やめてください。ひびわれて硬い手がトバリを庇う。

 この子に何の罪があります。“お嬢様”が死んだのは、もうずっと昔のこと。喩え人間でないにしろ、この子に何の罪があります。坊ちゃん、やめてください……やめてください。
 すすりなく声が部屋に木霊する。カンヌキは荒く息を吐きながら、振り上げた拳を下した。眼窩の奥の、赤々とした闇がトバリを見つめている。憎しみと哀しみが綯い交ぜになった瞳だった。
 トバリの視線を疎んでか、カンヌキは両手で顔を覆い、すぐ脇の壁に寄り掛かった。何の罪がある? チャクラで保護しようともせず、無防備に壁を殴る。それを聞いたのは僕だ。
 カンヌキが握った拳を壁にこすりつけると、緋が散った。
 これは僕の馬鹿げた逃避と独りよがりから産まれたものだ。如何して何の罪がないと思う。
 柔らかい皮下組織を、ざらざらした壁で削り続ける。暫くの間そうやって、カンヌキは壁に血色の絵を描いていた。桃と緋の隙間から黄ばんだ脂肪が覗く。硬い音を立てて、また、壁が鳴った。
 きっと些細なことで逆上しそうになる自分を、痛みで紛らわそうとしたのだろう。
 肉体の痛みが心の痛みを凌駕することを祈って、カンヌキは血を流し続ける。ありったけの誠実さを示そうと、カンヌキは、自分のなかの激情に抗っていた。トバリが自分の意志で木ノ葉隠れの里へやってきたわけではない。カンヌキにも責任がある。トバリは加害者ではないが、被害者でもない。カンヌキの示そうとした“誠実さ”は彼の痛みなくして成立しえなかった。
 随分長い間、カンヌキは努力していた――彼の尊厳に懸けて。でも、とうとう痛みに耐えることは出来なかった。当然だ。トバリだって、同じように、いや彼よりずっと愚かな逃避を繰り返してきた。カンヌキが私憤を捨てきれなかったといって、非難出来るはずがない。
 幾らかの平静を得ると、カンヌキは危うげな足取りで踵を返した。無言の背中が去っていく。
 カンヌキが消えるまで……消えてからも、センテイはずっとトバリを抱えて泣いていた。
 トバリは老いさらばえた体躯で必死に自分を守ろうとする老爺に、頬を寄せた。それは、トバリにとって慰めのつもりだった。鬱屈のまにまに、愚かな子猫が膝に上がりこむ。にゃあんと媚びた声で、トバリの腹に頭をこすりつけてくれた。毛が付くと思いつつ、晴れやかな気持ちになったものだ。それなのに、センテイの胸中は曇天のままらしい。嗚咽がより激しくなる。

 センテイは泣き、カンヌキは怒った。トバリにはその理由が分かっていた。トバリのせいだ。
 トバリの失言のせいで、二人の胸中は酷く乱されてしまった。でも、その失言の内容が何かまでは思い出せない。カンヌキに向けて放ったものではなかった。たまたま、カンヌキに聞こえてしまった。そういう失言。間が悪かったと言うべきなのだろうか? いや、そうじゃない。最初からそっくり話すべきだった“失言”を、トバリは黙していた。自分の意志で誰にも話さないでいた。
 最初からカンヌキに伝える気はなかった。センテイにも、それは同様だった。

 トバリはどうにかセンテイの腕の中から抜け出すと、その顔に手を伸ばした。
 涙の道が敷かれた頬に触れると、日に灼けて乾いた肌はパサパサしていた。華奢な指先に、しわの凹凸が伝わってくる。しわに埋もれた目元からは、まだ滝のような涙が流れていた。
 子猫の死骸を目にした時も、いや、それよりずっと酷い泣き顔だった。
 なんと言っていいのか考えあぐねて、トバリはセンテイの涙を拭った。涙を拭われながら、センテイがトバリに手を伸ばす。その指先が怯えた風に震えていた。気味が悪いのだろうか。センテイは傷一つないトバリの胸に――ついさっき、確かにクナイで切り裂かれたはずの胸に触れて、ひびのいった唇を噛んだ。ぐっと、喉が低く鳴る。かわいそうなセンテイ。温い雨のなかで、トバリは思った。傷がある間は勿論負傷者の体調に関心を寄せるのが一般的だが、治ってまで気に病むのは無駄なことだ。それが当然だと思うのに、センテイは“痛み”や“傷”にいつまでも囚われてしまう。
 わたしは何のもんだいもない。いつものことだ。何も、お前が泣くことはない。
 そう口にするトバリの体は傷一つなく、極めて健康体だ。その一方で、センテイの体にはいくつかの痣が残っていた。黄ばんだ肌の下が青くうっ血している。治るまで一週間近くかかるだろう。トバリのせいだ。トバリの浅慮から、いつもこの老爺は傷ついてしまう――心も、体も。

 この世に産まれる前からトバリには一つの望みがあった。
 誰かのために、自分はここに存在するのだと思いたかった。他者に求められ、その役に立つことだけがトバリの願いだった。自分の存在を確かめるために、トバリは奉仕を望んだ。
 トバリの五感の及ぶ範囲で助けを求めるなら、それに応じてやりたい。トバリの行動次第で運命が左右出来るなら、良い方向へ行けるよう手助けしてやりたい。生きることが苦しいのなら、その気持ちを紛らわしてあげたい。今が幸福なら、その環境を守ってあげたい。その何もかも全て、トバリが望んだものだった。馬鹿馬鹿しいことに、誰かに守ってほしかったのはトバリ自身だった。

 助けてほしいなんて思わなかった。
 そう口にしたところで、トバリの手を引いてくれる人は誰もいない。
 一人にしないでほしいなんて、望まなかった。
 縋ったところで、侮蔑と共に振り払われるのが目に見えている。
 失望するぐらいなら何も期待しないほうがいい。手に入らないなら望まないほうがいい。幸せになれないのなら、何も感じないほうがいい。誰も傍にいてくれないなら、最初から――そんな懊悩を永遠に繰り返す。理性に学ぶこともなく、生物としての本能で番を探し続ける。


 誰でもいい。わたしと共に生きて、わたしを愛して。




 トバリは自分と同種の生き物がいない場所で飼われ続けた。
 時の流れも分からぬ闇のなか、時折母の腕と声だけがトバリの孤独に触れる。如何しようもない寂しさから、トバリは母に縋った。自分の頭では何も考えず、自分に触れるもの全てに縋った。“自分のそばにいてくれ”と縋って、何度も突き放され、次第に“縋っても無駄だ”と学んだ。
 その“人恋しさ”はこの世に産まれ落ちてからも変わらない。ただただトバリは寂しかった。何でも良いから、傍にいてほしかった。誰でも良かった。誰もが受け入れてくれるわけではないと知った。受け入れて貰えない苦しさを知ると、拒絶と孤独のどちらが辛いか分からなくなった。
 拒絶と孤独。トバリにはその二つの選択肢しかない。番を得るより、自我を失うほうがずっと容易い絶望。自分という殻のなかで、トバリは自分の孤独を忘れ、自分を顧みなかったもの全てを呪うことが出来る。その結論が見えてきた頃、トバリは自分が何のために存在するのか知った。
 今もまだトバリは番を得ることを諦めきれない。寂しい。ここにいたい。居場所が欲しい。自分と誰かがすっぽり収まることのできる、居心地のよい巣。家族。トバリのための命。その祈りが破綻した時、トバリは全てを呪うだろう。その呪いを吸って、胎のなかの神樹の種が発芽する。
 数百年に渡る孤独も、不自由も、不自然な形での転生も、今生の境遇が数多の犠牲の上に成り立つのも、全部、最初から――何もかも、トバリという肉畑で神樹を育てるためだった。
 一番忘れてはいけなかったことを、何故忘れた。

「ワラワのかわいい盆養。そのまま、すくすくと胎の子を育てるが良い」
 トバリの背後で、母が満足げに微笑する。思い返すと、実に一年ぶりの再会だった。
 気高くもうつくしい、お可哀想なお母さま。色んな事を忘れ、呑気に暮らしていたトバリを詰ることもなく、優しく撫でてくれる。こうしておけば満足なのだろうとでも言いたげに、優しい。
 母の手が撫で、母の声が労わるのは、トバリではない。確かに、トバリは“嬉しい”と感じた。“懐かしい”とも思った。自分を養分としか思っていない女に触れられて、それでも嬉しいと感じる、浅ましい本性。それがトバリだ。カンヌキが殺すことに失敗した、醜い生き物。
 トバリは口を開いた。何か言ったところで相手にしてくれるひとではない。そうと分かっていても、トバリは何か言いたかった。何を言いたいのか分からない。何でも良いから、喋りたい。
 自分のなかの感情が音になるより早く、母の冷たい唇が耳朶に触れる。

「お前も、よもやこの母を裏切るまいな?」
 嘲笑交じりに母が囁く。“お前にそんなことが出来るはずもない”と、そう決めつける声音で。


◇◇◇


 遠くで、鶏を絞める音がした。ギャアギャアと消失を恐れる悲鳴。
 仕方のない本能的恐怖だと知っていてさえ、死がそんなに恐ろしいのかと不思議になる。死ねば、そこで終わりだ。少なくとも、終わることが出来る。終わるということは、もう二度と苦しまずに済むということだ。ずっと他人の意志で飼われ続けるより、屠られたほうがどれだけ楽か。
 牛も豚も鶏も、トバリよりずっと良い。ひとの役に立つし、なるたけ苦痛のない方法で屠られる。トバリも家畜だったら良かった。そうしたら、同種の生き物と共に生きていけたのに。
 朝の冷たい空気のなかで、トバリは体をくの字に折った。朝だった。朝で、そこは見慣れた自室だった。ブルーシートも、奇妙な闇もない。枕元の目覚まし時計が朝六時を知らせるアラームを鳴らし続け、トバリの口からはそれを掻き消す声量の悲鳴があがっている。トバリは両手で口を塞いだ。音を発し続けているのは目覚まし時計だけで、鶏どころか雀の鳴き声さえしない。
 よく考えてみれば自宅近辺に商店街などない。鶏の断末魔なんて、聞いたこともなかった。
 トバリはガタガタ震える体で深呼吸を繰り返した。幾らか気持ちが収まってから、口元からそっと右手を剥がし、アラームを止める。しんと、静寂があたりを支配した。

 静かで、明るくて、爽やかな初夏の早朝だった。
 意識が飛んだことを除けば――いや、それだって四度も経験すれば十分“いつもどおり”である。いつもの朝だった。起きた後にすることは、寝ないで迎える朝と大差ない。
 朝が来る度トバリはアラームを止めて、一応敷くだけ敷いた布団を仕舞う。その後で、朝風呂に入るのが毎朝のお決まりだった。体を清めるのが好きなのだ。トバリは夜も朝も風呂に入る。浴槽に水が張るのを待つ間、顔を洗って歯を磨き、着るものを準備する。そうこうしているうち、八時ちょっと前に家政婦がやってきて、朝食を作り始める――トバリに必要ないものを。
 トバリは目覚まし時計に乗せた手をスライドさせて、その脇にあるポーチをまさぐった。冷たく硬い鉄塊を手繰り寄せて、そのまま自分の腹に打ち付ける。腹を抉りたかった。ジャガイモの眼をえぐり取るように、そうしたら何もかも今まで通り暮らしていける気がした。躊躇なく腹に打ち付けられるクナイが皮膚を破り、赤々と血を流す臓腑に埋まる。大蛇丸が着せていってくれたのだろう寝間着が破れ、緋色に染まる。突き刺したままのクナイが何かの力で押し返される。
 トバリは痛みに喘いだ。抉られた肉は熱を持ち、貧血状態の体は鉛のように重い。
 血を流し過ぎたのだ――トバリには分かっていた。脳に酸素が回らず、みるみる体温が下がっていく。灼けるような痛みを冷え冷えとした虚脱感が覆い隠していた。血を作り出さなければならない。そう思っているにも関わらず、トバリの意志と無関係に腹部の修復が始まる。
 下腹部で、何かが蠢いていた。緋色の肉は空気中に晒されたまま、体の奥から癒えていく。少しずつ、ゆっくり、這うように……それは未だかつて体験したことのない感覚だった。しかし、ぼうっと靄の掛かった頭は、それを“悍ましいものだ”と理解することさえ出来ない。

 腹部がその内側から丁寧に修繕されると、トバリの体は幾らか落ち着いた。
 最初から、思い出す前からわかっていたことだ。腕の傷より、頭部の傷よりも早く、胎の傷が快癒する。トバリは血まみれのクナイを見て、荒い息を吐いた。焦燥感が、腹に残っていた。
 これを如何にかしなければ、あの女が来る。死ね。死ななくては。早く、急いで死なないと。今、この自由が許されている内に死ね。そうでなければ、お前は元の化け物に逆戻りだ。理性もなく、五指もなく、口も利けず、水の中で息を潜める。管を通して送られてくるチャクラに耐えることも出来ず、末梢部位が破裂する。痛み以外の何も感じない世界。二度と戻りたくない場所。そこに連れていかれる。誰も助けてくれない。死ぬことも出来ない。ずっと痛みだけがある。
 怒りも焦燥も目覚めた時のまま変わらないのに、クナイを持つ手は動かない。“どうせ何の意味もない”と知ってて動かさないのではない。そう割り切れるなら、どんなにか良かっただろう。

 恐ろしいのだ。
 皮膚が破れる痛みが、肉を穿つ熱が、臓腑に触れる空気が、緋色に溢れ続ける血が――それだけの痛みを伴って抗ったにも拘わらず、全てが無意味だと思い知らされる。
 抗わなければ痛みを覚えることはなかった。胎の裡を這いずるものにも気づかなかっただろう。

「う、ぐ」
 トバリは布団の上に頽れた。緋で染まったシーツに手をつく。

 片さないと。頭の片隅で、冷静な声がした。昨夜食べた粥が喉からこぼれ落ちる。
 胃が痛かった。胎も痛かった。体のなかで、何かが憤っているのが分かる。自分一人では如何しようもならないことも分かっていた。トバリに出来るのは、平静を装うことぐらいだ。布団を片し、クナイを洗って、血で染まった衣類と寝具を庭に埋める。それ以外に、自分に何が出来るのか。母の嘲りを思い返して、トバリは吐いた。胃が空になって、消化液が尽きるまで吐いた。粥の白と血の赤で紅白に染まった腕が、ガクガク震えている。目先の恐怖に囚われて身動きすることが出来ない自分に対する羞恥心。そんな自分を見透かして馬鹿にする母に対する憤怒。恐怖と羞恥と怒りとが混ざり合い、一体何が理由で精神の均衡を失っているのか分からなかった。
 ただもう、如何しようもないほど惨めだった。

 “いつもどおり”とまでは行かずとも、血が止まって暫くすると気持ちの面でも落ち着いてきた。
 吐しゃ物まみれの腕をそっと布団から剥がす。トバリは呆然と自分の作り出した惨状を確認した。馬鹿げた衝動に突き動かされて、また色んなものを無駄にしてしまった。
 家政婦が折角作ってくれた食事を吐き、ヒルゼンの買ってくれた掛け布団を血で汚し、これからまた家政婦の朝食を無駄にしなければならない。何故いつまでもトバリは学習しないのだろう。
 何も無駄にするなとまでは思わないが、自分の体の造りを踏まえて暮らすべきだ。裂傷如きで死ぬ体ではない。自分の胎を抉ってみて、それが何になる。わかっていたはずだ。トバリはクナイを手離した。もう捨てる他ないシーツに、クナイがぼとっと血の痕をつける。敷布団も駄目かもしれない。なんて言い訳をしよう。いっそオネショでもしたことにするか。それが良い。
 訥々とトバリは思案した。自分の頭で何か考えることが、何よりトバリを落ち着かせてくれた。

『経絡系の流れも安定して、理想的な用土に育った』

 原則的にトバリの体は心臓、下腹部、上体、四肢、脳の順で再生する。
 それは何ら非効率的な順ではない。トバリの胎に巣食う神樹の種が、自身の“寝床”を維持するために重要な部位から再生させるのだ。まず胎内の温度を下げないための心臓、子宮の位置する下腹部。頭が一番最後なのは、要するに“そういうこと”だ。トバリの存在理由は、トバリの自我の一切を必要としない。多分、この体は一定の年齢に達した時点で成長を止めるだろう。神樹にとって一番居心地のよい形で固定される。単純に考えれば、思春期が終わった頃……成人手前。
 年を取らなくなれば、トバリが何もかもを黙っていても、例え母が何の手だしもしなくても、じきにトバリは人里で暮らせなくなる。傷が治るのは何とか誤魔化せる。医療忍術を学べばいい。でも年齢は、いや、綱手のような例もある。あの人は外見よりずっと年嵩だ。誤魔化せるかもしれない。どうやって誤魔化す。綱手がどうやって若さを保っているか知るより早く、成長が止まったら如何なる。例え知っても、トバリの手に負える忍術ではないかもしれない。綱手は優秀なくノ一だ。その可能性は十分ある。じゃあ、トバリは如何したら良い。トバリはグルグルと考えた。落ち着いたとはいっても不安は根強く、些細な切っ掛けひとつでトバリの胸中をかき乱す。
 この里を出る? ここを出て、どこへ行く? 隠れ里よりずっと警備の甘い普通の市街か、もしくは無人の山奥で暮らしたところで、兄が迎えに来るだけだ。自分よりもずっと物識りで、母を愛している兄。母と同じにトバリの自我を軽んじている兄。十年前に一度トバリを絞り殺した兄。
 またアレと暮らさなければならない――そう気付くと、あまりの恐怖に総毛立った。

 枯草のなかには、自分と同じ顔をした少女が倒れている。
 やせ細ってはいたけれど、傷一つない体。愛らしい容姿。器用そうな指。自分の意志で動くことが出来る、逞しい四肢もある。その子の胎を開いた兄が、死体の上に自分を掲げ持つ。小さい体は兄の手の中でブッと音を立て、いとも容易く握りつぶされた。兄の拳のなかから、白濁色の液体がしたたり落ちる。それは体液というより、樹液か果汁に近かった。交雑種のチャクラの実は外気に弱く、低温に弱い。チャクラなしで育たぬくせに、直接チャクラを注ぎ込まれると表皮が破裂する。数少ない生物学的長所として、繁殖力が強い。その一方で、チャクラの実の果汁も果肉も、種も、殆どの人間にとって――千手柱間と同じ遺伝子配列を持つ人間以外にとって有害だった。
 近い血統が必要だった。隠れ里の外にいる子どもは恰好の標的だった。体を作り替える必要があった。種子がその子宮に定着するよう、彼女の体を神樹に近づける必要があった。
 本当なら消えるはずの前世の記憶を有したまま、トバリは産まれた。前世の自分が育てることの出来なかった“子ども”と共に。一人の少女の命を踏みにじって、彼女の名前と顔で生きている。
 それがトバリの記憶していることで、この一年というもの忘れていたことの一つだった。

 次から次へと、記憶の扉が開かれる。

 自分を縊る兄の手のなかで、トバリは自分を撫でる手を思い出した。
 しわで弛み、乾いた掌。たった一度トバリに触れただけの手。母の嘲りを理解することさえできず、痛みだけがあった頃のことだ。たった一度でも、忘れがたかった。冷たい石の上に、老爺が座っている。兄から受け取ったトバリを膝上に乗せて、つついていた。トバリには、その老爺が兄と何を話していたのかは分からないし、何故自分を廃棄しないのかもよく分からなかった。老爺はトバリの触手を引っ張り、頭部を撫でる。その気まぐれに、トバリはよくわからないまま一つきりの目蓋を開けたり閉じたりしていた。やがて戻ってきた兄が、トバリを摘まんで、老爺から遠ざける。そのままトバリは戻らなかった――あの暗い水底にも、無にも、老爺のいた広間にも。
 老爺はひとりぼっちだった。その時限りのことか、トバリ同様ずっとそうだったのか、はっきりとしたことは分からないけれど、トバリは自分以外の孤独を知らない。自分と同じだと思った。自分が母へ縋るのと同じように、トバリをつついたのだろうか。母や兄のように、口があって、耳があれば、その真意がわかるのに。そう思った時、漠然と“人間になりたい”と望んだ。
 枯草を倒し、荒野に伏す亡骸。それを見て、何より先に“この体が欲しい”と思った。その姿で帰りたいと思った。戻りたくないと思っていたのに、かえりたいと、強く願った。
 傷一つない体。愛らしい容姿。器用そうな指。自分の意志で動くことが出来る、逞しい四肢。自分がこの生き物と同じ容姿だったら、例え同種の生き物でなくとも、何か、誰かが番ってくれるかもしれない。浅ましい考え。人間になりたかった。如何しても人間になりたかった。
 人間になりたい。でも、他人の居場所を奪うために人間になりたかったわけではなかった。
 トバリはただ一人が嫌なだけだった。番ってくれるかもしれないと思ったものが人型をしていたから、人間が良いと思った。浅ましく、卑しい願いではあったけれど、それだけのことだった。誓って、トバリは彼女を踏みにじりたかったわけでも、カンヌキを傷つけたかったわけでもない。
 あの荒野で、眼下の少女にどんな人生があったか知っていれば、トバリは何も望まず無に還った。そこがトバリの生まれた場所で、誰も傷つけることなく収まることが出来る居場所だった。

 カンヌキはその事実を知った。それが、トバリの“失言”だった。


 何故、こんなことになってしまったのだろう。
 繰り返しトバリは考えた。前はこんな風に感じることはなかった。何もかも仕方がないと思っていた。夜毎夢の中で、母を名乗る女がトバリの存在意義を言い含める。何も考えなくて良い。情を移す必要はない。次第にそれが疎ましくなり、眠らなくなった。起きている限り、トバリの生活は普通だった。痛みを感じない日々は喜ばしく、カンヌキが稀に会いに来るのが嬉しかった。声を出せるのが嬉しかった。自分の手足が動くのが嬉しかった。他人の声を聴けるのが嬉しかった。書物を読みふけった。トバリにとって、この邸内の暮らしは決して孤独ではなかった。
 前世の不遇を思えば、トバリという子どもの役を演じる日々は何もかもが楽しかった。いつからか、ここで死にたいと思うようになった。センテイより早く死にたい。そう願うようになった。
 胎のなかに神樹の種がある限り、母も兄もトバリを放っておいてくれない。
 そう遠くない未来に、またトバリはあの地中に連れ戻されるだろう。花も木も望めない、薄暗い洞窟。前と違うことは、トバリの胎で神樹の種がすくすく育っていること。母は、トバリの胎を大事にしてくれた。恐らく、あれきり会っていない兄もトバリを丁重に扱ってくれる。
 幾たびの試行錯誤と失敗を経て、ようやっと受胎した体。母も兄も、定めし大切にするはずだ。肉体的な痛みは、もう二度と与えられないと考えてよい。寧ろ、大蛇丸せんせいの好奇心に付き合うほうがずっと痛いに違いなかった。そういう憶測を立てても、トバリは母と兄を選ぶ気になれなかった。大蛇丸に体を切り刻まれ、妙な薬を試されているほうが幾分マシだ。
 母と兄に比べて、大蛇丸はトバリを一つの命として扱ってくれる。リサイクル可能だから手荒に扱うだけで、馬鹿にしてるわけではない。ちゃんと会話が成り立つし、寝間着も着せてくれる。

 “トバリ”の死から、十年が過ぎているとも知った。
 かつて自分を構ってくれた老爺も、疾うに死んだだろう。生きていたところで、トバリはもうあの老爺の顔さえ覚えていない。ヒルゼンやアスマ、センテイの優しさを知ってしまえば、それらを捨てて戻るほどの魅力は感じなかった。戻りたくない。戻りたくないと、祈った。
 一年前にも、同じ祈りを胸に抱いた。あの場所に戻りたくない。もう二度と兄に会いたくない。今更、何の役にも立たない神樹なぞ育てたくない。母の望みを台無しにしてやりたい。
 母と兄がトバリに味わわせた苦痛の全てを、あの二人に味わわせたい。

 尤も祈ったところで神などいない。トバリは自分で如何にかする他なかった。
 幸いにして、四肢があって、器用な指があって、忍術を覚え、幾らかの思考能力も備わっている。抗うことを放棄するだけの絶望は、まだ訪れていない。一年前、トバリは自分の存在を如何にかする算段を立てたはずだった。それが完璧な策であるかは別問題として、確かにトバリは一応の青写真を引いていた。実行可能だと思ったから、トバリは協力者を求めた。
 一年前の時のトバリにとって、協力者になりえる人間はセンテイしかいなかった。

『詰まらぬ小細工で幾分と苛立たされた』
 ……何故トバリは、自分の出生に纏わることを忘れたのだろう。
 母の口ぶりから鑑みるに、故意であることは疑いようもない。記憶を消したのは、無論母でも兄でもない。それでは誰だとあまりに狭い交友関係を振り返っても、犯人は分からなかった。
 ヒルゼンとアスマであればトバリに何の説明もしないというのは有りえない。歴代の家政婦たちは皆一般人だった。カンヌキはトバリを憎んでいたし、記憶を消すぐらいなら生きたまま埋めると思う。そしてセンテイには記憶操作などの高等忍術は使えない。わからん。考えるのはやめよう。
 トバリは寝床を出ると、掛布団をどかして、敷布団から血みどろのシーツを剥いだ。トバリの危惧した通り、敷布団も案の定血で汚れている。ただ、乾かしてから、新しいシーツを被せれば数日はごまかせるだろう。一夜にして掛布団も敷布団も駄目にしました……では、変に思われる。
 掛布団の汚れていない面を下にして、その上に血で汚れた衣類を脱ぎ捨てた。さっさと埋めてしまいたい一心で、トバリは水浴びより証拠隠滅を優先させる。どうせ誰も見ていない。家政婦もまだ来ない。服を着る手間を惜しんで、トバリは汚れものの回収に勤しんだ。

 片づけの最中、トバリはふと顔をあげた。上体を捻って、あたりを見渡す。
 何かが、微細に空気を震わしていた。気配の主を探してみると、丁度指先ほどの小さな蝶が窓の隙間から出ていくのが見えた。大蛇丸の言によれば、トバリには何者かの監視がついているらしい。それだろう。トバリは眉を寄せた。つまり先ほどの愚行の一部始終を見られていたのだ。
 俄かに面倒くさい気持ちになったものの、すぐ吹っ切れた。幾ら監視をつけたところで、夢の内容までは把握しきれない。何も知らない人間には「魘された後に自傷行為を始めた」程度にしか理解されないだろう。夜毎大蛇丸せんせいに弄りまわされているのだから、自傷の一つ二つ見られたところで何ら気にすることはない。現状において最も優先すべき事柄は、愚行の証拠隠滅だ。
 すっかり落ち着きを取り戻した指先が、器用に掛布団を折り畳む。
 土遁は得意だし、ただでさえ荒れている庭を掘ろうと埋めようと家政婦には分かるまい。


 かつてセンテイにそうしたように、大蛇丸に全てを打ち明ける気にはならなかった。
 大蛇丸だけではない。ヒルゼンにもアスマにも、もう二度と誰にも相談したくなかった。どうせ誰も信じてはくれないだろうし、話したところで誰の助けも期待出来ない。
 喜ばしいことに、少しずつトバリの記憶は戻っている。センテイの記憶をあてにしなくとも、いずれ自分が如何するつもりだったのか思い出すだろう。思い出したら、大蛇丸を上手く利用すればよい。大蛇丸のことは好きでも嫌いでもないが、話は通じやすい。丸め込むなり、ぼかして協力を求めるなり、やりようは幾らでもある。それだけの対価は払っているはずだ。

 胸中の安堵感と裏腹に、トバリの顔はいつもの無表情だった。
 錯乱してさえ、涙一つ零れない。当然の報いだ。邪な気持ちで“人間”を真似るだけの生き物が、人間と同じになれるはずがない。歪みが生ずるのは想定内で、それ故に人間社会に打ち解けることが出来なかろうが自業自得だ。それが“正しいことなのだ”とトバリは思った。自分の胸奥に漂う欲を振り切るように、トバリは立ち上がった。そのまま引き戸を開けて、縁側に出る。
 兎に角、詰まらん思索に時間を取られている暇はない。さっさと証拠隠滅しなければ。トバリは急いて沓脱石の上に降り立った。沓脱石の上のサンダルを無視して、裸足で駆けだす。上半身に何も纏っていないのに加え、素足で庭をうろつこうとしているなど、家政婦に知られたら説教は免れないだろう。尤も“上半身裸+素足+血だらけ”なので、もしここに家政婦がいたら説教以前に失神してしまうかもしれない。どの道ここに家政婦はいないのだから、無駄な心配だけれど。

 素足で土を踏みしめながら、トバリは“自分のするべきこと”を脳内で指折り数えた。
 後始末をして浴槽に水を貯めて顔を洗って歯を磨き着るものを準備して……案外忙しい。面倒くさいことに、今日は“いつもどおり”に加えてイタチ一家との食事会も予定されている。
 昨晩ヒルゼンが「フガクたちに渡しなさい」と言って、菓子折りを置いて行ったから、その汚れ対策についても考えねばなるまい。“イタチせんせいの楽しい手裏剣講座”から直行することを考えると、ビニル袋か何かで包んでおいた方が良いだろう。さっさとこれを埋めて、荷造りに励まなくては。様々に思案しながら、トバリは庭を横切った。朝は青く清浄で、トバリのことなぞ素知らぬ顔で済ましきっている。いつもどおりの朝。ツンと立ち上る、血と吐しゃ物の匂いさえなければ、何もかもがトバリの妄想であるような気さえする。馬鹿げた逃避だ。トバリはため息を吐いた。
 汚れきった手の中には、誰にも見せられない“トバリの現実”がある。あまりに汚らしい現実が。
 用心に用心を重ね、誰も掘り返さない場所に埋めよう。トバリは思った。

 ……誰も掘り返さないところへ。

『庭隅にしましょう。誰も掘り返さないし、春になりゃあツツジが咲いて、賑やかだ』
 トバリは、センテイの作った子猫の墓の前で立ち止まった。
 祖父が選び、父の気に入りだったというツツジは、下部の枝に僅かに葉が茂るだけで、殆ど骨だけになっていた。その脇に、かまぼこの板で作った墓標がある。センテイが上部をまあるく削り、そのど真ん中にトバリが“ねこ”とだけ雑に記した墓標。トバリが生かそうとした命。

『無暗と生かしておいても何にもなりませんでしょう』
 あの子猫を殺したのはトバリだ。当時の家政婦が悪いわけではない。トバリが愚かだった。
 一度手を付けたのなら、トバリはちゃんとあの子猫を全てから守ってやるべきだった。毒からも、人間からも、カラスからも、生物淘汰からも……それなのに、トバリは独りよがりの“手助け”で子猫を苦しめた。言葉も通じぬ畜生が“助けを求めている”と思って、手を伸ばした。
 何の価値もない命でも、それが淘汰されるべき劣等種でも、それでもトバリは生きたかった――立派に育って、生きていけると思いたかった。母猫から見捨てられた子猫に自分を重ねて、手を伸ばした。そして、トバリの願いも果敢無く子猫は死んだ。不思議と落胆はなかった。
 薄々、そうなるような気がしていた。自分の膝に乗って、屈託なくじゃれてくる愛らしい姿。あれこそが幻だったのだと諦めた。そうやって諦めれば、傷つくことなく忘れてしまえるから。
 給餌もしたし、蒸しタオルで毛並みを整えもした。トバリの茶碗を覚えて、餌が欲しい時は空の茶碗をたしたし叩いた。毛並みが汚れると、母猫の毛づくろいを待つ兄弟猫を置き去りに沓脱石まで来た。トバリの勉強を邪魔した。トバリの服に沢山毛をつけた。そのぐらい傍にいた。兄弟猫と一緒に狩りの練習をしているのが誇らしかった。母猫が去っても、この屋敷に残った。

 自らの意志で、子猫はトバリのそばに残った。その事実が却って怖かった。
 名前をつけたら、喪った時に忘れられなくなる。わざと名前はつけなかった。
 もしもこの子猫が死ぬことがあれば、ただちに忘れてしまいたいと思った。自分は“忘れられたくない”と望み続けたくせに、自分が傷つかないために“忘れたい”と思った。その傲慢さを察していながら、センテイは一言も咎めなかった。ただ、子猫を悼んで泣いた。墓を作った。
 今センテイのいない庭で、トバリはその墓の前に立っている。自分のエゴがそのまま記された墓標を前に、自分の保身のために“地中に埋めて隠したもの”を思い返していた。
 家政婦は悪くない。そう思ったのは事実だ。でも内心同じ目に合ったら良いとも思った。母と兄に対してそう思ったように、苦しめばよいと思った。そう思う自分が浅ましくて、醜くて、目を背ける。逃避。逃避。逃避。傷つきたくなかった。そう思うのと同じぐらい、一緒にいたかった。

 千手の家紋を書いておけば、怪我をしても誰かが届けてくれる。
 

どこへ行っても、帰ることが出来なくなっても、きっとここに戻ってきますように。


 小さくて柔らかい肢体。くったりとトバリに身を委ねて、甘え切っていた子猫。それが何の価値もない命でも、それが淘汰されるべき劣等種でも、それでもトバリは一緒に生きたかった。


 子猫の墓から少し離れた地面を“土遁・地動核”で凹ませ、汚れた寝具・衣類を放り込む。
 側面の土で埋め立てるように印を組みながら、トバリは回顧した。

 何も知らない人々のやさしさに付け込んで、自分一人傷つかなければそれで良い。
 ほんの一年前、トバリはそう思っていた。幾ら耳障りの良い言葉で同情を誘おうと、自己保身が大事だったのは疑う余地もない。そう思っていたからこそ、子猫のことを記憶の隅に追いやった。
 今も多分、本質は変わらないだろう。トバリは何より“自分が傷つきたくない”と思っている。何十年も何百年もそう思っていたのが、たった一年で変わるはずもない。自己保身癖は相変わらずだ。でも、また同じことを繰り返せば、今度地中に埋まるのはちいちゃな子猫よりずっと“大物”になるだろうことは想像がつく。ヒルゼンに、センテイ、アスマ、家政婦たち――そしてイタチ。
 彼らの死体を前にしてもまだ“一緒に生きたかった”の一言で済ますつもりなのだろうか。
 十年前、兄は何の躊躇もなくトバリを踏みにじった。トバリの体を傷つけることが出来なければ、兄は如何する? 考えるのも馬鹿馬鹿しい。トバリを傷つけられないなら、他の命を使って追い詰めるだけのこと。寧ろそのためだけに人里に放牧してると考えたほうが良い。


 私は絶対に、母さまを喜ばせるようなことはしない。
 母さまは私を踏みにじり、“トバリ”を殺し、カンヌキを唆して、センテイを苦しめた。
 私はあなたのもとへ帰らないし、後生大事に無価値なものを育てるつもりもない。胎のなかの神樹の種ごと消えてやる。あなたが私にかけた手間は全て無駄だったと思い知れば良い。
 私は私がここに存在したことの報いを受ける。だから、あなただって自分の罪を知るべきだ。

 朝の清浄な空気が、少しずつ陽光に温む。
 いつも通りの朝。穏やかで、平和で、本格的な夏が訪れる前の活気に満ちた町並み。当たり前に存在する日常。うつくしい陽光。トバリもここで暮らす限り、その平穏の一部だった。
 この里にいたいから、大蛇丸との、半ば拷問に近い臨床実験のあとでも平静を装う。碌でもない悪夢にうなされても、何もなかった風を気取る。その“嘘”は、母が嘲るように、トバリが無力で何も出来ないからではない。トバリがこの里に溶け込みたいから、取り繕っているだけのこと。他人から“異物”として扱われようと、トバリは出来得る限り“普通”に暮らすよう努めた。この一年は装ってる自覚もなく、芯から自分は人間だと信じていた。いつか普通の子どもになれると信じた。

 トバリは来たときと同じに庭を突っ切って、離れに戻った。
 流石にこのまま上がるのは不味いなと、縁側に座り込む。簡単に足の裏の土を払った。
 朝っぱらから疲れた。乾いた血が皮膚に纏わりついて気持ち悪い。後回しにせず、先に拭くだけ拭いてしまえばよかったかな。でも、濡れタオルで拭いたらタオルも捨てなければならなかった。シャワーで洗い流せばタオルは汚れない。もっと良いやり方があった気がして、俄かに考え込む。そうしている間にも時は過ぎるのに、如何してこう自分はグズグズするのが得意なんだろう。
 ぼうっとするな。トバリは己を叱咤した。立ち上がって、砂粒の残る足で洗面所に向かった。
 浴槽に水を貯めて顔を洗って歯を磨き着るものを準備して廊下を掃いて荷造りして……そうやって“いつもどおり”を維持する。誰もトバリの秘密に気付かないように。トバリのために誰も傷つかないように、憐れみから自分を苦しめないように。いつもどおり、トバリは平静を装う。


 その“いつもどおり”が少しだけ難しいのは、他人のための嘘だからだ。
ものがたりの出で来はじめ
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