リドルの不興を買って以来、頻繁に梟便が届く。

 放っとくと碌なことにならないと思ったのだろう。二人は最低月に一度は会うようになった。
 幸いにしてと言うべきなのか、秘密の継承者なんちゃらのおかげで人気のない場所は山とある。それにリドルが秘密の通路や隠し部屋に精通していたこともあり、この騒ぎが収まってからも自分達の逢瀬が他人に見つかることはないだろうとジェーンは思った。
 空き教室、五階の大鏡の裏にある秘密の通路、必要の部屋、図書室の奥にある旧・閉架書庫――場所は違えど、することはいつも同じだった。リドルの好きな闇の魔術について教わったり、話を聞いたり、リドルの魔法や彼の作った魔法薬の実験台になったり、そうでなければ自傷を強要される。褒められることも増えたけれど、その分傷も増えた。ポケットから取り出したナイフをぽんと渡され、にこやかなリドルが「指を切ってみて」「太ももに突き立ててみて」「指を切り落としてみて」と気まぐれに言い募る。“二度目”がいつ何時訪れるかわからない状況で、出来ない等とは言えなかった。ジェーンのリドルに対する依存はもう後には引けないところまで来ていた。
 断ればまたごみ箱に戻るだけ、それに比べれば肉体的な痛みはまだ耐えられる。そう言い聞かせて、自分の体に刃を突き立てる。従順でいさえすれば、リドルはとても優しかった。ジェーンの傷を治癒魔法で治してくれて、治しきれないものは手ずから膏薬を塗り、包帯を巻いてくれた。最後には必ず頭を撫でてくれる。「君は賢いね」と、何度も何度も繰り返される台詞。
 ジェーンには自分が賢いかどうかは分からない。真実賢ければ、一人で生きていけるはずだ。ジェーンは一人では生きていけない。リドルを失ったら、生きていけない。そうは思っていてもリドルが「君は賢いね」と言い聞かせるから、ジェーンも「自分は賢いのだ」と思い込むよう努める。私は賢い。リドルを超すどころか、一人で生きていくことも出来ないのに、その賢さに何の意味があるのだろう。でも、そう思い込まなければ、リドルの求めに応じなければ、またいつ彼の機嫌を損ねるか分かったものではない。今や、八割の恐怖心と二割の恋情がジェーンの内訳だった。

 月一の逢瀬が済んでも、リドルからの梟便は殆ど毎日届く。
 一体どのような内容なのだと言えば、時候の挨拶もなく「魔法省の組織形態について調べて、明後日までに送って」と素っ気ない一文が記されているだけだ。魔法省の組織形態、法律の矛盾点、アズカバンの成り立ち、ディメンターの存在、過去の闇の魔法使い達の失策、彼らの生きた時代背景、エトセトラエトセトラ。睡眠を削ってまでレポートに纏めて送ると、一日と経たないうちに添削されて返ってくる。このレポート地獄がジェーンにとって最も辛かった。それでも、リドルに捨てられたくない一心でジェーンは彼の要求に応え続けた。リドルは自分が言う通り動くか確かめたいだけなのだと悟っても、従い続けた。放りだそうとか、逃げようとは思わなかった。
 分かっているなら二度目はないよ。いいねドゥ、これが最後だよ。
 例えそれが道具に対する所有欲でも、リドルはジェーンがリドル以外にかまけていたのを不愉快に思ったのだ。その事実がジェーンの痛みや疲労を慰めてくれた。もう後がない状態にまで追い詰められてから、ジェーンは薄ら満たされるような気持ちを覚えた。


 二度目はないよ、ドゥ。次に僕を裏切ったら、今度こそ最後だよ。

 ジェーンはリドルがごく無力な頃から彼に支配されていた。
 ジェーンはリドルの支配下で少女時代を過ごし、完全に従順だった。少なくともリドルの学生時代においては、リドルに最も従順であり忠実だったのはジェーンだった。
 このままでいいと、ジェーンは思っていた。このまま、リドルに従順でいよう。いつか捨てられるとしても、今は視界に置いてもらえる。そして自分もリドルを眺めていることが出来る。過去も今も未来も、全てがリドルに終始して構わなかった。それが幸福だと思った。
 気だるいような不安のなか、ジェーンは確かな幸せを感じていた。

 このままで良いーーそうは思っても、実際夏季休暇が訪れると、毎日お喋り出来るのは嬉しかったし、リドルが姿を消すと自分一人置いて行かれたのかと不安になる。
 リドルがふらりと姿を消す度、ジェーンは足を棒にして彼の行きそうなところを探し回った。
 頼みの綱は、少ないお小遣いと僅かな心当たりだけ。ダイアゴン横丁を探し回ると、いよいよジェーンはリドルを探すのを諦めようかと検討し始める。まあ、それで諦めるようなら、ここまで執念深く付き纏ったりはしないのだけれど。親鳥を探す雛のように、ジェーンはリドルを探した。
 勿論、リドルの知り合いに梟便を送るわけにもいかない。ダイアゴン横丁以外心当たりのない魔法界を探すのはキッパリ諦めて、マグル界に狙いを絞る。絞ると言ったって、どうせリドルの知っているマグル界など針の穴ほどもないのだ。行き当たりばったりでマグル界を彷徨うタイプでもなし、スリザリンの友達の家へでも泊まりに行っていない限り見つかるだろう。要するに「見つからないだろう」と、諦め半分で捜索を続けていた。孤児院の近くにある公園と、かつて二人が通っていたプライマリースクールを探し終えると、ジェーンは昔遠足に行った場所を一つ一つ見て回ることにした。乏しい思い出をフル稼働させて、リドルの好きそうな場所を探す。
 リドルの好きそうな場所といえば、悪趣味で、不気味で、立っているだけで冷や汗が出るような場所だ。数年の付き合いとはいえ常にリドルの御機嫌を伺い続けただけに、ジェーンは確かにリドルの後を追っていた。それをリドルも分かっているのか、熟練した登山家でなければ降りるのが困難な崖を下り、半分海に浸かっている洞窟くんだりまでやってきたジェーンに驚きもしなかった。

『よく女の身で来れたね』
 ざばざばと水をかき分けて近づいてくるジェーンへ、リドルは珍しくも“素直に”感嘆したと言いたげな声を出した。ジェーンのことだから自分を探すだろうとは分かっていた。しかし幾ら自分を慕っているとはいえ、十五歳の少女がよくもまあ服が濡れるのも構わず、口に咥えた懐中電灯のみを頼りに夜の海へ飛び込めたものだ。そこまで考えると、リドルは口端を吊り上げて笑った。
 ジェーンはちょっとリドルを睨むと、口に咥えていた懐中電灯を岩の上に置いた。『泳ぎは割かし得意なのよ――勿論魔法さえ使えれば、あなたを、さが、探すのに、ふ、二日と掛かりませんでした、けどね』ガチガチ歯の付け根をならしながら、ジェーンは水から上がった。
『どれだけ掛かったんだい』
『に、二週間と少しよ』ジェーンは素っ気なく言いすてると、腕に纏わりつく海草を落とす。ぬけりけのある両腕をこすって、少しでも温まろうと腐心した。『食事は、と、取ってるの? お腹がへってるなら、この洞窟を出たとこに、かば、鞄があるわ、食料も』
 鞄のところへ戻れば替えの着替えもあるし、タオルだってある。鬱陶しい魔法省のせいで魔法は使えないけれど、魔法を掛けた道具は使える。見かけ以上の収納を誇るショルダーバッグも、水を被っても消えない懐中電灯もリドルを探す上で大変に役立った。我儘を言えば、楽に崖を下れるロープもあれば良かったのだけれど――マグルの店で売ってる普通のロープを使って素手で降りてきたのに加え、塩気のある海水のおかげで両手の感覚が殆どない。二週間殆ど歩き通しの足も痺れてじくじくと痛い。寒いし、体中が気怠い。無理がたたって体調を崩し始めているのだろう。
 とっとと孤児院へ帰って寝たかったけれど、リドル無しにはどこへも帰れない。
 ジェーンは奥に続く階段の脇に立つリドルを呼んだ。
『リドル、帰りましょう……無論貴方はマグルのいるところへ戻りたくないでしょうけど』
 リドルは苦笑した。『そうだね』そう頷いてから、寒さに震えているジェーンを何も映らない黒い瞳で見つめる。『僕が帰りたくないと思っているのを知ってるくせに、迎えに来たのかい』
 二度目はないよ。リドルの声音にかつての警告を思い出したジェーンは、またも黙り込んでしまった。しかしリドルは怒らなかった。立ち去ろうともしなかった。尤もこんなところで立ち去ると言えば洞窟の奥へ行く他ないので、保留にされている可能性はあったが。
 じっと貝のように黙すジェーンの前で、リドルはポケットに手を突っ込む。
 目的のものを無事探し当てると、リドルはそれをジェーンの足元へ投げ捨てた。カラリカラリと金臭い音を立てながら、“それ”はジェーンの足元の水たまりを掠める。
 岩の上にあるランプの光をうけて輝くのは、いつもの、ジェーンの服従を確かめるためのナイフだった。ジェーンは腰を屈めて、慣れた重さを手に取り、柄の中に収まっている刃を取り出した。学外で自傷を要求されるのは初めてだった。すぐに治すことが出来ないし、理由不明の怪我を負えばヘルパーさんも変に思うだろう。まあ、施設の大人達は自分たちに関わりたがらないし、止血だけしておけば大丈夫か。鈍く光る刃先を見つめて、ジェーンはそんな算段を立てた。
 ジェーンが自分へ従う意思を見せたのを確認すると、リドルが口を開く。

『それで胸を突いて死ね』

 視線の先で、リドルは学内でよく浮かべる柔和で穏やかな仮面を被っていた。『捨てられたくないんだろう。それとも、全部保身が産んだデマカセなのか?』せせら笑う響きで笑う。
『ええ……ええ、そうよ、リドル』ジェーンは胸元の釦をすべて外して、一歩一歩慎重な足取りでリドルに近づく。肌に張り付くシャツをはぎ取り、荒い岩肌に投げ捨てた。シャツの下には洗い古された粗末な下着しか身に着けていない。いやらしいことをしているとも、今の自分が艶っぽいとも思わなかった。ただ刃が自分の皮膚を食い破って、鮮血が零れるさまをリドルにはっきりと見て貰いたかった。そして叶うのなら、リドルにナイフの柄を握っていて貰いたかった。
 ジェーンの冷たい指がリドルの手に触れた。『あなたに捨てられたら、いきていけないわ』縋る台詞が鼻声に震える。ジェーンはリドルの指を絡め取って、ナイフを握らせた。
『……僕に、マグル如きと同じ方法で人を殺せと?』
『杖でも良いわ。でも、そうしたら魔法省が来るでしょう』
 ジェーンはリドルに持たせたナイフの切っ先を、己の左胸に宛がった。刃先が皮膚を破り、ぷくりと血が浮かぶ。頬を海水が伝う。何故か、胸中は平坦に凪いでいた。安堵感さえあった。
『私にはあなた以外のなにもないわ。あなたが全てよ。だから、一人で死にたくない』
 あなたしかいないから、あなたに殺されたい。例えあなたの負担になっても、それでも最期はあなたがいい。ジェーンはリドルの手を両手で握ると、心臓に突き立てようとした。ぐっとリドルの手を押し付けるように動かそうとするが、痛みと、何だかんだ消すことの出来ない恐怖からままならない。恐れと興奮に息が荒くなる。なのに刃先は一センチも入っていかなかった。
 このままでは死ぬ前に捨てられてしまう。ジェーンはきつく唇を噛むと、思い切りナイフを引こうとした。しかしリドルの方が早かった。ぽちゃんと、遠く、水音が響き渡る。
『君は、』ジェーンの背後にある水面に、赤が薄く広がっていった。ちらりと振り向くと、くらい闇の中にナイフが沈んでいくのが見えた。ざぶざぶと、沈んでいく。『君は、馬鹿だね』
 ジェーンがリドルに視線を戻すと、彼の唇が降ってくるところだった。

 リドルはジェーンの冷え切った体を抱きしめて、触れるだけのキスを繰り返した。
 息を求めるジェーンの口をもう一度塞いで、舌で歯列をなぞる。長い口付けにずるずると力を失っていくジェーンと共にリドルも地面へ膝をつき、細い腰に跨った。ジェーンは、ぼんやりリドルを見上げる。リドルは、薄く笑っていた。いつもの、上っ面だけの笑み。いつもそう。リドルの素の感情など、ジェーンは見たことがない。ジェーンが見たことがないということは、誰も見たことがないということだ。ジェーンの瞳に、熱いものが溢れた。ここには何もない。目の前には誰もいない。ただ人間の形を維持しようともがく闇が、ジェーンの頬に触れる。
 柔らかな輪郭から滑り落ちた指が、細い首の上を這う。リドルが小さく苦笑した。
『君は馬鹿だ。僕が知りうる限り、君より愚かなやつはいない』
 ジェーンは否定も同意もしなかった。自分の首がリドルの手によって縊られるのを待っていた。『ころして』掠れ声で懇願する唇に、リドルが身を屈めて、口付けを落とす。『こ……ろして、』ころして、リドル。目じりから零れる涙が頬を伝う。『この……まま、殺して』
『今、死に、たい』ジェーンは静かに目を瞑った。屠られるのを待つ牛か羊のように。
 リドルはジェーンの首を絞める両手の内の一つを離して、自分に伸ばされた手を受け止める。優しく握って、指先に口付けた。『駄目だよ』幼子でも叱るような響きだった。

『君がいつ死ぬかは、僕が決める』

 ジェーンの手を脇に下ろすと、リドルは再びジェーンの首に力を込める。
 その両腕にも、瞳にも、殺意はこもっていなかった。戯れだ。ジェーンの意志に反して、このまま、明日も明後日もジェーンの命は保証されているだろう。それが一番肝要なことだから。
『君には僕しかいない』リドルが囁きかけるのを、ジェーンは朦朧とした意識のなかで聞いていた。『ごみ箱産まれのジェーン』どこかで……いやリドルが知らぬはずはない。同じ孤児院で育ち、ジェーンも何度か虐められた。ジェーンは外界を遮断しようと心掛けていたからリドルの存在こそ覚えてこそいなかったが、『君の名前は同じごみ箱に入っていた、』それは、『腐ったフィッシュアンドチップスを包んでいた新聞から取ったものだし、君自身はごみそのものだ』ああ、あ。ジェーンは涙と闇で殆ど虚ろな視界に、かつて己の自尊心を完膚なきまでに砕いた少年の姿を探そうとした。『……ごみ箱に捨てられていた君に、他にどんな言い様があるというんだい』

 ごみ箱産まれのジェーン。君の名前は同じごみ箱に入っていた、腐ったフィッシュアンドチップスを包んでいた新聞から取ったものだし、君自身はごみそのものだ。
 だって、ごみ箱に捨てられていたんだから、他にどんな言い様があるというんだい。

 ジェーンは重い腕をあげて、両の手でリドルの頬を包んだ。何故、その台詞を知ってるの。
 ごみ箱産まれのジェーン。残酷なあだ名を思いついたのは、『君には僕だけだ』リドルが繰り返す。祈るような声音で、囁き続ける。『ごみ箱産まれの君に、両親に魔法使いがいるかどうかも分からない君に、僕以外の誰がいる?』ジェーンは何度も何度も頷いた。もう如何でも良い。リドルの言う通りだ。ジェーンにはリドルしかいない。リドルがジェーンの全てだ。あの幼い日、母親に捨てられた私をもう一度ごみ箱に突き落としたのはあなただった。もうそれだけで良い。

 ジェーンは胸の上に腕を下ろした。口をあけても酸素が入ってこない。
 疲れているからか、着々と窒息状態に近づいて行っているのか、思考がぼやける。このまま死ねるのだろうか。それとも、眠りに落ちるだけ? 幼い頃、孤児院の庭隅の木に寄りかかって祈った時と同じ、“今度目を開けた時こそ視界に何も映りませんように”なの? でもリドル、あなたは私を殺すことができる。居もしない神に祈るより、貴方に祈った方が余程いい。
 リドル、くるしい。ころして。『ヴォルデモート、呼んでごらん。そうしたら楽にしてあげる』ころしてくれる?『それは僕が決める』ころして、ころして、このまましなせて、今死にたい。不幸でないときのまま、死んでしまいたい。ごみ箱の外で、あなたの指先で、このまま死にたい。
『ヴォルデ、モート』ジェーンは緩んだ喉の隙間から、祈りを絞り出した。
 ヴォルデモート、なんのことかも、誰を指すのかもわからない。
 ただ救いが欲しかった。助けてほしいと望んだ。このまま消えてしまいたかった。『ヴォルデモート、おねが、ころして』たすけてほしかった。『すてないで、ころして』無関心だけが恐ろしかった。懇願だけを口走るジェーンの頬へ、ふいに温かいものがポトッと落ちる。ジェーンを見下ろすリドルの瞳から、ぱたぱたと降り注ぐものがあった。存在してはならないもの。
『ジェーン』ジェーンと、何度も繰り返す。『駄目だよ、ジェーン、まだころさない』
 ジェーン、ジェーン、ジェーン―ー縋るような声が耳元に木霊した。
 自分たち以外誰もいない洞窟に、リドルの祈りが木霊する。ジェーンはリドルの背に腕を回して、きつく抱きしめた。『トム』トム、ころして。すてないで、ころして。リドルの声へ応えるように、ジェーンも繰り返す。ころして。まだころさない。ころして。だめだよ。ころして。
 二人で嗚咽を漏らしながら、互いの存在を確かめた。自分たちは、何かが狂っている。縋り、支配することでしか他者と繋がっていられないのだ。その“何”が可笑しいのか、言葉に出来ない。それは両親のいない子供たちと、それを取り巻く大人たちの関係に似ている。
 語ろうとしないもの、それに胡坐をかいて聞こうとしないもの。行く場所がないから、頼るあてがないから留まり続けて淀んでいく。誰が悪かったのか、神にも裁くことが出来ない。
 叫びたいような衝動を声にしないため、ジェーンはリドルに口づけた。リドルも拒絶しはしなかった。ジェーンの口付けに応えて、涙に濡れた頬を寄せる。自分たちが何故こんなにも互いを求めているのか、ジェーンには分からなかった。きっと、リドルにも分からない。

 捨てないでと幾度も縋り、君には僕しかいないと踏みにじり、互いの肌を寄せ合う。
 そうこうする内に夜が明けた。目が覚めるとそこは洞窟のなかではなく、孤児院のなかにある、暮らし慣れた小さな自室で、リドルはいなかった。本当に呆気なく、“今度目を開けた時こそ視界に何も映りませんように”は成立し、ジェーンの胸に残されたのはちっぽけな落胆一つ。
 腹部の鈍痛と、至るところに巻かれた包帯に苦労しながら三つ隣の部屋へ行くと、ホグワーツの宿題を広げた机の前にリドルが座っていた。昨夜の何もかもが夢だったかのように。

 リドル? いつも通りに呼ぶと、リドルはゆっくりと振り返いた。
 そうしてから、ドゥ、その怪我如何したんだいと訝しげに眉を寄せる。リドル、昨日――昨日なのだろうか? もっと日が経っているかもしれない。否、それとも夢なのかもしれない。現実だろうと、リドルがこうしてしらを切っている以上はジェーンにとってもリドルの台詞が真実なのだ。ジェーンはにこりと微笑した。階段掃除に失敗したみたいと、存在しない理由を尤もらしく口にする。リドルはクツクツ喉を鳴らした。魔女がマグル式の掃除で大怪我、面白いね。
 そうねリドル、面白いわ。ジェーンは肩を竦めて、苦笑した。マグルは魔法界で夢を見たり化かされりするけど、魔法使いたちはマグル界で化かされるのかもしれないわね。
 リドルは思い切り嫌そうな顔をした。マグル嫌いも相変わらずだと、ジェーンは思った。

 驚くほど、ジェーンとリドルの間には何の変化もなかった。
 二週間の空白を経て孤児院に戻ってきたリドルはもうジェーンの名前を呼んでくれることもなく、頬にさえ口付けてくれはしなかった。賢い子だねと褒めることも、自分への従順を測ることもなくなって、何もかもが夢幻のようだった。いや――“夢幻のようだった”などではなく、何もかもが夢だったのだと、ジェーンは己に言い聞かせた。リドルが望むなら、それが事実だ。
 ジェーンにとってはリドルに捨てられない事だけが大事で、彼女はリドルの無関心を恐れるあまり、月のものが止まっていることさえ気に留めようとしなかった。

 ジェーンは子供がどうやって生まれてくるか碌々知らない。
 学校で教わることはあったけれど、それは全てジェーンの意識下に残ることはなかった。
 それらは自分に無関係なことだと思っていたからだ。大事に抱いてくれる母も、産まれるのを心待ちにしている父も彼女にはいなかった。そんなジェーンが如何して子供を産み、家族を作ることが出来るだろう。生ゴミから赤ちゃんは生まれてこない。そんなのは一人で鼻をかめない子供だって知っていることだ。ジェーンはごみ箱に捨てられた。多分、死ぬときもごみ箱のなかなのだ。
 ごみ箱産まれのジェーン。ジェーンには誰もいないし、何もない。ただ自分を支配する神だけが存在していて、ジェーンは彼を求めていた。何もかもを失う、その日まで。

わたしに起きた全てのこと


 あの日自分達が犯した過ちはなんだったのか、ジェーンはもう覚えていない。
 そして最早、ごみ箱よりずっと清潔な寝床で死を待つ彼女に何故を問う者もいなかった。


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