アリスドラッグ | ナノ


▼ 落つる星々、香しき花2

 カイに手を引かれて森の中を歩いていると、リスやうさぎといった小動物たちが二人の後ろを面白がって着いてきた。虫や鳥たちは椛を歓迎するように歌い、木々は驚かすようにざわめく。しばらく歩いて、中央に切り株がある大きな広間のようなところにでると椛はぽつりと呟いた。


「すごいですね……カイと一緒にいると、まるで自分が絵本の中に飛び込んだみたい」

「絵本? そりゃあ心外だね」

「え、そうですか? ごめんなさ」

「俺は……平面に描かれたフィクションよりも、君を感動させる自信があるけど」


 口角をあげてにっと笑ったカイは、ビッと杖を振りかざす。そうすれば辺り一面が光に包まれて、草が生い茂るばかりであった広間に一気に蒼い花が咲き乱れた。ふわりと花弁が舞い、甘い香りを漂わせるその景色は、あまりにも美しい。特に理由もないのに泣きそうになってしまうくらい。


「……す、すごい……」

「こっち」


 感激に体を震わせ固まる椛の手を、カイがそっとひく。花を踏まないように歩を進めていくと、切り株に座るように促された。椛が言われるがままにそこに腰をかければ、カイもその隣に座る。二人の後ろを着いてきた動物たちも、切り株を囲むようにして集まってきた。



「今日はどうしてここに来たの?」

「あ、カイにお礼を言おうと思って。カイのおかげですから……ジークと幸せになれたの」

「そう……椛は今、幸せなんだ?」

「……はい!」


 ふっ、と風が吹き抜けると花の香りが鼻孔をつく。いつもカイからする匂いとどこか似ている……好きな匂い。もしかしたらカイはこの花に囲まれて過ごしているのだろうか、そう思って椛は微笑んだ。魔法使い――なんて綺麗な存在だろう。


「もう椛には……魔法の奇跡も必要ないかな。それくらい幸せだろう?」

「……カイの魔法はすごく綺麗で大好きなのでそういわれると寂しいけど……カイ、魔法をつかうの辛いんですよね、そんなに魔法をせがむこともできません。……それに、カイの言うとおり……たしかに僕は、幸せです」

「……良かった。椛が幸せならそれでいいんだ。……だからさ、まあ、結婚祝いとでも思ってこれ受け取ってよ。俺が君にみせる最後の魔法だ」


 カイが杖を天を差すように振り上げる。そうすれば、まだ青空をみせていた昼間の空が――なんと、夜空に変化した。驚きのあまり口をぱくぱくとさせている椛に、カイは静かに言う。


「この森の上だけ時間を早めている。まあ、そういう理屈は置いておいて……椛、前にみたいって言っていたよね?」

「え?」

「――たくさんの、流れ星」


 ちか、一筋の光がおちる。はっとして椛が息を呑んだそのとき――一斉に大量の流れ星が降り出した。闇に濡れた空が、まばゆい光に溢れ出す。きらきらとして、目が痛くなるくらい。何度も何度も瞬きをして、それでも椛は空を見続けた。奇跡を信じることができなかったあの頃、一筋の流星すら捕まえることができなくてただ諦めたように笑うしかなかった。それがいま、幸せを手にした今――祝福をしてくれるように瞬く光の渦。椛はとうとう泣き出してしまった。花をみたときから堪えていた、感動の涙は、椛の限界を超えて溢れ出してしまった。


「すごい、すごい……きれいです……ものすごく……」

「何で泣くの。嬉しいときは笑わなくちゃ、だめでしょ……」

「はい……」


 ぽろぽろと、とめどなく涙が溢れてくる。ありがとうって、そう言いたいのに嗚咽がとまらない。笑いたいのにしゃくりばかりでてきて顔の筋肉がいうことをきかない。恥ずかしい、そう思って椛は、その顔を隠すようにカイの胸元に飛び込んだ。


「……っ」


 一瞬の間、カイは固まったが、すぐに椛の背を抱いた。いつのもカイの匂い、この花々と同じ甘い香りを吸い込むと、ひどく安心する。


「カイ……僕、本当にカイに逢えて良かったです。ありがとう、カイ……大好き」

「……ん、」


 カイは椛の言葉に押し黙る。しばらくただ椛を抱く腕に力を込めていたのだが……ふと、ぐいっと椛の肩を押し、正面から椛の泣き顔を見据えると――そっと、触れるだけのキスをした。


「え……」


 一瞬なにをされたのかわからず……ぱちくりと瞬きをした椛は、ワンテンポ遅れてなにをされたのかに気付き、カッと顔を赤らめる。


「え、あの、え? カイ、今……」

「……挨拶みたいなもんだよ、キスくらいであんまり驚かないで」

「そ、そ……そうですよね、すみません」


 挨拶……そう言っておきながら、カイの瞳はどこか切なげに揺らいでいた。その瞳に揺蕩う蒼に、思わず椛は魅入られてしまう。胸が締め付けられるほどに美しい瞳に、どきどきとしてしまう。カイの考えていることは相変わらず謎だが……椛はなによりも、キスをされて不快感を覚えなかった自分が不思議で仕方なかった。挨拶だ、と知っていれば普通に受け入れてもおかしなことではないが、そう知らないでキスをされてふわっと顔に灯った熱は……一体なんだったのだろう。


「あのさ」

「は、はい」

「もう一回、キスしていい?」

「えっ」


 カイが絞り出すような声で椛に問う。ぎょっとしてしまった自分に、罪悪感。ここはただただ嫌悪すればいいところ、もしくは挨拶なんでしょと軽く受け入れるところ。それなのに、なぜだか椛の心臓はドクンと跳ねるばかり。


「あ、あの……挨拶、ですよね」

「そうだよ。別れの挨拶」

「え、えっと……」

「いい? だめ?」


 別れの挨拶? いいや、違う。カイの湿っぽい声、切なげな表情。いくら経験に乏しい椛でも、カイの言葉の裏側に存在する想いは汲み取ることができた。恋情。カイが求めているのは、「もう会うことのない椛に、最後だけでも想いをぶつけたかった」の「別れの挨拶」だ。


「あの……」


 カイの想いは受け取ることができない、自分にはジークフリートがいるのだから。

 わかっている、わかっているのに拒もうという気がおきない。それはもちろん彼への同情なんかじゃない――


「い、いいですよ……」


――心の奥の方から溢れてくる、カイへの想い。カイのことが好き? そんなことはわからない。でも、いつも奇跡のそばにいた、ただただ椛の幸せを願ってくれたカイ。何度彼は心を奪ってくれただろう、喜びを教えてくれただろう。なんとなく、カイとキスをしたいと思ってしまった。あまりにも美しい魔法使い、そんな彼に、そんな瞳で見つめられてしまっては……どきどきしてしまう。


「椛……」

「……はい、」


 ああ――自分は、今、浮気をしているのだろうか。今だけ、今だけ……奇跡に魅入られてしまった自分を許して欲しい。

 さっと風が花を撫ぜて甘い香りが一気に広がった。静かに重ねられた唇が、熱い。少しだけ瞼をあけてみると、蒼い瞳と視線がぶつかった。まるで、溺れているようだった。理性が海底に沈められて息ができなくなって、苦しんでいる。苦しい、苦しい、胸が苦しい。息継ぎをさせて、そう思ってもう一度唇を重ねる。


「ん……」


 心臓がきりきりと痛んだ。ばくばくと破裂しそうな鼓動音が聞こえてくるような錯覚。ただ唇を触れ合わせるだけのキスに、なぜこんなにもどきどきしてしまうのだろう。

 月明かりにカイの銀髪がきらきらと照らされている。満天の星々と月だけが光となる闇のなか、深いブルーを汲んだカイの瞳の輝きはまるで濡れているようだった。伏し目がちに開かれた瞼のした、そんな蒼はぞくぞくするくらいに美しい。


「あ、あの……、も、もうダメです……!」


 ヤバイ、何かが頭の中で叫ぶ。椛はぐっとカイを押しのけて彼から顔をそらした。

 鼓動の高鳴りが止まらない、だめだ、気のせいだから……キスに慣れていないから緊張しただけ。何度も頭のなかで言い訳を唱え、正体のわからない熱の理由を探る。どうしよう、まともにカイの顔をみることができない……椛が顔をそらしたままでいれば、カイの呑気な声が聞こえてきた。


「おっと、人妻にやりすぎた、失礼」

「ひとづ……僕は男ですけど!」

「いいじゃん、人妻って響き。エロくて俺は好き」

「貴方の嗜好なんてきいてません!」


 こ、この男……こっちはわりと真剣に考え込んでしまったというのに……

 夫がいながらカイのキスを受け入れてしまったという罪悪感を無碍にするようなカイのあっけらかんとした態度に、椛はカッとなってしまった。さっきまでの表情はなんだったんだ……と、思いつつ、それがカイなのだろうと納得する。飄々とした男だ、ずるずると想いを引きずるタイプではないのだろう。椛はいらいらとしながらもカイのそんな態度に助けられたような心地になった。


「あー、俺も椛の晴れ姿みたかったな。俺、あんまり人前に姿だせないから結婚式のときもみれなかったよ。国中をまわったんだろう?」

「……やっぱり、体……つらいんですか?」

「そうだねー、うーん、あのときもみようと思えばみれたけど……人ごみがなあ、すごかったから」

「あ……じゃあ、そうだ……カイの体調が悪くなければ……今度の舞踏会にきませんか、ジークが僕に綺麗な衣装を用意してくれるって。魔法使いは人目にでないっていうけど……カイがいたから僕とジークが結婚できたようなものだし、特別な存在だから……」

「えー? だめだよ、俺はクラインシュタインの城にはいけない。っていうか、舞踏会……ずいぶんと頻繁にやっているね? 今回もシルヴィオ王子が主催するんだろう?」

「いえ、今回はジークが主催する、特別な舞踏会です。一年に一回くらいのペースでやっているそうですよ」

「……ジークフリートが?」


 椛の言った、「ジークフリート主催の舞踏会」にカイはどこか過剰に反応した。それまでへらへらとしていた表情がガラリと変わり、何か考え込むように唇に手をあてる。


「……きいたことは、ある。年に一度の特別な舞踏会――マスカレイド。参加した者は夢心地で帰ってくるっていう……あれだろ。そうか、マスカレイドはジークフリートの主催だったのか」

「あんまり詳しくは聞いていないですけど……でもすごいものだって言っていました」

「……椛、俺は悪いけどいかないよ。……楽しんでおいで」

「そうですか? ……体も辛いですもんね、残念ですけど……カイ、ゆっくり休んでくださいね」


 カイの様子がどこかおかしかったのは気になったが……椛はあまり追求しなかった。体調が優れないという彼に無理強いをすることもできないし、カイが態度をころころ変えることなんてよくあることだ、いちいち気にしていたら身が持たない。

 それからぽつぽつと会話をし、思った以上に長い時間をすごしてしまったことに気付いた椛は慌てて立ち上がる。別れは惜しかったが、長居するわけにもいかない。


「あの……また、会いにきてもいいですか」

「……これでお別れって言ったじゃん」

「……やっぱり、だめ、ですよね……ごめんなさい、カイの気持ちも考えずに……」

「嘘、嘘だよ、椛。せっかくセンチメンタルなお別れの挨拶したのにまた会うの、恥ずかしいじゃん。それだけだって。いつでもおいで、俺はここにいるよ」

「本当に……? よかった、カイ……ありがとう……!」


 怪しくて、不思議で、ちょっとだけ軟派な魔法使い・カイ。やはり椛は彼のことが好きだった。きっともう彼は魔法を使えないだろうが、それでもカイのそばにいることは心地よかった。奇跡を教えてくれたカイが椛にとって特別な存在であるということは、変わりない事実だった。

 またカイに会える、そう思うとここから帰ることもさみしくはなかった。おそらく見納めになるであろう蒼い花たちと、満天の流れ星を目に焼き付けて――椛はカイに、別れを告げた。


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