スラリと伸びた樹幹の上層に細々とした枝葉が固まっている。
 昼日中でもヒンヤリと薄暗い杉木立にも、斜陽の気配が漂っていた。ふと視線を脇にずらすと非等間隔に並ぶ樹幹越しに雨隠れの里と火の国の境界線上に横たわる南西山脈が見える。
 たたなづく山々は夕日を間近に、ほの淡い夜気を羽織っていた。じき、夜が里を包むだろう。

 忙しく下肢を動かしながら、トバリはあたりの景色から凡その現在時刻を把握しようとした。恐らく、十六時過ぎだろうが――木の影の角度からある程度の目算はつくとはいえ、分数までは分からない――トバリは厭わし気に目を眇めた。たかが街区の散策、至る所に時計はあるだろうと過信した己に気疎さを感じる。時計を持ってこなかったのはつくづく失策だった。
 訓練場を出た時は五分も掛からないと思った“人探し”は、思った以上に難航していた。あと三分ほどあたりを探してみて、駄目なら帰路についたほうが良さそうだと見切りをつける。
 訓練場から屋敷までは丁度半刻、街区の外に出てからの距離も足すと四十分はかかるだろう。やはり余計な事など考えず、真っ直ぐ家へ帰るべきだったのかもしれない。
 悶々と自分の浅慮を悔いるトバリを置き去りに、刻一刻と時が過ぎていく。明度の低い景色を早送りで視界の端に追いやりながら、トバリは南賀ノ川下流へと急いだ。
 鬱蒼と陽光を遮る木立のなかにいてさえまだ明るいのに、一足先に夜の帳が落ちたかのように物寂しい。川向うのうちは一族の居住区画から聞こえてくる喧噪が森のしじまを際立たせた。

 祖父の地図に寄れば、このまま百メートルほど直進した先に南賀ノ神社があるはずだった。
 神社のある一画はうちは一族によって管理され、神社の敷地外も大分拓けている。恐らく、そのあたりにいるのだろう――そう見当をつけていたのだが、もっと離れてそうだ。目印らしい目印もないまま、トバリは自分の耳を頼りに足場の悪い森のなかを走っていた。

 と、その駆走が南賀ノ神社周辺に至ったところで、不意にトバリは林道に出た。
 舗装こそされていないものの、雑草一つなく固く均された地面からは未だ参拝に訪れる人間が少なくないことが伺える。禽獣の鳴き声も乏しい。考えてみれば、歴史的建造物がある土地に人道があるのは当然のことだ。どうも、トバリは非効率にも、道なき道を無理に通って来たらしかった。
 うちは一族が独自に作った道なら、外部の人間であるところの祖父が知る由もない。そして、祖父が知りえないことを、アスマ曰く“引きこもり”であるトバリが知っていようはずがなかった。

 トバリは街区へと続く道程と、先日記憶した里の地図とを照らし合わせてみた。うちは一族の居住区画中ほどに繋がってそうだ。この道を辿れば、来たときよりかは早く街区に戻れるだろう。
 帰宅までの所要時間を計算しなおすと、トバリは目を瞑って、耳に全神経を集中させた。時間に気を取られているからか、つい先刻まで耳朶を掠めていた投擲音の位置が掴めない。
 探し人は訓練の合間に度々休憩を挟んでいるようで、二十ばかりの纏まった投擲音のあとに長居沈黙を置く。思ったより早く戻れそうだとはいえ、これ以上モタついている暇はない。

 一つ二つ三つ……降る雨のように規則的かつ素早い投擲音に混じって、トフと、柔らかく樹幹に刺さる音がした。大方、的を逸れた刀身が見当違いな方向に飛んでいったのに違いない。
 トバリは反射的に左方を見た。精確な方角が分かったわけではなかったものの、左方から聞こえてきたのは確かだ。そこまで分かったところで、トバリは行くべきか、戻るべきか躊躇した。
 そもそも探し人が同年代の子どもである確証もなしに、こんなところまで来てしまったこと自体が馬鹿馬鹿しい。無意識的に俯いた先で、トバリはふと違和感を覚えた。土がむき出しになっている林道と草の生い茂る森との境に何か不自然なものを感じる。身を屈めて、注意深くあたりを観察してみた。何の変哲もない雑草を眺めていると、その一部が不自然に折れているのに気付いた。
 はっと森の奥を伺うと、不等間隔に密集している樹幹の間に赤いものが見える。
 トバリの心中に“折角ここまで来たのだ”という未練が芽生えた。探し人が幾つなのか確かめるだけなら、一分と掛からない。今ここで引き返すのも、確かめるのも同じだ。
 トバリは林道を外れて、再び森のなかに足を踏み入れた。


 先年に枯れ落ちた枝葉は春にぬかるんだ大地に抱かれて、柔らかに腐敗している。
 木ノ葉隠れの里は水源が豊富で、里の外縁を埋める森の土も黒々と水を吸って重たい。春の嵐で落ちた枝葉にさえ気を付けていれば、湿った地面が自然と足音を殺してくれる。
 視界を遮る杉がまばらに減ってくると、トバリはスピードを落とした。

 気配を消して走り続けると、四方を杉に囲まれる形で凹んでいる空き地があった。
 その窪地の十メートル手前で立ち止まる。トバリは緩く傾斜がかった地面に立つ足に力をこめて、周囲を見渡した。森のなかに突如して現れた“空き地”に、人影があった。
 背丈からして、トバリと同年代の子どもだろう。こちらに背を向けているから性別は分からないが、髪も服も黒一色。その背中に背負った、家紋の上部だけが緋に染められている。
 飾り気のない服装からして、女児ではなさそうだ。

 森はまだ深く、今トバリがいる場所は人力で管理されてきた里山林に過ぎない。
 尤も森とは言え、街区から五十キロメートル圏内の森は人工林だ。元あった陽樹林を建築材のために伐採し、その跡地に杉を植えたらしい。祖父の代に都市計画が落ち着いて以来、外縁部の森林地帯の開発計画が立った記録はなかった。きっと台風か何かで木々が薙ぎ倒された後に出来た“ギャップ”だろう。なるほど、邪魔者もいないし、訓練場代わりに使うには丁度いい広さだ。

 ギャップの中央に立つ男児を取り囲む木々に、幾つもの的が掲げられていた。
 既に投擲を終えたと見えて、何れの的も中心にクナイが刺さっている。投擲音を聞いていた時から予想はついていたが、トバリは改めて男児のクナイの腕前に感心した。幾つか的から外れて見当違いな場所に行っているものもあるにはあるものの、アカデミー生と比べても遜色ない腕前だった。少なくとも、訓練場にいた子らの誰よりも精確に的を捉えていると思う。
 的の配置は不規則にバラけていて、殆どの的が高所に設置されている。男児の手の届かない場所にあるとはいえ、誰か大人の手を借りて設置したとは思えなかった。吊り紐を幹に留めているクナイの刀身が長い。男児の前方にある的が、二つのクナイの重さで頼りなげに左右に揺れていた。
 男児はぐるりとあたりを見渡して、自分のクナイ捌きの程を確かめた。
 的を逸れたクナイを見つけて気疎げに眉を寄せると、男児は前方にある木の影から梯子を取り出した。道理で投擲音がまばらなわけだ。そう納得すると、そのまま男児の様子を観察する。投擲より回収に時間が掛かるのは、彼が非効率的なやり方を取っているせいではないと思う。幼すぎる体が、年よりずっと成熟した向上心の妨げとなっている――トバリはそんな風に感じた。

 動物なら長くても一年ほどで肉体的に成熟するのに、人間は“大人”になるまでに時間が掛かる。
 人間と動物ではそもそも寿命が違うとはいっても、隠れ里の平均寿命は四十前後と短い。
 勿論、それ故に隠れ里の子どもには精神的に成熟した者が多いことを、トバリも知っていた。代々忍一族の人口ピラミッドは山型であるのが一般的で、若年層が主権を握る傾向にある。
 尤も柱間の手で“里組織”が成立して以来、忍一族の規範や、それがもたらす忍独自の倫理観は過去の遺物と成り果てていた。そのなかには辛うじて“忍の心得”として残されたものもあるが、里民全体の意識は隠れ里の外の、所謂“人道的倫理観”に支配されつつあった。
 長く里を開けている綱手が咎められないどころか、里民から持て囃されるのも、未だ人命軽視の面が残っていた上層部に前線医療の重要さを説いた功績故だろう。トバリも年の離れた“はとこ”のことは好意的に思っているが、彼女に忍者としての適性があるかと問われれば答えに窮する。
 人道的な人物であるということは、他人の痛みや苦しみが分かる人間ということだ。
 他人の感情に敏感な人間は、精神的に脆い。一々他人の痛みや苦しみに同調していたら、とてもじゃないが忍者なんてやっていられない。折角大伯父の尽力で、忍一族の人間は“忍者”以外の道を歩めるようになったのだ。精神的に脆い人間は忍者にならないほうが良いとトバリは思う。
 そうは言っても、今やこの里の人間は精神的に脆い人間ばかりだ。

 トバリも、戦国時代に産まれていれば“普通の子ども”だったのだろうか。
 確かに当時の平均寿命は今より更に短く、人命軽視というより、正しく“他人の命を使い捨ててきた”と言うに相応しい無秩序な世界だったに違いない。祖父も、曾祖父をはじめとする一族の人間を指して「頭が偏見で凝り固まっているばかりか、自分たちが如何に非合理的判断で若年層の命を無駄遣いしているか理解しようともしない阿呆」と書き残している。
 センテイや三代目は「案外情深い人だった」と口にするが、日記を読む限りでは祖父が情深い人間だったとは思い難い。まさに“忍者”らしい――というか、祖父の日記を読むうちにトバリのなかの忍者像が祖父で固定されていったのかもしれない――理性的で感情に乏しい人間だ。
 大伯父が“人道的理由”から里組織を成立させた際も、祖父は単に“従来通りのやり方で一族を存続させても先細りになるだけ”という理由で兄の野望に乗っかったような気配がある。
 淡々と都市計画や内政、外交情勢など、感情的な記述が一切ない日記のなかで、人命の価値に触れた一文はトバリにとってごく印象的だった。その一文だけが浮いているように思ったし、やはり実際にはセンテイたちが言うように情深い人間だったのだとも思った。
 その情深い祖父が己を殺してまで守りたかった“忍一族”とは何だろうと、思うこともある。

 忍一族とは――その一族を形成する忍者とは、何なのだろう。

 トバリは“忍者とは自分の感情を殺し、里のために生きる道具だ”と思う。
 しかし、この里を作り上げた大伯父は子どもが戦場に駆り出されないことを望んだ。祖父も人命を使い潰すのは愚かだと言う。三代目も、きっと先代たちの思想に追従するだろう。
 この里は忍者のためにある。表向き独立しているとはいえ、この里は火の国の軍事組織だ。当然、長く平和が続くと国の助成金は減額される向きにある。平時の際には忍者は真っ先に不要とされる存在であり、第一次大戦後の十余年で祖父は常に里の経済状況に対する不安を書き綴っていた。忍一族の人間は代々人を殺すことで身を立ててきた。里の経済を回すために忍一族外の一般人や工業施設を誘致してきたとはいえ、この里の主力財源が第三次産業である事実は変わらない。
 この里の経済を回すためには人を殺す必要がある。忍者は、他人が死んでも精神が壊れない人間がなるのが好ましい。だからトバリは“自分には忍者の適性がある”と思う。
 もしかして、この子どもも自分と同じような“やり辛さ”を感じているのではないかと思った。


 男児は自分の短い四肢を疎まし気に梯子を動かすと、すぐそばの樹幹にそれを掛けた。
 クナイを回収し終えたら話しかけよう。トバリがそう沈黙を決め込んでいると、男児の遥か上方に掲げられていた的がフッと脱力した。吊り紐がたわんで、それを留めていたクナイが地に落ちる。男児に声を掛けるタイミングを伺って悶々と考え込んでいたトバリがハッと我に返った。
 男児の体はバランスを崩して、梯子の支柱を掴んでいた右手が空を切る。
 男児が頭上から落下してくる的に気付いたと同時にトバリも手を動かした。“土流城壁の術”の印を組む。素早く指を組み合わせながら、巳の印から戌の印に組み替える際の速度を落とした。
 男児を囲う形で円形にせり上がった土壁の丈が伸びるに従って、円の直径が狭まっていった。
 忍術なぞチャクラコントロールと印の結び方さえ如何にかなれば無事に発動する――といっても、予め定められた速度より速く印を組まなければ正しく発動しない。
 端から印を組む速度が速いトバリは“忍術の発動条件”についてごく冷静に試行錯誤を繰り返していた。トバリはチャクラ量と印を組む速度に緩急を付けることで発動速度・威力・形状にそれが反映されることを悟り、この一週間で己の手足の如く自在に使いこなすようになっていた。
 最終的に、トバリの組んだ印は樹幹と梯子を巻き込んで小型の土洞を発現させた。

 トバリは忍び足で、土洞に近づいた。
 解術した時に、土洞に乗ったままの的が男児の頭に落ちたら元も子もない。とりあえず的を回収しておこうと土洞の天辺に手を伸ばしたのだが、トバリの手は土肌を撫でるだけだった。
 ぴょんと跳ねて目視で確認したところ、天辺は梯子が突き出ているだけで何もない。
 もしかして、土洞のなかに入り込んでしまったのだろうか。どの道、天辺に的がないなら早々に解術したほうが良い――そう一歩後退した足が、何か固いものを踏んだ。振り返り見ると、探し物が足の下にあった。トバリは的を拾い上げて、自分の靴跡を手で払った。
 的は木製の薄い板を黒く塗りつぶしたうえから幾重に円を重ねた、ごく有り触れたものである。その、精々3cmもないだろう横腹にクナイがめり込んでいた。

 男児が梯子を掛けた時、的に刺さっていたクナイは二つ。
 元々刺さっていた二つのクナイは落下の衝撃で外れたのか、的の落下地点から少し離れた場所に転がっている。的の落下を察して咄嗟にクナイを放ったにしろ、真下から投げたクナイを横腹に打ち込めるものではない。いや、そういえば的の落下に反応する直前、男児の右手が動いた。
 単に手が滑ったのだと思って気に留めなかったものの、落下を察知して咄嗟にクナイを放ったのかもしれない。記憶のなかにある男児の手の動きを追うと、左方の木にクナイが刺さっていた。あのクナイにぶつけることで軌道を逸らせば、的の横腹に当てるのも不可能ではない。
 一人納得すると同時に、トバリはこの男児の判断能力の高さに驚いた。
 物にぶつけることで軌道を逸らすなんてこと、思いついたこともなかった。規則的に並べられた的を相手に訓練していれば、当然のことだ。自分の浅はかさにトバリは渋い顔をした。
 トバリは“女”だ。如何足掻いても、力では男に敵わない。それは体術にのみ限ったことでなく、忍刀同士の切り結び、クナイや手裏剣を遠方に投げるための筋力――女が男に勝るには頭を使うか、幻術・忍術を頼る他ない。トバリが忍術修行の時間を多く取るのは、そういう理由があった。
 しかし、まだ第二次性徴もないのに、トバリとこの男児のクナイ捌きには天地ほどの開きがある。この力量差は、明らかにトバリの鍛錬不足、認識の甘さが招いたものだ。
 トバリは手に持ったままの的に薄いため息を落とした。瞬間、土の崩れる音に顔を上げる。
 土壁からは、男児の細い脚が突き出ていた。その下に、土まみれのクナイが落ちている。
 トバリの作る土壁は少なくとも成人男性の体重に耐えうる強度を有している。子どもの蹴り一つで破られるはずがないし、逆に足にチャクラを纏わせて蹴ったならすぐ脱出出来るはずだ。
 この子どもは賢く、咄嗟の判断能力とクナイ捌きに長けている。その一方で、まだチャクラコントールなどといった“忍術”は教わっていないのだろう。テコの原理で土壁を突き破るという方法を選んだことから、男児の力量が知れる。トバリは解術するのも忘れて、男児の行動に注目した。
 足が引っ込んだかと思えば、内側から蹴り上げたのか、穴周辺の脆い部分が突き崩される。

 一人反省会の間、土洞の内部のことはすっかり忘れていた。
 突然土洞のなかに閉じ込められた男児の心境など、トバリに想像出来るはずもない。早々に解術するつもりだったのに――そういえばヒルゼンから「無暗に忍術を使ってはならん」と言われていた気がする。そんなことを考えながら、トバリは男児が自力脱出を試みる様を見守っていた。
 必要以上に既存の印を弄るのが嫌で土洞にしてしまったが、出入り口ぐらい作るべきだった。

 男児は、ざあっと音を立てて崩れ落ちる土壁の向こうで険しい顔をしていた。
 間髪おかずにトバリは男児に両手を広げて見せ、敵意がないことを示した。男児も、土壁の向こうにいたのが同年代の子どもだと知って虚を突かれたらしかった。警戒心のこもった視線が、困惑混じりに空を泳いだ。それが自分以外の“誰か”を探してのものと悟るなり、トバリは口を開く。
「だれもいない。的が落ちて、けがをすると思った」
 事の次第というにはあまりに簡潔すぎる台詞を受けて、男児は一応合点がいったようだった。
 それでも俄かに信用出来ないと思ったのか――忍者の卵として正しい反応だと、トバリは思った――土洞から出るなり、警戒心を露わに大きな動きで周囲を見渡した。二人を囲む杉木立は、男児が土洞に閉じ込められる前と変わらず静まり返って、葉と葉のこすれ合う音さえしない。
 あたりにトバリ以外の人影がないことを自分の目で確かめると、男児は鼻白んだようだった。
「そうか、ありがとう」
 淡々とした声音だった。礼を言う傍ら、足についた土をパンと払う。
「ただ、オレ一人でどうにかできた。次はほうっておいてくれ」
 暗に“有難迷惑だった”と口にして、男児がトバリに手を突き出す。
 トバリが的を差し出すと、男児は無言で受け取った。そのまま無言で横腹に刺さったクナイを抜くと、身を屈めて、地面に落ちているクナイを拾い上げた。汚れを払って、腰に下げたクナイホルダーに仕舞う。一連の動作の間、男児は一言たりとも口を開かなかった。無言で突っ立っているトバリに対して訝し気な視線をくれることもなく、トバリの存在などないが如く自然体だった。

 男児の挙動をまじまじと観察して、トバリは不思議な気持ちになった。
 トバリが関わってきた人間――といっても片手に余る人数だがーーのいずれも、表情豊かな人間だった。いや、ダンゾウやコハルは鉄面皮に近かったか。しかし、家政婦はトバリのことを散々「子どもらしくない」と言うし、アスマもトバリの頬をブニブニ伸ばしながら「かってぇな」と勝手なことを言う。今日会った子どもらも、中には不愛想な子どもはいたものの、まるきり無表情ではなかった。この男児の無表情は本当に何の感情もないかのようにのっぺりしている。
 アスマたちの目には、自分もこう見えているのだろうか。猫が毛づくろいする様子でも見ているかのような心持で、トバリは男児が身繕いするのを熱心に見つめた。
 流石にトバリの不躾な視線が不快になったらしく、無表情だった男児がきゅっと眉を寄せる。
「気がちる。用がないならかえってくれないか」
 そう口にしながら、男児は弱々しい木漏れ日を探るように天を仰いだ。
 未だギャップに残って修行を続けるような言い様ではあったが、彼自身家に帰ろうか迷っているようだった。繁み越しに見える空の色はすっかり薄暮に染まっている。トバリにしろ、これ以上グズグズしていたら門限に間に合わない。男児の要望通り、さっさと退散するのが良いだろう。
 一人思索に耽るトバリに奇異の目を向けるでもなく、男児は静かにトバリの返事を待っていた。

「アンケートにおうじてほしい」
 短い沈黙のあとでトバリが口にしたのは、やはり言葉足らずな台詞だった。
 何故アンケートなのか。帰ってくれと要望を伝えているのに、それに答えることなく新しい話題を持ち出すな。様々に不満が湧いてきただろうに、男児は眉の角度を鋭くさせるだけだった。
 トバリが男児の忍者としての才覚を見抜いたように、男児もトバリのコミュニケーション能力の無さを見抜いたらしかった。トバリは男児に対して“初対面にも関わらず、やりやすい”と感じているが、それは二人の相性というより、男児の理解力と忍耐力が人並み外れて高いからだった。
「三代目にたのまれて、アンケートちょうさをおこなっている」
 男児は半ば呆れた風な面持ちで、“事の次第”を汲み取るためにトバリの台詞に集中する。
 同年代の子どもらしからぬコミュニケーション能力の欠如に加えて、高度な忍術を易々と駆使し、三代目火影との繋がりを持っている――その背景に面倒なものを抱えた人間であるのは想像に容易い。上着の袖口に家紋めいた模様が染め抜かれているあたり、名のある忍一族の嫡子か何かだろう。黙って返事を待つトバリを見つめて、男児は考えた。意図せずして見つめ合う形になる。
 普通に考えて、三代目火影が未就学児に真っ当な依頼をするとは思えない。その“アンケート”とやらは、この子どものコミュニケーション能力向上トレーニングの一貫なのではないか。
「あくようするつもりはない。すぐ終わる」男児の思案など知らぬ顔でトバリが言い添える。「そもそもアンケートにこたえてもらいたくて来ただけだから、終わったらかえる」
 一等はじめに言うべき台詞を今更口にして、トバリは男児の目をじいっと見つめた。
 男児はもの言いたげに口を開いたが、すぐに閉じた。
「……なるべく早くおわらせてくれ」
 渋々と言った調子の男児に、トバリはバインダーのクリップに挟んである鉛筆を手に持った。


「名前は?」
「オレだけにこたえさせるのか」
 ふと、男児が呟いた。トバリは男児の疑問などお構いなしに鉛筆を走らせる。
「オレダケニ……どこまでがみょうじ?」
 トバリが無関心な問いを口にすると、男児は無表情でトバリに手を伸ばした。
 そのままトバリが持っているバインダーを掴むと、ぐっと押し下げる。トバリの手に握られている鉛筆がズルリと紙面を滑り、折角集めたアンケート結果に長い斜線が引かれた。
 男児は憤るでもなく、落ち着き払った顔をしている。思わず“手が出た”というより“このぐらいしなければ伝わらない”という確固たる意志を持って、トバリの作業を阻んだらしかった。
「それはオレの名前じゃない。おまえの名前を聞いたんだ」
 男児はきっぱりと、教育的指導の響きでトバリの誤解を訂正する。
 トバリは、自分と同じくあらゆるものに無関心そうな男児が手を出してきたのが意外だった。思わずフリーズしてしまったのは、アンケート結果に余計な斜線が増えたからではない。しかし男児はそうは思わなかったようで、用紙上の斜線を見咎めると僅かにたじろいだ。
「すまない。きれいにする」
 思いがけず素直な謝罪を口にする男児に、トバリも我に返った。「大したことじゃない。それに、きみの答えを書きこまなくてはならないから」頭を振って、バインダーを男児から遠ざける。早く済ませてほしいのだろう。小首を傾げて確認すると、男児は納得した風に数度頷いた。
 一体今のやり取りの何が疲れたのか、男児は脱力した様子で土洞に寄り掛かった。


「……オレはうちはイタチ。うちはが家名、名はイタチ」
 ついさっき、名前を教えるのを拒んだのが嘘のように丁寧に教えてくれる。
 ほんの一分程度で如何いう心境の変化があったのか、トバリには分からない。単なる親切心と決めつけて、トバリは斜線の上からイタチの名前を書きこんだ。
 一文字一文字丁寧に書くトバリに、イタチはため息を漏らす。
「もう少し、ひとの言うことにちゅういをはらうべきじゃないのか」
 赤子にでも言い聞かせるような叱責を食むと、イタチはその短い腕を組んでそっぽを向いた。腕組みというより、自分で自分を抱きしめているようで、肉体の幼さが強調される。
「はやく終わらせてほしいのではなかったの」
 イタチの名前を書き終えると、トバリはバインダーから顔を上げた。きょとんといった調子で、何度か瞬きする。トバリと似ているような気がしたが、案外我が強いらしい。
 イタチは小さな指を口元に当てて、少し考え込んだ。
 自分が言えた義理ではないが、やけに大人びた仕草の子どもだなとトバリは思った。
 トバリが子どもらしくない言葉を使うのは、言語習得に際してヒルゼンの台詞や祖父の日記を手本にしているからだ。イタチもトバリと同じで、父親か母親の言動を真似ているのだろう。
「オレだけ名のらされるのは、どことなく“そん”な気がする」
 思索を挟んだ割りに、イタチの回答はごく幼稚なものだった。

「あ、そう」
 取るに足らない返事に対して、トバリは無関心の極みとしか思えない相槌を打った。
 損も何も、アンケートとはそういうものだ。……とは言わなかったが、先の相槌一つでイタチは十分に不愉快になったらしい。むっと眉間にしわを作って、睨み付けてくる。
 大人びているのか、年相応なのか。イズミたちとはまた別の意味で、よく分からない子どもだ。
 とはいっても、イタチの言うことも一理ある。幾らそれらしい言葉で体裁を取り繕おうと、これは三代目の思いつきに他ならない。たかがアンケート、ほんの少し時間を取られるためとはいえ、三代目という役職を笠に着て理不尽を強いているのと然程変わりない。
「……じゃあ、わたしもきみと同じ問いにこたえよう。それでいいだろうか」
 互いの妥協点を探っていたトバリは、一先ずの解決策を見つけて問いかけた。
 トバリの一人称を聞いて、イタチが驚いた風に目を瞬かせる。「ああ、うん」横目でトバリの顔を確かめると、イタチは上の空な相槌を打った。「それで良い。すぐ、終わるんだろう」
 大伯父に似ていると称せられるだけあって、トバリは中性的な容姿をしている。そればかりか父親のおさがりを着ているので、よもや女児だと思っていなかったのだろう。まあ、性別などあってなきが如しだ。イタチだって、着るもの次第では女児に見えそうなほど整った顔をしている。

「わたしは千手トバリ。千手が家名、名はトバリ」
 トバリは気を取り直して、バインダーを覗き込んだ。
 名前、年齢、アカデミーへの入学を希望するか、将来の夢――たった四つしかない質問は疾うに暗記している。トバリは、鉛筆の頭についている消しゴムでチマチマと斜線を消した。
 アカデミーへの入学を希望するか否かは、省略して良いだろう。忍者になる気が無ければ、こんなところで修行に励むはずがない。門限には楽々間に合いそうだと、トバリは皮算用を始めた。
「ねんれいは四さい。きみは?」
「何月生まれだ」
 質問に質問で返されてしまった。
「……九月」
 トバリは訝し気に片眉を上げた。早く終わらせてほしいのではなかったか。
 コミュニケーション能力が欠如しているトバリにとって今日一日他人と関わりを持つことは非常に億劫で、年相応に子どもらしい彼らにアンケート回答をお願いするのは心底面倒臭かった。それでも所詮は“子ども”ということか、一度アンケートが始まると「五才」「しょうらいのゆめはねえ、四代目さまみたいなひとの奥さんになること」などと、無邪気かつ素直に答えてくれた。
 アンケート内容に一々口を挟んでくる子どもは、イタチが初めてだ。それでいてアンケートに答えるのが不服なわけでもなさそうだし、トバリと長く話していたいという風でもない。
「じゃあ、アカデミーへの入学じきも同じだ」
 イタチは平然と、そう言い放った。しかし、一向に自分の生まれ月を口にする様子がない。
 トバリはイタチを凝視した。イタチじゃないが、トバリだけ生まれ月を白状させられるのは損な気がする。自分が損だ何だと言い出した癖に、何故自分の生まれ月を口にしないのだ。
 今度はイタチが訝し気に片眉を上げる番だった。
「……どうした」
 トバリは渋い顔で唇を噛んだ。馬鹿馬鹿しいと、思ったのである。
 イタチが何月生まれだろうとトバリには如何でも良いことだ。損だ何だというのはイタチ個人の価値観であり、トバリは自分の生まれ月をイタチに知られたところで一向に困らない。そんな些末な理不尽に執心することのほうが、トバリにとって余程“損”になるはずだった。
 トバリはふーっと息をついて、適当にイタチの疑問をあしらおうとした。
「ああ、まあ。入学できたら、そうだね」


「入学するつもりがないのか?」
 土洞から身を起こしたイタチが、ぎょっと目を見開いた。
 だから、なぜ、さっさとアンケートをおわらせようとしないの。今度こそ、トバリは思い切り顔を歪めた。トバリの不愉快などどこ吹く風で、いや何故かイタチの眉間にもしわが寄っていた。
「わたしの考えというより……」トバリは深々としたため息をついた。なぜ、この子どもはトバリの進退に食いついているのだろう。「なんどか、そういうはなしを聞かされた。わたしは里の外でくらすほうが向いている、アカデミーに入学しないほうが良いのではと」
「おまえは、その通りだと思うのか」
 咎めるような声音で、イタチが睨み付けて来る。土洞に閉じ込めているわけでもないのに。
「いや、まさか。アカデミーに入れなかろうと、わたしはこの里を出る気はない。どのような手を使ってでも忍者になる。いちおう、アカデミーそつでなくとも中忍まではなれるはずだ」
「そうか」イタチはどことなくホッとした風に頷いた。「なら、良いんだ」
 なにが、良いんだ。トバリはじっとイタチの瞳を見つめた。

 イタチの瞳は穏やかに凪いでいて、何の感情もないように見える。
 ほんの数分で相手の人となりを掌握出来るはずもないのは百も承知で、トバリはイタチに対して淡いシンパシーを感じていた。それは目も髪も服も互いに黒ずくめだとか、そういう表面的な理由からくるものではない。自分と同じで、“先”しか見えていないのではないか……と、思った。
 トバリには他人を見る目がないのかもしれない。
 イタチは、たかが他人の進退に関心があるような台詞を口にする。さっさとアンケートを終わらせてほしいと言う反面、トバリが自分の同窓生になるか確かめる。他人の台詞に注意を払わない無関心さを咎める。そうした“やさしさ”は、トバリのなかにはないものだ。

 トバリが自分のまわりを取り巻く人間の平穏を望むのは決して“やさしさ”故ではない。
 精神面において自分より圧倒的に脆弱だから、トバリは“彼ら”に良くしてやらなければならない。今やこの里の人間は精神的に脆い人間ばかりだ。だからトバリは優秀な忍者になり、“彼ら”の脆い心臓が一つでも多く壊れないように尽力する必要がある。それはトバリの“義務”であり、“当然”のことで、アスマやイタチの言動の底にある“やさしさ”とは無縁のものだ。
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