▼ 月と魔法使い12
その日の夜。
夜空には、いくらか雲が浮かんでいた。辻音楽師の言葉を思い出して夜空を見上げたときにはちょうど雲で月が隠れてしまっていて、色を確認することはかなわなかった。
しかし、そんなことカイにはどうでもよかった。
カイは今、生命の危機にたたされていたのである。森へ戻って動物の姿へと変化したカイは、人間に撃たれて気がたっていた狼に襲われ負傷してしまったのだ。腹のあたりを大きく怪我してしまい、出血の量もなかなかにあった。気を抜けば意識が飛んでしまいそうだ。
魔法を使えば治せないこともなかった。カイがそうしなかったのは……心がもう、死を望んでいたからかもしれない。このまま死にゆくのもまた運命だと、そう思い始めていた。
しばらく森を彷徨い、手頃な場所をみつけると、カイは動物の姿のまま横になった。きっとすぐに逝けるだろう。そして、死骸をみつけた鴉あたりに死肉を啄ばまれ、残りは腐り落ちて土に還る。そんな未来がみえたような気がした。悪くないな、と思う。これが人間だったら大騒ぎになるに違いない、しかしこの姿なら。誰にも知られず、ひっそりと逝って、自然に還ることができるのだ。いかにも自分らしい。希望も愛情も失ったこの命の喪失を哀しむ者なんて、誰一人いない――
カイが目を閉じ、意識が消えてゆくのを待とうと、そうしたとき。どこからか、人間の泣き声のようなものが聞こえてきた。こんな時間に、誰かが森へきたというのだろうか……馬鹿だな、と思い気にしないようにしてみたものの、その泣き声は次第に近づいてくる。
やがて、その声がすぐ近くまでやってくる。それでもなんだか面倒で、目を閉じたままでいたカイは、じゃり、と地面を踏む音が自分のすぐそばで聞こえてきたの聞いた。そこまで接近されては正直気になる。カイはようやく瞼をあけて、顔をあげた――
「……!」
視界には、夜空と、自分を見下ろす少年の顔が広がった。ぽかんとした顔でカイを見下ろす少年のバックにはーー雲間から顔をだした蒼い月。息を呑むほどに美しいその月の光を受けながら、少年はカイを見下ろしている。
「怪我……してるの?」
つい先程のまで泣いていたせいか震える声で、少年は尋ねてきた。人間の姿ではないためカイは返事をすることもできず、黙っているしかなかった。みればわかるだろうが、と半ば苛立ちながらカイは少年を睨みあげる。しかし動物の顔というのは人間のものほど感情を表すことはできないようで……少年はカイの苛立ちなど全く気付いていないという風に、すっとしゃがみこんでまた声をかけてくる。
「手当てしないと……いっぱい血がでてるし」
そう言って少年は、自分の服の裾を破きだした。ギョッとしてカイが目を凝らしてみれば、少年の服はもとからつぎはぎだらけで、綺麗なものではなかった。少年は躊躇いもなく破りとったそれを、カイの傷を覆うようにして体に縛り付ける。
「これで……血、止まるかな。治るといいね」
少年はへら、と笑ってみせた。もう夜にもなれば寒い季節だというのに、破れた裾からは肌が覗いている。寒くないというわけではなさそうで、少年はかたかたと震えていた。
そもそもなんでそんな薄着でこんなところまで来てるんだよ……
泣きながら森奥まできて、そして怪我を手当てしてくれて。よくわからない少年の行動に、カイは疑問を覚えていた。かといって今人間の姿に戻ったら彼を驚かせてしまう。
どうしたらよいのかわからずもどかしい想いがぐるぐると胸のなかをまわって、気持ち悪い。
「……僕は、このまま死んじゃうかも」
(はぁ?)
少年は疲れたようにカイの隣に腰をおろした。そして、汚れてしまうのを気にしないのか……ごろりと寝転がり、夜空を見上げる。
「……お義母さまに、この森になるベリーをとってこいって言われたんだ。こんな時間に。今日、少し悪いことをしちゃったからお仕置きなんだとおもう。帰ってこなくていいって」
(この森にベリーのなる木なんてねぇよ)
随分と馬鹿みたいなことをする人間がいるもんだ、とカイは心底呆れた。なるほど、泣いていたのはそういうわけか。親に叱られ、自分の行くべきところがわからない子供。まあ、普通の子供なら泣くだろうな、とカイは半分どうでもいいといった気持ちで少年の話をきいていた。国を敵にまわして全てを捨てざるを得なかったカイにとっては、なにを聞いても大したことがないようにしか思えなかったのかもしれない。
影のかかった声。一体どんな顔をしてそんなことを言っているのかと覗きこんでみれば――星空を映しているはずの瞳がどんよりと曇っていて、表情全体から覇気が薄れている。叱られただけの子供がこんな表情を浮かべるだろうか……考えたところで、カイはなんとなく察してしまう。ベリーのない森に、こんな夜更けに投げ込んだ親。狼がいる可能性もあるというのに、躾だけのためにそんなことをするだろうか。――この少年は、虐待に近いものを受けているのではないか。泣いていたのは道に迷って怖かったからではなく、親に捨てられたというショックから。子供にとって、それほどの絶望は存在しないだろう。
(……あほらしい)
見ず知らずの人間の世話なんてしている気力がない。カイは少年の横に転がっているバスケットに視線を移す。ここにベリーをいれてこいとでも言われたのだろう。少年が星をぼんやりと眺めているということを確認すると、カイはゆっくりとバスケットの横まで移動し――
「……?」
一声、鳴いてみせた。その声を不思議に思った少年は体を起こし、カイと、その傍らのバスケットを視界に入れ――
「えっ……!?」
目を瞬かせて驚いた。空っぽだったはずのバスケットに、ベリーがたくさん入っていたのだ。
(これもってさっさと帰れ、鬱陶しい)
これ以上少年の鬱々とした言葉を聞くのは嫌だった。かと言って、怪我の手当てをしてくれた人をほったらかしにして姿を消せるほど、カイは薄情にはなれなかった。バスケットに少年の求めているベリーを魔法でいれてやると、「立て」と催促するようにもう一度鳴く。そして、バスケットを手にとり目を丸くしている少年を一瞥するとそのまま歩き出した。「あ」と小さな声をあげて自分を見つめてくる少年に苛立ち紛れにもう一度鳴いてやる。カイの意図がわかったように少年はおろおろとしながらもカイの後ろをついてきた。
森の出口まで案内してやって、そしてさようなら。人の世話なんてこれっきりだ。あまり人と関わりたくなんてない。
「ねえ、このベリー……どうしたの?」
「……」
「もしかして、お伽話にでてくるみたいに魔法でもつかったの?」
「……」
(どうやって答えろっていうんだよ、こっちは人の言葉を今使えないんだっての)
無視を続けるカイに、少年はひたすらにはなしかけてくる。カイは動物の姿であり返事ができないということを少年はわかっているのだろうが……口をとめることはなかった。
しばらく歩いていくと、人里の明かりが見えてきた。出口に着いたのである。これで少年との短い付き合いもおわるだろう、「さっさといけ」と振り返ったカイは――すこしばかり驚いて固まってしまった。
少年が、泣きだしたのであった。帰れることへの安心感からか、とカイは特別気にすることもなかったが、放っておくわけにもいかず少年の足元に近付いてゆく。そうすると、少年はぺたりと座り込んで、カイを抱きしめた。
「……嘘みたい。もう死んじゃうのかと思ったのに」
よっぽど森の中で孤独に死んでゆくことがこわかったのか、カイを抱きしめるその小さな体はかたかたと震えていた。「死んでもいい」口では言ってもそんな覚悟ができるほど、人間は強くない。結局この少年は生きたかったのだ……そんなことは、わかっていた。だから、救えて良かったと、素直に思った。……ので、はやく離してくれないか。はやくいけ、民家の明かりもそのうち消えるぞ――そう言いたかったが、もちろん言えない。
「……今日は、蒼い月がでるんだって、みんなそう話していた」
「……?」
唐突に、少年が呟く。なんの話だ、と思って――カイは町角で出逢った辻音楽師の言葉を思い出した。
『今宵は蒼い月――』
「蒼い月をみると、幸せになれるんだって。僕は幸せになることなんて諦めていたけれど……今、すごく幸せなんだ」
「……、」
『――奇跡が降る夜となる』
「君と出逢えた奇跡が、僕にとってはすごく幸せなことだよ」
「……!」
「奇跡」? 俺と出逢えたことが「奇跡」だって――?
少年の頬を伝う涙が、月明かりに照らされてきらきらと輝く。闇が浮かんでいるとばかり思っていたその瞳は、吸い込まれるほどに美しい。そして、何よりも――その笑顔が、眩しかった。
さっきまで、暗い顔をしていたくせに。希望なんてないって、そんな顔をしていたくせに。俺に出逢えただけで、そんなふうに笑うんだ? 軽率に「奇跡」なんて言葉使うなよ、俺が求めて求めて……手に入らなかったものだから。
(ばかみたいだ)
奇跡はたしかに降ってきた。そう、この泣きじゃくる、少年の元に。
「……ッ」
そしてカイは気付いた。小さな小さな「奇跡」が、少年に笑顔を与えたのだと。そしてカイは思い出した。自分の魔法が、人を守るためにあるのだと、人を喜ばせる力があるのだと。
アイゼンシュミット家の魔法を信じたから、全てを奪われた。だから、カイはこの魔法が嫌いだった。もう二度と「奇跡」も「希望」も「愛情」も信じないと、そう決めた。「強さ」を求めたクラインシュタイン家の魔術こそが正義なのだと、そう思っていた。しかし、気まぐれに使ってやった魔法は――少年にとっての「奇跡」となった。そして、この手は誰かにとっての「奇跡」を生み出すことができる――それを思い出すことができたこの出来事は、紛れも無くカイにとっての「奇跡」だった。
「ありがとう、ここまで案内してくれて……僕、これからがんばるね」
少年にとって、小さな奇跡は生きる気力を失った状態から脱却することができるくらいに、大きなものだった。それを目の当たりにして、カイは――胸がいっぱいになった。自分に――「悪の魔法使い」と呼ばれ存在を否定された自分に、生きる意味があったのだと、そう思うことができた。
少年が森をでていき、その背がみえなくなるまで、カイはぼんやりとその場に立ちすくんでいた。
寿命は残り、あと数年。残された命で、自分はなにをできるだろか。アイゼンシュミットの魔法で、どれだけの人に奇跡を教えることができるだろうか。……そんなことを、考えていた。
「……綺麗な月だな」
その記憶は――自分に「奇跡」を思い出させてくれた、どこか影のある少年に、さらなる「奇跡」を、そして「幸福」を教えるのだという、カイの決意の糧となっていた。
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