で、しかも反抗期真っ盛りだ。そんな息子を心身ともに一人前の大人として扱うのは、時期尚早ではなかろうか。


◆ ◆ ◆


 広々とした庭園の隅に設えた裏門から顔を出すと、縁側は無人だった。
 大抵の場合、トバリは六時過ぎには起きて活動を始める。晴天だから、書庫にこもっているはずもない。庭のどこかでチャクラコントロールか手裏剣術の修行でもしているのだろうと、あたりを見渡してトバリを探す。果たして庭の中ほどに位置する池のほとりに小さな人影をみつけた。
 前に訪れた時と変わりない荒れた庭、そこで修行に励むトバリ――見慣れているはずの光景を前にして、ヒルゼンは僅かな違和感を抱いた。一月以上も訪ねなかったのが嘘のように、いつも通りである。それでも“何か”可笑しい気がしたが、里のなかで弛緩しきっている五感は“間違い探し”には不向きで、命の危機が差し迫っているわけでもない関係上すぐに考えるのを止めた。
 幾つかの危険も脳裏に浮かべてみたが、その何れも荒唐無稽かつ牙を剥いてから対処出来得るものばかりだ。深く考えるに値しないと結論付けて、トバリに視線を戻す。

 トバリは足元に目を落としたまま、立ち尽くしている。
 その無機質な横顔から伸びる視線を辿ると、池の水面から牙のように尖った水流が突き出ているのが見て取れた。印を見ていないから何とも言えないが、恐らく水牙弾の術だ。
 これが違和感の理由だろうか? いや、一月強も放っておいたのだから、水遁の術一つ使えるようになっていようと驚くには値しない。前々からトバリは忍術に強い関心を持っていた。向上心だけは強いトバリから、修行を見て欲しいと求められたのも一度や二度ではない。
 トバリにせがまれるたび「そんなものを覚えるより体術の修行に励みなさい」と交わし続けてきたが、結局自学自習で突き進むことにしたようだった。先月まで熱心にやっていた水面歩行の業や木登り修行にしろ、二代目の残した書物を参考に一人で始めたものだ。当然の帰結と言える。
 ヒルゼンはトバリを見つめながら、後ろ手に板戸を閉めた。その微かな音を聞きつけて、トバリが振り向く。ヒルゼンの姿を見とがめると、印を組んでいたのだろう手を下した。
 トバリが解術すると同時に、縁石に囲われた水面が不自然なほど凪いで平らになる。ヒルゼンの訪問に気付いたトバリが行ったのは、それだけだった。

 ヒルゼンの姿に気付いたとき、殆どの里民は好意的な挨拶を寄越す。
 シスイであれば晴れやかな笑顔で「三代目!」と呼んでくれるし、トウヤであれば大人びた笑みと共に「三代目、こんにちは」と頭を下げるだろう。もっと幼い子供であっても、屈託なく手を振ってくれる。ヒルゼンは教育機関の経営をはじめ里政に力を入れてきた。治世が長かったこともあり、第三次忍界大戦の戦後処理で大分人気を落としたとはいえ、里長としては親しまれている部類に入る。そのヒルゼンを前にして、トバリは突っ立ったまま動かない。
 急な訪問を驚いているわけでも、長期に渡って放置されたことを咎める気持ちがあるわけでもない。単に、他人と遭遇することに何らかのアクションを起こす必要性を感じていないのだ。
 まあ、それでもヒルゼンを無視して修行に没頭するよりはいいのかもしれない。
 コハルたちと会った時には、害意がないと見るやすぐ手裏剣術の修行を再開した。一応は保護者代わりに最低限の礼節は教えこんでいるつもりではあるが、あの無表情でナゼナニドーシテを繰り返されると「兎に角、言う通りにしなさい」と強気に出ることが出来なかった。

 火影の座についてからも長らく弟子は取ってきたが、皆下忍であるからには当然最低限の常識は両親に叩き込まれていた。一方のヒルゼンは息子二人に常識を叩きこんだ覚えがない。勿論悪いことをしたらキッチリ叱りつけ、訓練の様子を見守り、アドバイスしてきた。しかし「知ってる人に会ったら、ちゃんと挨拶するんだぞ」などという初歩の初歩に関わった記憶はない。
 何より、ヒルゼンの子どもは二人とも男である。男は少しばかり乱暴に育てた方が健康に育つという家風の下、悪戯三昧だったアスマの尻を叩いたこともあった。長男にしろ、幾分意固地な気性だったため「兎に角黙って言う通りにしろ」と強気に出るのもやぶさかではなかった。
 しかし、孫と言っても可笑しくない年齢の、それも血の繋がってない女児のケツを誰が叩けるだろうか? 少なくともヒルゼンには無理だった。故に、トバリはヒルゼンに挨拶をしない。
 じいっと自分の動向を伺うトバリに、ヒルゼンは左右に手を振った。“そのまま続けていなさい”の意味をこめた仕草ではあったが、果たしてトバリはヒルゼンから視線を逸らした。
 池を見下ろして何事か考え込むトバリの姿を横目に見ながら、ヒルゼンは縁側へと足を進めた。

 トバリの住む家は、木ノ葉隠れの里の設立期に建てられたものの一つだ。
 その頃建てられた木造建築の殆どは、初代火影である柱間が“連柱家の術”を用いて建てたものである。かつて扉間が暮らしていたこの家もその例に漏れない。
 ヒルゼンが相談や報告に訪れると、今のトバリ同様、扉間も縁側に侍って退屈そうにしているのが常だった。着物を崩して気だるげな横顔はヒルゼンに気付いても、無表情に近い平静を装っている。それでいて口数が少ないわけでもなく、他愛のない昔話をよく聞かせてくれた。

 兄者ときたら、皆にはやし立てられるままに無駄な敷地面積を有する建物を幾つも建ておって……ワシと嫁と息子、たった三人でこんなだだっ広い家に住めと言うのかと言うたら「十人でも百人でも子を仕込めばいい」などとほざいたが、遂に子どもは三人しか出来んかったし、妻も死んだ。この家の静謐は、全てにおいてざる勘定の兄者らしい顛末だとは思わんか、サル。

 縁側に向かって開け放たれた座敷の奥から、陶器の触れ合う音と水の流れる音が聞こえてきた。外から差し込む日光は縁座敷の畳の褪色を早めるだけで、入り組んだ作りの屋内は薄暗い。
 柱間が息子夫婦のために建てた千手本家もこの家と同じ作りであるが、事あるごとに宴会を開いたり、火影公認賭博を行ったりと実に騒々しかった。負けに負けてフンドシ一丁になる火影など、中々見れるものではない。綱手の博打好きと、その運のなさは祖父譲りであろう。
 ヒルゼンにしろ、千手邸で行われる会談から戻ってこない父親を迎えに来て、火影の半裸を見るとは思いも寄らなかった。動揺を隠しきれない息子に、同じく柱間に振り回されっぱなしの父親は一言「誰にも言ってはならない」と重々しく緘口令を敷いたが、当の本人が言いふらしてるのだからどうしようもなかった。柱間ほど人々から愛され、その言動を面白がられた火影はいない。
 千手邸の乱痴気騒ぎは扉間の留守に行われるのが通例であり、扉間が奔放な兄を全身全霊で見張っていたのは、兄弟愛云々より里長としての品格を保たせるためだったのだろう。
 かつての宴会場も今は綱手一人が暮らすのみではあるが、医療忍術の教えを乞う人間を集めて私塾の真似事もしていた綱手だから、家主が里にいる時は一族の人間をはじめ、人の往来が激しい。
 それを思えばこそ、この家の静謐さは、ここに住んでいた人間の本質が反映されているように思えてならなかった。浅い外光では照らしきれない、暗鬱とした静けさが畳の上に横たわっている。

 ヒルゼンは扉間が好み、今はトバリの定位置である縁側に深く腰を下ろす。
 と、ザクッと重たい土が掘り返される音に、顔を上げた。
 池と縁側の丁度中間に置かれた手押し車の影に、センテイの姿があった。何のための穴を掘っているのか、ザクッザクッと緩慢な速度でシャベルを上下させている。
 半年ほど前にカンヌキが死んでから、センテイは温室の外に出てこなくなった。
 毎朝毎朝トバリの家に通ってくるのは以前と変わりないのだが、精神を悪くして以来、庭園は荒れ放題で、温室の植物でさえ、手入れが行き届いていないものが少なくなかった。
 カンヌキの死から随分と経ち、少しは正気に戻ってくれたのかもしれない。そういえばトバリが水遁の術の訓練に使っている池も、随分長い間水が張られていなかったはずだ。
 センテイは相変わらず日に灼けて浅黒い顔をニコニコと綻ばせ、何事か呟いている。痴呆が改善されているようには思えなかったが、トバリに無関心な家政婦がトバリの求めに応じて水を張るとも考えづらい。僅かに正気を取り戻したセンテイが張ったと考えるのが妥当だろう。
 違和感の正体に気付いてスッキリしたところで、トバリの修行風景を観察する。

 ヒルゼンの訪問で乱れた集中力を整えていたのか、丁度忍術の訓練を再開したところだった。
 トバリが印を組み終わると、濃い霧が彼女の周りを取り巻いた。
 霧隠れの術だ。濃度は大したものだが、範囲はごく狭い。先ほどの水牙弾の術も、精度に反して範囲・威力共に弱々しいものだった。トバリらしくもないと咄嗟に思ってから、ヒルゼンは頭を振った。四歳という年齢を加味すれば、術として成立するだけ優秀な部類だ。下忍のなかには忍術を使えないものも少なくない。それを思えば、寧ろこの程度の完成度で微笑ましいと言える。
 なんやかや、やはりまだ子どもなのだ。複雑な胸中を一人宥めて、ヒルゼンはため息をついた。

 恐らく、書庫の巻物に記されていた水遁系の忍術の全てを覚えているのだろう。
 トバリは手際よく印を組みかえて、幾つかの術を示顕させた。印を組むスピードは大人顔負けである。よくもあんな小さな指で精確に印を結ぶことが出来るものだ。
 他人事っぽく眺めるヒルゼンの前で、トバリの指は扉間が得意としていた忍術を次々に編んでいく。水牙弾の術。霧隠れの術。水断波の術。水陣壁の術。水龍弾の術。水乱波の術。
 一つ一つの技の威力は低く、天泣と言った高難易度の術は、印の組み方と“オリジナル”を知っているヒルゼンだからこそ“天泣だな”と辛うじて判別出来る程度の再現率だ。やはり単に学習能力が高いだけで、才能自体は天才と謳われたカカシや大蛇丸とは比べるべくもない。
 とりあえず覚えた忍術の全てが“一応”使えることに納得したのか、トバリは肩の力を抜いた。

 太陽は真上から光を放ち、昼餉の時間が近いことを教えてくれる。
 修行がひと段落ついたのなら丁度いい、たまには一緒に昼飯でも食べるとしよう。ヒルゼンがそう腰を浮かせた瞬間、ちゃぽんと水を打つ音が聞こえた。池に何か投げ込まれたのだろうかと思ったが、視界を横切る動線はなかったはずだ。生垣から池までは大分あるし、このあたりには子どもの集う公園もない。風もなく、庭木の枝も、池のほとりにたつトバリも微動だにしない。
 それと相反して、水音の間隔は短くなっていく。縁石から覗く波を見て、ヒルゼンは固まった。徐々に乱れていく水面は元の水量以上に大きく波打って、池からあふれ出す。
 自分のチャクラを水に変換しているのだと、ヒルゼンは悟った。それは、要するに……ヒルゼンが自分の推測を正しく理解することを拒んでいると、トバリの口元が僅かに動いた。小さく「あ、」と漏らして辺りを見渡す。その言動に如何いう意図があるのか考えるより先に、爆発的に増えた水量に意識が絡めとられる。この子どもは、たった一月で性質変化を会得したのだ。
 あたりの土は黒々と湿り、ヒルゼンの足元にまで茶色く泥を含んだ水が流れてくる。
 
 ほんの一月前まで、トバリはまだ何の忍術も使えずに巻物を読み耽っていた。
 遠からず幾つかの忍術を使えるようになるだろうなとは思っていたが、実際に使っているところを見てみて「結局は真似事に過ぎない」とヒルゼンは結論付けた。やはり子どもだと安心した。
 今のトバリより一つ上だとはいえ、大蛇丸は五歳の頃にはもう自在に忍術を操っていた。カカシにしても、六歳の頃にはもう自分の得手不得手をしっかり理解して、“これは”という忍術を幾つかモノにしていた。それが才能というもので、隠れ里においては珍しくもない俊英たちだ。
 コハルたちがトバリを“可笑しい”と言うのは、単にあの子が感情の起伏に薄く、表情に乏しいからだろう。それはヒルゼンの育児能力の低さが招いたことであり、トバリ自身に責任はない。
 
 ヒルゼンが知る四歳の子どもは、昔から馴染みのあった綱手や自分の息子たちぐらいである。
 アスマは十分すぎるほど優秀だが、四歳の頃は少し活発な程度の“普通の子ども”だった。綱手にしても、同様だ。一度教えれば覚えは早かったが、そう生き急いで修行に励むことはなかった。
 カカシや大蛇丸が四歳の頃にどんな風だったのかは、ヒルゼンには分からない。ただヒルゼンは、一月前のトバリを見て“この子の二年後はカカシや大蛇丸に匹敵しない”と思った。ほんの少し前にも、同じ結論を出した。この子は少し変わっていて根性があるだけの凡才だ。
 ヒルゼンはトバリが“排斥すべき異端ではない”と思いたかった。

 カカシはこの子を見たら、なんと言うだろう。大したことないですねと言うだろうか。それとも、黙々と修行に励むトバリを不気味に思うのだろうか。分からない。

 トバリの本質について、誰かに自分が納得しうる判断を下してほしかった。
 実際に他人にトバリの異端を見せつければ、ヒルゼンの気持ちは落ち着くのか? そんなはずがない。それは単なる思考放棄だとは、ヒルゼン自身が一番よくわかっていた。
 決してトバリをこの家の外に出さないように、そう家政婦に言いつけたのはヒルゼンだ。
 私的な中傷をするはずもない旧友たちからトバリの危険性を指摘されてさえ嫌な気持ちになるのだ。外に出たトバリが奇異の目で見られたり、同世代の子どもたちから遠巻きにされたらと思うと胸が痛む。トバリ自身が他人に関心を持たなかったとしても、ヒルゼンにとっては乳飲み子の時から見守り続けてきた子どもである。増して恩師の孫で、友の娘と信じてきた。その子が、自分の愛する里に溶け込むことが出来ない現実を直視するのは苦しいものがあった。
 自分がアスマに「生きて帰ってきてほしい」と望んだように、他に何を置いてもこの里で生きることを望んでくれる人間は、この子にはいない。アスマとトバリは違う。同じように幸福を願っていても、結局は他人だ。ヒルゼンがトバリに向けるのは、同情と愛着の入り混じった中途半端な好意だった。それがトバリをこの里に引き留める唯一の縁であると思い知らされるのが怖かった。

 本音では、ヒルゼンはトバリをこの里から出したくないと思っている。
 この子は普通じゃない。感情がない。力を求める多くの忍がそうであるように、いずれ自里に見切りをつけて出ていくかもしれない。それ以前に、この里を愛してくれないかもしれない。
 ヒルゼンはトバリの処遇を如何するべきか考えて、途方に暮れた。もっと家庭を顧みて、子育てに協力すればよかった。そうしたら、少なくとも挨拶ぐらいは覚えたかもしれない。


「良いんだよ。今日は親父が様子見に行くつってるから」
 ボンヤリしていたヒルゼンの耳朶を、聞きなれた声が掠めていった。

「良い年して子ども一人ろくにあつかえねーんだから、困っちまうよなあ」
 少しばかりぼやけた台詞は、アスマのものだ。生垣の向こうから、何気ない雑談が聞こえてくる。ここ一週間ほど里を起点とした任務を割り振っていたので、今日が休日だったことも忘れていた。任務でもないのにソソクサと家を出て行ったのは、好きな女子との逢瀬で浮足だっていたからなのだろう。「ふうん」と気のない相槌は、アスマと同じ小隊に属する夕日紅のものだった。
 木ノ葉隠れの里は相変わらずの人手不足に悩まされてはいたが、年度が変わると幾分状況は良くなった。下忍が増えたのもあるが、一番は大戦の傷を引きずって休養中だった者が数多く復帰したからだ。第二次忍界大戦と比べ、使い潰される忍が減ったのは医療忍者の育成に熱を入れていた綱手の力によるところが大きい。それで良い気になって里の外をフラフラしているのは頂けないが、兎に角人員に余裕が出来たおかげで、若い中忍たちまでもがD級ランクの雑務に駆り出されるといった混沌は過去のものとなりつつあった。まあ、寛解期と言ったところだ。
 停戦協定を結んだとはいえ隣国への警戒を緩めるわけにはいかないし、国境付近の小里にはまだきな臭い話が残っている。丸きりの平和とは言い難いが、それでも大分“日常”が戻って来た。


「アスマが外に出ろってうるさい」
 あまりの唐突さに、ヒルゼンは飛び上がるほど驚いた。

 バクバク言う心臓を抑えながらトバリを探すと、探すまでもなく目の前に立っていた。
 ヒルゼンは大げさに肩の力を緩めて、僅かばかり顎を引いた。少し低い位置にあるトバリの瞳を覗きこむ。「アスマが、外に?」声が上ずったが、トバリはそれを気にした風でもなく頷いた。
「休みのたびにうちにきて、外に出ろっていう。べんきょうじゃなくて将棋しようっていう」
 トバリの顔は相変わらず無表情で、不愉快そうには見えない。しかし自分から話しかけてくるのが稀であることを加味すると、余程切羽詰まっているのに違いない。淡々と事実を述べているだけなのに、どうにかして欲しいと思っているのがヒシヒシと伝わって来た。
 アスマもアスマなりにトバリに愛着を持って、矯正したいと思っているのだろう。いや「将棋しよう」と言うあたり、特に何も考えてないのかもしれない。暇つぶしの相手が欲しいだけか。
「そうじゃのう……アスマが、それはまあ……将棋……」
 トバリの訴えを耳にして、ヒルゼンはにわかに考え込んだ。
 安易な気持ちで“それでは注意しておこう”とはっきり口にするのは躊躇われる。それは、常日頃からトバリを普通の子どもらしく扱っている自分らしくない台詞だった。
 どうせトバリが外に行きたがらないことなど明白なのだから、いっそ無責任にアスマに同調してしまえば良い。そうは思っていても、つい先ほど“この子を外に出したくない”と思ったばかりである。どちらを選ぶのもリスクが高い気がして、自然と歯切れの悪い言葉でお茶を濁す。
 いつもの“のらりくらり”より舌の重いヒルゼンをじっと見つめたまま、トバリは口を開いた。

「わたしはふつうじゃないから、外に出せないと言って」

 ヒルゼンは、呆然とトバリを見返した。
 感情の伺えない漆黒の瞳に、ヒルゼンの姿が映る。それは水面と同じで、その鏡像にトバリ自身の考えは些かも反映されていないように思った。安らかに凪いでいて、何もない。
 その平坦な視線が微かに揺らいだ。気倦そうに細められた瞳が、すいとヒルゼンから外される。
「体の外にしんぞうがあるくせに、みんな、どうして外へ行きたがるの」
 一歩後退して、体ごと振り返る。トバリの視線の先に、せっせと謎の穴を掘り続けるセンテイが居た。手押し車には結構な量の土が積まれている――結局、池に水を張ったのはセンテイではなく、トバリが自身のチャクラを水に返還する修行を行う過程で勝手に溜ったのだろうか。トバリの視線を辿って、不意にヒルゼンはそんなことを考えた。こぼれた水を集めることが出来ないように、人間も一度精神を病んでしまえば元に戻ることは出来ないのかもしれない。
「ぜんぶ忘れてしまえば楽なのに、どうしてここへくるの」
 トバリはセンテイを見つめながら、幼子らしくない侮蔑を口にした。
 自分の体の外に心臓がある人間ーートバリが口にした台詞に、ヒルゼンは聞き覚えがあった。
 カンヌキが死んで間もない頃、やはりトバリの口から「体の外にしんぞうがあるみたい」と聞かされた。緩々と現実に見えなくなっていくセンテイを前にして言ったものだ。いや、それよりずっと昔、ヒルゼンはどこかでこの台詞を聞いた覚えがある。

「しんでしまえば、もうなにもないのに」
『……なまじ感情があるばかりに、選択を間違える』

 人間は脆いなあ。そうだろう、ヒルゼン。
 仲間の命を切り捨てられなかったサクモも、そのサクモを誹謗する奴らも、大したことじゃないと奴に言ってやれなかった僕自身も馬鹿馬鹿しい。何だって人間はこう余計なことばかり頭にインプットされてるんだろうね。今更何をしたところでもうサクモはいないのに、頭のなかが、もっと強く慰めてやれば良かった、規律なんてものより仲間を重んじるお前を誇りに思うと言ってやれば良かった、一人にするんじゃなかったって考えで、そればかりなんだ。

 訥々と語り続けるカンヌキの顔には濃いクマがあった。
 サクモは、カンヌキが初めて担当上忍を務めた班の一員だった。他の二人が第二次忍界大戦で夭折したこともあって、カンヌキはとりわけサクモに目を掛けてきた。ヒルゼンにとってのアスマがそうであったように、カンヌキが“何を置いてもこの里で生きること”を望んだ相手はサクモだったように思う。兎に角自分の身を大事にして、引き時を見誤らないよう厳しく言いつけていた。そんなサクモが里に損失を出したばかりか自身の命をも危険に晒したと知って、当時は随分立腹していたものだ。優しい言葉を掛けてやれなかった分、サクモの死を知ったカンヌキの悔悛は深かった。一月ほど家にこもった後「サクモを思い出す」と言って、戦火が激しくなるなかぷいと里を出ていってしまった。この非常時にと憤る上役たちを宥めるのに苦労した覚えがある。
 それがトバリの産まれる二年前のことだから、あの頃にはもう何らかの研究は行っていたわけだ。トバリに似た少女も、疾うにこの世に存在していただろう。

『死んでしまえばもう何もないのに、なまじ感情があるばかりに選択を間違える』
 トバリの言うことは――カンヌキの意見は一理ある。
 感情があるから道具に徹しきることが出来ず、とっさの判断に躓く。根の設立を歓迎したカンヌキは、ダンゾウ同様に一定数の犠牲は必要だと論じた。苦痛や負担を一か所に集中させることで他の幸福を確約する。カンヌキとダンゾウはそれが最も理想的な状況だと、よく口にしていた。
 ダンゾウが里の治安維持にしばしば過激なやり方を用いるのは、自分が憎まれ役を引き受けることで内部抗争の拡大を抑えるつもりなのだろう。目に余る行いがないではなかったが、自分の行動規範を必要以上に隠す男ではないから、一応は信頼してきた。一方のカンヌキは“ダンゾウには憎まれ役は無理だ”と主張していたが、その理由どころか行動規範・理念さえ杳として知れない。
 裏切られたなんだと言っているが、元から秘密主義なところはあった。

 偶然か必然か、父親と同じ台詞を口にしたトバリは飽きもせずセンテイを見つめている。
 今となってはカンヌキが何を考えていたのかなど、大したことではない。カンヌキの言う通り“死んでしまえばもう何もない”のだ。今のヒルゼンの関心事は、トバリの本質についてである。そればっかりは、感情を殺して考えれば正しい答えが見えてくるとは思えなかった。
 朝から随分と考え込むことが多くて、知恵熱が出そうだ。

 深々とため息を吐き出すヒルゼンの羽織を、トバリの手が引っ張った。
 何事かと顔をあげると、トバリが指した方角からセンテイが近づいてくる。シャベルを手に持ったまま、ぬかるんでいる地面を歩きづらそうに蛇行していた。
「三代目さま!」帽子を取って、会釈する。「坊ちゃんと碁でも打ちに来たんですかい」
「うむ、久しいのう」
 久々に話しかけられたので、僅かに動揺してしまった。
 正気に戻ったのかと思ったのもつかの間、「かわいいお孫さんも連れて」という台詞が後に続いた。トバリはそれを否定するでも肯定するでもなく、センテイを見つめている。

 センテイは里外の医師に“まだらボケ”と診断されている。
 初めて耳にする病状に「まあ平均寿命が伸びたということですね」と返されたのも記憶に新しい。心の支えを失ったことで一気に思考回路の老朽化が進んだということらしいが、ほんの一年前には矍鑠としていたのを知っているヒルゼンには俄かに信じがたかった。元々平均寿命が著しく低い忍一族に生まれ育ったヒルゼンには、老いに関する知識が乏しい。
 殆ど混濁した意識のなかで生きているセンテイは、記憶の歯車がかみ合った拍子にヒルゼンの姿を認識することがある。トバリがセンテイを凝視しているあたり、最近は滅多に我に返らないのだろう。トバリの成長も著しいが、センテイの痴呆も悪化の一途を辿っているようだった。
 いい加減、この庭に通わせるのも如何にかして止めたほうが良いかもしれない。
 つい先日、センテイの縁者である奈良シカクに相談したのだが「千手の嬢ちゃんには悪いけど、あの庭はセンテイのじいさんの生き甲斐だったから……迷惑になんねえ程度に通わせてやって欲しいんですよね」と困った風に肩を竦められてしまった。屋敷の主であるトバリがセンテイの来訪を拒絶せず、また近親であるシカクも「通ってるほうが良い」と言うのだから、センテイの好きにさせるしかない。しかし、それで捨て置いてはこの庭が見るも無残なことになってしまう。
 庭の丘陵部に生えそろっていた芝は疾うの昔に剥げている。

 夭折も悲しいし、老いるのも悲しい。
 そう考えると、確かに“何かが根本から間違っているのではないか”と考えたくなる気持ちも分からないではない。根本ーー要するに、悲しいと思うことが間違っているのか、生きること自体が罪なのかの二択である。カンヌキは前者を信じて、痛苦をもたらす“感情”を忌み嫌ったのだろう。
 トバリは些かの痛痒も感じ得ぬと言わんばかりの無表情を崩さない。
 ヒルゼンは、そうしたトバリの無感情さが羨ましくなった。昔から「お前は感傷的だ」と、ダンゾウをはじめ多くの人間によく叱られたものだ。唯一好意的に見てくれたのは、扉間だった。ヒルゼンが落ち込んでいると、サル、サルと、親しみのこもった仇名を呼んで紛らわせてくれた。
 あの優しい人が忘れられずに庭へ通うセンテイの気持ちはよく分かる。それと同時に、あの優しい人の息子が、孫が、こんな風になってしまったと、しみじみとした失望がなくもない。
「カンヌキの奴、茶菓子を買いに行くと言ったきり帰ってこん。随分待たされとるわい」
 ひゃはは。センテイの笑い声が、歯の隙間から笛のように漏れた。
 自分の大事にしていた“坊ちゃん”を殺した相手に、センテイはニコニコと屈託のない笑みを浮かべている。他愛もない雑談に話を合わせながら、ヒルゼンは“ワシなら後者じゃな”と思った。

 センテイがまたぞろ徘徊をはじめると、ヒルゼンはため息をついた。
 びっこを引いて歩く道々に、ざりざりと線が引かれる。改めて酷い惨状である。
 濡れた地面はやがて乾くとしても、春だというのに一輪の花も咲いていない。青々とした繁みを広げる木々も枝葉が伸びるままになっている。扉間が愛でた庭はどこへいってしまったのか。
「随分と庭が荒れとるな」
「……そう?」トバリは億劫そうに小首を傾げた。「そうは見えないけど」
 やはり如何でも良いのだろう。寧ろトバリとしては、庭に生えている木を全て伐採してしまったほうが修行しやすくて良いのかもしれない。しかしヒルゼンにとっても、思い入れのある庭だ。とりあえずトバリの修行を邪魔しない程度に整備するのであれば、不満も呈さないだろう。
 近々業者を入れよう。密かな決意と共に庭を見渡すと、視界の端を蛇行していたセンテイが自らの掘った穴の前に差し掛かっているのに気付いた。咄嗟に身を浮かせて、羽織の裏地へ手をやる。ヒルゼンが指先に触れた手裏剣を投擲するより、トバリが印を組むほうが早かった。
 トバリがパパっと印を組むと、センテイを囲うように低い土壁が現れる。土流城壁の術だった。水遁の術と同様に精度は高いが、威力に乏しく、実戦では役に立ちそうにない。しかしセンテイの着物を手裏剣で脇の木に縫いとめるより、余程スマートなやり方である。
 土壁がそびえるが早いか、転ぶのが早いか、泥で足を滑らせたセンテイは、土壁に倒れこんだ。危うく穴に落ちかけたセンテイは、自分を囲う土壁の存在どころか、横転しかけたことも理解していないようだった。ぬかるみに足をとられながらも、しゃんと身を起こして自立する。
 もう大丈夫そうだと見て取るや、トバリは土流城壁で作り出した土壁の丈を緩やかに下げて、地面に収めた。解術から間を置かずに再び印を結んで、今度は穴の周りを囲う。
 
 ヒルゼンは羽織の裏に仕込んである手裏剣ホルダーから手を放した。
 唖然とした表情のまま、ドスンと腰を落とす。ヒルゼンの体重を受けて、縁側が軋んだ。
 ヒルゼンの反応が特別遅いわけではなかった。腐っても熟練の忍、この里の忍の頂点に立っていた“三代目火影”だ。反射神経の差ではない。トバリは単に、最良の対処法を知っていたのだ。増してセンテイの動向に気を配っていなければ、あのタイミングで印を組むことは出来なかった。

 トバリはヒルゼンの困惑など素知らぬ風に、また印を組んだ。
 華奢な指が“大瀑布の術”を編むと、池から舞い上がった水が、大瀑布というにはあまりにお粗末すぎるやさしさで庭の木々を濡らしていく。脆くなった塀を“土流城壁の術”で補強し、センテイが掘った謎の穴を“地動核の術”を用いて平らにする。トバリの指が次々に忍術を示顕させるのを、ヒルゼンは茫然と見守っていた。それは忍術の真似事というより、庭仕事の真似事だった。
 最後に“黄泉沼の術”で生い茂る雑草を地中に沈めると、荒れ放題だった庭は見苦しくない程度に整えられた。勿論センテイが手入れしていた頃とは比べるべくもないが、“惨状”とも言い難い。

 トバリがくるりと振り向いた。無感情な瞳がヒルゼンを見つめて、無感情に言い放つ。
「センテイ以外の庭師は、この庭にいれなくていい」

 そう言うや否や、ヒルゼンの返事を待つでもなく歩き出した。
 池の隅に転がっていた如雨露に水を汲んで、あちらこちらと徘徊しているセンテイのもとへと歩み寄る。そのしわだらけの手に如雨露を握らせると、トバリはセンテイの目を覗き込んだ。
「ツツジに水をやって」大きくはっきりした声で、ゆっくり話す。「カンヌキ様が庭すみのツツジに水がたりないといっていました。花が咲くよう、たっぷり水をやってください」
 カンヌキという言葉を聞いて、ボンヤリとしていたセンテイの目に正気が戻る。
「おお、おお」センテイは、合点が言ったとばかりににっこり笑った。「あのツツジは扉間様が選んだものだでなあ。坊ちゃんの一等気に入りの花を枯らすわけにはいかないわ」
 たっぷりと水の入った如雨露を大事そうに抱え込んで、一枚の葉もついていないツツジのもとへまっすぐ向かう。地面に引かれる直線が、この翁の一途さを示すようだとヒルゼンは思った。
 トバリは、枯れ木に水を遣るセンテイを見守っている。なんの感情も伺えない横顔を凝視していると、トバリが横目にヒルゼンを見やる。「今日はあんまりよくない」無気力な声音だった。
「あんまりよくないけど、父さまの名前を出せばなんとかなる。大したことじゃない」
 淡々と重ねられる言葉に、ヒルゼンは眩暈を覚えた。

 自分は、トバリの何を見ていたのだ。

 ヒルゼンにとって、今しがた目にした全てが衝撃的だった。
 もしかすると、この子が忍術を教えて欲しいと思った理由の一つには“庭の補修を行いたい”という気持ちもあったかもしれない。いや、如何考えても、水遁と土遁を選んだのはそのためだろう。
 実際に習得できるかは別として五大属性のなかからどれか一つとなれば、大抵風遁か火遁を選ぶものだ。さもなくば雷遁といったところか。結局才能が全てとはいえ、補助系の術が多い水遁と土遁は、近接戦が多くなってきた昨今人気が薄い。チャクラ感応紙がない以上は好みで選ぶしかないのだから、トバリだって“忍者として”考えるなら風遁と火遁を選ぶはずだ。
 どの道、結果としてトバリは庭を整えるために忍術を使った。センテイ以外の庭師をこの庭に入れないために、センテイの奇行にフォローを入れた。今もセンテイの動向に気を払っている。

 池の水が溢れ出た時、トバリは「あ、」と口にした。
 それは、こうした出来事を想定して、自分がやりすぎたことに対する動揺があったのだろう。

 動揺……ヒルゼンは繰り返し、これまでのトバリの言動を思い返してみた。
 トバリがセンテイに特別な関心を寄せている――あり得ないことのように思えたが、トバリがセンテイを慕うのは何ら可笑しいことではない。寧ろ今の今までトバリがセンテイを特別視していることに気付かなかったことのほうがずっと不思議だった。如何して考えつかなかったのだろう。
 センテイは毎日この屋敷に通い詰め、ほんの半年前までトバリを“トバリさま”と呼んで慈しんでいた。あまりに賢すぎるトバリを不気味に思うでもなく、センテイはニコニコとトバリに話しかけてきた。そうした好々爺に情が湧くのは、ごく自然なことだ。普通に、ありがちな感情の流れだ。

 ヒルゼンはおもむろに立ち上がると、池から少し離れた場所に立ち尽くすトバリに近づいた。
 聞きたいことが山ほどあったし、瞳の奥を覗き込んで、そこに感情の揺らぎがあるのか確かめてみたい気持ちもあった。ヒルゼンはトバリの隣で立ち止まると、そっと腰をかがめた。
 黒目がちの瞳がヒルゼンの姿を捉えて、長し目をくれる。
 かつての師と同じ悲嘆を探して、ヒルゼンはトバリの顔を覗き込んだ。瞳の奥に、この家と同じ静謐が横たわっているようにも、暗鬱とした寂しさが目じりに膨らんでいるようにも思った。
 トバリもじっとヒルゼンの瞳を覗き込む。
「この庭はセンテイと父さまとおじいさま、三人の庭だから……ここには誰もいらないの」
 念を押すかのような重々しい口ぶりに、ヒルゼンは自分の過ちを認めた。

 トバリには、稀薄ながらも感情が存在する。
 その乏しい感情を、この子は表に出そうともせず押し殺す。理由は明白だ。ヒルゼンは、この無表情を過去にも見たことがある。兄の悲しみを語った時の扉間と、丸きり同じ顔だった。
 扉間は、柱間が最も望んだ相手が自分ではなくマダラであることを知っていた。あの無表情の裏で、扉間は兄の悲しみに寄り添えない現実を呪いたくなる気持ちを必死に抑えていたのだと思う。
 この子にとっての“柱間”はセンテイだった。死んでしまえばもう何もないのに、魂は未だ過去に囚われている。そうした男の関心を求める虚しさが、トバリの感情を殺すのだろう。

『わたしはふつうじゃないから、外に出せないと言って』
『この庭はセンテイと父さまとおじいさま、三人の庭だから……ここには誰もいらないの』
 まだ四歳の子どもなのに、この庭の外にも中にも居場所がないと口にする。
 この幼い子どもを孤独に縛り付け、その情緒の発達を阻んだのはヒルゼン自身だ。トバリを一ヶ月以上も放っておいて、身勝手に悩んでいた自分がつくづく嫌になった。
 今回ばかりはアスマの言うことが全面的に正しい。トバリ自身が“この庭のなかに居場所がない”と判断したのなら、この生垣の外で居場所を見つけさせるべきだ。

 ヒルゼンはトバリの肩を抱いて、あやすように叩いた。
 本当は「ここはお前の庭でもある」と言ってやりたかった。しかし、中途半端な好意しか持ちえないヒルゼンが“ここがお前の居場所だ”と定めたところでどれだけの価値があるだろう。
 トバリはヒルゼンにされるがままで、手を払いのけたりはしなかった。それどころか、ヒルゼンの体に身を寄せている。その従順さに、最後に抱いてやったのが随分前のことだったと思い出す。
 二人の視界の端で、センテイは“過去”に水を遣っている。遠く離れた座敷の奥では、トバリを遠巻きに働く家政婦が昼餉の支度を整えているはずだった。
 この家の何もかもが、四歳の子どもに耐えがたい孤独だと思った。

「のう、トバリ。実は、今日はお前に頼みがあって来た」
 普通の子どもは、望めばどこにでも行ける。ここに柵がないことを、知ってほしかった。
まぼろし
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