重たいほどの静寂に埋もれていた耳朶が、ピクリと鼓膜を震わせた。

 トットッという微かな音に、文字の濁流のただなかにあった意識がプツンと乱れ、現実世界に浮上してくる。トバリは膝に広げた巻物から顔をあげて、猫背に丸めていた背筋を伸ばした。書庫へ降りてきてからどれだけ時間が経ったのか、ガチガチに固まっていた背骨がいびつな音を立てる。長時間同じ体勢を取っていた時特有の気怠い疲弊を体に感じながら、トバリはいつも通りの無表情で肩を解した。トバリの学習意欲について最も――といって、トバリの知り合いなど極少ないのだが――好意的なヒルゼンから「もっと日に当たらんか」と叱られたのは、つい先日のことだった。トバリとて、体を動かした修練が忍者にとって一番大事だとは分かっているのだけれど、然程広くもない庭で行えることには限りがあり、体力作りは疎かになっていた。それでも他人の意見に逆らうだけの自我がないトバリは「そのうち頑張る」と気のない約束を交わしていたのだが……まあ、ヒルゼンならまず足音を立てない。早々に約束を破っているのは知られずに済んだわけだ。
 予め定められた仕事内容以上に出しゃばらない家政婦や呆けた庭師が書庫に降りてくるはずがない。元々の知人の少なさから、トバリは足音の主に凡その検討がついていた。
 真っ直ぐ自分の視線の先にある入口を見つめて、鉄製の扉が鈍い音を立てて開くのを待つ。

「また篭ってたのか。お前は本当にモヤシだな」
 果たして、トバリの予想通りであった。
 光源に乏しい書庫内に、ぼんやりとした日脚が差しこむ。逆光のなか、挨拶もなく、名乗るでもなく、呆れたような口ぶりの軽口と共にアスマが姿を現した。
「雨がふるって聞いたから」まずないだろうが、万が一にでも書庫に篭っていたことがヒルゼンに知らされることを考えて言葉を続ける。「雨の日は、ここが一番すごしやすい。もうふってる?」
 扉が閉まると、元通り、書庫内の光源はトバリの傍らに置かれたランタン一つきりとなる。扉に寄り掛かるようにして立つアスマは、ランタンから放たれる光の一メートルほど先にいた。
「丁度降り出してきたとこだ。雨宿りさせてもらおうと思ってな」
 大股でこちらに近づいてくるアスマの肩は、確かに濡れている。任務帰りなのか、中忍以上に支給されるベストはところどころ破れ、普段は持ち歩いていないポーチを腰につけていた。

 第三次忍界大戦以来、木ノ葉隠れの里は未曾有の人材不足に悩まされている。
 そして停戦条約を結ぶ際、ヒルゼンの意向により木ノ葉隠れの里は岩隠れの里に一切の賠償金を請求しなかった。そのため実質的な戦勝国であるはずの木ノ葉隠れの里は、深い経済的困窮を抱え込み、養護施設への助成金など社会福祉に割く費用を切り詰める有様だった。
 元々隠れ里は第一次産業従事者を有しておらず、金銭を得るためには国内外を問わず舞い込んでくる依頼を請け負う他ない。要するに隠れ里の財源は人的資源であり、それ故に人材確保が火急案件として、戦時中から続くアカデミーの飛び級卒業制度は選出基準が一際緩くなっていた。
 まだ幼い子供の手さえ借りねばならないほど逼迫した状況なのだから、疾うに実戦経験を経て一人前の忍びであるアスマたちの多忙は言うまでもない。
 一月ぶりに会うアスマの顔は、書庫内が薄暗いことを加味しても随分やつれて見えた。

「お前も日陰にばっかいないで、少しは日に当たれよな。オレみたいに逞しくなれないぜ」
 アスマはトバリの視線を避けるように体を斜めにして、左右の壁に並んだ棚から一巻の巻物を取り出した。クルクルと開いた書面を覗き込んだまま、トバリの隣に腰を下ろす。
 トバリは「やつれたね」とも「ここ数日、眠ってないの」とも、何も言わなかった。
 目の下にはクマが出来ているし、まだあどけなさの残る口元にはヒゲが生えている。巻物を覗き込む横顔からも、濃い疲労の色が感じられた。トバリがまじまじと自分の顔を見つめてくることにアスマは僅かに眉を吊り上げたが、特に何を言うでもなく再び視線を落とした。
「まだガキなんだから、呑気に外で遊んでりゃいいものを……お前、こんなの理解できるのか?」
「読めない漢字は、あとで三代目が教えてくれる。でも辞書を引きながら読めば大体分かる」
 感情の読めない平坦な声音に、アスマは長いため息を漏らす。
 いい加減、興味のない文章の羅列は眠気を誘引すると嫌気が差して、膝の上に広げた巻物を元通りに丸めた。アスマの隣では、アスマの観察に飽きたらしいトバリが中断していた読み物に集中している。アスマは緩い曲線のみで構成された、トバリの横顔をじっと見つめた。
 トバリは、初代火影であり、トバリにとっては大伯父にあたる千住柱間によく似ているらしい。

 勿論十四歳のアスマに初代との面識があるはずもなく、彼の面差しについては里の中心部にある崖に掘られた顔岩から推し測る他ない。といって風雨に塗れて経年劣化しているばかりか、大雑把にデフォルメされている顔岩に写真ほどの確かさがあるはずもなく、結局のところアスマには二人がどの程度似ているのかは分からなかった。強いて似ているところを挙げるなら、目が二つあって、口が一つしかないところであろうか。顔岩が本人確認書類になり得ないことがよく分かる。
 父親の言を信じるなら「生き写し」とのことだが、その後に「初代様は感情豊かで包容力に富み、あっけらかんとした人柄じゃったが」と続いたあたり、信憑性に欠ける。
 まあ、トバリが初代に似ていようといなかろうと、そんなことはアスマにとって如何でも良い。アスマの関心事は、父親がこの子どものなかに初代――もしくは自身の師であり、この子どもの祖父である二代目を投影して、無理を強いているのではないか……ということだった。

 トバリは、普通の子どもではない。
 ヒルゼン同様、アスマもトバリの異常性についてはよくよく知っていた。
 父親が後見人を務めるようになってから一年も経っていないが、元々トバリの父親には育児放棄の気があり、トバリがこの家にやってきた当初から「暇を見て様子を見に行ってやってくれ」と頼まれていた。アスマは特別面倒見が悪いわけではないが、思春期の男子が父性本能に溢れているわけがない。意思の疎通が覚束ない赤ん坊の様子を見に行くのは、正直苦痛である。しかしながら月に一度数分顔を見るだけでもある程度情は湧くわけで、回数を重ねるごとに滞在時間は長くなっていった。それと正比例してトバリもすくすくと育ち、同時に人懐こさの値は反比例で下がっていった。いや、そもそも赤子の頃からニコリともしない子どもだったが、物心つけば自然と感情豊かになって普通の子どもらしくなるのでは――という考えは、二年ほど前に打ち捨てた。
 トバリが立って歩くようになったのは、一歳になってすぐだった。二歳になると難しい言葉を使わない限りは会話が成り立つようになり、三歳になる頃にはもうある程度の読み書きが出来るようになっていた。文字が読めるようになるとこの書庫へ篭って忍術の勉強に明け暮れ、並行して始めた手裏剣術も、今はもうアカデミーの上級生顔負けの精確さを誇る。
 トバリの成長速度がどれだけ異常なことかは、子を持ったことのないアスマにはいまいち分からない。それでも周囲の反応から、トバリの賢さはバケモノ並なのだと察しがついた。
 あまりに大人びたトバリに怯えた家政婦がコロコロ入れ替わる一方で、父親はトバリに過度の期待を向けて、その子供らしからぬ学習意欲を後押ししている。
 アスマは視線を落として、トバリの手許を捉えた。手遊びの似合う細い指が巻物にある印を真似て、トバリの影のなかで繰り返しひらめく。水乱波の印だ、とアスマは思った。
 今は未だトバリは一つの忍術も使えないし、アスマのほうが忍術に詳しい。でも、十年後のトバリが今の、十四歳の自分に劣るかもしれないとはまるで思えなかった。
 アスマはトバリから顔を背けて、太ももに頬杖をついた。

 アスマは九歳でアカデミーを飛び級卒業し、それから三年後の中忍試験を経て中忍になった。
 ……トバリは何歳でアカデミーを卒業するのだろう? 幾つで中忍試験に合格するのだろうか。トバリが忍者になった時、やはりまた戦争があるのだろうか。
 今度はいつ、どの里と、何が理由で。


「なにでもめたの」
 不意に耳朶を掠めた問いに、アスマの肩がビクリと跳ねた。
 聞き間違いかと思ったが、咄嗟に振り向いた先でトバリがアスマを見上げていた。
「何が理由で、三代目と、もめたの」
 舌足らずな声音が、先ほどの疑問をアスマに教え諭すように繰り返す。
 アスマは目を丸くしたまま、トバリの様子を伺った。いつも通りの無表情が僅かばかり不快げに歪められている。話が通じないことに苛立っているのか、はたまた気まぐれで自分から話を振ったことへの自己嫌悪かもしれない。如何贔屓目に見ても“可愛い”とは言えなかったが、この“苛立ち”がトバリの、産まれて初めて見せる感情……だろうか。初めて目にする表情がコレかよ。
 もっと笑顔とか子どもらしい表情は出せないのか等と訥々と考えていると、トバリの顔からスッと苛立ちが消えた。元通りの無表情がアスマを見つめたまま、口を開く。
「もめたんでしょう」決めつける響きだった。「家に帰ればビワコさまに八つ当たりして、またもめるから、落ち着くまでここにいるんでしょう。友達のとこ行かないのは三代目のこと悪く言いたくなくて、でも自分が悪いとも思いたくなくって、ここに来たんでしょう……ちがうの?」
「違わない」
 アスマは咄嗟に頭を振った。「大体、多分、合ってる」違わない。大体合っている。トバリの言うことは粗方正しい。正しいのだが、まさか、自分がトバリの家に来る理由を察しているとか、そもそもトバリが自分の行動の如何についてちょっとでも思い馳せるなどとは思っていなかった。
「あの、まあ……受付窓口んとこいた親父と人材育成の方針云々で……ちょっとやりあって」
 ボソっと、事の経緯を呟く。トバリに聞いてほしいわけでも、説明を強いられているように感じたわけでもないのだが、沈黙が居たたまれなくなったアスマはボソボソ話を続けた。

 里の外での単独任務を複数件こなし、一週間ぶりに帰ってきたところで一人の依頼主からクレームが来たと知らされたこと。そのクレームはごく些細なことで、睡眠不足からくる苛立ちも手伝って“二件の潜入調査・三件の暗殺任務――B級ランクの任務五件をこなした後のD級任務なんだから、そのぐらい大したことじゃない”と言い放って、父親との口論が始まったこと。段々と感情が高ぶって、未だ幼すぎる下忍にC級任務を任せたり、かと思えば自分のような中忍に下忍が処理するべきD級任務を割り振ったり、勝手な融和政策を推し進めたり、

「……あんたにとって、この里の忍は使い捨ての道具かよって、つい言っちまってな」
 アスマの激しい批難を受けて、ヒルゼンは口元を緩く開いたまま凍り付いた。
 人前で言い過ぎたと我に返った時には、受付ロビーはすっかり静まり返っていて、皆の視線が皮膚に刺さって痛いほどだった。言ってやったという晴れ晴れとした気持ちと、如何しようもない後悔が綯い交ぜになるなか、視線の先で俯く父親の姿が今も目にこびりついて離れない。
 結局、騒ぎを聞きつけてやってきたミナトが「どうも、男の子の反抗期は真っ直ぐで激しいよね。オレも将来に備えてアスマと三代目に色々教えて貰わなきゃ」と笑い飛ばしたことでその場は和み、皆の関心も逸れた。ミナトはニコニコと笑いながら、ヒルゼンは里の興りを知っている最後の火影になるだろうこと、だからこそ最後に岩隠れとの間にある長年の確執を和らげた上で自分に繋いでくれたことを感謝している旨を語り、アスマが損ないかけた父親の信頼を補修してくれた。
 アスマは父親以外の“火影”を知らなかったが、一瞬で事の次第を察する勘の良さ、そして何気なく事態の収拾をやり遂げる話術は筆舌に値する。それでいて忍者としてもトップクラスの実力を誇り、第三次忍界大戦では“木ノ葉の黄色い閃光”という二つ名を各国に轟かせた英雄である。
 非の打ちどころのない“四代目火影”の存在も、アスマの胸奥のわだかまりを濃くした。

 父親が、快活に笑うミナトに合わせて笑う。
 その瞳が笑っていないことにアスマは気付いていた。自分を誤魔化して笑う父親の姿に、アスマは自分の失望が全くの的外れでないこと、胸奥のわだかまりが父親への失望だったことを悟った。
 アスマにとって、父親は“英雄”だった。自分の知り得る限り最も強く賢い忍者であり、歴代火影のなかで誰より慈悲深いと称されるのが内心自慢でもあった。
 それが、その、父親が火影として長年の支持を得る理由だった“慈悲深さ”は、第三次忍界大戦以降は岩隠れへの寛容さを理由に執拗に叩かれるようになった。それがアスマには許せなかった。
 しかし、だからといって……その失望が父親を公の前で責めて良い理由にはなるわけではない。

 自分の感情を隠して笑う父親や、場の空気を和ませる四代目のほうがずっと大人だ。
 あの場では、馬鹿なのはアスマだけだった。


「ま、馬鹿なことしたよ。ミナトさんがフォローいれてくれなきゃ、お袋に殺されてたな」
 どの道、帰ったら半殺しにされんだろうけど。そう小さくつけたすと、アスマは深々とため息をついた。ズボンのポケットを探って、覚えたばかりの煙草を取り出す。

「ふーん」
 アスマの独白染みた愚痴を聞いて、理解できたのか出来なかったのか、トバリは小首をかしげた。「あ、そう。やっぱり、もめたの」首に手をやって、コキと鳴らす。
 自分から話を振ってきた癖に、義務は果たしたと言わんばかりの相槌だった。あまりの素っ気なさに、アスマは唇に食んだ煙草をポトリと膝に落とした。


 こいつ、本当に、なんて……なんて可愛げのない子どもなんだろう。
可愛くない妹分
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