高湿度の空気で温められた地面から、雨の降る前独特の埃っぽい空気が立ち込めている。

 トバリは、ひくりと鼻を動かした。視覚が鈍る分、新月の夜は五感が鋭敏になる。閉まりが甘いのは窓か、はたまた雨戸だろうか。夜の気配が、密閉されているはずの寝室に入り込んでいた。
 里の設立当初に建てられただけあって、トバリの住む二代目火影邸は年季の入った建物である。隙間風はそう珍しいことではないし、夏場であればそう防寒に気を配る必要もない。喩え冬であろうと、ストーブ一つ焚いておけば凍えることはなかった。シロアリが出たとか水道管が破裂したとか、雨漏りでもあるなら話は別だが、隙間風程度で祖父と父の遺した財産を削ってまで改修工事を行う必要はない――というのが、トバリの見解であった。事実、ヒルゼンが強硬策を取らないあたり、老朽化が進んでいると言ってもイマイチ決定打足り得る“問題”はないのだろう。

 ここ一月近く足が遠のいているとはいえ、トバリは自分の寝室をそれなりに気に入っていた。
 広さ八畳のこの部屋は、確かにトバリにとって広すぎたけれど、青年二人で使うにもやや手狭である。凡そ五十年前、伯父たちが健在の頃は子ども部屋代わりに離れを使っていたらしいが、そう広くない部屋で共に寝起きしていたあたり、兄弟仲はかなり良かったのだろう。末子のカンヌキが次兄と五才近く離れていたのに反して、上二人は年子だったと庭師から聞いた覚えがあった。
 兄二人が死に、父も死に、カンヌキは余程この屋敷を持て余したと見える。トバリの暮らす離れは一棟丸ごとタイムカプセルめいて、分厚い埃の下にここで暮らした伯父たちの痕跡が色濃く残されていた。柱に刻まれた背比べのあと、桐箪笥のなかでナフタレン臭い忍装束と錆びた忍具。それに、押入れのなかでは、長持ちに仕舞われた忍術指南書が紙魚の恰好の餌場となっていた。
 畳は青々としているし、何度か業者を入れての大規模清掃が行われた記憶はあるが、今振り返ってみると本当に表面的な“清掃”だけで、小道具や壊れた家財道具の運び出しなどは一切なかったように思う。業者の手配をしたのはカンヌキだから、彼が意図的に“収納内の整理整頓・清掃は行わないように”と頼んだのだろうか。捨てもせず、手に取ることもなく、ただ経年劣化に晒しておくだけ――という措置からは、“兄たちの遺品を大切に思う弟”の図が浮かびにくい。
 庭師から話を聞く限り、カンヌキは妻を迎えることもなく、この広い屋敷のなかで気ままに暮らしていたらしかった。丁度今のトバリがそうであるように、一人ぼっちで、自由だった。

 トバリにとっては、戸や壁の隙間を抜ける風も、指南書の端に記された落書きも大差ない。
 それらは皆、かつてはこの屋敷のなかに人の気配があったことの証明だからだ。トバリは、今自分が住まう離れや、その庭先に、伯父たちや祖父の姿を思い浮かべるのが好きだった。
 自分の出生が不自然なもので、本当は彼らの血縁ではないかもしれないと思ってさえ、その気持ちに変わりはない。時を越えて、自分以外の誰かがここで暮らした光景を思い浮かべる。それ自体がもう単なる“空想”で、何の足しにもならないことだと分かっているからだ。
 今のトバリには、家政婦が頻りに「この家は世間から置き去りにされているようだ」と言った意味がわかる。あるべきはずの未来から外れたまま、現実世界と繋がることが出来ていないのだ。
 この屋敷はあまりにも広すぎて、その広さが何のためのものかを露骨に悟らせた。
 そもそも部屋の間取りから推測するに、数世帯で暮らすことを想定して作られたに違いない。大まかに考えるだけで、跡継ぎの長男が結婚後も父母と共に母屋に住まい、次男か末子のカンヌキが結婚後も離れで暮らす青写真があったのではなかろうか。しかし伯父二人は早世し、扉間も亡くなり、一人残されたカンヌキも妻を迎えることはなかった。結果的に今は子どもが一人で暮らしている。青写真の主が柱間にしろ、扉間にしろ、それはあまりに寂しい現実だった。

 夢見た未来と現実の落差が、この屋敷の磁場を歪めて見せる。
 トバリでさえ“郷愁”という磁気にあてられるのだ。なのに、確実に彼らの血縁であり、共に育ち、暮らした記憶のあるカンヌキは、屋敷のなかに家族の姿を探そうとはしなかったのだろうか。
 手つかずなのは、伯父たちの遺品だけではない。書庫の隅に収められていた扉間の日記も皆、埃まみれだっただけでなく、背表紙も新品同様に硬かった。実の娘でないトバリを顧みなかったのは当然のこととしても、兄たちや父の“思い出”に触れようとしないのは不自然である。もしくは思い出が優しすぎて、家族を喪った現実に耐え切れないが故に触れられなかったのかもしれない。
 どの道、この屋敷の正当な主人だったカンヌキは随分前に死んでしまった。死んでしまえばもう何もないのに、死んだものにいつまでも囚われるのは馬鹿馬鹿しいことだ。伯父たちも、扉間も、カンヌキもいない。彼らと密に関わってきた庭師も、じきに死ぬ。カンヌキの気持ちを探ったところで、今更何の役に立つというのか。それに、どれだけ考えたってトバリには理解出来ない。

 理解できない、と言えば伯父たちの“遺産”の幾つかもそうだ。
 恐らく暗器の一種だろう鉄製の道具や、収納が沢山付いた布は分からないなりに“任務に用いたのだろう”と合点がいくのだが、裸の男女が絡み合う図画が多く収められた書物は、一体何の役にたつのだろう。絵に添えられた文章を読んでみても“尺八プレイ”とか“後櫓”、“鵯越え”などの隠語と思しき単語を多く含むため読解がままならない。一見して忍術と無縁に思えるが、“陰と陽のチャクラ”や“有形の忍術”という真面目極まりない書物に挟まれていたのだから、この“どえろ図鑑六月号”も独自の忍道を説いた真面目な本なのだろう。一人前の忍者になった暁には改めて読み返そう。その決意と共に、“どえろ図鑑六月号”を天袋に戻したのは、もう半年前のことだ。
 大したことではないし、きっと理解したところですぐ意識の表層から失せるに違いないのだけれど、ふっと“どえろ図鑑六月号”のことを思い返すと「理解出来ないままなのだろうな」と思う。
 勿論、この屋敷から消える前にヒルゼンに「この本は何の役に立つのか」と聞いても良かった。
 半年前のトバリがそれをしなかったのは、当時のヒルゼンは今よりずっと“他人”で“多忙な人”で“詰まらないことで引き止めてはいけない相手”だったからだ。アスマに聞くのも癪だし、そこから雑談に発展するのも面倒くさいから、時の経過に任せようと結論づけた。

 思い返してみれば、トバリがヒルゼンに何か伝えたり、教えを乞うたことのほうが少ない。
 先の“どえろ図鑑六月号”をはじめ、センテイを手伝って植えたスイカズラの花の蜜、書庫の奥にズラリと並んだ扉間の日記もトバリだけの“密やかな楽しみ”の一つである。
 どれも意図的に秘しているわけではないから、もし他人に聞かれれば何の躊躇いもなく明かしただろう。事実、イタチはトバリが祖父の日記を読んだことがある。良くも悪くも、それらは“大したこと”ではなかったのだ。独占欲がない代わりに“誰かと分かち合いたい”と望むこともない。
 そういう理由で、トバリの“密やかな楽しみ”は両手の指に足りないほど存在した。
 母屋の郵便受けを覗くと見える、小さい鷲の落書き。庭灯籠の頭、火袋のなかにある、カラカラに干からびたドングリやビー玉の山。沓脱石から数えて三つめの飛石の下に埋められた、アカデミーの通信簿。書庫に入ってすぐ右手にある本棚の四段目にある置物を弄ると、隠し扉ならぬ隠し引き出しが出てくること――そのなかに収められた、小さい鍵やベーゴマ、扉間の悪口だらけの紙片。どれも皆、トバリが一人で見つけて、結果的に“トバリだけの秘密”になってしまったものだ。

 トバリしか知らないことだから、トバリがいなくなれば誰も気づかない。
 それを惜しいと思うなら、誰かに伝えれば良いとも分かっていた。そして、もしヒルゼンやアスマに伝えたところで、彼らはすぐトバリの“密やかな楽しみ”を意識の表層から拭い去ってしまうだろうことにも何となく想像がついた。トバリだって、彼らと同じだ。喩えヒルゼンの家に、彼の父親が大したことのない秘密を沢山残していようと、深い関心を持つことはない。
 トバリが、トバリだけの秘密を特別惜しいように感じるのは、それがトバリのものだからだ。
 家族がいなくても、トバリはここに住んでいた人々が自分の家族で、もし今ここに住んでいたら、自分を家族だと認めてくれたかもしれないと思っていた。家族ではないと分かってさえ、その空想を捨てきれなかった。捨てきれないと言っても、どうせ“それ”は空想に過ぎず、もうここには誰もいないから、捨てるまでもない。ただ、それだけのことだった。

 寝室の隅には、遥か昔にセンテイが置いて帰った、赤い、大きな目覚まし時計。
 目覚まし時計の脇に折り畳まれた小さな布団は、普段は白いカバーを掛けられて分かり辛いけれど、枕と敷布団も、掛け布団と同じ柄をしている。曙色の布地に緋色の梅が散りばめられた、可愛らしい模様が入っていて、三年前にヒルゼンが買ってきたものだ。目覚まし時計のうしろには、角行灯が控えている。その三つに目隠し用の几帳、トバリの寝室にある調度品はそれだけだった。
 必要最低限のものしか揃っていないし、冬場はストーブを焚いてもまだ薄ら寒いけれど、夜は静かで、そこはトバリにとって居心地の良い場所だった。布団の中に収まって、一から十まで数える間に体の緊張を解し、手足の感覚を遮断する。布団に入ってから、頭の中が黒で塗りつぶされるまでの時間は殆ど一瞬と言ってよい。その僅かな思考の余白には、決まって“大したことのない秘密”が浮かんできた。自分に“夢”というものがあるなら、恐らくあれがそうだったのだと思う。穏やかで、記憶に残す価値もない一瞬。長い間ずっと、あの寝室はトバリの気に入りだった。

 最後にあの寝室で眠ったのは、いつのことだろうか。
 外の世界で、トバリは色んなことを知ったし、少しずつ色んなことを思い出しつつある。かつてこの屋敷はトバリの家で、あの部屋はトバリの寝室だったけど、そこにトバリの居場所はない。
 “どえろ図鑑六月号”に、センテイを手伝って植えたスイカズラの花の蜜。書庫の奥にズラリと並んだ扉間の日記。母屋の郵便受けを覗くと見える、小さい鷲の落書き。庭灯籠の頭、火袋のなかにある、カラカラに干からびたドングリやビー玉の山。沓脱石から数えて三つめの飛石の下に埋められた、アカデミーの通信簿。書庫に入ってすぐ右手にある本棚の四段目にある置物を弄ると、隠し扉ならぬ隠し引き出しが出てくること――そのなかに収められた、小さい鍵やベーゴマ、扉間の悪口だらけの紙片。みんなみんな、何もかも、全部、他人に伝えるまでもないことだった。
 そう判断したのだから、トバリだってそれらに意識を留める必要などないのだ。
 もうここには誰もいないし、もし誰かいたとしても、全てを知ったらトバリのことを家族だとは認めてくれない。ここが自分の家だと錯覚して、伯父たちや祖父が生きていれば、彼らは姪や孫娘の“密やかな楽しみ”を意識の端に留めてくれるのではないかと、どこかで期待していた。
 極めて愚かな事には、多分、まだ少しは期待しているのだ。自分がちゃんと全部隠し果せたなら、布団の中で一から十まで数えた時のように、一瞬の夢――あの寝室のなかに、屋敷のなかに、里のなかに、ここに自分の居場所が存在する――そんな“夢”を見られるのではないか、と。
 そのためなら、何をしても良い。そう思ったのは事実だ。


 この里から自分と言う存在を消すためなら、何をしても良い。
 有り体に言うと、それは自殺である。“死ぬ”と言葉にするのは簡単だし、生身の人間であれば言葉にするより簡単に死ぬのだけれど、トバリは普通の人間ではない。驚異的な自己治癒能力を考えると、たかが自殺にしろ生半なことではない。そもそも、カンヌキという一人前の忍がチャレンジして失敗していることなのである。幼児一人で取り組んだところで、“腰に岩を括りつけて入水”以外に何のアイデアも浮かばなかっただろう。そう考えると、大蛇丸の来訪は丁度良いタイミングだった。彼の人間性は兎も角、優秀な大人の忍と協力関係を結べたのはつくづく運が良い。
 殆ど独学とはいえ、大蛇丸は人体の仕組みと薬品の扱い方、医学に長けていた。一方のトバリは幾ら賢いと言われようと、所詮四年分の人生経験しかない幼児である。大蛇丸の助力なしに事を達成出来ないのは火を見るよりも明らかで、だからこそ何をされても文句は言わなかった。何をされても良いとも思った。でも、リフォーム許可を出した覚えまではなかった。断じてない。
 大蛇丸は今、“トバリの気に入りの寝室”を魔改造することに熱中している。

 大蛇丸はその名の通り、己の好奇心を満たすことについては蛇のように貪欲だった。
 幼児の“スプラッタ”を愉しむために、わざわざブルーシートやガムテープを持参するあたり、その並々ならぬ熱意が伺える。この男の熱意や執心は幾らか見習うべきところがあるし、人間性を鑑みると決して見習ってはいけない相手であるような気もする。尤も見習おうと思って見習える相手でもないので、気を付ける必要もない。兎に角、トバリはこの男が嫌いではなかった。
 トバリは隣室に面した襖――既にブルーシートが張られ、障子戸か襖か壁かも判別つかないのだが――を背に、リフォームの匠をぼんやり見守っていた。三忍の一人がブルーシートを張り続ける現場に居合わせる幸運は滅多にない。里の外をほっつき歩いている綱手と自来也にしろ、今ここで幼児の寝室を劇的ビフォーアフターしている大蛇丸、そしてその大改造を固唾をのんで見守っているトバリ、第二次反抗期の留まるところを知らぬアスマなどを踏まえて考えると、ヒルゼンに教育者としての才覚がないのが良く分かる。ヒルゼンの深い慈しみの心と豊かな教育理念が個々の私利私欲に覆い隠されて行く……冴え冴えとした青に囲まれながら、トバリは世を儚んだ。


 夜間の逢瀬を秘め事として伏すなら、汚れ対策を講じる必要があるのは分かる。
 大蛇丸はトバリの胸を刺すし、腕を切るし、腹を捌こうとする。ついでに毒も投与する。幾ら家政婦が一般人とはいえ、トバリの寝室が血みどろになっていれば騒ぎまわるに違いなかった。だから“予めブルーシートの上で事を行えば、後片付けが楽だ”という論理展開は理解できる。
 なるほど、ブルーシートの上でバラせば幾ら出血しても畳が汚れない。部屋を片付けた後でファブリーズでもシュシュッとしておけば、幾らヒルゼンでも「ちょっと普段と違うような……?」と思うだけで、露骨な追及は避けられるだろう。確かにこの寝室はトバリの気に入りではあったが、元通りにしてくれるなら五億歩譲ってブルーシート・ルームに変貌させたのは許そう。
 しかし、あと九時間と経たずして家政婦がやってくる。こんなに部屋をブルーシートまみれにして、果たして朝までに元通りに出来るのだろうか。大蛇丸は興が乗ってきたのか、電灯の笠を、ハサミでチマチマと細工したブルーシートで覆い始めた。最悪“お楽しみの時間”を削ってでも元に戻して貰わないと困るのだけれど、言ったところで良いとこ空返事で応えるだけだ。

 とんと利用していなかったとはいえ、そこはトバリにとって見慣れた寝室である。
 しかし畳の上、壁、襖さえ無機質なポリエチレンに覆われてみると、まあ間違いなく「ちょっと普段と違うような……?」というお目こぼしは期待出来ない有様になった。辛うじて、トバリがいるところから最も遠い窓際の壁と、天井だけが、いつも通り白々とした漆喰や木目を晒していた。
 トバリは無心に作業する匠を目で追って、考えた。無駄を承知で、一度大蛇丸と意思の疎通を図るべきかもしれない。事が終わればパッパと帰ってしまえば良い大蛇丸と違って、トバリはこの劇的ビフォーアフターの収録現場で暮らしている。きっと、一旦大蛇丸と話をしたほうがいい。大蛇丸を呼ぶため、トバリは身を起こそうとした――途端に、カクンと、首から下の感覚が失せる。
 “体の自由が利かずに床に崩れ落ちた”とか“体がマヒして、上手く動かすことが出来ない”わけではなかった。ただ、元々あった虚脱感が冷ややかに全身を覆う。そのゾッとするような感覚に、全ての気力が削がれてしまった。慣性で忘れかけていた頭痛と倦怠感、寒気が呼び起こされる。

 例によって、今日も大蛇丸が来て早々に一リットル近い血を抜かれていた。
 そんなにトバリの血を抜いて何に使うのかと思うものの、兎に角大蛇丸はトバリの血を欲しがる。粘膜も欲しがる。髪の毛も、爪も、肉片も、歯も欲しがる。流石に眼球が欲しいとか心臓が欲しいと言われると困るけれど、今のところ大蛇丸が欲するのは希少価値の低い部位だけだ。いや歯は乳歯とはいえ数に限りがあるから、トバリも「奥歯でも前歯でもないのにしてくれ」と条件を課した。しかし、数に限りがあると思われた歯もあっさり新しいものが生えてきたため、今は好きに採取させている。その内シキュウが欲しいとか、ランシが欲しいとか言っているが、ヒルゼンや家政婦から変に思われない程度に、好きに採取したら良い。勝手にしてくれ。

 トバリは殆ど自暴自棄なぐらい疲弊して、ぐったりと襖に体を預けた。
 この部屋を元通りにする算段は、まあ、多分、ついているだろう。トバリはそう己に言い聞かせた。大量の血を拭い去ってブルーシートを片すだけの作業、三時間と掛からず終わるに違いない。そう信じることにしよう。雨戸にしたって、僅かばかり開いていたからといって何なのか。室内の光源は角行灯ひとつぽっちで、窓から随分離れた場所に移動済みだった。そもそもが間接照明なので大した光量はない。血飛沫が庭に飛び出たところで、目立つ場所ではなかった――結局、トバリは横着することにした。何せ気分が悪いのである。ついでに、精神的に疲れているのである。リフォームの匠と採血のせいだけではない。明日はまたイタチとの修行の約束があった。
 貧血状態に加えて、明日への絶望がトバリの体を重くする。トバリにとっては、大蛇丸によって行われる“実験”より、イタチとの修行のほうが億倍めんどうくさいことだった。
 共に走ったり投擲訓練を行うだけならまだしも、イタチはトバリの顔を見るとどうしても何か言いたくなる呪いにかけられているらしい。修行の合間合間でトバリの生活習慣や惰性を指摘する必要性に駆られたイタチは、トバリの投擲フォームを直しながら「うでのすじがこわばってる。ちゃんと夜、体をやすめてるのか」と呟くし、走るのに疲れて休憩を入れたタイミングで「塩あめをなめろ。おまえには“えいようほきゅう”という考えがないのか」と睨んでくる。所詮他人にすぎないイタチに、何故そこまで世話を焼かれる必要があるのだろう。不思議で仕方がなかった。
 昼頃までは適当に受け流せるものの、精神的疲労が蓄積するにつれイタチの小言を躱す余裕が失せてくる。脚力や体力と違って、根気は一朝一夕では養われない。よって、二人の意見や予定が食い違った際には、まずトバリが根負けする。イタチと出会ってからもう二月近く経つのに、トバリの根気のなさは相変わらずだった。午後を回った頃にはもうイタチの要求通り休憩時間を設けるし、簡単に四肢のマッサージも行う。そして無理やり押し付けられた塩飴を舐めるのだけど、「そのうち、絶対、こいつと縁を切ってやる」という思いで舐める塩飴は敗北の味がする。
 また明日も、イタチの「オレがぜんぶただしい」と言わんばかりの無表情を見ながら塩飴を舐めさせられるのだろう。心底嫌になる。全身の血液を抜かれることでイタチとの修行を休めるのなら、トバリは何の躊躇いもなく「抜いてくれ」と大蛇丸に頼んだだろう。
 擦り切れるほど抱いた“苛立ち”を胸に、トバリは鉛よりも重たいため息をついた。
 トバリの感情と無関係に脈動は早く、四肢はフワフワとして落ち着かない。この感覚は、イタチの言うところの“フワフワとした走り方”の理解に役立つだろうか。


 ……それにしても、そろそろ貧血状態から脱しても良いものだ。
 イタチへの恨み事をひと通り心中に浮かべ終えたトバリは、はたと“違和感”を覚えた。
 如何にトバリの体が人知を越えているとはいえ、増血にはそれなりの時間が要される。
 量によって多少は変動するものの、日中だと凡そ二時間、夜間であれば半時ほどで回復するのが常だ。劇的ビフォーアフターの収録が始まってから、既に一時間が経過している。しかし、トバリの体は未だに貧血によって引き起こされる倦怠感や頭痛、息切れに苦しめられていた。思考回路こそ普段と比べて遜色ないが、反射や操躯速度は各段に低下している。
 これは可笑しい。いや可笑しいと言えばトバリの存在そのものが可笑しいのだけれど。

 “痛み”はバイタルサイン――生き物が生きていることを示すサインの一つだ。
 生き物は痛みを感じることで、己の身体に何らかの異常や異変が起きていることを知る。
 原則的に“痛覚”は自身の生命活動を脅かす“何か”が存在することを知らせる役割を負っており、それ故に“恐れ”と“忌避感情”がついて回る。痛みがイコールで死に直結するからだ。
 一方のトバリの体は別に痛かろうと何だろうと死なないのだから、もっと“痛み”に無頓着で良いのではなかろうか。どうせ死にはしないのに、どうせ治るのに、何故痛みを感じるのだろう。いや人型をしているのだから、痛覚があるのは仕方ないのかもしれない。でも痛みに怯んだり、動けないとか、体が重いと感じるのはトバリの気持ちひとつで改善出来るのではなかろうか。
 人間でもないくせ“痛み”に行動が左右されることからして可笑しいし、そもそも馬鹿げている。


 蒸すような鈍痛に目を瞑り、トバリは雨戸の外に思いを馳せた。
 月明かりのない、暗い空。太陽にぴったり寄り添って、姿を見せない月のことを考える。
 夜に忍んで生きる忍者にとって新月ほど動きやすい夜はない。任務の如何に拘わらず、この重たい夜闇のなかで、各里の忍者が一斉に行動を起こす。きっと里の外では――もしくは、この里のなかでも――あちこちで白刃が舞い、鉄の打ちあう音が夜の静謐を乱しているだろう。
 すんと鼻を動かせば、やはり湿った夜気が鼻孔を擽る。生温かい風が、初夏の日差しで温められた土の気配を孕んで皮膚に纏わりつく。月がなくとも、ここはトバリの見知った夜の一つなのだ。
 トバリはふーっと、ゆっくり息を吐いた。閉ざしていた瞼をゆるゆる開いて、幾度か瞬きを繰り返す。やっとのことで全身の倦怠感、額にこもっていた鈍痛が薄れていった。
 今日は如何にも調子が悪いようだ。視線だけで部屋を見渡すと、丁度大蛇丸が雨戸に手を掛けて、閉めなおそうとしているところだった。ほんの少し空いた隙間を眺めている。パシッと閉めてしまえばいいものを、何か不備でもあったのだろうか。トバリは些かの不安に襲われた。

 一昨日、縁側の床が抜けた。下手人は破壊のスタイリストこと大蛇丸である。
 当家における“老朽化”の代名詞にトドメを刺した大蛇丸は「私が凄く重たいみたいじゃない」と言って震えていたが、縁側の主な利用者はトバリである。アスマにしろ、ヒルゼンにしろ、縁側に腰を下ろすことこそままあるが、決して全体重を乗せようとはしない。それを成人男性である大蛇丸がズカズカ歩くのだから、寧ろよく耐えたほうだと思う。床板を踏み抜いた勢いで、盛大に縁側に崩れ落ちた大蛇丸を前にしても、トバリは全く驚かなかった。全く持って想定内である。
 いや、正直言うとこんなに見事に転ぶとは思わなかったし、あまりに勢いよく転んだので、何の反応も出来なかった。それを鑑みると、多少驚いていたのかもしれない。しかし、庭に面しているとはいえ屋内である。土遁も水遁も役に立たない。チャクラで己の下半身を強化した上で、大蛇丸の手を取って支えるなどしたら良かったのかもしれないが、ぱっと閃かなかった。それに、この男はイタチやセンテイと違って逞しそうだから、勝手に転ばせておけば良いように思ったのである。
 仕方なく、トバリは床に這いつくばる大蛇丸を無言で見下ろしたのだが――その対応が如何にも彼の不興を買ったらしい。その日は始終イタチやアスマの話でからかわれっぱなしだった。

 どの道明後日には大工さんがやってくる。
 窓辺に侍ったままの大蛇丸がその窓枠を破壊しようと、雨戸を外そうと大した問題ではない。イタチのことで茶々を入れられたくないなら、大蛇丸の望む反応を心掛けるが吉だろう。トバリは思案と共に身を起こし、思慮深げに頷いて見せた。ヒルゼンが自分を叱るときみたいに。
「……この家は古いから、こわしてしまってもしかたがない」
私がこの家のありとあらゆるものを壊したみたいに言うのは止してちょうだい
 間髪入れず、大蛇丸が振り向いた。後ろ手に雨戸を直して、失笑する。苛立ちと、ほんの少しの苦々しさが混じった微笑。「何なら幾らかお金を出してあげるから、この家全体を補修しなさい。おちおち廊下を歩くことも出来やしない」大蛇丸は、やれやれと言わんばかりに頭を振った。
「あなたが前にこわしたところのしゅうりはたのんである」
「壊れる前に直しなさいと言っているのよ。一々、私が何か壊す度に修繕を頼むよりずっと効率的だと思わない? このところ、猿飛先生以外にも色んな来客があるんでしょう」
 正論である。正論ではあるが、大々的に他人をいれるのは気が進まない。トバリはむっつりと黙り込んで、ふいと視線を外した。すると、背けた顔の先で、ひらと小型の蝶が羽ばたいていた。
 ついさっきまで部屋の中に二人きりと思っていたのに、雨戸を直す前に紛れ込んだのだろうか。それとも、トバリが気付かなかっただけで、随分前から室内で羽根を休めていたのかもしれない。たかが蝶の一匹、そう気にすることはないのだけれど、トバリはじっと黒い翅を見つめた。
 黒い翅に青緑色の帯が引かれた、美しい蝶である。少し小さすぎる嫌いがあるものの、アオスジアゲハか、その近縁種であろう。外縁部の森では幾らか目にするものの、市街にいるのは珍しい。

 
「お友達の家に遊びに行くんですって?」
 蝶を眺めたままボンヤリしていたトバリに声をかけて、大蛇丸が窓を離れた。
 どうやら、密室殺人の準備が整ったらしい。まっすぐトバリの目の前まで歩み寄ると、すっと腰を下ろした。床板を踏み抜くなどの愚行も晒すものの、大抵の場合、この男はまるきり無音で動く。忍者たるもの常に気配を殺すよう努めるべきなのだが、里内では幾らか気が抜けるのだろう。ヒルゼンにしろ、この邸を訪れる親戚たちにしろ、大蛇丸よりかは気配を察しやすい。
 トバリはじりっと後ずさりして、襖にぺったり背をつけた。視覚でしか捉えられないからか、大蛇丸が傍に来ると何となく身構えてしまう。別に、何をされても不服はないのだけど。
「……だれからきいたの」
「さあね」
 大蛇丸が目を細めて哂った。トバリに手を伸ばして、その小さな額に浮いた脂汗を拭う。
 僅かに湿った指先を自分の口元へ運んで、ぺろっと舐めた。「無味無臭ね」そう言われてみても、“へえ”としか思えない。それで満足するかと思いきや、またぞろトバリの頬を撫でる。頬だけでなく顔のパーツの一つ一つに触れ、その出来を確かめるように愛撫し始めた。

 夜間の逢瀬は、もう四回目になる。日中のも数えると、七回。
 全身の感度・痛覚のチェックは疾うに済んでいるのに、大蛇丸は度々トバリの体を弄り回す。そこに何の目的があるのかは分からないが、トバリのことを“私の傑作”と豪語するあたり、所有欲や優越感を満たす行為なのだろう。トバリは大蛇丸がやりやすいように顔を上げて、目を閉じた。
 大蛇丸は気まぐれな男だ。何の前触れもなしに、ただ“やりたかったから”で目の中に指を突っ込まれないとは限らない。しおらしい様子を見せるトバリに、大蛇丸は満足げに目を眇めた。
 すらりとしなやかに伸びた指がトバリの目じりをなぞり、眼孔と眼球の隙間を埋める柔らかい部位を押した。薄くて弱い皮膚越しに、頬骨の形が分かる。そういう部位。飽きもせず自分の“形”を確かめる手にこそばゆさを覚えて、トバリは瞑ったままの目元に力をいれた。
「やっぱり、こんなところでちまちま弄ってるだけじゃ大した進展はないわね」
 ボソッと、大蛇丸が呟いた。トバリはそっと目を開けて、上目遣いに大蛇丸を見つめる。
 先ほどの呟きは本当に単なる独り言だったようで、大蛇丸の意識はトバリに向けられていない。自分に注がれているけれど、自分を見ていない瞳を見つめて、トバリは小首を傾げた。
 カンヌキとの過去がどんな風だったか詳しく思い出せないものの――こういう風に、トバリの体を確かめて、無遠慮に触れる指はカンヌキのものと大差ないように思う。しかし大蛇丸はカンヌキと違って、トバリという呼び名の物を前にしている時と、トバリを前にしている時とがあった。大蛇丸は、ヒルゼンやアスマほどにはトバリの人権を尊重してくれないけれど、カンヌキよりかはトバリを一個の知的生命体として扱ってくれる。トバリにとって、大蛇丸の接し方は気楽で良い。

「もう少し設備の整ったところに連れていけたら、色んな事が出来るのに」
 でも、だからといって、眼球摘出とか腕一本切り落とすとか、そういうのは応じ難い。
 トバリの再生能力の限界について、大蛇丸が言うには“完全再生可能の病理的再生だから、失った組織があっても時が過ぎれば再構築されるのではないか”との由だった。要するに腕一本ぐらいなら生えてくるんじゃない?という主張である。既にアカデミーに入学するとか、立派な忍になるという目的意識は消えうせていた。然るに腕の一本、眼球の一個ぐらいなくても構わないのだが、ある日突然トバリの腕が一本なくなっていれば、ヒルゼンも家政婦もビックリするに違いない。
 最悪大蛇丸がやったという証拠を残さなければ良いのでは、と思ったこともあった。しかし、ただでさえ大蛇丸を苦手視している家政婦は、間違いなく大蛇丸のせいだと決めて掛かるだろう。既にトバリの夏バテを大蛇丸のせいにしている。ここ最近フラフラしているのは大蛇丸の採血によるところが大きいので、その“決めつけ”があながち間違っているわけでもないのが余計困った。

 今のところ、トバリの体について分かっていることはそう多くなかった。
 自己治癒能力が高いこと、夜間のほうが再生力が強化されること、その気になれば人間に擬態出来ること――食後の不快感は、このところ全く使われていない消化器官が弱っているだけらしい――ぐらいで、血液検査の結果、殆ど一般人と変わらない数値が叩きだされた。
 あとはレントゲンやら磁気共鳴検査機などを使って体内に異常がないか調べたいのだろうが、素直に病院で検査を受けると当然医者をはじめとした病院関係者に検査結果が漏れる。人体実験大好きマン大蛇丸のことだから、そういう精密機械を取りそろえた根城の一つ二つあるのではないかと思ったのだが、距離的な問題で、家政婦とヒルゼンの目を盗んで赴くのは不可能らしい。
 日中二人でいるときでさえ、ヒルゼンの命を受けた家政婦が度々様子を見にくるのだ。多忙の合間を縫ってやってきたヒルゼンは、頻りに大蛇丸と何を話したのか聞いてくる。もし「大蛇丸と出かける。少し遅くなるけれど、心配しないでほしい」と言おうものなら、ヒルゼンは即刻トバリを軟禁するだろう。仮にも師弟関係にありながら、こうまで信頼がないのも珍しい。

 悶々と考え込んでいると、大蛇丸が僅かに眉を寄せた。
「何か失礼なことを考えていたでしょう」
 壮年にあるとは思い難い容貌が、不愉快そうに歪められる。ぶにっと頬の肉を摘まんで引っ張ったのを最後に、大蛇丸はトバリから手を離した。ほっぺが、ちょっといたい。
 じんじん痛む頬を押さえて、トバリは大蛇丸をじっと見つめた。失礼なことを考えていたも何も、ヒルゼンから信頼されてないのは自分のせいなのに。
「まあ良いわ。片づけの時間も考えると、いい加減遊んでばかりいられないものね」
 憤慨した風に吐き捨てると、大蛇丸は胸元に手を突っ込んで一巻の巻物を取り出した。
 片手で手際よく床に広げると、なかに記されていた紋様から金属製の容器が四つ現れる。一番大きい、長方形の入れ物から瓶詰の薬品を取り出した。無色透明なので水という可能性も無きにしも非ずだが、まあ十中八九薬品だろう。今日はそういう趣向らしいと、トバリは思った。これだけ逢瀬を重ねれば、大蛇丸が善意や目的意識からトバリに付き合ってるのではないことぐらい分かる。この人は単に他人が苦しむ様を見るのが好きなのだ。まあ、トバリには如何でも良い。
「また失礼なことを考えているんじゃないでしょうね」トバリの寝間着の袖をまくり上げながら、大蛇丸が言った。また失礼なことを考えているのではないかと察するぐらいなら、そう思われないよう努めれば良い。そう思ったけど、流石に口には出さなかった。えらい。
「ここ数日、流動食を流し込まれてはいるけど……夕食なんか招かれて大丈夫なの?」
 トバリの右腕を捉えたまま、大蛇丸はスポイトで中の薬品を吸い上げた。
「大丈夫ではない。あなたが三代目に、むりだと伝えて」
「嫌よ、そんなの。詰まらないじゃない」
 面白いとか、詰まらないとかの問題なのだろうか。この人にとっては、そうなんだろう。
 うんざりした気持ちになっていると、右腕にポツッポツッと熱湯を落とされたような痛みが走った。小さい肩がぴくっと跳ねる。薬品によって火傷した皮膚は瞬時に元通りになるが、断続的に焼かれるのでは神経の休まる暇がない。じりじりとした痛みに耐えるトバリの耳に、大蛇丸の声が届いた。「埒が明かないわね」何が、というより先に床に引き倒された。トバリの体がブルーシートとこすれて、ザリと乾いた音を立てる。トバリの小さな体を自分の影にすっぽり覆い隠して、大蛇丸がぺろりと唇を舐めた。金の瞳は爛々と光り、少なからず興奮しているらしいことが分かる。

 先ほど、トバリの体をまさぐっていた時と同じだ。
 トバリのことを、一個の“物体”としてしか映さない瞳。トバリの自我を無視した乱暴な手。カンヌキと同じ瞳、手、触れ方。大蛇丸の手が喉元に伸びた瞬間、トバリはびくりと体を竦ませた。しかし、その指が首に掛けられることはなかった。大蛇丸の指は喉元を過ぎて、その下にあるボタンを引っ張ると、一つ一つ器用にボタンホールから外しはじめた。そうやって寝間着の上を脱がすと、薄暗いなかにトバリの白い肌が浮かび上がる。作り物みたいに小さくて、傷一つない体。
 大蛇丸はズボンにも手を掛けたが、少し考える素振りを見せてから止めた。後の手間を考えれば、無論トバリを全裸にしてしまうのが最も楽である。その躊躇は、全く持って倫理観の欠如した大蛇丸らしくない反応だった。大蛇丸がトバリから顔を背けて、やおら上体を起こした。
 彼の視線を辿ると、小さい闖入者が黒い翅を泳がせているのが目に入る。
 普段、滅多に目にすることのない蝶。大蛇丸が雨戸を閉め直す直前に入ってきた、街区の外にある川辺でしか見たことのない蟲。決して不自然ではないのに、この部屋の中に溶け込めない色。
 ふわふわと宙を漂う翅を見つめていると、視界の端で、大蛇丸が流し目をくれた。
「大丈夫、ちゃんと話はつけてあるの。アナタが猿飛先生相手に先手を打ったのと同じでね
 含み笑いと共に、大蛇丸が目を細める。トバリは大蛇丸に視線を戻した。


 何故ヒルゼンは、大蛇丸がトバリの家庭教師を務めることを許可したのだろう。

 トバリの父親は大蛇丸にとって縁深い人間であるし、トバリ自身も単なる“幼児”ではない。
 現状、千手宗家の流れを汲む人間は綱手の他にトバリ一人きりだ。このまま――妙齢の女性への配慮が欠けた青写真と言えたが――綱手に子が出来ない限り、トバリが千手一族の族長となる。
 初代火影・千住柱間の意向により、千手一族における族長の権限は乏しい。一族の者を勝手に招集することも出来ないし、族長の一存で一族の共有財産を使うどころか、動かすことさえ禁じられている。大抵の場合、千手一族における“族長”というのは一族間の決め事の承認役であり、有事の際は真っ先に責任を取る羽目になる人間のことだ。所謂生贄めいた立場だが、そもそも“千手一族”自体が初代・二代目火影を輩出したことで知られ、また今の族長を務める綱手にしろ高名なくノ一である。“千手一族の族長”という立場がもたらす益は、決して少なくなかった。
 それに、幾らか好意的に見て貰えるようになったとはいえ、未だに“変わった子ども”というレッテルは拭いきれない。増してアカデミー入学を目指すのであれば、自身のチャクラを完全に制御出来るという“お墨付き”は必要不可欠である。ただでさえコハル・ホムラに目を付けられているトバリは、まず受験許可が下りない。下りたところで、協調性やコミュニケーション能力も見られる一般入試を通過できるはずがない――というのが、大蛇丸の見解である。トバリがアカデミーに入学するには、一族の人間を味方につけた上で、彼らの力で推薦枠に推して貰うしかない。
 今となってはアカデミーなぞ如何でも良いが、ほんの少し前までトバリの描く“未来”にアカデミー入学は必要不可欠だった。無論、ヒルゼンもそれを知っている。優しいヒルゼンのことだから、トバリの希望を叶えてやりたいと思うのは決して可笑しいことではない。一族の人間にしろ、トバリが多少“マトモ”になってきたなら、一族の輪に入れてやるのは吝かではないのだ。
 ここのところ入れ代わり立ち代わりやってくる親戚たちが、値踏みするような視線をくれるのには気づいていた。他愛のない談笑の最中、ふとトバリが視線を逸らしただけで場の空気が張り詰める理由も察していた。打ち解けた風を気取るけれど、トバリのことが怖いのだ。彼らにとってはトバリと同席するのも、ちょっとの刺激で破裂する爆弾を前にするのもそう変わりない。
 トバリが何もせずに、大人しく、彼らの期待に応えれば優しい言葉をくれるし、トバリのために出資してくれようともする。でも、大抵の来客は一時間と経たないうちに帰ってしまう。
 庭の片隅にある監視カメラに気付かなかったのと同じ。トバリは何かを害した覚えがないのに、それを避けようとしているのに、誰もがトバリを疑っている。

「アナタにとっても悪い話じゃないはずよ」
 大蛇丸が手を差し伸べると、蝶のか細い肢がその指に止まった。
「猿飛先生はアナタの夜が安全だと信じることが出来るし、私はアナタの体を弄りまわそうと幼児虐待や淫行の罪に問われない。アナタだって、猿飛先生に知られたくないと言ったじゃない」
「……なにと取引したの」
「秘密」にいっと唇を歪めて、大蛇丸が笑う。「じき、自分で気づくわよ」
「二人のひみつにするっていったくせに」
「あら、先に破ったのはトバリちゃんのほうじゃない?」
 大蛇丸の唇が詰る響きを食んで、ため息をつく。トバリは顰め面で口を噤んだ。
 出会った経緯については有耶無耶に誤魔化したが、それでも自分からヒルゼンに大蛇丸の話を振ったのは事実である。大蛇丸という人に先日会ったけれど、博識で話していて楽しかった。家庭教師を頼みたい――どの道葬儀で会ったことはあるのだし、ヒルゼンも一々当家の来客なぞ把握していまいと楽観的に事を進めてしまった。それで大蛇丸が苦労したというなら、何も言えない。
「猿飛先生にいつどこでトバリと何をしたって五月蠅く聞かれて、結構大変だったんだから。自分で言うことじゃないけど、私ほど猿飛先生に信頼されてない人間もそういないのよ」
 それは本当に自分で言うことじゃない。
「大事な預かりものに不審者を近づけておいて、家政婦に見回らせるだけで安心すると思う? 有難いことに、猿飛先生の大切な友人の一人が“善意から”アナタを監視してくれているの」
 トバリは無意識のうちに喉元に手をやった。きゅっと唇を噛んで、大蛇丸から顔を背ける。胸がどきどきと脈打ち、言葉にしがたい感情が喉元までせり上がっていた。
だから私に何をされても、猿飛先生の助けは期待できないわね


 別に、助けてほしい、なんて思ったこと、ない。
 麻痺したように強張った口が反論を吐くより先に、口輪代わりのタオルを噛まされた。

 大蛇丸の左腕が、トバリの上体を抱え込むようにして床から持ち上げる。
 浮いた背中を撫で、神経が多く通ってる場所を探して指を這わせた。細くて硬い筒の先が、肌に擦れる。これから何をされるかに察しのついたトバリの額にどっと脂汗が滲む。いつの間に用意したのか、骨盤のあたりに注射針が刺しこまれた。そこから先は、よく、わからない。
 トバリは口のなかのタオルを強く噛んで、チカチカと激痛に白む頭で理性を繋ぎ止めようとした。その努力をあざ笑うように四肢の感覚は失せ、奇妙な寒さに体が悴む。じわりと味蕾に鉄の味が広がる。鼻から垂れてきた血がタオルを赤く染める。えほっとえづく度に、ずれたタオルが口にねじ込まれる。ぐにゃりと歪む視界のなかで、自分を覗き込む大蛇丸と呑気に舞う翅だけは鮮明に捉えることが出来た。でも、その図もやがて途絶える。ついたり――きえたり――何度でも。

 意識が、底に沈んでは浮上し、より深く沈んでは、また浮かび上がる。いつものこと。
 監視カメラも、自分を訪ねてくる人々も、今、こうして自分を眺めている大蛇丸も、蟲も、カンヌキも、この体も、みんな同じ。どれだけトバリが苦しもうと、ただ傍観しているだけ。トバリには、いじわるな男児に乱された髪を直してくれる手を持たないし、自分の帰りを待ち切れずに探しに来る父親も、詰まらない傷を厳重に手当てする母親も、何も、誰もいない。
 別に、トバリがそれらを望まなかったわけではない。寧ろずっと前に、ずっと前から、この世界に産まれてくる前から、トバリがどれほど渇望しただろう。わたしをたすけて。わたしをひとりにしないで。わたしをひつようとして。わたしをたすけて。ここに、おいてかないで。
 何度目かの浮上で、遠くからごぼっと湯が沸くような音がした。じわと熱いものが触れる。こぼれる。口元から漏れた吐しゃ物が、鼻血と混じる。朦朧とした意識のなかで、二つの月がこちらを見つめていた。見てるだけ。手を伸ばしても、薄氷に遮られる。振り払われる。拒まれる。
 いつものこと。慣れている。飽きている。心は平坦で、何も感じない。何も感じたくない。

 助けてほしいなんて思わなかった。
 そう口にしたところで、トバリの手を引いてくれる人は誰もいない。
 一人にしないでほしいなんて、望まなかった。
 縋ったところで、侮蔑と共に振り払われるのが目に見えている。

 必要としてほしいとも、置いて行かないでくれとも望まない。
 あなたの望みを叶えるために、良い子にしています。それで、少なからずあなたが傷つかないのであれば、良い子にします。だから、いつかかならず、ここへ帰ってきて、ふつうの父親のように、わたしをだきあげて、そばにいて。何でもするから、わたしを憎まないで。
 あなたのためなら、何百回でも、何千回でも死んでもいい。痛いとも、苦しいとも、あなたを追い詰める言葉は何一つ口にしない。あなたが私という命を認めないなら、人間扱いされなくてもいい。あなたの気が済むまで、何度でもわたしを殺したらいい。わたしを傷めつけ、否定することで、あなたの心が壊れずに済むのなら、わたしは、あなたを、きずつけない。
 私は涙をこぼさない。笑わない。自発的に動かない。何も望まない。ありとあらゆることを受け入れる。否定しない。拒絶しない。ただ他人の願いのためだけに生きる。如何足掻いても、私にあなたを傷つけることは出来ないと分かったはずだ。何度縊られても、殴られても、私は良い子だったでしょう。言いつけを守って、ふつうの子どもを演じもした。何も言わなかった。勉強もした。
 あなたの言いつけは全部守った。見返りは求めなかった。良い子にしてた。頑張った。
 頑張った。
 何も、望まない。
 目を閉じて、
 耳を塞いで、
 こばんで

 ここで、一人


 だれかのなごりをあつめて、ここにひとりきり ずっと えいえんに

 
 ふーっふーっと荒い息で肺を膨らませながら、トバリは全身の毒が薄れつつあるのを理解した。
 瞳の焦点は未だ定まらず、人も、物も、全ての輪郭がぼやけて見える。胃液と吐しゃ物と鼻血の混じったものが味蕾を刺激し、収まったばかりの吐き気を呼び起こす。トバリはケッケッと喉を引きつらせながら、口元を押さえようとした。胸元に触れた指は弛緩したまま、夕餉の名残で遊びだす。結局思い通りに操ることは出来ず、何度か痙攣を繰り返した後に胸元から滑り落ちた。
 四肢の感覚は麻痺したままで、落下の衝撃も伝わってこない。倦怠感に身を任せ、時の経過を待つ。思考回路と視界だけが、少しずつ回復し始めていた。かなり強い毒を用いられたらしい。
 この男は一体、トバリが死んだら如何するつもりだろう。まあ、死んだら死んだで別段気にすることもなく睡眠中の突然死として処理するに決まっている。この男は、そういう男だ。
 トバリはべーっと舌をだして、震える指で触れてみた。ジンジンすると思ったら、殆ど噛み千切る寸前だった。舌を出し入れする度に、先端部分がごろっと下の前歯に引っかかる。
 今気づいたことだけど、腕も表皮がずる剥けになっていた。何故この男は軽い気持ちで硫酸をトッピングするのか。如何でも良いことをウダウダ考えることで、全身の痛みから意識を逸らす。どこが如何いう風に痛いのか、最早分からない。分からないのに痛い。どうせ死なないのに、痛い。
 何事か話しかけて来る大蛇丸に頭を振りながら、トバリは目を瞑った。あとにしてくれ、あとに。深々とした息を吐いて、生死の間で湧き上がった激情を思い返す。
 大蛇丸が濡らしたタオルで体を拭い清めてはいたものの、それでも尚全身にこびりついた体液が異臭を放っていた。身体は少しずつ快方に向かっているとはいえ、一つところが楽になれば、新たな痛みに気付くといった調子である。痛くないところを数えあげるほうが早い。痛みが失せたところで、この家には誰もいない。朝が来れば、また嘘で塗り固められた日常が戻ってくる。
 いつまでも、それの繰り返し。深く濁った水底をぐるぐると回遊しているだけ。それがトバリの日常。いつまでも、永遠に、それを繰り返すだけの未来が待っている。ずっと、ここで、ひとり。
 トバリは鬱屈とした心持で、両手で顔を覆った。折角綺麗にしてもらった顔が、また汚れる。


 誰かの名残りを集めて、この屋敷にひとりきり。ずっと、永遠に。
 いつになったら、この地獄は終わるの。
辺獄に夜はいない
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