「ただいま」
「お帰りなさい」

 とっぷり日が暮れてから帰って来た息子を、ミコトは咎めるでもなく優しく出迎えてくれた。
 トバリと出会った、あのギャップで一人修行をするようになってから、もうすぐ一年になる。始めこそイタチの帰宅時間が遅いと言って心配していた母親だったが、今となっては息子を信頼してくれている。とはいえ、流石に今日ばかりは「遅すぎる」と苦言を呈された。
「修行に夢中になるのも良いけど、明るい内に戻ってきてくれると母さん安心だわ」
「ごめん」
「良いのよ。頼もしいわ」
 ミコトは重たいお腹をさすりながら、踵を返す。

 イタチという幼い子どもを育てる一方、母親は優秀な上忍として度々任務に就いていた。
 元々うちは一族は一族同士の繋がりが強く、一族間の助け合い精神が根付いている。近縁同士で子どもを預け合うのは、ままあることだ。だからこそ、イタチは母親の不在に寂しさを覚えることこそあっても、母親にとって自分の存在が軽いのだと思ったことはなかった。寧ろ両親が共に上忍として、里のために身を粉にして働いているのだという事実はイタチにとって誇らしかった。
 その母親が出産休暇を取って、任務に出なくなってから半年。
 いよいよ臨月が差し迫った母親は、廊下を歩くことさえ辛そうに見える。子どもを産むというのは、任務以上に大変なことなのだとイタチは強く思った。
 同じように大変な思いをして自分を産んでくれたことを思うと、イタチの胸に温かな感情が灯る。かつて父母二人が自分という命を守ってくれたように、自分も母と、未だ産まれていない弟か妹を守るのだ……イタチは、くすぐったいような気持ちで母親に手を差し出した。
「大丈夫? つかれてるんじゃない?」
「そうね。イタチが帰ってくるのを今か今かと待ってたから」茶目っ気たっぷりに笑ってから、イタチの肩を抱く。「でも、一人で大丈夫。さ、父さんも待ってるわよ」

 促されるまま居間へ行くと、食事の支度が整えられつつあるちゃぶ台の前に父親がいた。
 父親の不愛想は、イタチにとって畏怖の対象でもなんでもない。“きっと壮年になった自分もこうなるのだろう”と、血縁を感じるだけだ。尤も、いつでも怒っているように見える父親は、一族の子どもたちから苦手視されている。“うちはせんべい”の店主から産まれたばかりの孫娘と引き合わせられ、「大人しい子で」と紹介された彼女に大泣きされたのは記憶に新しい。
 弟妹が父の顔を見て泣かないと良いのだけれど……というのが、イタチの目下の悩みだった。
 フガクは息子の悩みなど知る由もなく、傍目からは常に怒っているように見える仏頂面で「遅かったな」と呟く。案の定、帰宅時間に言及しようとはしなかった。
 食卓の前で夕刊に目を通す父親は、他人に囲まれている時よりかは大分落ち着いて見える。
「今日も一人で修行してたのか」
 向かいに腰を下ろすと、息子の努力のほどを見極めるかのようにフガクが口を開いた。
「……きょうは」イタチは手元に視線を落とした。「同い年の女子と会って、少しはなした」
 夕刊から顔を上げたフガクが、僅かに目を見開いた。流しの前でまな板を濯いでいた母親も振り向いて、パタパタと食卓に寄って来た。濡れた手をエプロンで拭いて、目を輝かせる。
「まあ、まあ」イタチの傍らに膝をついて、ミコトは少女のように笑った。「珍しい」
 母親から“珍しい、珍しい”と連呼されて、イタチは口を尖らせた。

「だから遅かったのね。一体、何の話をしたの?」
「なんの……」イタチはトバリとのやり取りをざっと振り返ってみた。どれも、ミコトの期待に沿えるものではなさそうだ。「アカデミーへの入学をきぼうするか、とか」
「あら、じゃあ忍一族の子なのね。名前は?」
「千手トバリと名のっていた」
 千手。その苗字を口にした途端、母親の目がぱちりと瞬く。口元に指を滑らせて、眉を寄せた。
「千手の最年少は――勿論忍者登録してる人たちの子ね、トウヤくんだと思ってたけれど」
 やはり忍一族の子どもだったらしい。
 母親が千手の名に反応したことについて、イタチは特に驚かなかった。何せ、自分と同い年にも関わらず土遁の術を軽々使いこなしていたのだ。一般家庭の出であるはずがない。
「あそこは、忍者登録してない人が多いのよね」
 ミコトは同意を求めるように、夫に話を振った。
 それが――母親が奥歯に物が挟まったような口ぶりで父親の顔色を伺う理由は、イタチには分かりかねた。ただ、単なる一家団欒の枠に収めるには含みが多すぎる気がした。
 妻子のやり取りの間中、無関心に夕刊を読んでいた父親が横目にイタチを見る。

「カンヌキ先生の娘さんだ。今は三代目が面倒を見ているらしい」
 ややあってから、フガクが妻に向けて口を開いた。
「ああ、カンヌキさんの。あなたの担当上忍よね」ミコトは合点がいった風に頷く。チラと、躊躇うようにイタチの表情を伺った。「そう……イタチと同い年だったのね」
 重たい口ぶりを訝しむ間もなく、フガクが息子の存在など無視したように言葉を続ける。
「度々自分のチャクラを暴走させていると専らの噂だ。あの一族の人間は殆どが中忍止まりだし、数少ない上忍も特別部隊所属で得意分野以外はサッパリと来た。持て余してるんだろう」
 酷薄な物言いを耳にして、ミコトが困ったように目を伏せた。

「綱手様が里を留守にしてる以上は、今や千手宗家の人間はあの子だけ。それを見て見ぬふりしてるということは、何かしら問題があるということだ。そもそも、千手一族は薄情者の、」
トバリは
 イタチは父親の台詞を遮って、声を荒げた。

 両親が、ほぼ同時にイタチを注視した。
 息子の感情を推し測ろうと冷静な視線をくれる父親は兎も角、母親はどこか腫物に触るような、か弱い視線でイタチの顔の輪郭をなぞってくる。イタチのうなじが、僅かに朱に染まった。
 父親の台詞を遮った罪悪感か、はたまた母親の狼狽が伝わってくるからか、イタチは尻のあたりにむず痒いものを感じていた。しかし、口にしてしまったものは仕方がない。
 いつもなら「大人同士の会話を邪魔するとは何事か」と叱責してくる父親は、息子の台詞を待っている。平然と構えている父親に、イタチは“わざと自分の感情を煽ったのだ”と察した。
「……トバリは土遁を使って、オレをたすけてくれた。自分のいしで忍術をつかえるのだと思う」
 間違ったことは何一つ言っていないはずなのに、イタチはたどたどしい言葉遣いで絞り出した。
 幸いなことに、その台詞で母親はホッとしたようだった。
「じゃあ、凄く優秀な子なのね。お礼は言った?」
 イタチはちょっと考えてから、こっくり頷いた。一応、礼は言った。
「イタチのクナイ捌きも四歳とは思えないほどだもの、きっと優秀な子同士で気が合うのよ」
 ミコトは夫に振り向くと、取り成すような声音で話しかけた。
 母親は、特別千手一族に思うところがあるわけではない。イタチはそう思った。イタチに友達が出来たのを単純に喜んでいるだけ――しかし、アスマほど屈託なく歓迎しているわけではない。

 イタチは、トバリの仏頂面を思い返してみた。
 三代目が世話をしているということは両親共に亡いのだろうが、隠れ里において孤児は珍しくない。名のある忍一族の子どもなら、金銭的にも不自由はないはずだ。例え父母が死んだ寂しさがあるといっても、アスマのように明るい男が傍にいて、ああまで思いつめるものなのだろうか?

『わたしはかならず、この里のために死ななければ』
 トバリの目はあの日戦場で目にした屍たちと同じ、深い苦悶に満ちていた。

 イタチはそっと、閉じた右目に触れてみた。
 トバリの目を見た途端に覚えた疼痛は既に消え去っていて、今はもう瞼越しに白熱灯の白々とした明かりを感じるだけだった。単に修行で疲れていたのかもしれない。
 トバリの手の赤みを思い出して、イタチはすまなく思った。今度会ったら、改めて謝ろう。
 尤も、トバリがまた自分に会いに来てくれるかは分からなかった。あの時は有無を言わさず“肯定”と決めつけてしまったが、明確な意思を持って頷いた風ではなかったからだ。
 何なら自分から会いに行けばいいのかもしれないが、如何にも押しつけがましい気がしたし、父母にトバリの家の所在を聞いたところでおいそれと教えて貰えなさそうだと思った。

「大体、昔からうちはと千手は相性が悪いと決まってる」
「でもアカルさんのところの息子さんは、千手の子と仲が良いんでしょう」
 当人を置き去りに“ああでもない、こうでもない”と話し合う両親は、一体トバリの何が気に食わないのだろう? トバリと会ったこともないくせ、家名と噂話だけでトバリの一体何が分かるというのか――黙って、フガクとミコトの話を聞いていたイタチは段々苛々してきた。
 勿論イタチだって、トバリの人となりなぞ分からない。でも、彼女と話すのは自分にとってプラスになると思っていた。トバリは、オレが変えるべき“現実”を知っている。
 トバリの口にする何もかもが、イタチの感情を震わせた。それは怒りであり、嫌悪といったもので、トバリと過ごしたのはごく短い時間だったが、その間イタチはただの一度も好意的な感情を覚えなかった。トバリの台詞を聞くに従って、イタチはひたすらに“変えなければ”と思った。
 父に連れられていった先、土砂降りの雨のなかで“世の不条理”を前にした時と同じ感情がイタチの胸を打った。あの怒りを忘れてはいけないと、イタチはそう思う――弟妹のためにも。
 イタチは母親の腹を見た。やがて産まれてくる弟妹には、あの地獄を見せたくない。
 

「もう会わないほうがいいのかな」
 いい加減父母のやり取りにまどろっこしさを感じたイタチは、ズバリ聞いてみた。
 息子の歯に衣着せぬ言い様に、ミコトがぎょっとする。
 ミコトはイタチの真意を問いただそうとするでもなく、はたまた不貞腐れた風にも聞こえる息子の台詞を窘めようともしなかった。ただ我の強い夫と息子に挟まれて、頼りなげに夫の反応を待っている。こういう時、母は常に父の意向に従う。仲睦まじい両親はイタチにとって誇らしいものの一つではあったが、仮にも上忍を務める母の気の弱さは見ていてもどかしい。
 夫婦とは――男女間の決定権は、必ずしも“男”に委ねられるものなのだろうか?
 もしそうなら、男女の付き合いとは何て詰まらないものだろうと思う。男女共に向き不向きを補い合って暮らしているのだから、互いに尊重し合うべきではなかろうか。子どもの自分には推し測りきれないものがあるといっても、母は必要以上に父に対して卑屈なようで釈然としない。

 父親はガサッと音を立てて、新聞を捲った。
「おまえの好きにしろ。何事も、おまえは決めつけられるのを嫌うからな」
 まるで、屁理屈を相手にしているような諦観だ。そもそも親に反抗的な態度を取った自分が悪いとはいえ、こういう一方的な論調で締めくくられるとモヤモヤする。
 一方的とはいっても、フガクの言うことは正しい。だからこそ、余計心が晴れないのだった。
 イタチは他人に決めつけられるのが嫌いだ。イタチのなかにはうちは一族に産まれた誇りと、うちは一族という枠に――血に縛られたくないという気持ちとが同時に存在している。その相反する感情から生まれた疑問が、フガクの耳には“屁理屈”や“我儘”として聞こえるのだろう。


 フガクは、まだ幼さが残って丸っこい息子の顔に不満の色があるのを見咎めた。
 イタチは未だ四歳。外で会う、息子と同年代の子らには論理だった思考が出来ない子も少なくない。幾ら忍一族の子どもは精神的に早熟といっても、イタチの聡さは群を抜いている。
 だからこそフガクはイタチの成長に強く期待していたし、それと同時に“しっかり躾けなければならない”と焦燥感を抱くこともあった。特に、今日見せたような“屁理屈”や“我儘”は、“まだ四歳の子どもなのだから”という寛容な態度で受け流してはならないように思っていた。
 イタチの口にする言葉からは「叱られて嫌だった」とか「自分の希望を叶えて欲しい」等、子供らしい単純な欲得が見えない。一見して素直に見える息子は、何が理由なのか時折癇の強さを覗かせることがある。息子の性根が心優しいものだとは、フガクも知っている。母親が部屋の中に迷い込んだ蛾に狼狽えるなか、その鱗粉が剥がれないよう、そっと窓の外へ追い立ててやるような優しい子供だ。それだけに、何が理由で癇の虫を見せるのか不思議だった。
 どの道、茫洋としたところのある息子には、自分が何のために産まれたのかよくよく教え込む必要がある。忍者とは困難に耐え忍ぶ者。里のために、そして一族のために身を粉にして尽くすのだと理解して欲しいのだが――フガクは眉間を揉んで、深いため息を漏らした。

「どうせオレが『会うな』と言ったところでお前は従わないだろう。ただ、よく覚えておけ。
 あの一族の人間は個よりも和を重んじる。綺麗ごとで仲間を切り捨てられる連中だ」


 父が子どもの情操教育に考慮しないのはいつものことだ。
 子どもに対して容赦のない夫の言動を、ミコトは息を潜めて受け流している。母親は、夫の教育方針に逆らわない。一年前、イタチが戦場に引っ張り出された時は流石に不服そうだったが、フガクが「この子は聡いところがある。大丈夫だ」と強い口調で言うと押し黙ってしまった。
 それに父親が自分を子ども扱いせず、多くのことを教えてくれるのは有難い面もある。少なくとも、耳障りの良い言葉で煙に巻くことがままある母親よりかは、父親の言は信頼出来た。
 イタチは父の不愛想を見つめて、自分の感情を飲み込んだ。
「……はい、父さん」
 息子の従順な返事を聞くと、フガクは“これで話は終わりだ”とばかりに夕刊を畳んだ。

「アカデミーに入学すれば、男の子の友達も出来るわよ」
 母親の頓珍漢な慰めを受けて、イタチは気のない相槌を打った。
 イタチは、トバリと友達になったと発言した覚えはない。それを、勝手に友達認定したのは両親だ。更には、単なる“噂”を理由に“息子の友達として相応しくない”と判断して、当の本人である自分には“男の子の友達のほうが良い”と誤魔化す始末……イタチはじっとり考え込んだ。
 別に、アスマのように屈託なく喜んで欲しいわけではなかった。ただ厳しくも優しい父と、大らかで愛情深い母が、自分の目で見もせずに物事を判断しようとしているのが――千手の家名と悪意染みた噂話を根拠にトバリの人となりを悪い方向に纏め上げようとするのが、嫌だった。
 アスマとトバリはイタチがうちは一族の人間と知っても、何も言わなかったのに。
 そこまで考えて、イタチは自分のなかに湧いた感情に蓋をした。両親は、イタチが心配なのだ。ただでさえ遅くまで帰ってこない息子が、危ない目に合わないか心配するあまり極端に思いつめてしまっているだけだ。きっとトバリ本人を前にしたら、トバリ自身の資質を見てくれる。
 別に、両親にトバリを良く思って貰いたいわけではなかった。単に“敬愛する父母が赤の他人にとっても尊敬に値する人間であってほしい”のだと思う。そう自覚すると、イタチはホッとした。
 イタチはフガクを尊敬しているし、ミコトのことを芯から慕っている。それで良い。時折湧き上がる感情は気の迷い……気のせいだ。イタチはそう自分に言い聞かせた。


「さ、ご飯にしましょ」
 屈託のない笑みと共に食事を運んでくる母親に、イタチは立ち上がった。
 三人分の取り皿と箸を手に戻ってくる息子に、フガクとミコトは互いに顔を合わせて胸を撫でおろした。戦争が終わった今、自分たちに何の問題もないのがただ喜ばしかったのである。

 あと二月もすれば、新しい家族が増える。一家は幸せの絶頂にいた。
不自由の巣
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