隠れ里において、下忍時代に同班だった仲間は生涯の友と言われる。
 何故と言えば中忍試験に受かるまでは、どんな任務であろうと班単位で受けなければならないからだ。必然的に、同班の仲間と過ごす時間が増える。三人で詰まらない任務の合間に雑談したり、仲間の成長に触発されて切磋琢磨し――やがて中忍に相応しい経験と実力が備わる。
 と、まあ、それが“スリーマンセルの理想形”だった。飽く迄理想である。
 一般的に語られる“同班の絆”を実現させる班は、一期に一班あれば良いほうだ。班員全員が中忍になることで“円満解散”する班より、やむを得ない理由で解散を余儀なくされる班のほうがずっと多い。後者は俗に“自然消滅”と言われるが、大戦の影響もあってかここ数年は増加傾向にあった。
 一班に一人の上忍師が配属されているとはいえ、下忍の死亡率はそれなりに高い。
 人材不足故に、腰を据えて下忍を育てるゆとりもなく、個人の能力次第で下忍にA・B相当の任務を委ねることも決して珍しいことではなかった。依頼者の嘘や勢力図の変動によって、意図せず苦境に陥ることもままある。下忍とはいえ、忍者である以上は弱肉強食が大原則。そうした“現実”を目の当たりにして、志半ばで忍者資格を放棄する者は少なくなかった。

 シスイも、トバリとのツーマンセルに至るまで三度の“自然消滅”を経験している。
 最初の仲間は皆死んでしまったし、次に入った班はシスイ以外の二人が同時期に忍の資格を放棄した。その後すっかり“補てん要員”扱いであちこちの班を手伝わされたため、三番目の班が結成される頃にはシスイ自身が投げやりな気持ちになっていた。そういう無気力さで適当に合わせている内になんやかや、なんか、気付いたら解散してしまっていた。確か一人はシスイに先んじて中忍になり、もう一人は任務中の負傷が切っ掛けで医療従事者に転身したんだったと記憶している。
 勿論、下忍時代最後の班、トバリとのツーマンセルにはそこそこ思い入れがあった。
 あったけど、結成した年の中忍試験で二人とも中忍に昇格してしまったので――いや、中忍になりたくなかったわけじゃないのだけれど――超速で解散した事実を踏まえると“十分に同班の絆を育んだ”とは言い難い。“別に……同班だったけど……それが何?”という感じである。
 なんだか虚しい。虚しいけど、これも天運である以上仕方がない。シスイと違い、“同班の絆”に一切の憧れを抱かないトバリは平然と「君は妙なところでロマンチストだな」と侮辱してくれる。名実共にトバリの“生涯の友”になりそこねただけ、シスイは運がいいのかもしれない。


 生涯の友でない代わりに腐れ縁で結ばれた二人は、現在も同じ小隊に属している。
 尤も、同時に中忍に昇格し、同じ小隊に属しているとはいえ、二人の立ち位置はまるで違った。シスイは火影直々に頼まれて、難度の高い個人任務に就くことが少なくない。一族の内外を問わず“千手の雛飾り”と揶揄されるトバリと違い、中忍として実力ともに申し分ない人材だと評価されている。事実シスイはまだ十一歳の子どもではあるが、既に上忍昇格の話が二回も出ていた。
 誰をいつ上忍にするか――上層部の人間しか知りえない情報を何故シスイが知っているかと言えば、話は単純極まりない。三代目火影その人に、上忍昇格の件で呼び出されたからだ。
 小康状態にある現状、あまりに早い上忍昇格は多少の面倒事が付いて回る。既にトバリの中忍昇格に際してかなりの面倒に悩まされたヒルゼンだからこそ、実績や適性だけでなく、シスイ当人の意向を踏まえて考える気になったのだろう。シスイはヒルゼンのことを、里の庇護者としても、トバリの保護者としても信頼している。一応上役たちの体面に配慮して“有難い申し出ですが”と恐縮してみせたものの、“勝手に上忍にされなくって良かった”というのが本心だった。

 トバリもイタチは既に中忍として十分すぎる実力を有している。
 彼らは客観的に見て、体術も、剣術も、忍術も、投擲術も――全てにおいて、並の中忍に勝っていた。それにも拘わらず、一方は周囲の贔屓故に「コネで中忍になった」と言われ、もう一方は担当上忍の低俗さ故に中忍試験を受けることさえ許されない。あまりに馬鹿馬鹿しい現状だった。
 シスイは二人の友人である。友が侮辱されたり、理不尽な扱いを受けていると、当然腹立たしく感じる。しかし、だからと言って声高に現状を否定するのは愚かしいことだ。寧ろ年下の友二人が上手く立ち回れない分、シスイは“自分までもが過度に目立つわけにはいかない”と考えていた。
 そういう思いから二度も辞退したものの、本心を言えば上忍になりたい。
 上忍になれば小隊の指揮を執ることも不可能ではないし、今よりかずっと発言力が増す。指揮を執れないまでも、二手に分かれて行動する際のパートナーを選ぶ権利ぐらい出るはずだ。
 シスイは、下忍時代同様にトバリと組んで任務にあたりたかった。しかし大人の上忍二人、十一歳の中忍と八歳の中忍という構成で、当然上忍と中忍という分け方になる。それだけならまだしも、シスイの属する小隊の隊長はトバリを戦闘要員として認めていない節がある。別に、悪意があるわけではない。寧ろ彼にトバリと同い年の娘がいるあたり、好意に近いのだろう。
 仕方のない流れで、トバリには“罠の設置”や“一般人を相手取った情報収集”とか、危険が少ない代わり最高に詰まらぬ仕事ばかりが回される。何なら護衛対象の話相手をするだけで終わる時もある。トバリは「中忍になるってことは他人にパシられることだ、それがよく分かった」とぼやいているが、彼女なりに仕方がないと思っている風だった。だから、トバリが下働きばかりで可哀想ということではない。トバリの負担がゼロに近い分、全てのしわ寄せがシスイに来るだけの話だ。

 大体――死んでも口に出したりはしないが――隊長含め上忍二人とも足手まといなのだ。
 フォーマンセル編成の小隊で、一番意思の疎通が成り立つトバリは戦力外と見做され、残る二人は上忍なのが嘘ではないかと思うほどに鈍臭い。よくトバリのことを“お人形さん”などと馬鹿にする大人がいるが、もっと不正昇格を疑って然るべき人材が他にいるのではなかろうか。
 よくわからん指示と任務内容とをすり合わせながら、シスイはひたすら苛立つ。何故まだ十一才の自分が“下の立場から足手まといを動かす方法”と“自分が取るべき最善の選択肢”なんてものを考えなければならないのだ。トバリも幾らか手伝ってくれるけど、根が無神経だからあまり役に立たない。昔は「やたら無神経だなんだと馬鹿にされて可哀想だな」と思うこともあったが、トバリはそれで良いのだ。普段から無神経だと馬鹿にしてる相手が無神経なことを仕出かしたところでキレる大人は少ない。増して相手は八歳の子どもだ。トバリは自分がある程度の無神経を許されているらしいことは察しているが、シスイがそれと同じことを仕出かしたらドン引かれることは分かっていない。よって、トバリのアドバイスは作業BGM程度に受け止めておくのが一番良い。

 隊長の指示や作戦に穴を見つける度、シスイは戸惑いに似た“飢え”を覚える。
 トバリを好きに使えたら――ここにイタチがいたら、あの二人とのスリーマンセルだったら――そうしたら、きっとS級任務だって楽々こなせる。シスイにはそういう自信があった。
 任務の過酷さが増してチームワークを求められれば求められるほど、シスイは自分の頑なさに気付かされる。表向き明るく振る舞ってはいても、新しい仲間に心から打ち解けるようとせず、慣れ親しんだ友二人と比べる癖がついていた。時々、そんな自分が嫌になる。精神的疲労で十分に実力を発揮できないのも嫌だったし、仮にも同じ隊の仲間を軽んじる気持ちがあることも嫌だった。
 数々の懊悩から逃れるためにも、シスイは早く上忍になりたくて堪らなかった。上忍になれば、少しは何か改善される――そう信じた。今のシスイには未来を信じる他に、胸奥のフラストレーションに耐える術がない。自分の周りだけ、空気中の酸素濃度が乏しくなっているようだった。
 早く上忍になりたい。時々、シスイはどうしようもない焦燥感に悩まされた。
 大戦の傷がもとで敗血症に苦しむ父親、そんな父親の介護に明け暮れて疲弊しきった母親、自分の誇りであるうちは一族、幼い頃に屈託なく憧れたもの――そして年下の幼馴染たち。
 自分の愛するものを守るため、誰よりも早く大人になりたかった。


 今年の秋でシスイは十二歳になる。
 十二歳で上忍昇格した忍者はそう少なくない。戦時下ではあるが、シスイの七歳年上にあたるはたけカカシが上忍になったのも十二歳の時だった。大戦集結後もシスイが知っている限り三人、表に出ないだけで水面下ではその倍もローティーンの上忍がいると言われている。何の後ろ盾もないシスイが前例に倣ったところで、トバリやイタチほどには目立たないはずだ。
 次に上忍昇格を打診されたら、シスイは素直に応じるつもりでいた。


 早いもので、第三次忍界戦争終戦から五年近く過ぎていた。
 主な戦争相手だった岩隠れとは休戦協定を結び、元々便乗する形で参加していただけに過ぎない周辺各国も落ち着いた。雨隠れの里は何か革命組織によるクーデターがあるとかないとか噂になっているものの、今のところ彼の里の長・半蔵は健在だ。中忍とはいえ殆ど末端に近いシスイには会談内容までは知りえないが、雨隠れへの外交方針に変化がないあたり、革命組織の存在についてははっきり否定したに違いない。真偽のほどが定かでないにしろ、自分たちで事の収拾を図るなら、雨隠れの実情などシスイにとっては如何でも良かった。雨隠れだけではなく、土の国も、川の国も、風の国も……シスイは己が一族の暮らす火の国以外には然したる関心を持っていない。
 平和であれば言うことはないけれど、“世界が平和でありますように”なんて願うのは幼児か、よっぽど浮世離れしたバカぐらいのものだ。困ったことに、シスイの友だちにはそんなバカが一人いる。親愛なるバカことイタチは、他国の内情に一々心を痛めて“如何にかしたい”と思っている。
 それだけでもう困ってしまうのに、更に如何しようもないことには、イタチは本気で如何にか“世界平和”を実現させたいと思っていて、既に自分たちが毒されているのか何なのかわからないけれど――シスイもトバリも、“こいつならそれが出来るんじゃないか”と期待してしまう。
 イタチには忍才に満ち溢れ、努力を惜しまぬ根気強さも、知性も、容姿までもが優れている。
 他人が口にしたらただ稚拙なだけの台詞も、イタチの唇から紡がれると、もう本当に“クラッ”ときてしまう。オレはこの世界を変えたい。そうイタチから語り掛けられて「バカな奴だ」と切り捨てられる人間がいるだろうか。そりゃ、シスイもトバリも友の博愛癖に肩を竦めて「本当に困ったやつだ」と茶化してみせる。一応“ポーズ”として呆れて見せるが、内心ではイタチにメロメロだ。
 シスイたちは、如何しようもないほどイタチの大望に魅せられていた。何千何万といる忍者のなかで、たった一人イタチだけが夢を見せてくれる。その、何より輝かしい“夢”を愛した。


 シスイとトバリにとって、イタチは特別だった。

 イタチの“唯一性”を何と言って表現するのが妥当だろう。
 彼を“才能のある若い忍”と評するなら、シスイとトバリだってそうだ。
 シスイもイタチもトバリも皆それぞれにシンパがいて、その将来を嘱望されている。
 トバリは千手一族をはじめとする上役連に気に入られていたし、シスイは同期のみならず中間管理職を務めるような上忍たちに可愛がられていた。そしてイタチは、こう……なんというか、女子人気が凄まじかった。まだ八歳のくせに、イタチはとても女子に人気があった。ついでにうちは一族の期待の星でもあった。“ついで”で済ませて良いのかとも思うが、兎に角女子人気が凄いのだから仕方ない。何なら忍者を辞めても“その道”で食っていけるのではないかと思うぐらい人気があった。あまりの人気に、トバリはドン引きしてる。女子に囲まれて困惑するイタチに遭遇しても、彼を助けるどころか、遠巻きにハンドサインで「自力で頑張れ。お疲れさん」とだけ送る始末だ。勿論、その戦略的撤退はイタチに「お前は何につけ薄情だ」と避難されるに十分だった。
 女子たちに「イタチくんと仲良しだなんて!」と嫉妬されて嫌だとかならまだ分かるが、トバリとイタチが幼馴染かつ互いの性別を理解していないのは周知の事実である。要するに「イタチくんったら、トバリちゃんと仲良くてかわいい〜!」なのだ。別の表現を引用すると「イタチくんは大人びて繊細だから、幼稚で馬鹿な男子とは気が合わないのよね」である。
 何が可愛いのかもよくわからないムーブメントに、ただイタチがそこにいるというだけで巻き込まれる。別にトバリ当人にそんな気はないのに、イタチの魅力を引き出すための小道具として扱われる。……これはこれで、トバリが忌避感情を覚えるのも仕方ないのかもしれない。

 女子にモテることとイタチの唯一性を結びつけるのは些か乱暴だろうか。
 しかし、突き詰めていくとその“唯一性”は、“彼がそこにあるだけで価値が発生すること”に起因する。女子の好意と同じで、理由の存在しない軽薄なものだ。シスイが他人に好かれるのは彼が周囲の人間に配慮しているからだし、トバリが贔屓されるのはその血統あってこそだろう。しかし二人が他人の好意を受けるのと、イタチが他人の好意を受けるのとでは、その理由がまるで違った。
 イタチは本当に、そこにいるだけで価値が発生するのである。だから彼は特別だった。
 例え彼が孤児院出身だろうと、物乞いだろうと、全く他人に配慮しなかろうと、彼が彼である限りその価値は変動しない。イタチはそういう人間だ。そして、イタチの唯一性を気に入ってるあたり、シスイもトバリも、イタチにキャーキャー言ってる女子と大差ないのかもしれない。
 イタチを内包する黒山を前に、トバリは言う。私は決してイタチにキャーキャー言わないぞ。それを記憶しているということは無論シスイもイタチの救出を放棄した一人である。
 おっけー、お前がイタチの後に着いて回ってキャーキャー言う日が来るのが楽しみだよ。
 鬼のような形相の幼馴染に足を踏まれながら、シスイは笑った。イタチがいて、トバリがいる。自分たちの信頼が続く限り、何があろうと大したことではない。シスイは心から思った。

 それは裏を返すと、自分たちの信頼関係が壊れる未来を恐れるが故の祈りだった。


 忍の本分は戦乱と不穏のなかにこそあると言えば、まあそれも正しいのだろう。
 終戦以来、シスイは里内における派閥争いが激しくなってきたように感じていた。四年前の“九尾事件”に始まり、“日向ヒナタ誘拐未遂事件”や“大名行列強襲事件”など、真の安寧が得られない以上は些細なことが不信の種になるのは仕方がない。七歳で下忍になってから、シスイは毎回ちゃんと一族の集会に足を運んでいる。だから、九尾事件までは比較的穏当な集まりだったことも知っている。当時はみんな、話し合いで片を付けるのが一番だと信じて疑わなかった。
 それが、九尾の狐を操ったのはうちは一族の人間ではないか――そう実しやかに囁かれるようになってから急転加速、もう何十年も前に死んだマダラ某に傾倒する奴らの意見が支持されはじめた。それからずっと、過激派が集会を牛耳っている。たまに出る冷静な意見は、提案者の忍生命ごと潰された。反対意見が殆ど出ないことに加えて、うちは一族には感情的な人間が多い。身に覚えのない誹謗中傷に対する大人たちの怒りは、まだ幼いシスイに生理的嫌悪感を呼び起こさせるほど激しかった。一度熱狂を覚えた群衆が我に返ることはない。一族全体が偏向思想に寄っているのは、ある意味では想定内と言える。一族を如何にかしたいと願いつつ、“こうまで狂ってしまえば、最早自分一人の力で軌道修正は図れないだろう”とも思っていた。それが虚しい。
 九尾事件の当時、イタチが会合に参加していなかったことだけがシスイの救いだった。

 イタチもまたシスイ同様うちは一族を愛しているが、彼の潔癖は愛着を遥かに凌駕する。
 シスイはまだ話を聞いているだけなら我慢できる。“武力行使止む無し”の意見も出ているとはいえ、今のところ実行に移す手立てのない絵空事を話し合っているだけだからだ。
 確かに、自分より遥かに年かさの忍が口角泡を飛ばす様に何の感情も持たないと言えば嘘になるだろう。生理的嫌悪感、嘲り、罪悪感……様々な負の感情が去来するものの、シスイはそうした苦痛に耐えることが出来る。シスイに出来ることが、イタチには出来ない。
 長々とした会合を何とか耐えきった後で、イタチはシスイに素直な感情をぶつけた。思考停止状態に陥った者を罵り、馬鹿げた絵空事を話し合うだけの大人を鋭く批難する。それを会合の場で、皆の前で口に出せない屈辱から、時としてイタチは二時間に渡る怒りを吐いた。

 シスイには、イタチの苛烈さが羨ましかった。
 会合を重ねても尚怒りが鈍らないのは、イタチが心からうちは一族を愛しているからだ。
 イタチの真っ直ぐな怒りと向き合う度、シスイは“自分は彼ほどに一族を愛し、その未来を案じているのだろうか”と思う。あの怨讐に塗れた空気に慣れたわけではなかったが、心のどこかで一族の人間に見切りを付けているのも事実だった。イタチは多分、父親を含めた一族の人間があれほど愚かなことが信じられないのだ。シスイは違う。一族の愚かさを現実のものとして認め、自分一人で出来る限り足掻く決意を固めている。自分の理解者はイタチだけだと、そう決めた。
 それなのに、イタチはまだ“一族の皆の考えを改めさせることが出来るのではないか”と期待している。その期待の裏にどれだけ深い愛情があるか、シスイ以外の誰も理解しようとしない。
 あまりに激しい愛情が、幼い友の精神を蝕んでいくのが辛かった。叶うことなら、イタチには一族の会合に出ないで欲しかった。あの馬鹿げた集まりに参加したところで、イタチが疲弊するだけだ。しかしフガクの息子であり、またイタチ自身の存在感や才覚から一族の内外を問わずその動向を注目されているが故に、会合を休むことは許されないだろう。そしてイタチ自身、愚かだと思いつつ父親の体裁が気になるに違いなかった。イタチの内心を思うと会合の度に胸が痛んだが、悪いことばかりでもない。イタチが会合に参加するのを有難く思う理由も一つだけあった。
 イタチがいれば、一族のみんながトバリを侮辱する怒りを一人で抱え込まずに済むからだ。

 目立つばかりか憎き千手の寵児とあって、トバリの処遇はやたら会合で取りざたされた。
 トバリが千手一族である以上、うちは一族にとって仇敵以外の何物でもない。しかしトバリは実際には三代目火影の養女と言ったほうが精確で、千手一族への帰属意識は極めて希薄である。如何でも良いわけではなさそうだが、何にせよシスイやイタチがうちは一族へ抱くほどの愛着はない。また幼い頃からイタチの家に入り浸っていたのもあって、俄かに旗色が変わってくる。
 うちは一族において、トバリの評判は真っ二つに割れる。千手のくせに一々ここまで出張ってきて目障りだ――これはまだ想定内なので、放っておけばいい。見過ごせないのは“これまで通り飼っておいて、時期が来たらモノにしたら良い”という、ヤシロをはじめとした過激派の意見である。シスイがその台詞の意味を理解したのと、イタチの怒りに気づいたのは殆ど同時だった。
 震える拳をぎゅっと握りしめて、畳のへりを見つめる。口を挟めばトバリに累が及ぶと思ってか、はたまた傍らにいたフガクが何等かの方法で鎮めたのか、何も反論せず、しおらしい様子を見せる。胸中の怒りに反して、イタチは健気だった。その沈黙の裏でイタチが何を感じ、考えていたのか――親友の苦悩が、シスイには手に取るように分かった。


 イタチにとってのトバリは、シスイと同じ気の置けない友に過ぎない。
 立場や性別が違うから全く同じ関係とは言い難いものの、シスイたち三人は全く均一な友情で結ばれていた。千手一族だから、うちは一族だから、そんな括りは三人にとって如何でも良いことだった。ただ周囲の人間が面倒くさいから、互いに“一族”という枠に収まっているフリをする。
 それが無難だと口にしたのは、トバリだった。イタチの胸中では、里への帰属意識と一族への愛着が綯い交ぜになっている。イタチに対して「何をおいても一族を優先させろ」と忠告する彼女は、イタチが一族内で浮くことを懸念していた。トバリの忠告は正しい。もしトバリが言わなければ、シスイが代弁しただろう。しかし、シスイが同じことを言っても、大した抑止力にはなりえなかったに違いない。うちは一族ではないトバリが「私は何と言われても気にしない」と言うからこそ、イタチは何とか口を噤むことが出来た。トバリは無神経だが、イタチよりかはシスイの不安事を理解してくれる。イタチがトバリと比べて鈍いわけではない。トバリがシスイのことを理解してくれる理由は単純で、ただ彼女がどこまでもシスイと同じにイタチを好いているから――トバリのなかにあるイタチへの好意や、その危うさに対する不安は、シスイと全く同じだった。
 血縁上はうちは一族と無関係のトバリが、同族の自分と同じ思いでイタチを案じている。シスイにはそれが嬉しかった。ただ単に自分の気持ちを他人と共有出来たことだけが嬉しいのではない。
 自分とはまた違った立場からイタチと接する人間の目にも彼が才気溢れて見えるなら、イタチを正しいと――その激情を“正義”と捉える自分は何ら可笑しくないのだと安心出来る。それ故、きっとシスイは「トバリがトバリで良かった」と思うべきなのだろう。しかし、その胸奥には“友との差異を愛する自分”と“友と同一でないことに不安を覚える自分”とが同時に存在していた。

 他人と自分の何もかもを共有出来たら、どんなにか安心して、幸せに生きていけるだろう。
 イタチもトバリも自立した一個の人間だ。彼らがどれだけシスイと睦まじかろうと、自分たちそれぞれに授けられた運命を一つに撚ることは出来ない。そして、それを望むことさえ罪深いとシスイは思った。自分の安寧のために友を道連れにするような未来は、決してあってはならない。
 シスイの安心も、不安も、幸福も、何もかもシスイ一人のものだ。確かにそう納得しているはずなのに、如何して友人に対する身勝手な駄々を消し去ることが出来ないのか不思議だった。

 トバリがうちは一族の人間だったら良かった。どうしても、そう思ってしまう。
 今にも爆発しそうなイタチの“忍耐”を見るにつけ、シスイはトバリの言葉を欲した。このあまりに馬鹿げた一族の凶状をトバリに打ち明けることが出来れば、シスイは楽になるだろう。トバリは当然、イタチの激情を一人で受け止めるのがどれだけ困難かを分かっている。きっとシスイを優しく労わってくれるし、詰まらない軽口でイタチの気持ちを紛らわせてくれる。何に付け正攻法しか浮かばない自分たちと違って、奇策を用いるトバリが協力してくれれば“うちは一族”の軌道修正もずっと容易になる気がした。しかし現実問題、トバリはうちは一族の人間ではない。

 トバリに全てを打ち明けたら――勿論シスイは楽になる。一時のものだ。
 全てを知ったトバリは、友を苦しめるものを根源から正そうとする。自分のやり方で、うちはの深部に潜ろうとするだろう。そうしたらまず一族中の反感を買うはずだ。今までのように、大っぴらにはうちは一族の居住区画に入り込めなくなる。それどころか“出して貰えない”かもしれない。
 シスイやイタチがある程度反抗的な態度を取って許されるのは、腐っても“うちは”の同胞だからだ。薄汚い手口でトバリの忍生命が潰されたらと思うと、ぞっとする。トバリを巻き込みたくなかった。巻き込んではならない。トバリは一度聞いた話を忘れることは出来ない。必ず、何らかの手出しをする。そう分かっているのに、如何しても「トバリがいたら」と思ってしまう。
 トバリに洗いざらい打ち明けてしまいたかった。そうしたら、少なくとも隠し事をしている罪悪感は失せる。最早それが一時のものでいいから、友の前で気を緩めたかった。
 それに、日毎悪化していくイタチの精神状態をシスイ一人で慮るのは厳しいところがあった。

 もしトバリが全てを知ったら、シスイ同様イタチの精神状態を案じただろう。
 自分が悪しざまに言われたことより、それを耳にしたイタチの心が血を流すことのほうが余程耐えがたい。シスイとトバリはそういう人間だった。逆を言うと、自分が何を言われても、如何いう扱いを受けようと、実害がない限り然程気にならない。シスイたちは、イタチが思っているよりずっと強かなのだ。不運な事に、極めて繊細な情緒を有するイタチには“それ”が理解出来ない。
 イタチがシスイとトバリの感情の動きを把握しきれないのと同じに、自分たちもまた、イタチの感情の動きを完璧には理解していないのかもしれない。もしそうであるなら、自分たちが頭ごなしに“一族内で浮いてはいけない”と言い聞かすことで、イタチの精神状態が更に悪化している可能性は十分にある。八歳とは思えない陰鬱な表情を垣間見せる友が、シスイは心配だった。

 イタチと比べてみると、トバリは幾らか精神的ゆとりがある。
 こと精神面において、シスイはトバリのことを深く信頼していた。度重なる任務を経て、互いの極限状態を熟知しているのも一つの要因だろうが、兎に角トバリはメンタルが固い。無神経でマイペース。ほんとに何を言われても気にしない。その図太さは本当に尊敬に値する。あと記憶力。他は別に……別になんていうか、うん……まあ、メンタル固いっていいよな!という感じだ。
 勿論、シスイは本心からトバリのことを大切に思っている。イタチに似た生真面目さのなかにユーモラスな感性が同居しているのが面白い。決して彼女が千手一族だから近寄ったわけではないし、増して千手扉間の孫だから親しくなったわけでもない。シスイはトバリ個人が好きなのだ。


 その、大好きな友が“体の良い人形”と馬鹿にされる。
 自分たちの無垢な友情を“上手く手懐けた”と嘲笑される。

 それも、他国の人間だとか、敵対関係にある人間が言っているのならまだ良い。
 千手一族とうちは一族は同じ里の仲間だ。そしてトバリを悪しざまに言う人間には、シスイと同じ血が流れている。その現実に、“馬鹿馬鹿しい”とも“何故分かってくれないのだ”とも思う。
 同胞であるはずの彼らから、自分たちの感情を蔑ろにされるのが悔しかった。
 折角の平和が詰まらない虚栄心で踏みにじられるのが許せない。シスイでさえそう思ってしまうのだから、イタチが耐えられないのは火を見るよりも明らかだった。これまで通り飼っておいて、時期が来たらモノにしたら良い。その台詞を耳にしてから数週間というもの、イタチはトバリを避けて暮らしていた。“そうなるわけね”と納得しつつも、心中には釈然としないものがある。


 イタチの怒りは他人のためでなく、彼自身のためであるからこそ苛烈極まりない。
 幾らトバリ当人が「私は何と言われても気にしない」と明言しようと、結局イタチにとってトバリが如何感じるかなど大したことではないのだ。ただ彼なりの譲歩として、トバリの意見に従ってみたに過ぎない。譲歩してみたけど耐えがたいレベルに達したので、自分のやり方で精神衛生を保つことにした。一見自浄作用が働いている風に見えるが、彼の自浄作用は狂ってるので信頼しない方が良い。一応五年の付き合いがあるシスイは、そのことを知っていた。無論トバリも分かっている。だから二人してイタチに“ああしなさい、こうしなさい”と、優しく提言するのだ。
 イタチは執念深い。ついでにプライドが高い。しかも記憶力も良い。
 要するに嫌なことを言われるとまず忘れることは不可能なため、不愉快な言語をちょっとでも聞かずに済む選択肢を取る。イタチはそういう奴だ。極端かつ強烈な性格をしているため、敵は多い。正直言って、トバリが悪く言われる理由の一つにはイタチを貶める意図も含まれた。
 トバリの悪口を言って、もしイタチが僅かでも動揺したら「何か文句があるのか?」と食って掛かる。イタチがイエスと答えようが、ノーと頭を振ろうが、結局“年上に生意気な態度を取った”咎で詫びさせられる。大勢の前で何度でも繰り返し、執拗に、イタチの心が折れるまで。
 だからイタチはトバリを避ける。至極簡単な打開策である。二人の交友関係が途絶えれば、自然と煽られなくなるからだ。一番手っ取り早い……手っ取り早いけど、でも、それって、お前、トバリの気持ちはどうなるの……? トバリだってお前と仲良くしてたいから、千手の古だぬきに媚び売って、何とかうちはに肩入れしてるわけじゃん……? もう何が何やら、訳が分からない。
 イタチの考えも分かる。彼は誹謗中傷や物理的距離如きで自分たちの信頼が揺らぐことはないと信じ切っている。例えば、誹謗中傷に心を痛めたトバリがイタチを嫌うとか、それで疎遠になってしまうとか、そういうのは全く心配していない。身内がトバリを悪く言うのを聞きたくない。本当の本当に、イタチの望みはそれだけだ。あまりに単純すぎて如何しようもない。
 最悪トバリと縁切りすることで、それを揶揄した連中への怒りを忘れるなら、それはそれで仕方ないかなとも思う。しかしイタチに限って一度自分の誇りを侮辱したバカを許すことはあり得ない。トバリを縁切りしても、イタチの怒りはまだまだ続く。自分の友を物扱いされたことを、一生根に持つだろう。それをシスイ一人で宥めるのは、少しばかり荷が重い。トバリとシスイの二人体制でカウンセリングに当たったほうが絶対にイタチのためになる。絶対そうだと思う。

 イタチはなんかもう、茶化すことも躊躇われるぐらいとことんまで身勝手なのだ。
 最早長所に思えるぐらい堂々と身勝手なので、シスイもトバリも“イタチらしい”程度にしか思ってこなかった。イタチらしいというか、そういうところもひっくるめて彼を好いている。トバリが事の全容を知っても、決してイタチのことを“身勝手だ”と責めたりはしないだろう。寧ろ感動するはずだ。シスイなら感動する。そんなに激しく自分のことを好いてくれているなんて……と感極まったのは一度や二度ではない。それはトバリにしろ同じなのだと思う。だから二人とも、イタチの身勝手を野放しにした。「困った奴だ」とか言いながらも、「いいぞ、その調子だ!」みたいな気持ちがあった。でも、こう、もうちょっと、イタチの矯正を図るべきだったのかもしれない。

 流石に今度ばかりは「いいぞ〜!」などと無責任に放っておけない。
 なまじトバリの気持ちも、イタチの気持ちも理解できるだけに、イタチがトバリを避けている間中、シスイは慢性的な胃痛に悩まされた。こんな馬鹿げたことで医者に掛かるのは嫌だ。
 すわ胃に穴が空くのではないかと思われたが、不幸中の幸いは、トバリ当人に避けられている自覚がなかったことだろう。珍しいことに、続けざまに三件の個人任務を依頼されたトバリは一月近く多忙に過ごしていた。話そうと思って話せないわけではないが、イタチと遭遇しなかろうと変に思わない。そういう時期だった。シスイはトバリの多忙に心から感謝した。
 忙しいながら「あれ、さっきまでイタチもいただろう」とか「イタチ、水曜は半休じゃなかったか?」と聞いてくるトバリを如何誤魔化すかで酷く疲弊したため、これでもしトバリが暇でイタチに避けられていることに気付いていたら、シスイの胃はきれいさっぱり消えていただろう。

 トバリが通常任務に戻る頃に、イタチも気持ちの整理がついたらしい。
 シスイの知らないところで当人同士で解決したか、もしくはトバリの無神経を見習うことにしたのかもしれない――暫くすると、何事もなかったかのように笑い合う二人の姿が見られた。
 屈託なくじゃれ合う二人を見ていると、シスイも大人たちの小汚い画策など如何でも良いように思った。シスイにはイタチがいて、トバリがいる。その二人と、些細な事で声を立てて笑い合うことが出来る。それだけで“自分たちには輝かしい未来がある”と、信じることが出来た。
 何があろうと、誰にも自分たちの邪魔は出来ない。シスイはそう信じたかった。信じているのではない。親友たちの睦まじい様を目にしてさえ払しょくしきれない不安があるから、そう自分に言い聞かすことで信じようとしたのだ。シスイは時折、どうしようもなく不安になった。

 トバリを一族の愚行に巻き込みたくない、というのがイタチの望みだった。
 そして“叶うならサスケが下忍になるまで――あと八年弱の間に、全てを如何にかしたい”とも思っている。いずれ後者については諦めて貰わねばならないだろうが、トバリについてはシスイも同意見だった。確かに千手一族とうちは一族の軋轢についてはトバリも当事者の一人である。しかしシスイは、千手一族がうちは一族を敵対視するのはそもそもうちは一族の意固地が原因じゃないかと思っていた。千手一族全体が権威主義傾向にあることや、虚栄心が強いのは大した問題ではない。それこそトバリ一人で如何にか出来る。トバリは既に、一族の和を保つよう努めていた。
 形は違えど、トバリの意志はイタチの意志と相違ない。彼女は強かに、無理のない形で和を保とうとしているのだ。それが何も知らない人間から“お人形さん”に見えるのだとしても、たかが八歳の彼女が微弱ながらも一族全体を動かす力を持っているのは疑いようのない事実である。
 八年後には、誰もトバリのことを“千手の雛飾り”と嘲笑うことは出来ない。
 着実に地盤を固めていく友の存在はイタチにとって誇らしくもあり、未だに一族のなかで四苦八苦している自分をもどかしく思う種でもあるに違いなかった。うちは一族と千手一族では、そもそもの土台からして違う――そう言っても、やはりイタチには一族を見限ることは出来まい。
 志が同じだからこそ、持って生まれた立場の差が顕著になる。その落差が、いずれ自分たちの関係に影を落とさないかと、シスイは不安だった。今こうして笑いあえていても、いつか自分たちは産まれる前から続く因縁に呑まれてしまうのではないか……それなら、出会わないほうが幸せだったのではないか。トウヤにも、トバリにも――うちは一族でない人間に肩入れしないほうが、シスイもイタチも平穏に過ごすことが出来たのかもしれない。そう思ってしまう自分が嫌だった。
 シスイは、イタチにもトバリにも、誰にも胸中の不安を洗いざらい打ち明けられないでいた。


 トバリは目立つ。彼女には甚大な利用価値があるからだ。
 まず大陸に名だたる千手扉間の孫であり、順当に行けば千手一族を取り仕切る立場に就く。そして千手柱間以来の木遁術の使い手であることは諸国に知れ渡っている。幼い頃から三代目火影の庇護下に置かれたことでも知られるため、単なる人質としての利用価値も高い。何より、女だ。
 トバリが千手一族のお歴々に好かれる理由は簡単である。彼女が綱手姫よりずっと良い子だからだ。一方うちは一族が彼女を特別視する理由は、些か煩雑である。元々“変わった子ども”だった彼女が“マトモな良い子”になったのがイタチと交友関係を結んで以来だと里の大人たちが知っているからだ。それだけではない。トバリはこよなくサスケを愛でる。何よりもサスケを優先する。サスケを甘やかす。サスケが産まれてからの五年、その関心は全く薄れることがない。
 誰の目にも、トバリがサスケに向ける執着心は異常であった。その異常さが、うちは一族にとって好都合なのだ。千手一族として振る舞っていても、サスケを餌にすればトバリは必ずうちは一族を無碍には扱えない。実際、うちはと千手の仲裁に駆り出された際は必ずうちは一族の肩を持つ。
 それでいて彼女本人は一族の人間に嫌われていないあたり、上手く立ち回っているのだろう。“対千手一族にはトバリを押さえておけば良い”と思われるだけはある人物である。

 家族との関わりを知らない子どもが赤子と出会うことで愛を知った。
 トバリとサスケの関係について知ってる大人たちの考えを纏めてみると、こうなる。実に感動的だ。感動的だからこそ、誰もトバリがサスケを愛でることを邪魔することが出来なかった。
 トバリもサスケもまだ子どもだし、さらに言うとトバリは父母の顔を知らない可哀想な子で、うちは一族と千手一族は同じ里の仲間だから――邪魔した者がまず“悪”として批判される。
 どちらの一族も、トバリを駒にしたいと思いながら扱い損ねているのが現状だ。一族同士の思惑が複雑に絡み合っているとはいえ、混乱するほどではない。もしトバリが男であったら、トバリ自身の手腕でうちは一族と千手一族の間にある軋轢を如何様にも出来ただろう。かつて千手柱間がうちは一族の人間と親しくし、彼らからも屈託なく好かれたように。
 しかし、幾らもしもを語ったところで、トバリは千手柱間にはなりえない。
 トバリの性別が男でないからだ。女であれば当然将来的に誰かに嫁ぐ。男であるが故に産まれてから死ぬまで一生千手一族のままの千手柱間とは違う。娶ってしまえばその一族のものになる。

 これまで通り飼っておいて、時期が来たらモノにしたら良い。
 トバリが年頃の少女に育つまでサスケを餌に飼っておいて、サスケと番わせるなり、それが叶わないのであればイタチでもシスイでも、適当な男をあてがってうちは一族に引き込めば良い。木遁がちゃんと遺伝するかどうかは分からないものの、チャクラ量の多さからいって交配に失敗することはあるまい。誰も手懐けられなかった獣を折角手懐けたのだから、逃がすわけにはいかない。
 トバリが誰に絡まれるでもなく、呑気にうちは一族の居住区画に入り浸れるのは、彼女が牛か羊と同等に思われているからだ。うちは一族の一部の人間にとって、トバリがサスケに会いにやってくるのは放牧と変わりない。ああ、羊がまた草を食みにやってきた。その程度のことなのだ。
 他人にとってはその程度のことでも、イタチにとっては最愛の弟と敬愛する友への侮辱である。一連の成り行きをイタチがいつまで知らんふりで通せるかは、シスイにも予想がつかない。

 まあ、イタチは兎も角、トバリの考えは想像がつく。成るように成れ、だ。
 利用したいのであれば勝手にしたら良い。その代わり私は私の意に沿うこと以外確約しないし、私も容赦なく相手を利用させて貰う。それがトバリの基本的理念だ。シスイとしては、イタチの竹を割ったように潔癖な考え方より、トバリの清濁併せ呑む考え方のほうが共感しやすい。
 さりとてトバリはトバリで誹謗中傷に無関心すぎる嫌いがあった。イタチほど誇り高く振る舞って欲しいわけではないけれど、もう少しシスイやイタチの気持ちを汲んでほしい。真にシスイたちを慮っている人間は雛人形を手に「もしかすると私は将来的に絶世の美女になると思われているのではないか?」と真顔で言わない。そうじゃねーよ、バカ。最早突っ込む気力もない。


 何にせよ、今のところは平和だ。
 会合に参加した大人たちにしろ、社殿から一歩外に出れば大人しい。明るい街を歩いていると、何もかも自分の考えすぎのように感じた。一族の者はただその場の熱に浮かされているだけで、本当はそこまで不満や恨み、怒りを抱いていないのではないかとさえ思う。
 シスイは軽い足取りで、友の家へ向かった。昨晩家へ帰る途中で会ったミコトに、“明日、息子たちと遊んでやってくれないか”と頼まれていたからだ。年度が新しくなる時期、必ず婦人会の宿泊行事がある。間の悪いことにフガクも遅くまで帰ってこれないらしく、当人たちは“問題ない”の一点張りだったが、やはり三人で残していくのは不安だと、困った顔をしていた。平然と家に残していく人員のなかにトバリもカウントされているのが、ちょっと面白い。うちはの家紋が埋め込まれた塀に沿って走りながら、シスイは“イタチの家も久しぶりだな”と微笑した。

 純和風建築のイタチの家は庭も間取りも広々として壮観である。
 小さい池や松が配置された庭は修行こそ出来ないものの、実にうつくしい庭だった。縁側に座して庭を眺めながら、あるいはイタチの部屋でくつろぎながら、よく三人で下らない話をした。稀に小さいサスケがその場に混じってくるのも愛らしく、イタチの家には良い思い出が詰まっている。
 普段は外縁部の森で組手や忍術指南書、古文書の読解に耽っているけれど、たまにはサスケに合わせるのも良いだろう。四人で食事を摂ったり、部屋を掃除したり、きっと楽しい時間が過ごせる。そう期待に胸躍らせて訪れたイタチの家は、ありとあらゆる意味で壮観だった。


「……お前らは何をしようとしたんだ?」
 荒れ放題の台所をくまなく見渡してから、シスイは仰々しいため息を吐いた。
 いや、その“深刻さ”は別に演技でも何でもなかった。シスイは年下の幼馴染たちを一人の忍者として認めていたが、彼らの人間性にまで太鼓判を押そうとは思わない。それぞれ個で接してる時は“お前ら、人生何回目?”と聞きたくなるレベルに大人びているのに――二人揃うと、ダメになる。尤も双方共に異なる方向に日常知識が欠如しているとは普段から認識しているので、常識知らずが合わさることで“多角的常識知らず”に発展するのは妥当な結果と見てよい。
 多角的常識知らずが事を為せば、途方もない惨事が産まれるのは必然。天井と床の区別なくゲル状の小麦粉が飛び散るぐらいで済んだのは奇跡だ。あとボウルに限界まで生卵割ってあるけど、何するの? そのまま飲むの? 卵割るの楽しくて調子乗っちゃったか?
 シスイは静かに二人の謝罪記者会見開始を待ったが、トバリもイタチも口を噤んだまま何も言わない。ややあってから、トバリがこそっとイタチに耳打ちした。
(どうする?)
(どうするってお前)
 わざと聞こえるように言っているのか、狼狽しすぎて頭が回らないのか、筒抜けである。
 こちらの様子を窺いながらコソコソ耳打ちし合う様子は何となく可愛らしい。足の裏がなんかよくわからないゲル状のものでぬるっとしてなければ素直に微笑ましく思えただろう。

(だから私はホットケーキなんて食事にならないと言ったんだ)
 そういう問題じゃない。シスイは思った。
(お前がちゃんと鮭の切り身を買ってくれば和食が作れた。何故サンマを買ってきた)
 イタチ、そういう問題でもない。続けざまにシスイは突っ込んだ。
 白米とみそ汁にサンマの塩焼きを添えるだけで十分立派な“和食”になるだろうに、何故そこまで鮭の切り身に拘ったのだろう? そしてそこまで和食に拘った癖、何故こいつらはホットケーキにシフトしたのか。シスイはふと疑問に思ってから、頭を振った。どうせ大した理由じゃない。隣の部屋であどけない寝顔を見せるサスケが、午睡の前に「ホットケーキを食べたい」とか何とか言ったんだろう。こいつらが予定を覆す理由としては十分すぎる一大事だ。
(魚屋のおばさんが沢山くれたんだ。追加で鮭も買ったら“え……そのサンマはどうなるの?”って不安に思うだろう。サンマぐらい、君ご自慢の刀捌きで切り身にしたらどうだ)
(仮にもお前は女だろう。サンマの一匹や二匹、ささっと切り身に出来ないのか)
 お前らの食べたサンマは一度でも切り身状だったか? 丸のまま焼かれてただろ?

 必死に責任の擦り付け合いを行う二人はひたすら幼い。
 凌辱の限りを尽くされた調理台は窓から差し込む光で淡く銀色に輝き、天井に突き刺さった圧力鍋の蓋から片栗粉の残骸が雪のように降り積もる。こいつら何やったんだろう、本当に。
 木造建築なので、天井の大穴はトバリが修繕出来るはずだ。フガクが帰ってくるまでに元に戻せるだろうが、ミコトが不安がるのも仕方がないというか、よく台所への立ち入りを禁じなかったな……と感心してしまう。しみじみとした笑みを綻ばせて、シスイは二人に抱き付いた。
「オレ料理、お前ら掃除」朗らかな表情のまま、二人に指示を出す。「台所用品にさわるな」
 的確な指示を与えると、自他ともに認める我儘奔放マン二人は素直に頷いた。
 いやトバリは「でも、サンママフィンが」と、如何考えても碌でもない創造物を理由に食い下がったものの、軽く殺気を当てると押し黙った。泣きながら「サンママフィン」と漏らすトバリに、イタチが憐れむような視線をくれる。お前はちゃんとトバリの漲る創作意欲を止めろ。
 本当に何から何まで困った奴らだ。そう思いながらも、面白くて堪らなかった。トバリはついに“サンマフィン”とか略称をほざくようになったし、「理論上はサンマフィンが出来るはずだった」と己の凶状を正当化させている。やはり圧力鍋の下手人はトバリらしい。
 自宅をボロボロにされて何も感じないのか、多分トバリの賠償能力的に放置していたのだろうイタチは「泣くな。サンマのほうがずっと悲しい」とか斜め上に彼女の傷を抉っていた。

「ほんと、お前らって変なとこで子どもだよな」
「変なところでも何も、オレたちは世間一般で言う“子ども”だろう。八歳と十一歳だからな」
 シスイの腕の中で、イタチが迷惑そうな声をあげる。その傍らで、トバリも頷いた。
「私は今のところ忍だが、大きくなったら料理研究家になるんだ」
 訳の分からないことを口走るトバリに、シスイの口元が引きつる。トバリとイタチは、丁度シスイより頭一つ分小さい。二人の頭上に顔を埋めて、シスイはヒーヒー言いながら笑った。
 
 この里のなかで昼の光を浴びている限り、シスイたちは子どもでいられる。
 自分の愛するものを守るため、誰よりも早く大人になりたかった。早く上忍になりたい。そう望んだ。どれだけ背伸びをしてもただの“子ども”に過ぎない現実が堪らなく悔しかった。
 それでも、こうやって三人で笑っていられるなら、いつまでも子どものままでも良い気がした。


 あまりに幸福だった、早すぎる青春時代。
 いつまでも三人屈託なく過ごしていた時のまま、あのまま全ての時間が止まれば良かった。
早生りの果実
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