見知らぬ男子から告白された。
 四年生の秋、無事三年連続主席を守りきった、その翌年度頭のことである。

『ずっと君のことが好きだった。僕と、付き合って欲しい』
 相手については、一つ年上ということ以外よく知らないーー知らないけど、外面の良いジェーンは度々彼と雑談に耽った覚えがあった。他人は他人でも、幾らか義理がある他人だった。だから、呼び出された時も、何か詰まらぬ頼まれ事をされるのだと思っていた。
 日の昇る内は長閑な景色が一望出来る天文塔。そこへ向かう道々、ジェーンは天文学に纏わる話か悩みでも振られるのだろうと決めつけていた。それ故、目の前の男子から何を言われているのか理解出来なかった。いや、例え彼が両手いっぱいの薔薇の花束を抱えていても、ジェーンには彼の台詞がよくわからなかっただろう。奥手だとか、初心だとか言うのではない。単純に考えてホグワーツ校内には五百数名の女学生がいる。その天文学的数字から敢えてジェーンを選んだのか、理解出来ない。如何して何も知らない他人が自分を恋愛対象として見るのか分からない。
 何不自由なく育ってきた少年に、ジェーンが困惑している理由が分かるはずもない。沈黙に耐えかねて「君に好きな人がいるらしいことは分かってる」などと、トチ狂った事をほざきだした。
 好きな人がいるらしい、とのことだが、それが誰かはジェーン当人にも分からなかった。自分が誰かを好いているなどというのは初耳だ。果たして、ジェーンに好きな人などいるのだろうか。「いつも誰か目で追っているのが見ていて痛々しい」まあ、目で追うと言えばリドルの他にいるまい。ジェーンは彼の台詞を踏まえて考えた。ジェーンにとってリドル以外は皆有象無象なのだ。「君のような綺麗な人に想われているのに応えようともしない奴なんて諦めて、僕を選んでほしい」リドルを諦めて、この少年を選ぶ? ジェーンは石壁に寄りかかると、静かに考え込んだ。

 この少年は、ジェーンがリドルを好いていると考えている。
 この少年はジェーンを好いているらしい。

 それはつまり、ジェーンが死ねと言ったら、この少年は死んでくれるのだろうか?
 ジェーンはリドルが望むのなら死ぬと思う。ジェーンにはリドルしかいない。その感情に選択の余地などない。リドルがジェーンの全てだ。でも、この少年はジェーンだけではない。
 ジェーンは彼が多くの人から慕われているのを知っている。レイブンクロー寮のムードメーカーで、ジェーンの欲する監督生バッジを胸にきらめかせている。孤児院産まれのジェーンと違って裕福な家庭に生まれ育ち、毎朝家族からの梟便が届く。正しく別世界の住人だ。そんな“生き物”がジェーンのリドルに対する気持ちと、自分の気持ちをイコールで結びつける。訳が分からない。

 黙り込んでしまったジェーンに、少年は必死のアピールを繰り返す。
 一生懸命なところが好きだ。綺麗に伸ばした長い髪が好きだ。傷一つない滑らかな肌が好きだ。言葉少なに、行動で結果を出す姿勢が好きだ。誰にでも優しく振舞うところが好きだ。
 少年が挙げ連ねたことはどれもリドルのために努力した、その結果だ。それは“ジェーン”ではない。少年の言葉で言うなら“リドルが好きなジェーン”だろう。リドルを好きなままで良いのなら構わないけれど、男女交際を申し込むからには自分を好きになって欲しいのではなかろうか。“リドルが好きなジェーン”と、“少年が好きなジェーン”は同時間軸に存在していられない。
 一体、この少年はジェーンに何を望むのか。段々、頭が痛くなってきた。ジェーンは相対性理論から説明するべきか、まず宇宙ひもについての見解を伺うべきか悩んだ。

『……君のことが好きだよ』
 とうとう口説き文句の尽きたらしい少年がジェーンの台詞を待って口を噤む。
 その真摯な表情を目の当たりにしたジェーンは、変身術や呪文学について講義する必要がないことを悟った。お断りしますと簡潔な台詞を返すだけで、この少年は去っていくだろう。

 ジェーンの前から、去っていく。ジェーンを捨てて遠くへ去っていく。その繰り返し。

 ジェーンは震える指で拳を作った。何を動揺することがあるのか分からない。
 この少年は、母親とは違う。リドルとも違う。そもそもジェーンの人生に関わるはずの無かった生き物だ。それが去ったからといって何を困窮することがある。最初から存在していなかったものが、消えるだけだ。ジェーンは、この少年が欲しいわけではない。この少年と交際をするのは無駄な事だ。勉強の時間が減る。リドルのために費やす時間が減る。付き合えるはずがないじゃあないか。何故? リドルがいるから、ジェーンにはリドルしかいない。嘘だ。ジェーンがリドルしか求めていない。ジェーンには一応の常識が備わっている。一人に依存し続けるのは良くない。それも、ジェーンはリドルが如何いう子供だったか知っているではないか。あの人は普通じゃない。捨てられたくない。誰でも良かった。リドルしかいない。かしこい子だね。私には。私は義理でリドルの嘘に付き合った、褒められた。嘘だ。違う、演技だと分かっていて、自分なんかにはその程度の価値しかないと、でも普通の家庭で育った少年が私を求めている。嘘だ。演技だ。メッキだ。
 この少年が好きなのはジェーンじゃない――でも、このまま続けていればバレない? 嘘を吐き続ければ、好いていて貰える? 身だしなみに気を使って、彼の望む結果を黙々と出して、誰にでも優しく振舞っていれば、それが例え“本当のジェーン”でなくとも好いてくれるのだろうか?
 
 魔法は奥が深くて面白い学問だ。運命も変えられる。
 ジェーンは、いつぞやのリドルの台詞を思い出した。美しく伸ばした爪を掌に食い込ませる。馬鹿な考えだ。この少年の好意を得たからと言って、彼の恵まれた環境がジェーンのものになるわけではない。この少年はジェーンの母親ではない。そしてリドルも、ジェーンの母親ではない。誰も、ジェーンが捨てられたくないと、捨てないでと望んだその人にはなりえない。

 知ってた。
 知りたくなかった。
 分かってた。
 分かりたくなかった。

 ジェーンには、この少年のように好意を問うことが出来ない。好意を待つことが出来ない。
 幼い頃からジェーンは自分が傷つかないためだけに必死だった。ジェーンのなかで、小さなジェーンがぐちゃぐちゃになる。妬ましい。羨ましい。母親から、父親から されて育った人が自分を求めてる。わたしも、マグル界にいた頃とは違う。たとえそれが自分がきずつかないためであっても、がんばった。駄々っ子のように耳を塞いで視界を覆ったりしなかった。母親に捨てられた、ごみ箱産まれの私でも、“普通”の女の子みたいにしあわせになれるの?
 床に崩れ落ちかけたジェーンの体を少年が抱きかかえた。少年の胸を形ばかり押し返しながら、ジェーンは震えていた。『私、』やめよう。この人が私を突き放さない証拠がどこにある。
『私、ごみ箱に捨てられていたのよ……あなたみたいなひと、止めといた方が良いと思う』
 嗚咽を堪えながら、ジェーンはぽたぽたと涙を零す。堪らなく惨めだった。
 結局ジェーンは優しくされれば、誰でも良いのだ。ただリドルが一番最初だったから、いつまでもリドルにしがみ付いていた。リドルでなければならない理由など、どこにもない。何より、それなりに美しくなったつもりでいるし、三年連続で学年主席をとったにも関わらず、まだリドルは学内で話しかけてもくれない。ジェーンはリドルが好きなのだろうか? そして、自分がこんなに空いているにも関わらず、何故リドルはまるで相手にしてくれないのだろう? この少年の言う通り、リドルのことは単なる昔馴染みとして諦め、違う誰かを好きになったほうが賢いのだろうか?

 誰かを好きに――すきになるって、なに?

 耳元で少年が囁く。
 君が好きだよ、一人で頑張ろうと努力してるところも、脆いところを隠そうとしているところも好きだよ。やめて、私は、ごみ箱のなかに捨てられて、生ゴミの臭いがするわ。紐で首を括られたように声が出ない。ただ涙だけが少年のローブを濡らした。自分の胸の中で力なく泣き続けるジェーンに、少年は繰り返す。君が好きだよ――君がどんな産まれでも、育ちでも構わない。
『今は僕以外の人を好きでも良い、はいと頷いてくれる以上のことは求めないから……』
 ジェーンは少年の台詞に抗えなかった。
 ローブ越しの温もりを感じながら、ジェーンはこっくり頷いた。

 その日から少年はジェーンの勉強を妨害し、暇さえあればデートを申し込んできた。
 学年の違い故に授業中こそ離れているものの、朝昼晩と一緒だった。ジェーンも、まあ男女交際というのはそういうものなのだろうと反意を示しはしなかった。少年との交際はジェーンにとって割と楽しいものだった。 されて育ったからなのか、少年はジェーンに恐ろしく優しかったし、大事にしてくれた。ほんのちょっとの怪我でも、いっそジェーンが不安になるほど狼狽え、大仰に心配してくれる。ジェーンも日が経つにつれ、リドル以外に見せたことのなかった、心からの笑みを浮かべるようになった。ジェーンの知らぬことではあったが、彼女がリドルにかまけている間に同寮生たちからは孤高の才女とまで呼ばれるようになっていた。少年は学年主席でこそないものの、監督生であり、レイブンクロー寮のクィディッチ・チームにも属している。
 二人の交際が一月に及ぶ頃には校内でも話題になっていた。
 お似合いの二人とからかわれるのをかわしながら、ジェーンも満更ではなかった。何より、少年は怖いぐらいジェーンにベタ惚れだった。このまま二人の交際が続けば、どんな未来が待っているのかと一人考える。その未来には勿論リドルはいない。当然のことだ。しかし、それは……

 果たして、それは幸福なのだろうか?

『そんなわけがないだろう』
 と、リドル。勿論ジェーンの自問自答に割り込んできたわけではない。“奴らは勉学と色恋を比べられるとでも思っているのか”という自問に答えたまでである。
 リドルの説法を聞くジェーンの背に冷たいものが伝う。勿論リドルが非難し、かつ罵っているのは、ジェーンではない。彼の神経を逆撫でしているのは、彼に告白してきた少女達だ。
 リドルはジェーンの反応なぞお構いなしに、彼女たちがどれ程に愚かなのか挙げ連ねる。その端正な横顔には、悪意と嫌悪がはっきり表れていた。それが己に向けられているようで、恐ろしい。
 リドルが自分の前で仮面を取り去ってしまうのは初めてのことだったけれど、ジェーンは気にしなかった。そもそも、学内で呼び出される時点で異常事態なのだ。きっとリドルが恋愛相談を持ちかけてきたところでジェーンはそう動じなかっただろう。リドルからの梟便が届いた朝食の席で百年分は動揺し、ジェーンは今日一日ずっと授業に集中することが出来なかった。それに図書室へ着いてきたがる恋人を撒くのにも疲れた。苦労しいしい待ち合わせ場所に来てみればーーさぞや重大な相談事でもあるのだろうとやきもきしたのがバカバカしくなるほど呑気な用件だった。
 最初こそ怯えていたが、なあに気にすることはない。如何してリドルがジェーンの交友関係など気にするだろう。気にするはずがないのだ。リドルにとってのジェーンなど、その程度の存在だ。
『学ぶべきことは山とあるのに、色恋なんかに精を出すのは全くばかげている』
 君もそう思うだろう? そう問われて、ジェーンは引きつった笑みを浮かべた。
 気にする事はないーーそうは思っても長年染みついた習性で、ついリドルの顔色を伺ってしまう。ジェーンをねめつける視線には何故か苛立ちが混じっているようだった。何と返せばリドルの気に入るか分からない。口を噤む。書きもの机に腰掛けたまま、ジェーンは俯いた。
 向かいの書棚へ寄りかかっていたリドルが身を起こして、ジェーンに一歩近づく。「……ドゥ、君は如何思う」と、二歩。もう影が落ちる距離にまで縮まってしまう。
 リドルはジェーンの腕を取った。骨ばった指がするりと肌の上を滑り、手首を握る。

『困るとだんまりだね』

 きりと、ジェーンの手首を握る指の力が増した。
 痒みとそう違いのない痛みに、ジェーンは小刻みに震えだした。何か言わなくてはならないと思うのに、ジェーンの意に反してその口は重く閉ざされたままだった。ほんのちょっとも動かない。
 ジェーンを見つめるリドルが優しく微笑む。『僕の機嫌を取れるような台詞は、思いつかない?』思い切り、ジェーンの手首を握りつぶす。リドル、いたい。低い呻き声こそ漏れたものの、それでもまだジェーンの口は思うように動いてくれなかった。リドルが“自分に”怒っているのだと、ようやっと理解する。“何か”がリドルの気に障ったのだ。何が? 痛みに耐えながら、ジェーンは必死で思考を巡らせた。謝るべきか。否、訳も分からず謝罪するのは、馬鹿のすることだ。でも、分からない。如何して怒ってるの。分からないから、何も言えない。

『ドゥ、言わなくっちゃ分からないよ。黙ってるだけじゃね』
 冷たい瞳に射抜かれたのとジェーンの手首が解放されたのは殆ど同時だった。
 しかしジェーンには痛みと向き合っている暇はなかった。『君には失望したよ』リドルが呆れた風に呟いて、ローブを翻す。くるりと杖を振ってから一歩、ジェーンのいない場所へ足を踏み出す。いってしまう。『ごめ、』行ってしまう。『ごめんな、』声が掠れてリドルに届かない。否、届いたとしても、きっと立ち止まってはくれない。いってしまう。行ってしまう。いかないで。別に良いのではないの、ジェーンには恋人がいる。元々勉強は嫌いじゃなかったし、リドルがいなくても何とかやっていける。リドルはジェーンの母親ではない。今リドルが去って行ったからといって、永遠の別れになるわけではない。私がいるのはホグワーツの図書室であって、生ゴミの詰まったごみ箱ではない。引き留める必要なんてない。これで良い。これで――良かったなどと、そう思えるなら、如何して彼の言うがままホグワーツまで着いてきただろうか。

 『ごめんなさい!』

 ジェーンは椅子を蹴って立ち上がると、リドルの腕にしがみ付いた。
 リドルが億劫そうな仕草で振り向く。『ごめんなさ、』謝って、如何する。『ごめんなさい、ごめんなさい、わたし……私、本当に、』何が悪いかも分かってないのに、自分の愚かさを晒すだけなのに、言葉が止まらない。ジェーンはリドルのローブに縋ったまま、その場に崩れ落ちた。『ごめんなさい、いかな、すてないで、ごめんなさい、本当に、すてないで、捨てないで、』
 捨てないで、私を見捨てないで。みっともなく泣きじゃくりながら、ジェーンは懇願し続けた。
 リドルはジェーンを突き飛ばさなかった。それどころかジェーンの傍らに膝をついて、優しく微笑みかけてくれた。そのやさしさが恐ろしい。それでも怒られるより、捨てられるよりずっとマシだった。ジェーンはじっとリドルの瞳を見つめた。黒い双眸の奥に、緋が見えた気がした。
『……分かってるなら良いんだ。分かっているなら、最初から僕だって怒ったりしなかった』
 分かるだろう、ドゥ。リドルの手がジェーンの背を捉え、嗚咽に震える体を抱きしめる。幼子でも宥めるように、背をさすった。分かってるなら良い。分かっているんなら良いんだ。リドルは自分の胸の中にいるジェーンに、うわ言めいた台詞を繰り返す。
 分かっているなら二度目はないよ。いいねドゥ、これが最後だよ。

 何が最後で、何が一度きりかは、数日と経たぬ内に分かった。


『もう君は要らない』
 違う子が好きになったんだ。そう言ってジェーンから去って行ったのは、勿論リドルではない。ちょっと前まで、あんなにもジェーンを大事にしてくれていた恋人だった。
 ほんの一月と少しの付き合いではあったけれど、つい先日「今度の夏期休暇はうちに来てほしい」と誘われたばかりだった。ジェーンはこの少年が監督生に相応しく善良かつ真面目で、誠実であることを十全に理解している。もしジェーン以外に好きな人が出来たのなら、いや誰かと付き合っている内に他の少女を好きになれるような、そんな器用なひとではなかった。
 思うところは色々あったけれど、ジェーンは素直に別れを受け入れた。少年の瞳がぼんやり彼方を見つめているのに気づいたし、その日、朝食の席でリドルが悪戯っぽく目くばせしていたから。
 遠ざかっていく恋人の背を眺めながら、ジェーンは足元が崩れている感覚を覚えた。これが最後だよ。その意味が分かるような気がした。この次“仕出かしたら”、今度こそリドルがジェーンを捨てるだろう。比喩表現でも何でもなく、ジェーンの死体をごみ箱に突っ込むに違いない。

ごみ箱の外のちいさな世界



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