▼ 10 救世主
「じゃあねリツ」
「はーい。 消灯の代返はまかせとけ!」
「もう……ちゃんと帰ってくるわよ」
アカデミー、寮生活に慣れてきた休日。
ハンナは彼氏とデートだと朝からーーいや、前日からウキウキそわそわと落ち着かず、今朝も早くからお洒落をして気合十分な様子であった。
ハンナは大学生の彼氏がいるらしく、リツは毎日のように惚気話を聞かされたり、ニコニコとメールを打つ姿を見ている。
(ハンナ楽しそうだなぁ……)
リツには今まで彼氏がいたことがない。
だからといって全くモテないわけではなく、
彼氏と名のつくモノが出来そうになった事はある。
しかし、やむを得ない事情で友情ごとその関係は消滅してしまった過去がある。
それが相手を変え二度あった時点でリツは恋愛自体を諦めた。
もう関わらないでくれと傷ついたような、暗い目を向けられるのは心底堪えた。
「……」
あの拒絶するような目がリツの中にずっと残り、
男子に対し「いいな」や、「素敵だな」と思うたびに思い出してしまって、どうもそういった色恋ごとが苦手に思えてしまうようになってしまった。
一緒に笑って、楽しんで、有意義なスクールライフを送るだけなら友人だけでいいじゃないか。
そう言い聞かせてリツは携帯を開いた。
『今部屋にいる? 運動生理学のノート貸してー』
ポチポチとメールを打ち、送信。
頬を染めながら洋服を選ぶハンナの姿を思い出してため息をついた。
*
アカデミーの図書室は広い。
歴差の浅い学校の為、古めかしい本はないが、それでもなかなかの蔵書数を誇っている。
あまり静かではないのが残念だが、 勉強をする生徒のためテーブルも沢山ありリツはその中の一つ、窓際のテーブルで教科書を開いていた。
「……リツさん」
「おはよ、イアン」
「おはようございます……」
イワンは斜め向かいの席に着くと、カバンからノートを取り出した。
「これ、運動生理学の」
「ありがとー! イアン丁寧にまとめてるからわかりやすいんだよね」
リツは礼を言って受け取る。
「ホントはさ、ハンナに借りようとしたんだけどね、
ノートの端々にハートとか、会えるの楽しみ、とか、彼氏のバスケの試合まであと何日、とか書いてあってさ……
どうも心穏やかに勉強できないんだよね……」
笑いながらリツはイワンのノートを開く。
「そ、そうなんだ……」
「今日も彼氏とデートだってさー」
「なんか、凄いね」
「彼氏のこととなるとパワフルだよハンナは」
あごでカチカチとシャープペンシルをノックして補足などを自分のノートに写していく。
イワンも持ってきたプリントを広げ宿題に取り掛かる。
「イアンは出掛けないの?」
「うん。 特に用事もないし」
「ふーん」
特に会話もなく、ペンを走らせる音だけが響く。
イワンは前髪越しにちらりとリツを見た。
真剣にノートを写す姿。
真っ黒で癖のない髪は耳の下でひとまとめにされている。
(ニホンに住んでたって言ってたっけ……いいなぁ)
また手元に視線を戻す。
「あー……なんだっけ、イアンこれなんて読むの?」
「どれ? Myosin Filament」
「さんきゅー。 」
アルファベットだけの略語は不便だ、とリツは常常思っている。
ニホン語ならば漢字一字で意味までわかるのに、アルファベットの頭文字だけ並べるなんて英語は不親切だ。
「ねえイアン、PNFは?」
「Proprioceptive Neuromuscular Facilitation」
「ごめんもっとゆっくりお願い」
「…… リツさん、もしかして授業あんまり聞き取れてない?」
「あは……日常会話ならいいんだけど専門用語はちょっと……」
あはは、と曖昧に笑い、リツは不自然に視線をそらした。
「これは多分対人格闘の授業でも出てくるから覚えておいた方がいいよ」
「なるほど了解でありますイアン先生」
「……MFも初回の授業から出てきてるけど、リツさんもしかして……」
「……みなまでいうな」
今度は両手で顔を覆ってしまった。
「……あの」
(余計なお世話かな……)
自分がこんなことを言うのは差し出がましいかもしれない。
迷惑だと、おせっかいだと思われるかもしれない。
「あの、リツさんがよければなんだけど……
教科書の単語読む練習する?」
ぴく、と顔を覆ったままリツが反応した。
「リツさんがわからないところ僕が読むから、読み仮名と意味を書いて「よろしくお願いしますイアン先生!!」
ガタッと立ち上がって身を乗り出し、リツはイワンの手を握った。
「う、うん……あとイアンじゃなくて僕は」
「良かった……ここまで馬鹿なこと誰にも頼めないしさ……イアンありがとっ!!
キミは私の救世主だっ!!」
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