▼ douze
紫煙が空を覆う。
体にのしかかる倦怠感は、煙草を吸うと少しだけスッとする。セックスをするたびに煙草を吸っているわけではないが、今はなんとなく、吸いたい気分だった。
「セラ」
後ろから声をかけられて、振り向く。半裸の窪塚さんが部屋の中から俺を見て、複雑そうな顔をしていた。
「……おまえ、ずいぶんと好きなんだな」
「えっ、何を?」
「いや、その『好きな人』ってやつのこと」
「――……」
途中で泣いてしまったことを指摘しているのだろうか。
俺はばつが悪くなって、窪塚さんから目をそらす。すがっておいてあの態度はなかったな、と反省。もう忘れたい人のことなど、いつまでも引きずっていても仕方がないのに、俺もばかだな、思う。
「少し、待ってもらえれば……忘れるので。許してもらえたら嬉しいです」
「泣くほど好きなやつのことを、そう簡単に忘れられるものかね」
「……っ、でも! できなくたって、そうしないと……いつまでも、あの人のことを傷つけるじゃないですか!」
吐き出せば、窪塚さんは大きくため息をついた。そんなに変なことを言ったつもりはないのだが、窪塚さんは呆れたような目で俺を見つめてくる。
立ち上がり、窪塚さんは俺に近付いてくる。そして、俺の隣に立つと、手すりに寄りかかって空を見上げた。
「おまえ、なんでそいつと恋人にはなりたくないんだっけ?」
なんで?――それは、何度も自分に問いかけたことだ。
あの空に、羽ばたきたかったのだ。誰かに繋がれることなく、どこまでも。ずっと地べたを這うような人生を送ってきたから、誰かに囚われて生きてきたから、今度こそは一人で飛ぶのだと、そう決意したのだ。
「――自由になりたいから」
告げれば、窪塚さんはハッと笑う。あざ笑うようなその笑い方に、俺はドキリとする。俺は真面目に言ったはずだが――そうして、あざ笑われることに違和感を抱かない。
「おまえ、今は誰ともそういう関係になっていないはずだが……自分が自由だって言えるのか?」
「……だから、それは……今は白柳さんのことが好きだから……」
「違ェな。自由に恋もできないから不自由なんだ」
「……な、」
ガツ、と頭を殴られたような衝撃。
自由に恋ができないってなんだ。恋をすることが自由だとでも言うのか。
「その辺で一緒に歩いている恋人たちが、不自由に見えるのか? 誰かに堕ちることは、不自由なんかじゃない。おまえを縛っているのは、誰かを好きになることを妨げているおまえ自身だろ」
「――……」
ギ、と眼球が痛むのを感じた。無意識に彼のことを睨んでしまっていた。
俺自身が俺を縛っている。そんなこと――そんなことは、わかっている。ふつうに生きられたなら、こんなことを考えていないのだ。もっと自然と誰かを愛して愛されていたなら、こんなに苦しまずに済んだのだ。俺の世界の中では愛というものは異物でしかなく、そう簡単に受け入れられるものではない。だって、俺は愛を知らずに育ったのだから。
「窪塚さんも、所詮はふつうの人だからそんなことを言えるんでしょう。人を好きになることが気持ち悪くて仕方ない俺の気持ちなんて、理解できないから……!」
「……ああ、理解できない。俺はおまえじゃない。けれど、おまえはそんなにその男のことを好きになるのを、我慢する必要はないと思う」
「何を根拠に――!」
叫んでしまって、思わず口を噤む。自分を落ち着けるようにもう一度煙草に口をつければ、不意に聞こえてきた言葉に、思わず呼吸が止まる。
「その男のことを想って泣いてるおまえ、綺麗だったよ」
バカに、されているのだろうか。
不意に苛立ちを覚えたが、なぜかその言葉に光を見たような気がした。
「おまえは、自分を赦していないんだろ。自分が幸せになる未来が見えないんだろ。大切な人と、手を取り合う未来を想像できない。けれどさ、おまえは……幸せになりたいって、祈っている」
「……」
人間がたくさんいる世界の中で、疎外感を抱きながら生きてきた。
同じ形をしているのに、他人は自分と違う生き物のように思えた。家族がいて、恋人がいて、友人がいて、……当たり前のように大切な人と笑い合う。俺も、そんな風になってみたいとは思ってはいたが、想像できなかった。自分が愛されること、愛すること、それを想像できないでいたのだ。
白柳さんの手を取ろうとしたときに、急に自分が気持ち悪く思えた。自分が彼と愛し合うという事実を想像して、罪悪感を抱いたのだ。自分を、赦していなかった。
幸せになってもいいよ――そう、自分に言ってあげられなかった。
「その男のことが好きなおまえは綺麗なんだからさ、……大丈夫だよ。もう、おまえは大丈夫だ」
「――そんなの、」
ぐるぐると頭の中が回る。
みんなが当たり前のように知っている愛を、俺は知らない。家族からの愛も、恋人からの愛も、友人からの愛も、俺は知らない。愛ってなんだろう、そんなところから始まるには、少し遅すぎるんじゃないかと思ってしまう。もう、俺と同じ年頃の人たちは、当たり前のように愛を知って、結婚して、子供だっている。
今更、ふつうに生きることなんてできるものか。
「そんなの、嘘でしょ……だって、俺……こんなに気持ち悪い人間なのに……」
体は大人なのに、心は子供のまま。どんなに体は成熟していても、愛を知らない俺は子供のまま。こんないびつな人間が、俺は気持ち悪くてしょうがない。
惨めになって、涙が出てくる。もう死んでしまいたいとすら、思えてくる。
「……おまえはさ、もう少し自分に甘く生きてもいいと思うぜ。おまえは気ままに生きているようで、誰よりも、自分に厳しすぎるんだ。もういいだろ、頑張って生きてきたんだからさ。幸せになりたいって些細な願いごとをするくらい、赦してやれよ。な?」
ぐっと肩を抱き寄せられた。たまらず、俺は窪塚さんの肩に顔を伏せる。涙が彼の肩に染みこんで、申し訳なく思ったが、涙はとまらない。
生きてきたけどさ。死にたいって思いながら、ここまで生きてきたけれどさ。今更、いいのかな。幸せになりたいって思ってみても、いいのかな。知らないけれど。
風の音が聞こえる。どこからともなく吹いてくる風は、俺が生きる世界の狭さを教えてくれる。顔を上げれば見えた空が、遠い。
ああ、俺は、初めて――翼を広げたのだ。
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