アリスドラッグ | ナノ


▼ 呪縛


 シルヴィオが部屋から出て行ってしばらく、椛は一人でベッドの上に横になっていた。シルヴィオが拾ってくれた壊れたブローチを、仰向けになった状態で手にもって眺める。閉めきったカーテンの隙間から差し込んでくる日光に照らされて、それはきらきらと光っていた。蒼い煌き。花を模したその形。カイの側にいつもあった蒼い花がモチーフとなっているのだろうか、カイにとってあの花はなんなのだろう。あの花の香りを嗅ぐとどこか懐かしい気分になって、胸がきゅうっと締め付けられる。

 ……カイに会う以前にどこかでみたことがあるのだろうか。


「はあ……」


 考えたところで、もう自分はカイとは縁がない。カイに裏切られたのだから。「奇跡」と「魔法」をみせられてはしゃいでいた自分が馬鹿みたいだ。あんなの、ただ彼が自分の気をひくためにやっただけなのに。男が高価な宝石で女を釣ることや、女が空っぽの誘い文句で男を誑かすのとなんら変わりない。

 ……奇跡なんて存在しない。この世はすべて……生々しい人の想いが混ざり合ってできている。


「……?」


 ぼんやりとブローチをみつめていた椛は、部屋の扉のむこうから、なにやら音が聞こえることに気付いた。みし、みし、と壁が軋むような音。扉をあければそこには廊下があるだけで、こんな音がきこえるはずがない。誰かいるのだろうか……不審に思って体を起こしたそのとき。

 バキ、と激しい音がして、得体のしれない生物が部屋のなかに飛び込んできた。――昨日と同じ種類の魔物。当然のように危機感に駆られた椛は、ベッドから飛び降りて逃げる体勢を整える。


「ひっ……!?」


 あの化け物はジークフリートが片付けたはずでは……昨日の惨劇を思い出し、椛は背筋が凍るのを覚えた。大きな体を持った獣のような化け物。獣人といった風貌のそれは、椛に掴みかかるような勢いで迫ってきた。慌てて椛は駆け出して、獣人の猛攻を掻い潜り、部屋を飛び出す。


「えっ……」


 部屋の出口をでた先にある廊下……そこにはたくさんの魔物がたむろしていた。彼らは椛をみつけるや否や、目を光らせて襲いかかってくる。


「……っ」


 もう、我武者羅に走っていた。つかまるわけにはいかない、あんな化け物にもう二度と犯されたくない。

 赤い絨毯の敷かれた廊下は、気を抜けばつま先がひっかかって転んでしまいそうになる。頭が真っ白になってひたすらに走っているからか、踏み出す感触が伝わってこない。一歩踏み出す度にもつれそうになって、肝を冷やした。


「……!」


 廊下の突き当たり、曲がり角から黒い燕尾服を着た男性が姿をあらわした。格好からすると、この城の執事だ。椛は泣きそうになるくらいにほっとして、執事の彼に助けを求める。


「た、助けてください……! また、魔物が……!」

「魔物? どこに?」

「どこって、後ろから追いかけ――」

「君の、目の前かな?」

「……ッ」


 ゾク、悪寒が背筋に走った。その執事の目が……紅く光る。この男も魔物だ、人の姿に化けていた――気付いたときには、男に腕を掴まれて壁に追い込まれていた。


「た、たすけ……」

「誰もこないさ……そもそもきたところで私達に太刀打ちできるものなんていない」

「……っ、ジークが……! ジークならあなた達のこと……!」

「……ふ、」


 椛がジークフリートの名を呼ぶと、悪魔は至極楽しそうに笑った。ジークフリートのことを信じきった瞳を馬鹿にするようにケタケタの体を震わせながら笑っている。


「……彼は、くるわけがない。憐れな少年よ」


 そもそも魔物――悪魔が椛を襲うことを命令したのがジークフリートだから……流石に悪魔はそれを言いはしなかったが、愉しくて仕方ないみたいだ。本当は言って椛のショックを受ける顔をみてみたい。体ではなく心を嬲ることを悪魔は好む。なにか、この事実に勝る愉しいことはないかと悪魔は考え――


「ああそうだ……おまえ、アイゼンシュミットに裏切られたんだって?」

「……っ」

「随分と親しかったんだろう……裏切られるってどんな気持ちなんだい、教えてくれよ」


 悪魔は椛の顔を掴むと、ごつ、と額と額をぶつけ合わせた。その瞬間、何かに引っ張られるような不快感を覚え椛は身動ぐ。悪魔は椛の記憶を読んでいた。カイと椛のふれあいをすべて、椛の頭のなかを盗み見た。


「ああ……美しいねえ、アイゼンシュミットの魔術は。君はこれに魅入られたんだ」

「……うるさい」

「その手に持っているブローチ……彼からのプレゼントか。まだ持っていたのかい、君もずいぶんと諦めが悪い」

「あ……」


 悪魔に指摘されて、椛は気付く。悪魔が部屋に入ってくる寸前までこれを眺めていたため、そのまま持ってきていたのだ。ボロボロに壊れてしまったそれをみられ、椛はバツの悪そうに唇を閉ざす。


「……すぐに捨てますよ」

「今の今まで持っていたんだ、捨てることなんてできないよ。どれ、私が壊してやろう」

「あっ……ちょ、」


 悪魔は椛の手からブローチをとりあげると……そのまま床に落とし、それを思い切り踏みつけてしまった。パキン、と嫌な音が椛の耳を掠める。


「……ッ」


 悪魔が靴をどけると、バラバラになったブローチがそこに転がっていた。呆然とした顔で椛はそれをみつめ……やがて、その瞳から一筋の涙を流す。ほんの少しの短い時間でも、カイとすごした楽しい日々を、壊されたような気がした。カイが嘘をついていたとしても、椛を騙していたとしても……彼と一緒にいたときはとても楽しかった。夢をみているようだった。――それが、こうして視覚的に破壊されて、本当に「あの日々はいらないもの」だと、そう言われているような気がした。


「う……」

「はあ、可哀想にシンデレラ……心を弄ばれたんだね、アイゼンシュミットは君の笑顔をみて、心のなかで嘲笑っていたのさ……可哀想に、可哀想に……」


 悪魔が椛を抱き寄せ、頭を撫でる。肩を震わせて咽ぶ椛をまるで慈しむように、優しく撫でた。


「僕は……カイのこと、大好きだった……憎まれ口も叩くけど……カイと一緒にいると、楽しかった……」

「うん、うん」

「本当にカイは僕を騙していたの……? ほんとうに、あの日々は嘘だったの? カイだって笑っていたのに、あの笑顔すらも嘘だっていうの……!?」

「……彼を信じてはいけないよ、なんせアイゼンシュミットは『悪い魔法使い』だ。悪なんだ。きっと君のその涙すらも愉悦の糧にして愉しむような、ひどく歪んだ人間なのさ!」


 崩れ落ちるようにその場にしゃがみこみ、椛は顔を覆って泣き続けた。騙された、その事実は昨日から知ったというのに未だに受け止めることができない。「許さない」なんて想いがこみ上げるまえに「嘘だと言って欲しい」と思うくらいに……椛はカイのことを信じたかった。嗚咽をあげてボロボロと涙をこぼす椛を見下ろし……悪魔は嗤う。そっと椛の肩を抱いて、耳元に唇を寄せ……囁いた。


「……忘れさせてあげようか」


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