「ジェーン、こっちよ」
 彼方から聞こえる声に、ジェーンは週刊魔女を捲るのを止めた。
ゆるりと顔を上げて、右から左へスライドする視界に声の主を探す。こっち、こっちよ。受付近くで手をこまねく母親を見つけると、ジェーンは膝の上の雑誌をハンドバッグに仕舞った。
 受付ロビーの隅には週刊魔女だけでなく、日刊預言者新聞からクィブラーまで揃っているが、生憎ジェーンには数年遅れの情報誌を読む趣味はない。どうせ読むなら最新号のほうが良いと思って、来る途中にフローリッシュ・アンド・ブロッツ書店で時間つぶしの読み物を買い求めてきた。尤も週間魔女の内容が五十年前から進歩しているとは思えないが。買った雑誌を処分する手間を考えれば、五十年前の週間魔女を読むほうがよっぽど建設的なふるまいだったかもしれない。
 どうも暇つぶしは苦手だなーージェーンは内心肩を竦めながら、立ち上がろうとした。
 腰を浮かすか浮かさないかのタイミングで、隣の大柄な魔法使いがじとりと恨めしそうな視線をくれる。ジェーンは苦笑した。「すみません、連れが来たんで……」魔法使いが物言いたげに口を尖らせる。尖らせるけど、何も言わない。申し訳ないことに、ジェーンは煮え切らない態度を取る他人に付き合うほど暇人ではない。悪いと思いつつ、ジェーンは思い切りより立ち上がった。
 院内アナウンスや清算を待つ人の群れをすいすいと抜けていくジェーンの背後では、先まで座っていた椅子と魔法使いがひっくり返っていた。可哀想だけれど、ジェーンとていつまでもシーソーの重し代わりになってはいられないのだ。病院内だから、万一打ち所が悪くても大丈夫だろう。床に投げ出された魔法使いを振り返り見ていると、ローブの袖を引っ張られた。
「あんたってほんとのろま屋なんだから……」
「ああ、ごめん」年のせいか、ここのところ小うるさくなった母親に、ジェーンは肩を竦めて見せる。「でも母さんだってちっとばか遅かったじゃあないか」
「前に話したでしょ? この間うちの店に雇ったひとがどんくさいのよ」
 ふんと鼻を鳴らすと、母親はジェーンの先に立って歩きはじめた。ジェーンも母について歩く。人の疎らな通路をサカサカ進む母へ追いつくべく大股で歩こうとした瞬間、ジェーンは、学校指定と同じ黒いローブの下に着こんでいるのがスーツで、履いているのがヒールの高いパンプスであることを思いだした。動きやすかったプリーツスカートもスニーカーも、もうジェーンの手元にはない。ジェーンは所謂“新社会人”という奴で、まだホグワーツ生気分が抜けきっていなかった。特に母親と一緒にいると、自分が大人以外の何かであるような気持ちになってしまう。
 大人以外の何かであるような気持ちにーー日々の生活で摩耗して、重たい体をようよう引きずって生きている、そんな現実なぞなかったかのように思うのだった。無論、加齢は誤魔化せない。
「ちょっと、もう少しゆっくり歩いてくれる」ジェーンは顎をあげて、母の背を呼び止めた。
 母親はちらりと上体を捻って振り向くと、速度を落としてジェーンの隣に並んだ。
「休みの日ぐらいスーツ脱いだら良いのに」
「休みじゃない。三時間だけ抜けさせてくれるってんで、出てきたんだよ」
 ジェーンの台詞に母親は顔を顰めた。
「あんたが今日が良いって指定したんじゃあないの……しかも、つい昨日のことよ」
「ああ、そうだよ」ジェーンはウンザリだと言わんばかりに頭を振った。「一昨日出張から帰ってきて、昨日同僚が報告書作るの手伝ってくれたんで、今日久しぶりに時間取れたの――呪文性損傷?」今にも自分を非難しはじめそうな母親へ知らんふりを決め込んで、ジェーンは階段を上り始めた。ギプスをはめた魔女が下りてくるので、手すりを離して反対側に寄る。
 ジェーンと同じく左に寄った母親が「魔クテリア性疾患のほうに移されたのよ」と素っ気なく答えた。「三階の魔クテリア性疾患」母親の声は、ジェーンを詰るような、縋るような、そんな響きだった。ジェーンはそれにも気づかぬふりをして、トントンと階段を上り続ける。

 つい先日、曾祖母が倒れた。
 母親からの手紙を読む限りでは少し早い痴呆ぐらいに思っていたが、体内の免疫力も低下しているらしい。感染症を併発していると聞かされてもジェーンは、「ああ」と短く零すだけだった。もう長くないの。どんな風なの。まだ七十歳なのに、死ぬには早いんじゃあないの。母親へ聞きたい事も言ってやりたい事も沢山あった。それでもジェーンは、自分で結論づけるのに慣れ過ぎていた。今問いただしたって、きっと母親は狼狽するだけだし、曾祖母の容体がよくなるわけでもない。それに“もう”七十歳にもなるのだから、もしもが有りえないわけでもない。ジェーンはポケットを探りながら、浅いため息を落とした。「ああ、そう。魔クテリア、三階のね」
 ジェーンの投げやりな返事に、母親が眉を寄せた。振りかえらなくても分かる。次の台詞は――母親の忍耐次第だけれど――冷たい子ね、だ。しかし母親はわざとらしく深いため息を落としてから、「そうよ」と呟くだけだった。久々に会った娘に嫌味を言う気にはなれなかったらしい。それとも、ジェーンと口論をする余力さえないのかもしれない。親子二人、無言で階段を上る。

 四つある寝台を埋める人々は皆心地よさげに、昼寝を楽しんでいるように見えた。
 光源が二つしかない病室はうす暗いものの、清潔で、居心地のよい部屋だった。沈鬱な面持ちでベッド脇の椅子へ掛ける見舞客さえいなければ、この部屋に重篤な患者ばかりが詰め込まれていると気づく人はいなかっただろう。ジェーンは母親の後をついて、曾祖母の眠るベッドに近づいた。
 曾祖母を除いて、見舞い客がいるベッドは一つしかない。少女のものだろう小さな手を握りながら、女が細い声で話しかけている。木々の葉が擦れるような、優しげに儚い響きだった。
 周りで眠る人々と同じく、曾祖母もこん睡状態に陥ってる。今にも消えそうな呼吸音が、薄い胸を上下させていた。積もる話をするどころか、二度と目を覚ますこともない。
 ジェーンは、母親を詰ろうとした、ついさっきの自分を恥じた。そして、忙しさにかまけて、曾祖母を訪ねようとしなかった薄情さを悔いた。久方ぶりに会う祖母は、ベッドに埋もれているからか、自分が大人になったからか、子ウサギのように小さく感じた。一番最後に話したことは、何だっただろう。ジェーンは枕の上、顔の横に添えられた曾祖母の手を取って、腰を屈めた。
「ひいばあ、久しぶり。来るの遅くなって、ごめん……あんまり苦しそうでなくて、良かった」
 あんまり苦しくなければ良いなと、ジェーンは己の望みをそう口にした。

 母親はジェーンと自分のために椅子を二脚出すと、以前来た時から殆ど変わっていないベッド脇の棚を整理し始めた。曾祖母の衣類や、その横にある、祖母の好きだった紅茶の茶葉を新しいものと交換する。院内は地中か水中へ埋まってしまったかのように静かだった。
 片手で足りるほどの用事を済ますと、母親もジェーンの隣に腰掛けた。互いに黙って曾祖母の寝顔を見つめ、娘が起きるのを待つ女の声に耳を澄ませていたが、ふいに母親が口を開いた。
「……ひいばあちゃんねえ、レイブンクロー寮生だったのよ」
 ジェーンは曾祖母の手を握ったまま、母親に振り向いた。
 自分だけでなく、凡そ過去という過去の話を嫌っている母親らしくもない台詞だった。
 ジェーンは二度三度瞬きしてから、「へえ……」と、考え考え相槌を打った。如何いう反応を返したらいいのか、分からなかった。元々歪な家庭に育ったのもあって、家族は皆“自分”というものに寡黙だった。曾祖母だけでなく、母親のことも、早くに死んだという父親についても知っていることは少ない。「ひいばあちゃんの学生時代の話なんて……初めて聞く」
 曾祖母は母親と比べて昔話を嫌っているわけではなかったけれど、しかし己の若かりし頃の話をしないという点では同じだった。口数は多くなかったとはいえ、父の話やら昔のダイアゴン横丁の話やら教えてくれていたので、曾祖母本人の話を聞いたことがないと意識したことはなかった。今思えばジェーンの関心が己の若い頃に向かぬよう、故意に話を逸らしていたのかもしれない。
「そうでしょうね。私だって、ダンブルドア校長から教えて貰ったのだから」
「ダンブルドア校長?」
 思いがけない台詞にジェーンはオウム返しで聞き返した。
 ついこの間までホグワーツ生だったジェーンにとっても、母親にとっても親しみのある名前だ。しかし、曾祖母の口からは一度だって聞いたことがない名前だった。
「ひいばあちゃんの後見人だったんですって。ホグワーツを中退してから、うちの店が軌道に乗るまでね。開店するにあたって無利子でお金も貸してくれたって、ひいばあちゃんが言ってた」
「ひいばあちゃんは起業したくてホグワーツを中退したってこと? フレッド達と同じに」
 母親は頭を振った。
「六年の半ばに記憶喪失になったのよ。誰とどこでどんなことをしたっていう、エピソード記憶だけじゃなくて、自分が何を出来るか覚えておく意味記憶のほうも駄目になっちゃってたから……ホグワーツで勉強するどころか、聖マンゴで治療しなけりゃならない状態になったそうよ。ダンブルドアが後見人として良くしてくだすったから二十歳の頃にはもうすっかりよくなって、働けるまでに回復したらしいの。でもそれより前のことは何も覚えてないのよ」そこで台詞を切ると、母親はジェーンを横目で見た。「……だから、昔話をしてくれなかったのね。私も、ひいばあちゃんしかいなかったから、それが、家族の過去を知らないのが可笑しいことだとは思わなかった」
 母親が僅かに腰を浮かして、両の手を伸ばした。曾祖母の手を握ったままのジェーンの手も一緒に、母の手に包まれる。普段勝気に吊り上がっている母の目が、涙の膜で潤んでいた。
「もう、目が覚めても、わたしの、ううん、もう」
 もう二度と目を覚まさない。もう二度と、母親の知っている曾祖母は帰ってこない。
 ジェーンは片手で、母親の肩を抱いた。子どものようにいつまでも泣きじゃくる母親の背を撫でながら、今にも目を覚ましそうな曾祖母の寝顔を見つめる。その目元に、じわりと熱が宿った。
 同じ屋根の下に暮らしていたというだけで、如何してあんなに無心に“この人はどこへも行かない”と信じていられたのか、ジェーンは不思議になった。ジェーンの知らない人生を生きた人が、今またジェーンの知らないところへ行こうとしている。ジェーンを置いて、母を置いて。

 寝台に眠る“ジェーン”は全てを忘れて、死の口付けを待っている。
 何の夢を見ているのだろう。涙をこらえるため、ジェーンは考えた。うつくしい夢であるようにと、祈った。どうか、このひとの走馬灯がうつくしいものでありますように。

ジェーンは眠る、夢をみる



prev next



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -