小説 | ナノ

 アイヒマンテスト(アイヒマン実験)をご存知だろうか。閉鎖環境において人間を二つのグループに分け、片方に権力を、もう片方に服従を強いる実験である。最初はフリで構わない。権力者のフリ、従っているフリ。だが、そのごっこ遊びを続けているとやがて精神に異常を来たす。特に服従者グループは脱走者が出ることもある。
 公子は以前見た映画を思い出していた。その映画は実際にあった実験……いや、事件を元に書かれたものだった。今の状況はまるっきりそれではないか。ここは深海と言う名の牢獄で、公子は受刑者。そして承太郎は、看守側だ。この立場のまま承太郎の全てを肯定することは危険である。先にも述べた通り、精神の崩壊の恐れがあるからだ。いや、もしかすると承太郎の精神は既に何かが欠けてしまっているのではないか。だからこそこのような蛮行に及ぶのではないか。
 それが生まれつきなのか、生きる過程で失ったものなのかは判別が出来なかったが、それは今どうでもいいことだった。
 綺麗に張り詰められていたシーツは、今や皺と何かの液体の染みが広がり汚れきっている。脇には引き千切られた女性用の下着と、承太郎がよく身に着けている衣類が打ち捨てられていた。
 裸体の承太郎は無言で立ち上がると、そのまま部屋をあとにした。シャワー室から水音が微かに聞こえてくる。横たわり息を荒げていた公子もふらふらと立ち上がり下着を身に着けた。だが破れてしまっているので布は腰の位置にいてくれない。替えの下着はまだあったがもしこれから毎日このようにされては着るものがなくなってしまう。だから公子は思った。自ら下着を脱いで承太郎を待つことははしたない事ではなく、仕方のないことなのだと。

 なるほど。今まではあれで承太郎なりに我慢をしてきたというわけかと公子は思った。一度箍を外すとあとは際限なく欲求が溢れてくるらしい。相変わらずの無表情ではあったが、夕食後に承太郎はメモを持ってきて公子に次々と質問をしてきた。
「この艦内で自慰は行っていないということだったが、丘にいるときはどの程度の頻度でしていたんだ?それとも、全く自分で触れることはないのか?」
「ありませんでした」
「そうなのか」
 嘘である。そんなことを恥ずかしくて出来ないという性格ではなかったが、そんなこと恥ずかしくて言えないという性格ではあった。
 そしてそれ以上に、嘘をつくことで公子は自分の精神性優位を守ろうとしていた。本当に服従したわけではないと自分だけが知っていれば、精神崩壊の魔の手を遅らせることが出来ると思ったからだ。
「経験人数は?」
「……」
「処女ではなかったようだが」
「博士を含めれば四人です」
「絶え間なく男がいたのか?今の君は恋人がいないようだが、その間過去の男に与えられた快楽を欲さなかったのか?」
「そういった行為に快楽を感じることはありませんでしたから」
「先ほどは?」
「全く」
「ふむ」
 医者が患者に質問するように、淡々と、受け答えが進んでいく。その手のメモはまるでカルテだ。
「痛かったか?」
「かなり」
「……すまない」
 今まで機械のように微動だにしなかった承太郎の表情筋がしゅんと縮こまった。
(調子狂う)
「善処しよう」
「あの、行為自体をやめていただけませんか?替えの下着を破られるのも困りますし」
「行為はやめないだろうな。下着は帰ったら弁償しよう。これ以上破られたくなければ大人しく私に脱がされていればいい」
「……自分勝手すぎます。私はもうこんなことしたくない」
「仕事だ。耐えてくれ」
 その一言で以前の妻も言うことを聞かせていたのだろう。ただ、シチュエーションが違う。片や娘の高熱時のセリフ。片や理不尽なまでの欲求への返事。
「私に辛い思いをさせるのが研究ですか?」
「出来れば君にも悦んで欲しいとは思っている。そこは私の技術不足だ、謝罪する」
「嘘ですよね」
「何故そう思う」
 ピッと公子の細い指が承太郎の股を指した。足を広げて座る姿勢なのだから、ある意味見せ付けていると言ってもいい。
「本当に悪いとは思っている。だがそうしなければ仕事が進まないのだから仕方がない」
「ですから、仕事ではなく博士の欲求が私への気遣いを上回っているのでしょう。悪いことしている自覚があると言うのならばまずそこを認めてください」
「……仕事と言えば君は承知してくれるだろう?仕事ですから、と言っているのは君だ」
 会話がかみ合っていない。だが話の根本を修正するのは諦めた。カルテを置いた承太郎が、今度はリビングルームで迫ってきたから。
「せめて、あちらの部屋へ……」
 それは承諾と同意だ。他の部屋に汚れを持ち込みたくないと言う建前で、公子の心底のどろりとした欲望を吐き出していることにはまだどちらも気づいていない。


 仕事ですから。

 仕事であれば遂行しなくては。

 仕事は絶対だ。

「公子、私と愛し合ってくれ。これも、仕事だ」
 この深海は牢獄だ。空条承太郎というルールが支配する一つの世界だ。秩序を、規律を、乱してはならない。承太郎は己が看守の役を演じていることに気がつかない程にこの空間に心酔していた。
 公子もまた、囚人を演じている自覚が徐々に薄れていくのだろう。反復されることで、命令が精神に刷り込まれていく分自我を失っていく。この二人きりの世界の歯車になろうとする本能に似た衝動が抑えられなくなる。
「引き受けてくれるね?」
「…………はい」

 やがて、命令がなくとも服従の姿勢をとるようになる。


「公子。君が望むことを教えて欲しい」
「博士に愛されることです。それだけ、です」
「ああ。足を開いてくれ、全てを与えてよう」

*END


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