▼ 暗がり
結局、全ての悪魔と交わり終えるまで、助けが来ることはなかった。悪魔が自らはけて行くと、椛はガクガクと震える脚を奮い立たせて壁伝いに浴場へ向かう。ガラス窓からは夜空が見えている。どうやら、いつの間にか夜になっていたらしい。
そろそろ二日目のマスカレイドも終わる頃だろう、ジークフリートが戻ってくる前に体を清めて、何事もなかったように彼を迎えなければ。そう思って、椛はなるべく早足で歩く。
大丈夫、ジークフリートに会えば、きっともうカイのことを忘れられる。カイへの想いはさっき、全て……捨てたから。
「――あの、ジークフリート王子見ませんでした?」
遠くの方で、一人の若い兵士が中年と思われる兵士に話しかけていた。椛はなんとなく隠れて、彼らの会話に聞き耳をたてる。ジークフリートのいる場所を避けて通っていこう、そう思ったのだ。
「ジークフリート王子? ああ〜……あの人、今日は戻ってこないんじゃないかな」
「なぜ? 外にでもいかれたのですか?」
「いやいや、地下牢だよ」
「地下牢……? 今朝も行っていませんでしたっけ? 誰がいるんですか?」
「馬鹿おまえ何も聞いていないのかよ、アイゼンシュミットだよ、あの「悪い魔法使い」。昨日捕らえたって皆言ってただろ」
「……!」
アイゼンシュミット……カイのことだ、と椛は気付く。つい先程まで頭の中をいっぱいにしていた人物の名前に、椛は息を呑んだ。
「なんかさ、俺今日ずっとジークフリート王子の側にいたんだけど、様子がおかしいんだよ。ずっとアイゼンシュミットのことばっかり話してるんだ。昨日からずっと」
「ん〜、そりゃあ、アイゼンシュミットっていったら昔取り逃がした大罪人でしょう? やっと捕らえたんだし、そうなっても普通では?」
「まあ、それもそうだけどよ。俺たちの間じゃあ、ジークフリート王子はアイゼンシュミットのこと、実は好きなんじゃないかって。普段他人に一切興味もたないジークフリート王子があんなんなるなんて、すごいことだからよ」
「ないない! ジークフリート王子、つい最近結婚したでしょう! 倦怠期がくるような夫婦ならまだしも、まだ新婚ですよ?」
「あ〜……おまえ、どこまでも情報遅れてるなあ!」
「……?」
椛のことを口にだした若い兵士を面白がるような口調の中年の兵士の言葉に、椛は固まる。なんとなく、その先の言葉をきいてはいけないような気がしたが……その場から逃げる気にもなれなかった。
「シンデレラ、たしかに綺麗な方だけど……ジークフリート王子が彼と結婚したのって、魔力を補給するためだろ?」
「……!?」
兵士の言葉に――椛は目の前が真っ暗になるのを覚えた。聞き間違い……聞き間違いであってほしい。ジークフリートと自分はたしかに愛し合って――
「シンデレラ様ってすっごく珍しい『無限の魔力』を持っている人らしいぜ。だからジークフリート王子は彼に目をつけたんだとか」
「……はあ、そういやジークフリート王子は強い魔術を使えるようにならなくちゃいけないんでしたもんね……。でも、ジークフリート王子、シンデレラ様に優しくしていたじゃないですか。ちゃんと愛していると思いますよ?」
「ジークフリート王子は誰にでもそうなんだよ。どんな人にも、優しい。他人なんてどうでもいいからな、誰にでも同じ態度をとるんだ。だから、アイゼンシュミットを相手にしたときみたいにあそこまで嫌悪丸出しにするのは珍しいってこと」
そこから先の会話はよく聞こえなかった。椛は兵士が遠ざかっているのを呆然と眺めながら、先程までの兵士たちの会話を反芻していた。
「無限の魔力」……とかいうよくわからない言葉についてはどうでもいい。ジークフリートが魔力の補給をするために自分と結婚した……その言葉が、頭のなかをぐるぐると巡っている。所詮兵士たちがうわさ話に群がって愉しんでいるだけだろう……そう思い込もうとした。でも、それができるほど、椛は気丈ではなかった。
カイには裏切られ、ジークフリートには愛されていなかった……?
あまりのショックに椛は立ち上がることすらもできなかった。誰にも愛されることがないのだと、そんな昔の自分から変われたと思ったのに――何も、変わっていなかった。誰にも愛されていなかった。……幸せになんて、なれていなかった。
ほんの一時、夢をみていただけだったんだ。
……ただの平凡な人間である自分に、奇跡なんておこるはずがなかったんだ。
希望も、愛も……なにもかもを失った。これから、なにをより処にして生きていけばいいというのだろう。ジークフリートから偽りの愛を受け続けることに、自分が耐えられるとは思わない。
ああ、終わりだ。すべてが、真っ暗。闇の中。もう、何も信じず光も求めず……命が尽きるまで時間を喰って生きていけばいいのだろうか。また、あの悪魔が現れないだろうか。いつまでも、夢のなかにいたい。夢の世界に閉じ込められたい。もう何もみたくない。
「……う、」
椛は手で顔を覆い、ただただ泣き続けた。意味もなく、声を枯らして泣き続けた。ひどい自分の泣き声を時折嗤いながら、泣き続けた。
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