「しんぱいしてくれて、ありがとう」
 トバリの台詞にイタチはフイと明後日の方角を向いた。
「べつに、そういうことじゃない。すこし、もったいないと思っただけだ」
 一か八かで口にしたのだが、やはり心配してくれていたらしい。イタチの感情を見抜くことが出来て、トバリは一先ず安堵した。まるきり見当違いなことを言ったのでなくて良かった。
 トバリは自分を気遣ってくれたイタチに“必ず忍者になるから、心配することはない”と告げるべく口を開いた。何が気に食わないのか仏頂面のイタチがトバリに視線を戻す。
「そうか」トバリは、鉛筆を持つ手が汗ばんでいるのに気付いた。「でも、わたしはかならず」

 でも、わたしは、この里に生きる人は、


 この里の人間はみんな、むき出しの心臓を外気に晒して平気な顔で生きている。
 センテイもヒルゼンもアスマも、今日出会った人々も、いつトバリの眼前から消え去ってしまうかも分からない可哀想な人たちだ。“里組織”が成立して以来、忍一族の規範や、それがもたらす忍独自の倫理観は過去の遺物と成り果て、里民全体の意識は隠れ里の外の――人を殺したこともない人々の倫理観に染まってしまった。忍一族の人間は人を殺すことでしか生きていけないのに。
 果たして、トバリに屈託なく笑いかける子どもたちの何人が忍者になるだろうか。
 この里を存続させるために、この里に産まれたばかりに、彼らはその生涯に置いて自分の感情の置きどころに懊悩し続けるだろう。家族を慈しみ、仲間を信頼し、その一方で他人の命を踏みにじる。そうした生き方は獣と変わらない。揶揄でも、皮肉でもなく、この里に産まれた忍者は生きるために獲物を捕食する獣と対等の存在だ。“木ノ葉隠れの里が自分たちの故郷であり、優先するべき正義だ”という帰属意識で縛りつけても、人間の情緒は獣よりずっと複雑だ。
 人間は容易に割り切れない。家族を慈しむ。仲間を信頼する。無事を祈る。自分にとって大切な人間が、一分一秒でも永く生きることを願う。自分が殺した相手も、誰かの家族であり、仲間であり、その無事と幸福を祝福されていた人間だと気づいてしまう。
 自分の手が血で汚れているように感じたら、忍としてやっていけない。でも、こんな“ふつうの倫理観”が根付いた環境に暮らしていて、如何して自分の感情を殺せるのか。
 育つにつれて形をひそめたはずの激情は、タガが外れた途端にどうしようもない痛苦と共にその身を焼くだろう。幼いころは感情を表に出すことで発散していた悲嘆は、理性の鎧の内で膨れ上がる。そうした懊悩を乗り越えて、何人の子どもが一人前の忍として大成するだろう。

 この里に生きる人間の殆どに忍者の適性はない。
 それは柱間のせいでも、歴代火影の何れにも責任はない。所謂時勢というものだ。トバリは、この里に氾濫する“ふつうの倫理観”を転覆させたいわけではない。ただ、トバリは、
 わたしは、わたしはかならず、トバリの思考が白濁する。視界が薄ら緑がかって、水流と、それが産み出す波と泡だけが耳朶を霞めていく。循環器の産み出す振動がトバリの休眠を妨げる。
 トバリと普通の世界を隔てる透明な壁、ガラス製の檻に  が触れる。唇が動いた。

 きみが踏みにじられても誰も傷つかないから、一人でも多くの業を背負って死ね。

 頭蓋の内側でこだまする  の声を、トバリは無感情に心中で繰り返した。
 考えるべきではない。トバリは思った。思い出しても、何の足しにもならない。トバリは忍者になる。忍者の本分は感情を殺すことにある。ただあんまりに感情が薄いと里の仲間として受け入れられないから、最低限の信頼を得るために努力する必要がある。それだけのことだ。
 自分がするべきことが分かっているのに、己を顧みる必要などない。

「わたしはかならず、この里のために死ななければ」
 トバリはじいっとイタチの目を覗き込んだ。漆黒の瞳の奥には、脆い素顔が見える。
 この子どもも、トバリとはちがう。ただ死ぬためだけに産まれてきた子どもは、トバリ一人。
 トバリは独りだ。それが“正しい”ことで、トバリは“そうあるべき”なのだと思う。

 気圧された風に一歩身を引いたイタチが、さっと顔を背けた。
 目にゴミでも入ったのか、右手で目元を押さえる。修行の邪魔にならないようこまめに切りそろえられた爪が額に食い込んだ。尋常ならざる様子に、トバリはイタチに手を伸ばした。
「きみ、」
 バチン。激しい破裂音があたり一帯に響き渡った。
 イタチの手が振り上げられたときのまま、固まっている。イタチの横顔が決まり悪そうに、きつく唇を噛んでいた。それで、ようやっと伸ばした手が払いのけられたことに気付く。
 トバリはビリビリと痺れている手を胸元に引き寄せた。思い切り叩かれたようで、手の甲が真っ赤になっている。遅れてやってきた痛みに、トバリは手の甲を撫でた。
「……わるかった。なんでもない。立ちくらみがしただけだ」
 まるで“悪い”とは思ってなさそうではあったものの、ついさっきの苛烈な拒絶と対照的に、イタチの表情は落ち着いていた。まあ、長時間に渡ってクナイの修練を積んでいれば立ちくらみもするだろう。トバリはイタチの変貌を気にするでもなく、頭を振った。
「大したことじゃない」トバリは億劫そうに語尾を伸ばした。「ひどくないなら、良かった」
 バインダーに落とした視線が、九十一人めの空白欄をなぞる。うちはイタチ。年齢は四歳。アカデミーへの入学は、間違いなく希望しているだろう。あと一つ、聞くだけで良い。帰ろう。
 トバリは頭部に疼痛を感じて顔を歪めた。“無駄なことにかまけているからだ”と思いながら、額を押さえる。さっさと家へ帰って、三代目にアンケート結果を渡せば良かった。
 所詮ヒルゼンの気まぐれで頼まれたアンケートだ。ヒルゼンはトバリの意志を最大限に尊重してくれる。例えトバリに社会性が芽生えなかろうと、余程常軌を逸した行いを働かない限りはトバリを里から追い出したりしないだろう。コハルが、ヒルゼン経由でなく、トバリに直接話を持ち掛けて来るのがその証拠だ。ヒルゼンは必ずトバリをアカデミーに入学させてくれる。
 トバリは  の道具だ。里のために死ぬ。そのためだけに産まれてきた人間だ。ふつうの子どもに成りえないトバリには、所詮ヒルゼンの望みを叶えることは出来ない。
 不気味なほど脆弱な生き物が里を埋め尽くすなかで、トバリ一人が“彼ら”の別種なのだ。

 生態系の異なる生き物同士が寄り添って生きていくことは自然の理に適わない。
 故に、鳥獣は異種の獣に近づけば自分の生活が脅かされることを本能的に分かっている。それが野性というものだ。でも、死んでしまった子猫は……あの子猫に欠陥があったわけではない。
 熱を孕んで疼く手の甲に、トバリは自分の気持ちが平たんに凪いでいくのを感じた。
 あの子猫を殺したのはトバリだ。自分より脆弱な命を簡単に左右出来るとも知らず、トバリという別種の生き物が安易に手を伸ばしたのが愚かだった。“欠陥”があるのは、トバリだ。イタチは、それを分かっている。だからトバリの手を払いのけた。トバリは、それを喜ばしく思う。
 トバリにとってイタチの生死も進退も如何でも良いが、この子どもには忍者としての才覚がある。精神的に脆い人間が優秀な忍者になれないわけではない。綱手やヒルゼンが良い例だろう。イタチが精神的に脆いなら、トバリが彼の生き易い環境を保持するよう努めれば良い。

 これ以上、イタチと話す必要はない。
 チカッと頭の中に“トバリがするべきこと”が浮かんだ。

 何事もなかったかのように、トバリはバインダーから顔を上げた。
 トンと鉛筆でアンケート用紙を叩く。その音で、イタチは思索から引き戻されたようだった。
「アンケート、さいごに“しょうらいのゆめ”について」
「おまえはこの里のためだけにうまれてきたのか」
 トバリの台詞を遮るように、イタチが強い口調で問いただしてくる。
 意志の強い瞳が、トバリを射竦めた。その瞳を見た時、トバリがイタチにシンパシーを感じる理由になった“無関心”は、あまりに脆い素顔を守るための“虚勢”に過ぎないことを悟った。
 トバリは口を噤んだ。そうだ。トバリは、  の意志で生かされている道具だ。この里のために生き、そしてこの里のために死ぬことだけがトバリの至上命題だ。その“現実”を告げることで、自分がこれまで出会った誰より、この子どもがその現実に心を傷める気がした。何故だ。
 ついさっき出会ったばかりの他人で、到底トバリに好意を持っている風でもないのに、何をムキになっているのだろう。トバリが何のために生きて、何が理由で死のうと、イタチには無関係だ。
 確かにヒルゼンも綱手も“精神的に脆い”とは言ったものの、出会ったばかりの他人に感情移入して、その進退を気に掛けるほど博愛主義を極めているわけではなかった。
 はっきり言って、この子どもはトバリとは別ベクトルに“ふつうの子ども”ではない。

 トバリは、自分に向けられる期待を裏切ることは出来ない。
 そもそも他人の感情を踏みにじってまで通したい我が存在しないのである。トバリの五感の及ぶ範囲で助けを求めるなら、それに応じてやりたい。トバリの行動次第で運命が左右出来るなら、良い方向へ行けるよう手助けしてやりたい。生きることが苦しいのなら、その気持ちを紛らわしてあげたい。今が幸福なら、その環境を守ってあげたい。それらがトバリの基本理念だった。
 きっとトバリが現実を突きつければ、この子どもは心を傷める。トバリは他人を傷つけるような台詞は極力口にしたくない。しかし、これだけ博愛主義を極めた子どもに通例通りの対応で良いのだろうか。寧ろキッパリと「そうだ。わたしは忍者になるためにうまれてきた。忍者が里のために死ぬのはとうぜんのことで、わたしの替えは山ほどいる」と言ってやるべきなのかもしれない。
 そう覚悟を決めて、トバリは口を開いた。イタチも、トバリの返事を待っている。


「トバリ!」
 里にいるはずのない人間の声が響き渡る。

 ……ようやっと遮られずに喋れるはずだったのに、またしても邪魔が入った。
 トバリとイタチはほぼ同時に、声の主に振り向いた。聞き間違いかと思ったが、杉木立の向こうから近づいてくる人影は間違いなくアスマその人である。如何いうことだ。つい四日前に「今度は一週間ぐらい帰ってこれないだろな。豪商の坊ちゃんのお守ね〜お前より可愛げあると良んだけど」と死ぬほど嫌そうにしていたではないか。アスマとトバリでは一週間の概念が違うのか。
「……アスマ、どうしてここにいるの」
 盛大な足音と共に駆け寄ってきたアスマが、グシャリとトバリの頭を掴む。
「おまえが生まれて初めて外に行くっつーから、何か問題起こしてんじゃねえかと思ってさ」
 そうじゃない。一週間掛かるはずの任務が何故四日で終わったのか聞いているのだ。
 食って掛かったところで、無駄な労力を使うだけだとは分かっている。乱暴に頭を撫でくり回されながら、トバリは何も言わなかった。アスマは、考えていることが分かりやすい。これだけ晴れ晴れとした笑みを浮かべているということは、想像以上に楽な任務だったに違いない。
 中忍ベストはボロボロだし、脚部もところどころ土で汚れている。それに薄らと鉄の匂いがするので、任務をサボったわけではなさそうだ。里に戻ってきたばかりなのだろう。
 疲れてるだろうに、自分を探して、こんな僻地まで来るほど心配をかけたなら申し訳ない。
 トバリの仏頂面から何か感じ取ったのか、アスマがムッと顔を歪めた。
「お前無駄に頭良いんだから、その、言ったまんま受け取る癖さっさと直せよ」
「ぜんしょする」
 つい先日覚えたばかりの言葉を使うと、アスマは初めて煙草を吸った時より渋い顔をした。尤も、未だにカッコつけ目的以外で吸っているところを見たことがない。
「そういうのは、その舌足らずな声がもうちっと引き締まってから使え」
 アスマはフンと鼻を鳴らした。

「で、こいつは友達一号か?」
 アスマは煙草よりずっと口に苦い妹分をからかうのに飽きたのか、傍らで茫然としているイタチに視線をやった。目と目があった瞬間、イタチの体がピクリと跳ねる。
 恐らく、アスマが次に何をするか本能的に察知したのだろう。トバリの時と同様に躊躇なく伸ばされた手をよけて、イタチは半歩後退した。叩き落としこそしなかったものの、可愛げがあるとは言い難い様子にアスマは目を細めてニヤニヤ笑った。“面白い”と言いたげな顔をしていた。
「友達だろ。気難しそーな仏頂面と陰気そうな雰囲気がそっくりだぞ、お前ら。よし、友達だな」
 アスマは二人の返事も待たずに話を進めていく。トバリは困惑した。恐らく寝不足で、気分がハイになっているのだろう。トバリは無言でアスマの目の下のクマを見つめた。
 近接戦を得手とするアスマは護衛任務を託されることが多い。必然的に徹夜には慣れているはずで、眠たげな表情を見た事もなかった。余程疲れるような任務だったのだろう。
 護衛任務では護衛対象の安全のため、夜も交代で見張りに就く。尤も余程逼迫した状況に置かれない限り仮眠は取れるはずだが――アスマの隊はくノ一二人と、女性比が高い。
 アスマのことだから、自分より女子の休息を優先させているだろうことは想像に容易かった。
 アスマのそうした“フェミニスト精神”は歓迎されることもあるし、敬遠されることもある。同じ隊の夕日紅は“同じ任務に就いた以上男も女もない”と考えているのか、アスマと衝突を繰り返しているらしい。“らしい”というのはアスマからの伝聞だからだ。
 トバリ相手にボソボソっとした愚痴をこぼした後で、その決まり悪さを誤魔化すように陽気さを見せるのは猿飛親子の共通点だった。ヒルゼンは兎も角、アスマの愚痴は話半分に受け取る癖がついているので、実際のところアスマと紅が如何いう関係なのかは分からない。しかし仮にも長い付き合いにある女友達を「あの内面男女」と愚痴るのはフェミニスト精神に反さないのだろうか。

 アスマはイタチに向き直ると、イタチの足の先からつむじまで無遠慮な視線で嘗め回した。
「お前、名前は?」
 ぶっきら棒な口ぶりからして、イタチの“性別”の如何については決着がついたらしい。
 確かに一人称は“オレ”だが、イタチの容姿は男というにはあまりに繊細すぎた。こんな森の奥で修行しているのも、無暗と他人に絡まれないためかもしれない。
 それ故トバリは“もしかすると女児かもしれない”という考えを捨てきれずにいたのだが、アスマの対応を見る限り男で間違いなさそうだ。雌雄判定についてはアスマが一番信頼出来る。
「……うちはイタチ」
 僅かに躊躇うような沈黙を挟んでから、イタチが素っ気なく答えた。
「そーか、そーか。オレは猿飛アスマ」
 アスマは手持ち無沙汰にトバリの頭を揺さぶる。正直勘弁してほしい。
 妹分の気も知らずに、アスマの腕はガクンガクン脳味噌をシェイクしてくる。トバリがされるがままになっていると、イタチが奇異なものでも見たような視線を注いでいるのに気づいた。
 こんな明るい知り合いがいて、何故この子どもは鉄面皮なんだろう。そう言いたげにきょとんとしている。トバリこそ、この子どもにそんな“子どもらしい”顔が出来るとは思わなかった。トバリはきゅっと眉間にしわを作って、アスマの手を払いのけた。やっと解放された。
 人心地つく間もなく、今度は首根っこを掴まれる。何だ。何がしたいんだ。
「こいつ、口数少なくて不愛想で礼儀もなってねーけど、仲良くしてやってくれ」
 今不愉快極まりない顔をしているのは、トバリが生まれ持った性質故のことではない。
「アスマ」アスマの口上がひと段落した隙をついて、トバリは口を開いた。「かれは友だちではない。かれのぜんいから、アンケートにこたえてもらっていただけだ」
「良いんだよ。ガキのうちは顔があったらもう友達だ。善意って言葉も使うな」
 色々と、些か乱暴に過ぎるのではなかろうか。
「それは“げんろんとうせい”ではないの」
「やめろ。それも禁止だ禁止。大体、オレは公的機関じゃねえし」
 なるほど。言論統制とは、公的機関が他人の言動を縛ることか。ひとつ賢くなった。
 納得したと言わんばかりにこっくり頷くトバリに、アスマは「しくったな」と小さく呟く。ヒルゼンより直接的に、そして軽薄な感情から、アスマはトバリに“ふつうの子ども”らしくあって欲しいと望んでいる。その期待を裏切るのには些かの痛痒も感じないから、気楽と言えば気楽だ。
 アスマはトバリから手を離して、バリバリ頭を掻いた。その様子を見上げるトバリも、二人の前で立ち尽くすイタチも子供らしさと無縁の無表情でいる。如何考えても歪な取り合わせなのに、アスマは平然と“いつも通り”だった。そういうところは、アスマの美点だと思う。

「アスマ、そろそろ森を出よう。もんげんにまにあわない」
 トバリは、自分の大人びた言い草に対して不平不満を漏らすアスマの袖を引いた。
 ああ、うん。気だるげに相槌を打つアスマから顔を背けて、棒立ちになっているイタチを見る。
 散々「早く終わらせてくれ」とか色々言っていただけに、突然の闖入者に時間を拘束されるのにもそろそろ不満の色を浮かべているのではないかと思ったが、トバリと違って幼い頃から長幼の序を教え込まれているらしい。イタチは出会い頭の虚勢を被りなおして、澄まし顔をしていた。
 アンケートを始まる前と同じだ。イタチの漆黒の瞳には何の感情も見受けられない。
 吸い込まれそうなほど澄んだ瞳を前にして、トバリは懲りずにイタチについて考えそうになった。トバリは渋い顔で、イタチから目を逸らした。その僅かな表情の変化、些細な挙動を注視して、イタチも何事か考え込んでいる。良くないことだと、トバリは思った。
 これ以上、イタチと話す必要はない。もうアンケートも如何でも良い。まだ出会ってから十数分経ったか如何かの短い付き合いではあるが、この子どもはトバリの対極に位置する存在のような気さえ――出会ってからじゅうすうふん――恐らく、十六時半は越えている。
 ピキリとトバリが固まった。走って帰って、五時に着くか如何か……多分無理だ。必ず五時までに帰ってくるよう言われていたのに、何故こんなところまで来てしまったのだろう。トバリは悶々とした後悔で重たい頭を手で支えながら、イタチに絡んでいるアスマを急かそうとした。
 アスマ、かえろう。わたしは五時までにかえらなければならない。
 そう口を開きかけた瞬間、耳に心地よいアルトが日暮れを切り裂いてアスマの名を呼んだ。
「アスマ、ちょっと! 何油売ってるのよ!」

「んげ」
「依頼を断られたのはあんたのせいなんだから、自分で始末書書いてよね」
 凄まじい勢いで距離を詰めてくる人影は華奢で、風になびく豊かな黒髪が美しい。
 みるみるうちに近づいてくる少女に、アスマは露骨に顔を引きつらせた。咄嗟に逃げようと下肢に力をこめるが、子どもの前で女相手に逃げるのはアスマの矜持が許さなかったのだろう。
「お前の男あしらいが上手ければ避けられただろーが。同じ隊の仲間同士、連帯責任だ。連帯責任」アスマは動揺をしまい込んで、声を張った。「オレよりお前のが文才ある。頼んだぞ」
 イタチとトバリは、アスマと、怒り心頭といった調子の少女とを見比べる。
 気安い言葉選びと話の内容から、アスマと同じ小隊の仲間だろうことは想像に難くない。この少女が噂の“夕日紅”だと、トバリは確信した。如何にも勝気そうな声音と、大抵の女子には押せ押せのアスマが後手に回っているのが、その証拠だ。そうか、アスマはこういうのが好みか。
「文才の問題じゃない。里の信用問題に関わるヘマを仕出かして、反省の気持ちはないの?」
 正しく飛ぶ勢いでやってきた紅はアスマの胸元に人差し指を突きつけると、ズケズケとした物言いでアスマを追い詰めていく。始めこそアスマはイタチとトバリの手前「あー」とか「いやー」なんて当たり障りない相槌を打っていたが、ギャラリーがあることなどお構いなしに捲し立てる紅に嫌気が差したのか露骨に顔をしかめた。アスマの雰囲気が変わったのに、紅が怯んだ。
「……兎に角、ガキの前でする話じゃねえだろ。こっち来いよ」
 アスマに腕を引かれて、紅は「う、うん」と気圧された風に頷いた。
 痴話喧嘩は結構だが、トバリの帰宅時間は如何なってしまうのか。勝手に帰ってしまおうか。ヒタと音もなく後退したところで、アスマが首だけで振り返った。
「こんな遅くに一人で帰ると親父がうるさいだろ。すぐ終わらすから、待ってろ」
 テキトーに誤魔化してやるよ。紅の腕を掴んでないほうの手を挙げて、ヒラリと振る。
 さり気なく付け足された台詞に、トバリはホッとした。アスマから「帰宅が遅くなったのは、トバリが外で社会性の無さを露呈していたからではない」と取り成して貰えるならそれに越したことはない。トバリが帰ってこないことに「外で何か仕出かしているのでは」と不安がらせてしまうのは心底申し訳ないが、アスマの言葉を聞けばヒルゼンも杞憂だったと考えを改めてくれるはずだ。

 十分な距離を置いてから口論を再開させる二人を確かめると、トバリは横目にイタチを見た。
 イタチはアスマの消えた方向を見つめたまま、大人びた横顔を晒している。
 トバリと違って、イタチにはアスマを待つ必要もないだろうに、帰り支度を整える様子もない。年長者に別れの挨拶もせずに帰るのがマナー違反かどうかは、まだ習っていなかった。こういう時、一般家庭で育った子どもは年長者から別れを告げられるまで待つのかもしれない。
 沈黙を気づまりと感じたこともないトバリは、バインダーのクリップに留めてあるアンケ―ト用紙を捲った。誤字がないか確かめるために俯いた瞬間、イタチがトバリに手を伸ばした。
 無視をするなと言わんばかりに、イタチの手がバインダーを押し下げる。トバリが顔をあげると、イタチは真っ平らになったバインダーに身を乗り出すようにして、口を開いた。
「さっき言いかけてたのは何だ」
 アスマの前での無感情な素振りが嘘のように、凛とした声だった。

 さっきと言われても、いつのことだ。
 イタチに遮られ、アスマに遮られ、紅に遮られ……イタチと出会ってからのもの、自分が言いたいことを最後まで言えた試しがない。おうむ返しに「さっきって」と聞こうとした瞬間、ちょっと前まで茫洋とした無関心に覆われていたイタチの目がキリリと吊り上がった。
「アスマ……さんが来るまえに、何か言いかけてたろう」
 煙に巻くつもりはなかったのだが、イタチはそうは思わなかったらしい。幾分荒っぽい口調で言い捨てると、アスマがいようといなかろうと無表情でいるトバリを睨め付けた。
「おまえはこの里のためだけにうまれてきたのか」
 トバリが返事に窮した台詞を繰り返して、先ほどは口にしなかった言葉を続ける。

「そこに、おまえじしんの気もちや、考えは何一つないのか」

 詰問と言って良い口調を受けて、トバリはゆっくり目を瞑った。下瞼に触れた睫毛が弱い風にそよぐ。ざあっと、突然の風に木々がさざめきたった。ゆっくり目を開いて、イタチを見つめる。

「こわれたら、かえればいい」

 私が踏みにじられても誰も傷つかないから、一人でも多くの業を背負って死ぬべきだ。

 アスマも、イタチも、イズミも、この里に生きる全ての命はいずれ皆死んでしまう。
 どうせ死んでしまう“個”に固執するのは合理的とは言い難い。大切なのは“木ノ葉隠れの里”という器で、その器を満たすためには“命”が必要とされるが、その命に名前は要らない。
 どうせ皆死んでしまう。そして、死ねば何も残らない。トバリはその現実をよく知っている。今日一日覗き見た生垣の外の“普通の暮らし”は仮初の平和の上に成り立っているに過ぎない。トバリは自分の考えを他人に理解して欲しいわけでも、普通の子どもや、普通の価値観で生きる人々を嘲りたいわけでもない。寧ろ、トバリはその盲目がもたらす脆弱な心臓が好きだった。
 でも、その心臓の持ち主に拘るのは愚かなことだ。

 肉体が壊れるから魂が失われるのか、魂が失われたから生命反応が途絶えるのか。
 トバリは「電球を変えるように、命も取り替えられたら、どんなにか楽だろう」と思うことがある。庭木の剪定と同じだ。考えなしに他人の生き死にを放っておくと、この里が滅ぶ。
 人間は植物や獣よりずっと繊細で、どの苗木が何色の花を付けるのかは咲いてみないと分からない。花も、人の命も、一度摘み取られてしまえば無価値なものになる。それは勿体ないことだ。
 他人の生き死にに心を囚われて、感傷に耽る人間はどの花よりも美しい。
 その美しさで“木ノ葉隠れの里”という器が満たされるなら、誰が死のうと如何でも良かった。
 “死ね”と、頭蓋にこだまする。チカチカと、子猫の死骸が、父親の棺に取りすがって泣くセンテイが、ガラスの向こうで憎悪に蹲る  が瞬いては消えていく。
 自分は普通の子どもではないと、トバリは常に思っていた。
 普通に生きることは出来ないと思った。普通に生きてはいけないと、思った。

 だれもわたしがこのせかいにうまれてくることをのぞんではいなかったのになぜいきてるの。

 トバリの唇が微かに動いた。恐々息を吸って、細い吐息を棚引かせる。
 イタチは身じろぎ一つせずにトバリの台詞を待っていた。
「わたしはこの里の道具で、わたしの替えは山ほどいる。忍者というのは、そういうものだ」
 僅かな動揺さえ感じさせない、しっかりした声音がトバリらしくもない感情的な台詞を吐く。

「いったい、わたしの気もちや、わたしが考えたことになんのいみがあるというの」

 言い終えるや、トバリは苦々しげに唇を噛んだ。
 イタチの瞳から逃れるように、アスマと紅が話し込んでいる方向に顔を背けた。
 さっきからこの子どもに振り回されて、無駄な労力を使っている。トバリは特定個人に対して嫌悪感情を抱いたことがない。今だって、別にイタチが疎ましいわけではなかった。でも、この子どもといるとトバリは考えなくて良いことばかり考える羽目になる。時間の無駄だ。
 これ以上イタチと――この話題を掘り下げていると、トバリは更に無駄な労力を使う羽目になる気がする。アスマはまだ戻ってこないのか。もう一人で帰ってしまおうか。
 痺れを切らしたトバリは、バインダーを掴んだままのイタチの手をそっと振り払った。アンケート用紙が抜けないよう注意深く鉛筆をクリップに挟んで、バインダーを胸に抱え込む。
 アスマに見切りをつけたトバリは項垂れた。

「わたしは、」
「オレは、だれよりもすぐれた忍者になる」
 わたしはかえる。きみも、もうかえるといい。
 そう言いかけたトバリの声を遮って、イタチが脈絡なく宣言した。
 一体如何いう流れでの発言だろう。あまりに予想外の台詞が降って来たことで、トバリは咄嗟に顔をあげた。再び重なり合う視線に、イタチは自信に満ちた表情で口を開く。
「オレの夢は、おまえが今口にした“げんじつ”のぜんぶをひていすることだ」

『アンケート、さいごに“しょうらいのゆめ”について』
 よりにもよって、今このタイミングでアンケートに答えるのか。

 本当に、よく分からない子どもだ。
 自分が全て正しいと言わんばかりの口調に、トバリは呆気にとられた。
 この子どもはあまりに博愛主義を極めた結果、一周回って“普通の子ども”よりずっと逞しいのかもしれない。何はともあれ回答してもらったのだから――よく分からないけど――わたしが今口にした“げんじつ”?――分からない。考えるのはやめよう。用紙に書かなければ。トバリは思った。
 理性と裏腹に、トバリの腕はバインダーを抱きしめたまま動かない。

 疾うに日は暮れ、夕焼けの名残で明るい夜空には星が光り始めている。
 残照だけの乏しい光源で、地表には少しずつ夜が積み重なっていた。ただでさえ黒ずくめの二人は木々の影に紛れて、互いの姿が視認し辛い。ぼんやりと、二人の輪郭が夜に溶けていく。
 ザリと、トバリの足元で土が音を立てた。間をおかず、イタチも一歩前に出る。
 トバリとイタチはほんの五十センチばかりの距離を保ったまま、相手の出方を伺っていた。
「きみは、わたしが正しいことをみとめるの」
 トバリはか細い声で念を押した。コクリと静かに喉を鳴らす。
「おまえが口にすることは、正しいと思う」イタチは平然とトバリの口にした“現実”の正当性を認めた。「忍者は自分のかんじょうに左右されるべきじゃない。“忍の心得”にも、そうかいてある」
「なら、わたしが口にした“げんじつ”をひていするというのは、どういうこと」
 言うが早いか、トバリは一歩前に踏み出した。イタチもトバリと同様に、距離を詰める。

 天体の照射さえ阻むほど近づけば、自然と互いの影が視界に掛かる。さきほどよりずっと視界が悪くなったにも関わらず、トバリと同じ漆黒の瞳は、こんなうす暗いなかでさえ闇に同化していない。はっきりとした存在感を主張して、真っ直ぐにトバリを射抜いていた。

「……きみにとっての“忍者”とは、何なの」

 ぱちり。イタチがトバリの問答にあどけなく目を瞬かせた。
「もうすぐ、弟か妹が出来る。大きくなったら、きっと“忍者になる”と言う」
 夜に慣れてきた視界に、イタチの目元が優しく緩む様が移りこむ。まだ生まれてもいない弟妹について語るイタチは、どことなく誇らしげだった。
「おまえが正しいなら――オレは、今のオレと、お前と同い年になった弟か妹に……おまえの“かんじょう”にはなんのいみもない、おまえの替えは山ほどいると言うべきなんだろう。
 そんなのはいやだ。おまえが“忍者は道具だ”と言うなら、オレは別のこたえを探し出す
 黒い瞳に憎悪にも似た激情が宿って、瞳越しに彼の感情を覗き込んでいたトバリを貫いた。
 瞳の奥にある濃い憎しみと憐憫がトバリの喉を詰まらせる。触れるだけで皮膚を蝕む、炎さえ生ぬるい感情の迸り。イタチの漆黒の瞳のなかに、煌々と燃え上がる劫火を見た気がした。

「オレはかならず、おまえの“げんじつ”をひていする」
 イタチ自身、その激情を持て余しているのだろうことがよく分かる苦し気な声だった。

 忍者とは、何なのだろう。
 人を殺し仲間を失い、過酷な任務に振り回されてまで、何故この里は忍者のために在るのか。
 トバリは“誰か”に「忍者になりたい」と言われた自分の姿を思い浮かべようとした。誰かに「忍者になりたい」と言われたら――屈託のない笑顔で――自分にも、イタチが何を言っているか分かるのだろうか。ひたすらに純粋に“忍者”に焦がれる子どもが傍にいたら……でも、黒で塗りつぶされた心中は誰の像も結ばなかった。果てしなく平たんで、真っ暗に凪いでいる。
 イタチには、“自分を導いて欲しい”と伸ばされる腕がある。トバリには、何もない。誰もいない。それで良い。トバリは忍者になるために産まれてきた。忍者として、この里に全てを捧げるために存在する道具だ。幾らでも替えがきいて、天涯孤独だから、トバリが死んだところで他人の感情を壊すことはない。だから死ね、忍者の適性が死ねあるだろうと思っていた。死ね。
 少なくとも、  はそうした考えだったのだと思う。

『そこに、おまえじしんの気もちや、考えは何一つないのか』
 そうだ。トバリはこの世界に産まれてきてはいけない存在だった。
 トバリが自分を“普通の子どもではない”と思うのは、その“現実”を覚えているからだ。現実――自分が人間の胎で育ったわけでもなく、生みの親さえその生まれを祝福しなかったことを。


『きみが踏みにじられても誰も傷つかないから、一人でも多くの業を背負って死ね』
 あれは、父親の声だった。

「……また、ここに来るか」
 長々とした沈黙のあとで、イタチが躊躇いがちに呟いた。
 トバリは疲弊感で気怠い額を押さえて、ぼうっとイタチを見返した。考えるまでもなく、父親はそれを許さないだろう。父親がトバリを生かしたのは、トバリがこの世界に産まれてきた罪を贖わせるためだ。普通の子どものように、無邪気に自分の将来について夢見るためではない。
 トバリは頭を振ろうとした。思考に靄が掛かる。トバリは、自分に向けられる期待を裏切ることは出来ない。この子どもが自分に関心を持っているなら、トバリにはそれに応える義務があるのではなかろうか。今日、ヒルゼンの望み通り外に出てきたように。
 逡巡の最中に、考え事で重たい頭がグラリと傾いた。

「そうか」
 こっくりと頷いたトバリに、イタチは満更でもない風に口元を綻ばせる。

 その綺麗な微笑みを目にして、トバリが自分が何をしたか気付いた。
 ボンヤリしていたせいで、うっかり肯定の返事をしてしまった。イタチの微笑を前に今更「すまない。今のはまちがいだ、少しかんがえさせてくれ」と言うのは、中々に難しい。トバリはぱくと口を開けるだけ開けてみたものの、深呼吸を終えるなり何事もなかったかのように閉じた。
 この子どもと会ったところで何ら得るものはないだろうに、もっと気を強く持っているべきだった。トバリは今更にクリアになった思考をフル回転されて、悔悟の念に浸る。
「おーい、トバリ。話ついたぞ。オレはトバリを家までけん引する、そして紅が始末書だ」
二人でトバリを家まで送り届けたら、私があなたを私の家までけん引して始末書を書かすのよ」こちらに戻ってくる道すがら、紅がアスマの耳を引っ張った「分かった?」
 十五分弱の痴話喧嘩の勝者は紅らしい。見え透いていたこととはいえ、紅はアスマを言い負かしたことが嬉しいのか勝ち誇った顔で笑っていた。その笑みは、イタチに負けず劣らず美しい。
「わーってるよ」
 アスマは口煩い女友達に心底ゲンナリして、口を尖らせている。
 口を尖らせて不平不満を言いたいのはトバリのほうだ。疾うに門限は過ぎているし、何故だか再会の約束まで取り付けてしまったしで、何もかもが嫌になる。
 鉄面皮の下に疲労と悔悛を忍ばせたまま、トバリはアスマの下へ駆け寄った。

「やっべーな。もう五時半じゃねーか。親父、死んでるかもしんねえ」
「あなたは如何して、そう三代目の心労を増やすのが得意なのよ」
「今日のはお前も悪いだろ。感情任せに喋りやがって、ぱっぱと帰しとけばよかったぜ」
 先ほどの結論は所詮一時休止に過ぎないのか、二人はまだ「あーでもない、こーでもない」とやりあっている。騒々しい二人について歩き出す傍ら、トバリはイタチに振り返った。
 イタチはギャップから出ようともせず、じっとトバリを見つめている。

「なんだ。まだ話し足りなかったのか」
 どこか動揺を含んだ声が遠く、トバリはハッとすぐ傍にいるはずのアスマの姿を探した。
 いつの間にやら、アスマたちとの距離は五メートルほども離れていた。「“あの”お前がなぁ……」慌てて駆けよってくるトバリに、アスマは目を丸くしている。
 アスマの台詞の意図が分からないのか、紅は不思議そうにアスマとトバリの姿を見比べていた。
 どうも、思わぬ足手まといになってしまったらしい。トバリが二人に詫びようと口を開いた瞬間、アスマが「なあ、トバリ」と声を上げた。トバリはきょとんとアスマを見上げる。
「他人とさ……ダチと別れるのが名残惜しい時は、手ぇ振るんだよ」
 アスマは後頭部で両手を組むと、くすぐったそうに笑った。

 これは“名残惜しい”ということなのだろうか。トバリは考えた。
 そもそもイタチとトバリは友人関係を結んだわけではないし、先ほど振り向いたのだって単にイタチはまだ家に帰るつもりがないのか気になっただけなのだが……まあ、アスマがそう言うならそうなのかもしれない。イタチとの邂逅において、何の心残りもないと言えばウソになる。
 トバリは改めてイタチに振り返ると、アスマに教えられるままに片手を挙げて、左右に振ってみた。間髪おかず、イタチも同じように――ちょっとだけ挙げた手を、ぎこちなく振ってくれる。

「なんだお前ら、ほんとに似た者同士だな」
 笑みを堪えきれないといった調子の声音を頭に受けながら、トバリはもう一度手を振ってみた。
業火は眠る
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