久方ぶりに顔を出すと、妹分は肌寒い縁側で雨風に晒された庭をぼんやり眺めていた。

「あなたは雨がふるとくるね」
 このところ口数の多くなったトバリが、アスマの姿を見咎めるなり口を利いた。
 それも何らかの報告や注意、提言でもない、中身のない軽口だ。ここ数ヶ月で聞き慣れたとはいえ、トバリの口から無意味な台詞が漏れる様はやはり感慨深いものがある。

「詰め所から帰る途中にあるからな。参ったよ、今日なんか予報では曇り一つなかっただろ」
 アスマはぐっしょり濡れて重たいサンダルを脱ぎ捨てると、トバリの脇に腰を下ろした。
 何故なのか新品同様になった縁側は、アスマの体重を受けてもピクリともしない。一々下半身にチャクラを集中させずに歩いたり座ったり出来るのは有難いことだ。アスマはトバリの心変わりに感謝した。しかし、この吝嗇な妹分が何で縁側だけを修繕する気になったのかは謎である。
 まあ最近、来客が多いらしいからな。誰か、間抜けな奴が踏み抜いたのだろう。
 詰まらないことを考えながら、アスマはサンダル同様、突然の雨に晒されたベストと上着を脱いだ。水を吸ってすっかり重たくなった衣類を適当に放り投げる。べちょっと、嫌な音がした。
「毎年毎年“精度が上がった”って言うけど、その割に実感を伴わないんだよなあ」
 殆ど独り言に近い不平を呈して、ため息を漏らす。いつもどおりトバリは何も応えなかった。
 アスマはズボンのポケットから、辛うじて浸水を免れたタオルハンカチを取り出した。
 七月の雨はじんわりと温くて、肌に纏わりつく衣類だけが気持ち悪い。濡れた衣類を――流石に他人の家で全裸になる度胸はないが――兎に角上半身だけでも裸になってしまえば、逆に快適なぐらいだった。雨に濡れたままの顔と首回りを拭うと、ようやっと人心地つく。

 「てか、お前も、今日はなんでこんなとこいるんだ? もっと奥にいないと濡れるぞ」
 改めて腰を落ち着けたところで、アスマが先ほどから不思議に思っていることを口にした。
 大抵の場合、トバリは雨が降ると書庫にこもる。今日も書庫にいるだろうと思いながら裏門を潜ったため、縁側にちょこんと座り込んだトバリの姿を見つけた時は驚いた。
 玄関から台所へと続くL字の廊下の奥、トバリとアスマの背後に六畳ほどの座敷がある。
 常にあけ放たれて、東西南北に台所・居間・寝間・縁側を繋ぐ通路と化しているとはいえ、縁側にいるよりかはずっと居心地は良いはずだ。ただ庭を見ていたいのならそこに移動すれば良いのに、何故縁側に留まっているのだろうか。夏とはいえ、横風が吹く度に雨の差し込む縁側は居心地の良い場所ではない。それに、アスマのように動き回っていたなら兎も角、碌々身動きしないトバリにとって“雨天の縁側”は幾らか肌寒いはずだ。事実、膝に厚手のタオルをかけている。
 アスマは“縁側に拘る理由”を待ったがトバリは応えなかった。そっと、タオルを差し出す。
「これをつかうといい。ベストとうわぎを、そこらになげてはいけない」
 自分と同じく躾けのなっていないトバリのことだから、何をどこへ投げようと気にやしない――そう思ったのだが、思いがけず口煩い。アスマは有難くタオルを受け取って、体を拭った。
「あとで片すって。どーせ端のほう雨で濡れてるじゃねーか」
「まんなかのほうはちょっとしかぬれてない」
 ちまっとした手が縁側のまんなかあたりを指し示す。
「そうか……」

 ザアザアと降りしきる雨が、時折横風を受けて縁側の淵を濡らす。
 風が吹くと、全体的に濡れる。

 アスマの感覚的には“どこもかしこも十分濡れている”のだが、トバリとしてはセーフらしい。
 まあ、アウトだったら端から縁側に留まらないだろう。屁理屈なんだか真っ当な反論なんだかよくわかない言を受けて、アスマは自分の上着とベストを摘まみ上げた。
 雨を含んで生地の色が濃くなった衣類は、片手に持つだけで頭から水を被ったような気持ちになる。さっさと洗濯機に入れてこようと振り向いた途端、家政婦がこちらに向かってくるのに気づいた。片手にタオルを抱え、もう一方の手にお盆を持っている。お盆の上には湯呑が二つあった。
 アスマより幾らか遅れたものの、家政婦に気付いたのだろう。トバリが億劫そうに振り向いた。

「フサエ、ゆうげの支度をしていただろう。わたしたちは問題ない」
 受け取り様によっては嫌味っぽい台詞だが、家政婦は顔色一つ変えずにトバリの前に膝を付く。
「問題はないって言っても、こんなところにいたら風邪を引くじゃないですか」雨が入らない場所にお盆を下ろすと、手際よくトバリの膝に新しいタオルを掛ける。「アスマさん、替えの上着はあとで持ってきますから、ここでトバリさんが風邪を引かないよう見ててください」
 言うが早いかアスマを座らせて、濡れた衣服を奪い取った。殆ど“引っ手繰られた”と言ってよい勢いだったので、思わず気おされる。衣類の代わりと言わんばかりに、湯呑を押し付けられる。
「あと三十分ぐらいでご飯出来ますからね。アスマさんも食べてきますよね」
 家政婦の台詞は一応“疑問形”を取っていたが、アスマが“ノー”を言う隙は与えられなかった。
 別にトバリのところで食べてきたと言えば母親もとやかく言わないし、そもそもアスマもローティーンのオスの例に漏れず常に腹を空かしているので、一日に二回夕飯があっても何ら問題はない。端から“ノー”と答える気はないのだけれど、それでも、ちょっとはアスマの返事を待ってくれても良いのではなかろうか。アスマに話しかけたことなどなかったかのように縁側を拭きだす家政婦に、アスマは思った。トバリほどとは言わないが、この家政婦も無神経な女性だ。“だから”と続けるわけではないが、歴代の家政婦のなかで一番トバリと相性がいい。良いことだ。
 可能であればトバリに“配慮”とか“気遣い”を教えてくれるひとであればもっと良かった。

 そんなことを考えながら、湯呑に口をつける。
 温い陶器を傾けて、そのなかのお茶をズーッと啜った瞬間――アスマはぎょっとした。
 何の味もしない。お湯だ。温かいだけの水がアスマの喉を下っていった。一瞬“お茶っぱを入れ忘れたのだろうか”とも思ったが、トバリは何の躊躇いもなくお湯を飲んでいる。よもやアスマ一人だけ中身が違うなどということはあるまい。“なんだこれは”と一人困惑しているアスマに、トバリが泰然と「“さゆ”だ」と告げた。「お湯のこと」と付け足してくれる。マウンテンゴリラに物の道理を教えるかの声音で教え諭された以上、「なるほど白湯ね」と大人しく飲まざるをえない。ただ温かいだけで味がしないものを有難がるほど寒いわけでもなく、ただ白湯独特の“なんとなく健康に良さそうな感じ”が胸中に去来する。一体何故白湯を出すに至ったのだろう。
 そういえば「このところトバリの偏食に合わせたメニューばかりが食卓にあがって困る」と親父が言ってたっけ。一昨日聞いたばかりの愚痴を思い返して、アスマは納得した。
 トバリは豆腐とか氷とか、味のないものを好んで食べる。そして好き嫌いがないように見えて、嫌いな食べ物がやたらと多い。父親の言うように子どもの偏食に流されるのは良くないだろうが、出されたものは何でも食べるから良いだろう。ただ栄養価・外見共に見栄えの良いだけの料理を食べるより、自分の好みにあったものを食べるほうが――そうやって甘やかして貰っているのだという実感を与えたほうが、幾らか情操教育に役立つはずだ。甘やかされている自覚はなさそうだが。
 でもなんか、情操教育に良いとか、トバリと家政婦の仲が良いとか無関係に、ただアスマのために別個にお茶を淹れる手間を惜しんだだけの気もする。そんな感じがする。

「本当にもうねえ、こんなお天気だってのにトバリさんたら縁側にいっきりで……」
 雑で何をするにも忙しい家政婦は、ポケットから出した雑巾でせっせと縁側を拭っている。
 トバリ曰くの“ちょっとしかぬれてない”ところが名実共に“ちょっとしかぬれてない”状態になっると、家政婦は草臥れた風に立ち上がった。隅に纏めておいたアスマの衣服と雑巾とを一緒くたに纏めて持ち上げる。来たときと全く同じ要領でお盆と衣類を抱え込んで、踵を返す。「いつもは地下で大人しくしてるのにねえ」忙しい家政婦は台所に向かいながらも口を閉じない。
「雨が降ってからずっとここでアスマさん待ってたでしょう。やっと来てくれて安心しましたよ」
 ああ忙しいとか言いながら、家政婦は座敷の奥に消えた。

『あなたは雨がふるとくるね』

 アスマは勢いよくトバリに振り向いて、ちまちまと白湯を啜る妹分を凝視する。
「……待ってたのか?」
「べつに」トバリは家政婦の失言を苦々しく思っているのか、僅かに眉を寄せた。「家にある本はみんなよみつくしてしまったし、ここは涼しい。フサエがかってにそう思っているだけ」
 舌足らずな声で否定される。ちょっとかわいい。
「アスマが雨がふるたびくるのと、わたしがここにいるのは何の“かんれんせい”もない」
 撫でようと伸ばした手をさっとよけて、トバリが念を押した。少し前までアスマの好き放題撫でたり引っ張ったり出来たのに、いつの間にか対人回避力に磨きが掛かっている。すごい。
 トバリはもう一度「まっていない」と繰り返してから、湯呑に口をつけた。ちまっと飲んで、膝に下す。湯呑を持ち上げる。「涼しい」ちまっと飲んで、膝に下す。湯呑を持ち上げて、ちまっと飲む。「あつい」膝に下す。忙しい。饒舌である。アスマはまじまじとトバリを見つめた。
 互いに何も言わないまま、雨音だけが夏の蒸した空気を震わす。

 アスマも疾うに冷めた白湯を啜って、先ほどまでトバリが眺めていた場所に目を遣った。
 雨が降ると、庭の荒廃ぶりが増して見える。多分どうにかしたほうが良いのだろうが、トバリはこの庭がどうにかなることを望んでいない。あの庭師以外の手でどうにかなることを。
 トバリはやたらと湯呑を上げたり下ろしたり、相変わらず白湯で唇を濡らす作業に勤しんでいた。視界は湯呑に落とされて、庭を見ている様子はない。少し前なら、トバリは必ず何かを見ていた。それが書物であれ庭であれ、トバリは“何らかの情報が詰まったもの”にしか関心を抱かなかった。それなのに今、トバリは庭も無視して、書物を傍らに置くでもなく、ただ顔を俯けている。決まり悪いのか、気恥ずかしいのか――何れにせよ、多分、アスマのことを考えているのだ。

 外の世界を知ってから、明らかにトバリは変わりつつあった。
 成長という名の、健全な変化。思考の煩雑化が進んで、トバリの心はもうこの屋敷のなかに留まっていることが出来ない。トバリの世界は、目に映るものの上っ面だけを見ていれば良い、そういう狭い世界ではなくなってしまった。本も木も、最早トバリの関心を得るには退屈過ぎるのだ。
 疾うに内容を覚えている本を、トバリは繰り返し読む。そして、少しでも長くこの縁側に居ようとする。もっと居心地の良い場所も、一緒にいて楽しい人も沢山思いつくだろうに、頑として自分の生活環境を変えようとしない。変えようとするものを厭う。変わろうとする自分を拒む。
 トバリが今決まり悪いのも、気恥ずかしいのも、アスマを待っていた自分が許せないからだ。
 そう思うと、面白いのか、嬉しいのか、かなしいのか、よく分からない。トバリが“変わりたくない”と思う理由が薄ら分かるから、そのまま変わってしまえば良いじゃないかと促す気にもなれなかった。この間はそうやって気楽に促した結果、思いっきり怒らせてしまったわけだが。

『ともだちが死んだきずは、なにがわすれさせてくれたの』
 もういない人の記憶が遠く仕舞われるのは当たり前のことで、ごく自然な変化だ。
 この子どもは、いつまで自分に“不変”を強いるのだろう。変わろうとしないのは……喪ったものを忘れないでいることは、生の傷口から血を流し続けるのと同じ。何もかもが鮮烈で生々しい。
 トバリがこの庭に手をつけないのは、庭師のためだ。アスマは知っている。そして、何が切っ掛けだったのか――父親も、それに気づいた。トバリは庭師のためにこの庭を守ろうとしている。
 荒れ放題のまま放っているのは庭の景観に興味がないからではない。寧ろ潔癖の嫌いがあるトバリとしては、今の庭は正視に絶えないはずだ。ただ、何もかもを庭師のために我慢しているに過ぎない。今日明日にでも庭師が戻ってくることを信じて、彼の居場所を守ろうとしているのだ。
 トバリ一人が変わらなかったところで、誰も同じところに留まってはくれないのに。
 
 トバリには知らされていないが、庭師は随分前から入院している。
 はじめは単なる腰痛だったけれど、些細なことで肺炎を起こして以来みるみる衰弱してしまった。丁度イタチに振り回されたり、思いがけず親戚付き合いが復活したりで多忙に過ごしてるから、“言わない方が良い”とちょっとした箝口令が敷かれている。多分、みんな、慌ただしさのなかで庭師のことを忘れてしまえば良いと思っているのだ。トバリにとって、今は一番大事な時だ。
 頑なだったトバリがようやっと外の世界に関心を持って、子どもらしくなってきた。
 もし庭師の現状を知ったら、トバリはイタチと会うことより庭師の見舞いに行くことを優先させるだろう。意識があるかどうかも分からない、あってもトバリのことを全部忘れてしまっている老い先短い老人である。庭師と会うより、イタチと一緒にいたほうがトバリのためになる。ヒルゼンも家政婦も、アスマも――誰も口に出さないが、三人ともそう思っていた。

 アスマは、庭師が心身共に健康だった頃を思い返した。
 トバリは晴れると必ず縁側に出る。古びた縁側に一人座り込んで、祖父の書物を読みふける。アスマが話しかけても、ヒルゼンが話しかけても、誰に対しても碌々返事もしなかった。
 可愛げ云々以前に、本当に血が通っているだけの人形のようだった頃である。そんなトバリに、あの老爺は庭仕事の片手間によく話しかけたものだ。返事もないのに陽気なひとだと、呆れ半分に感心した。しかし、ふと気づけば、この一年というもの、自分も同じことをしてきたわけだ。
 アスマがトバリに話しかけたのは、トバリに庭師を案じる気持ちがあると知ったからだった。それから幾らかめげそうになりつつ、殆ど独り言に近い会話を月に数度のペースで繰り返した。
 いつか自分に意識を向けてくれると思って話しかけた。何故トバリに会う頻度を増やしたかと聞かれれば、トバリの関心を得るためだった。その“見返り”は確かに与えられ、意識を向けるどころかアスマの来訪を待つまでになった。それは些細な偽善の成果としては十分すぎるものだった。
 あの庭師は何故、あんなにもトバリに陽気に話しかけたのだろう。アスマの知らないところで、彼にだけ与えられた見返りがあったのだろうか? アスマは薄灰色に染まった庭を眺めて、思った。このまま……庭師のことをトバリの耳に入れないままで良いのだろうか。


「このあいだ」
 不意に沈黙を遮って、トバリが口を開いた。
 はっと我に返ってトバリに振り向く。トバリは湯呑を“高い高い”であやすのに飽きたのか、それとも“お喋り”が案外楽しいものだと思ったのか、モニュモニュと口を動かしている。
「このあいだ、とても、すまなかった」
 脈絡のない謝罪に、アスマは目が点になった。くしゃっと半乾きの髪をかき乱して、思案する。
「……お前の謝罪を受けるべき案件が多すぎて、何のことかわかんねえんだけど」
「あの、この前来たときのこと」
 アスマは湯呑を床に置いて、考え込んだ。

 一番最近トバリの家に来たのは先週が最後である。
 中忍詰め所の帰りがけに、その付近をうろついていたトバリをピックアップして、ここまで送り届けた。ただまあ、途中でガイにとっつかまってしょーもない雑談につき合わされたり、トバリがガイのことを「かっこいい」と評したことで思いがけずトバリの美的感覚が死んでいることに気付かされたり、途中で紅が混じって来たり――本当になんやかんやあって、うっかりトバリの門限を大幅にオーバーしてしまった。三時間もオーバーした。大慌てでトバリを小脇に抱えた途端、案の定トバリを探しに来たヒルゼンに見つかってドチャクソ怒られたのは記憶に新しい。
 右を歩く父親にドチャクソ怒らながら送り届けた時のことが“この前来たとき”だろうか。

「クソ親父に“お前がついててなんでこんなに遅くなる”って、しこたま怒られた時のことか?」
「それは別にアスマのせいだから、ちっともすまなくない」
 そうか。お前がガイに気に入られなければ二時間は早く帰ることが出来たんだけどな。
 ふるふると頭を振って否定するトバリに、アスマは思った。そう思ったところで、そもそも二人の接点を作ったのはアスマである。ストレスMAXな父親の仕事を手伝う傍ら四時間以上も叱られたとはいえ、幼児に責任転嫁するのはよくない。トバリの言う通りだ。アスマが悪い。
 それにしても、木ノ葉の珍獣とまで言われるマイト・ガイを「かっこいい」と評したのは看過し難い一大事である。将来的にマイト・ガイみたいな彼氏を作ったらと思うと心底嫌だ。別にトバリが誰と付き合おうと義弟になるわけではないが、なんか嫌だ。ここは近々、カカシみたいなわかりやすいイケメンに会わせねばなるまい。もしくは今度の誕生日に美男写真集を贈ろう。
 トバリの謝罪について考えるのも忘れて、アスマはトバリの美的感覚矯正計画を立てた。


「『ともだちが死んだきずは、なにがわすれさせてくれたの』」
 悶々と考え込むアスマに業を煮やしたのか、トバリが思い切った風に話の核心を切り出した。

「アスマの友だちが、任務中に死んでしまっているの、そのことを知っていた」
「そりゃ……話した記憶があるからな」
 アスマはぽりと頬を掻いた。なんだ、あんなことを気にしてたのか。アスマにとってはその程度のことである。トバリの台詞で一々気分を害していたら、トバリとは付き合っていけない。それはそれで如何かと思うのだが、トバリの不興を買うことについては慣れっこなのだ。
 大体、もう一月近く前のことである。先週会ったんだから、その時切り出せば良かったものを――そこまで思って、はたと先週の顛末を思い出す。そうだ。トバリがもの言いたげにしてたタイミングでガイが「いいぞ、アスマ! 微笑ましい兄妹愛じゃないか!!」と鬱陶しい絡み方で混じってきたんだった。ガイと別れた直後に父親に見つかったりと終始騒がしかったので、結局トバリに「何でこんなとこをウロついてたんだ?」と聞かないまま別れてしまった。それっきり、中忍詰め所のあたりで出くわすことがなかったので「散歩でもしてたんだろう」と結論付けて、すっかり忘れていた。今にして思えば、多分、きっと……間違いなく、あの日のトバリはアスマと話をするためにあんな場所にいたのだ。しかしアスマの知人(ガイ)があんまりに話題をしっちゃかめっちゃか掻き回すものだから“外で話すと邪魔が入る”と学んだに違いない。あのヤロウ。そしたらクソ親父に叱られたのも、トバリが一月近く悶々としてたのも、雨のなかこんなとこでオレを待ってたのも、全部ガイのせいじゃねえか。アスマは正当な怒りを覚えて、頭を抱え込んだ。
 何にせよ、もう気にしてないから忘れろと告げる必要がある。ガイの粛清はその後で良い。

「自分のきずからにげたくせに」
 あのさ、トバリ――そう声を掛けるのと、トバリの独白は殆ど一緒だった。
「そう思いながら、『ともだちが死んだきずは、なにがわすれさせてくれたの』と言った」
 アスマの半分もない小さい体から、深くて、暗い、重たい呪詛が漏れる。
 言葉に詰まったのは、その言葉に込められた思いの強さにたじろいだからではない。本当は、今すぐにでも「そんな罪悪感を覚えることじゃないんだ」と否定してしまいたかった。でも、トバリが自分の感情を語ろうとしている。自分の心のなかで何があったか、アスマに分かる言葉で説明しようとしている。それを自分の一存で退けて良いのだろうか? そう思って、言葉に詰まった。
 トバリのなかにある罪悪感は、単にアスマが「もう良い、気にするな」と言って終わるものではないのだろう。そうしたら、トバリが嫌そうでも、苦しそうでも、可哀想でも、ああ口走った理由を最後まで聞かなければならないと思った。最後までちゃんと受け止めたいと思った。

「わたしはアスマのことをぜんぶ知っているわけではないのに、何もかも知った気になっていた」
 途切れ途切れに、トバリがあの日の自分が考えたことを吐き出す。
「わたしは、アスマとその友だちの間に何があったかつつきまわしたいわけではなかった。アスマが友だちとのことをどう“しょり”しようと、わたしには、そのことを引き合いにだして、えらそうにひはんするけんりはない。でも……ただ、わたしは、その……わたしは、」
 アスマの瞳の先で、トバリの小さな手がぎゅっと湯呑を押さえつけた。
 湯呑に触れる指先からは、色が抜け落ちている。すっかり冷めた白湯よりも冷たい指で、湯呑に縋っているようだった。「わたし、その」苦労しいしい、トバリが言葉を続ける。
「あの時、わたしは……わたしは、とても、アスマをいやな気持ちにさせたかった」
 アスマは、じっとトバリの話を聞いた。


 トバリが、自分に謝罪するため、その胸中をあけすけに語っている。
 一時は「この子には感情がないんじゃないか」とまで言われ、アスマ自身“変わった子ども”だと思っていた。忍者になって、里の為に尽くす。誰かに吹き込まれたのだろう思想以外、何の感情も持ち得ない子どもだと思っていた。体躯こそ年相応に小さく、その挙動もあどけなかったものの、アスマはこの子どもを可愛いと思ったことは、ただの一度もなかった。カンヌキが死んだときも「幼い以前に殆どネグレクトなんだから、何も感じなくて当たり前だよな」と思いつつ、涙一つ見せないトバリに「まあ、こいつが泣くわきゃねーか」と落胆した。今からこんなんで、どういう人間に育つのかなあ。そう他人事っぽく考えたのも、一度や二度ではない。

 アスマがトバリに会いに来たのは、義務だった。
 それが義務でなくなったのは“見返り”を期待したからだった。

『なにかのまなくては……センテイ、おまえがこわれてしまう』
 一年前のあの日、トバリは一人ぼっちの孤独を他人を心配することでしか表せなかった。
 これから、この子どもはこの屋敷のなかで何を思って暮らしていくのだろう。もう二度と誰も帰ってこない場所で独りぼっち。それがどれほど寂しいのかアスマには見当もつかなかった。
 多分他人からは善良なものに見える“下心”と、この子どもの感情を見落とし続けた“罪悪感”――そして「自分が気付いたことに自分以外の誰も気づいていない」という“使命感”。その三つが合わさって、トバリの無表情にめげずに会いに来た。庭師の代わりに、自分が話しかけようと思った。
 話しかければ、いつかトバリも普通の子どものようになるかもしれない。
 怒ったり、笑ったり、泣いたり、詰まらない口論で拗ねることもあるだろう。

 いつか、きっと、変わってくれる。

「あなたを、きずつけようと思った。それで、一番、あなたが言われていやなことを、考えた」
 一言一言、トバリは重すぎる罪悪感を口に食む。
 嬉しいわけでも、楽しいわけでもない。他人への罪悪感だけが、この子どもに胸中を語らせる。“もう良い”と遮りたくなるのを堪えて、アスマは床についた手を固く握った。
 これがアスマたちの望んだことだ。普通の子どもらしく、ちゃんと何を考えているか分かるようになってほしい。喜怒哀楽、自分の感情を表に出すようになってほしい。言葉にしてしまえば呆気ない望みを実現するためにどれだけの痛みがあるのか、アスマは分かっていなかった。

 客観的に見て、この独白が善い兆候なのは明らかだ。
 トバリは自分の感情を口にすることに慣れなければならない。トバリの感情を引きずり出すには“怒り”や“罪悪感”を利用するしかない。トバリは自分の感情が何か分からない。その一つ一つに名前をつけて知覚させるには、負の感情で不安にさせるのが一番手っ取り早い。意図的に作り出した負の感情を薄れさせることで“安心”を覚え込ませるのが……そうするしかなかった。
 アスマは“外へ行け”と言ったのを後悔するわけでも、“やっぱり行かすのではなかった”と思っているわけでもない。トバリは外へ行くべきだった。こうやって自分の感情を口にするのも、トバリには必要な事だと思う。でも、本当は、もう良いよと言ってやりたい。ふつうの子どもらしくなることに何の価値があるのかと思う。こんなに苦しむなら、ふつうの子どもになんかなることない。ずっと無表情で、何考えてるのか分からないままで良い。外になんか行かなくって良かった。

「あ、その、だから、だから――」
 ぱくと開いた口が、何も紡がない内に閉じられる。

 声が詰まって、何も話せないのだ。アスマには分かった。
 トバリだけが分からない。自分の喉をさすりながら、不思議そうに小首を傾げる。その様はあどけなくて可愛い。何も知らない小鳥か子猫のようで、泣きたいぐらいに悲しい。
 いつも、そうだ。同い年の子どもが当たり前に知っていることや、出来ることが、トバリには出来ない。トバリのせいではないのに、誰が悪いかはっきり分かるのに、もう過ぎたことだから誰にも責任が取れない。そういう理不尽な現実を理解するよう、まだ四歳の子どもに強いている。
 トバリのためだ。必要なことだった。きっと、いつかトバリも分かってくれる。どの道、いつかは外に出なくてはならなかった。手遅れになる前に、他人の輪に溶け込むことを覚えたほうが良い。自分の考えは正しいと語るなら、アスマはもっとトバリに構ってやるべきだったのではなかろうか。毎日会いに来れないなら、下手な口出しは無責任だったのではないか。
 トバリに関わる人間は、皆無責任だ。今更トバリをチヤホヤし出した千手の奴らも、トバリの扱いに困る家政婦も、忙しさ故にトバリを放ったらかしにする父親も、みんなアスマと変わらない。

『ともだちが死んだきずは、なにがわすれさせてくれたの』
 それをトバリの“精一杯の甘え”だと思ったアスマの考えは正しい。
 でも、そうと分かっていたのなら、もっと違う形の――トバリが何の罪悪感も抱かないで済む方法で甘えさせることも出来たのではなかろうか。少なくとも、こんな風に謝らせない方法があったはずだと思う。ないことは分かっているのに、心から納得することが出来ない。
 トバリと一緒にいると、もっと出来ることがあったのではないかと思う。もっと、色んなことをしてやりたかったと思う。本当に、自分の思いはトバリのためになっているのだろうか。

 トバリはまだ口を開いたり閉じたり、何か言おうと試みている。
 アスマの目には息をするのも苦しそうに見えるのに、まだ言いたいことがあるらしい。本当に、これ以上、声が詰まって何も言えないトバリの言葉を待つのが正しいのか。アスマは自問する。

 答えは出ていた。


「……オレや親父の都合で、あれしろこれしろ振り回されて腹立つよなあ」
 アスマは笑った。トバリの頭に手をかざすと、その体がビクと強張る。その緊張に気付いていない風を気取って、トバリの頭をぶっきらぼうに撫でる。人形みたいに小さい頭だ。
「外に出て、嫌なことあっただろ。本当は、行きたくなかったよな」
 他人に関わることが苦しい。他人に溶け込むことが出来ない。同調することが出来ない。
 外に出ることで、自らの“異常”を眼前に突きつけられる。それでも、この子どもには必要なことだった――そう擁護するのと、その苦しみに気づこうともしないのはまた別の話だ。
「お前、ここで静かに本読んでるのが好きだし……イタチと一緒にいる時も、まあ八割お前が振り回されてるなっての、分かる。オレや親父はすぐ好きか嫌いかで聞くけど、お前にとってはイタチが好きとか、そうじゃないとか、それ以前の問題なんだよな。自分が否定したり拒絶することで『トバリに好かれないなんて、イタチは嫌な奴なんじゃないか』って思われるのが嫌で、イタチのことを良く言ってるだけなんだろ? そこに、お前の本心はないんだよな」
 やや躊躇してから、トバリはこっくり頷いた。アスマの手を頭に乗せたまま、コクリコクリ、何度も頷く。多分、どっちかといえばイタチのことは好きじゃないんだろう。アスマは苦笑した。
 同属嫌悪と言うのだろうか。確かにイタチはトバリと似ているのだけど、いかんせんトバリよりずっと気が強い。それを、アスマは“イタチがトバリの意志を無視しているからこそ二人の関係が続いている”と自らに言い聞かせてきた。よく考えなくとも、トバリが自分を振り回す奴のことを嫌だと思っていないはずがない。つい最近まで週一で顔を見せにくるかどうか程度のアスマにさえ我慢ならなかったトバリである。毎日毎日イタチに振り回され、急に顔を出すようになった親戚一同に気を使い、ヒルゼンに気を使い――そりゃ、そんだけ切羽詰まってればキレるわな。

「こんなこと言うと、また親父にどやされるだろうけどさ」
 アスマはトバリの頭から手を下ろして、体ごとトバリに向き直った。
 ちょっと体を屈めて、自分よりずっと低いところにあるトバリの顔を覗き込む。トバリの瞳に、アスマの姿が映っていた。鏡のように無機質な像ではなく、トバリの瞳越しに見た自分の姿だと思った。見慣れた顔。“困っちゃうよな”と、カカシや紅たちに笑いかける時の打ち解けた苦笑がそこにあった。トバリに、自分の姿が打ち解けて親し気に見えていることを祈った。
 トバリも手にしていた湯呑を脇に下して、膝に手を置く。“良い子”の清聴ポーズだった。
「お前は、何か嫌なことあっても泣きつける誰かがいないんだもんな。なのに嫌なことだらけの外に放り出されて、オレも親父も、お前の気も知らずに、お前に無理させて喜んでた」
 あどけない視線が、アスマの瞳を真っ直ぐに見上げている。
「お前がオレにやり返してやりたいって思うのは、悪いことじゃない。そりゃ、誰彼構わず嫌な気持ちにさせたいってならちっと問題だけど、お前はそういう奴じゃないよ」
 アスマはふーっと深呼吸して、肺の中にたまった息を吐き出す勢いまかせに言葉を続けた。
「お前に嫌なことを言わせたのは、オレだと思う。本当に……本当にごめんな」
 トバリはぱちりと目を瞬かせる。そうしてから、いつものように小首を傾げた。小鳥みたいに。


「イタチに、弟が産まれる」
 短い沈黙を挟んで、トバリがよくわからない話題を切り出した。

「は?」
 思わず呆気にとられる。何故今、イタチ一家のおめでた話になるんだ。
 トバリはアスマの困惑などどこ吹く風で「今月末らしい。もう入院している」と付けたす。
「あ、へえ、あ、そっか」気のない相槌を打ちながら考えた。わからん。よくわからんので、アスマは笑って誤魔化すことにした。「すげー、こう……めでたいわ。無事、安産? だと、良いな」
 トバリがこっくり頷いた。そうだろう、そうだろう。そう言いたげな頷き方だった。
「まだミコトさんのなかだけど、わたしの声は聞こえているとおもう。わたしもそうだった」
 わたしもそうだった、というのは如何いう意味だ。ごく稀に胎児だった頃を記憶したまま長じる人間がいるとは、アスマも知っていた。胎児だった頃の記憶があると主張する友だちに「ありえねーよ」と茶々入れしたのも懐かしい。しかしトバリがそう言うのであれば、トバリは本当に胎児だった頃を覚えているのだろう。その場の勢いで“ありえねー”などと決めつけた上、スピリチュアル野郎と仇名して本当に申し訳なかった。アスマは深い罪悪感を覚えて、心中で深く反省した。
 アスマの個人的な反省などお構いなしに、トバリは膝に置いた手をパタパタ弾ませる。
「その子に、わたしが考えた名前をつけてくれるのだって。サスケ。アスマのおじいさまにあたる猿飛サスケから取った――無断だったけど、さるとびせんせいはとても喜んでいたし、フガクさんも良い名だと言っていた。きっとアスマのおじいさまのように、色んな一族の架け橋になる」
 落ち着きのない様子で喋るトバリに、アスマはスピリチュアル野郎のことも忘れて驚いた。
 トバリが人名に興味を持つとは思わなかったし、そんなにまともな考えのもと名前を付けるとも思っていなかったからだ。もっと言うと、アスマの祖父が誰か知っているのも意外だった。

「色んな一族と仲良くしたら、どこへいっても受け入れられるし、何があろうと一人にならない」
 とても満足そうに、トバリが呟いた。

「一人にならないのは良いことだ」
 心なしか、トバリの瞳がキラキラ輝いている気がした。
「名前をつけることで、その子の将来がこうなったらいいとか、ああなったらいいとねがうことができるのは、とてもすごい。その子が生きてるかぎり、その名前で呼ばれたり、名のりつづけることで、ずっと、ずっとその子が良い人生を過ごせるようねがったことがのこりつづける。すごい」
 トバリの上ずった声が、早口に捲し上げる。小さな手がトットッと、膝の上でリズムを刻む。
 アスマはごくりと喉を鳴らして、トバリの語り口を見守った。幼い仕草に、あどけない喋り方だった。それはふつうの子どもの仕草で、ふつうの子どもの喋り方だった。
「わたしがはなしかけると、ぽこんとミコトさんのおなかをける。サスケはとてもかしこい」
 やさしく、真綿で包み込むようにして、トバリは「サスケはあたまがいい」と言い直す。本当に丁寧な口調だった。多分、そいつはまだ知能は芽生えていないし、芽生えたところでお前のほうが頭が良いと思う。口から出そうになった本音を呑みこんで、アスマは頷いた。
「イタチやフガクさんにするみたいに、わたしにもへんじをくれる。やさしい」
 まだ産まれてさえいない“サスケ”について、トバリは訥々と話す。
 こんなに嬉しそうなトバリを、アスマは初めて見た。それは、あたかもトバリ自身に弟が産まれるかのような喜びっぷりだった。あどけない高揚感が、言葉の端々に満ちているのが分かる。
 アスマは言い知れない感情で胸が詰まるのを自覚した。握ったままの手をきつく、短い爪が掌に食い込むまできつく結ぶ。そうしなければ、大人気ない台詞で水を差してしまいそうだった。


「これからわたしに何があろうと、たくさんの人がわたしのつけた名前をいとおしんで呼ぶ」
 トバリがぽつんと独り言ちた。耳朶を撫でる祈りに、アスマは遂に俯いた。
 
「……あの、」
 アスマの異変に気付いたトバリが、困りきった声を出す。
「アスマが言うように、あの、行きたくないと思ったのは、たしかにそう思ったけれど、でも……」もう雨も止んだのに、床の上で冷たくなった拳にトバリが手を伸ばす。小さい指がアスマの手を撫でた。「でも、いやなことばかりだったわけではない。本はよみつくしてしまったし、ここにいるよりずっと色々なことを知って、知らないことばかりで面白いとも、なんども思った」

 トバリと一緒にいると、もっと出来ることがあったのではないかと思う。
 もっと、色んなことをしてやりたかったと思う。
 本当に、自分の思いはトバリのためになっているのだろうか。
 ふつうの子どもらしくなることに何の価値があるのかと思う。
 こんなに苦しむなら、ふつうの子どもになんかなることないんじゃないか。
 ずっと無表情で、何考えてるのか分からないままでいたほうが楽だったんじゃないか。

 ただ辛くて、苦しいだけなら、外になんか行かなくって良かったのに。

 小さな手がアスマの手を撫でる。
「わたしがいやなことを言ったのは、あなたのせいではない」
 アスマの手の甲をこする手は、小さいなりに温かい。細い指の先までちゃんと血が通って、生きた人間の柔らかい皮膚に覆われていた。これから少しずつ大きくなっていく掌だった。
「外へ行ってよかった。ありがとう。いやなことを言って、ごめんなさい」
 アスマはトバリが触れていない方の手で、大あくびを隠すように口元を覆った。頬を掻く要領で目じりを擦る。何度も何度も頷きながら、アスマは潤む目元を擦った。

 この子どもは、頭が良い。
 自分の求めるものを前にして、トバリは自分が真に望んだものが何だったか気付いただろう。
 優しい母親と逞しい父親に差し挟まれ、その二人の愛を受けて育った兄に誕生を心待ちにされる――アスマにも、幼心に覚えのある多幸感と安心感。屈託なく安心できる居場所。トバリが知らないもの。トバリに与えられなかったもの。一生知らないでいたほうが傷つかずにすんだもの。
 誰もが皆、悪意なくこの子どもに見せびらかす。お前は孤独で、この世界のどこを探してもお前を愛してくれる家族はいないのだと。この子どもはまだ、全ての理不尽に怒って、泣きじゃくっても良い年齢だ。それなのに、自分より十も年上のアスマが泣きたいのを見透かして慰める。

 お前が悪いことなんて、この世界にはまだ何一つないのに。

 イタチの弟、サスケは家族全員に望まれて、これからこの世界に産まれてくる。
 まだ顔も見ぬ弟や息子に思い馳せ、祈りを込めて名前をつける。その団欒が何なのか理解した瞬間、賢いトバリは“自分がサスケのように屈託ない愛情に取り囲まれることは永遠にあり得ない”と悟ったに違いなかった。そうと理解した上で、トバリはサスケの誕生を待ちわびている。
 トバリは自分が欲しかったものを、他人に与えることにしたのだろう。そうでなければ、自分が持たざるものを全て持って産まれてくる子どもを祝福することは出来ない。
 この子は頭が良い。賢く振る舞う他ない環境で育ったから頭が良いのだと、嫌になるぐらいそれが分かる。今アスマが抱きしめても、トバリの飢えは満たされることがない。アスマの存在で満たされるぐらいなら、最初から「アスマのせいではない」なんて言わない。

 愛や家族の情に餓えた人間は決して珍しくない。
 それが不幸に直結するわけではないと、アスマは知っている。人間は逞しい。どんな過去があろうと、それぞれに幸福を得ることが出来るものだ。きっとトバリも大きくなったら、子どもの頃の孤独など忘れてしまうだろう。父も母も知らないけれど、そんな不幸はありがちで、今思えば取るに足らないものだったと結論付けるに違いない。些細なことだ。トバリだけが特別不幸なわけではない。いつか忘れる。そう分かっていても、アスマは納得することが出来ない。
 なんで、こんな頭が良くて、他人に謝ることが出来る子どもを溺愛する両親がいないんだろうと思う。トバリが代償行為を通してしか無償の愛を知る術がない現実が堪らなく悔しい。
 サスケのことを語るトバリが一切の嫉妬を抱いていないのが苦しい。


「ほんとうは、ちょっぴり怒っているのだろうか」
 アスマの手を撫でながら、トバリが恐る恐る口にする。
「ちげーよ」アスマは何とか声を絞り出して、口元を歪めた。「いやもう、ほんと、オレがクソ親父に叱られてる横で平然と夕飯食ってた奴とは思えねー成長だと思って……感涙しちゃったね」
「わたしはちゃんと、なんども帰ろうと言った」
 ガイさんと楽しくしゃべっていたあなたは気付かなかったかもしれないが。
 トバリがむっと、心底不服そうに言葉を続けた。一体どこの誰さんがガイと喋るのを楽しんでいたと言うのか。あんなの、ガイの有り余る闘志をカカシに押し付けるための茶番に過ぎない。
 ビッと親指を立てた友人の白く輝く歯を思い浮かべると、不思議と一気に頭が冷える。サンキューな、ガイ。全ての感情が拭い去られていくわ。それは果たして良いのか悪いのか、兎に角アスマはガイのことを腹パン一発ぐらいで許す気になった。ふーっと、長い溜息をつく。
 トバリは両手を膝の上に戻して、アスマの挙動を見守っている。

「あのさ、」

『わたしがいやなことを言ったのは、あなたのせいではない』
 何十回でも、何百回でも、ただ口にすればトバリの心に届くなら、アスマは紅にするように食って掛かって、勝気に否定しただろう。馬鹿、お前のせいじゃない。如何して、そう大人びた考え方をするんだ。まだ四つの子どものくせに、何でもかんでも手あたり次第他人のせいにして、ストレスフリーに生きて行けよ。お前ひとりぐらいなら、ガキのオレでもちゃんと甘やかせるだろ。
 どうして、そうやって、周囲の人間に頼ろうとしない。そりゃ血の繋がりもないし、毎日会いに来るどころか月に数回会いにくるのが関の山っていう無責任な知り合いだけど、それでも、

「……お前も、お前だって、サスケと同じに産まれてきたんだぞ」
 アスマの言葉に、トバリは身じろぎ一つしない。
「母親のおなかのなかいる時は、みんな、お前が産まれてくるの待ってたんだからな。四年も先輩なのに、そうやって、自分が経験済みのことで一々驚いて如何する」
 安っぽい慰め文句だと馬鹿にされるだろーか。そう思ったけれど、アスマを見上げる瞳はあどけないままだった。トバリの唇が無音に動く。……も? もう一度、かすかに動いた。アスマは身を乗り出して、トバリが何て言ったか聞き返そうと――刹那、アスマの鼓膜が微細な振動を伝える。

「アスマも?」
 消え入りそうな声で、トバリが聞いた。

 聴覚がその問いを認識した途端、アスマは言葉を失くしてしまった。
 アスマも? お前も、サスケと同じに産まれてきたんだぞ。みんな、お前が産まれてくるの待ってたんだからな。その台詞を受けての問いだった。それが如何いう意味を持つか考えることも出来ず、アスマは口元に手を当てる。トバリにとって、それはどれだけ重たい問いかけだったろう。
 分かり辛い聞き方だったと思ったのか、トバリは俯いてしまった。
「その、だから……わたしが産まれる前に出会っていたら、アスマはどう」
待ったよ! 待ったに決まってるだろ!!
 アスマは目じりに溜まる熱を拭いもせず、吼えた。
「お前が産まれてくる前に出会ってたら、ぜってー年が離れた妹が生まれるみてーに毎日楽しみに喋りかけたよ。健康に産まれてこいよとか、たくさん友だち作れよとか、妹ってのは年頃になったら男兄弟を邪見にするらしいけど、お前はそうなるなよとか……もうほんと、オレ、お前がウンザリするぐらい喋り掛けて、お前が産まれてくるまで待ち切れなかったに決まってる」
 あとからあとから零れる涙を拳で拭って、アスマはぐっと唇を噛んだ。

「オレは、お前がサスケを待つのと同じに、それよりずっと楽しみにお前のことを待ったよ」

 アスマの涙を見つめるトバリは、いつの間にか見慣れた無表情に戻っていた。
 サスケのことを話していた時が嘘のような無表情。でも付き合いの長いアスマには、トバリが何も感じていないわけではないと分かっている。顔には出ないけれど、トバリは沢山のことを考えている。話しかければちゃんと届く。優しくされれば、それが分かる。嬉しいと感じる心がある。
 アスマの前にいるトバリは、親戚の前にいる時とも、ヒルゼンの前にいる時とも、イタチの前にいる時とも違う。ちゃんとアスマ個人を見て、出来る限りの誠実さで応じようとしている。トバリにとって、アスマが特別だからだ。アスマの気持ちを理解しようと努めてるからだ。
 アスマには、一年前から分かっていた。この子どもにはちゃんと人の気持ちが伝わる。ただ、壊れやすいものしか知らないから、他人に関わることを恐れているだけなんだと知っていた。
 もし自分がトバリの親だったら、死んでもこんな家に一人で置いてったりしない。トバリのことを妹のようにも、娘のようにも思った。トバリを顧みないまま死んだカンヌキの気が知れない。折角、こんな頭が良くて可愛い子どもに“父さま”と呼ばれるチャンスだったのに、馬鹿なひとだ。
 アスマだって、馬鹿だ。もっと早く、トバリの可愛げに気付くことだって出来たのに、可愛いと思うまで四年も掛かった。そうしたら“兄貴分”じゃなくて、実兄ぶることだって出来ただろうに。

 台所から、豆乳の青い匂いが漂ってくる。
 最近のトバリが汁物しか取らないとはしっているけど、まさかアスマの分も汁物オンリーなのだろうか。その可能性は大いにある。目じりを擦って目を乾かしながら、アスマは危ぶんだ。
 トバリは案の定思案気味に俯いていたが、アスマの視線を追って顔をあげた。
 ふんふんと鼻を動かしてから、アスマの顔に視線を戻す。「こけいぶつもあると思う」そりゃ良かった。しょーもない気持ちになって、アスマは頷いて見せた。


「わたしたちは、やっぱり、ここで出会って良かったんだな」
 軽い口ぶりで、トバリが呟く。一度雑談を挟んだことで、それは本当に軽い結論だった。
「……お前、それは、遠まわしにオレの話に付き合わされるのはウンザリだっつってんのか?」
 アスマは涙の痕がのこる頬を引きつらせた。一気に可愛げの失せた妹分を睨む。
「ちがう、いや」トバリは僅かに顔を俯けると、小首を傾げて思案した。「どうだろう?」
 トバリは先ほどまでの張り詰めた雰囲気を和らげて、チラリとアスマに流し目をくれる。アスマには、自分を映すトバリの瞳が悪戯っぽく瞬いた気がした。
「もしかすると、アスマの言うとおりかもしれひゃ、ひゃいふぁ、いひゃい」
「ばーか。年上をちゃんと敬わないバツだ」
 アスマはまるで可愛げのない妹分のほっぺを摘まんで、本心から笑った。


『これからわたしに何があろうと、たくさんの人がわたしのつけた名前をいとおしんで呼ぶ』
 トバリは、自分の力で、自分の幸福が何か定めようとしている。
 それをアスマが勝手に他人の幸福と比べて劣っていると思うのは身勝手なことだ。

 自分の可愛い妹分が誰より幸せであって欲しいと思うのは――本当に、本当に身勝手な愛情だ。
解夏の雨
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