▼ 手放すものか
別れましょう
今までありがとうございました
そう簡潔に綴り、メールを送信。
ケータイの電源を落としてカバンにしまった。
「よし」
がらんとした部屋。
あらかた荷物は処分し、最低限トランクルームにあずけた。それもおいおい処分するつもりだ。
「すみません、遅くなりまして」
「よろしくお願いします」
不動産屋の立ち会いの元部屋の最終チェックを経てこの部屋は解約となる。
「入院ですか、大変ですね」
風呂場、トイレ、廊下など隅々までチェックが入る。
「ええ。長くなるので家賃もったいなくて。なかなかいい部屋だったから惜しいんですけどね」
入院。
これから私は病院に向かう。
「退院したらまたぜひ声かけてくださいね!ここは空いてるかわからないですけど、必ず気に入ってもらえるお部屋ご紹介しますので!」
愛想笑いで返しすっかり我が手に馴染んだ鍵を渡した。
健康診断で要再検査の結果が送られてきたのが半年前。
なんだかんだ理由をつけて引き伸ばして精密検査を受けたのが3か月前。
病気の告知を受けたのが2か月前。
それからベッドがあくまで待って……いや、彼氏のことを考えたら入院したくなくてずるずる先延ばしにしていただけだけれども、やっと今日入院する。
流しのタクシーをつかまえて市立病院の名前を告げる。
彼には言わない。この事実と未来は彼を苦しめるとわかりきっている。
だって彼は過去に奥さんを病気で亡くしているから。
それから十年以上経ってやっとまた恋愛してみようかなと思ったところに同じ未来を見せてしまうのは流石に酷だろう。
最後まで一緒にいて欲しいとすがりつけば優しい彼のことだ、きっと私の手を握っていてくれるだろう。
離れ難くてギリギリまで別れを切り出せなかった。会う度に今日こそはと覚悟を決めたつもりでいても、頭の中で何度も繰り返した言葉はいざ口から出るその時になると喉に張り付いて出てこないのだ。
結局メールで別れを告げた。
私が同じことをされたら多分納得しない。
生憎納得してもらえるような気がきいた理由を用意出来なかったのでケータイの電源を落として逃げ切ることにした。
嘘でも他に好きな人ができたとか、嫌いになったとは言いたくなかった。
遠くにジャスティスタワーが見えた。
今、彼はジャスティスタワーにいるのだろうか。それとも会社だろうか。
鼻がつんと痛む。
大丈夫、そう何度繰り返してみても全く収まらなかった。
*
尻のポケットでケータイが震える。
メールの着信を知らせる短い振動が切れる前にスライドロックを解除した。
メールの差出人は付き合って半年になる彼女からだった。
なんだろう。今夜のお誘いだったりして。
思わず緩む口元を隠す努力もせずメールを開いた。
何のジョークかと思った。
ずっと下にスクロールしていけば冗談だと告げる文が出てくるかと思えばそれもなかった。
ちょっとトイレ、と隣の相棒と向かいのオバチャンに断りを入れてオフィスを出る。リダイヤルしてリツに電話をかけるが機械的な音声で電波が届かないか電源が入っていない旨のガイダンスが流れる。
気づき次第連絡をくれとメールを入れオフィスに戻った。
が、仕事が手につかない。頭が働かない。そうだ頭の栄養はブドウ糖だ、と引き出しをあさり飴を探し出し口に放りこめばいつもならその甘さに気分が上昇傾向に修正されるはずがいたずらに味蕾を刺激するだけでちっとも美味しく感じない。
それどころか不快感さえ感じる始末だ。
包み紙にそっと吐き出しゴミ箱に放り投げる。
「虎徹さん、大丈夫ですか?」
風邪ですか、と相棒が俺の顔色を指摘する。
まったく、体調管理もまともにできないなんて。何年ヒーローやってるんですか、これだからおじさんは。
いつもの小言。愛想笑いで流す。
「なんでもねーよ」
本当はかなりのおおごと。一大事。おれ何かやらかしたっけ。
浮気なんてもってのほか。するはずがないし、もしかしてあれかな、この前デート中に出動要請があって一人にさせてしまった……のは日常茶飯事な気がする。
コールよ鳴るなと願う時ほど、というやつだ。
原因がわからずともとりあえず謝ろう。花と何か美味いものでも買って今日は俺がなんかメシ作ろう。なんかといっても選択肢はチャーハンしかないのだけれど。
早く帰りたい。
しかしプライベートを持ち出すわけにもいかず平静を装ってペンを握り直した。
*
「んだよコレ」
小さなアレンジメントのブーケとケーキ屋のうまいプリンーーリツの好物をもち彼女の部屋を訪ねた。
入居者募集
××不動産TELーー
ドアに貼られた貼り紙を前に呆然とした。
我に返りリツに電話をかける。
昼間と同じように機械的な音声でガイダンスが流れただけだった。
どうして。
引っ越して連絡を断つほどおれと別れたかったのか。
どうして。どうして。
「あら、ニノミヤさんなら引っ越したよ」
コンビニ袋を下げた老人が声をかけてきた。
「……いつ、引越しました?引越し先は……」
「今日だよ。お昼ぐらいかねぇ……引越し先は聞いてないけど、仕事も辞めたみたいだし、実家にでも帰ったんじゃないかい」
実家。そんなはずない。両親は亡くなっていて既に実家はないはずだ。
「そう……ですか。すんません、ありがとうございます」
老人に頭を下げて踵を返す。
どうしようもない虚無感に見舞われ階段に座り込んだ。
ケータイで時刻を確認しようとすれば待受はリツの盗み撮りで、じわりと視界がゆがむ。
「リツ……」
どうして。
常に彼女は笑顔だった。
なのにどうして、こんな。
またリツの番号にかける。結果はわかっていてももしかしたら、もしかしたら今度こそは出てくれるかもしれないと期待を込めて発信する。
「っくしょう」
何度かけてもリツの声が聞こえてくることはなかった。
*
「あら、今日はリツいないのね」
仕事の前に会社の近くのコーヒーショップでタンブラーにコーヒーを入れてもらおうと立ち寄ったら見慣れた顔がいなかった。
「店長なら辞めましたよ」
「そうだったの」
私がヒーローTVの関係者だと知ると、彼女はよくサービスをしてくれた。レギュラーがトールになっていたり、レジ横のクッキーをおまけしてくれたり。
ーージュベールさん、もしよかったら。賞味期限来ちゃうと廃棄になってしまうので。
「彼女、何かあったの?」
「入院しちゃったんです。病気が見つかって、長くかかるから迷惑がかかるって」
「あら……」
病気。いつも溌剌としていた彼女からは予想だにできない回答だった。
「どこの病院なのかしら」
「さあ……そこまでは聞いてなくて」
店員に礼を告げて店を出る。
彼は、ワイルドタイガーはこのことを知っているのだろうか。
なんの拍子にか、ここのコーヒーショップが行きつけだと話した時に実はそこの店員と付き合い始めたと照れながらカミングアウトされた。
彼が奥さんとのことを引きずっているのを知っていたから心底驚いたものだ。
名前を聞き出し、コーヒーショップでネームプレートをチェックして妙に納得した。
確かにこの店員ならば無理もないな、と女の感が告げていた。
明るく朗らかでテキパキと仕事をこなす。顧客の好みを覚えていて丁寧な対応、こちらもつられて笑顔になってしまうような彼女の笑みはそこだけ春の陽光が降り注いでいるかのようだった。
なんにせよ、彼が前向きになるのは良いことだ。
なのに。
亡くなった奥さんと状況が重なる。
彼は大丈夫だろうか。
ーー大丈夫ではなかった。
朝イチの出動要請のコールをすればモニターに映し出された彼の顔にはクマができ覇気はゼロ(これは普段もだが)明らかに憔悴していた。
そんなに彼女の病状は思わしくないのか。
「ちょっとタイガー!シャキッとしなさい!!リツが中継見たら心配するわよ!?」
『……見ねーっすよ』
「え?そんなに彼女……悪いの?」
『悪い?』
「ねえいつから?全然気づかなかったんだけど。ああとにかく話は後!早く現場に向かって!」
テレビが見れないほど彼女の状態は悪いのだろうか。最後に彼女に会ったのは三日前。いつもと何ら変わりなかった。
一体どうしたのかしら。
*
『 え?そんなに彼女……悪いの?』
「悪い?」
思わず聞き返した。だがそれ以上は情報が得られずアニエスの『後で』のためにとにかく現場に急いだ。
急いで片付けて(主にバニーとスカイハイが)着替えもする時間が惜しくヒーロースーツのままPDAでアニエスに繋ぐ。
「アニエス、リツのこと何か知ってんのか」
『あんたの方が知ってるんじゃないの?今度お見舞い渡すから持って行って頂戴』
何がいいかしらね、などと呑気に言っているが、こちらは理解が追いつかない。
お見舞い
悪い
『で、彼女どこに入院してるの? ーーちょっとタイガー聞いてるの?』
「アニエス、俺……」
入院なんて聞いてない。
息が詰まって吸えない。吐けない。
苦しい。
*
捜査権のないヒーローだけど、こういう仕事をしているとあちこちにくだらないコネが出来る。
やっとのことで調べあげた市立病院の大部屋に会いに行けばリツは困ったように笑った。
「どうしたの、こんなところで」
「見舞いに来ちゃ悪いかよ」
彼女の許可も取らずベッドに腰掛ける。
「あのメールな」
「あのメールのとおりよ」
別れましょう
今までありがとうございました
「まさかこんなに早く見つかっちゃうなんて驚いた」
「……」
記憶の中のリツより少し痩せたか。頬の肉が薄くなっている。
「なんで言わなかったんだよ」
「別れた人に言う理由はないわ」
「俺は別れたつもりないぜ」
「別れてちょうだい」
「嫌だ」
無意味な応酬。
別れてなんかやるもんか。
「リツ、そんなにおれは頼りないか?」
ひくり、と彼女が震えた。
「入院したって聞いて、どんだけ心配したか」
なんの病気なのかもわからない。出動中にリツが苦しんでいるんじゃないか。それこそ死んでしまったら……ともえが脳裏によぎった。
探し出すまで気が気じゃなかった。
「リツ」
「虎徹、重ねたでしょう」
なにを、誰と、と言わないだけ彼女は優しいのか。
考えていることを見透かしているかのようにリツは力なく笑った。
「なんとなく、そうなるんだろうなって思って。虎徹が二回も似たような思いすることはないんだよ。
だから、もう私のことは放っておいて」
放っておけ?そんなことが出来るならとっくにそうしてる。リツとの選択肢にそれはハナから無い。
「ばーか」
「ええ……?」
「別れません。変なこと気にすんなばーか」
「馬鹿ってひどっ!」
痩せた頬に手を伸ばす。
少しかさついた頬をむに、とつまんでそのまま触れるだけのキスをした。
「もっかい恋愛してみようかなーって思った時点で、リツの人生丸ごと背負う覚悟はできてんの。
おじさん、結構重たいんだぜ?」
だから
「だから頼れよ。一人で何もかもしょいこむな」
リツの瞳が揺れる。
うつむいてしまったリツにおれのハンチング帽をかぶせてやる。
「また明日来る」
勝手に未来を終わらせたりなんか、しない。
明日はそうだな、プリンでも買って行こうか。
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