先年怪死した千手カンヌキには、未詳の娘がいる。

 忍一族の人間であれば、誰でも一度はそんな噂話を耳にしたことがあるだろう。
 良くも悪くも(大抵良いほうに転ぶことなぞなかったが)千手一族と関わりが深く、またカンヌキと浅からぬ縁で結ばれていたフガクも、無論耳にしたことがある。いや、寧ろ、耳にタコが出来るほど聞かされたと言っても大げさではない。フガクの部下には、千手一族の弱みを握ったとなるや一も二もなくフガクに教えたがる人間は少なくなかった。それを「余計なお世話」と言って振り切れないフガクにも問題はあるのだろう。かつての師の醜聞を幾度耳にしたか覚えていない。
 それでも、渦中の人が良い年したオッサンであるなら、幾らかの恩があるにしろ「自業自得」で知らんふり出来る。いつまで経ってもカンヌキ先生は落ち着きがなくて困る、だから悪く言われるのだ――そんな風に。それなのに、困ったことに「先年怪死した千手カンヌキには、未詳の娘がいる」という噂話の“渦中の人”は良い年したオッサンではなく、まだ幼い子どもだった。
 里内では“過激派”に分類されるフガクにも、多少の良識は残っている。
 幾ら千手憎しとはいえ幼児までその対象に含めるのは馬鹿馬鹿しい。まだ“自業自得”の言葉の意味も知らないだろう四歳の子どもを渦中に落とすのは悪趣味過ぎる。フガクはそう思っていた。
 それ故“千手トバリ”という名を耳にするなり、なるたけ聞き流すようにしていたのだがすっかり聞き流すことは出来なかった。同い年の子を持つ親の性だろう。もしくは、フガクは自分で思ってるよりずっと噂好きだったのかもしれない。どの道、耳に入ってしまったものは仕方がない。
 未だ幼い子どもを槍玉に挙げるのが躊躇われるのなら、自分からは何も言わなければ良いのだ。
 良いといっても、“そうするのが良い”の“良い”ではない。“自分の手札から選ぶなら、それが一番マシだろう”という意味の“良い”だった。諦観交じりの処世術。いつものことだ。
 多くの人間から強烈な選民思想の持ち主のように思われているものの、フガク自身は自分のことを差別主義者だとか、極端な国粋論者であるとは思っていない。いっそ温和な人間だとさえ思っている。ただ――殆どのひとは理解してくれないのだが――フガクの眼にも“幾らかの選民思想”が根付いた仲間の暴走を抑え、制御するためには、幾らかの知恵が必要だった。他人の上に立つ者がありのままの本心を口に出来る機会は少ない。一族のまとめ役を負うフガクもその一人だった。
 ご意見番をはじめとする部外者からの評価はさておき、一族内ではそれなりの尊敬を勝ち得ている自信もある。部下の信頼も厚い。それでも結局、他人の口に戸を立てることは出来ない。

 フガクの部下には血気盛んな若者が多かった。
 彼らが活力に満ち溢れているのは、その若さだけが理由ではない。「もし正当な評価を受けることが出来るなら、自分たちは木ノ葉隠れ屈指の忍である」という鬱屈とした自負が、一層彼らを選民思想へと駆り立てるのだった。フガクも、彼らの生き辛さは分からないでもない。まだ若い内は“必ずどこかに非の打ち所がない完璧な答えがある”と信じたくなるものだ。
 白と黒の入り混じる世界で生きるのは容易なことではない。自分がマイノリティに属する時は殊更に苦しむ羽目になる。他人の平和のために汚泥を呑める者は少ない。それでも、マイノリティに産まれたからには一生耐え忍ぶしかないのだ――子孫を更なる苦境に置きたくないのなら。
 かつてのフガクがそうだったように、皆、年と共に落ち着くだろう。年若い部下たちの話を聞き流す傍らそんな風に思っていたのだが、このところ部下たちのことが分からなくなってきた。
 何となれば、フガクよりずっと年嵩にあたるヤシロの意見が苛烈さを増してきたからだ。
 元々温和な男なのだが、フガクが“四代目火影”に掠りもしなかったのが余程腹に据えかねたらしい。頼んでもいないのに、当のフガクが“済んだこと”として終わらせた話題を幾度も掘り返してくれる。なまじ自分に対する信頼と好意が見えるだけに、憤りを見せるわけにもいかない。
 それだって、勝手なものだ――と、フガクは思う。ヤシロは昔々まだフガクが自分の後輩だった頃から目を掛けてきただけに、里の上層部がフガクを“正当に評価しない”ことに納得がいかないのだ。それはヤシロ以外も皆同じである。他の誰でもない自分自身の“評価されたい”という欲求をフガクに背負わせているだけだ。率直に言って、他人の代償行為に付き合わされるのは面倒くさい。
 大体「四代目火影選出にあたって名前も挙げられなかった」なんて不名誉な事実を、いつまで引っ張られるのだろう? “口惜しい”という感情より、一族全体の不満を抑える疲弊が勝る。

 信頼がおける部下ではあるものの、フガクはよく部下たちとの価値観の相違に悩まされた。
 第三次忍界大戦が落ち着いて、それぞれの暮らしに余裕が出来た頃からは尚のこと“部下たちについていけない”と感じることが増えた。戦時下で気にならなかった些細なことが気に障る。大戦の疲れがまだ残っているせいもあるのだろう。如何にもヤシロたちと話していると、“一族”が先行してしまって、フガク個人の気持ちが軽んじられているような印象を受けるのだった。
 四代目火影に選出されなかったことと言い、千手トバリに纏わる流言と言い、それは大の大人がいつまでも話題にすることではない気がした。自分たちが町で見聞きしたことを伝聞しあう部下たちを眺めていると、フガクは自分の感情がザラザラ乾いていくような思いがした。

 勿論、部下たちに一切の良識がないわけではない。
 不当な差別に晒されない限り、彼らは気の好い若者で、温厚な男たちだった。フガクは“それ”を重々承知している。彼らが“千手トバリ”に意識を向けるのは、彼女が単なる子どもでないことの証明に過ぎない。良識などと口にして、表面的なことばかり気にするフガクが浅薄なのだろう。
 まだ幼く、たった一人の家族を亡くしたばかりの四歳の子ども。“千手トバリ”が謗られる背景には、その後見人である三代目火影・猿飛ヒルゼンに対する根強い不信感が関係する。


 先年怪死した千手カンヌキは主戦派の中核たるダンゾウの右腕として知られていた。
 役職持ちでないにしろ、カンヌキは二代目火影の息子ということで上層部に顔が利いたし、経験豊富ながら率先して死地に赴く彼は若い忍にも人気があった。保守派と過激派で対立しがちな首脳陣の緩衝材として働くことから人心掌握術にも長けていたし、そしてそれを我欲に用いない清廉さを有していた。第三次忍界大戦は未曽有の消耗戦としても知られるが、不利とも有利とも言い難いじれったい戦況が木ノ葉有利に転じるまで根気よく“延命”させたのはカンヌキの手柄であると言ってよい。“主戦力”が存在しない現状、敵国を徹底的に叩き潰すことでしか長期的平和は望めない。ダンゾウの主張に上乗せする形で、カンヌキは頑ななまでに全面降伏に拘った。
 フガクは特別カンヌキの論旨に同調するわけではないが、やはり自分たちの業によって産まれた屍の山をこの目で見た人間として、岩隠れとの停戦条約には“あまりに安い”という憤りがある。
 三代目がもう一方の主戦国である岩隠れの里に停戦条約を打診したとの報を聞いたフガクはまず呆然とし、その次に「果たしてダンゾウ様たちを如何説き伏せたのか」と考えた。その位、戦時中は主戦派の勢いが強かった。尤も、所詮カンヌキは単なる上忍の一人だ。首脳陣における保守派と過激派の比率では圧倒的に保守派が多いことから、いざという時には三代目の独断が通りやすい。
 独断――仮にも自里の長の判断をそう決めつけるのは些か躊躇われるが、終戦後の今なお三代目に批判が集まるあたり、どれだけ主戦派の人間が多かったのか自ずと知れる。
 その一方で、終戦後の里政は表向き凪いで、平和だ。岩隠れからの賠償金が見込めなくなったことで物価水準が上昇するのではないかと懸念されたにも拘わらず、大した経済的打撃はなかった。民間企業をベースにした友好貿易が早々に再開されたからだ。大方停戦協定を結んだ際に、貿易に関する一般協定の復活についても話し合ったのだろう。その一般協定の如何については火の国の商業組合内部でしか発表されなかったが、人の口には戸が立てられない。皮肉なことに里内での評価が下がるにつれ、里外では三代目の人気がうなぎ上り。所詮“戦争屋”に過ぎない隠れ里の長が、戦争が終わるや否やまず民間人の暮らしに配慮してくれたと評判になっていた。
 賠償金を貰わないと決めたのだから、自国の経済事情に一計を案じるのは当然だ。それでもやはり、三代目火影は歴代火影のなかで最も内政に秀でていたと言わざるを得ないだろう。結局は“失脚”という形での幕引きとなったものの、里の内外を問わずあれだけ多くの人から支持された里長は三代目を除いて他に居ない。今更になって三代目政権を惜しむ声が上がるのを思えば、民衆とやらはつくづく身勝手だ。その“身勝手さ”が四代目政権に如何関わってくるか、見ものである。

 光があるところに影もまた同様に存在する。
 多くの人から慕われた三代目ではあるが、その日和見かつ現状維持を第一とする腰の重さを厭う者も少なくない。創設期以来の差別に晒されているうちは一族は、アンチ三代目の筆頭だった。
 第二次忍界大戦で活躍した世代は皆死んだか、出世して後方支援にあたっているかの何れかで、第三次忍界大戦初期から中期に掛けてはカンヌキの言う通りの“主戦力が存在しない状況”が続いた。どうしようもない戦力不足のなか、多くのうら若い忍たちが戦場の露と消えていった。
 一度戦場に出せば帰ってこないと見え透いていても、忍一族の子どもとして産まれた以上は箱の中に閉じ込めておくことも出来ない。“とりわけ優秀だから”と調子の良い言葉で早期卒業を果たした子どもたちが、質より数の方便で使い捨てられる。先の大戦では多くの死者が出たが、十五歳以下の戦死者に限ればそれは殆どうちは一族の子どもたちだった。それは決して“差別”からなる選別ではない。一定の水準さえ満たしていれば、どの一族の子どもであれ下忍として任務を割り振られた。ただうちは一族には忍才に恵まれた子どもが多く、彼らは里の期待とうちはの勇名――その二つに応えるために自らの命を惜しまなかった。ただそれだけのことで、忍才に恵まれて経験不足の子どもたちが沢山死んだ。一体、若い忍が戦火に呑まれていくのを幾度目にしただろう。
 死んだは死んだでも、“自分の落ち度で助けられなかった”のならまだ良い。多数を救うため、戦況を好転させるためと嘯いて見捨てた命もあった。フガクは今でも、自分の判断は間違っていなかったと思う。一部隊を率いる者として、良識からなる同情に惑わされるわけにはいかない。
 “主戦力”が存在しない現状、敵国を徹底的に叩き潰すことでしか長期的平和は望めない。岩隠れの里の全面降伏なくして、平和は訪れない。主戦派……要するに前線で戦い続けた忍たちの救いは、そこにあった。見渡す限りの死体の山。敵も味方もなく傷つき失われていく、あの残酷な現実を目の当たりにした人間であれば、決して仮初の平和になど惑わされはしないはずだ。
 老いも若きも皆、自里のために戦い抜いた。誰もが自分たちが正義で、岩隠れの里を叩き潰すことこそが平和に繋がるのだと信じていた。同族の子どもらが里のためにと命を賭して散っていき、内地は勿論兵站で会った親類知人に我が子の安否を尋ねられる。勇敢な最期だった。彼という犠牲なくして、作戦成功は有りえなかった。滑らかに出てくる嘘とは裏腹に、心が摩耗していく。

 ……こんなに呆気なく平和が成立するのであれば、子ども達は、仲間は何のために戦ったのだ。

 先の大戦で多くの犠牲を払った者たちに未だ根強く残る不信感。
 それが内戦や反乱に転じないのは、当の三代目が早々に火影の地位から退いたことが大きい。自分たちが声高に批判する前にさっさと退任してしまったのだから、肩透かしを喰らったも同然だ。
 振り上げた拳の行き場がない状況で、人々の鬱憤は“千手トバリ”に向けられた。
 彼女の後見人が三代目で、彼女自身も可愛げのない子どもだったからといった単純な理由で槍玉に挙げられているわけではない。それだったらアスマのほうがずっと批判材料になるだろう。アンチ三代目の人々が“千手トバリ”に注目するのは、その父親たる千手カンヌキが怪死したからだ。

 毒蛇に足首を咬まれた拍子に谷川へ落ちた。
 誰がそんな馬鹿げた死因を信じるのか。敵国・岩隠れの里に単身潜入出来る御仁である。
 確かにチャクラ量に乏しく接近戦を不得手としていたが、だからこそ何事にも動じない精神力を有していた。幾らなんでも、蛇に咬まれた程度で動揺する阿呆ではないはずだ。
 もっとマシな言い訳を思いつかなかったのかと思うが、あまりに不自然な死因をそのまま出すことが三代目にとって“けじめ”だったのかもしれない。誰も表立っては口にしないものの、カンヌキの怪死について“主戦派への見せしめとして殺されたのだ”と考える者は少なくなかった。
 度重なる長期の間諜任務。未婚のまま産まれた子どもと、彼女へのネグレクト。奇妙な死因。もしも本当に他殺でないとするなら、晩年のカンヌキにはあまりに謎が多すぎる。

 そもそもカンヌキは軽薄かつ淡泊なところがあったとはいえ、情に脆い男でもあった。
 女性に対する尻の軽さを指して“多情の人”と揶揄されることもあったが、まあ、良くも悪くも情深かったのは事実だ。はたけサクモをはじめ一度気に入った人物については見てる側が恥ずかしくなるぐらいデレデレ付き纏って、嫌いな人物相手には日課のように嫌味を言いに行く。いやフガクから見て「嫌っているのだな」と思っていただけだから、実際は親しかったのかもしれない。
 そういう意味では、大蛇丸も彼のお気に入りだった。大の大人二人で、子ども染みた掛け合いをよく行っていたものである。デキてるとか何とか下世話な噂もあったが、事実は不明だ。
 どちらにせよ、あれだけ情深い男がネグレクトを行っていたというのは些か不自然だった。
 三代目と千手一族の計略で、実質的に親権を取り上げられているのではないか。会いにいかない、面倒を見ないのではなく、それを禁じられているのではないか――カンヌキの生前から、そんな噂があった。思えば、当時からカンヌキと三代目を仲違いさせたい勢力がいたのだろう。大した真実味もなく大戦末期の喧噪に紛れてしまった噂が、今更になって日の目を見ることとなった。
 かつて泡沫的に流れていただけの噂を根拠に“やはりカンヌキは子どもの親権を三代目に盗られたのだ”と尤もらしく語る。その声音には、多くの犠牲を払わされた恨みと、自分たちの正義を見失った不安と、同じ境遇にあったのだろうカンヌキへの憐れみがこもっている。
 天涯孤独の身となった子どもは、父親の死に如何いう事情があるかなど考えもしないだろう。
 三代目とそれに阿る千手一族にとって、革新・改革路線のカンヌキの存在は邪魔以外の何物でもなかった。それでも二代目火影の血を引くからと丸きり邪見にすることも出来ず、カンヌキの一挙一動で度々頭を悩ませたのだろうことは想像に容易い。三代目にしろ以前は友人関係にあったかもしれないが、第三次忍界大戦が始まってからは口論に及ぶことが多かったとも聞き及んでいる。
 そんななか、奇跡的に“千手トバリ”という跡継ぎが降って湧いてきた。
 折角の跡継ぎが父親そっくりの“アウトサイダー”になっては困ると隔離するのは、ごく自然な流れだと思う。そうでなければ情脆いあの人が我が子を見捨てるなど、あり得ない気がした。
 カンヌキは殺され、我が子も奪われた。そう考えるほうがずっと三代目を悪役にすることが出来る。アンチ三代目の人間にとって“千手トバリ”という子どもは生贄でも何でもなく、事の当事者なのだ。父親が犠牲となったことも知らず、まやかしの正義を植え付けられたまま長じる暗愚。
 彼女はフガクたちが受け入れられない“仮初の平和”そのものだった。


 先年怪死した千手カンヌキには、未詳の娘がいる。
 “未詳”というのは“まだはっきりしないこと”、もしくは“まだつまびらかでないこと”を指す。
 父親とあまりに年が離れすぎている上、まるで彼に似ていない娘が本当にカンヌキの血を引いているかは五分五分だなと見る者がいる。子供らしいところがないことを理由に“不気味だ”と称する者がいる。四歳で修行に明け暮れる子どもは大多数でないとはいえ、忍一族においては決して稀な存在ではない。それにも拘わらず、ただ彼女だけが“本当に人間なのか?”と謗られる。
 実父を亡くしたばかりの子どもが謗られるのには、そういう背景がある。

 現状彼女が何もしていなかろうと、主戦派の人間にとってはその存在そのものが許せないのだ。
 増してその能力の如何によっては、かつてのカンヌキが一族郎党から煙たがれていたのと真逆に――もしくは正しい在り方として、改革・革新派の邪魔をするかもしれない。何しろ表向きは二代目火影の孫で、第三次忍界大戦の立役者の娘なのだ。しかも後見人は三代目火影その人である。
 四代目火影が如何なる思想を有しているかは未だはっきりしないものの、三代目同様保守派だろうことは想像に容易い。余程の無能でない限り、“千手トバリ”はその父親同様上層部に太いパイプを持つだろう。そうして三代目の手で育てられ、ガチガチの保守思想を有する彼女は“現状維持”の後押しをするのだ。三代目がお膳立てし、四代目が守る“仮初の平和”を根拠に、祖父の取った政策の全てが正しかったと屈託なく信じ切って、千手一族の手で里政を動かそうとする。
 それはフガクの考えすぎなどではなく――十数年後、確実に実現するだろう未来の一つだ。
 温厚路線の三代目に飼い馴らされた子どもが、保守派の筆頭たる千手一族に祭り上げられないはずがない。ただでさえ忍者アカデミーをはじめとする里内の教育機関は千手一族に掌握されているのに、調子に乗った彼らの手で傀儡そのものを表舞台に出されるわけにはいかない。改革・革新派の忍者にとって“千手トバリ”という子どもはその血筋に劣る凡愚でなければならなかった。
 幸か不幸か、件の屋敷から漏れ聞こえる情報によると“ふつうの子ども”でないのは明らからしい。世間一般の平均から外れるのであれば、優劣を付けるほかない。きっと、“ふつうの子ども”だったと知らされるよりずっとマシなのだ。千手一族の生まれで忍才がある子どものほうが少ない。カンヌキの兄二人も凡庸な男だったと聞き及んでいる。綱手の父親だって、そうだ。幾ら千手柱間・扉間兄弟が忍才に溢れていたからといって、その子孫が皆優秀なはずがない。
 “千手トバリ”が世間一般の平均から外れるのであれば、劣っている可能性のほうが高かった。
 もし優秀な子どもであれば、千手一族の人間がこれ見よがしに可愛がるはずだ。千手一族から遠巻きにされるということは“そういうこと”に決まっている――皆、安心したいのだろう。

 何を言われようと、所詮“千手トバリ”は単なる子どもだ。
 大前提として、皆それを承知している。カンヌキの怪死にしろ、三代目への不信にしろ、改革・革新派が抱える“不満”は彼女のせいではない。根幹はもっと別のところにあって、ただ彼女が目立ったから槍玉に挙げられた。彼女が誹謗される理由なんて、結局のところ“目立つから”以外の何物でもない。大人の思惑に絡めとられた不憫な子ども。そう思えばこそ誰も彼女に手を出さない。フガクの部下にしろ、“千手トバリ”当人を前にしたら年相応の振る舞いで親切にしてやるに違いなかった。彼女には殺されるだけの理由はないし、自分の手を汚してでも殺すだけの価値もない。
 彼女の耳に届かない範囲でどれだけ謗ろうと構わないではないか。先の大戦ではただ悪戯に犠牲を出す内に終わり、あれだけ里に尽くしたにも拘わらず四代目選出に際してフガクの名を挙げる者は誰もいなかった。三代目は確かに優れた為政者で人格者だった。彼が正義で、その師である二代目もまた非の打ち所がない正義だったと言うなら、“うちは一族”とは一体何なのだ。
 たった一人の落伍者のために未来永劫この里の仲間として真に受け入れられず、僻地に追いやられたばかりか、長じて後は十把一からげに木ノ葉警務部隊にぶち込まれる。何の因果でこんな肩身の狭い思いで生きていかねばならないのかと思えばこそ、何もかもが馬鹿馬鹿しくなる。
 産まれついて火影になることの出来ない自分たちと違い、“千手トバリ”には努力次第で五代目、六代目火影になる夢を持つことが出来る。“良識”故に内乱を起こすことも出来ない自分たちが、口さがない噂話に耽ることの何が悪い。フガクの部下たちが四歳の子どもを謗るのは彼らに良識がないからではない。最早、そうすることでしか鬱憤を晴らす術がないからだ。

 仮初の平和とはいえ、一度日常に浸かってしまえば躊躇が産まれる。
 内乱を起こすだけの怒りはなく、寧ろ妻子のことを思えば終戦が喜ばしい。
 死んでいった仲間たちへの罪悪感と、愛する妻子と日々を過ごせる幸福感。その間で葛藤を繰り返し、“飼い馴らされている”とさえ思った。本当にこれで良いのか。何故あの戦争は長引いたのか。自分たちが真に里の仲間として受け入れられる日は来るのか。あれだけ里に尽くして、その功績を公にされることさえない。フガクにもプライドがある。自分より年若い波風ミナトが四代目として認められたことに、一切の嫉妬を抱かなかったと言えば嘘になる。口惜しかった。
 原則的に、火影は二十代後半から三十代の忍が選ばれるものだ。波風ミナトはフガクよりずっと若い。彼が任期を終える頃には無論、フガクは老いて、一線を退いているだろう。
 もう二度と火影になることは叶わない……その事実は、フガクの胸に重たく圧し掛かった。
 幼い頃からずっとフガクは“里の為に尽くし、忍者の本分を全うすること”こそが自分の生きる道だと信じていた。同世代の子らが「火影になりたい」とか「暗部に入りたい」などと大それた夢を諳んじる傍ら、フガクはひたすらに自分の為すべきことを見つめてきた。そんな自分が火影の座に付きたいなどと大それた野望を持っていたこと自体、フガクにとって意外だった。
 その夢が潰えてから気付く、自分の間抜けっぷりがあまりに可笑しかった。馬鹿馬鹿しさに低く笑っている内、涙が出た。それは夢に破れたからではなく、自分のなかの“少年”が死んだことへの涙だった。フガクは隣で眠る妻を起こさないよう、声を殺して泣いた。

 思えば物心ついた時からフガクは自分の為に生きようと思ったことはなかった。
 父母の期待に応えること、里のために尽くす立派な忍者になることだけがフガクの願いだった。長じて後の妻、ミコトに出会った時も彼女と付き合いたいとか、結婚したいとは望まなかった。ただ自分の隣にいる彼女が笑っていること、幸せであることを望んだ。父母のため、里のため、一族のため、妻のため……フガクは常にそうやって己を律して生きてきた。一人の忍者として、そう生きるのが正しいのだとずっとそう思ってきた。しかし今更になって、フガクの胸に疑問が萌した。
 自分はただの一度でも、自分のためだけの夢をひたむきに追いかけたことはあっただろうか。
 四代目火影候補に名も挙がらなかったと知って、フガクは部下たちほどには憤らなかった。その大人びた諦観こそが、自分自身に対する裏切りだったのではなかろうか。如何しようもない喪失感を覚えて、フガクはまだあどけない息子と、これから産まれてくる我が子のことを思った。
 自分の子どもたちには、悔いのない一生を送ってほしいものだ。

 自分が火影になるという大望を屈託なく抱けなかったのは、最早過去の話だ。
 今更火影になりたいわけでもない。幼い日の自分が“里の為に尽くし、忍者の本分を全うすること”こそが自分の生きる道だと信じていたのも“間違ってはいなかった”と思う。ただフガクは己の欲に気付くのが遅すぎた。そして気付いたところで、それが発芽する環境もなかった。
 それでも、自分が夢見たものを息子たちに託すことは出来る。自分の功績が公にされなかったことも、四代目火影候補に掠りもしなかったことさえフガクには如何でも良かった。息子たちの功績が公にされ、五代目、六代目候補としてその名が挙がる。フガクは、そんな未来を夢見た。


 息子たちのために、少しずつで良いから里政を変えていきたかった。
 そう自覚すると、やはり気分も新たに「“千手トバリ”が手の付けられない問題児だと良いな」と思わされる。もし彼女という“異質な子ども”が他人より劣っていなければ、格好の神輿となるからだ。綱手を最後に上忍を輩出していない千手一族において、忍才に溢れた子どもは無条件で持て囃される。現に、ウン十年ぶりに早期卒業制度を利用した千手トウヤはチヤホヤされている。
 千手トウヤは御年七歳、じきに八歳になる子どもだ。幾ら千手の秘蔵っ子とはいえ、トウヤ自身の性根はまだあどけなさが残って善良である。しかし如何にも同期で卒業したうちはシスイをトウヤの引き立て役として見る声が多いのが、フガクをはじめ、うちは一族の人間の勘に触った。
 勿論、当の子どもらは無邪気だ。トウヤはシスイを好いているし、シスイも自分たちの絆を単なる“友情”と信じて疑わない。ただ、それを見守る大人たちの胸中に複雑な想いが去来するだけで、二人は真っ当な友情で結ばれている。しかし、その二人の睦まじさを手離しで賞賛する人間など、三代目ぐらいのものだ。千手一族の人間はマウントを取るのに必死だし、うちは一族の人間は千手主導の友情を苦々しく思っている。千手柱間とうちはマダラの両人が仲違いした時、疾うに二人は成人済みの立派な忍者だった。うちはマダラの人間性に大いに問題があったにしろ、成人済みの忍者に不可能だった“恒久的な友情の維持”が八歳の子どもの手で成るはずがない。千手・うちは双方と無縁の忍一族にしろ、“じき沈む泥船に関わりたくない”というのが本音だろう。
 それでも“どっちが先に事を荒立てるか”とトトカルチョを始めるのは甚だ悪趣味である。

 先述の通り、フガクも二人の“真っ当な友情”を苦々しく思う人間の一人だ。
 単に“こんな詰まらぬことでさえ千手一族がマウンティングしてくるから”不愉快なのではない。それだけなら別によくあることで、見て見ぬふりで忘れてしまえば良かった。今はまだ幼いから仕方がないにせよ、シスイもその内千手一族の酷薄さに気付くだろう。フガクは、遠からず破綻する児戯にかまける趣味はない。しかしシスイとトウヤの力関係は、フガクにとって決して対岸の火事ではなかった。よりにもよって、フガクの長子は“千手トバリ”と同学年にあたる。万一“千手トバリ”が祭り上げられれば、友情の如何に拘わらず我が子が巻き込まれるだろう。
 フガクは親の欲目を抜きに“我が子の聡明さは他に類を見ないものである”と考えていた。
 フガクの子、イタチは聡明かつ産まれついて忍才に溢れ、何事にも熱心に取り組む美点を有している。まず間違いなく――流石に多少の欲目が混ざるものの――十代のうちに上忍に昇格するだろうことは想像に容易い。しかしフガクの目にも、シスイの忍者としての素質や勤勉さが我が子に劣るとは思えなかった。そのシスイが多数の意見に押されて、引き立て役を負わされている。
 フガクの眼にも、トウヤはただ優秀なだけの子どもである。忍才は並で、近親にも取り立てて名の知れた忍者はいない。祖母は千手柱間の側近として名の知れたくノ一だったが、二度の大戦を経て、その勇名も薄れてしまった。血筋で優劣が定まるわけではないが、神輿としては優れているほうが良いのは言うまでもない。その点では、“千手トバリ”に敵うものはいないだろう。
 “千手トバリ”は祖父に二代目火影、父に暗部総隊長を持ち、おまけに大伯父が初代火影である。彼女の血筋の華々しさと、その担ぎやすさと言ったら、他に類を見ないのではなかろうか。
 唯一対抗しうるのは、はとこである綱手ぐらいのものか。そもそも綱手を神輿として担ぐのに成功していれば、トウヤになど見向きもしないのだろうが……つくづく千手の人間は身勝手だ。

 “千手トバリ”について考えれば考えるほど“問題児でなければ困る”と思わされる。
 まあ、万一問題児でなかったとしても、精神的に潰してしまえば良いのだ。現実にそんな惨いことをする算段もなく、フガクはそんなことを思った。同時に、無意識下で合点した。素質は如何あれ、結果的に使い物にならなくしてしまえば良い――もしかすると、フガクよりずっと先にそうした考えに至った人間がいたのかもしれない。ふと思い返してみれば、彼女が如何に不気味で可愛げのない子どもであるかは、カンヌキの生前から出回っていた。その可能性は高い。そして、それは“父親や後見人の悪評の余波で誹謗されているのではないか”と考えるよりずっと分かりやすい。
 要するに三代目が失脚する前から、彼女が謗られる土壌は耕されていたのだ。

 産まれついて父親の業を一人背負わされたのかと思うと、俄かに同情心が沸き上がる。
 改革・革新派の忍者と関係していたのか、もしくはカンヌキに恨みを持っていたのだったかは忘れてしまったが、当時雇われていた家政婦は至る所に愚痴をばら撒いていたらしい。“感情がないみたい”とか“父親が会いに来ないのも当然だ”と零す傍ら、当人に対してそれは冷たく接したらしい。その噂を教えてくれた部下は“手ひどく扱われて当然”と言いたげな語り口ではあったものの、フガクはそれを聞いて苦々しい気持ちになった。例え難しい立場にあるとはいえ、たかが子どもに八つ当たるのは人間としてあまりに醜い。どれだけ“そうすることでしか鬱憤を晴らせないのだ”と部下やそれを取り巻く人々の悲憤を慮っても、フガクは如何しても“醜い”と思ってしまう。
 我が子と同い年の、それも天涯孤独の身の上である。そこに何らかの事情があったにせよ、彼女は“たった一人の父親に愛されなかった”と思っているだろう。後見人たる三代目は愚か無責任な親類にも捨て置かれ、どれだけの孤独を味わったのか。それに加えて身の回りの世話をしてくれる家政婦にまで悪しざまにあしらわれてきたのかと思えば、あまりに不憫だった。


 ただ“他人より目立つから”と、そんな理由で大人に振り回されつづける子ども。
 彼女は彼女で、里政の犠牲者なのかもしれない。


 フガクは、まだ幼い息子に里政の闇について漏らすつもりはない。
 そうした配慮も妻に言わせれば「戦場に連れて行くのも、一族間の確執を晒すのも大差ない」らしいが、本心からそう思っているわけでないことぐらいはフガクにも分かる。
 母性愛の強い妻は、幼い我が子に“忍の心得”を教えたがらない。年を負う毎に少しずつ忍者としての在り方を学んでくれればと、そう望んでいるようだった。尤も我が子の聡明さと癇の強さを思えば、夫に厳しく躾けてもらうほうが良いとも分かっているのだろう。二人きりのときに冗談交じりの不服を漏らす程度で、イタチ当人の前でフガクの教育方針に異を唱えることはなかった。
 幾らフガクが腕利きの忍者とはいえ、家庭内ではひとの親に過ぎない。我が子を無暗と甘やかさないのも、時として突き放した態度を取るのも、その将来を思えばこその仕打ちだ。子を育てるのは難しい。「厳しく接することで嫌われるのが怖いなら、普段から愛想よく振る舞えば良いじゃない」と口にする妻は、フガクの不愛想が生まれつきであると知っている。これだけフガクが子育てについて腐心する一方で、妻にはまだ夫をからかう余裕があるのだから尊敬に値する。

 二人も息子を設けているだけあって、フガクは割りと愛妻家だ。
 表向き亭主関白を気取っているが、プロポーズも、一介の“幼馴染”に過ぎなかった妻へ男女交際を申し込んだのも、全て妻にけしかけられた結果だ。妻からは散々「見かけによらず奥手で困っちゃう」と言われたものの、決して自分が女々しいわけではないとフガクは思っていた。
 今も昔も、フガクの妻は里一番の器量よしだ。そんな彼女にモーションを掛けるのは、Sランク任務に挑むより疲れる。大体自分より五つも年下の美少女と両想いだなどと、夢想だにしなかった。フガクの葛藤を何も知らない妻は「折角二人きりになっても手を握るどころか隣に座ってもくれない」とか「あなたの任務が終わるのを三時間も待ってたのに、別のひとを待ってるんだと勘違いした」「甘味屋の脇で寒いわね、何かあったかいものでも飲みたいわねって言い続けたら缶のココアを一本買ってきた」「二言目には『もう遅い、帰りなさい』なのよね」等と言ってくれる。好きだからこそ暗くなる前に家に帰ってほしいし、缶のココアを買うにしろどれが良いか滅茶苦茶に悩んだし、後輩のイケメンを待っているのだと思った時も健気に“取り持ってあげよう”と思った。
 女と男の間には深くて暗い川が流れていて、フガクがどれだけ心を砕いても妻は「五つも年上なのに、あなたはいつも奥手で、友だちが次々結婚しても何にも言わなくて」なのである。
 要するに、妻と結婚出来たフガクは運が良かったのだ。そうと自覚していても、「いつから惚れていたのか」と問われるだけで死にたくなるし、上機嫌の妻に昔話をされても死にたくなる。

 それほどまでに愛し合って結ばれた女との間に産まれた子どもだ。可愛くないはずがない。
 癇が強い。聡明なのは良いが、何でも知ったような口を利く。長幼の序をまるで弁えていない。愛想がない。困った子だ。訥々と難癖を付けながら、それでも恋女房によく似ていて可愛いと思う。柔らかい髪質も、形の良い輪郭も、大きくて黒目がちな双眸も、すっと通った鼻梁も、何もかもが妻譲り。自分譲りの不愛想と険のある目元のせいで気難し屋に見えるものの、文句なしの美男子である。まだ四歳なのにこんなに器量良しで、将来的に如何なってしまうのだろう。こわい。
 普段“恥ずべき本心”として秘しているが、フガクは割りと愛妻家だし、愛妻との間に出来た子どものことも深く愛している。それ故、出来る限り妻子を思い悩ませたくないと思っていた。

 隠れ里で育つ以上、如何あっても人の生き死にには触れることとなる。
 一族間の確執についても同様である。うちはの名を背負って産まれたからには、里の闇を知らずに暮らしていくことは不可能だ。うちはマダラという大罪人を輩出した過去があるからか、もしくは千手一族に敗北を喫した時点で手遅れだったのか、この里内においてうちは一族は極めて肩身の狭い思いをする。フガク自身、生き辛さを感じたのは一度や二度ではない。それでもうちは一族の居住区画にこもっていれば、余計な懊悩を背負わずに済む。かつての自分がそうだったように、このなかで友や同志を得て、恋をし、新たな家庭を作っていけばよい。フガクはそう思っていた。
 それ故、世間一般に有り触れた親の心情として「イタチが“千手トバリ”と関わり合いになりませんように」とは思った。しかしその複雑な親心をあざ笑うように、イタチはある日突然“千手トバリ”と関わり合いになった。それも当のイタチが積極的に干渉しているのだから笑ってしまう。
 フガクは、我が子があまりに激しい向上心を有するが故に他人に一切の関心を持たないことを知っている。万に一つも“自分に厳しく当たる父親への嫌がらせ”目的で件の子どもと関わり合いになった可能性はない。本当の本当に、ただ偶然出会ってしまっただけなのだろう。息子に非はない。同じ里内に暮らす以上、そして同年代なのだから、どこかでばったり遭遇する可能性は十分ある。
 出会い頭に食い殺されるわけでもなし、出会ってしまったものは最早仕方がない。

 まあ、元々子宮のなかに“協調性”を置き忘れてきた我が子のことだ。
 所詮息子にとっては一度会っただけの女児、毛ほどの関心も抱かないに決まっている。それでも念には念を入れ、彼女が面倒な存在であることを伝えておくかな。フガクはそんな意図でもって「度々自分のチャクラを暴走させていると専らの噂だ」と口にした。しかし不運な事に、それは完全な失策であった。二人が知り合ったと知って、少なからず狼狽したのだろう。完全にミスった。
『トバリは土遁を使って、オレをたすけてくれた。自分のいしで忍術をつかえるのだと思う』
 その台詞を聞いた時点で、フガクの関心は“我が子の躾け”に移っていた。所詮他人に過ぎない子どもが海のものであろうと山のものであろうと、我が子の“それ”に比べれば如何でも良い。
 フガクには、聡明な息子が父の言葉の真意を読み違えたとは思えなかった。ただ一度会ったきり、ぎこちなく言葉を交わしただけの子どもに特別の思いがあるわけでもない。単にフガクへの反発心から擁護したのだろうことは明らかだった。いつもの、“癇の虫”である。
 両親に注視され、決まり悪そうに言葉を続ける声も、表情も、何もかもがあどけない。
 聡明かつ愛妻に瓜二つの長子はフガクの“宝物”である。しかし、時としてフガクは、その“宝物”に本気で苛立つことがあった。最愛の息子が全能感を露わに歯向かう時、フガクは言葉にしがたい不快感を覚える。最初は「気が立っていたのだ」で水に流した憤りは、イタチが長じるにつれ憎悪に近づいて行った。その変容を自覚すると、フガクは自分という男が何を考えているか分からなくなるのだった。幼児の言動に目くじらを立てるなど、あまりに馬鹿馬鹿しい。増してや相手は愛妻に瓜二つの我が子である。少なからず愛している子どもの些細な物言いが鼻につくからといって、一々苛立つような人間ではなかったはずだ。息子の“癇の虫”に直面すると、フガクは二重に苛立ってしまう。それは自分が狭量だからとか、息子が我儘だからとかではなく、ただ親子という歯車が上手く噛み合わないだけで、それだけのことなのだとフガクは思っていた。何とか矯正しようと努めているにも拘わらず、一向に改善される様子がないのが殊更腹立たしかった。
 一体、息子の全能感は何に起因するのだろうか? それさえ分かれば対処の仕方も分かるのに、まるで見当がつかない。妻は妻で「子どもにありがちの一過性のものよ。男の子には、よくあるんですって」と口にしてみても、いざ息子の意固地に触れると口を噤んでしまう。

 あの夜――フガクは、まだ幼さが残って丸っこい息子を見つめて考えた。
 イタチは未だ四歳。外で会う、息子と同年代の子らには論理だった思考が出来ない子も少なくない。幾ら忍一族の子どもは精神的に早熟といっても、イタチの聡さは群を抜いていた。
 聡明かつ愛妻に瓜二つの長子はフガクにとって“生涯の宝”の一つだ。息子のためを思えばこそ、息子の屁理屈や我儘……その“得体のしれない全能感”を完膚なきまでに叩き潰すべきだろう。
 件の問題児と親しくなって、痛い目を見るのも良い経験になるかもしれない。
 そんな気持ちで我が子の我を通すフガクに対して、妻はどこまでも「アカデミーに入学すれば、男の子の友達も出来るわよ」と、息子の関心を“千手トバリ”から逸らそうとしていた。
 その夜、心配しきりの妻にもよくよく言い聞かせたが、「今は何を言っても無駄」なのだ。
 幾ら“千手トバリ”が面倒くさい境遇にあって、息子の性格に多少の難があろうと、二人とも所詮は四歳の子ども。些細な事ですぐ喧嘩するだろうし、この平時に、誰が四歳児に当たるのか。何より修行熱心な我が子に友情関係を維持するだけの熱量があるとも思えない。
 フガクの腕の中、妻が深々としたため息を漏らす。それも困るのよねえ。妻の言は正しい。

 何にせよ“成り行き任せにする”と腹を括ってしまえば、俗っぽい好奇心が鎌首をあげる。
 果たして“千手トバリ”なる子どもは、如何いう子どもなのだろうか。
 無責任な流説によると、度々自分のチャクラを暴走させているばかりか、礼節のれの字も知らぬ不愛想な子どもらしい。しかしイタチの言によればチャクラコントロールは万全で、既に土遁を使うことが出来るとの由。……性格についてあまり言及しないのは、所謂“火のない所に煙は立たぬ”だからなのだろう。幼いなりに友を思いやる我が子は一際健気に見える。
 どの道、我が子の性格から言って、誇張や嘘を含むとは思えない。それまでフガクが耳にしていた「自分のチャクラを暴走させている」という流説こそがデマで、実際は――フガクにとって少なからず不都合なのだが――その血に相応しい、聡明な子なのだろう。イタチにも同じことが言えるが、産まれついて忍才に恵まれた子どもは、一風変わった性格をしている場合が多い。
 忍才に溢れ、不愛想。イタチが擁護するぐらいだから、頭の悪い子どもではないはずだ。そう考えると、フガクのなかの“千手トバリ”像は極めて息子に酷似してきた。彼女が面倒くさい境遇に産まれてさえなければ、“聡明な我が子に相応しい友が出来た”と素直に喜べただろう。
 気難しい大人の常で、フガクも同じ子どもなら賢い子どものほうが可愛い。
 それに女児であれば余程のことがーー要するに“千手一族の贔屓”等がなければ、男児のサポート役に回るのが常である。同期に優秀なくノ一がいるのであれば、親しくしておいて損はない。これで千手一族でさえなければ……繰り返し忌々しく思っていると、フガクはふと違和感を覚えた。

『綱手様が里を留守にしてる以上は、今や千手宗家の人間はあの子だけ。それを見て見ぬふりしてるということは、何かしら問題があるということだ。そもそも、千手一族は薄情者の、』
 息子に刺そうとして、見事に空振りした“釘”である。

 噂の真偽が分からないからこそ、フガクは“千手トバリ”を他人より劣っていると決めつけた。
 何せ“二代目火影の孫”だ。余程の阿呆でない限り、千手一族が“千手トバリ”という神輿を捨て置くはずがない。しかし事実として、彼女は粗末に扱われていた。第一天涯孤独の身の上になった時点で誰ぞが引き取っても良いわけだ。それなのに、未だに家政婦一人に任せっきりにしている。屋敷に出入りする者も少なく、三代目とその息子を含めた数人の出入りが見咎められるだけである。
 実際に“千手トバリ”と会った息子の言葉を反芻する限り、彼女は千手一族に邪見にされるような問題児とは思えない。不愛想で礼節を知らぬぐらい、奴らにとっては屁でもないはずだ。まさか本当に他人に噛みつくとか、ちょっと関わるだけで方々から命を狙われるとか、フガクの想像以上に面倒くさい状況に置かれているのだろうか? 三度の飯より権威を愛する千手一族の人間が、権威と伝統の申し子たる彼女を遠巻きにする理由は何だ? 息子に分からなかっただけで、実はとんでもないサイコパスの問題児なのか? 安らかな寝息を立てる妻を抱いて、フガクは悶々とした。
 たった一つ思い当たるのは、千手一族内におけるカンヌキの悪評である。しかし、カンヌキによるネグレクトは有名だ。“敵の敵は味方”の理論で、その娘には優しくしたくなるのが人情ではなかろうか。いや、優しくしようとしたらあまりに不愛想で可愛げがないので、嫌になったのか。
 一体何故“千手トバリ”はありとあらゆる派閥から放置されているのだろう。わからない。

 フガクの疑問を置き去りに、二人はぎこちない友情関係を維持しているらしかった。
 不愛想の頭でっかち同士反発し合うのではと思ったのに、何やかや不満を漏らしつつイタチは彼女に会いにいく。寧ろ、イタチの雰囲気が変わったかもしれない。あれだけ大人びた我が子にとっても“友達”は特別なのか、彼女について語っている息子は年相応に幼く見える。
 トバリがトバリとトバリはーー二人で修行しているだけのくせに、よくもまあ話題が尽きないものだ。話の内容は主に“トバリが如何に物知らずでヤバいか”である。一応息子なりに言葉を選んでいるのだろうが、如何しても“珍獣”の生態を他人と共有したくなるのだろう。それは果たして純粋な友情と言えるのだろうかと思うフガクを差し置いて、妻はあどけない息子を独り占めしている。
 息子は“このぐらいなら言っても問題はない”と思っているのか、「トバリがいらないものばかり持ってくるから、もちものリストをつくることにした」とか「トバリが今日も水をのまないから、水をのむじかんをつくることにした」と謎のスケジュールが記された紙を見せびらかしてくれる。
 幾ら息子が楽しそうだからと言って水を飲まないとか、弁当を食べないとか、やたら汚れを気にするとか、そんな些細な揚げ足取りを「あら、仲がいいのねえ」などと許容していいのだろうか。
 妻の反応を伺うと、傍若無人な息子をウットリ見守っている。あれだけ二人の友情がどうなるか気を揉んでいたのが嘘のようだ。「このまま育ったらDV男になるのではなかろうか」というフガクの不安もどこ吹く風である。妻が許そうと――いや、母親が甘い分、フガクが厳しくしなければならない。フガクは居ずまいを正して、息子を躾けるのに最適なタイミングを待った。
 あんまり離れているのも説教のタイミングを逃すかもしれないから、さり気なく妻子に近づく。
 あんまり興味なさそうな素振りを見せるのも父親に対する信頼感を損ねるかもしれないから、さり気なく相槌を打つ。唯一の友の珍妙な行動を熱演してみせる息子の演技力に、思わず感じ入る。
 父親というのは難しいものだ。決して甘すぎてはいけないが、厳しすぎてもいけない。

 明日から舞台俳優になっても食べていけそうな息子は、友のやる気のなさを批判している。
 祖父の日記に夢中で生返事をするのが許せないらしい。別に修行に祖父の日記を持ってきたって良いじゃないかと思うのだが、そんなに自分を構って欲しいのだろうか。かわいい。
 トバリへの文句を吐き出す息子は自分譲りの不愛想と険のある目元が和らいで、かわいさが三割増しになる。そしたらフガクだって「もう漢字が書けるのか」とか言って、団欒に参加してしまう。じきに兄になるという自負が、トバリへの過干渉の理由かもしれない。そう思うと更にかわいい。友だちに「水と弁当以外は持って来るな」と断じるプリントを作成する息子はかわいい。「あれだけ注意したのに水と弁当を持ってこなかった」と言ってプリプリする息子もかわいい。
 齢四歳で水分補給の重要さを理解しているとか、うちの子はしっかりしすぎか……?


 一方で、トバリはフガクの想像以上に御しやすい子どもであるらしかった。
 ただイタチのはとこに無礼千万な態度を取ったことから、誰にでも彼女を振り回せるわけでないことが分かる。根は善良だが無神経かつ不愛想。そんなところだろう――そうと結論づけたところで、何故彼女が千手一族の人間にチヤホヤされないのか分かってきた。何のことはない、要は「千手トバリが面倒くさい立場にある」という認識は千手一族の人間にとっても同様だったのだ。
 カンヌキへの同情と憐憫が高まっているのを思えば、無暗とトバリにちょっかいを出すのは得策ではない。外野から「右も左も分からない子供を丸め込んで、カンヌキの財産を取り込んだ」と吹聴されるだけに留まらず、一族内の人間からも「三親等でもないくせに勝手なことを」と謗られるだろうことは想像に容易い。増して終戦・三代目の退任・四代目の推挙と里政が騒がしいなか、血筋が良いだけの幼児に構っている暇なぞなかったのだろう。それに幾ら聡明で忍才に溢れているとはいえ、あの一族には既に“千手トウヤ”という神輿がいる。彼の優秀さを知っていればこそ、あまりに多い難点に目を瞑ってまで囲い込む価値を見出せなかったのに違いなかった。

 カンヌキが死んでから、まだ一年と経っていない。
 もしかすると、誰より先にトバリを囲い込むのに成功したのは息子だったのかもしれなかった。

 綱手が子どもを設けなければ、トバリをおいて他に千手宗家の血を引く人間はいない。
 第三次忍界大戦後のどさくさ紛れで、皆が一族内の序列について忘れているようにも思った。
 カンヌキは徹底して改革・革新思想を支持したことため、ガチガチの保守派である千手一族において蛇蝎の如く忌み嫌われていた。じゃあ“敵の敵は味方”の理論で、古くから千手一族と対立関係にあるうちは一族に肩入れしたのかと言えば、それは如何ともしがたい。フガクに対して親切だったし、時と場合によってはうちは一族に協力してくれることもあったが……常ではなかった。
 しかしトバリは父親たるカンヌキとはまるきり違って、律儀で、押しに弱い性分である。
 増して喪に服して牽制し合う親族のおかげで、金銭抜きに頼れる相手は三代目親子しかいない。三代目は言うまでもなく、その息子たるアスマもかなり年が離れている。さぞかし心細いだろう。
 彼女にとって、イタチは同年代で初めての友だちにあたるわけだ。
 フガクは思った。シスイとトウヤの友情を手離しで“善なるもの”と見ている三代目のことだから、当然二人の友情を長続きさせたいと望むに違いない。そしてフガクの知る限り、息子と同程度の忍才と聡明さを兼ね揃えた子どもはトバリをおいて他にいなかった。要するに――このまま何事もなく時が経てば、初代火影以来の“うちは贔屓の千手一族当主”が育つかもしれない。
 イタチはトバリに並々ならぬ関心を持っていて、案外気が合うようだし、妻は端から子ども好きで、息子の情操教育に好影響を与えるトバリに好感を持っている。当のトバリも「赤ちゃんがいるおなかをみたい」などとあどけない願望を口にするあたり、可愛げがある。トバリのことを「頭が可笑しい」とか「人間じゃない」とかほざいていた奴らは、彼女と関わったことがないのだろう。フガクだって直接的に関わったことはないのだが、それでもすぐに破綻する嘘を“真”と偽って吹聴するほど阿呆ではない。まあ、千手の価値観に染まった子どもが減るのは善いことだ。あんなに御しやすい子どもを風説に気を取られて放っておくあたり、やはり千手一族は無能揃いである。
 所詮四歳の子ども。何やかやと策を練るまでもなく、呆気なく取り込めるだろう。

 そんなわけで、フガクも表向きは“一族の溝を越えた友情”を微笑ましく見守ることにした。
 別に何をするわけでもない。三代目が手放しで喜ぶのと同じで、二人の仲に水を差さないでいるだけだ。だから息子が「トバリを夕飯にまねきたいのだけど」と申し出た時も快諾した。
 息子が“父は自分たちの関係をよく思っていないのではないか”と案じているのは知っていた。息子だけではない、妻も同様だ。夫と息子を同じぐらい愛する彼女は、二人の意見が分かれた途端に弱気になってしまう。息子と二人示し合わせてフガクが遅番の日に招こうとしたのは、如何転んでも大事にならないよう配慮した結果なのに違いない。しかしトバリがどんな子どもであれ、フガクは彼女と上手くやっていくつもりでいた。息子の不安を和らげるために――その将来のために。


 先年怪死した千手カンヌキには、未詳の娘がいる。
 “未詳”というのは“まだはっきりしないこと”、もしくは“まだつまびらかでないこと”を指す。
 彼女が何者であれ、少なからず息子の役に立つのであればそれ以上は如何でも良かった。
チェンジリング
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