御手をどうぞ
幸平創真は迷っていた。
遠月学園に入学してしばらく経つが、広大すぎる敷地を持つ学園内には、未だ足を踏み入れたことのない領域が存在する。
どんな施設があるのかもいまいち把握しきれておらず、それならと休日に意気揚々と探索に出かけたのが事件のはじまりだった。
はじめはたしかに道を歩いていた。だが欲望のままに、興味を引かれるものをふらふらと目指しては歩き、また別のものを目指し、そうして気づいたときは森の中だった。
「まあ歩いてりゃどこかに出るか…………って、なんだあれ」
舗装された道のない森で、ふと前方に白い布切れが落ちていた。ソーマが拾いあげると白いそれはハンカチで、まだそれほど汚れてはいないようだ。
「てことはだ、このハンカチの持ち主が近くにいるんじゃねえか」
薄いレースのハンカチはとても上品な作りで、ソーマの頭の中には同い年で十傑の席に座っている女が浮かんだが、彼女がこんな森の中に来るところがどうしても想像できなかった。
とりあえずハンカチを片手に再び歩きだして数十メートル、深い木々に囲まれて分からなかったが、目の前に洋館が現れた。
「あ、私のハンカチ!」
「ん?」
鈴のような声音に顔を上げれば、洋館の二階から誰かが身を乗り出してこちらに手を振っていた。
遠くて顔はよく見えないが、声と風に靡く髪で女だということがわかる。
「おーい、このハンカチもしかしておまえのか?」
「はい!さっき風に飛ばされて……すみませんが、すこしだけお待ちください!」
窓の中に帰っていった彼女は、おそらくハンカチを受け取りに下りてくるつもりなのだろう。
ソーマは屋敷の門前まで歩み寄り、そこで彼女を待つことに決めた。
「お待たせしました!すみません、拾っていただいて」
「いや、たまたま通りかかっただけだから全然構わねえけど……おまえここに住んでんの?」
「あ、はい。私、みょうじなまえと言います」
「俺は幸平創真。よろしくななまえ」
近くで見たなまえは小柄で、触ってしまえば折れそうなほどに細かった。しかもどこか顔色も悪く、大丈夫かと声をかけるよりもはやくに辛そうに門に背をあずけた。
「おい、大丈夫かよ!熱でもあるんじゃねえのか!」
「熱はないんですけど、ごめんなさい……よければ手を貸してもらえますか?」
二つ返事で了承しその肩に手を回したが、足取りはふらふらと覚束無い。思い切ってなまえの体を抱き上げてみたが、想像以上に軽く、ソーマを目を剥いた。
「お、おろしてください!」
「でもおまえ倒れそうだし、こっちのほうがはやいと思うぞ。病気なら大人しくしとけって」
なまえはそれ以上は何も言わず、顔を真っ赤にしてソーマの首に手を回した。
ソーマもそれで許可はとれたと、堂々と立派な門をくぐり、屋敷の扉を開いた。
先ほど外から見た光景を思い出しながら屋敷を進んでいくと、思ったとおりの場所になまえの部屋らしきものがあり、そこのベッドに彼女を下ろす。
「ごめんなさい、ハンカチだけでなく私まで……」
「いや、別に大したことしたわけじゃないし、そんな気にしなくていいよ。ただ一つだけ聞いてもいいか?」
「なんでしょう」
「極星寮ってどっちかわかるか?」
なまえは一瞬ぽかんとしたあと、何がおかしいのかくすくすと笑いだした。
「この森に人がいるなんて、おかしいと思ったんです。遠月学園の人だったんですね」
「ん、みょうじは違うのか?」
「違いますよ。ここは遠月学園とは隣接していますけど、学園外ですから」
その言葉に次はソーマが衝撃を受けた。
迷っている自覚はあった。だがまさか学園外にうっかり出てしまうほどの迷子であったという自覚はなかった。
どおりで途中から人とすれ違わずに、あれほどあった建物が一つも目に入らないと思っていた。
「極星寮ならここを出て東に……いえ、やっぱり簡単に地図を書きますね」
「悪いな」
「いえ、人が訪ねてくることは滅多にありませんから。ソーマくんが迷子でも来てくれて嬉しいんですよ」
なまえがベッドサイドの引き出しを開けると、そこにはあらゆる日用品が詰まっていた。慣れた手つきでペンとメモ帳を取り出して地図を書き出す彼女は、ベッド上での生活にひどく慣れているようだ。
「こんな立派な屋敷なのに、誰も訪ねて来ないのか?」
「ええ、こんな場所にあるから、わざわざ来てくれる人なんて昔からの友人一人くらい。その友人も忙しくてなかなか…………あ、出来ましたよ」
手渡された地図はお世辞にも上手いとは言えないが、それでもソーマが極星寮まで帰るには十分なものだった。
意外と距離にしては離れておらず、自分は同じところをぐるぐる回っていたようだ。これなら三十分もあれば帰りつけるだろう。
「なあ、みょうじっていつもここにいるのか?」
「ええ、そうですね。今日のように外へ出ることは滅多になくて……」
「病気で食えないものとか、アレルギーとかあるか?」
「刺激物とかはダメだけれど、アレルギーは特に」
きょとんとした顔で首を傾げるなまえに、ソーマは怪しげな笑みを返した。
「明日の三時、楽しみに待ってろ」
それ以上の言葉は必要なかった。
なまえは瞳に涙を浮かべ、耐えきれずソーマから目を逸らした。
また明日なんて言葉は憧れだった。身体が弱く、約束なんて守れないことのほうが多いなまえには誰もそんなことを言わないし、言うこともなかった。
それを今日会ったばかりの人間が、寂しさを埋めるように囁いたのだ。ただの同情からの言葉かもしれない。それでもなまえの心を動かすには十分だった。
「うん、待ってるわ。また明日、ね」
いつも、ここを訪れた友人が背を向けて出ていく瞬間が嫌いだった。でも、今は違うーー。
「ああ、またなみょうじ」
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