アスマにはわたしが子どもに見えるの。

 トバリは日中のことを思い返して、ぼんやり庭を眺めた。
 夏の到来を思わせる雨は、早々と北東の空に流れていってしまった。里の上空に薄く広がっていた暗雲は夕暮れの空を菫色に染め、やがて訪れた紺碧の夜が庭に折り重なっている。ほんのりと温かい夜気に黒々と湿った土の匂いが混じる。どことなく温室の匂いに似ていたが、それよりずっと静謐で、空虚なようだった。もう五月の下旬だというのに、一輪の花も咲いていない。
 静まり返った庭は地面こそ平らに均されているものの、色彩に乏しかった。母屋と温室を区切るように伸びた樫の木は立派だが、庭木のうちで“まだ何とか見られる”ものはそれだけだ。庭隅に植わっている低木は無残に茶色い骨を晒しているし、周囲には雑草が茂りはじめている。

 ここ数日はセンテイの体調が悪く、トバリが温室の世話をしていた。
 尤も水を遣っているだけなので、“世話”というほどのことではないかもしれない。朝夜、まだ何とか生きてるだろうと思われる植物に水を遣る。それが、トバリにとってギリギリ「このぐらいなら手出ししても良いだろう」というラインだった。センテイが如何いう風に世話していたかは覚えているものの――自分自身のために、なるたけ“センテイの仕事”に手を出したくなかった。
 それに“覚えている”とはいえ、四六時中センテイに張り付いていたわけではない。生兵法で妙なことを仕出かして、枯らしてしまうのが嫌だった。まあ、今はまだ「兎に角センテイが戻るまで……」と思っているが、どの道園芸書は入手しておいたほうが良いだろう。センテイの痴呆症状は順調に悪化しているし、もしかすると、このまま二度とここに戻ってこない可能性もあった。
 庭端にひっそり佇む温室を見据えたまま、トバリはゆるくため息を漏らす。
 世話といっても、水を遣っているだけだ――それなのに、日一日と温室は広く、寒々しくなる。
 自分のやり方が悪いのではないと、トバリには分かっていた。そして、自分のせいでないと分かっているからこそトバリは憂鬱になった。トバリが記憶している“センテイの仕事”とやらはもうずっと前に見たもので、今のセンテイは最早水遣り一つマトモに出来ないのだ。
 トバリは木綿のズボンに包まれた膝に顔を落とした。縁側から下した脚を揺らすと、ブラブラと頼りなく前後するつま先が、沓脱石に置かれたサンダルをかすめた。虚しかった。

 黄色い月が夜空を照らし出し、視界は十分なほどに明るい。
 雨期を間近に控え、早くも地面に日照がこもる季節となった。冴え冴えとした月が昇る深夜でも、陽光の名残が足元に漂う。雨期の後に控えた夏を思えば、晩春は一年で最も過ごしやすい時期だろう。日中は温かく、夜は涼しい。上掛け一枚あれば、縁側で一晩過ごすのに十分だった。
 トバリは瞳の先で右手を上に向けて、掌のしわを見つめた。続いて、自分が座している縁側に視線を落とす。板張りの床は、星々の放つ光を写し込んで明るい。床板を撫でた指先に、ヒンヤリとした冷たさが沁み込む。そのまま触れていると、自分の皮膚の温さが床板を侵食していくのがトバリにも分かった。指先で触れた木目を視線でなぞり、頭の中を空っぽにしようと試みる。
 眠気はなく、ひたすらに退屈だった。クナイも手裏剣も、凡そ忍具という忍具はピカピカに手入れされ、書庫にあった巻物の類も全て読み終えてしまった。夜間であるが故、修行に勤しむことも出来ない。いや、音を立てずに行える修行は山とある。トバリが鬱屈なまでの退屈に耐えているのはトバリ自身の選択――修行に対する目的意識の欠如が理由だった。
 イタチと出会ってからというもの、トバリは修行らしい修行をしていなかった。
 基礎体力を付けるための走り込みは続けているものの、投擲技術は大分劣化しているはずだ。チャクラコントロール・忍術に関しては一朝一夕で鈍るものでもなかろうが……一月近く怠けている以上、やはり衰えはあるだろう。そう推測しても、やはりトバリは修行に励む気になれなかった。
 トバリは縁側に下していた足を億劫そうに引き上げると、両膝を立てた。
 こうして眠らないでいると、日が沈んでから昇るまでの時間がどれだけ長いのか驚かされる。
 自分の膝小僧を見つめながら、トバリは「眠りに落ちれば一瞬で過ぎさるのに」と思った。胸中に満ちた倦怠感を置き去りに、トバリの思考回路は冴え冴えと澄み切っている。

 物心ついてからずっと、夜十時から朝六時までの“睡眠”はトバリの習慣の一つだった。
 ほんの一月前まで、トバリは毎夜のように眠っていたのだ。どうすれば眠ることが出来るのか、トバリは勿論知っている。寝室にある目覚まし時計を傍らにセットして、目を瞑ったまま一から十まで数えれば良い。たったそれだけで、これまで通り眠ることが出来るはずだった。
 朝になれば、トバリも幾らかの用事がある。イタチに会いに行く必要があるし、走りこみに精を出すのも良い――少なくとも、ここでじっとしていなくて済む。
 しかしトバリは自分の体が“眠気”とやらを覚えるまで、寝るつもりはなかった。そう決意してから一月弱が過ぎた。トバリの記憶が定かなら、もう五百時間超を起きたまま過ごしている。
 小さな背中を丸めて、両膝に顔を埋めた。黒い寝間着を着込んだトバリの姿が明かり一つない家屋の影に沈み込む。清々しいほど明朗な頭蓋に鬱屈を侍らせたまま、トバリは目を瞑った。
 指先で感じ取った夜の冷たさや、滑らかな板、木材特有の堅さを思い返す。
 間違いなく“触感”はある。視覚も、味覚も、聴覚も、嗅覚も、五感は正常に機能しているはずだ。なのにトバリは空腹を覚えたことも、不意の眠気に微睡んだこともない。

 トバリにとっての“睡眠”は自分の意識下で五感を鈍らせることだ。
 目を瞑ることで視覚を塞ぐ。鼻呼吸から口呼吸に切り替えることで嗅覚を鈍らせる。一から十まで数えることで手足の緊張を解して、その感覚を遮断する。最後に頭の中を真っ黒に塗りつぶすことでトバリの意識はどこかへ消えてしまう。黒々とした眠りに沈み込む意識が浮上する条件は「目覚まし時計が鳴る」もしくは「尿意を覚える」のどちらかで、それ以外で目を覚ますことはまずない。便意があった場合も目を覚ますかもしれないが、試したことはなかった。
 トバリにとっての“睡眠”は常にトバリの理性によってもたらされるものであり、それ故“他人に指摘されるまで自分が微睡んでいるのに気付かない”なんてことはまず有りえない。どんなに疲れていようと、うつらうつら舟を漕いだりしないし、間延びした欠伸を繰り返すこともない。
 イタチと過ごすうち、トバリは自分が根本から他人と違うことを理解した。幾らトバリが“普通の子どもでない”といっても、“人間”なら生理現象において平均と異なるはずがない。

 忍はチャクラを利用することで人間離れした術を使いこなすが、生理現象までは克服出来ない。
 食事を摂らなければ飢えるし、睡眠が不足すれば集中力が乱れ、平然としていられない。それが“人間”というものだ。アスマは度々眠たげに目を擦るし、イタチは数時間の睡眠不足で苛立たし気に目元を覆う。誰に強いられることもなく、イタチは日に三度の食事を欠かさない。イタチが特別マメだからとか、食事を摂るのが好きだからではない。生きる上で必要なことだからだ。
 トバリにとっての睡眠と食事は単なる“習慣”に過ぎない。眠気を覚えたことも空腹を感じたこともなかった。ただ他人の干渉を避けるためだけに夜眠り、三度の食事を平らげるようにしていたのだった。そうしてさえいれば、ヒルゼンや家政婦にとやかく言われずに済む。そう思っていた。

 この一ヶ月というものトバリは一睡もしていないし、まともな水分補給もしていない。
 始めの内は体に違和感を覚えないでもなかったし、口寂しさを感じることもあったが、今はもう何も感じない。寧ろ固形物が体のなかにあることが堪らなく不快に思うようになっていた。
 家政婦の手前、毎度毎度食事を後回しにしたり、捨てることも出来ないので、日に一度は摂取したフリをする必要がある。手ずから作ってくれた家政婦に申し訳ない気持ちもあるにはあるが、自分が空腹感を覚えるか如何か調べるためには仕方ない。なるたけ少な目に摂取しているにも関わらず、食事のあとは胃の腑のあたりに強い異物感があって落ち着かない。その不快感は、厠で胃に収めたものを全て吐き出すことでやっと失せるのだった――如何考えても、平均から外れた感性だ。
 さりとて全く眠れないわけではないし、他人と同じものを食べて体調を崩すわけでもない。これまでずっとそうしてきたように、トバリに“その気”さえあれば人並みに暮らすことは出来る。そもそも、吐き出してしまうとはいえ一応食物を摂取しているわけだ。水分補給をしないといっても、それは経口摂取に限った話である。風呂に入っているのだから、多少は水分を摂取しているはずだろう。睡眠に関しても、トバリが気付いていないだけでごく短い間うとうとしているのかもしれない。内臓が麻痺しているのか、はたまた脳の感度が狂っているのだろう。それだけのこと。
 確かにトバリは“普通の子ども”ではないけれど、アスマたち同様に四肢があって、背も四歳児の平均から外れていない。センテイやヒルゼンの態度からも、トバリが時間の経過と共に“普通に”成長してきたのは疑いようがない。何より、“人型の生物”は“人間”以外存在しないはずだ。
 トバリは目をぎゅっときつく瞑って、滑らかに展開される思索を打ち切ろうとした。そんなトバリ自身の感情と裏腹に、ありとあらゆる情報・記憶が滔々と脳裏に過ぎる。


 一週間ほど前、トバリは“人体と睡眠の関係性”を調べるべく、木ノ葉図書処に赴いた。
 この一月で学んだ“世間一般の四歳児”像を装い、ようよう手に入れた資料がエッセイ一冊。
 年齢故に学術書のあるコーナーへの立ち入りを許されなかったこともあって、収穫らしい収穫はその本だけだった。未就学児は一部の書庫への入室制限があるばかりか、一人だと貸出カードも作れない。尚且つ子どもの姿が珍しいのか、やたらと司書に付き纏われるのにも閉口した。
 普段祖父の書庫で好き放題読み漁っているだけに、あれだけ苦労して一般書籍しか手に入らないのは釈然としない。とはいえ参考文献が明記されていないのを除けば、その書籍にはトバリの知りたいことの大半が記されていた。それでこそ必死に司書を撒いた甲斐があったと言うものだ。

 過去に雷の国に不眠で活動出来る一族がおり、最高で二百時間弱の不眠記録がある。
 その一族は滅亡し、今となっては事実を確かめることは出来ない。また不眠を続けたところで即死に直結するわけではないが、三日を過ぎたあたりで脳に異常を来し、幻覚・白日夢・記憶障害などを発症することがある。睡眠を軽視することで作業効率が落ちるばかりか、場合によっては衰弱死を引き起こすケースもあるため、質の良い睡眠を取って体を休めるようにするべきだ。

 エッセイの内容を纏めると、こんなようなことが数ページに渡って記されていた。信憑性に疑問は残るとはいえ、丸きりのデマカセを書き連ねるはずもあるまい。十分すぎる“回答”だ。
 トバリは少なくとも非現実的な何かを視認した覚えはなかったし、今のところ不眠による記憶障害があるとも思えない。健康状態も、不眠記録を計る前から変わらない。件の一族の血が混じっているというのも可能性として無くはないが、まあ十中八九無縁だろう。
 増して飲まず食わずで二週間近くピンピンしているのだ。最早、議論の余地もない。


 疑問:わたしは“にんげん”ではないの?
 回答:少なくとも“普通の人間”は五百時間超も起きていられない。水を飲んでいても、一週間の絶食で生命活動が危うくなる。水分補給をも断った場合、三日ともたずに死ぬ。

 勿論、何等かの忍術を用いた場合はまた話が変わってくる。
 トバリの知る限り、人間の生理現象を取り払う忍術は原則的に禁術指定を受けるはずだった。そもそも抜け忍として無法のただなかを生きていたならまだしも、父親は死ぬまで“木ノ葉隠れ”という枠組みのなかに埋没し続けた。不眠の体を作るだけなら被術者の脳を弄るだけで如何にかなるかもしれないが、食事の必要のない体を作るにしろ何らかのエネルギー源が必要になる。
 最も安易な案としてはチャクラを利用することだろうか? 無論チャクラは身体エネルギーそのものではあるが、それを生命活動の維持に併用するとなると、日々の食事から栄養素を取り込むのに比べて圧倒的に燃費が悪い。要するに被術者一人のチャクラでひと一人の生命活動を維持し続けるのは実質不可能であり、かなりの数の“心臓”が必要になる。トバリ一人を動かすに足るチャクラを父親が集めることが出来たとは、とてもじゃないが思えなかった。

 増して、トバリの体は成長している。
 人間の生理現象を取り払う忍術を平たく言えば、所謂“蘇生忍術”だ。
 他人のチャクラを生命活動の維持に利用する上で、被術者の死は免れない。一次的に他人のチャクラを受け入れるなら兎も角、経絡系ごと他人のチャクラを取り込めば生命活動は停止してしまう。一度死んだ人間を蘇生した上で、他人のチャクラを動力として生前の状態を維持し続ける――生理現象を取っ払うなら、どんな忍術であろうと必ず被術者は死ぬ。死体に生理現象がないのは当たり前のことだ。“生命活動の維持”と“人体の成長を促す行為”は似ているようでまるで違う。前者は忍術を駆使することで十分実現可能であるものの、後者は人知を超越した領域に達する。
 動力源があろうと、死体は時間の経過に応じて成長することはない。時間の経過に応じた成長を見せるトバリは間違いなく未だ一度も死んでいない。それと同時に“普通の子ども”と同じ速度で成長しているにも関わらず、一切の生理現象を必要としない。
 ほんの少し忍術を齧った程度のトバリにも、自分という存在の異質さがよく分かる。

 眠気の存在しない暗闇のなかで、トバリの欲求が改めて浮き彫りになる。
 自分が“何者”であるのか知りたかった。

 私は何なの。何故覚えていないことがあるの。私は何をしたの。自分の理性の外で、私は、私が、私は自分が何なのかも分かっていないの。眠らなくても、食べなくても、それでもまだ生きてるの。痛みはある。温度の区別もつく。味覚も正常に機能している。一人で夜を過ごしていると、不意に頭が真っ黒になることがある。それが眠気だったらどんなに良いか知れない。ただただ、自分が何を考えて、何を見ているのか分からなくなる。数字を数えて眠ればいいと思っていても、それが本当に世間一般で言う“睡眠”かどうかさえトバリには分からない。

 このところ、些細なことで精神の均衡が崩れがちになっていた。
 それはイタチと出会ったことが理由のような気がするし、その夜見た“夢”が発端だったようにも思う。もしくは、単に水中で音もなく進んでいた崩落が表面化しただけなのかもしれない。
 今日アスマと話していた時、トバリは明確な敵意でもって“アスマの死んだ友達”について口にした。その時の自分が何に苛立ったのか、トバリにはよく分からなかった。アスマが善意から自分を案じてくれているのは重々承知しているし、トバリがイタチと友達関係にあると勘違いする人間は彼だけではない。アスマとの会話は概ねトバリの想定内に収まっていたし、自分の神経を逆なでする言葉は存在しなかったはずだ。何よりトバリはアスマを傷つけたいと望んだことは一度として無い。アスマだけではない、トバリは誰を傷つける権利も持ちえないのだ。
 何一つ分からないなか、「友達が死んだ傷は、なにが忘れさせてくれたの」と言い放った瞬間の感覚だけはトバリの心臓にへばり付いて離れない。生々しい嫌悪感と共に、トバリは自認する。

 目の前にある全部が粉々に消え去ってしまえば良い。
 その破壊衝動こそが自分の本質ではなかろうか。トバリは、そう思った。
 トバリの五感の及ぶ範囲で助けを求めるなら、それに応じてやりたい。トバリの行動次第で運命が左右出来るなら、良い方向へ行けるよう手助けしてやりたい。生きることが苦しいのなら、その気持ちを紛らわしてあげたい。今が幸福なら、その環境を守ってあげたい。その気持ちは全部嘘だった。生垣の外の世界に出ることで、トバリは自分が人間でないことを知ってしまった。自分は人間ではない。胸奥に激しい破壊衝動を抱えている。アスマもヒルゼンも、トバリを強く警戒しない。自分の体が二つに割れて、悍ましい触手が生えたとしても不思議はない気がした。
 自分に伸ばされたアスマの手、馴れ馴れしく回される腕――その全てが恐ろしかった。アスマが触れた瞬間、トバリは“自分がこの青年を食い殺すのではないか”という不安に慄いた。

『お前よりバケモン染みた奴、戦場でゴロゴロ見てきたぜ』
 それは隣に座る私の正体に、アスマが気付いていないだけじゃないの。

 トバリに混乱をもたらすものの一つに“アスマたちへの罪悪感”があるのは間違いようもない。
 今のトバリは何の問題もないとは言い難い状態だ。本当なら後見人であるヒルゼンに包み隠さず現状を伝える必要がある。一月の間眠っていないこととか、食事を摂っていないこと、空腹を覚えることも眠気を感じることもないと、ヒルゼンに相談するべきだった。
 そうすることで少なからず気持ちが楽になるはずだと分かっているのに、トバリはヒルゼンを謀り続けていた。謀り続ける――ヒルゼンが口にする“友だち”という言葉を否定するでも肯定するでもなく受け流す。イタチと仲良くやっているか問う台詞に頷く。ヒルゼンが持ってきた甘味を何気ない顔で食べる。トバリの身を気遣う言葉に“何の問題もない”と返す。全部ウソだ。
 何故ヒルゼンに嘘を吐き続けているのか、トバリには分からなかった。ヒルゼンとアスマの身を案じるなら正直に全て話すべきなのに、二人を前にすると告白する気が萎える。
 いや、萎えるというより“全部気のせいなのではないか”と思ってしまうのだった。これまで普通に暮らしてきたのだし、圧倒的に体の小さい自分が彼らにとって脅威になるはずもない。全部トバリの考えすぎで、二人が期待するように自分の異端は“普通の子ども”の範疇なのではなかろうか。
 ほんのちょっと前まで、トバリは自分が何をするべきで、何を如何感じているのか全部理解していた。今は自分の胸中で渦巻く感情と欲求の何もかもが理解不能で、思考回路も度々ブラックアウトする。どこで何をしていても、誰と一緒にいても、気持ちの休まる暇がなかった。

 もう自分が人間か如何か確かめる必要もないのだから、眠ってしまえば良い。
 息苦しさのなかで、トバリは諦念染みた妥協案を思いつく。朝になれば、トバリも幾らかの用事がある。やるべきことがあれば、ここでじっと一両の得にもならない思索に耽っていないで済む。
 トバリは十中八九人間ではない。眠気を覚えることなど永遠にないのだから、来るはずもない眠気をいつまでも待っているのは馬鹿のすることだ。寝よう。目覚ましも要らない、このまま十まで数えて眠ったほうが良い。夜が明ければ、家政婦が来る。調子が良ければ、センテイも来るだろう。今日も姿を見せないようなら、センテイの家を訪ねるのも良いかもしれない。それに、何も知らずに「すぐイタチと一緒に遊ぶのが日常になる」などとほざくアスマの提案に乗るのは癪だが、もう二日もイタチに会っていない。これ以上放置しておくと後々面倒くさいことになりそうだ。

 明日が来れば、トバリにも“普通の子どもらしい日常”がある。
 再会の約束を果たしに件のギャップを訪れて以来、トバリはイタチに忍術の基本を教えていた。
 教えると言っても自分が忍術習得の際に参考にした巻物を渡した上でイタチの疑問に答える程度のものだが、二日も姿を見せないでいると「どこで何をしていたんだ」などと顰め面をされる。他人に関心のない子どもではあるが、使えるものは最大限使う性質らしい。
 イタチは善良な子どもではあるが――対人関係において、猿飛親子を基準に置いているトバリは彼について“あまりに他人への配慮に欠けている”と思っていた。自分の疑問が解消されるまで徹底的に質問攻めして悪びれないのも、正直辟易する。その疑問が忍術にのみ留まっていれば良いのだが、その飽くなき探求心がトバリに向けられるのも決して珍しいことではなかった。
 弁当・水筒を携帯してこないのは何故だ――腹が減らないのか――喉が渇かないのか――今は良くても夏場になれば日射病で倒れるぞ――睡眠時間が短ければ眠気を覚えるのは当然だろう――エトセトラエトセトラ。イタチのあどけない瞳が凝視してくる度、トバリは己の失言に気付くのだった。トバリは自分が“普通の子ども”でないことを認めているが、わざわざ他人に吹聴して回りたいわけではない。一般社会において、あまりに平均から逸脱しているものは歓迎されないからだ。
 イタチと過ごしている間中、トバリの体は一定の緊張状態に置かれる。アスマが言うところの“友達”とやらは、現状“ストレス源”以外の何物でもなかった。今トバリの置かれている混迷がイタチと出会う前に存在しなかったことを鑑みるに、さっさと縁を切ったほうが良い。

 幸いにしてイタチは優秀な生徒だった。
 チャクラコントロールにしろ、印の結び方といい、兎に角彼は覚えが早い。
 今は“木登りの行”でやや手間取っているものの、トバリとて一月近くかけて会得したものだ。それをイタチはたった数日で十五メートル近く上れるようになってしまった。その数日をトバリはチャクラ量の調整に費やし、樹幹に足を付けることさえなかった。そう何度も説明してやったのに、イタチ当人は数か月前から――巻物を読んで印の組み方などを学んでいた頃から数えると一年以上前から忍術修行に励んできたトバリと比べて不甲斐なく思っている嫌いがある。
 向上心が人並み外れて強いのは良いが、やはりわけの分からない子どもだ。
 上忍の父親がいるにも関わらず、彼に教えを請わない理由も分からない。毎日顔を合わせていれば、教えて貰う時間が取れないということもないだろうに。
 兎に角イタチが木登りの行を習得し次第、適当に言葉を並べて“用済み”認定して貰おう。
 アスマとヒルゼンは何か勘違いしているようだが、トバリとイタチは友人関係にあるわけではない。ただ早々に忍術を習得し終えているトバリは、イタチにとって有益な情報源だった。それだけだ。決して友達なんかではない。イタチも、凡そトバリと似た見解を持っているようだった。
 一般的に“友達”というのは、共通点の多い者同士でのみ成立する関係だろう。生育歴も持って生まれた性質も、イタチとトバリはあまりに違いすぎる。当人たちを置き去りに勝手に“友達同士”と判断するあたり、大人たちが如何に姿形で物事を判断しているかよく分かるというものだ。
 イタチは……イタチだけではない、トバリと友達になれる“人間”など存在しない。

 お父さんのような立派な忍になりたいです。キレイなくノ一になって、すごくカッコよくて強いひとと結婚したい。里で一番強い忍者になって、妹を守りたい。いっぱいお金を稼いで、ママに楽をさせてあげたい。もうすぐ、弟か妹が出来る。大きくなったら、きっと“忍者になる”と言う。
 みんな、平然と自分がこの里に受け入れられていると信じて、疑おうともしない。


『きみが踏みにじられても誰も傷つかないから、一人でも多くの業を背負って死ね』
 イタチと出会った日の夜、トバリは久方ぶりに夢を見た。
 見知らぬ男が馬乗りになって、トバリの首を絞める。男の手から解放されると、ただでさえ悪い視界が暗転し、誰かのすすり泣く声が闇の奥から聞こえてくる。そういう夢だった。
 トバリは、生後数か月から今に至るまでの記憶を全て保持している。いつどこで何があったのか思い出せないことは何一つなかったし、読んだ書物の一言一句たりとも間違えたことはない。
 そのトバリが、父親に首を絞められたことを覚えていない。馬乗りになった父親が何と言って自分を罵ったのか、そして割って入った人間が誰なのか何も覚えていなかった。
 そもそもトバリは確実に父親と言葉を交わしたことがあるはずなのだ。それにも関わらず、トバリは「己の目で父の顔を見たことがない」と思っていた。トバリの記憶には欠落がある。

 勿論トバリが父親と言葉を交わしたことがあり、それを忘れていたからといって、夢に見たことが実際に現実であったことなのかは分からない。イタチやアスマにとっての“夢”が荒唐無稽な妄想であることは知っている。自分もやっと世間一般でいう“夢”が何か身をもって理解できたのだと、そう考えることも出来た。しかしトバリが選んだのは、自分が本当に常人の枠に収まった存在か如何か検証することだった。眠ることも、食事も拒んで、自分がいつ死ぬのか知りたかった。
 それは単純な知的好奇心というより、人間が生きる上で必要なこと全てを放棄した結果だった。

 もう何も考えたくなかった。


 眠ろう、眠ろうときつく瞑った瞼の奥に、白い腕がぼんやり浮かびあがる。
 病的に白い腕の先には、加齢に従って弛んだ手があった。男の手だ。
 男はトバリの体を布団から引きずり出し、剥き出しの畳の上に投げ出す。どすんと腹に乗った膝と、首に掛けられた手が生々しい閉塞感を与える。くるしい。知らず知らず、トバリは喘いだ。
 男の赤い瞳は爛々と光り、瞳孔が開ききっている。男が興奮状態にあることはトバリの目にも明らかだった。それでもトバリの四肢はだらんと横たわり、抗おうとしない。嗅ぎ慣れた血の匂いが鼻をつく。ぎゅうと、男の手がトバリの首を絞める。おまえがどうして。酸素を求めて、肺が収縮を繰り返す。逆らってはいけないと、トバリは思った。この男に逆らってはならない。
 無抵抗のトバリに、男が呪詛を吐く。おまえが死ぬはずだったのに、何故のうのうと   と同じ顔で、   のいるべき場所で生きているんだ。ミシと骨が軋む。ポタポタと、男の涙が降ってくる。くるしい。くるしんでいる。トバリには、男が苦しんでいるのが分かった。その痛苦が自分の存在によってもたらされるのなら、トバリはこの世 に   続 ることを望まない。
 “返せ”と繰り返す男とトバリの間に、何かが割って入る。その邪魔者を押しのけるようにして、男は尚もトバリに手を伸ばす。バクバクと音を立てる心臓を押さえて丸くなっているトバリの髪を掴んで、髪が抜けるのもお構いなしで引き寄せた。ブツと、トバリの細い毛が千切れる。
 もう、これを生かしておく意味はない。これは“人間”じゃない。バケモノだ。
 鈍痛と息苦しさに細められた視界のなか、トバリを侮蔑の瞳で見下ろす男は祖父によく似ていた。それがトバリの父親であり、遂にトバリを殺せないまま死んだ男の顔だった。

 黒々とした闇の中から男の手は幾度でも伸びてきて、トバリの体を捉える。侮蔑と激しい嫌悪に満ちた視線がトバリを貫く。道具だ、バケモノだと言って、トバリを殺そうとする。
 思い返す度に夢に過ぎなかった父親の声は生気を帯び、自分に触れる手も質量を増していく。これがただの夢であろうはずがない――それでも、父親はもうこの世に存在しない。死んでしまえばもう何もない。今トバリの生命が脅かされているわけではなく、トバリは健康で、体のどこかが痛むわけでもないのだから、例え“過去の出来事”と言っても父親が存在しない以上“夢”と何ら変わりないはずだった。深く考える必要はない。大したことはない。でも事実、トバリの体は人間離れしている。父親の言う通り、トバリはバケモノだ。何れヒルゼンには打ち明ける必要がある。
 うちあける、ひつようが

『……トバリはしっかりした良い子じゃな』
『お前が思ってるほど、お前は可笑しくねえ』
『しかし、性格は扉間様似かのう。不器用ではあるが、優しい子じゃ』
 弱々しく自分に触れる指、躊躇うように自分を抱き寄せる腕、その全てがトバリの小さな体を慮ったものだった。ヒルゼンもアスマも、トバリを自分の手で損なわないよう注意深く触れる。
 二人は自分を普通の子どもと信じることに決めたのだと、トバリには分かっていた。
 トバリが普通に産まれて来たのではないと、二人は知らない。父親が何のためにトバリを産み出したのか知らない。トバリが一月の間寝なくても生きていけることを知らない。空腹を感じたこともない。喉の渇きを感じることもない。トバリが正真正銘のバケモノだと知らない。
 打ち明ければ、アスマもヒルゼンも二度とトバリに触れない。それが正しいことなのだ。いつまでも人間の子どもを真似てはいられない。謀り続けたところで、何れ破綻が来るだろう。
 ここにトバリの居場所はない。


 刹那――もうこの世に存在しないはずの父の手が触れた気がして、トバリは飛び退った。
 背後の襖で強かに背を打っても、トバリの心臓は早鐘を打ったまま一向に静まる気配がない。トバリは眼球が零れ落ちそうなほどに目を見開いて、自分を撫でた殺気の主を探した。
 男は気まぐれに放った殺気をしまい込んで、池のほとりに穏やかな佇まいを晒している。

「驚かす気はなかったのだけれど、一声かけるべきだったかしら」
 如何にも優男然とした線の細い面差しに、目頭から伸びた入れ墨が異様な印象を与えていた。
 艶の無い黒髪は胸元まで伸ばされ、土気色の頬は痩せこけている。その容姿からは日頃の不摂生が手に取るように分かるが、不思議と疲弊している風には見えなかった。
 トバリは男が何者か知っていた。父が暗部にいた頃の部下で、葬儀にも出席していたからだ。公私ともに親しく、近年はヒルゼンやダンゾウよりこの男と居る時間のほうが長かったと聞いた。
「大蛇丸、さま」
 大蛇丸はトバリの声に小首を傾げた。ゆっくりトバリとの距離を詰めながら、口を開く。

「……ずうっと一人で、眠れないみたいだったから」
 その“ずっと”がいつから始まっているのか、トバリは全身が総毛立つ感覚を覚えた。
 トバリの反応などお構いなしに、大蛇丸はごく自然体で一歩前に踏み出す。
 ゆっくりと距離を詰める大蛇丸は穏やかな雰囲気を纏い、トバリに対して何の害意も持ち合わせていないようだった。しかしながら出会い頭にほんの戯れで四歳の子どもを殺気に晒したことから、大蛇丸という人間が世間一般の善悪観を軽んじていることが分かる。
 ”普通の子ども”として扱う関係上、ヒルゼンはトバリが悪意や好奇に晒されることを嫌う。ダンゾウの訪問にさえ渋い顔をするヒルゼンが、大蛇丸との邂逅を歓迎するとは思えない。尤もトバリが大蛇丸を警戒したのは、彼がヒルゼンの弟子にあたる事実を知っているからだった。
「敬称付けで呼ぶあたり、猿飛先生がアナタの躾に成功したってのは本当みたいね」
 粘っこい揶揄を耳朶に受けて、トバリは唇を震わせた。

「いつから見ていたの」

 靴脱石の前に立ち止まると、大蛇丸はおどけた風に肩をすくめた。
「あら、目上の人間にはちゃんと敬語を使わなきゃ駄目だって教わったでしょう?」
 幼さ故の無礼を窘める台詞はどこまでも優しい。
 目を瞑ってさえいれば、トバリは大蛇丸の善意を疑わなかっただろう。大蛇丸の唇は耳障りの良い声音が紡ぎ続けていたものの、その黄土色の瞳はあまりに無遠慮な視線を湛えていた。父親の法宴の夜に綱手がくれたものに似ているように思ったが、それよりずっと威圧的で――まるで捕食対象でも見るような、飢餓感でザラついた視線だとトバリは思った。
 トバリは別に大蛇丸が怖いわけではない。大蛇丸と比べた時に自分が圧倒的弱者なのは言うまでもないとはいえ、それだけ実力差がある以上大蛇丸がトバリを殺す気なら疾うに事は済んでいるはずだ。トバリとしては今ここで大蛇丸が自分を殺してくれるなら寧ろ有難いのだが、大蛇丸にトバリを殺すつもりなど毛ほどもない。だからこそ“警戒”の理由は純粋な恐怖や萎縮ではなかった。

「いつから見ているの」
 繰り返し同じ問いを口にするトバリに、大蛇丸は柔和にほほ笑んだ。

「ずっと前から見ているわ」
 頻度はまちまちだけれどね。そう付け足して、大蛇丸は沓脱石に上る。
 縁側に膝を掛けると、大蛇丸は這うようにしてトバリに迫った。その瞳は好奇の色に彩られ、金に光っている。トバリは退路でも探るように顔を背けたが、結局ため息と共に俯くだけだった。
 被食対象が無駄な抵抗を見せることもなく大人しくしているのを見て取るや、大蛇丸は愉悦のこもった目を細めた。気のない素振りのトバリに向けて、言葉を続ける。
「科学忍具班の発明品の一つ、高周波チャクラのやり取りで離れた場所の映像を常時送信し続ける忍具――ビデオカメラってのが、この庭のどこかに設置されてるのよ」
「……カメラは、しゃしんをとるための道具ではないの」
 僅かに視線を上げると、それに応えるように大蛇丸が庭の一画にわざとらしい視線をくれた。
「目の前にある像を静止画として映しとるのは同じ。その“静止画”を高速で次々に表示していけば、カメラの前で起こった出来事が再生される……早い話が、山中一族の協力なしに“心伝身の術”や“感知伝々”を使うための忍具ってとこね。尤も、今のところは里内でしか高周波チャクラの送受信が出来ないみたいだけど――それでも護衛・監視任務に掛かる負担がかなり軽減されたわ」
 それは要するに、トバリはずっと前からヒルゼンに監視されていたということだろうか。
「アナタを守るための措置よ。危険分子を監視するという名目で設置されたものじゃあないわ」
 トバリの心中を察してか、大蛇丸が付け足した。

「日中は家政婦が通ってくるとはいえ、夜はアナタ一人で過ごしてるでしょう。
 微弱とはいえ二代目様がこの家に張った結界は生きているけど、木ノ葉隠れの人間なら誰でも通してしまうから“安全”とは言い難い。もうずっと前から監視カメラは設置されていて、夜間は定められた時間毎に、退屈を持て余した防犯対策部員がアナタの無事を確認しているのよ」
 大蛇丸はトバリが知りたいことを矢継ぎ早に口にする。

 与えられる情報量に混乱しながらも、トバリは必死で大蛇丸の訪問理由を考えようとした。
 しかし“父親の部下”であり“後見人の弟子”以上の繋がりが思い当たらない。そもそも、何故このタイミングでトバリに接触を図るのだろう? 夜間に来る以上、人目を憚る理由があるとみて間違いない。でも、単に不眠気味の子どもを注意しに来ただけかもしれない。
 どれ程考えても、大蛇丸が自分に関心を持つ理由が浮かばなかった。
 大蛇丸の視線から逃れるように、トバリは深く俯いた。小さい背中を襖に張り付ける。
「あなたは、防犯対策部の忍なの」
「いいえ。でも、ちょっとしたコツさえ知ってれば、不正傍受なんて幾らでも出来るのよ」

 この男はトバリが一月の間全く眠っていないのを、知っている。

 ざっと全身の血が引いた感覚を覚えると共に、トバリは発作的に口を開いた。
「わたし、ねて」
「アナタの家に設置されたカメラが発信した高周波チャクラの受信機は管制室の端にあるわ」
 考えなしの言い訳を遮って、大蛇丸が妖艶に口端を歪めた。
 顔の前に悪戯っぽく立てた人差し指をトバリの口元に伸ばす。冷たい指先が唇に触れた。
「小さくて黒づくめのアナタは目立たない上、三時間間隔での監視よ。担当中忍に探りを入れてみたけれど、元々アナタは変わった子どもだもの。眠りが浅い程度にしか思ってないみたい。
 でも、今後も短時間睡眠が続くようなら報告すると言っていたわ」
 深い虚脱感のなかで、トバリはぼんやり大蛇丸を見上げた。
「明日からはちゃんと寝所に篭っていられるわね?」
 出会い頭の殺気が嘘のように、大蛇丸は善意に満ちた響きを口にする。トバリは呆気にとられたまま、コックリ頷いた。バレていなかった。三代目に報告するために来たのではなかった。
 未だ爛々と輝いたままの瞳を見つめながら、トバリは考えた。考えた……と言っても、トバリの頭のなかには「バレなかった」という安堵感しか存在しない。
 その“安堵感”が何を意図するのか疑問に思ったと同時に、大蛇丸の薄い唇が微かに震えた。

「本当にアナタは手の掛からない良い子ね」

「十年前に初めて会った時から、ずっと変わらない」
 一瞬、トバリは大蛇丸が何と言ったのか理解出来なかった。
「そもそも、カンヌキ隊長の大雑把な保管方法で死ななかった卵子もアナタだけだったものね。それからも除核操作、“柱間細胞”に拒絶反応を起こすこともなく、こうして生きている」
 自分の落とす影のなかで凍り付くトバリを置き去りに、大蛇丸は極めて温和にぼやき続ける。
「共作ではあるものの、間違いなく私の傑作はアナタよ」
 けっさく。きょうさく。はしらまさいぼう。しななかった。じゅうねんまえにはじめてあったときから。トバリはぽかんと口を開けたまま、自分の上辺をなぞり続ける瞳を凝視した。
「猿飛先生の躾で、随分人間らしい表情が出来るようになったものね」
 大蛇丸が両手でトバリの頬を捉える。物にでも触るような手つきにトバリの体がビクリと跳ねる。ヒルゼンやアスマに触れられた時とは、まるきり違う。父と同じ手つきだった。
 トバリの自我を無視した乱暴な手。これが正しい触り方だと、トバリは思った。

 本当なら、トバリはこの触れ方以外知らないで生きるべきだったのだ。


 イタチと出会った日のことだ。
 先導する紅の後をアスマは不貞腐れた風に歩き、トバリはそんなアスマと並んで歩いていた。
 如何にも億劫そうに後頭部で手を組んでチンタラ歩くアスマに、時折紅が渋い顔で振り向く。
 全くもうと言わんばかりに頭を振る紅との距離が縮んではまた広がる。その繰り返しのなか、トバリは一向に急いた様子もなくノロノロ進むアスマに視線をやった。
『任務の結果、良かったの』
『いンや、馬鹿息子がうちの隊員に言い寄ったんでキレちまってさ。早々に返されたんだ』
 忍者は金出せば何でもすると思ってる馬鹿だったよ。憤慨するアスマを、トバリは凝視した。
 任務が失敗したなら、何故わたしを見つけた時嬉しそうだったの。
 素直に聞いたところで、アスマがトバリの納得出来る解答をくれたことはなかった。極力アスマとの問答は避けたいと思っていたこともあって、トバリはその疑問を握りつぶした。
『ま、大したことねーよ。また親父にネチネチ言われるだろうけど』
 それを他人は大したことと言うのではなかろうか。アスマとの会話を億劫がるトバリは、無論何も言わなかった。アスマも特に気にした様子もなく、普段より小さい歩幅で歩いている。

 アスマが無暗やたらと喧嘩をふっかける性質でないことを、トバリは知っていた。
 一見ガサツで考えなしなように見えるアスマだが、仮にも中忍だ。上忍昇格の話も来ているとのことだから、任務に即しても相応の分別を持って臨んでいるだろう。そうした状況で護衛対象と揉めるというのは、余程のことがあったに違いない。トバリとイタチに配慮して場所を移すことからも、“言い寄った”という言葉だけに収められない何かがあったのは想像に容易かった。
 トバリは、アスマを優秀な忍者だと思う。何といっても色んな任務に引っ張りだこで、トバリの思考パターンも粗方察知してくれている。コミュニケーション能力の高い人間特有の多角的な思考能力は、得難い才能だ。ヒルゼンや紅は不平不満を漏らすが、それも期待の裏返しだろう。

『なあ、トバリ。今日一日楽しかったか?』
 ハタとアスマに焦点を合わせると、ニッと気の良い笑みが落ちてきた。
『オレみたいに馬鹿な奴とか、お前みたいに陰気な奴とか、色んな奴がいて、面白いだろ?』
 トバリはその問いにも、何も答えなかった。アスマも、何の不満も零さなかった。

 わたしが踏みにじられても誰も傷つかないから、一人でも多くの業を背負って死のう。
 わたしはイズミのように可愛くもないし、イタチのように何かを守りたいと思うこともない。誰が生きようと、死のうと、わたしには関係ない。わたしには誰もいない。わたしは誰にも祝福されずに産まれて来た。わたしが死んでも誰も傷つかない。わたしは産まれてきてはいけない存在だった。わたしはここに居てはいけない。この生垣の中にも、外にもわたしの居場所はない。

 でもわたしが踏みにじられても誰も傷つかないなら、どうしてこのひとはわらっているの。


「さ」トバリは、自分が何故口を開いたのか分からなかった。「いわ、」
 膝に置いた手がガクガクと震えているのに、一拍遅れて気付く。
 外気は温く、凍えているわけではない。目の前の男には、トバリを殺すつもりはない。トバリの生命活動は順調に営まれていて、震える理由などどこにもないはずだった。

 ヒルゼンとアスマはトバリを普通の子どもと信じることに決めたのだ。
 トバリが普通に産まれて来たのではないと、二人は知らない。父親が何のためにトバリを産み出したのか知らない。トバリが一月の間寝なくても生きていけることを知らない。空腹を感じたこともない。喉の渇きを感じることもない。トバリが正真正銘のバケモノだと知らない。
 だから、このまま“人間”として暮らしていけるのではないかと思った。

「いわ、ないで」トバリは大蛇丸の袖に縋って喘いだ。「三代目に、言わないで」
 里のために、他人の業を背負って死ぬ。決して自分の為だけに生きない。もう二度と誰のことも傷つけない。何でもする。わたしも“普通の子ども”が良い。アスマに喜んでほしい。さるとびせんせいに笑ってほしい。わたしは死ぬために産まれて来た。存在理由も、所有者である父さまが死んだ時点でなくなってしまった。生きていてはいけない。生きようとしてはいけない。わたしは“人間”じゃないから、生きていてはいけない。ちゃんと“人間”の役に立つ。この里に利益をもたらす。人間に混じって生きることが出来るなら、それ以外何も要らない。

 父さまの望み通り絶望と地獄のただ中で死ぬから、わたしを要らないと言うのはやめて。


 大蛇丸は慈しみに満ちた視線を落として、血の気の引いたトバリの頬を撫でた。
 夜風に当たっていたせいもあって、触れた指先に何の温もりも感じない。トバリの華奢な肩は孤独に震え、大蛇丸を見つめる瞳は“子どもらしい”動揺に揺らいでいた。
「勿論よ」
 大蛇丸は小首を傾げて、落ち着かすように低い声音を唇に食む。
「猿飛先生にも、誰にも言わないわ。約束しましょ、何なら指切りしても良いわよ」
 頬を撫でていた手を首筋に這わすと、トバリの体が固くなる。
 得体のしれない嫌悪感を堪えて、トバリは上目遣いに大蛇丸の様子を伺う。媚びの混じった視線を受けて、大蛇丸は極めて満足げに破顔した。薄い胸元に爪を立てると、一瞬の疼痛に眉をしかめたトバリの首筋に顔を寄せる。作り物めいて小さい耳に口づけて、大蛇丸は笑った。

「……全部、二人の秘密にしましょうね」
 そう囁く声へ従うように、トバリは目を瞑った。
皮張りの空洞
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