▼ 月と魔法使い11
約3年後――
世間の様子を伺う気力すらも、薄れてきた。週に一度、ふらりと町に赴く以外は、カイは人気のない森のなかでずっと過ごしていた。いっその事自ら命を絶ったほうが楽なのではないかと思ったが、なんとなく残りの命をはかってみれば、片手の指で数えることができるほどの年数しか寿命は残っていなかった。ここまで生きてしまったなら、最後まで生きてやろう。その間に国を騒がせるような大事件でもおこったら、気まぐれにのぞきにければ楽しいかもしれない。
鬱屈とした日々。白黒よりも醜い色に染まる時の流れ。
町にいっても、誰かと話すことなどほとんどなかった。ひどい顔をしていたせいか話しかけてくるのは薬の売人か風俗の客引きばかり。それをあしらう気力もなくて、言葉も発することなく無視していた。
だから、そのとき「彼」に話しかけたのはほんの気まぐれだ。まるで今の自分を思わせるような風貌に、惹かれたのかもしれない。
町の片隅で、ライアーを演奏していた辻音楽師。ボロボロの布を纏い、側においてあるトレイにはひとつふたつのコインが入っているばかり、彼のそばでは犬が吠えている。すっかり枯れた肌にぽっかりと闇のような瞳が浮かんでいて、町の人々は見てみぬふりをして近づこうとはしない。
「何を……歌っているんですか」
声は届いているのだろうか。視線すらも動かそうとしない彼の隣にカイは腰掛ける。調律の狂ったライアーの奏でる、弱々しく歪な曲が耳に心地よかった。視線を斜め前に動かせば、薬の禁断症状で震えてうずくまっている人がいる。そこらへんには割れた酒瓶が大量に転がっている。町の人々が視界に入れないようにしているこの町の隅っこは、まるで世界においてけぼりにされたようだった。
「このあいだ……3つの太陽をみました。幻だったのか、それとも自然現象だったのか……定かではありません」
彼が聞いているのかどうか、そんなことはどうでもよかった。ライアーに合わせて唄うように、カイは心のなかに浮かぶ言葉を連ねていった。
「でも……それをみたのはその一度きり。ふたつの太陽は沈んで、もう昇ってくることはありませんでした」
この景色に、自分が同化しているような錯覚を覚える。彼の演奏が終わって、ライアーが鳴り止み、自分の言葉も尽きたら……そのまま命も尽きてしまうのではないかと、そんな夢を抱くように。
「……俺のなかにも、かつては3つの太陽があったような気がします。でも、もうふたつは沈みました。この世界への希望と、愛情、それはもうすっかり消えてしまった。たったひとつ、残ったのはこの心臓だけ。なんの光も見いだせない、俺の命」
彼の指先は、かじかんで血が滲んでいた。細い骨のような指で、震えながらライアーを演奏している。曲は転調もなく、淡々と続けられている。彼はこの曲を、なにを思ってひいているのだろうか。カイが何気なく、その顔をみつめると、かさかさの唇が僅かに動く。
「若者よ、今宵の月の色を知っているか」
「……?」
歌っているのか……? 脈略のない彼の言葉に頭の中が疑問符でいっぱいになった。しかし、どうにも興味深い。カイは惹かれるがままにその酒焼けした掠れ声に注意を凝らし、言葉を拾う。
「闇を呑み、生を嘆き、私が放浪した先でみたのは、青い月だった」
「……」
「死神に手を引かれてた私は、その美しさに生きる喜びを知った」
ライアーの調子は変わらない。終わりのない絶望の伴奏と、その唄は全く噛み合っていなかった。自分に向かって言っているのか……そう気付いたカイは、少しばかり驚いていてしまった。独り言のつもりで言った先程の言葉を、しっかりと聞かれていたことに、今更恥ずかしくなった。
「今宵は青い月――奇跡が降る夜となる」
「……っ」
「奇跡」。その言葉を聞いた瞬間、カイはその場を逃げるように立ち上がり駆け出した。今、一番聞きたくない言葉だった。
もうなにも信じないと決めたこの心に、期待をさせたくなかった。
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