冬枯れの枝に眠っていた新芽が季節の変遷を告げる。
 木ノ葉隠れの里から遠く、鉄の国の方角にそびえる北方山脈に薄く積もっていた雪も疾うに解け、河口をぬるませていた。北方山脈を源流とする中央大河は火の国を横断し、外洋へと流れつく。火の国の財源を支える穀倉地帯の成立は、地中の栄養分が溶け込んだ雪解け水なくして成りえなかっただろう。木ノ葉隠れの里を流れる川も、中央大河の分流である。
 里を覆い隠すように生い茂る森は緑の濃さを増し、都市化された里内のあちこちに植えられた木々も活き活きと枝葉を広げていた。河川敷に沿って植えられた桜も、見ごろである。気温の年較差が小さい木ノ葉隠れの里にも、春の恩恵は余すところなく与えられていた。


 桜前線の訪れと共に、今年も多くの生徒がアカデミーを卒業していった。
 例年のおよそ二倍にあたる、五十余人がアカデミーの卒業試験を通ったのに反し、実際に下忍として登用されたのは十二人――たったの四班。勿論アカデミーの運営に携わる忍者の認識が甘すぎるわけではないが、やはり実際に下忍を統率する立場にある上忍のほうが責任が重いのだろう。人材不足とはいえ、やはり実戦登用の可否に慎重になっているようだった。
 原則として、下忍を目指す者はアカデミー忍者の基本戦術と体術・忍術の基礎を叩きこまれた後に、担当上忍それぞれのやり方で“忍者としての素質”を確かめられる。
 担当上忍のお眼鏡にかなった場合はそのまま通常任務に移行するが、「素養無し」と判断された者は卒業試験からやり直しだ。当然、試験課題の難度は上がる。再度割り振られた担当上忍にしても「一度落第した人間だ」という意識から見る目が厳しくなるのが通例だった。現役合格出来なかったアカデミー生の殆どは志半ばで諦め、一般人として忍者以外の道を歩むこととなる。
 たかが下忍とはいえ、実際に任務に就くことを許されるのは容易ではない。だが、今年はその狭き門をアカデミーに入学してから僅か一年で通過した俊英が二人いる。
 うちはカガミの孫、うちはシスイと、トバリの遠縁にあたる千手トウヤ――年齢を理由に答辞こそ読ませて貰えなかったが、共に今期の卒業生のなかで一二を争う実力者だ。

 未だ早期卒業制度が残っている現状、飛び級卒業は然程珍しいことではない。
 はたけカカシをはじめ、第三次忍界大戦中には入学するや否や即卒業させられる例は山とあった。それにも関わらず、ちゃんと一年アカデミーに在籍していたシスイを卒業させるにあたって、数人の教職員の反対を受けていた。揃いも揃って千手一族に連なる人間である。彼らに言わせれば「昔から協調性に乏しいうちは一族の性根を叩きなおす機会など、アカデミーをおいて他にない」らしいが、いい加減教育の現場にまで一族同士の対立を持ち込むのは止めて欲しい。
 木ノ葉隠れの里は千手一族をはじめ、うちは・猿飛・志村・山中・奈良・秋道等、多くの一族が寄り集まって暮らしている。里の設立から早四半世紀ほどが経ち、最初期の混迷を知らない若者のほうが多くなった。今や一族という括りは大した意味を持たず、当初割り振られた一族の居住区画から都市部へ出てくる人間は後を絶たない。ヒルゼンにしても猿飛一族の寄り合いに顔を出すのは盆暮れぐらいのものである。そんななか、うちは一族の結束力の強さは悪目立ちしていた。
 一族の居住区画から出てこないのは勿論、何かと一族同士で寄り集まろうとする。協調性がないわけではなく、寧ろ任務に即してはキッチリ周囲と息を合わせて事を為す。他の一族の人間と親しくしないわけでもない。ただ単に身内意識が強すぎるのである。
 大抵の場合、うちは一族の人間は結婚相手に近縁を選ぶ。のみならず、他の一族の人間と結婚した者は一族の居住区画から出ていくのが慣習となっているようだった。そうした一族の在り様を、“排他的だ”と疎ましく思う者は決して少なくない。それでいてうちは一族の人間は自分たちの何が反感を買っているのかまるで理解出来ないのだから、困ったものだ。

 千手一族も御多分に漏れず、この五十年ばかりの間にすっかり結束力を失っている。
 天涯孤独の身であり、主家の流れを汲むトバリを気に掛ける者がいないのがその証拠だ。しかし稀に、うちは一族が絡んだ途端に岩より固い結束力を見せる。はた迷惑な話である。更に厄介なことには、上役の椅子――教育機関絡みの役職の殆どが千手一族に占有されている状態にあった。
 流石に権力を振りかざして、一部の生徒を贔屓するなどの横暴を働いたことはない……と思いたいが、こうもしつこくシスイの忍者としての適性を批判されると、分からなくなってくる。

 里への帰属意識が薄いまま実戦登用するのは得策ではない。
 あの一族の人間は写輪眼を笠に着て身勝手なふるまいが目立つ。
 戦時中も、チームワークや規律を軽視した個人主義で場を乱してくれた。
 うちは一族の子どもはアカデミーでの長期矯正が必要だという旨の台詞を散々聞かされたが、結局ヒルゼンはシスイの早期卒業を白紙撤廃しなかった。なんとなれば、ヒルゼンの目には、シスイがうちは一族の悪癖を受け継いでいる様には見えなかったからだ。
 サバイバル演習や手裏剣術・体術訓練の時の洗練された身のこなしが嘘のように、普段のシスイは年相応の無邪気さで場を和ませる。さりとて馴れ馴れしすぎるということもなく、周囲から一目置かれているのだった。“周囲から一目置かれている”という点ではトウヤも同様なのだが、それよりは“周囲の人間に距離を置かれている”といったほうが実情に近いだろう。
 千手一族の人間は揃いも揃ってシスイをやり玉に挙げるが、トウヤのほうがずっと協調性に乏しい。前述の通りシスイは社交的で交友関係も広いが、トウヤにはシスイ以外の友人がいなかった。

 千手一族の人間が前線で勇名を轟かせた例は、綱手を最後にパッタリ途絶えている。
 かつて火の国において、千手一族はうちは一族に唯一対抗できる勢力として認識されていた。いや柱間と扉間という二人の英傑の存在によって、千手一族はうちは一族を大きく上回る戦力を得るに至った。しかし木ノ葉隠れの里が出来た後、千手一族の頭領であった柱間は一族の人間に“一族”という枠を越えて“里”という帰属意識を持つことを望んだ。
 これまで通り一族の人間と結婚するもよし、他の一族と結婚するもよし、忍びではない一般人と結婚するも自由。産まれた子を忍者として厳しく育てるも育てないも好きにしたらよい。そう豪快に笑う頭領殿のガバガバ理念は、千手一族の人口増加にすこぶる役立った。千手の姓を持つ人間はネズミ算式に増え、それに比例してアカデミーの入学要件を満たさない子どもも増えた。
 柱間の望み通り、千手一族はいの一番に“木ノ葉隠れの里”という平和に溶け込んだのだった。うちは一族が、自分たちの血が薄まることを徹底して避けたのと対照的である。

 里の設立からも、柱間が死んでからも随分と長い歳月が過ぎていた。
 千手一族ばかりか里の皆に愛された頭領を失い、千手一族の人間は自分たちが何故里に溶け込む道を選んだのか忘れ去ってしまった。今はただ“忍の神とまで謳われた英雄を輩出した一族である”という矜持が悪戯に肥大している状態だ。その矜持が、うちは一族に対する敵愾心を産む。
 結局は自分たちに負けた一族のくせに、“うちはの凡才は他の一族の天才に匹敵する”とまで誉めそやされるのが気に食わないのだろう。それが、柱間を知らない若造までもが五月蠅い理由だ。

 そんななか産まれてきたのが、千手トウヤだった。
 柱間の側近であったくノ一、桃華を祖母に持つ彼は、無論幼少時から忍者になるべく厳しく育てられた。凡才であれば平穏な幼少期を過ごせただろうに、トウヤには忍者としての才能があった。それ故にトウヤは綱手以来の天才として、うちは一族へのコンプレックス塗れの大人たちの期待を一身に受けたのである。ある意味では、トウヤもトバリと同様に不憫な子どもであった。
 重すぎる期待への鬱屈から、トウヤはやたらと大人びて見えた。他人に話しかけられればニコリと笑うこともあるのだが、一人になるとすぐ何事か鬱々と考え込むような、そういう子どもだった。そんなトウヤが屈託なく笑うようになったのは、シスイという得難い友を知ったからだ。
 トウヤは厳格な両親の下、ごく幼いころから骨身を削ってまで修練に励んできた。飽く迄も“天才”であることに執着とするトウヤと、その血のにじむような努力に軽々と追いついてしまうシスイは実に対照的だった。シスイと出会ってからのトウヤは無理をし過ぎることがなくなったし、逆にシスイはトウヤに付き合って修練の喜びに目覚めたようだった。
 互いに互いを目標として競い合い、高め合う仲というのは、見ていて微笑ましい。
 じゃれ合いながら受付ロビーを去っていく二人を見るにつけ、ヒルゼンは二人を同じ班にして良かったと心から思うのだった。もう一人の班員も、性別が違うからか上手くやっているようだ。
 恐らくトウヤとシスイは次代の里を担う忍者に成長するだろう。

 トバリも、シスイのような友が出来れば良い方向に変わっていくのではないだろうか……?
 理想的なライバル関係にあるトウヤとシスイを見ていると、ヒルゼンはつい「トバリも、トウヤ同様、単に他人と関わる楽しさを知らないだけかもしれない」と期待してしまう。
 いやしかし、トウヤは元から妹想いの優しい子どもだった。鬱屈とした顔を覗かせる理由も、一族の期待に応えたいと思えばこそだ。入学直後の自己紹介で、トウヤは「柱間様のような立派な忍者になりたい」と口にしたという。常日頃から「ゆうしゅうなにんじゃになり、さとのためにみをこにしてつくす」等と、他人の受け売り染みた口上を述べるトバリとは根本から違う。

 いかんなあ。さして高くもない書類の塔をノロノロ崩しながら、ヒルゼンは独り言ちる。
 大名殿でコハルたちと話して以来、ヒルゼンはトバリに会うのを避けていた。
 それでいてトバリと年の近い子どもを目にするたびに、彼らの仕草や言動をトバリのものと比べてしまう。そして何度でも繰り返し“やはり、あの子どもは普通ではない”と思うのだった。

 どんなにかトバリを普通の子ども扱いしようとしても、本心を偽ることは出来ない。
 ヒルゼンはカンヌキの研究所で、トバリによく似た少女を目にした。緑がかった液体のなかで穏やかに眠る少女の、白々とした皮膚が頭にこびり付いて離れない。
 体躯から察するに十二歳前後だろう少女を目にした時、ヒルゼンは咄嗟に「トバリだ」と思ったのだった。黒々とした髪は扇状に腰のあたりで広がり、大蛇丸の指でこじ開けられた瞼の奥はやはり漆黒に淀んでいた。腹部の切開痕をはじめ、ところどころメスを入れられた跡があったことからも、カンヌキがあの少女を実験体の一つとして活用していたのは明らかである。
 ヒルゼンがカンヌキの罪を公にしなかったのは、彼が実験に用いた人間の殆どが岩隠れの忍だったからだ。大蛇丸からの密告があったのは、丁度岩隠れの里との停戦協定を結び終わった頃だった。ようやっとうちはマダラの件が何とかなろうかというタイミングである。岩隠れの里との間に新たな不和の種が芽吹くことを恐れたヒルゼンは、カンヌキの一件を内々に処理することにした。
 内々――ご意見番の二人にダンゾウ、大蛇丸、綱手、自来也、ヒルゼンの七人である。このなかで人体に造詣が深いのは綱手しかいない。しかし、綱手とカンヌキは親しい間柄にあった。恋人である加藤ダンの死から躁鬱傾向にある綱手に、従叔父の犯した罪を暴かせるのは躊躇われた。

 結局、あの少女の遺体は研究所と一緒に燃やしてしまった。
 火で燃やし清めれば全てが無かったことになるわけでもあるまいし、あまりに軽率だったとも思う。しかしそれ以上に“これでカンヌキの処分に悩まされずに済む”という安堵のほうが強かった。
 カンヌキの死体を見下ろして、数々の命を内包して燃え盛る炎を眺めて、ヒルゼンは自分が最も傷つかない選択肢が何か気付いた。元凶を殺してしまえば、消し去ってしまえば楽になる。その投げやりな解決策に気付いていながら、ヒルゼンは“火影”として、最後まで善人を演じきった。

 先の大戦で、教え子が死んだ。里の設立期を共に見守ってきた友を失った。
 あの大戦の日々、ヒルゼンの感情は徐々に消え去り、親しい人間の命さえ数字でしか認識出来なくなっていった。火影という立場故に前線に出ることも出来ず、自分の孫と言っても良い年齢の子どもを見送るしかない無力さ。戦火の激しさが増すにつれ膨れ上がっていく怒りをぶつけられ、自分の決断を何度も批判され、僅かな判断ミスを連日取沙汰される。自分の手の中にいくつもの命がある重さが、双肩にのしかかってくる。ヒルゼンは、その全てに耐えた。“火影”だからだ。
 今も、岩隠れの里に賠償を請求しなかったことは後悔していない。
 停戦協定を結んだとき、ヒルゼンは自分のなかの私的な感情を完全に殺していた。それはオオノキも同様だっただろう。里の皆のために、そして次代を生きる者たちのために血涙を飲んで講和を結んだのだ。それが里長として当然の在り方だと言われれば、その通りだ。
 それでもヒルゼンも一人の人間だ。大切な人間を亡くせば辛い。裏切られれば、苦しい。

 岩隠れの里が滅ぶまで殺し尽くせば、楽になるのだろうか?
 馬鹿馬鹿しい疑問だ。仮にも忍び五大国の一つに数えられている里を滅ぼすなど、正気の沙汰ではない。そんなことをすれば、まず木ノ葉隠れの里だって無事には済まない。里の皆も、そんな横暴な考えの里長には従わないだろう。実行しようものなら、ミナトか自来也あたりに殺される。
 不必要な殺生を繰り返していたカンヌキを殺すのは、火影として正しい判断だった。誰もヒルゼンを咎めなかった。ヒルゼンも、カンヌキが死んで、気持ちが楽になった。ヒルゼンのなかの思い出が軽くなる。21グラム。その軽さに、ヒルゼンは自分の酷薄な本性が怖くなった。
 長年火影として善人面を振りまいていてさえ、旧知の友を失うより、自分が傷つくほうが耐えがたいのだ。ヒルゼンには他人を見る目がない。今もまだ、カンヌキが死んだことが信じられない。あんなに明るく、自分とダンゾウに挟まれて笑っていたのに――他人の命を弄んでいた。

 最早ホムラたちに言われるまでもなく、ヒルゼンはトバリを見限っている。
 カンヌキを殺してからの半年あまり、ヒルゼンはトバリを目にするたび湧き上がる破壊衝動に耐えてきた。ただ“火影”という名を継いだ矜持から、あの子は普通の子どもだと己に言い聞かせてきた。今はもう、自分の琴線を乱す何か――ほんの小さな切っ掛け一つで、あの子どもを手に掛けるのではないかと思う。あの子どもを殺したところで、ヒルゼンを咎める人間はいないのだ。
 一人の人間が、この里を戦火の渦に巻き込むことが出来る。不安要素は少ないほうが良い。まして、あの子どもが死んだところで悲しむ者は誰もいないのだから、
 そうとまで考え及んで、ヒルゼンは激しい自己嫌悪に苛まれるのだった。 
 忙しさを理由に、もう一月ほどもトバリを訪ねていない。いや、会ってはいけない気がした。
 

『この里に居場所がない人間は、いずれこの里を出ていく』
 あの子どもが死ねば、またヒルゼンの気持ちは21グラム軽くなるのかもしれない。
たましいの比重を問う
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