小説 | ナノ

 2007年に、不眠の世界記録を新たに樹立した人物は266時間の間起きていたという。だが通常の人間なら、三日も起き続けていれば幻覚を見てしまうほどに消耗する。合間合間に数十分眠っているとはいえ、承太郎もここ一週間の睡眠時間が一時間に満たない程に仕事に追われ、体調よりも精神面に異常をきたしていたようだ。
「こちら終わりましたので何かお手伝いすることがあれば申し付けてください」
 アシスタントの公子が整頓しなおした資料をデスクに置くと、それを見ることもなく手にかける。欲しいものから順番に上にあることは随分と長い付き合いだから分かっているのだ。
「それじゃあフェラでもしてもらおうか」
「は?」
「……い、いや。すまない。相当酷い事を口走ったな」
「いえ……あの、少し眠った方がいいんじゃ」
「……そうする」
 資料が整い、これからラストスパートをかけるというところで中断するのは流れを切るようでよくないと思ったが、そんなことが瑣末なことと思えるほどに今ものすごいことを口にした。
 ふらつく足取りでデスクから立ち上がると、片手で顔を覆うようにして表情を隠しながら仮眠室へ向かった。
「二時間したら起こしてくれ」
「はい」
 窓のない、灰色の壁がベッドを囲むだけの部屋。ベッド脇にあるスタンドライトを点け、薄明かりの中で寝る準備をする。といっても服を脱ぐだけだ。シャツは皺になるし、ズボンは眠るにはごわごわして気持ちが悪い。だからといってパジャマの用意はない。そうなると必然的に肌着だけで寝る形となる。
(いや、主人が起こしにくるのならせめてズボ……ン……くら、い)
 だが素肌に布団がのしかかってくるこの気持ちよさに勝てるわけがない。ましてやこちらは不眠不休だった身だ。瞼は勝手に下りていき、手が無意識に布団を手繰り寄せる。結局床に服を脱ぎっぱなしにしたままの格好で眠りに落ちていった。
 その間、先ほどの失言が頭を過ぎる。
(何故あんな失礼なことを言ってしまったんだ。俺ももう四十も越えたというのに……)
 主人公子は長年承太郎の助手を務めている。この業界の面倒なイベントである各種受賞パーティーにも同行してくれ、周囲からは妻と思われていた頃もあった。だが本人二人がきっぱりと否定し、そういった素振りや空気を一切見せない毅然とした公子を見て、そうやって冷やかされることもなくなった。
 だが、ここまで長く時間を共にした女性は母親を除けばいないのではないか。そんな、ある意味家族のような存在の人に、なんと最低な事を言ってしまったのだろう。
 理由を問えば、疲れていたから、となるが、それはつまりそういったことを普段から考えていたということだ。
(ああ。確かに彼女と愛し合いたいと何度も考えてきたし、そう思いながら自慰に耽っていることもある。だがあんな、性欲を処理するための道具のような見方をしていたわけじゃない……という誤解を解きたいが、これ以上この話題を掘り返すのはまずい)
 というより、起きたら辞表を渡されたとしても文句が言えない。
(失いたくない。仕事も行き詰るし、なにより……ねむ……)

「博士、十六時ですよ」
「あぁ。すまない」
「博士、布団から出てください」
「服を着ていないんだ。君が出て行ったら起きる」
「分かりました」
 という会話をしてから二十分経ったが、部屋から出てこない。
(再度起こしにいくべきかしら?でも相当お疲れのようだし、個人的にはもう少し休んで欲しい。今の間に論文をまとめる準備は全部やったし、正直あと数時間で完成するから明日に回してもいいと思う。でもそれなら、今起きて夜に眠って方がいいのかな?)
 結局、もう一度扉をノックすることにした。
「博士?」
「……」
 いびきになりそうな寝息が聞こえる。完全に二度寝しているようだ。
「入ります」
 だが一応起きようと努力はしたらしい。掛け布団が床に落ち、足がベッドの外に垂れ下がっている。
 公子はスタンドライトを点け、ぼんやりとした明かりを頼りに現状を確認した。
(あんなこと言われた後だから、見ちゃう……)
 ズボンを穿いていないのをすっかりわすれていた。ボクサータイプのぴっちりとした下着は大きく膨れ上がっている。
 体全体に布団をかけてから、承太郎の首筋をぺちぺちと叩いた。
「博士。二度寝なさいますか?」
「……ぅ」
「はい?」
「違う」
「起きるんですね」
「違う。あんなことを言ったのは、君が好きだからだ……あ」
「……おはようございます。夢でも見てらしたんですか?三度寝してももう起こしに来ませんよ」
「……行く」


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