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どきり、と―――否、ぎくりとするのである。


普段は好き勝手に、自由も自由に立ち回っている片方の男のせいで掻き消されるように見えはしないし、考えもしないのに。そんな暇がないのだ。


それでも時折見せる見たこともないほど穏やかな眼差しであるとか、友人同士ではちょっと異様な距離だとか、勘違いかと思うくらい一瞬の甘やかな空気だとか。
そういうのを垣間見てしまうたびに、西園寺は心臓に悪い負担を受けるのだった。



「くーらーらー」

「やかましい」




―――今だってほら、これである。

晴れた空、春らしくポカポカとした陽気が続くここ最近で、すっかり恒例になってしまった屋上でのランチタイム。

授業後教師に呼びとめられ教材運びを手伝ったせいで、かなり遅れて階段を駆け上った西園寺が扉を開いた先に見たのは、転落防止のフェンスに凭れた蔵の胡坐の上に頭を乗せ寛いでいる灰島の姿だった。

もういつもの重箱の弁当はすっかり食べきった後らしく、傍らには殻になったそれと風呂敷包みが広がっている(西園寺が来るまで待っていてくれたことなんてない、そんな期待はするだけ無駄なのである)。
蔵は片手に持った文庫本を読んでいて、ねえねえと小さい子のように構ってもらいたがる灰島にも顔色を変えずにその涼しげな視線を文字に走らせている。


「くららくららー」

途中でばふんと言葉が途切れたのは蔵が空いているもう片方の手で灰島の口に蓋をしたからである。
今日も今日とて灰色のネズミ耳のついたパーカーを着た灰島は、それをものともせずに音をくぐもらせたままもごもごと声を発し続けているようだ。

西園寺はなんとなく身体を入口から出すタイミングが見つからないまま、開きかけた扉の傍で突っ立ってそれを見ているしかできない。


「───ッ!」



と、もごもご言いながら手足を不満げにじたばたさせていた灰島の抵抗をものともしていなかった蔵が、突然びくりと肩を跳ねさせ、あのマシンガンのような弁を封じていた手をぱっと離した。


「…舐めるな変態ピンク」


呆れたように言って、塞いでいた手をひらひらさせる。
舐めたのかそうですか、といたたまれぬ気持ちになる西園寺を余所に、蔵はその手でしてやったり顔の灰島の鼻先を摘んだ。


「そんなふうに動きも踊り出しもしない文字ばかり追っていないで、僕を構え。僕は大変暇だ」

「たまには静かに読書くらいさせろ」

「じゃあ君は君が本を読んでいる間、僕にずうっと口を噤んでいろとでも言うのか?見返りさえなく?つまりもしない!なんの意味もない行動だ!」

「俺には大いに意味がある」

「だいたい僕がこんなにも暇だというのに、クララだけ有意義に読書を楽しむなんて由々しきことじゃないか」

「もう少しすりゃあ、ペーターが来るだろ」


ぐずる灰島をあやすように蔵がそう言った。
おお、なんかよくわからんがさらりとスケープゴートにされようとしている。西園寺は戦慄した。


「ペーター!そう言えば彼は遅いなあ。探してこようかなあ」

「やめとけ。お前が行くと大騒ぎになんだから」

「えー?なんで?」

「………なんででもだ」


閃いたというように恐ろしい提案をした灰島を止めた蔵に感謝したのも束の間、自分の影響力に全く無自覚な灰島に、西園寺は心から蔵が気の毒になってしまった。


「もういいからお前は大人しくしてろ」

「えー」

「えー、じゃない」


ぐいとピンク頭を胡座の上に押さえつけ、溜め息混じりに言った蔵は再び文庫本へと視線を戻す。
不満気な灰島は口を噤んで、活字を映すその目を足の上に頭を置いたままじっと見上げた。

ぺら、とページを捲る音がする。
ねえ、と猫撫で声がひとつ落ちる。


「…だから僕は、見返りもないのに、意味もない我慢をするのは嫌と言ったろう?」


唐突に、少しだけその破天荒さを潜めて、諭すような優しさで灰島は言うと、白い指先を蔵の頬に這わした。
今までのふざけたハイテンションが嘘のように、すべてを深く巻き込むような、誰をも魅力するオーラを放つ。
艶やかなピンクの髪のかかる茶色の瞳は柔らかいと言うよりはどこか甘く、まるで砂糖をたっぷり入れた紅茶を連想させた。


ぎくり、と。
西園寺の頭のどこかで警鐘を鳴らすスイッチが押される。



「───それで、くらら…?君は僕の沈黙の見返りに、なにをくれるのかな」

「…………」


囁くように言った灰島と見つめ合い、それからぱたんと文庫本を閉じた蔵は引き寄せられたように背を屈める。
スローモーションのように灰島の長い長い睫毛が伏せられる。
そして───…。







ばたん!と大きな音を立てた鉄の扉に、灰島はぱちりと目を開いた。至近距離の顔を引き寄せたまま、階段を駆け下りる微かな足音に耳をすませる。
すれすれの位置で触れることなく、吐息が混じる距離に近づいた唇をそのままににやにやしていると、ごちんと額をぶつけられた。


「…気づいてたくせに、たちが悪いぞ」

「人聞きが悪いなあ。気づいてたのはお前だって同じだろう」

くすくすと笑った灰島に、蔵は苦い顔をして嘆息する。


「いたいけな後輩を暇つぶしに使うのはやめとけ」

「ならば代わりに君が僕の相手をしてくれるのかい?」


灰島に己の黒髪を指に絡めるように遊ばれながら、蔵は一瞬面喰ったような顔をした後、切れ長の怜悧な面差をにやりと歪めた。


「…ま、もとよりその役目は俺だったからな。仕方がない、哀れなペーターの代わりに、暴君の相手を仕ろう」



再び背を屈め、黒髪が桃色の髪の毛と混じり合う。
密やかに、穏やかに交わされた口づけの脇で、放り出された文庫本のページが風にぱらぱらと笑うような音を立てていた。







***********





「おーい。西園寺ー」

「………」

「おーいってば。お前今日ハイジ先輩たちとメシ食うんじゃなかったのかー?」

「うるさい山田」

「なにお前顔赤いんだけど」

「うるさい山田」


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