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朝。
ケータイのアラームが鳴った瞬間素早く手を伸ばし、音量が大きくなる前に止めた。
サムくんが起きてしまっては朝の支度に支障がでる。
素早く顔を洗い簡単に化粧を施し着替えた。
サムくんは夜中に起きることも泣くこともなくぐっすりと眠ってくれた。なんて親孝行な子だろう……
ただ、隣で寝る身としては寝返りをしてサムくんを押しつぶしてしまうのではないかと何度も目がさめてしまった。ちょっと寝不足気味。
消毒していた哺乳瓶をビルトインの食洗機に入れ乾燥のボタンを押す。
パンを切りコーヒーを入れるためにやかんを火にかけた。
物音がうるさかったのか毛布をかぶった塊がもぞりと動くのが見えた。
やがてゆっくりと起き上がり、寝癖を気にしているのか数回髪をなでつけているスカイハイと視線があった。
「おはよう、リツ」
「おはようございます、スカイハイ」
顔を洗ってくるよ、とあくびを噛み殺しながら言った。
「それとリツ、今は名前で呼んで欲しいのだけど」
「!」
昨日の出来事が脳裏によみがえる。
だ、抱きしめられて名前を呼んで欲しいと言われてみみみ耳に、耳に!
「き、キース」
「うん、おはようリツ」
にっこり笑って彼は洗面所へと消えた。
*
簡単な朝食を済ませ、サムくんにミルクを飲ませて着替えさせたところでインターホンが鳴った。
迎えに来てくれたアニエスさんの車にサムくんと大きな荷物とともに乗り込む。
キースは一度家に帰ってから会社に行くらしい。
着替えと、飼い犬であるジョンのために。
ジョンの世話は会社の人に頼んだらしいけれど、やはり会いたいのだそうだ。
隣に置いたカバンに思わずため息が出る。重たい。ひたすら重たいのだ。
大きめのトートバッグなのにサムくんの着替えやミルク、調乳用ポットにオムツ……などなど育児セットでパンパンで、重量もさることながら世の母親たちの苦労が偲ばれる。
私もいつか……
想像した私の隣にいたのは笑顔のキースで、いやいや待てよと頭を振る。
「何事も無かったかしら?」
バックミラー越しに視線をよこしたアニエスさんに応える。
「大丈夫でした。サムくんもゴキゲンですよ」
ね、と笑いかければサムくんもにっこりと笑い返してくれた。
ジャスティスタワーに着けば一階の事務局前に折紙さんとロックバイソンさんがいた。
「おはようございます」
「さ、あんた達も荷物運ぶの手伝いなさい!」
アニエスさんの一声で彼らは車から荷物を運び出す。
更にアニエスさんがおもちゃやら何やら買い足して来たらしく、彼らがいても一往復では運びきれない。
「夕方までアポロンメディアのふたりは来れないから、それまではシッター兼ボディガードとして二人が居てくれるわ。
ヒーローの出動要請時には……どうしようかしら。鍵をかければ大丈夫かしら」
「アニエスさん、その時には兄のところに行きます。
サムくんと二人きりでいるよりは司法局にいた方が安全だと思いますし」
「え? ああ、ヒーロー管理官だったわねアナタのお兄さん」
じゃあお願いするわ、とアニエスさんは去って行った。
戻ってきた折紙くんにカバンを持ってもらいトレーニングセンターに向かう。
「ごめんね折紙くん、重たいでしょ」
「へっ?あ、えっと大丈夫です」
話しかければ折紙くんは消え入りそうな声で応えてくれた。
ヒーローなのだから鍛えているとはいえ小柄な彼にたくさんの荷物を持たせるのはなんだか罪悪感が生まれる。
「これくらいなら、平気、です。
赤ちゃんの抱き方はわからないから……」
折紙さんは視線をさ迷わせ、その中で何度かサムくんを見てはまた逸らす。
子供の扱いがわからないのであれば、まあ、仕方の無いことだと思う。
私も赤ちゃんのお世話は出来てももっと大きな子供のことはよく分からない。
離乳食のあれこれなんかはよく分からないし、
暴れる遊びが好きなお年頃の子との遊び方はもっと分からない。
兄も私もあまりそういう遊びはしなかった。
トレーニングセンターの中に入れば、休憩スペースの隣にサムくん専用スペースができていた。
カラフルなアルファベットが描かれたパズルマットが敷かれ、更におもちゃが追加されていた。
いくらサムくんがVIPと言えども流石にやりすぎな気もする。
「わ、わあ……すごいねぇ、サムくん……良かったねぇ……」
マットの上にサムくんを下ろせばキャッキャと嬌声をあげて玩具に突進していった。
ぬいぐるみを振り回し、ブロックをガチガチとぶつけて遊んでいる。
ロックバイソンさんは抱っこしようとしてサムくんに泣かれてしまい、視界に入らないようにトレーニングをしている。
ロックバイソンさんと折紙さんの今日のお仕事はサムくんのシッター兼ボディガード。私はボディガードとしては役立たずなので、会社にも行けない二人にはなんだか申し訳ない。
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