▼ 彼の望んだもの1
カイと椛が降り立ったのは、城から少し離れたところにある高原だった。二人が地に足をおろすと白馬は消えてしまう。
「あ、あの……色々起こりすぎて、何がなんだかわからないんですけど……えっと、カイは……僕のこと、」
「好きだよ」
「すっ……、じゃあなんで僕を殺そうなんて思ったんですか! あんな、毒の魔術なんて使って……」
「……? 毒?」
「あのとき……カイが僕の手首につけた、あの印……ジークにみせたら毒だって……!」
椛の言葉を聞いて、カイは眉をひそめる。あれは魔除けの印だったんだけど……と、言おうと思ったが。
「……毒じゃないよ、特に体に異常はあらわれなかったはずだ。あれは……おまじないだよ、これから椛が幸せになれるようにって」
「……え?」
「……ジークフリートの野郎、間違ったんじゃないの。馬鹿だな」
――ジークフリートほどの男が間違えるはずがない、カイを陥れるために椛に嘘をついた……そんなことは、すぐにわかった。しかし、カイはそれを言わなかった。言ったところでジークフリートへの評価が下がるだけでいいことなどなにもない。ジークフリートの歪んだ性格など、自分だけが知っていればいい。そう思ったのだった。
椛は、そんなカイの言葉をきいて、ほっとしたように肩の力を抜く。カイは自分を殺そうとなんてしていない……裏切って、いない。「悪の魔法使い」、そんな呼び名があったとしても、カイは人を苦しめるようなことはしていない。それは、今まで一緒にいてわかったこと。
体が震えるほどに、嬉しかった。嬉しすぎて、実感がわかないくらい。ぽかんとカイをみつめることしかできないくらい。
しかし、そんな喜びに満ちる心の中に、ひっかかりがあった。もうひとつ、椛を苦しめていた、原因。
「あの……カイ。ジークといえば……彼は、僕の魔力だけを目的として僕と結婚したって……そう聞きました。……なんか、僕……どうすればいいのか……」
「どうすればいいって……俺に聞くなよ、自分で決めろ」
「え……」
「あいつとこれから一緒にいたいのか、いたくないのか。決めるのはおまえ」
「……僕をここまで連れてきて、そんな……」
「俺は選択肢をつくってやった
んだ。無理矢理に椛をジークフリートから引き剥がしはしない。もしも椛があいつのそばにいたいなら、そうすればいい」
「……いたくないなら?」
椛は震える手を、カイの胸にそえる。そして、か細い声で、恐る恐る、といった様子で言う。
「……愛されていないと知りながら、彼のそばにいることができるほど……僕は気丈ではありません。でも、彼のこと、恨んではいません。王子だからやらなくちゃいけなかったって……なんとなくわかります。僕が、弱いだけなんです。でも……一度彼と結婚した身でそんなこと……僕の意思で言うわけにはいかない……だから……だから、カイ」
「……」
「……わがまま、言っていいですか。貴方に、酷いこと頼んでいいですか……」
「……言ってみて」
椛がその唇から、は、と吐息を漏らす。震える睫毛に映るのは、絞り出される勇気。ばくばくと高鳴る心臓が、言葉を体の中に引き摺り込んで、喉から飛び出そうとするのを押さえつける。
だから、声は震えていた。半分、涙声だったかもしれない。
「……攫ってください……僕を、貴方のもとに……!」
カイの瞳がすっと細められる。ああ、とんでもないことを言ってしまったのかもしれない……そうは思ったが後悔はしていない。
「……それは、ちゃんと意味をわかって言ってる?」
「……はい」
「……おーけー。でもそのためにはアイツから君を奪うことのできるほどの魔力が必要だ……さっきのじゃあきっとまだ足りない。……ねえ、魔力、もらうね。君は魔力をとられても寿命は減らない……大丈夫だ」
「……はい……」
魔力を奪うには性的な接触を必要とする――椛の心臓がドキリと跳ねた。先日、カイのことを想いながら犯されて、彼に焦がれたばかり。今度は本人に……絶対にありえないと思っていたのに……
カイの手が椛の頬に添えられる。じっと熱を汲んだ眼差しで……初めてみる表情でみつめられて、心臓がぎゅっと締め付けられた。こんな……「男」の表情ができるのかと、変なことを思ってしまった。
「あっ……ふ、」
ぐ、と唇を奪われる。カイとのキスはこれで3回目だろうか……今までのなかで、一番激しいキスだった。手は次第に後頭部まで移動し鷲掴みして、逃げられないように押さえつけられる。舌を入れられて、なかを隅々まで弄られる。
おかしくなってしまいそうだった。キスだけで腰が砕けそうだ。
椛はカイの背に縋り付くようにしがみつき、必死にキスに応える。キスだけでこんなに感じてしまうのは初めてで……腰が勝手に揺れてしまう。
「あっ……ん、……ふ、」
ああ、カイのこと……好き。いつのまにこんなに好きになっていたの。わからないけれど、こういう強引なキスをされて嬉しくてたまらない自分がいる。魔力の補給のためだけのキスじゃない……そんなの、この熱さでわかる。食らいつくような激しいキス、ずっとずっと抑えていたカイの想いが爆発したようなーーそんな……
「椛……もっと、舌絡めて」
「あっ……はい、……こう、ですか……」
くちゅくちゅとまぐわう水音が心を煽る。こんなに情欲をまるだしにしたキスをカイがしてくるとは思わなくて、普段の飄々とした彼とのギャップにくらくらする。
性的な接触とはいっても、こんな外でセックスなどできるわけもなく。キスだけで魔力を補給するために、こんなにも激しいキスをしているのだろうけど――それにしてもカイのキスは蕩けてしまうくらいに熱かった。溢れる吐息の音にすら、ゾクゾクする。こんなにも彼が自分を求めていたのだと――彼の中に秘められた恋情を一身に浴びせられて、どうにかなってしまいそうだった。
「んん……っ」
カイの手が腰にまわって、身体が引き寄せられる。ぐ、と下腹部同士が密着して、いやらしい気分になってくる。ああ、まずい……下のほうに熱が集まってくる。ここで勃ってしまったら恥ずかしい。でも、離れられない、離れたくない。だめ……そう思いつつ、椛の腰がゆらゆらと自らのものをカイに擦り付けるように動き出す。
(とまらない……カイ、カイ……もっと、もっとして……)
「――カイ!」
「……!」
遠くの方で、カイを呼ぶ声がした。弾かれたように振り返ったカイは、瞳を眇め、ふ、と笑う。
「……やっと来たな、王子様」
真紅のドラゴンが空から降り立ってくる。強烈な風が吹き抜けてゆき、カイと椛を煽った。
「……随分と派手な逃走してくれたな、カイ。おかげで城の中は大騒ぎだ。兄さんがしずめるのに苦労してるよ」
「そりゃあ悪かったね。でも辛気臭いマスカレイドのラストを飾ってやったんだ。感謝しな」
「感謝だあ? おまえがガラスぶっ壊したのでそれはチャラだ」
ドラゴンからおりてきたのは、ジークフリート。彼がどんな顔をしてカイを追ってくるのかと、椛は不安に思っていたが、予想外ににこやかだったために驚いた。
「……俺が何をしに来たのかはわかるな」
「……ああ。俺がおまえを煽ったんだ。おまえの望みなんてわかっているよ」
カイの返答に、ジークフリートはクッと吐き出すように笑う。しばらくクツクツと笑ったかと思うと――ギロリとカイを睨みつけて、言い放った。
「そうだよ――おまえと、本気で戦うために」
「……うん」
カイがローブを翻して振り返る。
ジークフリートが今まで苦しんできたこと――「天才」故の孤独。誰一人として自分と対等な力を持っているものがいなかった、つまらなかった――その彼の想いを、カイは知っている。彼は望んでいる。孤独感を壊せるほどに、本気で戦うことのできる相手を――
「いいよ、ジークフリート。やり合おうじゃないか。魔力の補給も十分にすんだ」
「――おう、じゃあ早速、」
「でも、待って」
ジークフリートはカイの返答にぱっと目を輝かせた。しかし、びし、とカイは手のひらを突き出して流れを止める。
「賭けをしよう」
「賭け?」
「せっかくの機会だ。お互いが本気を出しあうことができるように……勝ったほうが相手のものを何か奪える。これ、どう?」
ふふ、とカイが笑う。ジークフリートはその言葉を聞いて、ぴたりと固まる。
「……別に、いいけど。おまえが賭けをしたいっていうなら、してもいい」
ジークフリートは承諾をしたが――しぶしぶ、といった様子だった。
「いいね、わかってくれて嬉しい。じゃあ俺は――椛をもらおうかな、おまえに勝ったら」
カイはジークフリートの返事をきくと、早速、というふうに宣言する。この勝負はジークフリートのためでもあるが、椛を奪うためのものでもある。答えは決まっていた。
……しかし、ジークフリートはカイの言葉をきいても「欲しいもの」を言おうとはしない。じっと黙ってカイをみつめるのみである。
「……はやく、あんまり主催がお城あけているのもよくないよ。勝負つけないと」
「……ああ」
――実のところ、ジークフリートには欲しいものがなかった。カイが「相手のものを奪える」という条件をだしたため、すでに結婚している椛を欲しい、ということはできない。ジークフリートはただ、カイと本気でぶつかり合うことができるなら、それでよかった。しかしここで「何もない」と答えるのも……
「ジークフリート? もしかして、欲しいものがないとか」
「……ある」
「お、じゃあ、どうぞ」
「おまえ」
「ん?」
「……俺が勝ったら、おまえが欲しい」
急かされて、急いで答えをだして――焦ったジークフリートの口からぽろりとでてきたのは……カイだった。
「そっ……」
(そんなに俺が好きか!?)
思いにもよらない告白に、思わずカイは顔を赤らめてしまった。事情の飲み込めない椛はポカンとしているばかり。
ジークフリートが自分を好いているのは十分にわかっていたが、この賭けで言われるとは思わずにカイもたじろいでしまった。歪んではいるがどこまでも純粋に想ってくれているのは知っていたため、無碍に扱うこともできない。少しばかりカイは困ってしまった。
「俺を、手に入れたところで……どうすんだよ、クラインシュタイン城にはいれないだろ、俺は大罪人だぞ」
「大丈夫だ……地下牢にいれとけば!」
「ああ!? おまえ好きな人のことは大切に扱えよ!? 地下牢ってなんだよ!」
「大切にするって! 毎日地下牢に通うから! 地下牢で愛し合おう!」
「ざっけんな! もう二度とあんな場所いかねぇぞ、てめぇの性癖にもうんざりだ!」
なにやらスッキリとした表情で愛を叫んでくるジークフリートにカイは怒鳴り返した。ちょっとだけ考えてしまった自分を殴りたい。
――こいつ、思った以上に馬鹿じゃねえか!
「よし、賭けはそれでいいな! 何が何でも俺が勝つ! 絶対におまえのものにはならない、そして椛をもらう! これ以上のハッピーエンディングがあってたまるかクソッタレ!」
「なんでだよ! 俺のものになれよカイ! いいよ俺が勝てばいいんだろ、そしてシンデレラもおまえもクラインシュタイン城で一緒に暮そうぜ!」
怒ったような表情でカイはビシリと杖をジークフリートに向けた。ジークフリートも何故カイが怒っているのかをよく理解していないようだったが、勝つつもりらしい。右手の中指にはめた指輪を突き出すようにして、カイに向けた。
ピンと張り詰めた空気に満ちる。二人の関係がまるで読めない椛は、おとなしく二人から距離をとる。二人が黙り込んだ瞬間から、その場の空気が変わった。本気で相手を仕留めようとするその瞳は、先程までのものと同一人物のものとは思えない。
カイのジークフリートに向けた杖が、僅かに震えた。正直、勝機は半分ほどだ。今までマスカレイドで大量に魔力を蓄えてきたジークフリートと、ほぼ魔力がゼロに近い状態から先程の椛とのキスだけで魔力を補給した自分ではーー圧倒的に魔力量の差がある。加えてジークフリートは「天才」魔術師だ。ただ魔力を持っているだけでなく、それを使いこなすほどの技量を持っている。その不利な状況のなか、彼に勝つには――……
(舐めてかかったら喰われるな)
じっと自分をみつめてくるカイに、ジークフリートもまた警戒していた。魔力量の差はわかっている、しかしそれでも自分が勝てる保証はない。この状況のなか「勝つ」と言い切った彼には、何かしらの策があるはずだから。そして、死刑の際に魔蟲の魔術の威力を半減させたこと、そしてその魔蟲の情報をもとにクラインシュタインの魔術を自分のものにしてしまったこと……ありえないほどにカイは魔術の扱いに長けている。少しの油断でもみせたなら……その隙を一瞬で突かれてしまう。
お互いを「天才」だと認め合った二人は、相手を探り合うようにしてタイミングをはかっていた。ほんの少しの判断ミスも、敗北に繋がってしまう。
「――!」
先に動いたのは、ジークフリートだった。指輪が光を纏ったかと思うと、ジークフリートの周囲を黒い雷が囲む。そして、膨れ上がっていった雷は次第に龍のように一本に纏まって、カイに向かって突撃してきた。
凄まじい勢いで裂かれた空気が、風を生む。髪の毛とローブが鬱陶しいほどに靡いて、それでもカイは真っ直ぐに雷を見つめた。静かに杖を構え、雷に向ける。蒼い瞳が雷の姿をしっかりととらえ、離さない――
「……!」
刹那、雷がはじけ飛んだ。黒い闇を巻き込んだような禍々しい雷が、一気に眩い蒼い光に変わって宙に舞う。きらきらと光の粒子に変貌してしまったそれは、風に流されて消えていってしまった。
「あいつ……やっぱり、」
あっさりと自分の術が破られ、ジークフリートは悔しげに舌打ちをする。しかし、その頭は冷静だった。カイの戦術に気付いたのである。
カイの戦術は、守りに重きを置いたもの。魔力量で負けているのなら、その戦術をとるのが自然とも言える。攻めにばかり徹していると、あっという間に魔力が切れてしまうため、比較的魔力の消費量が少ない守りの魔術で攻撃を塞ぎつつ、相手の隙を窺い――小さな穴を見つけた瞬間、討つのである。
カイの使う守りの魔術は、バリアを張るのではなく、相手の魔術を瞬時に解析し相殺するというもの。彼がそれを得意としていることは、死刑のときに魔蟲の魔術の威力を半減させたということで、ジークフリートも知っていた。これをできる魔術師などそうそういない。やはりカイは自分と同じ、「天才」――
「……ふん、なるほど」
カイの戦術を読んだジークフリートは、に、と口元に笑みを浮かべる。魔術の解析は、複雑な魔術を相手にしたときほど困難となる。ならば、より強い魔術をぶつけてやればいい。たとえすべて相殺が可能だとしても――延々と続けていれば、そのうち魔力が切れるはず。
(読みを誤ったな、カイ……俺に隙なんてねえよ、攻撃に転じることなんておまえにはできない!)
ジークフリートから新たな光が発せられる。先ほどの雷の魔術よりも威力が高く、高位の魔術。
「……冷気……!」
ジークフリートを中心として、強烈な冷気が発散される。そして冷気の通過跡に氷柱が生まれ出る。雷よりも質量のあるその魔術は威圧感も凄まじく、カイは僅かに生まれた恐怖心に唾を呑んだ。しかし、怯まない。静かに息を吐き、迫り来る氷柱を見据え――そして、破壊する。
「ちっ……!」
カイの背丈をゆうに超える巨大な氷柱は、あっさりと光の粒子となって音もなく崩れていってしまった。まだ、足りない。このレベルの魔術ではカイを仕留められない。ジークフリートは奥歯を噛み締め、カイを睨みつける。
「まだ、いくらでも……こっちには弾があるぞ、カイ! いいのか、じっと耐えているだけで……魔力切れるんじゃねえの? 嬲られて終わるかもよ?」
「……は、誰が……言っただろ、俺はマゾじゃない、嬲られて黙ってなんかいるつもりない」
「だったら……はやくこいよ、カイ! 生きるか死ぬかの、ギリギリの勝負しようぜ! 俺はどうせいたぶるなら骨のあるやつをヤりたいんだ」
「……悪趣味」
ジークフリートの魔術の威力が少しずつあがってゆく。ジリジリと威力をあげていっているのに、やはりジークフリートは性格が悪いとカイは苦笑いする。こちらの精神を追い詰めるつもりなのだ。少しずつ相殺の難易度があがっていき、徐々に相殺不可能へと近づいてゆく恐怖を与えるつもりなのだろう。実際、ジークフリートの魔術を相殺するのに手間がかかってくるようになってきた。
――しかし、カイの表情に焦りはない。むしろ、その冷静さにキレが増して、眼光が強まってゆく。
(……なんでアイツあんなに余裕そうなんだよ……! 明らかに劣勢だろうが! そろそろ魔力も切れるころ……)
「……よー、ジークフリート」
「あ?」
「ひとつ、俺についていいことを教えてあげようか」
また、ひとつ魔術が相殺され、光が散る。きらきらとその光に照らされながら――カイは笑っていた。
「俺、どっちかっていうとサディストなんだよね」
パキン、甲高い音がして視界が真っ白に染まる。とうとうカイが仕掛けてきたのかと笑いがこみあげてきた。即座に反撃してやろう……そう思ったところで。
「……!?」
ジークフリートは驚きに目を見張った。
――魔術が、使えない。
「カイ……これは、おまえが?」
「……相手を無抵抗にしてやるのって……心が踊るだろう?」
カイがふっと目を眇めたところで――ジークフリートは「しまった」、そう思った。これは、こちらの判断ミスだったと……
これは、カイがジークフリートの使う魔術の特徴を完璧に読み取って、その情報をもとにジークフリートの魔術を封じる魔法を使った……ということである。ジークフリートは、カイが相殺ばかりをやっていると思い込み「魔術の解析」を得意としていることをすっかり忘れていた。少しずつ強い魔術を使って追い詰めようとしたせいで、こちらの魔術の情報を事細かにカイに伝えてしまったのである。
……まさか、魔封じをしてくるとは思わなかった。これは……
「……ッ」
カイが静かに歩み寄ってくる。夜風にローブを靡かせ、地を踏みしめて――
そして、ジークフリートの首元に真っ直ぐに杖を突き出すと、ふっと笑って言った。
「……勝負あったな、ジークフリート。俺の勝ちだ」
魔術が使えなければ、魔術師は無力に等しい。……負けた、その言葉がぽっかりと、ジークフリートの頭のなかに浮かんだ。
「……はは」
がくん、と全身の力がぬけて、ジークフリートはその場に座り込んでしまった。初めて負けた。今までの人生のなかで、初めて。
「……やば、やっぱすげえよ、おまえ……」
楽しくて楽しくて仕方がない。こんなにも胸が満たされたのは初めてだ。「生きている」って、そんな実感を味わえた。勝手に笑いがこみ上げてくる。ああ、楽しかった。
……でも、同時に涙がでてきた。
「……ジークフリート?」
怪訝な顔をして、カイがジークフリートを見下ろす。笑ったり、泣いたり。どうしたんだと思うのも仕方がないだろう。そんなカイの顔をみつめて、ジークフリートはまたこぼれてくる涙を、手の甲で拭う。
「……いや……楽しかったよ、カイ。ありがとう」
「なんで泣いてんの?」
なんで? そう聞かれて、胸がぎり、と傷んだ。わかってない、わかっていないんだよな、こいつは。
――俺だけなんだもんな。
「……もう、おまえとは会えないんでしょ。俺と同じ、天才がいるってわかっただけでも嬉しいよ、でももう……会えないからさ。俺、また……」
「は?」
一度、カイの温もりを知ってしまって――どうしても、彼が欲しいと思ってしまった。世界でたったひとり、自分と同じ、彼を。でももう手に入らない。彼は離れてゆく。自分はとてもじゃないが彼に好かれるようなことはしていない、だから無理矢理にでも繋ぎ止めて起きたかった……でも、もう叶わない。二度と、二度と――
「……おまえ極端なヤツだな」
「え?」
「恋人になるつもりはさらさらないけど、友達ならなってもいいけど? おまえみたいな馬鹿みてるとイライラして楽しいし」
ぽかん、とジークフリートはカイを見上げる。蒼い月をバックに、カイが手を差し伸べてくる。夜風に靡く銀色の髪が月光に照らされて、きらきらと、綺麗だ。
「えっと……友達? なんだっけ、それ」
「なんだっけじゃないよ! 普通に会って話したりできればいいだろ!」
「いや……だって、俺……おまえに色々ひどいこと……。勝ったおまえには俺と一緒にいる義務はないよ……わざわざ会ってくれなくても……」
「はあ……」
一向に差し出した手を掴もうとしないジークフリートに、カイは呆れたようにため息をついた。掴むつもりがないんだと悟ったカイは、苛立ち混じりに舌打ちをし、座り込んだジークフリートの目線に合わせて自身もしゃがみこむ。
「義務じゃない、俺の意思。わかります? 俺が会いたいって言ってるの」
「……なんで? おまえ、俺がなにしたかわかってるよな。おまえの家族を殺して、おまえを陥れようとして。まさか許してないだろ、俺がしたことは……」
「許してねえよ、俺、正直おまえのことムカついてしょうがない。だからさ、会う度に殴らせてくれる? 腹の虫が収まらない」
「……でも」
「……チッ、うじうじうじうじ鬱陶しいな。おまえ、俺のこと嫌い? 会いたくない? どうなんだよ」
「……あい、たいけど」
「じゃあソレ以上の理由はねえな!」
がくん、と視界が揺れて、とジークフリートは慌てて地面に手をついた。カイに抱きしめられているのだということに、少し遅れて気がつく。甘い花の香りが、胸をくすぐった。
「……よろしく、ジーク」
「……うん。……うん」
ジークフリートがゆっくりとカイの背に手をまわした。そして、壊れたように泣き出す。
「……泣くなってば」
カイは苦笑しながらジークフリートの背を撫でてやった。
「……もう、ひとりじゃないからな。ジーク」
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