小説 | ナノ

「公子っ!大変大変!サウスブロードウェイのフレンチの店でロッシーニフェアやってる!」
「食べるっ!」
「ごめん、私はもう彼氏と約束したからアンタは一人で行ってきな」
「自慢したいだけ!?」
 どこの職場でも女性というのはキャアキャアと黄色い声で騒ぐものだ。海洋学研究室と言うすこし特殊なこの職場では、その黄色い声は食べ物という現実的なものに向かって上げられている。
 男性職員も数多くいるのだが、研究職に就く女性と言うのは少しばかり変わっていて、男に騒ぎ立てるよりも食べ物、酒、趣味、金目のもののほうが好きという女性が多い。
「自慢したいというより……もう予約とっちゃったから、その間に研究サンプルに異変があったら当番代わってねってお願いしようと思ったの」
「神は無慈悲だ……」
 男性も男性で職場内の女性に興味のある男というのは少なく、公子たちのやりとりに「じゃあ俺と一緒に……」と名乗りを上げる者はいなかった。高い金を払うなら株式投資に回したい、自分の部屋のオーディオセットのランクを上げたい、という、趣味や現金にしか興味がないのは男も同じ。
 だからこそ、この研究所で職場恋愛というやつが産まれるとは誰一人想像していなかった。
「主人くん、休みが欲しいのか」
「あ、空条室長。いえ、休みは大丈夫です」
「……そうか」
(さすがにあのおしゃれな店に一人で行く勇気はない)
 だからといって誘える相手もいない。公子はアメリカに来てまだ数年しか経っていないし、未だに英語は苦手意識がある。友人を作るよりも仕事を覚えることを優先しなければならないため、恋人などもってのほかといったところだ。

「主人くん」
 給湯室の掃除をしていたら上司である承太郎が入ってきた。いくらアメリカンサイズといえど給湯室というのは狭い。そこにこの男が入ってくると急に密度が跳ね上がる。
「君は休みの希望や有給も積極的にとろうとしない。たまにはシフトについて私用で意見しても構わないぞ」
 二人きりのときは日本語で話しかけてくれる承太郎。英語と比べて丸みのあるニュアンスの母国語に、公子は安堵する。だから承太郎と話していて楽しいと感じるのは、彼の人柄ではなく日本語の力なのだと思っている。
「いえ、一人ではなかなか難しそうな予定なので」
「食事、だったか」
「はい」
「……よければ、私が付き合おうか」
「いえ、ご無理させるわけには行きませんので。食べに行きたいの、お肉で洋食ですから。博士の好みとは真逆でしょう?」
 確かに、承太郎は純和食が好きだ。母がアメリカ育ちとは思えぬほどに日本人以上の日本食を三食きっちり出してきたおかげで、完全に舌が和食に馴染んでいるのだ。
 当然アメリカの食事が嫌いなわけじゃない。だが何を食べるにしても選べるのならばシーフードを選択するし、日本人がやっている店を行きつけにしている。
「私とて肉を食べないわけじゃない」
「ええ。しかし高いお金を出して好きでないものを食べに行くというのもなんですし、何より私自身、食にこだわりがあるからこそ無理にお誘いするわけにはいきいません!」
「……そうか。君にそこまで強いこだわりがあるとは知らなかった。では今度、君のオススメの和食店でも紹介してもらおうか」
「ロス近郊でしたら……いろは、という店の寿司はなかなかですよ」
「聞いたことのない店だな。ではそこに一緒に行くのはどうだ」
「あ、ここでしたら一人で入れるので大丈夫ですよ。すし屋っていうかカウンターの店ってやっぱり一人でも入りやすいですよね!」
「……そうだな」
「あ、室長もお茶入れますか?」
「頼む」
 掃除を中断して手を洗い、茶葉の準備を始める。その様子を見ながら承太郎は手をグーパーと握ったり開いたりしはじめた。
「室長、お茶を淹れたら席までお持ちしますよ?」
「あぁ……いや」
 手をぐっと握りこぶしの形にし、息をついてパーにする。開いたその手でこちらを向かせるように彼女の腰と肩に手をかけたかったが、それがセクハラにあたるのは日米共通の常識だ。
(せめて、研究室を出なければ。I love youがセクハラになる国だ)
 日本にいる間は女からこちらに寄ってきたし、はじめて結婚するとなったときも彼女は積極的な女性で寡黙な承太郎の愛情表現を汲んでくれた良くできた女性だった。だからこそ、まさか四十代になって恋愛に苦労するということになるとは思ってもいなくて、なんだか中学生が悩むようなことで日々頭を痛ませているのだった。
(いや、別に前の妻のように好意に気づいて欲しいというかそっちから好意を寄せて欲しいというわけじゃない。俺も男だから自分から口説きたいとは思っている。だからせめて、口説く場所と時間をくれ……!)
 行き場のなくなった手は、やはりグーとパーを繰り返すだけだった。
(室長……機嫌悪い?)
 行き場のないものを抱えているのは公子も同じだった。茶を淹れるといってもポットのスイッチを入れるだけであとは沸騰までやることがないのだ。
(室長の「……そうか」「……そうだな」は納得いってない言い方なんだよなぁ。「そう」って言ってるくせに違うって思ってるんだもん。それに、何かさっきから背後で何か言いたげオーラがものすごいもん!)
 怖くて振り返れない公子は湯のみを手の中で遊ばせながら沸騰のアラームを待った。
(えー、何でだろう。ロッシーニがいやなのか、寿司がいやなのか、いろはがいやなのか、えっと……えっとぉ……)
 ピピピピロピロリン♪
(よし)
 だが今度は沸騰した湯で湯飲みと急須を温めるまでの時間をもてあます。
(ひ〜っ)
「主人くん」
「はっはいいい!」
「逆に君は寿司が嫌いか?」
「いえ、まさか!寿司は大好きですよぉ。室長は産まれは関東ですよね。私は別のところなので、出汁と一緒で寿司にも東西の味の違いが……」
(いかん。主人くんが寿司トークモードに入ってしまった。そういうことを言いたかったのではなく、好きならば一緒に食事に出かけようということで……いや、そうなるとセクハラとなる可能性……)
「ですので私、月に一度はお寿司を食べるようにしているんです」
「今月はもう食べたのか?」
「いえ?まだですけど」
「いつ行く予定なんだ」
「え?」
 ゴンゴンと壁を叩く音に二人は振り返った。ブロンドの髪を束ねた美女が、開いたままのドアをわざわざノックしている。
「コーヒーをいただきたいの」
「あ、ごめんなさい。占領しちゃって」
「いいのよ。それより公子、あなたそろそろオスシが食べたいんでしょう?室長もオスシが好きみたいだし、二人で出かけたらどう?」
「え、でもわざわざ予定を合わせる必要もないか……」
「公子?」
「は、はい……」
「一緒に、いったら、どう?」
「えーと……室長の方は」
「構わない。というより、君のように食に詳しい人物と一緒にいった方がいいと思っている」
「決まりね、いってらっしゃいお二人とも」
「……すまないな、クロエ」
「室長はもう少ししっかりなさってください」
 白湯にインスタントコーヒーを溶かしただけのものを持っていくと、彼女はデスクへ戻っていった。


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