レイブンクローのジェーン・ドゥは孤児院育ち。

 大っぴらに喧伝したわけではないが、気付いたときにはジェーンが孤児院育ちであることは周知のこととなっていた。勿論、ジェーンの産まれに関心のある僅かな人々に限るけれど。
 その僅かな人々のなかには「私だったら、あなたみたく『ええ、そうよ。夏には孤児院へ戻るの』なんて平気な顔で言えないと思うな」と、幼い残酷を口にする者もいた。
 孤児院育ちであることを隠したところで何かメリットがあるでもなし、見栄からくる下手な隠し事は後々面倒になるということが恵まれて無知な――凡そ真っ当な不幸を知らずに育った――人間には分からないらしい。そうした幸福な白痴たちは、ジェーンのことを「不遇な幼少時を過ごしたにも関わらず、変に拗ねることなく何事にも努力する優等生だ」と誉めそやす。
 彼らへ微笑んで見せながら、ジェーンには彼らの本心が分かっていた。ジェーンはその賛美の裏にある嘲りを、蔑視をーー彼らの胸にある優越感を敏感に察知していた。
 この世は、産まれたときから全てが決まってしまっている。恵まれた人々は何をしようと神から愛され続けるし、逆に“誰からも愛されずに生まれてきたもの”は永遠に、どんなに足掻こうと誰からも愛されないのだ。ジェーンはそれを知っていた。そして、“如何でも良い”と思っていた。

 ジェーンを取り巻く人間のなかに、自分より不幸な人間を掴まえて優越感に浸ろうとする愚か者は決して少なくなかった。寧ろ、ジェーンが極幼い頃から、彼女の世界はこうした人間だけで構築されていた。しかし長じた今となっては、ジェーンは彼女たちの愚かさに心から同情している。それと同時に優越感の餌とされることも、誰からも愛されないことさえも如何でも良いと思うようになった。ジェーンは「ねえ、そうでしょう」とでも言いたげに、己の前に立つ青年を見上げた。
 ジェーンの額に杖先を当てる青年は、彼女を見つめたまま口を噤んでいる。
 彼ーーリドルはジェーンがこの、秘密の通路へ来た時からただの一言も発していなかった。扉代わりの大鏡を閉めると同時に杖を突きつけられたので、それきりジェーンも黙している。リドルへ何事か問おうとも、ローブのポケットへ手を突っ込んで杖を取ろうとも思わなかった。ジェーンは静かにリドルの意思表示を待っていた。それはジェーンにとって“従順な振る舞い”ではなく“当然の振る舞い”だった。リドルの名前を知った時からずっと、ジェーンの“常識”は彼だった。

 石壁のくぼみに置かれた燭台が、頼りなげに二人を照らし出す。
「ドゥ」リドルの唇が、ジェーンを呼ぶ。「ドゥ、君は……君とは、」
 ドゥと、確かめるような響きで幾度か名を繰り返された。暖色に照らされても尚冷たさの残る白い皮膚のなかで、唇だけがかじかんだように赤い。ジェーンは黙して、リドルの声に応えようとはしなかった。じっと喉に沈黙を詰まらせて、リドルの瞳を覗き込む。明かりが不十分なのか、それとも自分ではなく自分の肩越しに通路の果てを見ているのか、何も映っていない。彼の黒い瞳が自分の背後にある暗さを全て吸い取ってしまうようだと、ジェーンは薄ら思った。
 リドルは何でもないと言いたげに穏やかな表情で微笑した。「これで、さよならだよ」
 ジェーンは乾いてひび割れた唇を湿らせてから、力なく微笑んだ。
「分かっていたわ、リドル」冷えた指先が、握りしめても冷たさが広がるだけで温まらない。「あなたに従うわ」指先から、つま先から滲んでいく冷気が喉元までせり上がったのか、声が震える。「わたし、」あの夏に、言ったわね。そう口にすることで、リドルの気分を害してしまうのではないかと、まだそんなことを考えている。言いたい事も、縋りたい気持ちも残っているのだけれど、それでも何にも愛されなかった私だから、せめてもこの人にだけは疎まれたくない。
 ジェーンは凍える唇を無理に歪ませて、もう一度笑おうとした。「私にはあなた以外のなにもないわ……あなたが全てよ」目じりから零れる冷たいものが唇の端をなぞっていく。「だから、」だからリドル、一人で死にたくない。あの夏の、私の懇願を忘れないで。
「だから……殺して、あなたが望むなら」
 私にはあなた以外のなにもないわ。あなたが全てよ。だから、一人で死にたくない。

 ジェーンは今度こそきりっと唇を噛み締めて、目を瞑った。
 何も見えないのに、リドルの手がピクリと動いたことを、全身で理解する。動揺だろうか。それとも、生理的反射に過ぎないのだろうか。どちらでも構わないとジェーンは思った。彼女の関心事は、“どんな呪文や手段でも構わないからこのままリドルに殺して欲しい”という願いへの答えだけだ。リドルに捨てられれば、他人に手を差し伸べられるのを待ち続ける、惨めたらしい人生が待っている。例えそうでなかろうと、リドルのいない場所で生きていくことも、彼に捨てられた現実と向き合うことも、これから先の何もかもがジェーンには耐えられなかった。
 互いの呼吸音だけが存在する有音の空間で、全てが失われるまでの短い時間で、ジェーンは自分が最も幸福だったときの記憶を呼び覚まそうとした。自分が――ごみ箱に捨てられていた自分の、この十五年と少しのなかで、一番幸せだった瞬間を探そうとした。


 細い炎と瞼一枚、浅い闇の向こうから誰かの声が聞こえる。


 やーい、腐った果物の酸っぱい匂いがするぞ! 生ゴミはごみ箱に戻れよ。
 うっ憤を晴らすようにジェーンをからかう男の子たちと、彼らを叱りつけるヘルパーのかなきり声、そして冷たい流し目をくれる女の子たちの陰口が聞こえる。いやね、またあの子なの。ただでさえ、ここんとこのバリーさんは怒りっぽいのよ。あたしたち来週のピクニックに行かせてもらえないんじゃない。まるでジェーンが彼女達のお楽しみを取り上げようとしているとでも言いたげな口調だ。言いがかりだとか、一体何が楽しくてあんたたちの恨みを買わなきゃならないの? と反論する気力はジェーンにはなかった。否女の子たちの嫌味だけでなく、男の子たちの侮辱にさえジェーンはちょっとも反応しなかった。何を言われたのかは勿論理解していたけれど、ジェーンは五歳になる頃にはもうすっかり人生に疲弊を覚えていた。悲しいとか、苦しいとか、そんな痛みさえ痛みとして認識することを放棄していたジェーンにとって、アルトの罵声も、ソプラノの悪口も、メゾアルトの憐れみさえ、全ては窓ガラス越しに存在している景色の一部に過ぎなかった。
 男の子を追うのに飽きたヘルパーは、“お優しい”自分の同情へ感謝を示すでもなく、虚ろに遠くを見つめるジェーンを詰るのが常だった。この子はまったく、得たいの知れない子だよ。子供の柔らな心を抉るに十分な非難も、やはりジェーンの耳には入らなかった。
 ジェーンの頭に残るのは――どんなに無心になろうと努力しているにも関わらず、彼女の薄い胸を抉るのは――年長の男の子の誰かがつけた、彼女のあだ名ひとつきりだ。その男の子の名前も顔も覚えていないのに、嘲笑と共に放たれた台詞は今もまだ耳朶を離れない。
 刑務所のそれのように高い鉄柵で覆われた庭に満ちるのは乱暴な男の子たちの喧騒と、静かにせざるを得ない女の子たちの不服、ヘルパーの苛立ち。その全てをぼんやり聞き流すジェーンの耳元に少年が囁きかける。ごみ箱産まれのジェーン。君の名前は同じごみ箱に入っていた、腐ったフィッシュアンドチップスを包んでいた新聞から取ったものだし、君自身はごみそのものだ。だって、ごみ箱に捨てられていたんだから、他にどんな言い様があるというんだい。繰り返し、繰り返し、ジェーンの産まれを教えてくれる。この無邪気な声にも、もう飽きてしまった。庭の隅の木に寄りかかるジェーンは、今度目を開けた時こそ視界に何も映らないことを祈って目を瞑る。
 もう幾つの頃からか、ジェーンは全てに倦んでいた。

 ごみ箱産まれのジェーン。
 その言いだしっぺが誰かまでは定かではないものの、そのあだ名は院内に定着しきっていた。
 空き箱のように殺風景な部屋のなかで、如何しようもない飢餓感を抱えている子供達。彼ら、もしくは彼女たちはブランコを独り占めしたり、お菓子を取り上げたり、土をぶつけたりして、“何か”を紛らわそうとする。寡黙なジェーンは、皆にとって良いサンドバッグだった。男の子たちからは「お前は吐しゃ物に塗れてたんだぞ」とクスクス笑われ、普段は陰口だけの女の子たちも「一緒にいると、生ゴミの臭いが移っちゃう」と吐き捨てることがあった。
 ヘルパーたちは同情してくれたけれど、無神経な彼女達の台詞がジェーンの気持ちを慰めることは一度たりともなかった。仮にも自分を産んだ女性を非難され、それで明るい気持ちになれる子供が何人いるだろうか。不運にもジェーンは大多数に属していた。可愛げのない子供とヒソヒソされているのは知っている。しかし、彼女達に可愛がられることに何のメリットがあると言うのか。
 幼いジェーンがそうとまではっきり諦観を覚えたわけではない。端的に言って、煩わしかった。その同情の全て無価値なものだとまでは言えないが、努めて関心を持とうとはしなかった。
 ジェーンが外界へ意識を向けるのは、大人達から強いられる最低限と、“あの”少年の台詞、そしてもう一つ己をごみ箱へ捨てて行った母親、その人について考える時に限った。

『あなたの母親はひどいひと』
 会った事もないのに、そう決めつけるの? もし会ったことがあって“ひどいひと”と言うのなら、私に、どんな髪の色で、目の色はこうだと教えてくれたって良いじゃあない。
『自分の子供を捨ててしまうだなんて、世の中には子宝の授からないひとだっているのに』
 産みたいのに子供が出来ない人がいるなら、その逆だってあるんじゃないかしら。

 ジェーンは世界の全てを自分の中から締め出すことに尽力していた。
 しかし母親について思い馳せる時は、鼓膜を震わす賑わいがいつもよりクリアに聞こえたし、瞳に映る景色も霞んだりしなかった。それに男の子たちのからかいがいつもより深く刺さるようだった。如何考えても母親のことなど――顔どころか名前も知らない、よりにもよって残飯の詰まったごみ箱へ自分を捨てていく母親なんて――きれいさっぱり忘れてしまったほうが自分のためなのに、ジェーンは如何しても母という幻影を捨て去ることが出来ないでいた。
 果たして自分には母を慕う気持ちがあるのだろうか? ジェーンは考えた。
 ごみ箱が如何いうものかは、自分で鼻をかめない子供だって知っている。汚らしい、処分に困るものを捨てるためのものだ。ジェーンは、そういうところに突っ込まれていた。要するに、母親にとって、自分は汚らしく、処分に困るものだったのに違いない。そうでなければ、何故孤児院の前や、教会の敷地内でなく、公園のごみ箱に捨てるだろう。ジェーンは自分を捨てた女の胸中を慮った。会った事のない女を母親と慕うより、そのほうがずっと楽だったからだ。子どもを産んだことはないけれど、ゴミを捨てたことはある。もし自分が生きていることを知ったら、きっと母親は気味悪がるだろうなとジェーンは思った。ジェーンだって、こないだ捨てたドブネズミの死骸が実はまだ生きていて、そして自分を慕っていると考えたら、考えるだけで気持ちが悪い。もし目の前に現れたら、今度こそちゃんと息の根が止まるまで、箒で叩き潰してやる。
 ドブネズミの親がジェーンでない分、ジェーンはあのドブネズミより薄汚れているのだ、きっと。私はドブネズミよりも――ジェーンの思考にドブネズミの、惨めたらしい死骸が這い寄ってきた。ぎゅっと目を瞑り、爪を手の甲に立てて、ギシギシと弾力のある皮膚を掻き毟る。何も考えたくなかった。爪と指の間から、鎖骨のくぼみから、足の付け根から生ゴミの臭いがする。

 吐しゃ物を飲み下した喉が引きつった音を漏らした。呼べるような誰かも、求める手も、ジェーンにはない。大人達に打ち明ければ、きっとまた母親の悪口が始まるだろう。子供達のなかに、ジェーンの話を聞いてくれる人はいなかった。ジェーンは何も考えないことにする。耳に響く人々の声を音として、視界に移る景色を色として、思考を虚無と捉えるように心掛けた。

 ジェーンの無関心を誰が責められるだろう。
 そして誰が、ジェーンの気持ちを知ろうとしただろう。誰に、語ろうとしただろう。
 産まれた時からジェーンは一人だった。彼女が望まなかったから、望む術を知らないから。

 九歳にもなると、年上の子供達は忙しくなり、また同年の子供達もジェーンを構うのが然程面白いことでないと気づいたらしかった。そうでなくとも孤児院に九年もの間居残る子供は少なく、新入りはジェーンを気味悪がって近づこうともしなかったため、誰ともなしにいじめが収まった。
 勿論仲良くしてくれるようになったわけではない。暴言が無言に変わっただけだ。ジェーンへ関心を向ける者が減ったのと同様、ジェーンの中にある外界への関心も尚の事薄くなった。
 他人の視界に映らないことへの不満はなかった。それどころか、ごく自然なことだとさえ思っていた。ごみ箱の中に入ってるバナナの皮や泥だらけの靴なんかを、一体誰が真っ当な年齢になってまで弄り回そうと言うのか。ごみ箱産まれの自分が誰かの関心を引けるはずもない。実の親でさえ要らないと捨てたジェーンに、誰が関心を示すだろう。仕方がないのだ。ジェーンは幼い頃から変わることのない虚ろな瞳で、己に言い聞かす。仕方がない。自分は本当ならごみ箱のなかで死んでいくはずだったのに、何の不運かこんな場所で生かされている。ジェーンのせいではない。ジェーンが望んで惨めな姿を晒しているのではない。仕方ない。ジェーンにはどうしようもなかった。
 私が好きで何も見ないようにしてるわけじゃない。
 私が好きでごみ箱に捨てられたわけじゃない。
 私が、私は、何も望んでない。
 私は、悪くない。

 私は悪くない。

 本当を言えば、ジェーンは周囲の誰もが羨ましくて堪らなかった。
 両親との面会を心待ちにする子供達、校門まで迎えに来てくれる親のいる下級生たち、週末ごとに家族で出かける同級生たち、好きな服を着ることが出来る上級生たちが妬ましくて堪らなかった。私にだって本当は母親や父親がいる。ごみ箱が私を産んだわけじゃあない。皆みたいに、ちゃんとした両親がいるはずだった。母親が私を捨てるから、違う、単に子供が欲しくなかっただけだ。実子なのにごみ箱に突っ込んだのは、慌ててた、急いでただけ。母親は悪くない。それじゃあ私が、誰が、私がごみ箱に捨てられてしまったのは、じゃあ誰が悪かったの。私と母親のどちらかしかない。当事者は二人だけ。嫌な人数だ。加害者と被害者でキッパリ別れてしまう。
 精神構造が複雑になればなるほどに、怒りや妬みといった激しい感情はジェーンを苦しめた。
 歳を重ねる毎に無心でいられる時間も短くなり、もうお姉さんなのだからと叱られるようになったジェーンには空想癖がついた。生きていく限り世界を遮断し切ることは叶わない。その代わりに、ジェーンは自分がごみ箱に捨てられていたのは、母親の本意でなかったのだと思い込むよう努めた。いつかきっと、両親が私を迎えに来る。何年も寂しい想いをさせてごめんね。ごみ箱に捨てたなんて、そんなのは嘘なのよ。ずっと貴女を探していたの。さあ一緒におうちへ帰りましょう。帰りましょう――ジェーンは書物や人々の話のなかに、自分へのものを探そうとした――帰りましょう、その続きがジェーンの内に浮かぶことはなかった。事実と異なるからだ。

 疾うに物心がついていて、今更如何して自分が母親に求められているなどと思いこめただろう。
 ふとした折に、己の望むものが喉元までせり上がってくる。自分には孤児院以外に行く場所がないと理解していながら、現実逃避が消えることはなかった。現実逃避しか縋るものがなかった。ごみ箱産まれのジェーン、そんな事実はなかったのだと言って貰いたい。他の子のように、然るべき理由があって捨てられたならまだしも救いがある。ジェーンはただ要らなかったのだ。母親が自分を育てられなかったのか、もしくは何か事情があったのかなんて知らない。ごみ箱に突っ込んで、そのまま死んでしまえば良いと思っただろう。そのまま死んでしまえば良かった。如何して、こんなところで生きているの。生かされたなら、それに見合うだけの何かがあるのではなかろうか。ジェーンには何もない。過去も未来も真っ黒で、現在さえ認識したくない。私は何なの。ゴミなら、そのまま燃やして貰えたのに、両親のいる子供だったら、大事に育てて貰えたのに、私には何もない。自我のない、本物のゴミだったら良かった。駄目だ。いつまでも、こんなことを思っていても、死ぬことが出来なくて、生きている以上、親がいなくても、大人にならなければならない。一人で生きていけるように、がっこうをでて、ひとりで、いきていけない。
 ひとりでなんて、いきていけない。でもにんげんだから、ひとりでいきてかないと、いけない。

 なぜ、ひとりでいきていかないといかないの。
『甘えられる家族がいないのだから、一人で自立して生きていけるようにならなくてはね』

 私たちはあなたの自立のお手伝いをするために働いてるのですよ。
 そう言って、厳しい眼差しでジェーンを射抜くミセス・コール。あなたは少し――そう、トムほどとは言わなくても……少しばかり変わったところがあります。ええ、私もそれは知っています。しかし、良いですか、ジェーン。貴方の学力は大したものです。やる気さえ出せば、立派な大人になれると信じていますよ。分かりますね? そう問われれば頷く他ない。ジェーンは“きみのわるいこども”で、ミセス・コールは“りっぱなおとな”だ。答えは決まっている。
『はい、ミセス・コール。分かっています。もう十一歳になるのですもの、良い子にしています』
 ミセス・コールの視線を避けて俯きながら、ジェーンは“いつものように”自分へ言い聞かす。私はお姉さんだから一人で平気。もう十一歳になるのだから、誰もいなくても平気。私は平気。大丈夫。何も考えないように努めれば、大丈夫。大丈夫でなかろうと、少なくともここを出るまでは大人達がジェーンがこの世界から逃れることを許してくれやしないに決まっていた。
 ここを出るまで……? 私は、この孤児院から出ていきたいのだろうか。

 ミセス・コールの居室から帰る道々ジェーンは己の未来について考えた。
 未来どころか、“今”とさえ向き合うことを避けるジェーンにとって、それは初めてのことだった。私はここから出ていきたいのだろうか? ここから出て行って、その先に何があるのだろう。ミセス・コールのような立派な大人として生きていく自分の姿など想像も出来ない。しかし、そろそろ考えておかねばならなかった。引き取り手がなければ――十中八九ないだろうけれど――中等教育の終わる十六歳までは、ここに置いてくれる。その後は財産も後ろ盾もないまま社会へ放り出されるわけだ。あと五年で、如何にか自活出来るような職につけないならどの道死ぬだろう。
 ジェーンは自室へつくと、椅子の上にある手鏡を呼び寄せて、鏡面に映る容貌を大人のものにしてみようと努力した。ジェーンの努力もむなしく、どんなに見つめても正反対の世界に映るジェーンは十一歳の、痩せぎすの子供だった。自分の未来がちょっとも想像出来ないということはきっと、大人になる前に死ぬのだろう。そうだと良いなとジェーンは望んだ。

 ここから解放された時、今度こそジェーンは自分のあるべき場所――ごみ箱に帰るだろう。

 あと五年? 君は馬鹿なのか。ここに手紙が来ていて、君はホグワーツに入学する権利があるというのに……まさかあと五年も、こんな下らない場所で人生を浪費するつもりじゃあないだろうね。呆れかえったとでも言いたげにジェーンを見つめる少年はリドルと名乗った。
『リドル? あなたがトム・マールヴォロ・リドル?』
 先だってミセス・コールから叱られた時の台詞を思い出したジェーンは、少年の名前を不思議そうに繰り返した。鉄柵の――きっと庭を囲うついでに作らせたのだろうとさえ思わせるほどチャチな造りの――ベッドに陣取るリドルは、変人どころか、どこにでもいそうな普通の少年に見える。名前のせいもあるのかもしれない。しかし不愉快そうに細められた黒い目に、そういえば二度三度物を壊されたり、盗られたりしたかもしれないと、思い出した。
 あまりにも多くの子供たちからいじめられたので、一々覚えてなかった。それに、
『名前を覚えていて下さったとは光栄だね――君とは十一年の付き合いだと思っていた』
 売れ残り同士ね。ご丁寧な注釈をつけて、リドルが鼻で哂った。
 ジェーンの反応も待たずに、リドルがベッド脇の椅子に手を伸ばす。椅子の上に乗っていた手鏡をひったくって、興味深げに観察し始めた。すっかりメッキも剥げ落ちてみすぼらしい手鏡を、熱心に見つめる。『この、持ち手の傷には見覚えがあるな』そう言うが早いか、リドルは手鏡を床に叩きつけた。鏡面の砕ける音を聞いても、ジェーンは怒るでも泣くでもなく黙っていた。
 リドルがくっと、傲岸そうに顎をしゃくって見せる。
『どうせ直せるんだろう。もったいぶらないで、とっとと直したら?』
『……もったいぶってるわけじゃあ、ないわ』
 躊躇いがちに零すジェーンの足元で、鏡の破片が集まり枠に収まっていった。
 子供たちからは罵倒されるだけでなく、リドルのように物を壊されることも度々あった。しかし手鏡や他の私物やらは、どんなに木端微塵にされようと次の日には直っているのがジェーンの“普通”だった。そのため物質的な害を気に留めたことはない。

『私がしてるわけじゃない。この手鏡が勝手に直るのよ』
 ジェーンはおずおずと反論した。
『私が魔女なんじゃあなくて、この手鏡が変わってるんじゃあないかしら』
『そんなら入学許可証の代わりに魔法省の役人が届いたはずだね』リドルは苛立たしげに手鏡を拾い上げた。『君は自分が特別だと思った事がないのか? 君はここにいるマグル全部を束にしたより価値がある、魔女なんだ』鏡面に映るのは、見慣れた、痩せぎすの子供だった。
『君は魔女だ。九月になったら、僕と一緒にホグワーツへ行くんだよ』
 リドルの台詞はまるで理解出来なかったが、ジェーンは流されるままにホグワーツへ入学することを承諾した。上手い断り文句が浮かばなかったとも言う。正直言って、全てリドルの狂言で、“九月になっても行くべき学校がないなんてことにならないとも分からない”と思った。如何な阿呆であろうと魔法や魔女といったものが架空の存在であることぐらい知っている。鉄塊さえ空を飛ぶこの二十世紀に、誰が魔法魔術学校なんぞの存在をすんなり信じるだろうか。増して相手は孤児院一の変人として名高いトム・マールヴォロ・リドルである。せめてもミセス・コールにはお伺いを立てなければと逃げ道を探ったのに、リドルは「僕が何とかするよ」と請け負って下さった。
 ダイアゴン横丁へはいつ買い物に行こうかとか、今から僕の教科書を読んどくと良いなどと言うリドルに流されながらジェーンは「このままで良いのだろうか」と心底悩んだ。
 リドルが信頼に足る人物でないことなど分かりきっている。
 別に魔法魔術学校が実際に存在していようと、いなかろうと、そんなことはジェーンにとって如何でも良かった。ただ、裏切られたくないと思った。この人に裏切られたくないと――自分の変化を恐れつつ、しかしジェーンは確かにそう望むようになっていた。

 一体いつジェーンはリドルに好意を抱いたのだろう?
 手紙を渡して貰った時か、握手を求められた時か、それとも自分に関心を示してくれる人なら誰でも良かったのかもしれない。飢えた野良犬のように見境のない好意だ。
 己の空洞を晒すようで惨めだと思ったし、みっともないとも思った。止めよう。私は一人で生きていける。ミセス・コールの言う通り、立派な大人にならなければならない。リドルと同じになっては、いけない。それなのに、気が付けばリドルと話すのが好きになっていた。実在するかさえ分からない学校の話を聞くのを心地よいと思うようになっていた。続きを強請ることさえ増えてきた。君は魔女なんだよと、リドルにそう言ってもらうのが嬉しかった。

 かつて一人で全てを拒絶し続けた木の下、よく二人でそこに陣取った。
 リドルの傍らで彼の話に耳を傾けるジェーンはひっそり微笑うようになっていた。ジェーンは依存にも似た感情でリドルを信頼するようになる。杖を手にしてからは、より深く。
 ホグワーツに一歩足を踏み入れた瞬間から、ジェーンはリドルのためだけに生きていこうと決めていた。リドルだけが、ジェーンに手を差し伸べてくれたから。

 ドゥ、入学おめでとう。
 レイブンクロー・カラーのネクタイを締め直しにきたリドルは、ジェーンのことをファミリーネームで呼んだ。それは何もホグワーツに来たからではない。孤児院で顔を突き合わせていた時から、リドルはジェーンをファミリーネームで呼んでいた。ジェーンもリドル同様、彼のことをファミリーネームで呼んでいた。しかしリドルの友人達が「トム」と呼んでいるのを聞くと、自分だってファーストネームで呼んでも良いのではないかとジェーンは思った。同じ孤児院出身で、互いに互いを認識したことがないとはいえ、実に十年もの歳月を共に暮らしてきたわけだ。
 ファーストネームで呼び合って可笑しい仲でもなかろうにと思っていながら、ジェーンはリドルをファーストネームで呼ぼうとはしなかった。ついさっき知り合ったばかりの同寮生たちから「知り合い?」と問われ、リドルの友人から同様に思われようと、リドルはジェーンをファミリーネームで呼び続けた。ジェーンはぎこちなく微笑んで見せると、隣に座る少女たちへ「九と四分の三番線への行き方を教わったの」と答えた。嘘ではなかった。ただ同じ孤児院出身であると言わないだけで、それは真実だった。ジェーンに応えて、リドルは「放って置けなくてね。無事友達も出来たようで、良かった」と微笑んだ。ませた女の子たちが頬を染める。それを見たジェーンは、リドルの容貌が美少年と言って差し支えない程度に整っていることを理解した。

 ジェーンはリドルの傍にべったり貼りついていたいわけではない。
 勿論、彼の話を聞いているのは楽しかったけれど、彼女にとって最も大事なのはリドルに疎まれないことだった。ジェーンは、リドルの機嫌を損ねないことだけを祈るようになっていた。
 新入生たちは宴の間中楽しげに過ごしていたが、ジェーンはじっと“自分たちの今後”について考えを巡らせていた。何故リドルが自分と知り合いであることを公言したがらないのだろう。孤児院育ちであると知られたくないのか? 否、そんなことは隠しきれるものではない。両親の話題にでもなれば、あっさり知れてしまうことだ。そんなことも分からない人ではあるまいに、何故ジェーンとの関係を誤魔化したがるのか? こんな痩せぎすの子供と知り合いなどと知れるのが恥ずかしいのかもしれない。ジェーンはかぼちゃスープに自分のみすぼらしい容姿を映してみた。如何にも孤児院出の子供といった感じの貧相な子どもだと、ジェーンは思った。
 少しでもリドルの機嫌を損ねないためには、自分は如何振舞うのが賢いのだろう。
 考えてみても、それはよく分からなかった。とりあえず“今日”は無事済んだことだけは薄ら理解出来た。ちゃんと考えて行動しさえすればリドルに疎まれずにすむに違いない。
 ジェーンは、兎に角隣に座っている少女に話しかけることにした。リドルが何を求めているか知るには、まずリドル以外の他人ともちゃんと付き合っていく必要があると思ったからだ。

 マグル界でのことが嘘のようにジェーンは外界に関心を示すようになった。
 孤立もせず、かといって他人と親しくなりすぎもしないよう過ごすよう心がけ、身嗜みにも気を使った。両親がいないことや他人と深く関わらないことで下らないイジメや蔑視に巻き込まれることはあったけれど、そういったものの大半はジェーンが相手を無視しているだけで無くなった。
 ホグワーツに入学して以来リドルから話しかけて貰うどころか視線が合うことさえなかったけれど、ジェーンは気にしないよう努めた。リドルが誰と何を話そうと、夏季休暇がくればジェーンと話す他ないのだ。幸いにしてジェーンはリドルの無関心さに焦るほど愚かではなかった。
 夏季休暇に限ったことでなく、ジェーンは時を待つことにした。リドルに「知り合いだと言って紹介するに相応しい人物」と思って貰えるよう尽力して、“孤児院出の痩せぎすの子供”から”レイブンクロー寮の女学生”になるのを待つのだ。身嗜みを整えるのに比べ、魔法の授業はジェーンの肌に合った。教科書を読んでいるだけでも愉快だったし、杖を振るのも楽しかった。
 特定の友人を作ろうとしないジェーンには自由時間が有り余っていて、勉強は幾らでも出来た。

『ドゥ、学年主席だったんだって?』
 待ちわびた夏季休暇。成績について言及されると、ジェーンは天にも昇りたい気持ちになった。
『ええ、そうよ』ジェーンは少し小さくなった椅子に座り直した。自分のベッドに陣取るリドルから視線を逸らして頷く。『魔法の勉強って、マグルのよりずっと面白くって――』リドルの顔色を伺いながら、なるたけ自慢げに聞こえないよう言葉を続ける。『とってもやりがいがあるわ。リドルは如何思う? 二年連続で主席だったって、私、ダンブルドア教授から聞いたの』
 自分がリドルの知り合いだと誇示して回っているのではと思われないよう、ジェーンは慌ててダンブルドア教授の下りを付け加えた。この一年で覚えた“笑顔”を張り付けて、言葉を続ける。
『リドルにとっては簡単なのかしら。先生たちは才能としか思えないって、そう言ってる』
『簡単ということはないよ――まあ“習わされること”以外はね』リドルはジェーンの称賛に気をよくしたらしく、クスリと微笑した。きょとんとしてるジェーンに手を伸ばして、その鼻をちょっとつまんだ。『魔法は、奥が深くて面白い学問だ。持って生まれた運命も変えられる』
 私がごみ箱に産まれたということもと、ジェーンはそんなことを少し思った。しかしすぐにその疑問を掻き消した。止めよう、私にはリドルがいる。リドルさえいれば何も要らない。
 リドルと親密になって以来、ジェーンは己の出生について考えるのを止めた。自分の中にある負の感情が何か一つでも消化されたわけではなかった。かつては何も考えないことで目を逸らし、今はリドルに焦点を合わす事で避けているに過ぎない。それで良いのだ。ジェーンは、自分の心が解放されることを求めていない。彼女が求めているのはリドルだけだった。リドルに疎まれないためには如何振舞えば良いのか、それだけがジェーンの思考の全てとなりつつあった。

 この時もジェーンはリドルの話へ相槌を打ちながら、色々な事を考えていた。
 リドルの台詞の意図を知りたがったら、不興を買うだろうか。しかし単に褒めるだけでは、頭がないと思われはしないだろうか。困惑するジェーンに、リドルが語りかける。
『君は馬鹿じゃないようだから、その内僕の言う事が分かるかもしれない』
 ジェーンを見つめて細められる黒い瞳にははっきりと嘲りがこもっていた。ジェーンもリドルから見下されているらしきこと、リドルが自分相手に優越感を抱いているらしきことは分かっていた。それでも構わないと結論付け、ジェーンは見て見ぬふりを決め込む。
 ジェーンが恐れるのは、この少年に見放されることだけだった。リドルに疎まれないよう、そのためだけに勉学に励んだ。リドルから見下されることについては何の痛痒も感じない。

 ジェーンが二年連続で主席を取ったと知ったリドルは「君は賢い子だね」と褒めてくれた。
 リドルと言葉を交わすのは夏季休暇中に限られていて、相変わらずホグワーツでは視線が合うのが精いっぱいだったけれど、ほんの僅か褒められるだけでジェーンは堪らなく嬉しくなった。また一年、リドルに褒められるために精一杯努力しようという気持ちになれた。
 この人に必要とされたい。もう母親も父親も要らない。この人だけいれば良い。必要とされたかった。求められたかった。勉強のことは言うまでもなく、容姿も更に磨くようにして、もう少し他人と関わるようになった。同寮生からの信頼も得ていなければ、勉強が出来るだけでは監督生になれない。監督生に選ばれたなら、リドルがどんなにか褒めてくれるだろう。それだけがジェーンの原動力だった。リドルに誉めて貰いたかった。リドルのようになりたかった。
 ジェーンにとって、リドルの価値観が全てだった。リドルの価値観が全てだと思う事で、他の何もかもを忘れてしまいたかった――自分がごみ箱産まれのジェーンだという、現実を。
 リドルはジェーンがごみ箱産まれであるのを知っていたが、決してジェーンのことをそう呼ぶことはなかった。嬉しいとは思わなかった。ジェーンを見下す彼が頑ななまでにその話題に触れようともしないのが、少しだけ不思議だった。最早、古い揶揄の一つに過ぎないのに。

ごみ箱の外



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