ジェーンと彼は別に親しかったわけでも、何か気の合うところがあったわけでもない。

 彼は奪う事でしか他人と関わろうとしなかったし、ジェーンも奪われるような“何か”を持っていなかったからだ。元々目立つ性質でなかったのも手伝って、彼はジェーンに無関心だった。
 その一方で、ジェーンもまた老若を問わず煙たがられる少年に関心を持とうとはしなかった。誰が好んでトラブルメーカーに関わりを持つだろう? 十年近く同じ場所に暮らしながら、二人はろくな接点を持たなかった。しかし接点らしい接点がない代わり、類似点だけが一つある。
 たった一つの類似点――喧騒より孤独を好く、それだけが二人の繋がりとなりえた。尤も、孤独は“群れ”では成立しえない。それ故“たった一つの類似点”は、そのまま二人の距離を遠くするだけだった。勿論、当事者たちにとって類似点も自分たちの距離も知覚の外にあるのは言うまでもない。二人は孤独を好いていた。要するに、誰にも何の関心を持っていないということだ。

 少年は孤独が好きだった。下らない俗物と関わらないでいられるから。
 少女は孤独が好きだった。自分の手に何も乗っていないことを自覚せずにいられるから。

 二人は十年もの間ずっと、互いを認識することなく暮らしてきた。
 そんな二人の間に“線”が引かれたのは一九三九年の、強烈なまでの日差しが視界を焼きたがる、暑い夏の日のことだった。擦り切れるほど繰り返してきた、(孤児に限って言えばと、注釈するべきだろう)有り触れた夏の朝のことだ。要するに、ジェーンにとっての“いつもの朝”だった。
 ジェーンは母親の産道を出てすぐ捨てられた。ペシャンコに潰れたマットレスにも、夏季休暇でいつも以上に閑散としている院内にも、冷たく冷え切った食事にも、慣れ切っていた。
 ただ、“慣れ”で何もかもが上手くいくわけではない。同じ壁に何度もぶち当たりながら疲弊することだって“惰性”のひとつだ。ジェーンは、その日も数人の子供と共に食堂へ残されていた。朝食に出されたオートミールを持て余していたのである。彼女は、この、パサパサと舌の上で嵩張るだけで、ちょっとの甘味もついていない食べ物を好いていなかった。
 せめてブラウンシュガーでもあれば良いものを、テーブルの上にあるのは塩や胡椒の瓶だけで、オートミールを食べる助けになりそうなものは何もなかった。空の食器を片すヘルパーは、ほんの一粒のオーツ麦さえ残させないといった調子で少女を見張っている。ジェーンは仕方なく“悪魔の穀物”を山盛りにしたスプーンを頬張った。嫌いな食べ物を前にぐずるほど子どもではなかったし、ぐずって何かが解決した覚えもない。例え皿の上に盛られたのが毒だったとしても、ジェーンは口にしただろう。主のお恵みに感謝するのですよ。食べ物に纏わるトラブルがあると、必ず言われる言葉だ。表向き「感謝します」と応じるものの、つい先日十一歳になったばかりのジェーンは釈然としない。水をワインに変えることが出来る神さまが、何故子どもの好き嫌いに目くじらを立てるのだろう。ぱぱっと、ライスプディングとかに変えてくれればいいのに。

 ジェーン、主はいつも見ておられるのですよ。
 ジェーンのちいちゃな胃が水とオーツ麦でパンパンになった頃、ようやっとヘルパーの許しが下りた。次にイエス・キリストのお節介なお恵みに与るまで、空腹を覚えることはなさそうだ。ああ、慈悲深く狭量な主よ。この子羊の願いを聞き届け、地上からオーツ麦を消し去って下さい。
 呪詛を胸に、ジェーンはよろよろと人っ子一人いない食堂を後にした。いや食堂どころか、陰気な廊下にも、食堂を出て左手にあるプレイルームにも、凡そ部屋の中に残っている子供はいないようだった。夏季とはいえ曇天の多いロンドンで、たまの晴れ間がどれだけ貴重かよくわかる。
 食堂の扉を押し開けると、風が聞き慣れた喧騒を運んできた。ジェーンは廊下の壁へ均等に並ぶ窓の一つに近寄って、外を覗き込む。鮮烈な光のなかで、見知った子供たちがはしゃいでいた。
 無駄にくちい腹を撫でさすりながら、ジェーンは思った。別世界を映しているようだ。
 夏日は全てを照らしだせそうなほどに眩しかったが、外の世界が明るければ明るいほどに院内は暗く静かだった。生々しい色彩をひと睨みしてから、ジェーンは廊下の角を右に曲がった。
 外へ出る気にはなれなかった。かといって自室に何か熱中出来るような何かがあるわけではないのだけれど、外へ行きたくないのなら仕方ない。十年も孤児をやっていると、自然と時間を潰すのが得意になる。太腿を爪でひっかいて一人○×ゲームをしようか、窓辺で日光浴をしても良い。
 二階へ続く階段を目指して、ジェーンは一人歩き続けた。育ちざかりの子供達のおかげで外観こそみすぼらしいものの、床板自体の老朽はそう酷くない。そうでなくとも痩せぎすのジェーンは静かに歩くのが得意だった。院内は地中か水中へ埋まってしまったかのように静まり返っていた。
 ジェーンはつま先から滲む沈黙を快く感じていたが、その静寂も長くは続かなかった。

「随分と遅い朝食だったね」
 階段の踊り場から振ってきた声に、顔をあげる。
 視線の先に、見覚えのある少年がいた。名前は分からなかった。他人に無関心なジェーンは、クラスメイトの名前さえ碌々覚えていない。目の前にいる少年についても、自分へ親しげに声を掛けるはずのない誰かということしか分からなかった。ジェーンには友達はいなかったし、自発的に声を掛けてくるのは大人たち以外にいない。自分の身の上を憐れんでくださる大人達だけが少女の全てで、踊り場から話しかけてくる少年は明らかに“異端分子”だった。
 ジェーンはごくりと唾を飲んで、手すりに縋りついた。急に、床が抜け落ちたような気がした。
「君に、」ジェーンが怯えているのも無視して、少年は言葉を続ける。「君に手紙がきてる」
 君の手紙だ。愉悦と侮蔑混じりの言葉だった。ジェーンにはよくわからない激情を迸らせて、少年は分厚い封筒をヒラヒラと顔の横に掲げた。上等な封筒に、サファイアブルーのインクで宛名が記されている。確かに手紙の宛名はジェーン・ドゥ様となっていたけれど、封が開いていた。
 この少年が勝手に読んだのだろうか? 否、別に誰が読もうと、如何でも良いとジェーンは思った。ジェーンは生まれた時から孤児だった。今更どこにも行きたくないし、何にも興味を持ちたくない。ギイと床板がしなり、トンと軽やかな音と共に少年が下りてきた。彼との距離が縮まるにつれ、ジェーンが纏っていた“無関心”という鎧が脱げていく気がした。
 沈黙という盾を失ったジェーンは彼を追い払う手段も思いつかず、ただ呆然と少年を見上げた。

「ほら、君の手紙だ」
 少年はジェーンのところまで降りてくると、手紙を差し出した。
 ジェーンは胸の前で指を組んで、俯いた。少年の黒い瞳でじっと見つめられるのが恥ずかしかったのだ。それに、ジェーンは今の今まで自分宛の手紙なんて貰ったことがなかった。
 もっと率直な本音を言えば、“誰かが自分に関心を持っているのかもしれない”という事実は十分過ぎるほどジェーンを喜ばせた。自分を守るための鎧を失ったジェーンは自分が喜んでいることを理解していたけれど、それが逆に彼女を慎重にさせた。もし喜びを露わに手紙を受け取って、それが誰かの悪戯だったら後で皆に馬鹿にされるだろう。ジェーンは小さく「わたし、」と言ってみた。一度口を開けばこの場を切り抜けるための呪文が浮かぶのではないか――そんな期待も儚く、ジェーンは口を噤んだ。ジェーンの逡巡を知ってか知らずか、少年が無理に手を取った。
 汗ばんで生温かい手のなかに、少年の冷たい指が滑り込む。ぎょっとして、ジェーンは顔を上げた。目が合う。「君のだ」ジェーンに手紙を握らせながら、彼が言った。「さあ、読むんだ」
 その高圧的な口調に促されるまま、ジェーンは便箋を取り出した。

「のろまの君が魔女だとは思ってなかったな。それもホグワーツへ入れるような魔女だなんて」
 ジェーンが手紙を読む傍らで、少年は訳の分からない台詞を零していた。魔女。ホグワーツ魔法魔術学校。大鍋。ダイアゴン横丁。眼下に広がる紙面も、訳の分からなさでは引けを取らない。
 少年の命じるまま最初から最後まで目を通したものの、手紙に書かれていた文章は、その一単語さえジェーンの頭に入ってこなかった。手紙を読み終えれば、この得体の知れない少年は今までと同じにふいとそっぽを向いて、どこかジェーンのいない場所へ行ってしまうだろう――それだけを支えに読み終えたのに、ジェーンが便箋を封筒に仕舞っても、少年はまだそこにいた。
「おめでとう」ジェーンは視線をあげた。「歓迎するよ、ドゥ」
 眩しげに細められた目が一瞬だけ赤く、不快そうに淀んだ。と、ジェーンはそんな気がした。したのだけれど、少年は年上らしく優しげだった。少年はジェーンの視線を受け止めて微笑する。
「じきに僕の時と同じようにダンブルドア先生が色々な説明をしにくるだろう。それとも、こうして梟だけが来たということは僕に君の面倒を見ろということなのかもしれない。どちらにせよ君は僕の後輩になるわけだ」白い手が、ジェーンに差し出された。おずおずと握手に応じる。
 後輩が出来てうれしいよ。少年がジェーンの耳元で囁きかけ、握手で結ばれていない手が親し気に肩を叩く。百年来の友に再会したかのような歓迎ぶりだった。ついさっきまで、いや未だにジェーンはこの少年の名前さえ思い出せないのに。そして彼もジェーンを“のろま”と称したくせに。
 ジェーンはおしのように黙り込み、少年のされるがままになっていた。抵抗しようという気力はなく、“魔法魔術学校”について問い詰めたいとさえ思わず、ただ唐突な親愛と手紙に圧倒されていた。少年の台詞を聞き流しながら、肩越しに見える窓を見上げる。四角く切り取られた世界は夏めいて青く、ジェーンの思考を焼いた。ジェーンは少年の腕の中で、「そういえば」と、ふと思った。そういえば、宛名のインクは空と同じ色だった。白地に滲んでいるからか穏やかな色で、実際の夏空よりかは眩しくはなかった。あの青なら、嫌いではないとジェーンは思った。

 この青なら……手紙が届いてから凡そ一月後、組み分け帽子の告げた寮のタペストリーも青く、少年は「同寮になれなかったのは残念だけど」と、ジェーンのネクタイを結んでくれた。
 銅と絡む青に、ジェーンは……ジェーンは何と思っただろう。己の入学を喜んでくれる少年に、何を感じたのだろう。ジェーンは幼い頃に目にした、どの青のことも覚えていない。
 口喧しいヘルパーのことも、夏日のなかで陰気だった四角い建物も、そこで過ごした日々も、彼女はもう何も覚えていなかった。過去が過去になる前に急いて、彼女は全てを忘れた。

 レイブンクローのジェーン・ドゥは孤児院育ち。
 彼女はかつて己の額へ杖先を当てた男と同じ場所で暮らしていた――かつて、ずっと昔のこと。

「      」



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