かくこの国にはあまたの年を経ぬるになむありける。かの国の母のことも覚えず。
 ここにはかく久しく遊び聞こえて慣らひ奉り。いみじからむ心地もせむ、悲しくのみある。
 されど、己が心ならずまかりなむとする。




 それは女の声だった。ぽつぽつと、降り初む雨滴のような声音。
 うっそりとした認識力が“自意識の浮上”を感じ取る。トバリの体が惰性で身じろいだ。あさだ。いや、朝かどうかはさておき、たしか……確か、なにか、あれを……何と言うのだったろう。グチャグチャに絡まった思考回路を解きほぐしながら考える。とにかく“止めなければならないもの”がある。まあるくて、うるさい――目覚まし時計を止めないと! はっとトバリは我に返った。

 大抵の場合、トバリの覚醒はアラームと共に訪れる。
 入眠前のカウントダウン同様、朝六時に設定された目覚まし時計はトバリの“睡眠”に必要不可欠だった。目を覚ましたら、まずアラームを止めて、アラーム機能をオフにする。アラーム機能をオフにしない限り、午前午後の区別なく六時から七時の間ずっと鳴り続けるからだ。
 センテイのお古だけあって、旧式の目覚まし時計は幾分不便なところが多かった。
 塗りが剥げていることも手伝って、フサエからは度々買い替えるように言われている。トバリの年頃なら、もっと可愛い時計――例えば、ウサギの頭部に文字盤を埋め込んだような――のほうが似合いだと思っているのだ。フサエの持ってきたチラシを見て、トバリは「ウサギの顔はどこへいってしまうのかな」と一人思案した。要するに“トバリの年頃に似合いの可愛い時計”とやらは欲しくないのだが、トバリはコミュニケーション能力がない。困ってしまう。当たり障りのない言葉で自分の意思を伝えるより、アラーム機能をオフにし忘れることのほうがずっと容易いのだ。もし、あらぬ時間に鳴り出したなら、フサエはすぐにでも新しい目覚まし時計を用意するに違いない。
 トバリはもう一度、身じろぎした。己の自意識が浮上したことにも、もう少ししたら四肢の感覚が戻ってくるだろうことも分かっている。今日は少しばかり覚醒に手間取っているが、それも大したことではないように思った。何にせよ、早くアラーム機能をオフにしなければならない。
 アラーム機能をオフにし忘れたことはないが、用心にこしたことはない。一刻も早くアラーム機能をオフにして、寝床を片さなければ。それでなくとも耳障りだから、早く止めよう。
 四肢は未だに弛緩しているけれど、そこに通う神経は目覚め始めている。少し無理をするだけで動くはずだ。寧ろ、それが“覚醒”の呼び水になるかもしれない。トバリは重たい腕に指示を出して、枕元に収まっている目覚まし時計へ手を伸ばそうとした。しかしトバリの意に反して、指先に固いものが触れる感覚はない。確かに“動け”と命じたはずの腕は重力の虜になったまま、ピクリともしない。どれだけトバリが焦ったところで、ようやっと指先が微動するだけだった。

 指や腕だけではない――全身が、何とも形容しがたい倦怠感に支配されていた。
 少しずつ五感の精度が増しているにも拘わらず、アラームどころか鳥の囀り一つ聞こえない。
 目に映るものも、四肢に触れるものもない。何もかもから断絶された闇のなかで、ぽっかりとトバリの“自意識”だけが目覚めつつある。非現実的な状況だと、トバリには分かっていた。現実……目が覚めているのであれば、例え実際に全身が拘束されているにしろ、トバリには自分の置かれている状況を即座に理解することが出来る。それなのに、今のトバリには自分が起きているのか否かさえ分からない。目の前に落ちているスプーンを“スプーン”と認識出来ないのと同じだ。要するに夢を見ているのだろう。そうキッパリ結論づけてしまえば良いのに、“夢”と断言するには自意識と思考回路が系統だって存在している。自分の感情が、あまりに生々しく記憶される。
 何が可笑しい。トバリは思った。可笑しくないのだとしても、何か考えていたかった。
 指は少し動く。足も腕も動かない。目蓋を開けているのか閉じているのか分からない。
 トバリは息を吸った。空気が鼻先を冷やし、咽頭を冷やしながら肺へ流れていく。物質的な生理現象。普段なら無意識下で行っている呼吸を繰り返す。まるで、空気中で溺れているようだった。いつもなら自分の知覚の外にあるはずの“自重”が、体中にへばりついている。
 何を考えても輪郭がはっきりせず、自分が理解できる言語に纏める前に溶けてしまう。
 四肢をうまく動かすことが出来ない焦燥感もさることながら、頭蓋の奥に靄が立ち込めているようで気分が悪い。思考を試みる度に途中まで浮かんだ言葉が霧散して、靄の濃度が増した。
 失血による眩暈や立ちくらみとはまた違う、温い靄だ。ふわふわとした、奇妙な心地よさがある。懐疑も、恐怖も、何もかも一緒に包んで溶かしこんでしまうのではないかと思わせる“心地よさ”。ほんの爪先だけ触れただけのトバリにも、それが“心地よい”という感覚だとは分かった。
 尤も“それ”が“眠気”だとまでは理解出来ず――分かったところで嫌悪感は変わらなかったろうが――トバリはただ不快になった。トバリにとって自らの意志を奪う“心地よさ”は嫌悪対象でしかない。気持ちが悪い。何故こんなことになっているのか。考えろ。思考を回せ。そうした苛立ちのなかで、トバリはふと自らの感情を顧みた。記憶を覆い隠す靄の奥で、何か見えた気がした。
 ややあってから、ぼんやりと大蛇丸の不健康そうな面立ちが浮かぶ。手に注射器を持った、見慣れた立ち姿。そうだ、この感覚は麻酔を打たれた時の感覚に似ているのだ。五体の地に足のつかない不安感から、トバリは懸命に思考を働かせた。辛うじて掴んだ理性を手繰り寄せるように、自分が何故麻酔について知っているのか思い返す。以前、麻酔を打たれた。大蛇丸に。


 大蛇丸に麻酔を打たれた。
 実に一昨日――大蛇丸が“ブルーシートで簡単隠ぺい術!”を覚えた日から、一週間後のことである。あまりに頻繁にトバリがダウンするので、それを見かねた大蛇丸が打ってくれたのだ。
 別に「痛がってて可哀想(汗)!」ということではない。一切関係ないとも言いかねるが、多少なり仏心のある男はそもそも幼児の胸部を開きにしようなどと試みないだろう。絶対しない。
 大蛇丸という男は、どこまでもアクティブな好奇心を持っている。ここ数日はトバリの認識外にある派閥を取り込むのに成功したと見えて随分良い気になっているが、それの何が嬉しいのかトバリにはまるで分からない。裸にひんむいた幼児の開胸作業に精を出す様を注視されることの何が楽しいのだろうか。間違いなく自分の評判を落とす行為である。トバリだったら、そんな、自分の人間性を疑われるような事態に陥るのは何を引き換えにしてでも回避したい――まあ、大蛇丸当人は最早人間性を疑われるとか疑われたくないとか、そんな境地にないのだろう。逞しい男だ。

 ありとあらゆる面でタフな大蛇丸は、幼女が激痛に耐えていようと何とも思わない。
 死ななきゃ安いを地で行く人間なので、トバリが心停止しても気にしない。
 トバリ自身も大蛇丸の冷淡さそのものに関心はなかった。どの道、慮って貰ったところで何かが好転するわけでもないのだ。ただ、幾らトバリに再生能力があるとはいえ、疲労は蓄積するし、精神的に摩耗する。何より、繰り返し致死性の毒を与えられたり、致命傷を負わされると、体より先に脳がダウンしてしまう。それ故“慮れ”とも“慮ってほしい”とも思わないが、“少なからず限界がある実験生物をまるで慮らないのは馬鹿だ”とは思っていた。大蛇丸はそういう男だ。
 要するにトバリは大蛇丸のことを幾らか舐めていた。自分という“幼児”の退路を断つだけでウキウキするし、床板を踏み抜くし、女言葉を使うし、根本的に力技で何とかしようとする。世間一般には三忍の一角を担う存在として尊敬されているらしいが、ヒルゼンより、センテイより……そしてカンヌキよりずっと若い。どことなくアスマ寄りだなと、トバリは思っていた。
 尤も、アスマはトバリの内臓を取り出そうと頑張ったりしない。そしてトバリの目にも、忍者としてのアスマが大蛇丸の足元にも及ばないのは明らかだった。もし面と向かって「アスマと大蛇丸様はどこか似ている」などと言おうものなら、どちらからも怒られそうだ。
 きっと“似ている”と言われても喜ばないだろうし、二人をよく知るヒルゼンが同意してくれるとも思えなかった。そうと分かっていてさえトバリは二人に共通する気安さが不思議だった。

 大蛇丸は気安くトバリの胸を開き、血を吸い取り、皮膚を裂く。大蛇丸はそういう男だ。
 トバリは、大蛇丸が自分を慮ろうとしないことを気に留めたことはなかった。
 大蛇丸が人体実験に勤しむのは、子犬が兄弟犬とじゃれ合うのと大差ない“自然の摂理”だ――しかし大蛇丸当人は目の前の幼児に子犬扱いされることに辟易したらしかった。
 当然だ。年齢は疾うにお肌の曲がり角を越え、犬を思わす外見的特徴もなく、体積からして子犬とかけ離れているオッサンである。オネエ言葉を巧みに駆使するものの、日々の鍛錬で磨き上げられた体は誤魔化せない。光り輝かんばかりのインナーマッスルを誇るオッサンだ。そんなオッサンが子犬扱いされる理由は、オツムを揶揄される時以外発生しない。大蛇丸は他人の心の機微に聡かった。ついでに心も狭かった。大蛇丸には分かっていた。自分こそ子犬程度の大きさしかない子どもに“子犬並のバカ”と思われている。自分の腰ほども背丈のない、ちまちまっとした生き物に“落ち着きを欠いた幼稚なオッサン”だと馬鹿にされているのだ。とてもムカつく。

 少なからず限界がある実験生物をまるで慮らないのは馬鹿――結局のところ、非効率的だ。
 大蛇丸にだって、四歳の子どもに分かることが分からないわけではない。生かさず殺さず、効率よく熱量をむしり取る術を知らないわけでもない。ただ、面倒くさかったのである。
 哺乳類であろうと細菌であろうと、“生命”の括りで縛られるものを維持するのには手間がかかる。大蛇丸の関心が生命そのものに向いている以上、常に面倒ごとはついて回るのだった。
 トバリを雑に扱うのは、大蛇丸が人並み外れて面倒くさがりなわけではない。人並み以上に面倒事を抱え込んでいるから、省けそうな手間は一つでも多く省きたいのだ。それ故、大蛇丸はトバリを慮らなかった。折角再生能力が高く、多少雑に管理しても良い個体なのだ。自分の気持ちが赴くまま、雑に扱っても良いじゃないか。幸いにして口数も少ないし、今のところは利害も一致している。そう思っていた。そう思っていた結果として、無事トバリに舐められた。
 ムカついたならサクッと殺してしまえば話は早いのだが、殺すと更なる面倒事を背負う羽目になるし、そもそも殺せないのだから如何しようもない。つくづく根気強い対処を強いる生き物だ。
 まあ、殺さず、簡単に相手の見解を改めさせたいなら、“潜脳操砂”という忍術もある。しかし、大蛇丸は腐っても三忍と呼び称される上忍オブ上忍である。子ども相手にガチ忍術はあまりに馬鹿らしい。それに、カンヌキと二人でチャクラ量や印の結び方を再現してから随分経っていた。やって出来ないことはないものの、脳に直接関与する術をぶっつけ本番で試す気にはならない。

 物理的解決(殺害・恐喝・脅迫・潜脳)が望めない以上、相手との交流の中で解決する他ない。
 大蛇丸はウン十年ぶりに自分の行いを改める気になったらしかった。自分の“面倒くさがり病”を悔い改め、トバリという限りのある資源を大切に、効率的に扱うことにした。そう、“いっちょヤクでも一発試してみるか”と思ったのである。結局、いつもの適当な思い付きだ。本草学に一切の造詣を持たず、卓越した医療技術をも持たない大蛇丸が、麻酔キットを持ってきた。
 昆虫採集キットでも持ってきたかのような気軽さで、大蛇丸が言う。五回ぐらい打てば持続時間も伸びるでしょ。最早シリンジに刻まれた目盛りを確かめることさえなくなった大蛇丸に、トバリは思った――きっと、この人はカブトムシと人間の区別もつかないに違いない。

 原則的にトバリの体は心臓、下腹部、上体、四肢、脳の順で再生する。
 重要度で言えば心臓の次ぐらいに高そうな脳機能が最も後回しにされるのは、どこか不思議な感じがする。大蛇丸から「自分の体なんだから、チャクラコントロールのごり押しで如何にかなるんじゃないの」とも言われたが、トバリの意志ではどうにもならなかった。チャクラによる筋力強化さえ不得手なトバリである。大蛇丸の提案を検討することはついぞ出来なかった。
 なお自己治癒力を向上させるのと、他人の自己治癒力を向上させるのとでは天と地ほどに難度が変わる。後者は医療忍術の範疇であり、他人の経絡系をコントロールする段になると個人の向き不向きが顕著に出る。要するに医療忍術を不得手とする大蛇丸にも、自分の説を検討することが出来なかった。ほんの短い付き合いでも分かるぐらいプライドの高い大蛇丸が「綱手が居れば幾らでも手の打ちようはあるのよね」と心底口惜しそうに言うあたり、はとこの有能さが知れる。
 結局、誰にも如何にもできない都合上、相変わらずトバリの体は非効率的な順番で再生する。
 心停止状態に陥っても、破損部位が少なければすぐ意識が回復するのだが、そうでない場合はかなり再生に手間取る。致死状態が長く続くと、問答無用で脳細胞の壊死が始まる。一度脳細胞が壊死すると、例え身体の生命活動が再開されていようと、壊死した箇所の修復が終わるまで目を覚まさない。幾度となく死亡体験のあるトバリではあるが、脳細胞の壊死――ブラックアウトは三度しかない。その三度の体験を踏まえて、一応四時間ほどで回復することが確認されていた。
 大蛇丸からは「流石に待ち疲れるわ」と言われたが、普通の人間であれば四十年待っても復活しない点を考慮して我慢して頂きたい。大体にして、大蛇丸は注文が多いのだ。「気合で痛覚を鈍らせるぐらい出来るでしょう」とか「累計で言えば百リットル近く増血してるんだから、いい加減増血速度が向上しても良い頃じゃない?」とか、真顔で言ってのける。

 兎に角、いつもどおり雑な方法で物事を発展させようとする大蛇丸に麻酔を打たれた。
 一応は「ブラックアウト対策になるか試してみよう」という尤もらしい口上があるにせよ、勿論、そこにトバリの意志は一切存在しない。蛇毒を打ったり、指を切り落とした時と同じである。いつもの“何となく試してみよう”精神の発露によって打たれた。一昨日のことだ。
 結果は散々なものだった。痛みが失せる代わりに腰が抜けて立てなくなるし、上手く喋れずに舌を噛むわ、頭がフワフワとして気持ち悪い。その上「最初から、小一時間で効果が切れる量に調整してあるわよ」と言い訳したくせに、三十分もすると四肢の感覚は戻ってきた。
 結局のところ「余計に暴れるだけで、何の足しにも立たない」という理由で継続投与には至らなかったが、その“たった一度”がトバリにとって忘れがたいものとなったのは言うまでもない。
 トバリにとって、自分の自意識を保つことが出来ないのが何より不快で、恐ろしく、耐えがたい。五感が自分の支配下から逸脱する恐怖に比べれば、まだ痛みのほうが耐えられる。
 自分が今どこで何をしているのか――それを知覚し、外界に干渉することこそがトバリの本能的欲求だった。自然と、トバリは思考した。未だ狂ったままの五感の全てを用いて思案する。


 いざ、姫。穢き所にいかでか久しくおはしむ。




 女の声は、まだ何事か囁いていた。
 五感は少しずつトバリの体に通いはじめ、この奇妙な空間の質量を生々しく伝えてくれる。
 それでも、女が何を言っているのかはわからなかった。聴覚の問題ではない。言語の問題だ。女の言葉は古めかしいばかりか、訛りも酷かった。大陸言語が広く使われるようになってから何百年も経つ今のご時世、これだけ古めかしい言葉には中々出会えない。トバリ自身祖父の時代は今よりずっとポピュラーな存在だったから知識として――祖父の「何を言ってるかわからん」という悪態を――“方言”の存在を記憶しているだけで、実際に耳にするのは初めてのことだった。トバリは女の言葉を理解しようと耳を澄ましたが、ふと、自分の腹部に触れるものがあることに気付いた。
 女の手だった。それまで朦朧としていた視界が突然開けて、声の主のものだろう手が目に入る。まるでその手に気付くことが何らかの“条件”であったかのように。

 トバリはマジマジと、自分に触れる手を見つめた。
 それは白々とした皮膚に覆われた、しなやかな手だった。特筆すべきは、その指先の爪が異様に長いことだろう。黒く、長い爪。恐らくマニキュアを塗っているのだろうが、濃色特有のはっきりとした光沢はなかった。家政婦が爪の補強に透明マニキュアを用いているので、トバリはマニキュアを塗った爪が如何いう風に光を受けるか知っていた。しかし女の爪は爪の繊維に沿って、縦にぼんやりとした光を映すのみである。生爪と同じ光の受け方だと、トバリはぼんやり思った。
 そもそも、光源は何処であろう。トバリは顔を上げて、あたりの様子を窺おうと試みた。
 確かに瞬き一つなしに見据えたはずなのに、トバリの瞳には何も映らない。“一寸先は闇”という慣用句があるが、一切の比喩表現と無縁にその通りであった。確かに自分たちの姿は目に映るのに、それ以外は何も見えない。夜の帳より遥かに濃密な闇のなかにポッカリと、自分たちだけが浮かんでいた。あまりに常軌を逸した光景を知覚した途端、トバリはぽかんとした。
 今や、トバリは自分が女の膝に乗っていることを理解していた。女が誰かは分からないし、少なくとも“街区で見かけた”程度の繋がりもなさそうだ。視界の端に、女のものだろう、白い、長い髪が映りこむ。こんな異様な風体の女が、街区の喧噪に紛れるとも思えない。
 トバリは考えた――何故、見知らぬ女の膝に座っているのかと一人思案する。わからない。

 随分回復した記憶野を頼って、トバリは自分の一等新しい“記憶”を探すことにした。
 すると、“大蛇丸せんせいの楽しい臨床実験ごっこ”以降のものが存在しないことに気付く。
 大蛇丸せんせいが新しく調合したとかいう蛇毒を幾つか、肺機能の再生順を見る為に肋骨を数本。その後、腹部を刺されてからの記憶がない。脳機能が停止したのだろう。いつものことだ。
 いや、いい加減“いつものこと”じゃ困るのだけれど、トバリには如何しようもない。この小さな体で、あの物理攻撃力の高いマッドサイエンティストをどうやって止めろと言うのか。なお、この場合の“物理攻撃力”は忍術・体術・剣術全般と無関係の“比喩表現”だ。一切の代替案や補正案を用意せずに事にあたる、あまりに豪胆な探求心に由来する。それだけ大雑把に生きてるくせ、何が肝要かは理解し、要領よく振る舞えるのだから羨ましい限りだ。見習いたいとさえ思う。
 大蛇丸への不平不満がスルスル出てくるあたり、思考回路に異常は見られない。トバリは顔の前に上げた手を動かした。全身の倦怠感も薄れ、自分の意志で体を動かすことも出来る。
 殆ど正常と言って良い――ただ、自分の置かれている状況を除いては。

 相も変わらず女は何事か喋りつづけているし、執拗にトバリの腹を撫でていた。
 やさしい手つきで、トバリの体を労わるような丁重さで、女はトバリの腹を撫でさする。
 女の爪はいっそクナイの刀身ほどもあろうかというほど長かったが、トバリの腹に食い込むことはなかった。器用な女だ。何故なのか、そう思うと同時にトバリは猫について想起した。
 トバリにとって“猫”と言えば、それは彼女の家の床下に居を構えた、野良猫一家のことである。

 トバリは訓練や修学の合間合間に床下を覗き込んで、彼らを観察した。
 妊娠・出産が生きる上での大仕事なのは、人も猫も変わるまい。ただでさえ飼い猫より断然過酷な環境に置かれているにも拘わらず、母猫は健気だった。身重の体でありながら、彼女はちゃんと自分と子どもたちの落ち着ける場所を探し出し、ひとり孤独に五匹の子どもを産んだ。
 まだ幼い子猫にお乳を吸わせながら、母猫は子どもたちの毛づくろいに耽る。もぞもぞと動く子猫を押さえつけて、懸命に顔を舐め、背を舐め、泥を落とす。自分こそ毛づくろいしてくれる誰かが必要だろうに、やせ細った母猫は、それは丁寧に子どもたちを舐め清めるのだった。
 猫は、子を産み育てる術を誰に教わるのだろう? 子どもの命を繋ごうと試みる、種としての本能――そう言い切ってしまうには、母猫の育児はあまりに手間が掛かっていた。
 猫を馬鹿にするわけではないが、脳の体積から言ってトバリより物識りだとは思えない。でも、猫より賢いはずのトバリは子どもの育て方を知らないのである。トバリは不思議に思った。

 “妊娠”とは、自分の下腹部に自分と別個の生命体を飼って、排出すること。
 自分の熱量を貪るだけ貪って何の役にも立たない生き物の何が可愛いのだろう? 種の保存を本能付けられているから、そこに存在するだけで無条件に“可愛い”と感じるのかもしれない。
 種としての義務を果たした高揚を、子孫への情と勘違いしているのだ。それが“知性に反する愚かな行い”なのか、もしくは“本能に即した正しい行い”なのか、トバリには分からなかった。

 いつ覗いても、母猫は床下に――剥き出しの土が広がるだけの荒れ地にいた。朝も昼も夜も。
 母猫がいつどこで、自分が生きるための熱量を補給しているのか、トバリには一切の見当がつかなかった。お産で体力を失いすぎたのではないかと、そう不安になるほど母猫は動かなかった。
 トバリの心配を余所に、子猫は平然と母猫の熱量を搾取する。日に日に丸くなっていく子猫を眺めて、トバリは悩んだ。同居人として幾らかの情をかけるべきか、はたまた飼うつもりもないのに手を出すのも無責任だろうか。そうやって悩んでるうちに子猫は自分の食い扶持を稼げるようになり、母猫もふくふくと脂肪を蓄え始めた。猫というのはよくわからん生き物だ。結局“野良猫一家”は一匹の餓死者も出さず、母猫もたっぷりとした尾を揺らしながら去っていった。
 最近になって分かったことなのだが、あの母猫は、トバリの家の近くにパトロンを囲っていたらしい。つい最近も、望まぬ修行の帰路で見覚えのある猫影を見かけた。やけに脂の乗ったマグロをカッカッと貪る“元・母猫”は、自分の上に影を作るトバリに一瞥もくれなかった。
 別に、トバリのことを恨んでいるわけではないのだろう。ある程度人慣れしているから、害意のなさそうな人間が近づいても逃げない。そして一度たりとも餌付けしたことのない人間だから、媚びを売らない。利用できるものを利用するだけで、無暗とひとに媚びない。
 それが正しい野性の在り方だ。しかし、トバリによって延命した子猫はそうではなかった。

 兄弟猫と母猫がトバリの家を去った後も、子猫はトバリの家の床下に住み続けた。
 元々“野良猫一家”の内訳に含まれないところがあったから、ひとりぼっちになろうと如何でも良かったのだろう。置き去りにされる形となったが、別段クヨクヨしている風もなかった。
 母猫から狩りの仕方を教わることもあったし、兄弟猫たちと屈託なくじゃれあうこともあった。でも、母猫にとって“可愛い我が子”の一匹ではなかったのに違いない。トバリの知る限り、強かな彼女が“五匹目”の毛並みを整えてやったことはなかった。それも、自然の摂理だ。
 弱者は淘汰されることが当たり前の、人間よりずっと単純で原始的な世界。トバリは自分のエゴでそこに介入して、自分の尺度による“救済”を図ったのである――助けを求めていると感じて。
 トバリは分かっていたはずだ。もしくは、もっと真摯に考えればすぐ思いついただろう。一度でも手垢がついてしまえば、元いた野生には戻れない。トバリに出来る、たった一つの“救済”はあの子猫を所有することだけだった。それなのに――愚かにも、トバリは所有権を放棄した。
 二度と野生へ戻れない子猫を野生へ返そうとした。トバリは生物淘汰から掬い上げた子猫を、また別の地獄へ追いやったのだ。それを“救済”と言い張るのは、あんまりに惨い。

 女の手に撫でさすられながら、トバリは自分の浅慮で死んだ猫について思い返した。
 手のなかの生温かい命。給餌もしたし、蒸しタオルで毛並みを整えもした。床下でいつまでも五月蠅く鳴いていたからだ。可愛いと思ったわけでも、生物淘汰の憂き目に合う命を哀れに思ったわけでもない。ただ自分の五感の及ぶ範囲で助けを求めていたから、それに応じた。それだけだ。

 何故――言葉も通じぬ畜生が“助けを求めている”などと思ったのだろう。


「詮なきこととはいえ、やはり未熟なお前を俗世に紛れさせるのは愚策だった」
 不意に、トバリにも理解できる言語が振ってきた。
 理解できる……とは言っても、今度は話の内容が分からない。突然“未熟者”扱いされるのは兎も角、俗世とは何のことだろう。トバリは思索を中断して、女の声に意識を向ける。
「詰まらぬ小細工で幾分と苛立たされたものの、却って良かったのかもしれぬ。自律思考が発達すると、より上質な養分を生む。経絡系の流れも安定して、理想的な用土に育ったものだ」
 幾らか情報を得ることが出来るのではないかと思ったが、支離滅裂で全く分からない。
 いい加減、トバリは嫌になってきた。秒針一つない緩慢な時の流れ。発展性のない会話。これなら、まだ大蛇丸か猫のほうが意思の疎通が成り立つ。何故、トバリはこんなところにいるのだろう? 考え飽きた問いに焦点を戻しても、やはり何も分からなかった。当然だ。先ほどからずっと女の膝に抱かれているだけで、女の台詞以外に何の変化もないのだから。

 夢を見ているのだろうか。意志の疎通を試みようともしないで、トバリは考えた。
 その全貌を見るまでもなく、奇妙な風体をしているのが分かる女。光源もないのに開けた視界、果てのない闇。如何考えても、これは現実ではない。トバリは、そう結論付けた。
 確かに身体機能は正常ではあるものの、常識的に考えて、こんな非現実的な空間が地上に存在するとは思えない。勿論時空間忍術を用いれば話は別だろうが、医療忍術より難度の高い時空間忍術の使い手は希有である。そんな優秀な忍者に幼児誘拐を任せる無能がどこにいるのか。幾らトバリが二代目火影の近親とはいえ、他里の人間相手に「へえ、そうなんだ」以上の反応は望めない。三代目火影に対するけん制や見せしめだと言うのなら、アスマを狙ったほうが余程効果的だ。
 歌うように物語る声を聞き流して、トバリは困惑する。多分、これは“夢”なのだ。

 夢――イタチやアスマにとっての“夢”と同じ、荒唐無稽な妄想。
 大蛇丸の“好き放題”のせいで、脳に負荷が掛かりすぎたに違いない。背後の女が誰か分からないのも、それにも拘わらず懐かしく感じるのも、“夢だからだ”という言葉で決着がつく。
 そう考えてみると、「自分は世間一般で言うところの“夢”なぞ見ない」なんてのはトバリの勘違いだったのかもしれない。単にそう思い込んでしまっただけで、以前に見たカンヌキの夢だって、幾らか虚飾混じりだったに違いない。きっと、そうだ。何故、それが事実だと思い込んでしまったのだろう? トバリは父親の顔なぞ知らない。ヒルゼンもアスマも、みんな、カンヌキはただの一度もトバリに会いにこなかったと言っている。センテイだって、ボケる前からずっと言っていたーー“産まれついてカンヌキには放浪癖があって、根っから無責任なひとだった”と。
 扶養義務以外の全てを投げ出して、父親は繰り返し里を後にする。綱手と同じように、そして珍しい植物をセンテイに任せる時と同じに。父親は、どこまでもトバリに無関心だった。
 温室のなかには、トバリの父親が火の国のみならず各国から集めてきた植物が青々と茂っている。しかしその何れも、温室内へ植えて水をやり、花を咲かせたのはセンテイだった。
 誰もが言う。カンヌキは無責任で、我が子を育てるどころか、里に留まることさえ稀だった。
 何故大多数の客観的意見よりも、自分が夢にみた妄想のほうが正しいと思ったのだろう。

 夢と言うにはあまりに生々しい知覚、質量を伴った空間。
 これが荒唐無稽な妄想の一種だと思うなら、父の夢もこれと同じ“虚構”に過ぎない。

 見知らぬ女の膝上で、トバリは自分が出した仮定に動揺した。
 父の夢もこれと同じ“虚構”に過ぎない――いざ言葉にしてみると、それは尤もらしい響きでもってトバリの胸を揺さぶる。それと同時に何か不穏な等式が浮かんだ気がしたけれど、父親への恐怖心に紛れてしまった。その程度のことだった。トバリはそう軽視することにした。今はただ、自分の仮定が如何に正しいか、その証拠を集めたかった。トバリは急いて思考を展開させる。
 何もかもが自分の考えすぎで、気のせいだった。そう考えると、強い安堵感が後から後から湧いてくる。“そうであって欲しい”とトバリが望んでいるのは明らかだ。そして改めて物事を俯瞰視してみれば「たかが夢を真に受ける自分がそもそも愚かしいのだ」とも思う。
 外へ出たストレスで神経が休まらず、いつも通り熟睡出来なかった。それだけのことに過ぎない。如何考えても、そう考えるのが一番筋が通っている。ヒルゼンもアスマも、同意してくれるはずだ。それなのに、何故自分は、あれが現実に起こったことだと確信してしまったのだろう。
 つくづく一月以上も、随分馬鹿げたことで思い詰めていたものだ。
 フサエに心配をかけたし、随分と修行も怠けてしまった。目が覚めたら、全部終わりにしよう。もう大蛇丸と一緒になって、自分の体を傷めつける必要もない。潜在的にチャクラ量の多い人間は治癒力も高い。トバリも、ただチャクラ量が多いだけなのだ。トバリが可笑しいのではない。所詮は師であるヒルゼンからも訝しまれている男だ。大蛇丸が本当のことを言っている証拠などありはしない。何もかも最初からトバリの気のせいで、本当はイタチのように普通に男女の間に産み落とされたのではなかろうか。そうでなければ、こんなふざけた夢を見るはずがない。
 自分はふつうの子どもだった。父母がいなくとも、それさえ確かなら如何でも良い。
 もう良い――繰り返し、トバリは思った――もう、如何でも良い。

 父親は死んだ。じきにセンテイも死ぬ。誰にもトバリの真実を明かすことは出来ない。
 トバリ自身も何が嘘で何が真実か分からない以上、大多数の客観的意見を“正”とするのがそんなにいけないことなのだろうか。トバリはそうは思わない。間違っていたのはトバリだった。
 トバリを苦しめたあの夢の全てが虚構で、現実に起こっていない妄想だった。それが真実だ。

 病的に白い腕、加齢に従って弛んだ手。父親が自分の体を布団から引きずり出して、剥き出しの畳の上に投げ出す。どすんと腹に乗った膝と、首に掛けられた手が生々しい閉塞感を与える。

記憶の錯乱と、胸中で抑圧された感情の現れ。あれは、トバリの果てのない寂寞と不安、孤独が産んだ幻だった。女の体温を背に感じながら、平らな腹を労わられながら、トバリは脱力した。
 全部ウソだった。

自分を見下ろす瞳。自分を縊る男。爛々と光る赤い瞳。自分の上に乗る男が興奮状態にあることを示す瞳孔。畳の上に散らばる私の四肢。嗅ぎ慣れた血の匂い。
 追想のなかで、ぎゅうと、父親の手が首を絞める。

今となっては儚い幻。ただ夢のなかで、夢と気付くことが出来なかったから酸素を求めた。

肺が収縮を繰り返す。おまえがどうして。
 無抵抗のトバリに、カンヌキが呪詛を吐く。おまえが死ぬはずだったのに、何故のうのうとトバリと同じ顔で、トバリのいるべき場所で生きているんだ。

それも、げんじつではない。

 ミシと骨が軋む。ポタポタと、カンヌキの涙が降ってくる。温い雨。頬に落ちた涙滴は見る間に熱を喪って、トバリの輪郭をなぞった。何度も、何度も繰り返し。冷たく乾いた皮膚が、涙の痕で引きつる。もし彫像に五感があればこんな風に感じるのだろうかと、頭の片隅で考えた。
 表皮に違和感を覚えても、自分で拭うことは出来ない。拭ってくれる人もいない。それが当然で、塗りが剥げても何ら気に留めることもない。

無論、それは嘘だ。夢の中でそういう風に思ったというだけの錯覚。トバリは父親の顔を知らない。父親は無責任な人で、育児には不向きだった。それ以上でもそれ以下でもない。トバリはずっと、そう聞いて育ってきた。
 父親が死んだときも哀しいとは思わなかった。父親がトバリを顧みなかったように、トバリにとっても父親の存在は軽いものだった。

    の痴呆が始まった時のほうが、ずっとショックだった。

それだって、別に、トバリは誰も、誰にも何か、ただいつも――全部、気のせいだ。

 何もかも気のせいだった。

 一体幾度その“逃避”に縋っただろう。
 目を閉じて、耳を塞いで、全てを拒んで独りになれば、トバリは何にも傷つかない。
 自分で選んだ孤独のくせに、それが辛くなったからといってまた逃げるのか。それはあまりに無責任で、馬鹿げた振る舞いだ。何十年も何百年も同じ過ちを繰り返して、まだ懲りない。
 自分の気持ちに蓋をしたら、それで何もかもなかったことに出来るとでも思っているの。


 カンヌキが会いに来てくれるのが、うれしかった。
 わたしを好いてくれなくとも、愛娘に寄生したバケモノとしてしか見られていないのだとしても、うれしかった。わたしを処分しない限り、カンヌキは必ずわたしの傍を離れない。
 必ずあなたはわたしのところへ帰ってくる。そうやって、何百年、何千年の時が過ぎたら何もかも忘れてくれるかもしれない。最初から、わたしが“トバリ”だったと、そう思ってくれる。

 わたしの意志と関係なく、折れた脊椎骨が再生する。

 破裂した血管が、散らばった血液が、わたしの喉に収まっていく。悍ましいものでも見るようなカンヌキの目に晒されながら、カンヌキの怒りで破損した部位が元に戻る。でも、カンヌキが求めたものは二度と元に戻らない。重たい肉体。痛みだけを正確に伝える五感。腹部を中から圧迫する鈍痛。引いては打ち寄せる波のように、ぼやけた自我を、記憶と五感を頼りに引き留める。
 わたしでは駄目なのだろうか。何度も思った。わたしは、あなたの愛したものと同じ見目をしている。声も、寸分たがわぬものであるはずだ。あなたが望むのであれば、話し方も、立ち居振る舞いも、全て変える。目を閉じて、耳を塞ぐ。あなたの意に沿わないことは、決して行わない。

 あなたの望みに応えれば、わたしがトバリになれると思った。
 トバリ。わたしの名前。わたしの意志。わたしの未来。わたしの感情。わたしという人格。

 わたしはここにいたい。過去のことは全て忘れる。ここを追い出されたら、わたしという自我は単なる“瑕疵”になってしまう。嫌だ。わたしは、何のために存在するの。その問いに対する答えが、希望に満ちたものであることを望んだ。それがそんなに罪だと言うのだろうか。
 誰もが皆当たり前のように未来を夢見る世界で、わたしだけがこの世界に存在することを許されない。わたしだけが、この世界に発生した時から他の犠牲となることを義務付けられ、その人格に幾許の価値もないと決めつけられ、ただ“この世界をより深く憎みますように”と願われる。
 産まれついてわたしの胎に根を張るものを育てる為に、ただ全てを呪えと、お前の自我は単なる熱量で、未来の選択肢は一つもないのだと言い含められる。あなたに捨てられれば、“トバリ”になれなければ、わたしは元居た場所へ戻るしかない。地中と同じ、暗くて静かな“無”の世界。


 ここはトバリの居場所ではない。

でもトバリはここに自分の居場所が欲しかった。ここに自分の居場所があるかもしれない、とも思った。

その浅はかな思い込みが、トバリの全てだった。
 いつか、おじいさまのような立派で優れた忍者になって、おじいさまの愛した里をあなたも愛し、守りなさい。祈るように、    が夢を見る。

トバリも、同じ夢を見たかった。



 この里は、祖父の夢のつづき。そこに、わたしの光が暮らしている。
 それなのに、“何もかも気のせいだった”と、その言葉で逃げるのか。何も知らない人々のやさしさに付け込んで、自分一人傷つかなければそれで良いのか。何故学ばない。
 ここに居場所が欲しいと思うのなら、自分の力で抗え。忘却を理由に逃避をするな。自分の身に何があったか思い出せ。何故誰にも自分の真実を明かすことが出来ないのか、その理由を探せ。

 誰も、トバリという人間の未来を望みはしない――たった一人の例外を除いて。
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