これは昔々、おとぎばなしや神話よりかは今に近い話。


 第一次忍界大戦終結直後、忍界史上最も重要視されるとある会談が行われた。
 その会談を実現するにあたって労を取ったのは、当時から軍事力・経済力共に頭一つ飛びぬけていた木ノ葉隠れの長・千手柱間。会談の参加者は、彼の属する火の国木ノ葉隠れを初め、風の国砂隠れ、土の国岩隠れ、雷の国雲隠れ、水の国霧隠れ――俗に五影と呼ばれる、火の国木ノ葉隠れの里が“対等な取引相手”と認めた各隠れ里の長とその腹心を含む十人の忍である。
 隠れ里システム確立以来初の、各里の影が一同に会す場となったことから件の会談は“五影会談”と呼ばれ、今も尚不定期で開催されている。その、最初の五影会談で話し合われた内容こそが、兼ねてより千手柱間が各影に打診し続けてきた“五影協定”についてであった。

 一、火の国木ノ葉隠れ、風の国砂隠れ、土の国岩隠れ、雷の国雲隠れ、水の国霧隠れの五か国は各国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような行いを禁ずる。
 二、火の国木ノ葉隠れ、風の国砂隠れ、土の国岩隠れ、雷の国雲隠れ、水の国霧隠れの五か国は雨隠れ、草隠れ、谷隠れ、田の国を初めとした周辺各国の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所などの官有物から民有物に至るまで侵攻略奪することを禁ずる。
 三、上記二条への同意を以て火の国木ノ葉隠れは、土の国岩隠れ、雷の国雲隠れ、水の国霧隠れに各二匹の尾獣を売却する。各里尾獣一匹につき七十億両、総計百四十億両を火の国木ノ葉隠れに支払うこととする。なお支払い期限は無期限無利子とするが、火の国木ノ葉隠れに何の報告もなく十年以上支払いを滞らせた場合は“五影協定”を侵したものとして他四国による経済制裁を行う。また分配し損ねた尾獣については、五影全員の同意を得たうえで売却先を決めるものとする。
 四、各国は火の国木ノ葉隠れから尾獣を買う際に支払った金額の三割を風の国砂隠れに支払う。
 五、火の国木ノ葉隠れ、風の国砂隠れ、土の国岩隠れ、雷の国雲隠れ、水の国霧隠れの五か国は如何なる抗争・戦闘においても捕虜・罪人として捕縛した他里の忍を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。なお各忍の責任において、自里の利益追求・任務遂行・自衛に即して発生した殺人・窃盗・詐欺行為については余りに人倫に悖る場合を除いては糾弾しないものとする。
 六、五影協定はその時代の火影、風影、土影、雷影、水影、五名全員の同意なしには未来永劫破棄されないものとする。それと同時に、この協定は破棄されない限り如何なる条約・協定より優先的に適応され、火の国木ノ葉隠れ、風の国砂隠れ、土の国岩隠れ、雷の国雲隠れ、水の国霧隠れ、各里の影は国家間の摩擦・諍いと無縁に五影会談への出席が義務付けられる。
 七、該項目を含めた七か条を以て“五影協定”とし、火の国木ノ葉隠れ、風の国砂隠れ、土の国岩隠れ、雷の国雲隠れ、水の国霧隠れの五か国は、各国、各里の威信と、火影、風影、土影、雷影、水影、影の名を負う誇りからここに五影協定の締結に同意する。

 他に細々とした注釈が含まれるものの、五影協定はこの七つの条約によって成り立っている。
 五影協定の締結によって、五影は自里の誇りに掛けて人倫を守ること、他国の自治・権利を尊重することを義務付けられた。無論、極めて紳士的な内容であることから、協定締結から数十年の歳月が過ぎた現在に至るまで千手柱間をはじめ協定にサインした初代五影の評判は高い。
 初代に人気が集まるあまり、次代の影が薄くなるのはどこの里でも同じ。しかし第一次忍界大戦集結から二十年近く、自里の平和と利益維持を模索したのは五影の名を継いだ者たちであった。

 初代は指針となり、初代亡き後は二代目がその指針に従い道を作る。
 第一次忍界大戦後、独り国力増加に励む砂隠れを除いて、木ノ葉隠れは雲隠れと、そして岩隠れは霧隠れとの間で小競り合いを繰り返していたが、その殆どは私怨ではなく、双方の任務が搗ち合った結果に過ぎなかった。完全なる平和は終に成立し得なかったとはいえ、所詮“小競り合い”である。五影協定第六条に明記されている通り、国際状況においても五影会談は開催され、会談を機に和平が成り立ったのも一度や二度ではない――要するに和平を繰り返すほど揉めているということだが、回を重ねるごとに、何故千手柱間が五影会談実現に拘ったか知れることとなった。
 強大な軍事力を抱える組織のトップともなれば、知らず知らず独裁的になったり、過激路線を選びかねない。各里の長が一堂に会することで、他里の長の外交手腕を観察し、その言動から国力や内政事情を推し測るだけでなく、自里を俯瞰視するための切っ掛けが得られる。
 火影、風影、土影、雷影、水影、五影会談に参加した影たちは何れも他の四人の影と対立状態にあり、それと同時に“里のなかでたった一人影の名を負う者”という連帯意識もあった。
 五影会談と銘打っても、所詮は其々自里の利益追求・維持を第一に求めることに変わりない。
 それが初代五影全員の共通認識ではあったが、影の名が二代目に至ると単に“虚構の和睦”とも言い切れなくなってきた。何となれば、二代目を継いだ者の殆どは、初回五影会談で己の兄や師が、和睦について熱い議論を交わす姿を目にしているからだ。彼らにとって、五影会談の卓、その椅子は、自らの指針として追い求める人が自里の威信と誇りを懸けて着いたものだった。
 あの場にいた者は皆、初代の影たちがどんな思いで五影協定の締結を望み、改訂を要求し、根気よく協議を繰り返し、全員の同意を得るに至ったのか、その一部始終を全身で感じてきた。
 先代への敬意が、当初“口約束”とまで言われた五影協定を“鉄の掟”に昇華させたのである。


 ここにオレ達の集落を作ろう。
 その集落は子どもが殺し合わなくていいようにする。
 子どもがちゃんと強く大きくなるための訓練をする学校を作る。
 個人の能力や力に合わせて任務を選べる。
 依頼レベルをちゃんと振り分けられる上役を作る。
 子どもを激しい戦地へ送ったりしなくていい集落だ。

 千手柱間が幼い頃抱いた夢は、現実のものとして世に広まっていった。
 無論隠れ里システム確立以前から千手柱間と志を同じくする者は各地に存在し、忍一族同士、幼い子どもでさえ対立を余儀なくされる現状を嘆く者は決して少なくなかっただろう。
 彼が実父に“お前は子ども過ぎる”と否定され続けながらも自らの夢を諦めきれなかったように、死と隣り合わせの非情な世界で多くの者が希望を求めた。その希望こそが“隠れ里”という組織形態であり、後になって考えてみれば、誰もが思いつく有り触れた夢の一つであった。
 隠れ里システムの祖と呼ばれる千手柱間には、決して特異な発想力があったわけではない。
 ただ火の国有数の忍一族族長の長男として産まれた彼には幾らかの権力があったし、彼自身も一人の忍として優れていた。自分の理念を理解してくれる弟がいて、一族のものから“己の命を預けるに足る族長”として慕われていた。何より幸運なことには、彼と席を同じくし、言葉を交わした者が皆“思わず手を貸してやりたくなる”と口を揃えて言うような人徳の持ち主だった。
 千手柱間は有り触れた夢を抱き、それを実現するだけの熱意と才能に溢れた凡人に過ぎない。
 そうでなければ、何故第二次忍界大戦は起こったのだろう?

 第二次忍界大戦は木ノ葉隠れと雲隠れ、二か国間の和睦協定から始まる。
 皮肉なことに、その和睦式典の途中でクーデターが起こった。味方に不意を突かれる形となった二代目雷影は即死、ある程度警戒を強いていた二代目火影とその護衛小隊も金角の包囲網を無傷で突破することは出来ず、二代目火影が自ら囮になることで部下を逃がした。二代目火影は満身創痍、這う這うの体で木ノ葉隠れに帰ってくるだけ帰ってきたものの、数日と経たず死亡。
 クーデターに巻き込まれたもののうち、木ノ葉の忍で生き残ったのは二代目火影の護衛小隊を務めた六人のみである。それもあまりに突然だったため、敵襲に気付いてから二代目火影と共に退避する短い時間で知り得た情報はごく少なかった。そもそも雲隠れ側でも情報が錯綜しており、国家転覆を狙うクーデターなのか、雷影か火影どちらか、もしくは双方を狙った暗殺事件なのかも判別が付かない。そうした状況に置かれた木ノ葉隠れと雲隠れは、一時は和睦を結ぶどころか国交断絶状態にまで陥ってしまった。結局二代目火影との交戦によって弱った首謀者を雲隠れ側が仕留め、国交正常化に向けた交渉が二か国間で進められたものの、零れた水は元に戻らなかった。

 昔から商道には“売家と唐様に書く三代目”という詩が伝えられている。
 初代は苦心して子孫のために財産を残し、その苦労を間近で目にしてきた二代目は受け継いだ財産を手堅く維持する。ところが三代目にもなると産まれついて裕福で、何の苦労も知らぬため、遊芸に耽って財産を食いつぶしてしまう。没落の果てに家を売りに出すようになるが、その売り家札の筆跡は唐様でしゃれている――と、商いの道を蔑ろにする人を皮肉った詩である。
 三代目に如何いう人物を選ぶかが肝要なのは商道のみならず、政治も同じ。詩にある通り、二代目の影たちは初代が苦労して興した“隠れ里”を発展させてきた。彼らは初代の“財産”を守り、連綿と受け継がせることを最優先事項として捉え、三代目には穏健思考の忍を選ぶ傾向があった。
 尤も彼ら自体は決して穏健派だったわけではない。寧ろ彼らは時として敵を作ることを恐れなかった。初代の意志を侵す者、侵しかねない者については殊更苛烈な仕打ちを強いた。
 結果、彼らのその強烈な帰属意識が戦火を呼ぶこととなる。

 金角・銀角兄弟によるクーデターはほんの序章だった。
 過激派――各里の二代目から排斥されたはずの危険分子たちは水面下で力を蓄え、隠れ里のぬるま湯につかりきった三代目の治世になって表舞台に進出し始める。休戦条約より凡そ二十年後、武闘派の武力行使による領土拡大は「公平なる利権拡大」という言葉で正当化されていた。
 この戦争がいつから始まっているのか、精確に答えられる者はいない。
 “国境付近の小競り合い”で始まった戦争は“自衛のため決起する”という耳障りの善い油を注がれ、国家間の総力戦と成り果てていた。五影協定も、休戦条約も、六か国協定も、紙上の約束など糞の役にも立たない。特に、善良な隣人が自宅の庭を荒し始めた時には。


 ここは雨隠れの里。一年の殆どが曇天で、四季を問わず雨が降り注ぐ陰鬱な土地だ。
 都市部にはビルが乱立し、雨を避けるためなのか地面に接した最下地層の往来はごく少なく、代わりに階上に設けられた“渡り廊下”のような屋根付きの通路を用いるのが一般的である。
 里民の人柄は、気候と景観の影響もあってか極めて排他的でよそ者を嫌う。
 尤も戦火が増す以前は皆、外が薄暗い分室内の光源は多めに取って、明るく振る舞うよう意識していたのだが……ほんの数年で何もかもが変わってしまった。周辺各国から押し寄せた難民のせいで治安は悪化の一途を辿っていたし、主な食料供給元だった火の国が軍事産業を優先させたことによって物価も跳ねあがった。真綿で首を絞められるように少しずつ生活が苦しくなってきたタイミングで行われたのが、昨年末の宣戦布告である。これまでも大国間の戦争に巻き込まれることは多々あったが、木ノ葉隠れとの交戦が本格化したことで、雨隠れの里はその領内の全てが戦場と化した。当然、火の国から食料を輸入出来ない以上は自給する他ない――この不毛の土地で。
 里民は泥舟から逃げる鼠のように、木ノ葉隠れの侵攻を避けて都市部に集まる。
 喩え当てがなくとも、都市部には未だ戦火は及んでいないし、誰もいない村や町に留まるより食料を手に入れやすいはずだ。そういう意図でもって、健康な人は住み慣れた家を放棄する。
 ただ、体の悪い……特に金銭的余裕のない人、身寄りのない老人などは無論避難することは出来ず、人っ子一人いないゴーストタウンで死を待つ他ない。長門の父親、伊勢の仕事はそういった人々を訪ねて、医療行為を行うことだった。いや、それで金銭を得ているわけではないから、ライフワーク、ボランティアと言うべきか。父親の財源が何か、長門は詳しいことは知らない。
 兎に角長門の父親は優れた医者であり、医療忍術の心得がある母親はその手伝いを行っていた。

 診察・治療中を除いては、どことなく頼りなくも柔和で優しい父親。
 そんな父親を陰日向なく支える母親は、夫の凹凸を埋めるように快活で芯が強い。
 物心ついて以来、長門は各地で医療行為を行う父母に付き従って転々と暮らしてきた。母親は「一つの学校に留まって、落ち着いて勉強させられないのが申し訳ない」と言うものの、長門に不満はなかった。独りでも勉強は出来る。それに教科書を読むより、父親の手伝いをして薬の材料となる植物を集めにいったり、病人の介護をしているほうがずっと為になると思っていた。
 一緒に勉強するための友達なんていなくても良い。このまま父の手伝いをして、父のような立派な医者になるのだと密かに決めていた。そう決めていたのだが、とんでもない邪魔が入った。
 その邪魔者の名前はうずまきトバリ――長門にとって、母方の従姉にあたる。

 半年ほど前、単なる従姉に過ぎなかった彼女がある日突然義姉になってしまった。
 そこには如何にも複雑な事情があり、七才の長門には事の仔細は分からない。しかし長門の自室に線を引いて「今日から一緒に暮らすから、こっち側は私ね。勝手に入ってきたらチョークスリーパー食らわすから」と扉がある方を陣取る彼女を見て、悪寒を覚えたのは言うまでもないだろう。悪寒は見事に的中し、元々彼女を苦手視していた長門にとってトバリと暮らし始めてからの半年間は正しく“地獄”だった。並の男子より肝の据わっている彼女は長門が虐められたと聞くや相手を半殺しにするし、喧嘩両成敗と銘打って長門のことも殺す。半をつけない全殺しである。
 不運なことにトバリは両親の前では猫を被る――というか、トバリが幼い息子にチョークスリーパーを掛けている現場を目の当たりにしても両親は「楽しそうねえ」で済ましてしまうのだった。まあ多分、伯母が亡くなったことが関係しているのだろうが……自分をイビるトバリを前にしていると“伯母さんが死んだなんて嘘なんじゃないか”とさえ思うのだった。尤もトバリの寝床の脇に置かれた骨壺は明確に伯母の行方を物語っていた。時々嫌になるぐらい露骨に、死の気配を放って。

 トバリは兎に角横暴で、物心ついたときから彼女に関わって良いことがあった試しがない。
 “良いことがあった試しがない”の頻度が年単位から数時間単位に切り替わったと言うのに、何故だか長門にはこの義姉を憎むことが出来なかった。よくわからないけれど、幾度「もう絶交する」とか「二度と話しかけてこないで」と言っても、少し時間が経つと構って欲しくなる。
 勉強を教えてくれる時の自慢げな横顔とか、大人の前のすまし顔、長門がガキ大将に一発食らわせてやったと知った時の笑い顔――夜中、母の骨壺を抱いたまま雨天を見上げる無表情。
 立派で多忙な両親に挟まれて、長門は長雨と戦火に倦んだ胸中を決して二人に明かせなかった。自分が苦痛を訴えれば、両親はその崇高な目的意識をたった一人自分の為に折ってしまうのではないかと思ったから。トバリは、長門のそういう心境をよく理解してくれた。
 トバリは勝気で我儘で身勝手だったけれど、決して長門の大切なものを損なおうとはしなかった。長門にとっての大切なものが自分自身でないことを常に理解していて、それを揶揄することも少なくない。後になって振り返ると、トバリは決して長門のことが嫌いだったとか、意地悪でイビっていたわけでないことが分かる。トバリもまた長門と同じく、両親を愛し、自分が彼らの障害となることを最も恐れてきた。トバリの大切なものにもやはり自分自身は含まれていなかったし、そうした中で彼女は一人、自分の胸中を隠したまま十一歳になった。十二歳を目前に控えて、彼女はついに自分の“詰まらない”胸中が母親の崇高な愛を脅かすことは出来ないと確信する。
 どれだけ強く骨壺を抱いても、自分の胸の中に仕舞うことはできない。

 トバリは十二歳、長門は七歳。
 表向きは母子家庭として届け出がなされているトバリは、その賢さも相俟って校内で孤立することが間々あった。少なからずいた友達の殆ども、テストが終われば潮が引くように彼女との約束をフイにする。働いてる様子もないのに金銭的余裕があること、ふらっと訪ねてくる父親を“父親”と周知されることもなく、口さがない噂に晒されたのも一度や二度ではない。
 病弱な母親を守るため、母親のなかにある父親への愛を穢さないため、トバリは常に毅然と前を向いて歩いた。孤独でも孤立でもなく、孤高なのだと認めさせるために強くなった。
 気丈な義姉を見ていると、長門には自分の胸にあるわだかまりと生き辛さが何なのかよくわかった。独りに慣れすぎると、胸の蓋が開かなくなる。“それ”が孤独にせよ、孤立にせよ、喩え孤高であろうと、誰一人自分の胸に仕舞うことが出来ないのは苦しい。誰にも理解されないのは寂しい。
 トバリと一緒にいると、一緒に暮らし始めてから明確に、前より“苦しい”とか“寂しい”と思わなくなっていた。まあトバリの責め苦に耐えるのに必死でセンチメンタルになっていられないだけな気もするけれど……そこらへんが、自分がトバリを嫌えない理由なのではないかと思う。
 それに、長門のくせによくやったじゃない――そう頭を叩かれると、悪い気はしなかった。
 しかしだからといって、トバリの身勝手を許容するわけにはいかない。


 シトシトと雨が降るなかを、カッパを着込んだ義姉は颯爽と歩いていた。
 あたりは木どころか草の一本も生えていない、正に“不毛の大地”と冠されるのが良く似合う荒地。長門とトバリにとっては幼い頃から見慣れた景色である。互いに育った場所から遠く離れているとはいえ、雨隠れの里は都市部を除いて他は似たり寄ったり。故郷の町と違うことと言えば、眼下に広がる住居の殆どが放棄され、盗人に荒されていることぐらいだった。
 長門はゼエゼエ粗い息を吐きながら、緩やかな丘陵の天辺で立ち止まった義姉に近づく。地面の硬度は疎らで、岩というには脆い地盤は滑りやすい。内部が殆ど泥と化した部分に足を踏み入れた瞬間、誰かがぐっと長門の腕を支えた。「ドジ」トバリがキッと長門を睨んだ。
「着いてこないでよ。アンタ、こないだもカルガモみたいに私についてきて怪我したじゃない」
「カルガモみたことあるの?」
「ない」義弟の無邪気な問いをバッサリ切り捨てて、ため息をつく。「フード、脱げてる」
 指摘を受けた長門が被り直す間もなく、トバリの手が乱暴にフードを直してしまう。
 恐らく走っている内に風圧で脱げてしまったのだろうが、トバリにとっては長門が雨のなかフードも被る頭もないバカであることを証明する材料にしかならない。深々としたため息をもう一度おさらいすると、トバリの手が長門の目元に触れた。額に張り付いた前髪を、指で退ける。
「あーほら、目に雨入って赤くなってるじゃない」
 眉間にしわを寄せたトバリが、長門の目を覗き込んだ。
 元は紺だった瞳は、一月前から少しずつ色素が抜けている。その原因の一端を負うトバリは、長門が目元にキズを負って以来その様子に敏感だった。彼女らしくもなく狼狽えた様子を見せる。
 あーもー如何するのこれ、幾ら雨だって不純物も含んでるし、何なら毒が混じってる可能性だってあるんだからね。運よく治療してもらえたとはいっても所詮どこの馬の骨かもしれないおじいさんだし、適切な治療を受けたか分かんない以上大事にしてし過ぎることはないでしょ。
 長門に覆いかぶさるようにして、トバリがポケットから取り出した点眼薬をその目に落とした。目を病んでいるから避難出来ないなんて人は存在しないだろうが、その点眼薬にしろ残り少ない貴重な薬品の一つ。無作為に使って良いものではないとは、トバリも分かっているはずだ。
 トバリの腕を振り払うと、長門はフードの淵を引っ張って、目元を覆い隠した。

「炎症は起こってないし、瞳孔にも異常ないって父さんが言ってたじゃない。食べ物で目の色が変わる事例もあるって。葉っぱとか、ナッツとかばっかり食べてると色素が薄くなるらしいよ」 
「そりゃそうだけど……でも目なんだから、目が駄目になったら……」
 ボソボソと不満げな声を漏らすと、一切納得した様子のないトバリはフンと鼻を鳴らした。
 くるっと踵を返して一言。
「じゃ、さっさと帰りなさい。今度目に枝が刺さっても、私は何も出来ないからね」
 精確には目に枝が刺さったわけではなく、目元を切っただけなのだが、義姉の記憶では両目に枝が突き刺さったことになっているようだ。全くもって記憶力が良いのか悪いのか、いまいち判別のつかない人である。長門は何とも言えない表情で、トバリの後ろについて歩きだした。
「トバリちゃん、家から離れすぎだよ」
「大丈夫だってば。私は、あんたと違って強いんだから」
 聞き慣れた台詞を口にして、義姉は足取り軽く岩山を昇って行く。
 長門は自分たちが当面の住まいとしている半球状の建物が遠ざかっていくのを時折見返しつつ、この強情な義姉を如何説き伏せれば良いものか困りきっていた。

 義姉が単なる酔狂や暇つぶしで遠出しているわけではないのは長門にも分かっていた。
 殆ど戦闘区域スレスレに位置するゴーストタウンで暮らす長門達は物資調達に即してはるばる隣町まで行かねばならない。その隣町にも、数か月前を最後に物資の運送が滞っていた。
 運送業者が戦闘区域目前まで荷を運ぶのを嫌がっているだけなら、話は早い。単独避難不可能の傷病人を介助しつつ、戦闘区域から後退すれば良いのである。しかし問題は運送業者の危険回避能力ではなかった。物資の運送途上で通る道に大規模窃盗団の塒が出来たのである。今の雨隠れに、武装集団を退治するだけの力を持った組織は存在しない。皆木ノ葉との戦争に出払ってしまった。
 幾ら大規模窃盗団とはいえ無差別殺戮集団ではないから、無い袖を振れと強要したりはしない。彼らが襲うのは食料雑貨医療品を積んだ馬車だけで、塒とする道の先にある、国境側の町村には我関せずの態度を保っている。まあ物資の運送が途絶えると緩やかに死ぬので、こちらに来ようと来なかろうと大した差はない。出来る限り節約したものの、食料も薬品も枯渇目前である。
 母親は毎日魚を釣りに出かけるし、父親はプランターで育てたハーブを乾かして粉末状にしたり、気休め程度の煎じ薬を作ることに心を砕いている。叔父と叔母の苦労を前にして、それでもまだ安全な家のなかでじっとしていろというのはトバリにとって苦痛でしかない。
 大方山に自生する植物から、食用可能なものか、生薬に使えるものを探すつもりなのだろう。
 これまでにも鴨を狩ったり、鯉を捕まえてきた前例がある。トバリは「人間死ぬ気になればなんでもできる、何とかなる」と言うけれど、気合いで何とかなるのはこの義姉だけだと思う。

「トバリちゃんは強すぎだよ」
「あんたが弱すぎなの」
 傲岸不遜に言い捨てると、トバリが流し目をくれる。
「あんた不甲斐ないんだもん。私、伊勢さんの跡継ぎになるつもりで頑張ってんだからね」
 露骨に戦力外通知を突きつけられ、長門はムッと頬を膨らませた。
 長門なんて、産まれた時から――というのは少し大げさにすぎるものの、物心ついた頃から“父さんみたいな医者になるんだ”と決意していた。なのに後からやってきたトバリは、みるみる父親の医学知識を身に着けている。どうせなら医療忍術のほうがトバリに向いているのではないかと思って、それとなく医学から関心が逸れるよう誘導したのだが、上手くいかなかった。
 未だ傷病人の介助や包帯の巻き方なんかは長門のほうがずっと手慣れているけれど、それもいつかトバリに追い抜かれる日が来るのだろうか。考えるだに憂鬱である。
「だから兎に角、帰りなさい。また怪我したら、医者になるならないどこの話じゃないでしょ」
 トバリはリュックから取り出した方位磁石を矯めつ眇めつして、周囲を確かめた。ただ茶色くて、長雨に濡れて湿っているだけの荒地。そこに“希望”はないかと、あたりを見渡している。
「ぼ、僕も……大きくなったら父さんみたいなお医者さんになるよ」
 泥で滑った体を、トバリの手が支える。
 自分のことながら、碌でもないタイミングでやらかしたものだ。長門が乱れた体勢を整え直すと、トバリは三度目のため息をついた。「無理」腰を屈めて、地面に落ちた方位磁石を拾う。
「無理無理無理。アンタ、血見るの嫌いでしょ。泣き虫ビビリの長門くん」
「別に……トバリちゃんがビビらせてるんじゃん」
「何よ」トバリがじっとりと長門を睨み付けた。「文句あるの? あんた一人じゃ野良犬一匹追い払えないくせに。頼りなさすぎてかわいそーだから一緒にいてやってんだからね」
 勝ち誇った笑みで腕を組むと、トバリは皮肉っぽく笑った。
「しょーがないから、あんたが立派になるまで一緒にいてあげる」
 そんな日、来ないだろうけど。ぼそっと続けられた台詞に、冷や汗が背を伝う。この暴君がずっと一緒にいるのか……長門は自分の未来には夢も希望もない気がしてきた。

「ま、良いや。私も一回長門と帰ろ」
 ひびが入った方位磁石を眺めて、四度目のため息。
 それまでの意固地が嘘のように意見を翻し、元来た道を戻っていく。こういう時は大抵、長門を適当に誤魔化すだけ誤魔化して、長門の目を盗んで事を行うつもりなのだ。長門には分かっていた。コクっと頷いて、トバリと並んで歩きだす。自分が目を離さなければ、義姉も諦めるだろう。
「ちゃんと足元見て歩きなさいよ。一々転んだあんたの手当てするのはごめんだからね」
「別に、ほっといていいよ。どうせ、すぐ治っ」
 行くにしろ帰るにしろ口煩い。そう呆れた瞬間、顔の真横でバッチンと乾いた音が鳴った。
 湿った頬に、ジリジリと乾いた痛みが広がる。呆気に取られ、頬を押さえるのも忘れたまま顔を上げると、義姉はこの上なく不愉快そうに顔を顰めて激怒していた。

「治るから良いじゃないでしょ。怪我したら痛いのはアンタなんだからね」
 今痛いのはトバリちゃんのせいだけどね――と言えば、きっと左頬もぶたれるだろう。

 長門は舌上まで飛び出して来た言葉を、苦労しいしい飲み下した。
 治るから良いじゃないでしょ。怪我したら痛いのはアンタなんだからね。一聴して良い台詞だが、平手打ちされた時点で理不尽さしか感じない。この“良いこと言ってるけど今お前がやってるのは何だ”と言いたくなる言動は、トバリによくあるパターンである。生粋の棚上げガールとしか言いようがないぐらいに良いことを言うし、それと同時に酷いこともする。わけがわからない。
 怪我をしたら痛いかもしれないけど、それを理由にビンタされるのは痛みに加えて腹立たしさがあり、余計に不快である。長門はヒリヒリする頬を手で押さえて「ふぁい」と呟いた。この義姉と家族になった時点で、やはり自分の未来は寸分の光も残されていない。

 そうした絶望のなか、暫く二人は無言で帰路を辿っていた。

「早く大人になりたいな」
 ぽつっと、雨滴と共に独り言ちた響きが落ちてきた。
 まだジンワリとした痛みが残る頬から手を離して、義姉を見上げる。フードを深く被った顔には濃い影が落ちていて、まだ十二歳とは思えないほど大人びていた。きっと他里の子どもから見れば、長門の顔だってそう見えるのだろう。長雨に倦んで、戦火に疲弊している。そういう顔。
 伯母が生きている頃は活き活きとして、輝きに満ちていた瞳も、泥のように濁っている。
 夜も昼も、ふとトバリに目をやると、鬼気迫った様子で頭を抱えている。今にも“もう駄目”と言いたげに頭を抱えて、目の前にある本や鍋、釣り竿、何もかもから顔を背けている。長門の視線に気づくと、ふっと肩の力が抜けて、大あくびと共に背を逸らす。それが演技なのか、そうじゃないのか……もっと言うと戦火によるものなのか、伯母の死によるものなのか、長門には分からない。
 いつからか、あんなに快活だったトバリの瞳に一条の光も宿らなくなった。

 伯母の骨壺があった頃は、毎晩のようにそれを抱いて雨を見上げていた。
 伯母の骨壺がなくなってからは、長門の寝床に潜り込んでくる。長門の赤い髪は母親譲り。姉によく似た母親と、トバリに全く似ていない伯母と同じ髪。長門の、男子にしては少し長めの赤い髪を指で梳いて、トバリはじっと長門の寝入るのを待つのだった。息を詰めて、繰り返し長門の髪を手繰る。自分を見つめる義姉に見守られながら、夢現に伯母の髪の長さを思い出す。
 夜ごと部屋の中に死臭が漂う。骨壺はないのに。それで、長門は死の気配の“もと”を知る。

「私もお医者になったら、伊勢さんたちみたいに傷ついたひとを助けたい」
 ぼんやりと未来を語るトバリの手に縋って、長門は彼女の意識を現実に留めようとした。
「それで、凄く偉い人になって、非戦闘地域での戦闘は禁止したい。誰にも迷惑かけない荒野でやるとか、そういうのを徹底させる。今は戦勝国が好きに戦時国際法変えちゃうけど、どこの国にも隠れ里にも属さない、戦時国際法の正当性を守る中立組織を作ってさ、一般人の生活が国家間の摩擦に左右されないようにするの。今の、弱者を追いやった非戦闘地域での交戦は間違ってる」
 口上こそ立派だが、声には覇気がない。今自分のなかにある激情を吐き出しているわけではなく、ただ日記帳のなかで醸造した“憎悪”を読み上げているだけだ。

 日を追う毎にトバリの胸の蓋はさび付いて、誰一人入り込めなくなっていた。
 日記を書いていても、釣りをしていても、こうして荒野を彷徨っていても、両親と笑い合っていても上の空。長門がその背を追いかけて、引き戻さなくては、二度と戻ってこない気さえする。
 指の爪先から、雨に濡れた皮膚から、トバリの命が抜け出ていく。

「ひとの、」
 トバリの声が震えた。まだ幼い頬を雨滴が滑り落ちる。
 長門と繋がっていない右手で口元を覆って、トバリはぼろぼろと涙を零した。
「もう、他人の都合で、ただ待つだけ、ただ逃げ回るのは、もう、嫌」
 いやいやと頭を振って、トバリは号泣する。長門は、その手をきつく握っていた。伯母の死から間をおかず本格化した戦争。立派で尊敬できる両親への愛情と生き辛さの間で板挟みになる苦しみ。猫の手も借りたい非常事態で、誰もが物わかりの良い義姉に大人であることを求める。
「ここで、いつまで……いつまで、ひとが死ぬのを待つの」
 疾うに伊勢達には傷病人を介助しつつ、物資供給のある地区まで移動する余力はない。
 今、この地区に残っている傷病人は二人。それも下半身に障害を抱えている者と、重度の病に侵されて起き上がることも出来ない者である。それ以外の傷病人は隣町に残った人の助けを得て、避難し終えていた。食料が十分にあれば伊勢が一人背負って、もう一人はタンカに乗せ、トバリと扶桑で運ぶことも出来たかもしれない。成人男性たった一人、あとは全員女子供と傷病人という集団で、窃盗団がいるという山のなかをチンタラ進むなど愚の骨頂だ。最早乏しい食料と気休め程度の薬を与えて、いつ二人が死ぬのか、いつ伝令係の忍がやってくるのか、ビクビク待つしかない。

 子どもの無邪気さで誤魔化しているものの、それが長門達の日常だった。
 子連れで戦闘区域スレスレまでやってきて医療活動を行うこと自体が非常識だと言う者もあるかもしれないが、そもそも地方都市を放棄して、里民の殆どが都市部に身を寄せる現状のほうが想定外なのだ。喩え防衛戦にしろ、これだけ侵攻を許していれば負けたも同然である。
 雨隠れの里民は皆諦めムード。寧ろ、これだけ不利な状況になってまだ和睦の道を模索しない半蔵に対する不信が募ってきていた。しかし、ここへきて戦況が一転し、雨隠れ優勢になっているのも事実だ。他人によっては「防衛戦とは名ばかりで、敢えて木ノ葉隠れを勝手知ったる自里におびき寄せただけ」「里民を餌に辛勝を釣ろうとしてる」と揶揄するが、長門もトバリもそう思う。
 木ノ葉隠れとの戦争は国境付近の防衛戦で終わる。それが半年前の里民全員の共通認識だった。
 今更何を言っても言い訳にしかならないだろうことは分かっている。それでも、まさかここまで侵攻されると分かっていれば伊勢も扶桑も違う身の振り方を考えただろう。増して国内の手薄を狙って窃盗団が闊歩し、地方への物資運送を悉く邪魔するなどと、誰に分かるのか。
 伊勢にも扶桑にもどうしようもないなら、トバリと長門には、もっとどうしようもない。
 それだけのこと。でもトバリは一度、そういって自分を誤魔化したことがある。しかたがない。それだけのこと。大したことはない。薬も慰めも、耐性が出来るとどうしても効力が薄れる。
「ひとのつごうで逃げ回るのはいや。だって、私たち、何も悪いことなんてしてない」
 トバリがしゃくりあげた。私たちが何をしたのと、無力を憎む呪詛を吐く。
 
 来るはずもない父親を待って、母親の脈が失せるのを恐れる。
 あるはずもない打開策を探して他人の死を待つ。彼らを置き去りに逃げる未来を恐れる。
 トバリは十二歳。大人びた自分に人一倍誇りを持っていた彼女にも、崩落が近づいていた。
 どれだけ背伸びしようと、結局一般人の“十二歳”は無力な子どもでしかない。


 長門の父母は、時には戦闘区域内にも入って医療活動を行うことがある。
 そんな二人に付き従って、長門はあちこちの町を転々として暮らしてきた。それ故、突然の退去命令や避難勧告に即しても適切に対応出来るのだが、戦火が増すにつれて避難勧告から交戦開始までのスパンが短くなりはじめていた。鉄と鉄の打ちあう音が徐々に近づいてきている状況で、伝令役を負った忍がたった今戦闘区域になったばかりの町から一般人を追い立てる。
 そうした恐怖と焦りのなかで、医療器具や薬品、当座の食料をかき集めるだけで精いっぱい。ひと一人分の骨を収めた陶器は、それなりの大きさで、軽いとは言い難かった。それを持って逃げるなら、伊勢か扶桑に持ってもらう他ない。無論実姉の骨壺だから、扶桑は何を引き換えにしてでも持っていくと主張した。地響きめいて激しい足音に、皆が意識を取られていた。
 骨壺を持っていかなければ、その分余計に食料を運べる。薬が運べる。これから生きるために必要なものを持っていける。そう分かっていても、誰もトバリに“置いていきなさい”とは言えない。トバリにとっては、単なる壺ではない。自分を産んでくれたひとが眠る壺なのだから。
 誰もトバリに“置いていきなさい”とは言えなかった。玄関先の荷物を引っ掴んだまま動かない四人のなかで、真っ先に口を開いたのは扶桑だった。姉さんは、いつものところに“いる”のね? 
 長門が母親の服の裾を掴むのと、トバリが叔母の腕を引くのと、どちらが早かっただろう。トバリは頭を振って「叔母さま、行こう」と口にした。自分が母親の墓を作らなかったのが悪いと言葉を続ける。この非常時に余計な荷物を増やすのがどれだけ馬鹿なことか、お母さまは死んでからも私に色んな事を教えてくれる。ここに残していこう。喩え家屋が倒壊して容れ物が壊れても、他人に見つかったとしても、骨壺を盗んだり、その中の骨を壊す人はいない。
『もう死んでしまったひとのために叔母さまを危ない目にあわせたら、きっと母さまが怒る』
 覚悟を決めて微笑うトバリに、伊勢も扶桑も最早何も言えず、戦闘区域外へ走り出した。背中のリュックサックのなかで、銀の医療器具がこすれ合って軽やかな音を立てる。やがて、そのなかに忍刀が打ち合い、クナイが空を切る音が混じり始めた。遠く、日常が崩落する音が聞こえた。
 伯母の骨壺は今、木ノ葉隠れと雨隠れ、双方入り混じっての白刃戦の真っただ中にある。

 トバリの愛した人は理不尽な暴力に踏みにじられて、二度と彼女の手元に戻らない。
 それを“自分の我儘のせいだ”と言うほか、トバリには如何しようもなかった。

 まだ七歳の長門には、トバリのさび付いて開かない胸中を理解することは出来ない。
 それでも、如何にかしてこの人を“ここ”に引き留めたいという渇望だけは理解していた。
「……トバリちゃんのせいじゃないよ。全部、絶対、何もトバリちゃんのせいじゃない」
 長門はトバリの手を握る右手に左手を添え、両手で彼女の手に縋る。
「トバリちゃん、逃げてなんかない。ちゃんと自分に出来ることで戦ってる。えらい、よ」
 涙で潤んだ瞳を見上げると、その黒い光彩に光が差した気がした。数カ月ぶりに。
「大丈夫。全部うまく行くよ。すぐ戦争なんか終わるって、父さんも母さんも言ってる。そしたらトバリちゃん、伯父さんの家遊び行くんでしょ。きっと、木ノ葉は緑が一杯で楽しいよ」
 長門の拙い励ましを受けて、トバリが噴出した。
「今まさに戦争してるとこに遊び行ったら楽しいよって、何なの?」
「ああ、いや。でも……喧嘩売ったの、半蔵だよね?」
「ま、そうだけどさ」ぐいっと、トバリが手の甲で涙を拭った。笑う。「ありがと。元気出た」

「帰って、叔母さまと一緒に魚でも釣ろーか」
 そう笑いながら長門の手をブンブン振り回していたトバリが、ふと固まった。
 ややあってから、ぱっと長門の手を振り払う。「ごめん、猫爪草見つけた」長門の体温を残したままのトバリの手が、フードごしに長門の頭を撫でた。とてもやさしく、撫でた。
 トバリの視線を辿って目を凝らしても、長門には何も見えない。
「何もないよ。トバリちゃんの視力ゴリラ並なんじゃないの」
「長門は目のなかに枝やら前髪やら突っ込んでるから見えないんでしょ」
 ぶにーっと自分のほっぺを引っ張るトバリは、長門のよく知る勝気で我儘で身勝手で、そして快活な従姉だった。さいごに見たその笑みは、伯母の生前と全く同じに見えた。

「長門は先に帰って、叔母さまと釣りの準備しててよ。ぱっと行って、すぐ帰るから」
 あんなに“手を離しては駄目だ”と思っていたひとを、何故一人行かせてしまったのか。

 ぱっと行って、すぐ帰るから。
 そう言ったトバリは、一時間経っても、一日経っても、一週間が過ぎても帰ってこなかった。
 彼女の葬儀については、覚えていない。長門達がいる町は勿論隣町の火葬場も疾うに閉鎖されていたし、一番近い火葬場でも山を二つ越える必要があった。死体は重く、傷病人よりずっと扱いに困る。結局トバリの死体は町の外れに埋めることになった。恐らく、戦争が終わり次第トバリの父親が亡骸を引き取り来るだろう――その件についても、伊勢と扶桑は幾らか口論していた。渡したくない。渡さなければならない。最初から、カンヌキに渡していればこんなことにはならなかった。ポツポツと漏れ聞こえる後悔を盗み聞きながら、長門は義姉について思い馳せた。
 長門には、トバリと最期の別れを済ますことも許されなかった。あの日、義姉が目指した猫爪草の群生地で、その死体は酷い有様だったらしい。義姉の死体を見つけて帰ってきた父親は、それから死ぬまでの間一切肉料理を口にしなかった。誰が彼女を殺したのかは、分からなかった。暴行の痕があったから、男だろう。その言葉の意味もよく分からず、不定形に盛り上がる布を眺めた。見てはいけない、近づいてはいけないと、母親が長門の手を握る。トバリに被せられた布が、人型に盛り上がっていない。その意味が分からないほど子どもではなかった。

 戦争がはじまる前、トバリはいつも毅然と前を向き、その黒い瞳をキラキラ輝かせていた。
 彼女の胸にはうつくしく善良な夢が沢山詰まっており、素晴らしいことにそれを叶えるだけの才能も十分にあった。一度読んだ書物の内容は決して忘れなかったし、努力家で、勤勉だった。自他ともに認める美少女とまではいかないけれど、笑顔の多い義姉は色んな人から好かれていた。
 その義姉が誰もいない草原のなか幾夜も風雨に晒され、乾いた死肉を獣に漁られる。
 地獄が何かと問われれば、長門は真っ先に義姉の死を思い返すだろう。希望に満ち溢れ、戦火のなかでも光り輝いていた未来が、唾棄すべき暴力によって辱められ、踏みにじられる。その忌々しい記憶に、自らの“希望”もまた義姉と同じ末路を辿った現実を直視せずにはいられない。

『早く、大人になりたいな。私も、伊勢さんたちみたいに傷ついたひとを助けたい』
 十五で死んだ友を置き去りに、十二で死んだ義姉を疾うに追い越して、一人大人になる絶望。
 夢の名残を傍らに留めていてさえ、長門はもう二度と希望を抱くことはないだろう。


 ずっと前から知っていた。この呪われた世界に本当の平和など存在しない。
地獄
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