「さ、なっとくしたならちゅうしょくをとろう」
 怒りが臨界点を突破してフリーズしているだけなのだが、トバリにはイタチが自分の説明に納得しているように見えたのだろう。言葉もなく頭を振るイタチの袖を引いて、倒木の方角へ促す。
 違う。肯定じゃない。そう返す元気もなく、イタチはトバリに従って歩き出した。

「そもそも“たしゃ”のチャクラにみをまかせて、いちぶぶんでもゆうごうをこころみるのはチャクラコントロールのなかでもっとも“なんど”のたかいことなんだ」
「……だから、この修行は“崖登りの行”ではなく、“木登りの行”なんだな」
 緩々と怒りが諦念へ変換されつつイタチが、ため息交じりの相槌を返した。
「そうだ。だから、きみががけからおちるのはありえない。何のもんだいもない」
 それをもっと簡潔に、分かりやすく、もっと早く伝えることは出来なかったのだろうか。
「がけのほうが“なんど”がひくいなら、わざわざがけで修行するいみはないんじゃないのか」
 イタチが的確な批判を入れた途端、トバリが心底不愉快そうに目元を険しくさせた。
きみは、もう十分じぶんのチャクラをコントロール出来るようになっている。
 わたしがなんど言っても、きみはなっとくしなかった。それなら“なんど”のひくいばしょにうつして“せいこうけいけん”をあたえたほうが、少しはきく耳をもつと思った」
 そう吐き捨てるなり、トバリは自分のポーチを手に、倒木の向かいに置かれた岩に座り込んだ。これで問答は終わりと言わんばかりに、ポーチのなかから冊子を取り出す。
 仕方なく、イタチも風呂敷包みと林檎を手に倒木に腰かけた。

「本当に、きょうはいそがないんだな」
 そう念を押すと、トバリはこっくり頷いた。
 トバリの意識が本に移っているのは明らかだったが、肯定は肯定。門限ギリギリまで拘束する約束を取り付けると、イタチは膝に乗せた風呂敷包みの結び目をほどいた。
 風呂敷のなかには、透明フィルムにくるまれたお握りが二つと、アルミホイルの包みが二つ。
 ペリペリと音を立てて広げた中には、一つはベーコンのアスパラ巻き、もう一つには卵焼きが入っていた。箸が入っていないのは、ベーコンのアスパラ巻きを留めているプラスチック製のピックを使えということだろう。イタチは作ってくれた母親を思って、ぱむっと両手を合わせた。
 イタチが「いただきます」と言うと、トバリはチラッと視線をくれたが、それだけだった。何も言わず、再び膝上の文字列に意識を戻す。ミミズののたくったような達筆を、よく解読できるものだ。そんなことをボンヤリ考えて、パクッと一つ目のお握りにかぶりつく。

 暫くの間、葉と葉のこすれる音、鳥の鳴き声、草の海が漣を起こす音だけがあたりを満たした。


 副菜二品も食べ終え、最後のお握りのフィルムを剥がしながら、イタチは顔を上げた。
 相変わらず、トバリはイタチと会話する気はないと言わんばかりの態度でいる。
 休憩時にも関わらず距離が近いけれど、然して深い意味はなさそうだ。単にその岩のあたりが一番日当たりが良かったから、そこに座ったに違いない。トバリは日当たりのよい場所を好む。

 トバリの生態は、どことなく植物に似ていた。
 こうして日当たりのよい場所で大人しくしている様は植えられたばかりの苗木のようだ。家でも日がな一日縁側に侍っているというから、余程日光浴が好きなのだろう。尤もトバリの真っ白い肌を見る限り、植物は植物でも、暗室で育てられる“もやし”を彷彿させる。元々日に焼けない性質なのだろうが、とてもじゃないが日夜忍術修行に励んできたようには見えない。
 イタチはお握りを片手に、食べることも忘れてトバリの白々とした皮膚を凝視した。
 すると、以前に読んだことがある本だったのか、トバリはパラパラとページをはためかせた後、何の前触れもなく本を閉じる。本を仕舞うために、岩の脇に下したポーチへ手を伸ばした。
 トバリの伸ばした腕が岩肌にこすれて、彼女の左腕を覆っていた長袖がずり上がる。前腕の中ほどまで露わになった。その、自分より少し細い腕に、包帯がぐるぐる巻きになっている。
 ところどころ緋に染まっているものの、不思議と血の匂いはしない。
 祖父同様まめまめしいところのあるトバリは、イタチが捻挫した時を振り返っても、徹底した処置を心がけていた。恐らく、外に血の匂いが漏れないよう幾重にも包帯を巻いてあるのだろう。それにも関わらず包帯の表層に血が浮いていることから、“軽傷”でないことは明らかだ。
 イタチの視線を気に掛ける素振りもなく、トバリは右腕を左に伸ばした。袖を直そうとする動作に従い、僅かに右袖が突っ張る。袖口からは左腕と同じ、血染めの包帯が伺えた。

『大丈夫、もんだいない。久々に日に当たったから、めまいがした』
 青ざめた皮膚に、おぼつかない足取り。あれはまさか、血が足りなかったのではあるまいか。

 平然と居ずまいを直す様を無遠慮に見つめていると、トバリが視線をくれた。目が合う。

「そういえば、あかんぼうはうまれたの」
 あんまりに突飛で、言葉足らずな問いかけを受けて、イタチは顔を歪めた。
「弟か妹がうまれると言っていただろう。もううまれたか」
 何気なく言葉を続けるトバリは、イタチの動揺に気付いてないかのようだった。明らかに平素より口数が多かったけれど、先の包帯さえ見ていなければ気にならない程度のものだ。

 トバリがこうして突飛に話を振ってくる場合、それはイタチの先手を打つ意図がある。
 つまるところ、腕の怪我について詮索されたくないのだろう。勿論、こんな露骨に話を逸らしたところで逆効果なのは言うまでもない。とかく対人面において、トバリは悪手を打つ。

 暫しの間、イタチはムッツリ黙り込んで次の手を考えた。
 自分がトバリの腕の包帯に気付いて、それを不審がったことには気づかれている。もし「そんなことより、おまえの腕は何だ」と返せば、まず間違いなく、適当な言い訳で眩まされるはずだった。弁当を持ってこないことを聞いたときも、水筒をもってこない理由を追及したときも、そうだった。長々とした沈黙のあとで物理的距離を置いて、ボソボソッと適当な言い訳を吐き捨てる。その“適当な言い訳”を聞いても尚納得できないと追及すれば、トバリは露骨に機嫌を損ねたという態度で去ってしまう。そして二三日後、宿題――“非の打ち所がない言い訳”を携えてくるのだった。
 結局のところ、イタチにトバリの拒絶を退けて干渉することは出来ない。それに、どうせ干渉したところで好奇心が満たされるだけなのだ。それだったら、トバリのほうから話を逸らしてくれるのだから、話に乗ったほうが“貸し”という形で今後に役立つかもしれない。

「もう、うまれた?」
 イタチの長考に焦れたのか、トバリが三度も繰り返して問う。
「……まだだ。予定日まで、あと一ヶ月以上ある」
 トバリが“貸し”を“貸し”と理解してくれるかはさておき、とりあえず納得いく結論の出たイタチはトバリの誤魔化しに付き合うことにした。たまにはトバリと雑談を試みるのもいいだろう。
 それにしても自分に弟妹が産まれるだなんてこと、よく覚えていたものだ。イタチは斜め上に感心すると、手に持ったままのおにぎりにかぶりついた。こっちは鮭だった。
「そんなにかかるの」
「下に兄弟ができると聞かされてから、もう半年だ。やっと、ってところなんだぞ」
 イタチは妹にでも言い聞かすように、トバリに生命の神秘を説いてやった。トバリはそれを“ふーん”と一蹴して、膝に乗せたポーチに顔を落とした。ゴソッと、ポーチを漁り始める。
「まちつかれそう。なんだか、兄弟ができるってたいへんだな」
 折角“目くらましの雑談”に乗ってやったにも関わらず、トバリは早くも飽きたらしかった。
 ポーチのなかからウェットティッシュの筒やクナイを取り出して、小さな膝の上に積み上げる。木のうろを漁るリスのように落ち着きのない挙動で、トバリは新しい読み物を探し出した。
 ペシャンコになったポーチに出したものを詰め直し、地面に下す。落ち着きのない動きと裏腹に、トバリが何か口にする気配はなかった。イタチは憮然とした面もちで、彼女を見守る。まさか自分から話を振ったくせ、たった三往復しただけで“義理は果たした”と判断したのだろうか? そうだ。間違いない。誰かに教えて貰うまでもなく、イタチには答えが分かっていた。
 イタチは深い諦念のなか、着々と読書の準備を整えていくトバリを見守った。

 ポーチから出した本の表紙には、見慣れた達筆で“日記”と記されている。
 以前トバリ自身が「雨の日は書庫にこもる」と言っていた覚えがあるので、恐らく彼女の家には膨大な量の書籍・巻物があるはずだった。それにも関わらず、彼女が祖父の日記以外の読み物を持ってきた試しはない。二代目火影は余程まめまめしい人だったようで、その生涯において己の蔵書に匹敵する量の日記を付けてきたらしかった。或いはトバリの家の蔵書は、彼女の祖父の日記だけなのだろうか。さもなければ、会う度会う度装丁の違う日記を目にするはずがない。
 そのぐらい彼女は祖父の日記を愛読していて、暇さえあればミミズののたくったような文字のなかに祖父の面影を探し出そうとする。一体何が面白くて、祖父の日記を熱心に読むのだろう。つくづく疑問になったので、イタチも一度彼女から日記を借りて読んだことがあった。
 すると彼女の祖父の日記は“日記”とは名ばかりで、実際は外交論・チャクラの運用方法・都市計画・各忍一族の特徴や秘伝忍術の有無等――初代火影の補佐として、そして二代目火影としての働きを記した備忘録であることが判明した。“これは機密情報として里の上層部に差しだすべきだ”と思わせるほど、価値ある文章なのは間違いない。しかし、繰り返し読み返したくなるほど面白おかしい記述はどこにもなかった。この子どもが不愛想かつ感情に乏しい子どもなのは、祖父の日記を絵本代わりに読んで育ったせいではあるまいか。イタチはそう思った。
 尤もイタチとて年相応の読み物を“面白い”と思ったことはないので、ゆっくり腰を据えて読めば“興味深い”と好意的に捉えることが出来ただろう。一度は貸すことに応じたくせ、トバリは祖父の日記の所在について極めて狭量だった。読み始めて一分と経たないうちから“早く返せ”と言わんばかりに両手を差し出して待つトバリを前に、イタチは心底呆れた。
 無言の圧力に屈して返すと、トバリはささっと表紙を払ってからポーチの奥深く埋めた。四歳児のポーチのなかで後生大事に保管される機密情報……そう考えると、ちょっとは面白い。


 まるで面白味のない愛読書に耽るトバリに、イタチも面白からぬ気持ちになった。
 ……といって、無論イタチに如何しようもない。今日は、絶対にトバリとチャクラの話をすると決めていたからだ。遅い昼食を食べ進めながら、イタチは無我の境地に達しようとした。
「おまえは『まちつかれそう』とか『たいへんだな』というけど、母さんは、もっと大変なんだ」どうせ聞いてないのを承知で、独り言ちる。「おなかのなかで、子どもを育ててるんだからな」
「どうやって?」
 意外なことに、トバリが愛読書から顔をあげた。
 思いがけず会話が再開したことに、イタチは舌の上の米つぶを飲み込むのも忘れて驚いた。トバリがもう一度「どうやってそだてるの?」と小首を傾げて急かすので、慌てて飲み下す。

「どうやって……って」
「たべものの“しょうか”はどうするんだ。かふくぶには“ちょくちょう”がおさまってるだろう」
 腸が何かは、イタチも知っている。食べたものを消化して、栄養に変える臓器だ。
 ちょくちょうとは、腸のことで良いのだろうか? イタチの困惑など知らぬ顔でトバリは「だいちょうでそだつのか」「どのぐらいの大きさになるまでそだてるんだ」「どうやって作るの」「らんしを見たことはあるか」「もうしゃべる?」などと、わけのわからないことをほざいている。
 腸のことはさておき、イタチもどうやって子どもを作るか知らなかった。故に、知的好奇心ではトバリに引けを取らないイタチも“子どもはどこからやってくるのか”疑問に思ったことがある。
 そしてイタチの幼い好奇心が募りに募った頃、丁度親族同士の寄り合いがあった。


 寄り合いの席では、冠婚葬祭に興味のない者は暇を持て余す。
 自然な流れで、子どもらは大人の目の届かない別室に一まとめにされる。同年代の子どもらの姦しさには慣れていたものの、“例のはとこ”にばかりは慣れなかった。その時も、親族の誰かが「仲良くするのよ」と無責任なことを言って出て行った途端、イタチは彼に絡まれた。絡まれたといっても、何でからかわれたのかは覚えていない。無益な記憶の筆頭だからだ。
 イタチは彼に絡まれたからといって“嫌だ”とか“鬱陶しい”といった感情は表に出さないことにしていた。そういう、自分の不自然な従順さが彼の勘に触るのだとも十分に理解した上で、自分のプライドと親族同士の繋がり、両親の体面を守るため、無感動を貫いている。
 尤もイタチの忍耐の甲斐なく、先週の寄り合いで再会したはとこはすっかり大人しくなっていた。部屋の隅で恐々とする様を見て、イタチは知人の非礼を詫びるべきか僅かに悩んだ。
 うちは一族は一族外の者には排他的だが、同族には比較的寛容だ。近縁同士の寄り合いに、「うちの子の友だち」とか「職場が一緒なの」程度の人間が混じることもままある。そして不幸なことにトバリは黒目黒髪黒づくめと、パッと見どの一族の人間か分からない風体をしていた。
 イタチと目が合うなり、はとこは青ざめた様子でどこぞへ消えてしまった。父は「大したことはない」と言うが、こうまで怯えられると今後の親戚付き合いに支障が出そうなものだ。
 まあ、余談は良い。兎に角イタチが生命の神秘に関心を持っている頃、はとこはまだ活発かつヤンチャな少年で、イタチに詰まらない揶揄を吹き込んで遊ぶのを気に入っていた。
 然るが故に、彼の台詞の殆どは聞き流すのが常で、覚えていない。しかし「子どもを作るには“せっくす”しないといけないんだぞ」という一言だけはイタチの頭に強烈に焼き付いた。
 好奇心とは恐ろしいもので、イタチはいずれ産まれる弟妹がどうやって発生したのか、如何しても知りたかった。何故と言えば、イタチにとって家族が増えるのは嬉しいことだったからだ。
 家族を増やす方法を知っておいて損はないだろう。当時四歳と七か月のイタチは、そう思った。

『父さん、せっくすについておしえてほしいんだけど』
 イタチがそう口にするなり、ブシャッと水風船がつぶれるような音が響き渡った。
 父親が飲んでた味噌汁を食卓にぶちまけたのだった。ポタポタとちゃぶ台から垂れる味噌汁を拭うことなく、母親も下を向いて微動だにしない。“何だ何だ”と困惑頻りの息子をしり目にフガクはゴホッゴホッと咳を繰り返し、何か喋ろうとしては口を噤む。そんな気まずい時間が十分ほど経過したところで、父親はようやっと言葉を取り戻した。いつもの厳格な表情で、口を開く。
『それは邪法の一つだ。人前でみだりにその名を口にしてはいけない』
 俯いたまま表情の見えない母親が、何も飲んでいないにも関わらずゲホッと酷く噎せた。肩を震わせて恐怖に耐えている。きっと、過去の厳しく辛い任務の数々を思い出しているのだろう。
 イタチは物識りな父を改めて尊敬し、二人を悪戯に驚かせたことを恥じた。

 以来、イタチの家では生命の誕生に関わる話題は半ばタブーのようになっている。
 セックスを邪法の一つと思い込んでいるイタチに、ぽんぽんと飛び出すトバリの問いに答えることは出来ない。さりとて持前のプライドの高さから――何よりトバリ相手に、素直に「分からない」と言うのは嫌だ――イタチは僅かに逡巡して、乏しい知識量を確認する。多分、いける。
「……おなかに、子どもを育てるための場所があるんだ」
「だいちょう?」
 チャクラコントロール以外何も知らないトバリは、案の定白痴めいた問いを口にする。
「子どもを育てるためだけのものだから、ちょうじゃない。そこで少しずつ成長させていくんだ」
 トバリは目をぱちくりさせていた。よし、いける。イタチは自分の知識に自信を持った。
 この調子で説明していけば、少なくともトバリは「イタチは妊娠について自分よりずっと詳しく知っているんだな」と感心するはずだ。尤もそう思われたところで、何かイタチに得があるのかは分からない。最早イタチ自身、何が目的でトバリに先んじたいのか分からなくなっている。
 兎に角イタチは生命の神秘について、自分の知り得る限りの知識を吐き出す必要性を感じた。
「今はこんなになっていて、」“こんな”と、イタチが腹のあたりで丸く手を動かした。「あるくのもたいへんそうにしてる。おおきいんだ。でも母さんは上忍だから、こんなの何でもないって」
 自分の知り得る限りの妊婦知識――要するに母について語るイタチは、ごく抽象的なことしか喋っていなかった。それもそのはずで、ミコトとフガクにとってのイタチは、どんなに優秀であろうとまだ四歳の子どもだ。ミコトは息子に妊娠のメカニズムを教える必要はないと考えている。
 おなかが大きい。最近は洗濯ものも、母さんの代わりにオレが畳む。父さんも心配なのか右往左往してる。父さんが卵焼きを作ると、茶色の硬い何かになる。母さんはすごい。
 ふんふんとイタチの話に耳を傾けていたトバリが、合点がいったと言わんばかりに頷いた。
「じゃ、猫と同じだ」
「母さんは猫じゃない」
 イタチが瞬時に噛みついて、トバリの論を否定した。
 自分の話の何を聞いていたら、“猫と同じだ”という発想に繋がるのであろう。
 強い語気で否定されたトバリは心なしがショボンとしているようだった。悪気はないのだろうが、聡明な子どもだと知っているから苛立つ。自分の母親を猫と同格に並べられて嬉しいかどうか、考えてみたら良いのに――そうとまで考えて、イタチは彼女の境遇について思い出した。
 

「何人うまれてくるんだ。三人ぐらいか」
 “まだ猫を基準に考えているのか”と思わないではなかったけれど、然程腹は立たなかった。
 イタチと違って、トバリには弟や妹を産んでくれる母親はいないのだ。
 母親だけじゃない。祖父母も、父親も、兄も、姉も……例えアスマという兄貴分がいようと、家に帰った彼女を出迎えるのは家政婦だけで、その家政婦も夜になれば帰ってしまう。
 イタチには、トバリを取り巻く孤独がどんなものかよくわからなかった。それに、第三次忍界大戦を終えたばかりの里には、彼女と同じ境遇の子どもが山といる。彼らの誰一人としてトバリに似たところがないのに、トバリが“天涯孤独”という自分の境遇を気にしているとも思わなかった。
「一人しかうまれてこない。人間はきほんてきに、一度に一人しか生まないんだ」
 イタチは母の腹のなかにいる弟妹へ話しかけるように、十分な労りを持って教えてやった。

「ふーん」

 トバリの三大頻出単語は「へえ」「ふーん」「そうか」である。
 何れも無感情な相槌であるのは言うまでもない。流石トバリ、大らかな気持ちで接してやろうと思ったのを即座に後悔させてくれる。イタチの鉄の寛容さが僅かに揺らいだ。

 まあ、良い。分かりきった反応だったではないか。イタチは大らかな気持ちで持ちこたえた。
 そもそも、ここまで会話が続いただけ希有なことだ。そう己に言い聞かせ、既に高い精神年齢を遥かなる高みへ持っていこうとする。そんなイタチを見つめたまま、トバリは変な顔をした。
 何か言おうとしては口を開いて、閉じる。それを何度か繰り返して考え込むトバリに、イタチも変な顔をした。意外なことに、トバリはイタチとの会話を打ち切るつもりはないらしかった。
 そういえば、何か食べないと体がもたないんじゃないかと言ったときも、こんな顔をしていた。はたと思い返して、イタチは思案する。一体、何がトバリの琴線に触れたのだろう。
 互いに問いかけるような視線を重ねて見つめ合ったまま、暫く沈黙が続いた。
 先に視線を外したのは、トバリだった。

 トバリは何の前触れもなく視線を落とすと、自分の腹のあたりに手をやった。
 さすさすと、自分の腹をさする。また具合が悪くなったのかと思ったのもつかの間、トバリがぱっと上着をめくり上げた。外気に晒された腹部をおもむろに摘まんで、ぐっと手前に伸ばす。
 なまっちろい腹部は一センチも伸びない。懸命に摘まむ指や伸ばす方向に試行錯誤を加えてみても、結果は同じだった。トバリが手を離した途端、彼女の白い皮膚は元に戻ってしまう。
 めくり上げた時と同じように、トバリはぱっと上着の裾を戻した。

「いたい」
 それは、皮膚を伸ばしている時に言ったほうが良いんじゃないのか。

 過去の痛みを伝えられても、いまいち共感し辛い。しかも、まるきりの無表情なのだから。
 ミコトの話を聞いて、自分の腹がどのぐらい膨らむか気になったのだろうか。わけが分からない。子どもを作れるのは、大人だけだ。今自分の腹部の伸縮性を確かめなくたって、時期が来ればトバリの腹の伸縮性も増すだろう。それとも、単に腹が大きくなるというのがどんな感覚で、膨張による痛みはないのか気になったのだろうか。そちらのほうが、理解しやすい気がした。
 トバリはもう一度負け惜しみのように「いたい」と呟いてから、感心した様子で腹部をひと撫でした。ミコトの腹の五分の一もなさそうだと、イタチは思った。赤ん坊を含めた二人分の命どころか、トバリ一人分の命も収まっていないような、白く、薄っぺらい腹だった。

「……ははおやはすごいな」
 遠方を見つめたまま、トバリが考え深げに漏らした。
 その声音に重たい感情が見える気がして、やはり家族のいないトバリに酷な話題だったかなと後ろめたい気持ちになる。樹下でワアワア騒いでいたのは言うまでもなく、ここまで会話が続くのも初めてだし、トバリが心から他人に関心を持つ素振りを見せるのも初めてで、あんまりに異常事態ばかりが続くので、イタチは“自分がトバリを穿った目で見ていたのではないか”と思いはじめていた。そのぐらい、今日のトバリは“普通の子どもらしく”て、イタチの知る“トバリらしく”ない。

 正直言うと、イタチのなかには、トバリの浮世離れした在り方に憧れる気持ちがある。
 その突飛な言動と“常識外れ”を通り越した無知が産むものなのか、トバリは本当に人間らしいところがない。街中でも、こうした森のなかでも、すぐ景色に同化してしまう。トバリが感知を得意とするのは、まさしく彼女らしいと言えた。トバリは良くも悪くも“自分”がない。
 “自分”というものが欠如したトバリは木であり、花であり、大気であり、街の喧噪であり、森の静寂であり、人間であったりする。まるで、無色透明に揺らぎ続けるホログラムのように。
 人間としてのトバリはデリカシーがないし、言葉足らずで、身勝手だけど、不意に人間離れした佇まいを見せるトバリは綺麗で良いと思う。しかし、人間という枠に捉われる限り、トバリは屍と相違ない。トバリの意識は常にここではないどこかへ行きたがっているように見える。
 ここではないどこか――人間の欲得で形成され、理不尽がまかり通る世界ではない“どこか”へ。

 そんなトバリにも、イタチを羨ましく思う気持ちがあるのだろうか?
 一人を寂しいと思い、家族の温もりを求めて祖父の文字を辿る。そういう“普通の子ども”らしい感情が彼女にあるとして、トバリは本当に“ここではないどこか”へ行きたいのだろうか。
 トバリは忍は道具だと言い、自分が正しいことを確信している。ここにいる限り、トバリはその“現実”に縛られる。トバリにとって、その“現実”は苦痛以外に成りえないのではなかろうか。
 そもそも、彼女に“忍は道具だ”と吹き込んだ人間は誰だ。温厚な人柄で知られる三代目や、屈託のないアスマが幼児にそんなことを教えるとは思えなかったし、トバリの口ぶりでは実父とも祖父とも面識がないようだった。父親でありながら面識がないという時点で、イタチには彼女がどのような家庭で育ったのか憶測することも出来ない。理解の及ばない“差異”は、ただただ溝を産む。

 もう、トバリは何も言わなかった。膝上の本に意識を戻して、気配を殺す。
 先ほどまでの饒舌が嘘のように、トバリの姿は少しずつ岩に、大気に、景色に溶け込んでいく。その透明感はあたかも、“人間としての自分”を否定しているようだった。
 イタチも、昼食を再開する。再開といっても残り二口あるか如何かで、お握りは少し乾き気味だったけど、母のお握りは美味しかった。最後の一口を食べ終えて、食前同様、手を合わせる。
 風呂敷包みやフィルム・アルミホイルなどのゴミを片付ける合間にトバリを伺うと、トバリもポーチに本を仕舞っているところだった。膝上を空にしたトバリは、袖の上から腕を撫でる。
 イタチは何気ない風を装って、敢えてポーチのなかをまさぐりながら「ほうたい、もってないならかすぞ」と口にした。布がこすれると音と共に、トバリが「いらない」と声を上げる。
 顔を俯けたまま、イタチはちょっと視線だけを上にあげてみた。トバリを見るのではなく、彼女の傍らの木に焦点を合わせ、探し物でもしている風に、ポーチを漁り続ける。
 ピントのぼけた視界の端に、腕に巻いた包帯をスルスルと解くトバリの像が入り込んでいた。
「切ったのか?」
「せんていばさみで切った。三日前のことだ」
 トバリにしては細かい答えだった。イタチは違和感を覚えて、ぱちりと瞬きした。
「さっきので“きず”がひらいたかと思ったが、気のせいだった。もうなおる」立て板に水の勢いで喋ると、トバリはさっと袖を戻した。「今日は三代目がくる。とっておいたほうが良い」
 独り言っぽく付け足された台詞を聞き流しながら、イタチは“探し物”のミントタブレットを取り出した。サッサッと掌に取り出した数粒を口に放り込む。これまで、食後にミントタブレットを食べたことなどついぞないのだけれど、トバリは特別気にしていないらしかった。
 トバリは決して観察力が鈍いわけでも、記憶能力が低いわけでもない。寧ろその逆で、だからこそ“第六感”とか“言葉に出来ない違和感”をむざむざ見過ごすことが多いに違いなかった。
 ミントタブレットこそ初めて持ってきたものの、糖分補給用の飴は常に携帯している。携帯しているからには、勿論トバリの前でも度々口にしてきた。持ってくる飴も、ハーブが配合されたものや、べっこう飴などのざっかけないものが多い。イタチがミントタブレットを持っていようと、特別変わったことではない。食事のあと、舌を落ち着かせるためにミントタブレットを口にするのだって同様だ。それは“よくあること”で、“可笑しいこと”ではない。トバリはそう判断したからこそ、イタチがミントタブレットを口にするタイミングを気に留めなかったのだろう。
 でも、イタチは違う。

 イタチはたった今自分の胸に湧いた“言葉に出来ない違和感”について、ちょっと考えてみた。
 包帯に付着していた血液量からして、結構な裂傷を負ったことは想像に易しい。しかし、三日前に負ったばかりだと言うなら、如何に治りが早かろうと未だ動かすのも億劫なはずだ。それにイタチの見間違いでなければ、ほんの一瞬、包帯と袖の隙間から見えた腕には傷一つなかった。
 先ほど、腹の肉を引っ張っていた時もそうだ。イタチの怪我の扱いとか、来たときは酷く具合が悪そうだったのに、もう”いつも通り”になっていることとか――色んなことが、イタチのなかにある常識と“違う”気がした。何かが可笑しい気がするのに、よく分からない。
 舌の上にピリリとした刺激を転がしながら、イタチは自分の考えを纏めようとした。
 その思索を、トバリが「ねえ」と遮る。今日一日で、すっかりトバリから話しかけられることに慣れてしまった。イタチは、最早絶滅危惧種でもなんともない話し相手を見返す。

「きみの母親に会ってみたい」
 五月の麗らかな昼下がり、この日イタチは天変地異の予兆を確かに感じていた。
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